蟻の背にまだバーコード貼りますか
「働けど働けどわがくらし楽にならずじっと手を見る」石川啄木の有名な短歌の一節です。蟻は働く民の比喩で、バーコードは税金。次から次と名目を並べ国民から税を搾り取る日本チャチャチャ。
チャチャチャはいいけれど、どこまで行くのかわかりゃんせ・・通りゃんせ。
サラリーマンの給料から天引きされる諸々の経費がいずれ、55パーセントという予測も出ている。税金でしか帆を掲げ走れない日本丸。嘆いていたって始まらない。なるようにしかならないのが現実。
格差社会の差をつけられた側の国民の対策、政策は今もって「無策」
手をつけてもいないとは、その筋の中枢にいる方のお話です。
この間、リサーチ会社の研修で聞いたのは、日本中の市町村から企業誘致の仕事が舞い込んで忙しいということです。
企業誘致合戦が水面下ではとっくに始まっている。サブプライム、サラ金負債処理いずれ
噴出してくるでしょう。
ベンチャー企業に新しい制度がひょンと政策が通過したそうです。それはベンチャー企業に出資した企業が、たとえそのベンチャーが失敗しても「国が6割」カバーするという制度だそうです。・・・あーあーとため息が出てしまう。また・・税金出動ですよ!
手のいい、ひもつき会社ではありませんか?。ベンチャーは20社に1社経営がうまくいったとしてもあとの19社は・・どうするのでしょうか?そのあとなど考えないのが・・日本の官僚の常識。
懲りないですねー・・。
情報は湧き水からすくう。
そうありたいものです。
底冷えのこころ巨匠かも知れぬ
「若気の至り」ということばがあります。「若さ」は無知の代名詞、とんでもないことをしたエピソードには事を欠きません。
その最たるものが、ことお相手が「版画界の巨匠」と呼ばれる方ならなお、自分の中の小樽のふるさとを恰好に彩る、あまりにも幼稚な自分に思わず苦笑してしまいます。
ご本人にお逢いして、一度お詫びしたいと思いつつ年月は流れてしまいました。
エピソード
○小樽の赤岩というところに、小学校6年の2学期初めから新居に移り、自然に囲まれたすてきな日々をすごしていた。私。
「小樽の赤岩」は、今となっては「ロッククライマー」の恰好の練習場所のメッカとなっている。その布石を作られたのが一原氏とはつゆ知らず、山岳部の友人から私が「赤岩」に住んでいたため「明日、赤岩の壁(断崖)にハーケン(岩にコの字の太い鉄を登るルートに打ち込むもの)打つから、ちょっと手伝ってくれや・・」友人
「・・・?・・」本心は行きたくない私。
「ちょっと・・手伝ってくれ・・」友人
私にとって貴重な日曜日を多忙な中、小樽山岳会に提供させていただいた。
赤岩の神秘な山間を、登り下り小一時間。テクテク・はあはあ・なんで・・疲れる。山より海がいい。
一原氏にお逢いした初めての思い出です。その友人が言うことニャー「一原さんってすごい有名な版画つくる人だよ・おまえすごいんだぞ」と、耳打ちされた。
「どこが・・?」(ふつーのおじさんにしか見えないし・・ピント来ない・・」私。
現地に着き、一原氏と2人残され、あとの若いメンバーがあの赤岩の信じられない絶壁に少しずつ登り始め、中盤に差し掛かった頃、隣の一原氏の前で大声で崖に向かって、つい叫んじゃったんだよ。
「落ちれー・・!!落ちれ!!」って。ほんとうに落ちたらまず死ぬルートです。・・・
早い話が、私は彼らの荷物の番ぺい、見張り役。カラスが来て荷物の中の食料をついばむので「見張っている役」なのだ。赤岩の中腹のある岩場でジッと座っていなければならない。
2時間も3時間もそこから離れられない・・だからつい彼らに向かって「おちれ・・!」とこころにもないことを叫んでしまった。(一原氏にだけ聞かれてしまった。やさしそうに微笑んでおられました。・・笑うしかなかったのかな?)
