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独断と偏見・・・池さとし

2007年11月14日 | 川柳
              現代川柳『泥』第四号

 むしろこのほうが、リズムの安定した作品になるのではなかろうか。

          桃を剥く
              指よ
                裏切りはなかったか


          桃を剥く
              指
                裏切りはなかったか


          桃を剥く
              指
                裏切りはなかったのか

 たったひとつの助詞の有る無しで、作品の立ち姿が、百八十度変わってしまうことさえある。

 十七音字という限られた枠だからこそ、一語一字にとことん拘ってという想いが、強く働く。

 賢い作者のこと、こんなことは百も承知のうえで、この表現にたどり着いているのであるとするならば、(一体そのこだわりは、何によるものなのだろう)と、教えを乞わなければなるまい。

           なにを語らんとて喃語をつかうキリン

 この作品を前にして、何度も何度も読み返してみた。

あまり見かけない言葉、喃語が気にかかる。辞書で調べると、意味は、(くどくどしゃべる。男女の語らい。)とある。 ここで、自分自身の感性の貧弱さを思い知らされるのだは、残念ながらイメージが湧いてこない。

        おそらく、読者はこんな気持ちになると思う。

 ひとり歩きをはじめた作品の、受けとめ方感じ方は、千差万別である。とは言いながらも、感じさせるもの、頷かせるものが底を流れていなければ、作品は作者ひとりだけの独善となってしまうに違いない。

 十七音字の極々限られた枠組みの中でだからこその、推敲への拘りは、当然ながらことばの置き換え、選択はもちろんのこと、ひとつひとつのことばを吟味するところから、助詞や助動詞、副詞、形容詞にいたるまで神経は行き届かせることになる。

 才気溢れるばかりの迫品を自由奔放に吐き出す作者に敢えて望むとするならば、自分の中に、もうひとりの自分(外の目)を設定して、目の前に在る作品を常に否定しながら、それに挑む姿勢を大切にしてほしい。

 感情のおもむくままに、一気に果敢に吐く作者に、知・情・意のバランス感覚が付加されたら鬼に金棒、そんな極め付の作品をとの期待は大きい。


                 
コメント
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