川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

AINU HISTORY・・・萱野茂メッセージ ④

2008年07月31日 | 川柳
萱野茂さんからのメッセージ
2003-09-30

「生物多様性シンポジウム」が27と28日に開催されました。
そのなかで、萱野茂さんがゲストスピーチしたのですが、そのときにも語られた内容の一部を、数年前に取材した記録から、以下に載録してみたいと思います。

    ●日本人が「サケを獲るな」と、アイヌ殺しの法律を制定した

 アイヌは長い歴史を通してサケを主食としてきたのですが、そこに日本人がアイヌに一言の挨拶もなしに雪崩のように押し寄せてきて、まずはアイヌ殺しの法律とも言える「サケを獲るな」の法律を制定した。

 それはもう130年も前のことですが、それがいまだに生きているんですよ。

 いま北海道で一年に獲れるサケの量は5200万から5300万匹なんですが、しかしアイヌが合法的に獲っていいとされているサケは、登別アイヌでなんと5匹だけです。

 一人に対してではありませんよ。登別全体でです。しかもラウォマプという仕掛けで獲ることとなっています。

      もう一つ、札幌アイヌは数年前までは20匹でした。

 5000万匹も獲れるサケなのに、アイヌにわざわざ書類を出させて許可をしているサケがたった五匹とは恥ずかしくないのでしょうか。しかしそれがいまのアイヌの置かれている現実の立場なんです。

 サケはアイヌ語でシペであって、シペというのは、シは本当に、エは食べる、ペはモノということで、早い話、主食を意味しています。

 だからアイヌにサケを獲るな、食うなということは、ある日突然言葉も風習も全く違う民族が日本列島にドカドカとやってきて、「お前たち、今日からコメを食ったら逮捕するぞ!」と日本人に対して言うようなものなんですよ。

 私は11年ほど前に、スウェーデンで開かれた会議に参加したことがあるんですが、そのときの会議のテーマというのは、世界中に散らばっている先住少数民族の民具の里帰りというものでした。つまり博物館に必要以上に置いてあるものは持ち主に返しましょうという趣旨の会議だったんです。

 そのときにいちばん印象に残ったことは、迎えに出てくれたサミーの人々の話でした。彼らはある工場の前にクルマを止めてこう言いました。

 「みなさん見て下さい。この工場の前には草が生えています。これは二ヶ月ほど前にチェルノブイリの原子力発電所の爆発事故によって汚染されました。見たところは色も形も変わってはいませんが、コケが汚染され、コケを食べたトナカイが汚染され、そのトナカイを食べるとわれわれもおかしくなるので、いま食べることが禁止されています」と。

                WEBより転載

   川柳っていいね!北海道散歩は只今、アイヌの歴史を散策中です。

○今朝の北海道新聞一面に「ユネスコ世界無形文化遺産」「アイヌ古式舞踊登録」 へ提案するという記事が載っていました。まだ正式ではありませんが、とても嬉 しいニュースです。

○最近、新聞紙上でアイヌの記事が多く掲載されています。
 きっと、私と同じように「少数民族サミット」で、「教えられることの多かっ  た」若い報道記者さん方の「思い」も盛り込まれていることでしょう。

○報道の原点とは何か?・・・の、無言の示唆がたくさんあったことでしょう!


   川柳も、17音字でアイヌと和人の融合の何が表現できるか
                    ・・・模索、思案中です。

          川柳北海道・川柳北海道・川柳北海道
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AINU HISTORY・・・萱野茂メッセージ ③

2008年07月30日 | 川柳

・・・続き・・・

アイヌ「先に死ねたほうが幸せ」

このように昭和二十八年の秋ごろから、アイヌ民具の蒐集をつづけていくうち、

アイヌ文化全般を見直そうという自然な気持ちがわたしの心の中に生まれてきました。アイヌ研究者に閉ざしていた心を少しずつ内側から開いていき協力するようになりました。

ちょうどそのころだったと思うのですが、二谷国松さん(アイヌ名、ニスッレックル。明治二十一年生まれ)、二谷一太郎さん(同ウパレッテ。明治二十五年生まれ)、それにわたしの父、貝沢清太郎(同アレッアイヌ。明治二十六年生まれ)の三人が集まって話をしていました。

