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落とし穴・・・佐藤容子

2007年11月08日 | 川柳
        現代川柳『泥』第四号・・・佐藤容子

          作品鑑賞と作品評とは、別のものである。

 今回、互いの作品を鑑賞の域を抜けた視点で作品評として書こうということになった。

 作品を斬られることは、ある意味で快感なのだが、いざ斬る立場になると・・・。

はっきり言える事は、作品を斬ることは作者を斬ることではないということだ。

       桃を剥ぐ指よ裏切りはなかったか    テイ子
       禁猟区まぎれ込んだか背が痒い     テイ子
       傷痕に沁みる水の重さと水の刑     テイ子

 テイ子作品には、彼女独特のリズムがある。掲載の三十句中で、定型句は十句ということからも、既に彼女には、あるリズムが確立されていて、それが定着しているように思える。おそらく、こうした形がもっとも心地のよい自然体であり、そうした表現は意識しているものではないだろう。

 しかし、独自のリズム感は、時として読者の呼吸を乱し、拒絶反応を引き起こしてしまう危険を孕んでしまうことがある。17音文字に固執することはないのだが、少なくとも右記の作品については、定型でも支障はなかったのではないだろうかという疑問が残ってしまった。

 例えば、一句目の「裏切り」、は二句目では「禁猟区に」のにの一字をそれぞれ削除し、三句目の「沁みる」を敢えてカットしてみたのだが、作者の思い入れまでも削っては
いないと思うのだが、どうだろうか。字余りにしなければならなかった必要性が感じられないのである。

          ひとり斬りふたり切り女の午後回る  テイ子

 この作品も句意は、充分に分かるし、その情景もしっかりと浮かんでくるのだが、どうも読みにくい。声に出してみると一層その感が強くなってしまう。読者とは身勝手なものである。作者のリズムに追従するからには、それなりの作品を要求してしまうものなのである。そうでなければ、その作品はパスされてしまうだろう。独自のリズムを維持するからには、その必然性を作品で証明するしかない。そうした意味では、この作品には、隙がある。

 リズムの乱れがそのまま作品の乱れになっているように思えてならない。
推敲を重ねるという配慮をいた作品には、良くても悪くても生々しく、作者の人間性が投影されてしまうものである。

 ひとり、ふたりと他者を切り刻んでいる女のワンシーンは単なる報告にすぎない。語呂や感性の豊かな彼女らしからぬ作品にとどまっていないだろうか。

 三十句全てを隙なく作ることはない。また、そのようなことを求めているわけでもない。むしろ所々で息継ぎをしたい欲求が、句数の多い作品集などを読んでいる時に度々感じたりする。一作句者は一読者でもある。どこまで真剣になるか。そしてどこで気を緩めるゆとりを持つかといった抑揚のバランスも読者のサービスとして必要なのかも知れない。
   ただし気を緩めた作品とは、決して推考を省いた作品をいうのではない。

                  生傷の生のまんまへ寒波来る  不凍

 凍らないすべを知ってる傷が生き

            
コメント
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