川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

優しくて強い川柳の鬼・・・青葉テイ子

2007年09月30日 | 川柳
現代川柳『泥』 第三号 どのような作品に感動共鳴するか

       それから男は水の幻ばかり見る  定 金 冬 二


風説でしか探ることしかできない伝説の人である。

今、昭和59年発刊の作品集<無双>を開いている。

  私の川柳は、もとより自身のためのものではある。
  が、今一つ世の富者たちへの抗戦の剣でもある。

含蓄と純粋さ、自己凝視は自分を刺すように峻烈である。人のためなら涙も惜しまぬ人情家との風説もある。

作家、火野葦平にどこか似て、男らしさの匂う人だ。

「どうしたら、冬二先生みたいに川柳上手になりますの」と問うた女性柳人に、

「それはなあ・・・こころにいっぱい悲しみを溜めてなあ・・」と、いいかけて、カップを持つ手が震え、きらりと目に光るものを宿したまま絶句したという。

 その人間的純粋さに訳もなく惹かれる。句集の千二百句は、すべて圧巻である。

        川柳の鬼は、弱そうで、すばらしく強い鬼である。

 そのすべてを川柳に打ち込んできた作家、定金冬二の祈りは、後世にいつまでも語り継がれることだろう。

燃え尽きた縄のかたちは死のかたち    前田芙巳代
水芸の水いっせいに血を噴けり     前田芙巳代
死ねぬなら狂うまで吹く水の笛    前田芙巳代

前田芙巳代句集「しずく花」昭和58年出版、どの作品も、私の心に深く浸透して、生きるとは何かを、この句集を開く度に語りかけてくれる。

 一期一会の人は、手の届かない憧れの花にも似て、私を虜にする。凛としてきりりと和服の似合う人。

 6・7年前のある大会でのこと、パネルディスカッションのパネラーとしての一語は、曖昧さと安易な妥協を許さない毅然とした姿だった。神々しいまでに私の目に写った。

政治、そして世の中混沌として、ファジーなことの多い時代に、なんと素晴らしい!
 
作品全編を貫く、愛、憎、怨を全身で表出できる稀有の川柳作家である。裸身を晒
らすからこそ、読者の感動を呼ぶ。ときに血を噴きながら生きる女性の叫びに注目したい。

「燃えつきた縄」「水芸の水」「石の笛」
この情念の作家に切り刻まれる、女の性は脆く美しい。

  作句とは、両手の爪から血を流しながら大地を掘る。

 今は亡き定金冬二氏の作家論が、宝玉の言葉として耳を打つ。厳しく心温かな女流作家への憧れはまだ続く。

     肝臓に会って一献ささげたい  大木俊秀

この作品に出会ったのは、2002年、川柳カレンダー12月号であった。

 なんと凄い句だろう・・・。大胆な書体もさることながらその作品は読者の度肝を抜くには充分な迫力だ。

 酒好きの心境を、なんとも心憎いほどに晒した一句ではなかろうか。一読明快、うーんと唸らせてくれる。

 無言の臓器、肝臓は五臓六腑の一つで、大切な解毒作用、そして肝臓から分泌される液で脂肪の消化も助けるという重要な臓器、この臓器に一献ささげる、という絶妙
の発想には脱帽である。

 人はみな矛盾に充ちている。肝臓に負担をかけていることを知りながら、なお酒を愛し続ける男、おんなのなんと多いことか。わが愛するボロボロの肝臓どのに会って、一献汲み交わしながら、何を語らんと言うのか。

 作者は、NHK学園川柳講座の主宰、大木俊秀氏である。

・ ・・数年前に遡って、その人となりを探ってみよう・・・
某ホテル、レストランの出来事である。朝食を終えて、M子、Y子と歓談していた。女神が微笑んでいた。

なんと俊秀氏との出会いであった。

「ご一緒しませんか」Y子が口火を切った。勿論、こんな美人の誘いを断るほど無粋な人ではない。そして濃密な川柳談義は、三人を魅了するには充分な話術で、さすがプロ川柳家と関心しきり・・・はじめての経験だった。