この三人は、二風谷ではアイヌ語を上手にしゃべれる最後の人たちでした。

三人が話していたのは次のようなことでした。

「三人のうちで、一番先に死んだ者が最も幸せだ。

あとの二人がアイヌの儀式とアイヌの言葉で、ちゃんとイヨイタッコテ(引導渡し)をしてくれるから、その人は確実にアイヌの神の国へ帰って行ける。

「先に死ねたほうが幸せだ」 聞いていて、わたしはとても悲しかった。

「先に死んだほうが幸せだ」。わたしは何度もこの言葉を心の中で繰り返しました。

この言葉の意味は、民族の文化や言葉を根こそぎ奪われた者でなければ、おそらく

理解することは絶対に不可能でしょう。

人間は年をとると、死ぬということにあまり恐れをいだかなくなるといいます。

しかし、死んだときには、自分が納得できるやり方で、野辺の送りをしてもらいたいと願う気持ちには変わりがありません。

その納得できる葬式をしてもらいたい、ただそれだけのために早く死にたいと願うほど、わたしたちアイヌ民族にとってアイヌ文化、アイヌ語は大切なものなのです。

そして、その三人のうち、“最も幸せ”になったのは、わたしの父でした。

 「アイヌの碑」萱野茂著 朝日文庫 より引用

 

川柳北海道散歩。

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AINU HISTORY・・・萱野茂メッセージ ②

2008年07月29日 | 川柳

 

川柳北海道散歩・・・・続き・・・

なぜかといえば、民話の中でカラスにくれてやるサケを洗って

やった者と、砂まみれにしてやった者が、神様からお礼をしても

らった様子の明暗がはっきりしていたからです。アイヌがそれら

生物に餌を与える時に必ずいう言葉に、アイヌネヤクカ カムイ

ネヤクカ ウレシパネマヌプ アコヤイラム ペテッネクスというの

があります。この意味は、人間でも神様でも子育てには大変な

苦労が伴う、したがって神であるあなたが、あなたの子どもたち

とともに食べる分を上げましょう、というわけです。アイヌの狩人

たちは、山でシカを獲った場合も肉の全部を採り帰らずに、キツ

ネの分は雪の上へ、カラスの分は木の枝に掛けるというふうに、

肉の一部と内臓は残してくるように心掛けます。それはシカの動

きを教えてくれるのが カラスとカケスだからです。狩りに山へ

行き、沢の向かい側の林の上にカラスあるいはカケスが舞うと

いうか旋回していると、その下には必ず何かがいるからです。

したがって、獲物を探す狩人にとっては、それら鳥の動きが大

きな目安になったわけです。ですから、お礼のしるしに肉を置い

てくることを忘れませんでした。アイヌ民族は、すべての生物が

物を分け合って食べようという気持ちが常にあるのです。

 

したがって、遠くに見える山、近くを流れる川、沢など、これら

の自然はアイヌにとっては神様であったのです。山も木も川も

みんな神様です。なぜそれを神様と考えたのか。それは自然

全体、山も川も沢も、これらはいつも新鮮な食料を供給してく

れる食料貯蔵庫であったのです。ということは、川があるから

魚がいる。木がはえているからシカがいる、そこへ行って食べ

物をちょうだいしてくるという謙虚な心をつねづね持っていまし

た。このように自然を神と崇め、豊富にある物といえども乱獲

を慎み、それによって神=自然とアイヌの間に相互信頼が確

立していたのです。

 