○ある結婚式のスピーチで、一原氏のお祝いのことばに20歳の私には「ちんぷんかんぷん」そして・・ながーいながーいスピーチ・・山岳部の友人たちに思わず。
「だれ。あのおじさん!!話し長い・・疲れる!!」私
「おまえなー・・一原さんだぞー・・」友人
「誰・・そのひと?」私
「・・・」友人
○会社の上司に、「今、一原さんが専務の所に来てるんだよ・・おまえのこと知ってるって言ってるぞ・・」
「・・・???」私(ご本人にお逢いしても誰なのかわからない??)
けげんに、頭をぴょコンと下げて実にそっけないのは私。
結局会社に3・4度ほどいらしても、次から次と朝から来客だらけなので、ひとりずつの名前は、会社名で覚える習性になっていたところへ。
一原氏にお茶を持っていっても、見た事もない感じで、向こうが間違えていると思っていた私。その時も上司は「一原さんって・・すごいんだぞー・・!!」
それから、22歳で函館に移り住み「日本現代版画」の分厚い本を開くと、一原有徳作・・(どこかで聞いたことがあるな・・??)
新聞で、お見受けする・・あれー・・。
人の顔は、案外覚えるのは得意な若い自分であったと記憶している。
けれど、この方だけは「不思議・・」憶えられない。なぜ・・??
これを書くのにちょっと考えて見ました。「一原有徳氏」の存在感。
みんなで飲んでわいわいやっているときは、ひょこんとした感じ。
スピーチは深い・知的な僧のような感じ。
山登りの感じは、ふつーのおっさん。
会社にお見えになる時は、背広姿ですーっと空気のようなひと。
この、4つの感じがひとりの人間のイメージにつながらなかったわたしの感性。
もっとつながらないのが、「作品」と「人のイメージ」です。
作品から、巨匠をイメージすると「いかつい顔。孤独極まりない、人を寄せ付けない感じ、芸術家の中の芸術、そして・・大変な・・美的センス・・そして若い」おおかたこのようなイメージをもたれることと思います。作品を、あちこちでお見受けするたび、またまたイメージがつながらない方でした。(風景画なら・・山の絵ならぴったりですが、まったくちがう)
巨匠というのはこんな・・「ほとけ顔の・・ふつーのおっさん」なのだと思います。
ふつーなら、若気の至りはとっくにいつも忘れっぱなしですが、喫茶店に行くと「作品」に出会う。画集を開くと作品に出会う。ラジオをひねると出ていらっしゃる。
おまけに、小樽川柳社の主幹の句碑まで作られた。・・・若気の至りが作品を通じて小樽のエピソードをいやおうなく瞬時に何度も思い出させる。芸術のパワーかな。
そして、芸術の余りわからない方の表現はきちんと人物紹介が出来ていないことも知った。
だって・・「すごい・・人だぞ・・」「すごい・・版画を作るんだー・・」そのような紹介で・・何がワカルノカ?・・。すごいにも・・ピンきりあるのです。
多少のすごいでは・・ピント来ないのが私の鈍感力の特徴です。
本当にすごいと思ったのは90歳を過ぎてもなおさらに、
頂上を目指し続け、自分へのハーケンを自分に打ち続けた厳しい人間の姿勢です。
赤岩の巨匠の姿ひょコン (やさしさ)
自己懺悔です。
底冷えのこころ巨匠かも知れぬ
ずしりと重く、少し難解な句かも知れません。でも味わいの深い句ですね。自画自賛。「巨匠」というテーマで自分史を追ってみる。私の場合は、どうも記憶というのが映画の画面のようにインプットされていてすぐアウトプットできるので、その処理はとても早いです。
「若杉光夫」映画監督。「一原有徳」版画家・登山家・俳人
人は、生きているうちに「巨匠」と呼ばれる前は「ただの芸術家にすぎない」のだと思います。
このお二人の思い出。
小樽手宮小学校4・5年頃の思い出です。家のすぐ近くに小学校があり放課後ともなれば、家からまた校庭でジャングルジムや、鉄棒・ドッチボールなどいつものように遊んでいました。
でもその日は、校庭が映画の撮影シーンに使われ、そのようすをポカーンと見ていました。映画は父母が好きなので、日本映画は「父」に連れられ、外国映画は「母」に連れられ、映画館の社長さんや社員さんとも顔見知りで、「父母」が映画に連れて行ってくれなくても、映画館のおじさんは「ただで映画をいつも見せてくれました。」一言で言うなら「お子様優遇措置」とでもいうのでしょうか・・。
