アイヌ・・・萱野茂(萱野茂アイヌ記念館館長)の言葉
私は、大正十五年、沙流川のほとり平取村二風谷に生まれ、物心
ついた昭和五~六年には祖母”てかって”に手を引かれ、山菜取に
野山を歩いたものです。当時のアイヌ婦人がそうであったように、口
の周りと、手の甲から肘まで、いれずみをしていた人でした。昭和の
初年で八十歳を超えていた祖母は、日本語を全くといってよいほど
しゃべることができず、孫の私との会話は完全にアイヌ語ばかりで
した。したがって山菜を採る場合の約束事もすべてアイヌ風のアイ
ヌ精神を持って私に教え、山を歩く時の心得から、小沢でドジョウな
ど小魚を捕る時には、どうすれば神様に叱られないかなどと、こま
ごまと教え聞かされたものです。しかも、それらの教えの多くは、
ウウェペケレという昔話をとおしてだったのです。
二風谷に、春先いちばん早く生える山菜は、プクサ(ギョウジャニン
ニク、俗にアイヌネギ)ですが、これを採取するにも、根っこを掘り採
るようなことはしませんでした。どのようにしてそれを規制したかとい
うと、これもやはり民話でおどしながら教えました。あらすじをいうと、
「私には父がいて母がいて、貧乏な家の一人娘でした。うわさによ
ると、隣村の村おさの妻が病気をしているという話でしたが、ある春
のこと亡くなったという話を聞きました。おくやみに行きたいと思いま
したが、持っていく供物もないのと、着ていく着物もありません。仕
方なしにおくやみにも行かず、畑仕事に行き、お昼に粗末な弁当を
広げ食べようとしていると、座っているうしろで人声がします。だれ
だろうと振り返ってみると、だれもおらず、声の主は萩でした。”これ
娘よ、聞きなさい、隣村の村おさの妻が死んだ理由は、ギョウジャ
ニンニクを採る時根こそぎ採って、ギョウジャニンニクの神を殺して
しまったのだ。それを怒ったギョウジャニンニクの神が、村おさの
妻を病気にして殺した。大急ぎで家に帰り、乾かしてあるギョウジャ
ニンニクを持って村おさの家の南斜面へ行き、ギョウジャニンニク
の魂を返すといいながら撒きちらしなさい。そうすると村おさの妻
は生き返るであろう。”こう萩の神様が貧乏娘の私に教えてくれま
した。いわれたとおりにすると、村おさの妻が生き返りました。だか
ら、今いるアイヌよ、山菜を採る時に根こそぎ採ってはいけません、
と一人の女が語りました。」このように、民話の中で何回も何回も
同じ話を聞かせ、それを皆が守るようにして暮らしたのです。例え
ば、フキを切る場合でも、アイヌであれば十本が十本全部切るよう
なことはせずに、切りたいような良いフキであっても、三本か四本
は残すようにします。その理由は、今年はフキが生えていても来年
はフキノトウになり、タネが飛び、フキが減らないことを知っている
からです。試みに秋一回か二回霜の降りたあと、霜で黒くなった
フキの根を指先でほじくってみると、来年の春のためにフキノトウ
の頭が隠れているものです。それを知らない都会の人たちは、
ありったけのフキを切ってしまい、何年かあとに、あるいは次の年
に行ってみると、フキは掻き消すように一本も生えていません。
辺りを見回し、不思議そうな顔をしているのですが、アイヌにいわ
せると、フキを殺してしまったことになるのです。小魚を捕る時も、
平たい石を起こしてその下の小魚を抄い上げたあとは、石を必ず
元のように平たくします。それは魚の寝床と考え、そのように教え
られたものです。山菜とのお付き合いは、以上のようなものであ
りましたが、サケなどはどうであったのでしょうか。
沙流川でのサケの初漁は、だいたい九月三日ころというふうに
父はいっていたものでした。九月と十月に捕るサケは、脂もあっ
て大変おいしいものですが、保存には向きません。したがって、
その季節に捕る分は毎日食べる量、それも自分の家にだけで