「アイヌの里二風谷に生きて」 萱野茂著 北海道新聞社刊 より引用

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AINU HISTORY・・・萱野茂メッセージ ①

2008年07月26日 | 川柳

       アイヌ・・・萱野茂(萱野茂アイヌ記念館館長)の言葉


私は、大正十五年、沙流川のほとり平取村二風谷に生まれ、物心

ついた昭和五~六年には祖母”てかって”に手を引かれ、山菜取に

野山を歩いたものです。当時のアイヌ婦人がそうであったように、口

の周りと、手の甲から肘まで、いれずみをしていた人でした。昭和の

初年で八十歳を超えていた祖母は、日本語を全くといってよいほど

しゃべることができず、孫の私との会話は完全にアイヌ語ばかりで

した。したがって山菜を採る場合の約束事もすべてアイヌ風のアイ

ヌ精神を持って私に教え、山を歩く時の心得から、小沢でドジョウな

ど小魚を捕る時には、どうすれば神様に叱られないかなどと、こま

ごまと教え聞かされたものです。しかも、それらの教えの多くは、

ウウェペケレという昔話をとおしてだったのです。

 二風谷に、春先いちばん早く生える山菜は、プクサ(ギョウジャニン

ニク、俗にアイヌネギ)ですが、これを採取するにも、根っこを掘り採

るようなことはしませんでした。どのようにしてそれを規制したかとい

うと、これもやはり民話でおどしながら教えました。あらすじをいうと、

「私には父がいて母がいて、貧乏な家の一人娘でした。うわさによ

ると、隣村の村おさの妻が病気をしているという話でしたが、ある春

のこと亡くなったという話を聞きました。おくやみに行きたいと思いま

したが、持っていく供物もないのと、着ていく着物もありません。仕

方なしにおくやみにも行かず、畑仕事に行き、お昼に粗末な弁当を

広げ食べようとしていると、座っているうしろで人声がします。だれ

だろうと振り返ってみると、だれもおらず、声の主は萩でした。”これ

娘よ、聞きなさい、隣村の村おさの妻が死んだ理由は、ギョウジャ

ニンニクを採る時根こそぎ採って、ギョウジャニンニクの神を殺して

しまったのだ。それを怒ったギョウジャニンニクの神が、村おさの

妻を病気にして殺した。大急ぎで家に帰り、乾かしてあるギョウジャ

ニンニクを持って村おさの家の南斜面へ行き、ギョウジャニンニク

の魂を返すといいながら撒きちらしなさい。そうすると村おさの妻

は生き返るであろう。”こう萩の神様が貧乏娘の私に教えてくれま

した。いわれたとおりにすると、村おさの妻が生き返りました。だか

ら、今いるアイヌよ、山菜を採る時に根こそぎ採ってはいけません、

と一人の女が語りました。」このように、民話の中で何回も何回も

同じ話を聞かせ、それを皆が守るようにして暮らしたのです。例え

ば、フキを切る場合でも、アイヌであれば十本が十本全部切るよう

なことはせずに、切りたいような良いフキであっても、三本か四本

は残すようにします。その理由は、今年はフキが生えていても来年

はフキノトウになり、タネが飛び、フキが減らないことを知っている

からです。試みに秋一回か二回霜の降りたあと、霜で黒くなった

フキの根を指先でほじくってみると、来年の春のためにフキノトウ

の頭が隠れているものです。それを知らない都会の人たちは、

ありったけのフキを切ってしまい、何年かあとに、あるいは次の年

に行ってみると、フキは掻き消すように一本も生えていません。

辺りを見回し、不思議そうな顔をしているのですが、アイヌにいわ

せると、フキを殺してしまったことになるのです。小魚を捕る時も、

平たい石を起こしてその下の小魚を抄い上げたあとは、石を必ず

元のように平たくします。それは魚の寝床と考え、そのように教え

られたものです。山菜とのお付き合いは、以上のようなものであ

りましたが、サケなどはどうであったのでしょうか。

 