粋で、人を楽しませ、川柳の真髄を衝いて、格調が高い。

すかさず選者としての心得を問うた私に、

◎ 百点の句を六十五点で披講してはならない。
◎ 川柳を骨の髄から愛して、選を。

一期一会の出会いは、鮮烈な印象を残して過ぎた。

作品は人なり・・・と、私はひとり呟いていた。敬称略




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凛としたオーラ・・・佐藤容子

2007年09月28日 | 川柳
   現代川柳『泥』第三号 どのような作品に感動共感するか

 日常の何気ないところで、ふと感動してしまうことがある。

 それは、完璧とも言える隙のないものからや、それとは逆に、未完成の危うげなものや、儚げで壊れそうなものからでも感じる場合がある。

     テーマのない曲でおまえは踊るのか(句集「青い実」細川 守)

 細川不凍氏の今日までの作品から、どれ程、多くの柳人が感動を得てきたのだろう。彼の作品が持つ魅力を、表現できる程の力量など全く持ち合わせてはいないのだが、率直に言わせていただけるなら、彼はかなり早い時期から、一貫したテーマを保持していて、寂寥的な、孤高的な、と思える一種の極限性を秘めた高いところにある精神から作品を発してきたように感じている。

 そして、そうした作品に出会うたびに強く感じるのは、彼の純粋とも思える作句姿なのである。(純粋な作句姿勢という表現が適当なのかと疑問を抱きながら、これ以外の適切な言葉が見つからない・・・。)

 前述の作品は、不凍氏がまだ二十代前半の頃の作品である。今から三十年以上前に、すでに不凍作品には、印象深くて、ひときわ存在感のある細川守の世界を表白していた。

 この作品の「お前」とは、おそらく闘病生活を余儀なくされた、ご自身のことであり、ご自分への問いかけではなかったろうか。そして、ご自身への憤りではなかったのだろうかと。ご自身への起爆剤であり、そこには強靭な精神が宿っている作品として、読ませて戴いたのだが、そう詠みながらも反面では、読者への、衝撃的なメッセージも秘められているような気がして、何か大きなものを投げつけてくれたような錯覚に陥ってしまうのである。

 「お前」という、ひとつのフレーズの前で読者は、はっと我に返って、読者自身が置かれている足元を見詰めてしまうのである。言葉として表現されていない空間にある魂は、読者たちを吸い込み、何らかの影響を与える力を持っているものである。

 ある一句が、何らかのかたちで読者を一歩でも動かすことが出来た時、それは紛れもない感動であり、確かな、文学作品なのである。

 運命という巨高な波に翻弄されそうな危機感に喘ぎながら、作者は、必然的に、「テーマのない曲」という表現を掴んだのだろう。

     彼にとって17歳の以前と以後は、余りにも違いすぎた。

 この場合の「踊る」とは「生きる」ということを意味しているのではないだろうか。

 人間が、最も考えなければならない「生きる」ことの意義については、実は誰もが、最も忘れていることなのかも知れない。

 そのことを、彼はどれ程考えていたのだろう。考えて、考え抜いて、ひとつのテーマに到達した時点で彼の「生きる」方向が決まったのではないだろうか。そして、「テーマのない曲でお前は踊るのか」の句は、その方向を確信して、見事に昇華されるのである。
 やがて、細川守の世界は、細川不凍の世界へと・・・。

        雪の褥にまぼろしの妻抱きぬ(句集「雪の褥」細川 不凍)

 自己を冷徹に見詰める客観力と、それを表現する勇気は、想像以上に壮絶なものに違いない。

 不凍氏の作品から発せられる一語、一言は、作品を創っているのではなく、生んでいるのだという実感がある。

 自己を句材とすることの難しさは、作句者のひとりとして分りすぎる程、分っているつもりである。ひとりよがりの域に甘んじながら、つくづく思うことは、「深い経験」の必要性である。乱暴な言い方になってしまうが、「豊かな経験」は、加齢とともに重ねることは、出来るかもしれないが、「深い経験」となると、そこに熟慮という姿勢がなければならない。それは達観へ到達するプロセスとも言える。

 「雪の褥」というフレーズは、今まで読んできた各人各様の数々の作品には見ることのなかった、初めて目にした言葉である。

 切ない程に美しい言葉となって、胸に響くのだが、しかし、この言葉が含蓄しているものを思う時、美しい言葉のベールの底に、想像を絶する孤寒が内在していることに震えてしまう。