映画を観ていたこどもの私が、映画を撮る舞台裏を始めて見たのでした。「さむらいの子」という民を扱った映画でした。その頃のこころの残像がよみがえってきます。
今は亡き、田代みどりが(子役?)・・校舎の靴箱からグラウンドに出るシーンから始まりました。何度も何度も・・カットカットで・・こんなに映画を撮るって大変なんだ・・ということだけは実感できました。次のカットは田代みどりに校庭でみんなが「さむらいの子・・さむらいの子!」と叫んで石をぶつけるシーンです。
その石は「ジャガイモを半分に切ってあって泥で石のように見せていたものでした。」白黒映画ですからそれでよかったんですね。監督から・・5・6人のこども達に「石を投げるシーンがあるから・・君と・君と・君と・・」の中に私も肩を押されて、石を投げなければいけないことになりました。たくさんこどもも大人も見ていたのに「なぜ・・?」みんな田代みどりに石(いも)をぶつけ出しました。・・私だけが田代みどりに石をぶつけることは、たとえ映画であってもいけないと思ったので(在日朝鮮人をいじめるのを普段、見ていたので私にはできません。だから本人にそれるようにジャガイモを投げました)演技でも、こころが痛む出来事でした。
そして映画が完成し、学校中で皆が楽しみにしていた「さむらいの子」の映画鑑賞の日・・運動場で観たのは、私がかっこよく出ているはずのシーンは「片腕からいもが飛び立つシーン」でした。私の姿はありませんでした。それたいもは目立っていたナー・・。
人生初めての映画出演は、「この右腕」・・。そして、それたいも。
今、若杉光夫監督のウィキぺディアを見ながら・・・巨匠ってこんな人のことを本当はいうんじゃないかな・・と思ったよ。
田代みどりに・・両手を広げながら、何かを何度も説明してた監督を見て・・どうしてこんなに田代みどりを走らせて・・何度もやりなおすしつこいおじさんにしか見えなかったけど・・こどもだったんだね・・わたしは。作品群が巨匠を物語っています。
小樽では、また上映会をやるそうです。新聞に出ておりました。
次回は、小樽を生んだ(良く・・が生んだ・・と言いますが、この方は小樽を生んだと言えます。)一原有徳氏への懺悔録になります。昔は、登山が大好きな方で、版画家の巨匠になるなんて思いもよりませんでした。
八十歳のCD買ったこと無き父のひねもす千の風 俵万智
あるCDショップコーナーの会話
「あれください・・」ご老人
「あれ・・と申しますと?」店員
「あれあれ・・えーと・・AB」ご老人
「・・AB?・・というのは当店ではあいにく、取り扱っておりませんが・・」店員
「あれ・・あれ・・BC」ご老人
「・・BCもあいにく・・」店員
「BCじゃなくて・・CDだよ」ご老人
「CDはあつかっておりますが・・どなたので・・」店員
「あれ・・あのひとさ・・あの声の大きい・・若い・・」ご老人
こんな、ショートショートのコントような、ほんとうのやり取りが全国の各ショップで「千の風になって」の購買光景に見られたといいます。
時すでに、政界では年金の不祥事、後期高齢医療制度(とんでもない無教養のネーミングです。国民すべてに結局負担をさせるそうです。)わずかな貯蓄のしみにもならない低金利。
人生の大先輩に、失礼極まりない国の制度のずさんさ。いずれは、もっと加速していくのは承知のガッテンです。
世界中の人々に、平等に訪れる「死亡率100パーセント」の運命は、明日は我が身の現実であります。
まして、75歳といえば、戦争真っ最中の昭和初期。戦前は恐慌、戦争、戦後復興のトリプル苦難時代を経て、やっと年金生活者になってまたしても楢山へ行けとかや・・。
そんな方々が、この「千の風になって」に癒しを求めている。
音楽ってすばらしい。今までの政府・官庁の無策・無責任のたらいまわし、猿回しの戦後政治のつけまで戦中派にしわを寄せるとは・・・この日本の危篤状態です。
どぎゃんとかせねばいかんばい!!と思うから、書いています。このブログ。
今年の、川柳新年会で主幹が「千の風」を高らかに歌い終えたら、84歳のご婦人が感動して「私もいつお向かえが来るかわかりませんが・・千の風を聞いていたら・・元気が出ました・・私もいつか千の風になりたいと思います。」と元気いっぱいご挨拶をしていらっしゃいました。 そんな光景が日本中に吹いたのです。泣いたなァ・・ナプキンで。
墓参り行かない理由に千の風 作者?