沙流川でのサケの初漁は、だいたい九月三日ころというふうに

父はいっていたものでした。九月と十月に捕るサケは、脂もあっ

て大変おいしいものですが、保存には向きません。したがって、

その季節に捕る分は毎日食べる量、それも自分の家にだけで

はなしに、隣近所の老人家庭に分け与えるに必要な本数を捕

ってきます。アイヌの村の村おさの条件は、ユクネチキ、カムイ

ネチキ、アエアウナルラ、シカやクマを隣の家へ運ぶほど私は

狩りが上手だ、自分さえ良ければいいというのではなく、一族

全部が、村人それぞれが食うに困らないほど、たくさんの獲物

を運んでこれる者、それが村おさになれる条件の一つであった

のです。十一月に入ると、サケは産卵を終えて、よたよたと川

岸へ流れ着きますので、それをたくさん捕って背割りをして乾か

します。この季節になるとハエも出ないので、ウジのわく心配

が全くありません。それと脂気がないので、次の年の夏を越し

ても脂焼けなどで味が変るようなこともなく、何年間も保存でき

ます。サケが四年目には成魚となって母なる川へ帰ってくるこ

とを、アイヌたちが知っていたかどうかは別として、毎年同じに

捕れるとは限りません。それで捕れない時に備えて保存食と

して乾かし、家の中の火棚のもう一段上へ上げておくと、煤で

真っ黒になるけれど虫も付きません。食べる時はぬるま湯に

うるかし、たわしでごしごしと洗って煮て食べるという具合でし

た。アイヌのサケ漁というのは、一方的に捕り尽くすというので

はなしに、自然の摂理に従い資源が枯渇しないように産卵後

のサケを大量に集め、保存食にし暮らしていました。川へサケ

を捕りに行き、思いのほかたくさん捕れた時には、キツネの食

べる分として柳原へ置いてきます。カラスの分は砂利原へ置き

ますが、砂まみれにしないよう、きれいに洗って置くようにした

ものです。

なぜかといえば、民話の中でカラスにくれてやるサケを洗って

やった者と、砂まみれにしてやった者が、神様からお礼をしても

らった様子の明暗がはっきりしていたからです。アイヌがそれら

生物に餌を与える時に必ずいう言葉に、アイヌネヤクカ カムイ

ネヤクカ ウレシパネマヌプ アコヤイラム ペテッネクスというの

があります。この意味は、人間でも神様でも子育てには大変な

苦労が伴う、したがって神であるあなたが、あなたの子どもたち

とともに食べる分を上げましょう、というわけです。アイヌの狩人

たちは、山でシカを獲った場合も肉の全部を採り帰らずに、キツ

ネの分は雪の上へ、カラスの分は木の枝に掛けるというふうに、

肉の一部と内臓は残してくるように心掛けます。それはシカの動

きを教えてくれるのが カラスとカケスだからです。狩りに山へ

行き、沢の向かい側の林の上にカラスあるいはカケスが舞うと

いうか旋回していると、その下には必ず何かがいるからです。

したがって、獲物を探す狩人にとっては、それら鳥の動きが大

きな目安になったわけです。ですから、お礼のしるしに肉を置い

てくることを忘れませんでした。アイヌ民族は、すべての生物が

物を分け合って食べようという気持ちが常にあるのです。

 

 したがって、遠くに見える山、近くを流れる川、沢など、これら

の自然はアイヌにとっては神様であったのです。山も木も川も

みんな神様です。なぜそれを神様と考えたのか。それは自然

全体、山も川も沢も、これらはいつも新鮮な食料を供給してく

れる食料貯蔵庫であったのです。ということは、川があるから

魚がいる。木がはえているからシカがいる、そこへ行って食べ

物をちょうだいしてくるという謙虚な心をつねづね持っていまし

た。このように自然を神と崇め、豊富にある物といえども乱獲

を慎み、それによって神=自然とアイヌの間に相互信頼が確

立していたのです。

次回へ・・・

 

「アイヌの里二風谷に生きて」 萱野茂著 北海道新聞社刊行


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Ainu History ⑨

2008年07月24日 | 川柳

                  アイヌ(人間という意味)の歴史 ⑨

 こうした動きは戦争で中断されるが、太平洋戦争で天皇制帝国主義が崩壊すると、再びアイヌ解放運動の機運が高まる。世界五大叙事詩のひとつであるともされるアイヌのユーカラも筆録(「金成まつユーカラ集」など)され、人類の貴重な文化遺産はかろうじて「撲滅」を免れた。

さて、時代を少し遡る。

アイヌがクナシリ・メナシの戦いで最後の抵抗を示していたころ、同じような先住民に対する迫害が18世紀のオーストラリアでも始まる。1788年、1044人(大半は流刑囚)の乗ったイギリス船団がオーストラリアに到着、先住民であるアボリジニの土地への侵略と徹底した迫害を白人たちが開始したのだ。