 「雪」「褥」「まぼろし」「妻」これらの言葉は既に存在しているのだが、「雪の褥」や「まぼろしの妻」という表現は、不凍氏の作品の中でしか存在しないし、発光することはできない。

 そして、この一句からも窺えることは、作者が如何に、凛とした姿勢で、ご自身を曝しているかということである。

 深い経験と、適切な言葉の相乗が、一句一句を確実な作品として完成させる。そこに感動は生まれる。

 悲しみからの美しさ、苦しさからの優しさ、厳しさからの中のおおらかさに触れたとき、読者は不凍作品にしか存在しないオーラを感じる。

 それは、ゆったり漂いながら、読者を包み込むのだが、やすやすとは同化させることのない威厳のようなものである。

 氏の作品を反芻していると、何気なく使っている「感動」とはもっと違った「感動」があるのではないだろうかという思いが生まれてくる。

 それは、感動ということばを、余りにも軽々しく使いすぎてはいなかったかという自戒でもある。




 
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心の扉を激しくノックしてくる・・・池さとし

2007年09月27日 | 川柳
      現代川柳『泥』第三号  どのような作品に感動共感するか


 洋の古今東西を問わず、何の世界においても、名作名吟と言われるものは、人の心を引きつける何かを具備している。

 そしてその作品は、永遠に光り輝いているものである。それはあたかも、光を散りばめた満天の星空のように、褪せたり朽ちたりすることも無く、人々に深い感動を与え続けるであろう。

 坂本九の「上を向いて歩こう」が今も人々に親しまれている。日本国内のみならず、海外でも「すきやき」として、幅広い人気を保ち続けている。

 ゴッホやピカソの絵が、絵画の世界で高い評価を得ている。

 夏目漱石の「坊ちゃん」が、今またみんなに読まれ出している。

 このようなことの、あれやこれやを思いめぐらしながら、様々な世界での作品に対する評価を考えて見ると、非常に面白いことに気がつく。

 いかなる作品も、創作者の真情には関係なく、人々の一方的な受け止め方の中で、歓迎されたり、拒否されたりしているのである。つまりは、その時代の風潮に大きく左右されながらの存在価値であると言っても、あながち間違いではない。

 シャガールの幻想的な絵が、シャガールの想いとは全く違う見方をされて歓迎されたのは、その時代の人々の希求に全く合致した結果であったと考えられる。

 同じように文芸作品もまた、その時代の人々の心と合致した作品は、評価を受けて生き続けている。

       子を産まぬ約束で逢う雪しきり     森中恵美子
       水ぎょうざ黄河の月もこのように    桑野 昌子
       かくて大地に人間のめし犬のめし    定金 冬二
       櫛を売るのは魂よりもすこしあと    前田芙巳代
       象の目にたった一日桜咲く       大島  洋
       炎昼のまっくらがりとなる傘か     細川 不凍

 物忘れのはげしくなった今でも、何のよどみもなく口から出てくるのは、やはりそれほど強い印象を受けているからと言える。言いかえれば、訴える力を作者ひとりひとりの素肌として作品に生かされているからであろう。

 作品の価値を考えるとき、そこには伝統も革新もない。あるのは、発表された作品が、いかに読者の心に入り込むことが出来たか、いかに読者の心を揺り動かしたかにかかる。

次のような作品もまた脳裏から離れたことがない。

    雪の夜炎が生まれ石が生まれ          渡辺裕子
    そのスピードで花の震えがみえますか      進藤一車
    みんな土になるのさ人間の祭り         岡崎 守
    空き家から大きな心音が漏れる         倉本朝世
    手と足をもいだ丸太にしてかへし        鶴  彬

 作品を目にして、名句、秀句と言われるものの物差しが、どこに有るのか。そして、それはどのような経過で今日に引き継がれているのだろうか。そんな疑問が頭をかすめない訳ではない。

 素晴らしい川柳だと評価を受ける作品は、先ず第一に人間性に裏打ちされている。

 素材が独創的であり表現が新鮮で感動の伝わりがある。

 このような諸要素を必然的に満たしている筈である。

 上手い作品と、秀作とか名句を呼ばれる作品、これらは必ずしも一致するものではない。

 川柳の持つ特性を考えるならば、風刺性、人間性、独創性、斬新性に裏打ちされていて、尚かつ普遍性を帯びていることが、条件として加味されるべきものであろう。

 もう随分長いこと、川柳を吐き続けてはいるが、これはと思う自信作は、残念ながらただのひとつもない。

 にもかかわらず、川柳にしがみついているのは、感動を分け与えて貰える作品に触れることの喜びを、忘れることが出来ないからなのかも知れない。
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沈黙の中でひらめくもの・・・青葉テイ子

