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川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

月並みから瑞瑞しさへ・・・池さとし

2007年08月30日 | 川柳
       ・・・続き   現代川柳『泥』二号

 小さな子どもが発する言葉に、新鮮なきらめきを感じるのは、大人のような殻や枠に縛られていない本音を吐き出すからである。
 
 観念とか風習、更に価値観などにも一歩踏み込んで殻を打ち破ったり、壊したりしてみる。そんな営みの中から、創造や再生などの芽は育ってくる。

 これは夏目漱石の小論からの引用だが、(人間という者はどんな特色、どんな性質を持っているか。第一に模倣ということを挙げたい。人は人のまねをするものである)というように、模倣の意義を認めているからおもしろい。又、小林秀雄は、(模倣は独創の母である唯一人のほんとうの母親である。模倣してみないで、どうして、模倣の出来ぬものに出会えようか。)と述べている。

 良く引き合いに出される言葉に、「守・波・離」がある。もっぱら形を真似する時期の
「守」、形をものにした後の独自の工夫をする時期の「波」。そして形を離れて自分独自型を完成させる時期の「離」川柳に限らず芸事というのは、このような道筋のなかで自分のものを獲得していくに違いない。

 人間性、独自性のある川柳の価値、コピー川柳と呼ばれる作品の価値観に囚われていること自体が、従来の観念に縛られてしまっている日本人の体質であり、そこを打破しなければ、独創性などあり得ないことなのかも知れない。

 日本語だけが持っている日本の文化、日本人の深い心を書くことのできる川柳の奥の深さは、次のような作品に出会うたびごとに、しみじみ感じさせられる。

 ひかりごけだろうか母が光りだす  矢本 大雪
 ほらここよ天使の降りる停留所   広瀬 ちえみ
 梯子にも『』死体にもなれる春   石部  明

 これらの作品が、何の抵抗もなく心の中に、ストレートに伝わってくるのは、作者の想いが作品の中に確実に存在するからであろう。どの作品にも、最優先させなければならない個の想いが歴然としている。現代の川柳が自分の主張ある個性の存在を問うようになってから久しいが、この潮流は今も変わりはないようだ。
 
 前二句は、六月十六日、青森市で開催された、第七回「北の広場」大会で発表されたものであり、三句目の作品は、石部明の句集「遊魔糸」におさめられている中の一句であり、すでに何人かの川柳人がこの作品について触れている。

創造・再生の既成の殻を打ち破ることが必須の前提条件にはなるのだが、既成の殻や観念や概念が、そのいしずえに有るのは言うまでもない。

 「月並み」と言う言葉から離れるためにも、「創造」「再生」に、強く拘ってみたいものである。

 
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