 

ちょうど和人がアイヌに対してやったように、白人入植者たちはアボリジニを「野蛮人」(本当は白人こそ野蛮人であった)と見下し、抵抗するものは虐殺しながら、入植地を増やしていく。白人が持ち込んだ天然痘のような病気や梅毒によってもアボリジニの人口は激減した。

インディアン、アボリジニ、アイヌといった誇り高き民族がこのころ、地球上で相次いで迫害、虐殺されていたわけだ。

現在、北方領土問題で日本政府は「北方四島はわれわれ日本人の祖先が開拓したわが国固有の領土」などと称しているが、アイヌの歴史を知っているなら、北方領土がアイヌのものであり、つい二〇〇数十年ほど前に和人が侵略、強奪した島であることを認めざるをえないだろう。真実の歴史を直視する能力があるなら、北方四島はアイヌにこそ返されるべきである。

                               ブリタニカ大百科事典より

      川柳っていいね!北海道散歩は「アイヌの歴史」を散策中です。

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Ainu History ⑧

2008年07月24日 | 川柳

               アイヌ(人間という意味)の歴史

アイヌは1871年の戸籍法公布とともに「平民」に編入されるが、戸籍には「旧土人」と記載され、事実上「二級国民」扱いされた。翌72年にはアイヌの文化や風俗も取り締まり対象となり、女子の入れ墨や男子の耳輪が禁ぜられた。アイヌの土地も大半は剥奪されたうえ、古来の生業である狩猟や漁業も明治政府により事実上禁止され、違反すれば「密漁」として罰せられることになった。

 こうして生活基盤を奪われたアイヌの中には、生きる望みを失う者も出てくる。生活は困窮し、肺結核や和人が持ち込んだ梅毒が多くのアイヌの生活を蝕んでいった。

アイヌの悲惨な生活状況を「改善」させるという名目で、明治政府は1899年、北海道旧土人保護法を公布・施行した。しかしこの法律はアイヌを徹底的に差別し、アイヌの民族性と文化を著しく損なうものでもあった。法律により設立されたアイヌ子弟のための小学校にしても、目的は天皇制国家の忠実な「臣民」となるよう、アイヌ文化やアイヌ語を「撲滅」させることに重点が置かれたようだ。この法律はまた、農業を営もうとするアイヌは優遇したが、漁業などの生業を営もうとするアイヌにはいっさい援助は出なかった。

ただ、大正期に入ると、明るい兆しも見えるようになる。和人による不当な弾圧・差別に抗議するアイヌの魂の叫びが、本の出版などを通じて取り上げられるようになったからだ。これに伴い、アイヌの文化や言語を守ろうとする動きも出てきた。 

 

                  WEB(ブルタニカ百科事典より転記)

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Ainu History   ⑦

2008年07月23日 | 川柳

                 アイヌの歴史 ⑦

1789年、妻を和人に殺されたマメキリを頭にして国後(クナシリ)のアイヌが蜂起、同様に過酷な労働を強制されていたメナシ(アイヌ語で東方の意)アイヌもこれに加わり、交易所や交易船を次々と襲撃、和人71人を殺害した。これに対し松前藩は、総勢260余人の鎮圧隊を派遣、アイヌ軍と対峙した。

事態を収拾するため、国後アイヌの長老ツキノエらがほう起したアイヌに武器を置くよう説得し、交渉による穏便な解決をめざした。ところが松前軍は和人を殺害に加担した38人を特定させ、逃亡した一人を除く37人を見せしめのため処刑、斬首した。このときさらに多くのアイヌが虐殺されたとの説もある。

これがクナシリ・メナシの戦いと呼ばれるアイヌ最後の抵抗であった。これ以後、アイヌは徹底的に管理・弾圧され、山歩きに必要な山刀(タシロ)も取り上げられたという。

当時のアイヌに対する差別と虐待の有様は、旅行家松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』などに詳しく書かれている。

 

          WEB(ブルタニカ百科事典より転記)