「今年はお墓参り行かないよ!」こども
「どうして?」母
「だって、パパはお墓の中になんかいません・・千の風になったんだから・・」こども
日本中のお墓参りが激減したそうです。
大沼で生まれあの世の千の風
今日は、14時から「千の風新井満氏講演シンポジュウム」に夜6時まで、トーク、詩の朗読、いろいろとすっかり堪能しました。天国から帰ってきた気分です。
新井氏は新潟出身でもと、電通出身なので「総合プロデューサー」としたキャリアのほうがびんびん感じる。芥川賞も受賞しているので出来るべきして出来た「日本人の死生観を変えた作品である」と感じます。また、それだけのマーケティングが出来る実力者です。
今、日本の音楽シーンの中で一番「輝いている人」ではないだろうか。
長野冬期オリンピックでは「環境音楽プロデュース」も担当されました。
そして、何と言っても驚くのは、あの「電通」を2007年に「定年退職」をされたということです。(お話や、シンポジュウムの中での的確な示唆は、これからいろいろな生きる千の風を吹かせていくようです・・・すごいプロデューサー来る!です。)
シンポジュウムを、中座してご本人のCDを購入し、(カバーが100人近くいるといいます)新井氏のたましいの美声を車の中で聞きほれながら・・金森ホール宇崎竜童コンサートへ。19時開演で終わったのは21時20分。またまた感動ライブ。ジャズのブルースが一番似合うお方。トークも抜群。握手したもんねー。
人間は舞台に立つと、必ずその人の「本能」というものが「気」として流れるものです。
お2人とも、総合能力の優れた文化人として捉えたほうがしっくりする。
また、多彩な表現者。挑戦者のすぐれもの・・・は、優れた達観者でもある。
しばらくぶりに、自己プロデュースの「異才」をお2人に観たことは、私の中のこれからのいい「転機」です。自己プロデュースが出来ぬものは、他の媒体のプロデュースなど出来ませんからね。あくまでもコアは自分の轍から発信・受信です。
7時間半ずーっと、音楽とすばらしいトークの中にいた今日、千の風になった人の3回忌でもある。
新井満さんに、大沼の別荘を無理に押し付けた女性の縁が「今の千の風が出来たことだとおっしゃっていました。」
無理に買わせた人は、私が好きな画家の奥様。お知り合いでした。
「千の風モニュメント」デザインも古くからのお客様・・知人でした。世間は狭い。
「本物は本物を呼ぶのですね・・」と、画家の奥様と久しぶりの再会を懐かしみました。
アンドリューワイエスのような生き方と作風の画家です。
新井氏もその画家が好きだったのでしょう。
千の風から学ぶ伝説と物語・・
今まで自分の仕事でたくさんしてきたけれどヒントをピントにしなければ。
中国四川省の地震の被害のようすが信じられない悲惨さがテレビに映し出されています。
中国では、異例の世界への放映です。
そこで、ふと自分自身の足元に目を落としてみましょう。
私たち日本人も、いつ天災があってもおかしくない世界有数の地震国に住んでおります。
大 間 原 発・大 間 原 発
函館のすぐお向かいに、青森の下北半島の大間が見えます。そこに原発が建とうとしています。それも活断層の上に立てようとしている原発です。
函館の大森浜にある石川啄木公園からもながめることができます。ちなみに、啄木の像も、ヒロシマの平和公園の入り口の母子像も、北海道を代表する彫刻作家「本郷新先生」の作品です。生涯ヒューマニズムを追及された作家が石川啄木の像と海をはさんだ真向かいにまたも、被爆が恐ろしい原発が建とうとは・・。不思議な因果関係を感じます。
長崎の平和の像が天上を指差しているのは、「原爆の恐ろしさを示しているのです。」
それでも、人間の飽くなき欲望は同じことを繰り返そうとしているのでしょうか・・。
広島の平和公園には「あやまちは二度と繰り返しませんから」と書いてあるではないですか!。(アメリカじゃないですよ・・日本が書いたから・・不思議ですね?)