2007年09月26日 | 川柳
     現代川柳『泥』三号  今を生きる自分になぜ川柳か

 風のように自然体で生きれたらいいと、と思いはじめたのは、一体いつ頃からだっただろうか。

 生きることは、思うに任せることのなんと多いことだろう。虚しいことの続く毎日の中で、生、病、老、死、どれをとっても思い通りいかぬことばかり・・・。

 いのちの脆さ儚さは、いつも紙一重の位置で決められることのなんと多いことか。

 そんな中で、繰り返し生きねばならぬ私達には、『尉籍する文芸』川柳がある。

 人間は人間による言葉によって癒され、言葉が鼓舞するものに触発されるように思う。

それが優しさだったり、思いやりだったり、そんなことの繰り返しによって癒されながら生きている。

 ならば、川柳の何によって癒されるのか。

 私が係わってきた川柳の20年間の生活は、決して平穏ではなく、むしろ後半は激しく揺れ動いた苛酷ともいえる歳月だった。

 心を無にして川柳と対峙し、苦しみも悲しみも全身に纏うて生まれる川柳は、あまりの無残さに発表することさえ躊躇される赤裸々なものだった。苦しみによって放たれる言葉たちの偽りのない真実にこそ、読者は共感をもつのではなかろうか。

 去年と今年も降る梅雨は同じかも知れぬが、
 生きているわたしにとっては異なった今の感興がある筈だ。 (椙元紋太)

 全神経を傾注して吐露した川柳、こんな川柳とかかわってきたからこそ、私は精神の均衡を保って、生きてこられたのだ、と、しみじみ思う。

 生きれ、生きれ、不意に大声を出したくなった夏の日同じ時間に、空っぽの乳母車を曳いて、ゆるい坂道をゆっくり歩く年配の女性がいた。

 雨の日は合羽を着て、風の日は風の身繕いをして、ただひたすら歩く。ときおり立ち止まって腰を伸ばす。

 晴れた日に、私は玄関を掃きながら声をかける。
 「お元気ですね・・・がんばって!!」
 その声に、にっこり笑顔で応える仕草が、なんとも愛おしい。八十歳位だろうか。
 美しい女性だった。
 雨の日、同じ光景を台所の窓から捉え、心の中でエールを送っていた。名前も、年齢も、住居も知らぬ人に、なぜ、これ程まで心惹かれるのだろうか。

 やがて、夏の日盛りも過ぎ、秋が訪れようとしても、ぷつりと唐突にその姿が消えた。
 季節は容赦なく移ろう・・・。冬がきて、春が過ぎた。

 栄枯盛衰のことばが、頭の中を駆けめぐる。

 生者が語る、死者が語る。声にならない声を嗅ぎ分ける。私は、空っぽの乳母車を曳く、あの風景からイメージを広げながら、真昼の影と語る。

 時間の速度をゆるめながら、言葉の中から立ち上がるものを静かに待つ。

 深い沈黙の中でひらめくものを、ひたすら待つ・・・・。

呼吸を整えて、感覚の切れっぱしを拾い集めながら、言葉探しの旅。すり減った靴底のあやうさもいい。

 苦しみ悲しみを乳母車いっぱいにして、青い空と語る虚無が匂いたつたたせるのもいい。

 私は、ひとりでいる沈黙の中で、ひらめくものを静かに待とう。熱いコーヒーに噎せながら・・・。

 ときおり感動を想定したり、亜流の感動めくものの中で、自らを、劇中劇のど真ん中に据えてひとり芝居にもどこかピエロめく。
そして虚構の感動の中をさまよう。

 今日はバレンタインデー、殉教した聖バレンタインの祭日、女から男に求愛できる日ともいう。

 商魂に踊らされた女たちは、美しくラッピングされた包みを吟味しながら、行きつ戻りつする。愛する者を目蓋にひそませて・・・・。

 生きるって、こんな小さな幸せでいいんだ。

 病気であれ、悲しみの現象であれ、なんでも甘んじて受けよう。それが神様からのプレゼントだとしたら、それは、豊かに生きることの証左にもなろう。
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カタルシス・・・池さとし(北海道川柳)