はなしに、隣近所の老人家庭に分け与えるに必要な本数を捕
ってきます。アイヌの村の村おさの条件は、ユクネチキ、カムイ
ネチキ、アエアウナルラ、シカやクマを隣の家へ運ぶほど私は
狩りが上手だ、自分さえ良ければいいというのではなく、一族
全部が、村人それぞれが食うに困らないほど、たくさんの獲物
を運んでこれる者、それが村おさになれる条件の一つであった
のです。十一月に入ると、サケは産卵を終えて、よたよたと川
岸へ流れ着きますので、それをたくさん捕って背割りをして乾か
します。この季節になるとハエも出ないので、ウジのわく心配
が全くありません。それと脂気がないので、次の年の夏を越し
ても脂焼けなどで味が変るようなこともなく、何年間も保存でき
ます。サケが四年目には成魚となって母なる川へ帰ってくるこ
とを、アイヌたちが知っていたかどうかは別として、毎年同じに
捕れるとは限りません。それで捕れない時に備えて保存食と
して乾かし、家の中の火棚のもう一段上へ上げておくと、煤で
真っ黒になるけれど虫も付きません。食べる時はぬるま湯に
うるかし、たわしでごしごしと洗って煮て食べるという具合でし
た。アイヌのサケ漁というのは、一方的に捕り尽くすというので
はなしに、自然の摂理に従い資源が枯渇しないように産卵後
のサケを大量に集め、保存食にし暮らしていました。川へサケ
を捕りに行き、思いのほかたくさん捕れた時には、キツネの食
べる分として柳原へ置いてきます。カラスの分は砂利原へ置き
ますが、砂まみれにしないよう、きれいに洗って置くようにした
ものです。
なぜかといえば、民話の中でカラスにくれてやるサケを洗って
やった者と、砂まみれにしてやった者が、神様からお礼をしても
らった様子の明暗がはっきりしていたからです。アイヌがそれら
生物に餌を与える時に必ずいう言葉に、アイヌネヤクカ カムイ
ネヤクカ ウレシパネマヌプ アコヤイラム ペテッネクスというの
があります。この意味は、人間でも神様でも子育てには大変な
苦労が伴う、したがって神であるあなたが、あなたの子どもたち
とともに食べる分を上げましょう、というわけです。アイヌの狩人
たちは、山でシカを獲った場合も肉の全部を採り帰らずに、キツ
ネの分は雪の上へ、カラスの分は木の枝に掛けるというふうに、
肉の一部と内臓は残してくるように心掛けます。それはシカの動
きを教えてくれるのが カラスとカケスだからです。狩りに山へ
行き、沢の向かい側の林の上にカラスあるいはカケスが舞うと
いうか旋回していると、その下には必ず何かがいるからです。
したがって、獲物を探す狩人にとっては、それら鳥の動きが大
きな目安になったわけです。ですから、お礼のしるしに肉を置い
てくることを忘れませんでした。アイヌ民族は、すべての生物が
物を分け合って食べようという気持ちが常にあるのです。
したがって、遠くに見える山、近くを流れる川、沢など、これら
の自然はアイヌにとっては神様であったのです。山も木も川も
みんな神様です。なぜそれを神様と考えたのか。それは自然
全体、山も川も沢も、これらはいつも新鮮な食料を供給してく
れる食料貯蔵庫であったのです。ということは、川があるから
魚がいる。木がはえているからシカがいる、そこへ行って食べ
物をちょうだいしてくるという謙虚な心をつねづね持っていまし
た。このように自然を神と崇め、豊富にある物といえども乱獲
を慎み、それによって神=自然とアイヌの間に相互信頼が確
立していたのです。
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「アイヌの里二風谷に生きて」 萱野茂著 北海道新聞社刊行
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