
後編はどんでん返し春の雪 容子
右の作品が目に止まった。俳句に就いてなら、関わりを持ってから約50年、それなりの認識も無いわけではないが、詩型を同じくしているとは言え、ことが川柳になると、そう簡単に話をすすめる訳にはいかない。ましてその第一の理由が、自分自身の不勉強にあるのだから、何をか言わんではある。
そんなボクの手元に一冊、川柳に関する本がある。題して「川柳漫画と番附いろいろ社会百面相」報知新聞社発行で非売品、決して川柳を織りたくて入手したものではなく、その発行が昭和6年、僕の生まれた年と同じなことに惹かれての衝動買いであった。それを読み「泥」に触れるとき、隔世はあるものの、倶に感じるのは、川柳に於ける時代に向けるまなざしには、いつも批判精神が横溢し、それが世相を浮かび上がらせる事に、極めて効果的であると言う事であった。
勿論この様な発言は、実に幼稚な認識である事ぐらいは、ボクにも判ってはいる。
でもそんな浅薄な知識の、中ででも、川柳と俳句の違いを際立たせている要因のひとつには、世相への怒り、哀しみ、おかしさ等に向ける、視点の相違にあると思うだけに、「花鳥風月」の世界に遊ぶ事で心満たしてている長閑な人たちの俳句とは別で、川柳では視界が大きく社会に拡げられていることに、関心事が高まるのであった。
湾岸戦争の時に言われ、アメリカの同時多発テロの時にも語られて来た事だが、短歌と川柳では、それなどの事件が大きく社会問題にして取り上げられ、個々の意思を鮮明にした作品となり、数多くの人に読み綴られて来たのに、何故俳句ではそれが出来ないかという発言は、反省の文も含めて、決して小さなものではなかった。
そして「泥」に於いても
雪の変容にも似ておぼろなる戦 テイ子
まあだだよ瓦礫の奥のかくれんぼ さとし
花咲かぬ大地 地雷を摘んでいる 容子
と、その舌鋒は鋭い。勿論猛々しい雄叫びを押し通す事だけが総てではあるまい。でも人が人を殺し、異文化を邪悪なものと決めつけ、人間の尊厳を脅かす暴力への、遣り切れないまでの怒りと絶望感を、何と訴えたら良いのだろうか。
決定打にこそならない事かも知れないが、そんな時にこそ、川柳ならではの良質な発言が極めて有効ではと、考えさせられてしまうのだった。
穿ち、皮肉、滑稽、それを逃げの姿勢と言う人がいるかも知れない。
でも手に何の武器も持たない平凡な市民にとって、お互いの智恵と言葉での訴えこそが、常に最強の武器ではと思われ、譬えそれが力不足であったとしてもごまめの歯ぎしりとは言ってもらいたくない気持ちになるのだった、成熟度に就いては、意見の分かれる処もあると思うが、ボクは三人の作品にそれを強く感じていた。