2007年09月25日 | 川柳
     北海道現代川柳『泥』・・・今を生きる自分になぜ川柳か

 今の自分にとって、川柳はいったい何なのであろう。

そんな問いかけを、自分自身にしてみても、もちろん明確な答えなどは出てこない気がする。

 過去にも、何度かこのようなテーマの文を、書いた記憶があるのだが、その都度違った角度からペンを進めていたに違いない。

 「そんなのは、一貫性の欠如だ」と、指摘されるかもしれない。

 そう言われると、「うん、まさしくその通り。」と、自分自身も素直に納得してしまいそうである。

 「あなたは、なぜ山に登るのですか。」
 「そこに山があるから。」

 この会話が、そっくりそのまま当てはまっている。

 現在の自分にとって、川柳はカタルシス(浄化)であると言ってもよさそうだ。

 もう、かなり長い間、川柳と関わってきた。さっぱり上達の兆しは無い。にもかかわらず川柳を続けているのは、最も短い十七音字の世界に自分の想いを、いかようにも表現できる喜びがある。

 その日その時の、心を吐き出す瞬間が、浄化であり、充実であると言っても良い。

 川柳をつくっているとき、そして、今こうして川柳にかかわる文章を書いている時もが、カタルシスの時間になる。

 その時々の、運と気まぐれに支配されながらの生きざま死にざま、そして死にざまに及ぶまでの息継ぎに、自分にとって川柳は、格好のステージとなっている。

 「あなたの趣味はなんですか。」と、聞かれると、何の躊躇もなく、「川柳です。」と言えるようになったのは、いつ頃からだったか。

 どうして、そう言えるようになったのか。

 達観によるものなのか、それとも川柳に寄せる愛着なのか、いまもって定かではない。

 しかし、今のところ川柳を止めようなどという気が、微塵も湧いてこないところから考えると、自分にとって川柳は、もう生活の一部分になりきってしまっていると言えるような気がする。

 作品を、毎日創っているわけでもない。むしろ創らない日の方が、はるかに多い。にもかかわらず何らかのかたちで、川柳に関わっている。

 図書館で本を読みあさるのも、美術館へ足を運ぶのも公民館活動に参加するのも、結局すべてが川柳に還元されているような気がする。

 やはり、カタルシスなのである。

 これでいいのだというゴールの見えない世界、奥の深さにたっぷりと魅せられて、今日もまた、さまよい続けている。
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ことばの海から・・・佐藤容子(北海道川柳)

2007年09月25日 | 川柳
  現代川柳『泥』・・今を生きる自分になぜ川柳か

 人間には本来、自己表現をしたいという欲求と、喜怒哀楽を、何らかのかたちで残しておきたいという願望があり、それが、ある人にとっては、音楽であったり、絵画であったり、陶芸であったりする。そうした欲求や願望のひとつに、川柳も存在しているのだと思うのだが、では、なぜ川柳なのかとなると、私の場合には、わずか十七音字で、それらを表現出来る「ことば」の魅力にある。

 しかし、ことばの世界が持っている幅や奥深さに魅かれながらも、常に、ことばの難しさに直面し、度々ことばの海に溺れてしまうことを経験している。

 そのため、内面に渦巻く大なり小なりの感情や、感動を決して的確に表現できないでいる。

 ことばの数などを考えてみたこともないが、ひとりの人間が一生に使えることばなどは、ほんの一握りに過ぎないであろうし、なにかを表現する場合、そのことばが包含しているイメージなども考えると、ひとつのことばに決めることは、広々とした砂漠の中から一本の針を見つけるような確率なのかも知れない。

 それと同時に、ことばの海に身を委ねながら、ことばが持っているチカラのようなものが、想像以上のものであることに痛感することがある。

 また、ことばから、息を感じることがあったり、香りや、彩、温度という獏としたものを感じることもある。こうした体験は大抵の場合、読み手の立場になった時に経験するものなのだが、そうした作品に出会えたときの感動は、ときにはその作者への憧憬へと繋がり、ことばの持っている無限の可能性や、宇宙性を痛感してしまうときでもある。