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Ainu History  ⑥

2008年07月22日 | 川柳

 

アイヌ・アート・プロジェクト


Koji Yuki


結城幸司氏が中心の札幌に住む若いアイヌアーチスト集団。

アイヌの交易船イタオマチ
の復元を機会に2000年に結成された。
2001年にはカナダでの先住民カヌー大会に4人が参加し
現地で巨大な交易船を完成させた。
イタオマチ
でアラスカ、またはアムール川に行くことが目標。

現在は5家族で共同して木彫りや織布などの作業を行うかたわら
歌や踊りの伝承にも取り組んでいる。



イタオマチプを囲み、アラスカ渡航の構想を練る結城幸司氏(右)ら
アイヌ・アート・プロジェクトのメンバー



エムシリセ(剣の舞)を踊っているとき、
子供たちの目はユーカラの勇者のように強く輝いている。

母親の作ったキモノを着てウポポの中に入ってくる子供たちは
とても自由に文化の中で遊んでいる。

そこにはこむずかしい理屈も差別感もない。

おじさんやおばさん、親たちが一生懸命踊っている。
ぐらついた心にきざんだおじさんたちのリムセは
とても強くカッコいい。

そして子供たちもあこがれて、リムセに入ってくる。


言葉でユーカラを語ることのできない僕らは
この何分間かの踊りでそれを伝え、そして子供たちはそれを選ぶ。


いずれこの子たちも、ゆれる青春の中に迷走するかもしれない。
わずかな時間でしかこの輝きはないのかもしれない。

けれど確実に心に残り、そしてやがて自分で何かを選ぶとき
そこにアイヌ文化は生きている。


アイヌアートのアートとは、自己表現であり自分で考える、
思う、という意味であります。

もちろん、僕らの先祖が残してくれたこの豊かなデザイン学を
大切につなげたいという思いもあります。


差別や悲しみと共に生きてはいけない。

この素晴らしいアイヌ文化とともに
豊かで美しい次世代のために頑張る
と、いう意味で「プロジェクト」と名付けました。


自然体で豊かな意識のもとで
コタンのようにお互いを見つめ合う
育て合うグループでありたい、と考えています。




               結城幸司(アイヌ・アート・プロジェクト代表)










 

         ブルタニカ百科事典より(WEBより転記)

                アイヌの歴史  ⑥

 1456年には、アイヌの若者が和人に殺害されたことをきっかけに、積もり積もったアイヌの怒りが爆発。翌57年、指導者コシャマインに率いられたアイヌ軍は、「道南十二館」のうち十館を陥落させることに成功した。だが、コシャマインとその息子はだまし討ちに会い、射殺される。その後も和人は、アイヌ側が優勢になると、和議の酒宴を開いては、その場で酔ったアイヌたちを討つなどという卑怯な策略を駆使して、支配権を確立していった。

つまり、「桃太郎」以来、「悪い鬼」を退治するために常套手段として使われている卑劣な詭計が、善良なゆえに「愚直」なアイヌに対しても繰り返し行われたのだ。

豊臣秀吉から蝦夷地全島(北海道)の支配権を認可された松前の和人豪族蠣崎慶広は、天下を取った家康にもうまく取り入った。姓を松前に改めて松前藩とし、1604年に家康から「蝦夷地に出入りする商人その他の者は松前藩の許可が必要であり、これを破る者は松前藩の手で処刑してもよい」というお墨付きを得る。

松前藩は道南を「和人地」に指定、アイヌを辺境の「蝦夷地」へ封じ込めた。だが、和人たちはその蝦夷地をも侵食しはじめる。初めは友好を装っていた和人は、アイヌに対し極端に不平等な産物交換を強要するようになる。アイヌ側が強制された数量の物産を納入できないと、罰としてさらに不当な交換を強いて、それも達成できないとアイヌの子供を質に取ったりもしたという。

こうした不当な搾取と圧制に、アイヌは再び怒りを爆発させる。1669年、日高のシペチャリ川(現在の静内川)に城砦を構えたアイヌの統領シャクシャインは、東西のアイヌ二〇〇〇余人とともに一斉蜂起。和人の交易船などを襲いながら、道南へと攻め入った。アイヌの弓に対し松前藩は鉄砲で応戦。攻勢に転じたのを機にアイヌに和議をもちかけ、酒宴を開いた。その酒宴の夜、酔ったシャクシャインは斬られ、アイヌは敗北する。

