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川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

感性の反射。

2007年11月03日 | 川柳
             現代川柳『泥』  石井有人
   (佐藤容子作品)

            立ち上がるたびに零してしまう海

 海水が零れるたびに作品に表情を浮きあがらせ、心の鼓動をなめらかに昂揚させている。地面が海水を洗い、海水が地面を洗う。それはほとんど音楽そのものに煮た心地よいテンポとなって響いてくる。

            醒めた肌から発ってゆく夜汽車
 
 川柳人の想像力は自在であるべきだし、広大であっていい。この句は、言語の世界と現実の世界のギャップを見つめ、そこから生じた苦渋やアイロニーを表出している。作者を沈黙へと導く解決不可能な自問の鎖が、不気味につながっているような気もする。

            夜は透き許すかたちに伸びる爪

 少し整えすぎの表白が気になるが、「許すかたちに」に作者の‘こころ‘を見た。作者の想いは、揺れゆく気持ちを抑える為に、敢えて許すことに徹しようと決めた日から、徐々に救われていったに違いない。

            雨音や詩人にもなれず狂女にも

 容易ならぬ独白であるが、この句の中で真剣に生きようとする作者が心の傷口を映し出している。更に人間の弱さが圧縮されており、自分に対する不信と憎悪、そして嘲笑も入り交っている。ただし表現に安易な側面もみられるので、推敲を願っておく。

   (青葉テイ子作品)

             一蓮托生朝のしじみと砂を噛む

 硬質のタッチに加えて、しじみの吐き出す砂を共に噛むという屈折間が胸に迫ってくる。「私性」が微妙に見え隠れして、陰影感が作品に深みを与えており、人生が加わることで個性が滲み出ている。

            ひとり斬りふたり切り女の午後回る

「斬りかかる」「切りつける」行為とは、川柳そのものに対し、言葉に対し、自己存在や自分の生活に対して、容赦なく過激に挑みかかり捩じ伏せようとする意思の現れであるが、そんな悪い子ぶった精神の背後に、シャイなすがすがしい作者の可愛さも読み取ることもできる。

             誰がいようと砂漠はさばく沖の灯よ

 ノスタルジーをかき立てる作品である。リアルな時間とフィクショナルな時間、実人生
の上でたえまなく生成変化していく時間と、紙の上でいつまでも停滞し続ける時間・・・があるとして、時にはその関係に奇妙な逆転が生じることもある。それをうまく組ませた作品。

             不退転なおとこが下げる頭陀袋
 
 男と女の問題をすでに無意識のうちに解いてしまったかのように詠っているが、下げる頭陀袋に「おとこ」の決意が重く込められている。だが往々にして底に染み込んでいる「おとこ」の見栄も見逃してはならない。

 最後にひと言。少し前より、「大衆川柳論」を力説しているのを見聞きしているが、ならば、「泥」「水脈」「劇場」など現代川柳を見据えている柳誌の充実と連繋更にはその輪が広がっていくことを、切に願っている。

     原流 11月号
             
             死に際の馬のたてがみがそよぐよ    不 凍
             闇を裂く白き駿馬を尖らせて      笑 葉

             水おとろえみな対岸へ率かれゆく    不 凍

対岸は浄土どっちの水もあーまいぞ



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