 そして、千変万化のことばと、作者の人間性に触れながら、川柳の愉しさを満喫している。

 「ことばは人そのもの。人生そのものが、ことばである。」と言った人がある。

 確かに、そう言われてみると、穏やかな人は、穏やかなことばを、論理思考の人は、論理的なことばを使っているし、また、自信のあるときのことばと、そうでない時のことばでは、同一人物であっても、明らかに差異が表れている。

 ことばに敏感になり、ことばを感じることは、突き詰めていくと、自分を探すことであり、また、他者を知ることではないだろうか。

 真剣にことばを探し、真摯に作品を書き、読む・・・。

私にとって、川柳とは、「ことば」を通して「人間」を見詰めることなのである。

 十七音字という限定された枠内でありながら、無限の可能性の秘められている川柳ということばの世界で、ことばを削り、ことばを膨らませ、暗中模索を繰り返している作業は、まさしく、私を削り、わたしを膨らませながら、わたしを磨く小さくて、大きな宇宙なのではないかと思っている。
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北海道現代川柳『泥』・・・細川不凍作品評

2007年09月22日 | 川柳
   一句へのこだわり・・・池 さとし 作品  

 道柳界は男性作者よりも女性作者の方が生気変わらず、自在な境地を保ち続けているといえる。その中にあって、いま最も注目されている男性柳人は池さとし氏であろう。

            音のないけむりが西へ行きたがる
            ひとつかみ星納骨堂に降りてくる

 散文的エネルギーのある文体がさとし作品の本領なのであろう。る止め作品が30句中12句と多いことも肯ける。
一句目の無常感漂う佳句、二句目のヒューマンな感覚の冴えが美しい秀句、いずれも直情的表現が効果的であった。しかし、る止め作品は断定的に言い切ってしまうところで、余情に欠ける場合が多い。<人間ドックイエローカードが加速する><ダイヤモンドダスト耳が処刑される>などは読後の余韻に浸る愉しみも無く、素っ気なく感じてしまう。

             静かな男がひとり 不発弾

 「静かな」は‘静かなる‘にすべきだ。表現が滑らかになるし、イロニーの度合いも微妙に増してくる。

             キリストの頬幾条にも冬の滝
             鉛筆の先で大きくなる羽音
             薄目開けるとガーゼのような十二月

 一句目の大胆な発想とそれに伴ったスケールの大きい表現、二句目の日常性への視点の確かさと瑞瑞しい感覚、三句目のデリケートな詩情、いずれも作者の精神の張りと豊かな心象の所産である。休言止めの響きが快い佳唱である。
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北海道現代川柳『泥』・・・細川不凍作品評

2007年09月21日 | 川柳
      一句へのこだわり・・青葉テイ子作品  

           羽交いじめしたいホタルは風の中
           疚しさは風と契ったあの日から

 一句目、苛虐性と自虐性の混淆する中、抑え難い情念の昴まりが読む者を圧倒する。荒々しさばかりが先行しそうなところを、「風」がワン・クッション与えている。二句目、定住観念のない風来坊が想起される。しかし、‘風と契る‘はすっかりパターン化してしまった語句ともいえる。「風」は表現上都合のいい言葉でイメージ的に色々と対応できる。その抽象性ゆえに、一句の命ともいえる句意や作者の存在感を希薄化させてしまうことがある。その典型的な句が、<無防備に笑った風のやわらかな>である。

           雪に繋がれ雪に裂かれた裸身抱く

 絶叫型川柳である。表現の烈しさの割りには琴線に触れてくるものがない。作者が力を込めれば込めるほど、読者は退いてしまう。抑制の効いた表現が希まれる。

           恋うたのは夢まぼろしか花まんじ
           姉いもうとほろほろ吐くは劣性遺伝

 一句目、材の揃え過ぎ、詰め込み過ぎである。言葉が上付いている分、掴みどころがなく、焦点をどこに合わせたらよいのか戸惑ってしまう。二句目も喋り過ぎてアクの強い「吐く」は不要である。‘劣性遺伝ほろほろほろと姉いもと‘で十分だ。作者の意気込みは分かるのだが・・・。

           まな板の窪みへ散らす死生観
           背負うた荷の重さにゆれている睫

 それぞれに持ち味のある秀句である。一句目、日常性に材を求めたときの作品に作者の真価を見る。思い切りよく気息に乗せた躍動感ある表現が見事である。二句目の日常性の中での発見と軽妙な表現も素晴らしい。
 
