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川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

落とし穴・・・佐藤容子

2007年11月09日 | 川柳
          現代川柳『泥』四号・・・佐藤容子

         ミサイルに似てくる街の消火栓  さとし
         窓ガラス伝わる雨はセロテープ  さとし
         朝露のしたたり天使のコンタクト さとし

 作句に行き詰まった時には、身近なものやことを、もう一度じっくり見直すことである、とよく聞く。

 泥誌の三号で、さとし氏は「川柳は、もう生活の一部分になりきってしまっていると言えるような気がする。
 図書館で本をあさるのも、美術館へ足を運ぶのも公民館活動に参加するのも、結局すべてが川柳に還元されているような気がする。」と述べている。

 彼の作品は、そうした日常の生活へ眼差しを向け、見回すところからスタートしていることがよく解かる。そして、その眼差しに写された情景は時間の経過とともに、独自のフィルターで濾過されて出来上がってゆくのだろう。消火栓がミサイルに見えてくることも、雨の雫が筋になり流れていくようすをセロテープと見ることも、透き通った朝露から天使のコンタクトを連想することも、それらの情景を観察し、別の違った物や質(しつ)を発見している目がある。しかし、これらの作品は、ここで終わってしまってないだろうか。折角、発見した新鮮なはずのものが、読者には何故か新鮮な情景として映って来ないのである。

 視覚で捉えた作品を、視覚に訴える場合には落とし穴があるように思う。どうしても説明句の範疇で終わってしまうという落とし穴である。ミサイル、セロテープ、コンタクトは、確かに発見ではあるが、何故か物足りなさが残る。それはどこか無機質で、乾燥した感情の漂いのようなものを感じてしまうからである。作者の個性や匂いに触れられなかった欲求不満のようなものを抱いてしまうのである。新鮮な発見に、もうひとつ作者のメッセージ性や、思考といったようなもの、あるいは感情的などをプラスすることで、視覚川柳はより深い作品へと昇華されると思うのだが、どうだろうか。

 ところで今回の、さとし作品のほとんどは、不思議なほどに静寂である。感情を抑えたものが目立つ。

 底辺には、反戦、焦燥感、無常観といった叫び声があるにも拘らず、静かなのである。ドスンと読者を揺さぶることのない静かさなのである。何故、怒りを抑えているのだろう。何故、淡々としているのだろう。感情を払拭し、達観してしまった作品に苛立ちを感じてしまった。

 ニヒリズムな影を漂わせながら、もっともっと反骨精神を前面に押し出した作品を期待しているのは、わたしひとりではないだろう。


              林間も人間(じんかん)もじわりと寒気  不凍

 梟も不凍もやみの番人か
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