それでも2012年3月運転開始予定で世界でも初めての「原発実験炉」を創るというのです。
「フルMOX」という型で「プルトニウム」という物質を燃やし「原子力発電」を作るというのです。(プルトニウムは茶さじ一杯50mプールにまぜて、コップ半分飲むと、皆ガンになると言われています。)温排水による海水の温度も一挙に上がります。
もし、一番危険な事故になった場合、炉心の燃料棒のトラブルでその中の、中性子が飛び出して放射能にまみれたら、風向きが強風で函館を直撃したなら・・みな、被爆して生きていけません。
チェルノブイリ事故より、四川省の被害より拡大するのです。
あなたならどうします。
日本国民。世界の市民にとっても、大間原発は・・大変深刻です!!
私たち、国民は「世界初の実験炉の被爆者には未来永劫なりたくありません」
詳しくは、「大間原発訴訟の会をごらん下さい!!」
もう一度大きな声で言いたいです。
大間原発の下で地震があったなら、最悪の事故になったなら20万人30万人推測不可能な死亡事故をはらんだ施設と向い合わせで私たちは暮らさなければなりません。世界一危険な原発になることでしょう!!
皆様のご理解を!
クイックおねがいしまーす!
○聖火が長野にバスを連ねて向かっている。厳戒態勢の今。
聖火は「単なる火」。どこにでもある「火」。その「火」が五輪オリンピック発祥の 地から運ばれたという「起源」に歴史的な価値を見る人間。
「五輪のドラマを創り出す前奏曲」そして、五輪開会式に点火され世界の人々の感動 を誘う。世界国家の威信をかけて、チャーター機に乗せられ何千人規模の警備に守られ る「火」それが「聖なる火」。いろいろな見方が出来ます。
今までの人類の歴史の中で、「一番お金がかかった聖火」でもある。
世界の税金で運んでいる「事実の聖火」。
オリンピック選手の聖なる精神の火は燃えているか?
○IT時代、ダライラマの声明もサイトで見られる時代。メールや携帯で世界の人々を集 合離散できる時代。
世界で同時行動ができることを報道で観ることが出来る世紀に確実に入っていることを、世界中に知らしめたことにもなってしまった。
聖火は、世界の首謀者に、より隠密な言動を求めることを教訓としたことだろう。
洞爺湖サミットの水面下の「最重要課題」かも知れない。
暴動の火付け役はどこかにいても、聖火は走る。
北京駅は、コンコルド広場を少し模倣したように、世界を迎える準備万端整っている。
中国のオリンピック会場となった市民はそのため、たくさんの胡同(フートン)という、日本の昔の長屋を四角くした中で、数世帯が生活を助け合って暮らしている、生活様式さえもオリンピックのためにたくさん壊されてしまった。
ちなみに、オリンピックボート競技の施設は350億かけられているという。
以前、ギリシャの総大理石で創られている、オリンピック競技場で軽く遊びながら走った時に思ったことは「北京のオリンピック開会式を現地でみたいなー・・」と、自分に願った。
とどのつまり、行きたいなー・・見たいなー・・北京オリンピック。
この聖火の光景にやりきれない思いを抱いている。そして、オリンピック選手出場のメンタルな部分を真剣に考えている世界の政治家はいるのだろうか?・・・メンタルが、どれほど選手にとって・・デリケートなものか・・勝敗を左右するものか。今回のオリンピックは選手にまた大きな障害を与えてしまったことはあまりにも残念すぎる。
万本の根っこのように生きて行く
このように生きれたら素晴らしいナーという願望の句ではあります。
このブログも、そろそろテーマが決まりだし「松岡正剛氏」のような「千夜千冊」には内容は程・程果てしなく永遠に遠く、せめて生きた証に袖すり逢うた人々の「素晴らしき人間賛歌」を地球にちょっと、しみのような落書きをしようと決めたのですが・・・。どうなることか?