 
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現代川柳『泥』・・・・細川不凍作品評

2007年09月20日 | 川柳
  一句へのこだわり 佐藤 容子 作品  

 観賞と違って作品評は痛みを伴うものだ。評の一言一句が自分に跳ね返ってくるからだ。「忌憚のない批評を」に応えるべく、気を引き締めての執筆となった。

<佐藤容子>作品
             某日の奥歯どくんと闇を生む

 今ひとつインパクトに欠けるのは、上五が漠然としているからだ。導入部分がぼやけていると、読む側は鑑賞という心のスクリーンに鮮明な映像を結ぶのは難しい。上五を‘三月三日‘と具体的に示せば、女性心理の屈折感を描いて大変奥の深い作品になる。あるいは、‘極月の‘とすれば追い詰められた人間の危うさが窺えるし、‘八月の‘とすれば戦争への暗澹たる想いの表白になる。「奥歯どくんと闇を生む」が抜群にいいだけに、なんとも惜しい。ここは作者のサービス精神の現れだと解釈したい。

            シャキシャキと過去切る未練なき鋏
            傷はまだ乾かず他人を避けている

 いずれも常識のカテゴリーを抜け切れていない句だ。一句目の「未練なき」は答え(内意)であって作品の背後にしずませておくべきもの。二句目、「傷」が傷の体を成している間は「他人」を避けるのは当然のこと。意地悪精神を発揮して身近な存在を据えた方が読む者には感興が湧く。

            もう少しいひとり遊びをしたい砂

 さらりと詠んで内実の深い句。「もう少し」の切なさが胸に韻く。このままでも十分佳句なのだが、僕には悪い癖があって一句の中で遊んでしまう。この句でも「砂」を「くぎ」に替えて遊んでしまった。丑三つ参りのクギである。たった一語で句意は百八十度ひっくり返ってしまうのだから短詩型は面白い。それ故の恐ろしさもあるが。

            闇へ手を伸ばす勇気をさくらから
            全身を隙なく洗う春の闇
            桜からさくらを歩く疵ふせて
            街は今もも色十指遊ばせて
            言ってなお鎮まぬ海がある舌下

 これだけの佳句を揃え得るのは、作者に確かな技術が備わっているからだ。近年は柔軟性と共に、機微を捉えるに敏な繊細な感性にも磨きがかかり、そのはたらきが作品に活力を与えている。自己を冷静に客観視できるからであろう。女性抒情作品にありがちな甘さを払拭しているのがいい。今後は心から滲み出てくるような抒情句を期待したい。
 



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泥んこも愉し・・・須田尚美

2007年09月19日 | 川柳
           現代川柳『泥第三号』

 佐藤 容子作品
 
まずは、闇二章
                      わたくしの闇を磨いているつもり
   落ちる種飛ぶ種 闇はあざやかに

 川柳は下句で決まるといわれる。ステレオタイプにならないためにも、たしかにと思う。「いるつもり」と逃げないで欲しいのである。一方の種の句では「あざやかに」として、しっかりと結ばれていて緩みがない。したがって再び上句へ読み手をさそう雰囲気も生まれてくるのである。落ちる種飛ぶ種のフレーズにも無理がない。

             桜からさくらを歩く疵ふせて

 満開の桜そして散っていくさくらに、さまざまな思いが重なって春は愁いの季節。人はみな「疵」をふせて歩いているに違いないのだ。

           人前で泣かぬポケットティッシュだよ

 ポケットティッシュは泣き虫なのだろうか。だが人前に出たときのティッシュは絶対に泣かないしそんな素振りを見せたこともない。しかしながらこの「ポケットティッシュ」には、ペーソスがにじんでいる。

         醒めた手で少しきつめに縄を綯う

 醒めた手で綯った縄のターゲットは何なのだろうか。他者ではなくたぶん自分自身であろう。行間からそんなムードが伝わってくる。

         傷はまだ乾かず他人を避けている

 すぐ乾く傷はまだしも、いつまでも乾かない傷はトラウマとなって引きこもることになる。したがって他人を避けることになるが、これも処世のひとこま。ただし「他人」は「人」でいいのではないだろうか。

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