この結果、松前藩によるアイヌへの搾取と圧制は一段と厳しくなる。アイヌは絶対服従を強いられ、事実上の「奴隷」として使われるようになる。アイヌから収奪されたイリコ(ホシナマコ)などの産品は、中国への貴重な交易品となった。

  (川柳っていいいね!北海道散歩はアイヌの歴史をちょっと辿っています。)

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                         川柳北海道散歩。

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Ainu History  ⑤

2008年07月21日 | 川柳

 

  川柳北海道            アイヌの歴史 ⑤

現在、北方領土問題で日本政府は「北方四島はわれわれ日本人の祖先が開拓したわが国固有の領土」などと称しているが、アイヌの歴史を知っているなら、北方領土がアイヌのものであり、つい二〇〇数十年ほど前に和人が侵略、強奪した島であることを認めざるをえないだろう。真実の歴史を直視する能力があるなら、北方四島はアイヌにこそ返されるべきである。

おそらくアイヌの歴史を知らない人が多いと思うので(私も最近までよく知らなかった)、ニューイングランド(アメリカ)の血塗られた歴史を紹介したついでに、アイヌに対する血塗られた歴史についても触れておこう。

658年に阿部比羅夫による「蝦夷征伐」があったことが知られているが、古くからエゾやアイヌは「まつろわぬ民」として、繰り返し攻撃の対象とされてきた(エゾとアイヌの関係については、同一であるという説と異なるという説がある。いずれにせよ、東北地方にアイヌ語の地名が多く残っていることから、両者は密接な関係があったと思われる)。

『吾妻鏡』などによると、13世紀ぐらいまでは、北海道(夷島)は流刑地扱いされていたようだ。15世紀になると、奥羽地方北部の諸豪族が津軽海峡を渡って北海道に移り住むようになる。和人豪族とその家来、商人らは北海道南部の松前や函館に「道南十二館」と呼ばれる12の砦を築く。

移住してきた和人は、先住民アイヌに鮭、昆布、熊や鹿の毛皮などを獲らせ、それを本州に運んで利益を上げていた。しかし和人はアイヌを「愚直の者」などと呼び見下し、アイヌを脅したり、だましたりして搾取するようになったため、和人とアイヌの間でしばしば抗争が起きるようになった。

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Ainuの残像・・・ほら穴が3つありまして。

2008年07月20日 | 川柳

                   ainu の残像

☆小樽の手宮というところに住んでいた私は、年に数回札幌の親戚の家へ遊びに行くことがありました。

幼い頃は、両親に手を引かれ、石炭を燃料に動くD51という汽車に乗って行きました。

トンネルが近づくと、このD51のもくもくと煙たなびく黒い汽車は「ポオーッ!」と大きな汽笛を鳴らします。

途中、銭函・張碓(はりうす)近くに、車窓から大きな岩の中で生活しているアイヌの方々が三つのほら穴にそれぞれ、三世帯ほど住んでいました?(夏だけ)

       それをいつも見逃さずに、札幌へと向かったものです。

アイヌの方々は、汽車が通りすぎるたび、汽車に乗っている私たちから目をそむけ、ほら穴の向こうに逃げるようにしていました。

そのアイヌの方々の集落も、2つになり、ひとつになり・・・して・・・あの唇のまわりに三日月の形をした入れ墨をしたおばさんたちやこどもたちはどこへ行ったんだろう?・・・と、こども心に心配して淋しく思ったものです。

アイヌという言葉は知ってはいても、その歴史などは学校で習ったこともありませんでした。

けれども、小樽から札幌間の海沿いにも人目を忍ぶように生活していたアイヌの方々の残像だけは、はっきり残っています。

 人生って幼い頃の「不思議な体験の答え」を求め解き明かす旅なのでしようか。

            先人も同じようなことを言っていますね。

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                       川柳北海道散歩。

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