「小説家になるにはどうしたらなれますか?」と聞いた女性に今は亡き女流小説家が「毎日書きなさい・・そうすればなれるよ!」と答えたそうです。
小学校の時から、国語の成績は3・4しかお目にかかったことのない私は、小説どころか、作文も昔から大の苦手で「何で・・先生に読ませる、嘘めいた作文を提出しなければいけないのか」こども心に「作文」は嫌い!でした。
小学校4年生の時、またまた宿題の作文を書かなければいけなくて、母に思い余って「作文はどうして書いたらいいの?」とたずねたら母は「見たまま、感じたまま素直に書くといいんだよ」と教えてくれました。
その結果、4年生を代表する作文に選ばれ、気を良くしたのはこれくらいのものでありました。
ついこの間も、母とその話をしながら「あの言葉がなければ、今川柳なんかやっていなかったかも知れないね。感謝してますよ。」と母にヨイショ!のほめ言葉は怠らない。
それも、子としての大事な務めではあります。
母は、私のいのちを作った根っこでもあります。父も私が出来たばかりに終生「父親役」に徹した、本物の「人生役者」でもあります。舞台は家庭。
川柳では、男も女も最低7つの人生の顔(仮面)があると言われています。
地位名誉お金にあふれた方々は、10も20もの人生の仮面があることでしょう。
ところで、「根っこ」といえば、先日お知り合いの女性から「私、長田弘さんの詩が好きなんですよ・・読まれますか・」と一冊の詩集をお借りした中に「ライ麦の話」が載っていて興味深い。
ライ麦の話 長田弘
一本のライ麦の話をしよう。
一本のライ麦は、一粒の種から芽をだして、
日の光と雨と、風に吹かれてそだつ。
ライ麦を生き生き育てるのは、土深くのびる根。
一本のライ麦の根は、全部つなげば600キロにおよび、根はさらに、1400万本もの細い根に分かれ、毛根の数というと、あわせてじつに140億本。みえない根のおどろくべき力に支えられて、はじめてたった一本のライ麦が育つ。
何のため?
ただ、ゆたかに、刈りとられるために。
ライ麦は、ロシア南西部のカフカス地方、あるいはアフガニスタンを原産地とする乾燥寒冷地帯に生育すると書いてあった。
他の植物が生育できない悪条件の環境・土壌で育つ小麦だそうです。
生き延びる為に、これほどの根を持ったライ麦。
たた刈り取られるために。
人間も、同じような生き方を余儀なくされた人々は多い。
そんな、人々を今後折節、ご紹介したいと考えています。
飛魚の若さ視界に崖はない
「柳沢社長の葬儀はどうでしたか?・・社長が亡くなったと聞いて早く函館に来たかったです!御社に来たらお話が聞けると思っていました。それにしても、この函館経済界のリーダーでしたから・・函館の将来が心配で・・」
35歳の大手メーカーに勤務するエンジニアの方が、当社の機械をメンテナンスに来社された時の第一声です。彼が20代後半に、コンピューターシステム関連のお仕事で、1年間毎日グループに専属した体験から、ひときわ勝社長への思い入れが強い方だからこそショックも大きかったようです。
マルカツグループ7社を率いた故柳沢勝社長が逝去されて早いもので5ヶ月が過ぎました。お身内のお話では「あんなに健康に注意していた社長はいない」というお話をうかがい「自分の仕事人生を考え直したよ」という他社の社長さんの声も聞かれます。
それでも、先々月ある研修会で「総務・庶務の仕事とは」というテーマで、グループの若社長とバッタリお会いして、ご挨拶もすませ「先代の社長と始めてお話した時に熱い握手を交わしましたので、社長とも握手がしたいなー・・」と言ったら両手をズボンの後ろで拭きながら、私と握手して下さいました。今思えば肉厚なその手の甲は、父親と同じであったと感じています。次の日すぐ社長室からの仕事が入り、その情感までもが父親譲りなのには感動してしまいます。(そういえば、4年前にも勝社長に自社の回転寿司でお会いした時「おーおー・・今、小樽から帰ってきたけど、小樽のほうが函館より観光客が多くて函館は負けてルナー・・」と、私の両手を握ってお話されていました。そして、社長が帰った後に「これは社長からです・・と言って、友人と私の2人分の果物と、デザートが運ばれて来たのを思い出しました。昔はちょっと恐くて、晩年はオーラーが射していらしたなーと思い出しました。)
このような函館の未来を担う、若き経営者達はこれからの30年余の先まで見据えて経営をされることは、今までの経営者には及びも付かない試練が怒涛のごとく待ち受けています。
「今度、函館の魚市場で、せりを見てきてくださいよ!」エンジニア
「・・どんななの・・?」私
「マルカツと、スーパー魚長と、藤原水産さんのグループが3つあって、真ん中にボクが立っていようものなら殺されそうですよ!」エンジニア
それほど、真剣勝負の「活気と男の死闘」が繰り広げられている「魚市場の朝の5時」なのだろう。
日本中の魚市場の光景でもある。
その毎日の鍛錬の中で、男気が磨かれても行くのだろうと思います。
魚をせりに落としスーパーに陳列された魚を消費者が買い、家庭で料理して食べ、私たち人間の生存が果たされているのですが、今朝も函館ウォーターフロントを死守する若き「飛魚」は「父の飛魚」の手を離れ、命の限り「声をからしながら魚市場で仕事をしているんだろうなー」・・・ガンバレ!飛魚!と影でひっそり叫びたくなります。
金森商船さんの八代目、マルカツグループの二代目。共に函館のすばらしき飛魚!
このおふたりを主人公にした、映画を作りたいくらいです。
個性のカラーが対照的なだけ、絵になります。
両社から仕事をいただけるのは、両社の前社長と、現社長の共存の思想あればこそです。
北海道函館の湾岸に広がる観光の大舞台、今後30年の未来演出はこのお二人の感性が強くその景色を描いて行くことになるのでしょう!
柔軟な発想と、今後の函館の観光舞台の幕開けに期待したいものです。
ブログで応援します。
ひとつずつレンガを積んで 八代目
4・5日前に、事務所の2階の玄関から「こんにちは!」と、元気な声がするので出て見ると、27・8歳のモデルのようなイケメンが満面の笑みで立っていました。
まるで春の陽気な風を独り占めしたような、楽しさいっぱい体にみなぎらせて「毎度様です!」と、とてもうれしい応対でした。
お客様であり、次期社長の彼ではありますが、私がたまに仕事ぶりを目にするのはフォークリフトで荷物を運搬したり、函館ベイサイドを忙しく駆け回り、汗いっぱいにして働く好青年です。
高所作業車も運転操作したりしてまるで屈託がありません。
それかといって商談では、仕入先に振り回されることもないようです。
冬のクリスマスファンタジーでは、雪と浜風が吹き荒れる身も凍るような寒いステージの後ろで、そのステージの管理なんかも一生懸命勤めているところを目にしたことがあります。
ともかく、かいがいしくよく働く若者です。
かと言って、たまに研修でばったり出会うと、ファッションモデルのようなスーツの着こなしで、私が若ければサインをもらいたいくらいです。かくれファンかな?
彼もいずれ「社長」と呼ばれる日が来る訳です。
そんな折、今日郵送で「金森赤レンガ倉庫20周年記念誌」が手元に届きました。
初代渡邊熊四郎・・豊後国直入郡竹田古町に生まれる。
天保11年(1840)年生まれの方が、創業の楚を築いたのですが、函館奉行支配船帆船「箱館丸」に便乗し、函館奉行所より箱館丸乗組商法方を命ぜられる。
・・・と記してあります。
函館四天王と呼ばれるおひとりで、函館の経済・文化・公共事業に偉業をなした創業者です。
その記念誌の中に、自社の仕事の写真も五点ほど載っておりしみじみと、金森商船さんとの20年間の仕事の思い出を噛みしめている私です。
開業よりお世話になり20年。六代目社長故渡邊恒三郎さんの口癖の確認事項は「これをやると函館市民の皆様は喜んでくださるでしょうか?」が金森倉庫開発の「いつものお言葉」でありました。値引きは一度もありませんでした。
「文化」のあらゆる意味を身につけていた方とお仕事をさせていただいたのは自社の「誇り」でもあります。ごていねいで上品な雰囲気がとても好きでした。
そんな20年間の記念誌に載せていただいている仕事が出来たうれしさと、これから金森商船八代目をいずれ継がれるそのフットワークのすぐれた若者を遠くで見守りながら、いつかこんな私の句を届けたいなと思っています。
赤いレンガの倉庫群は、昔の職人達が吹きさらしの海風に身をさらしながら、ひとつひとつレンガを丹精込めて積み上げ作られたものです。その技術の確かさが後世まで残り今では、函館の観光文化の拠点にさえなりました。
彼を見ていると若さっていいなーと、眩しく感じる今日この頃。この文がいずれ100年後に届いて金森商船120年史に載らないかなー・・今度、きちんと書いておこう!
それにしても、北海道の歴史の玄関口で働く八代目はまるで創業者のようです。