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楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

自然と科学と人間

2006-07-27 03:26:36 | 科学
 いままたアメリカシアトル行きの機内にいる。昨日はこのアメリカ準備のための地獄の日であった。それでもなお宿題が多く。その隙にこの本を読み切った。私は高木仁三郎なる人物は知らなかった。読んでいて、とくに後半を読んで、この人は反原発運動の理論的柱だと確信した。そしてWebを調べた。すでに2000年に亡くなっていた。そしてやはり反原発運動の中心人物であった。大腸がんでなくなったが、偲ぶ会の開催まで自分で指示していたことを見て本当に驚いた。
 
この著作の前半には限りなく同意する。

自然と人間の関係に対する人間の見方が2つに分かれたという。1つは自然を征服する人間中心主義=科学=進化の頂点たる人類との見方。一方は人間とは大いなる自然の一部でしかないという見方。この見方は還元すなわち単純化が科学の本質か、あるいは複雑なままの、そして繰り返すことの出来ない時の流れを含めた自然そのものを全体としてとらえるのか、の議論につながるものである。
 同意できないのは、高木の議論は限りなく「反科学論」に近いのである。
彼は、自然を全体としてとらえることは良してしても、それを科学の観念的世界の中でやっていたのではだめなのだという。なぜなら科学はすでに権力の側にあるからと。これはあまりにも極端すぎる。
 科学の世界において、「知りたい」という生存の本能に導かれて、膨大な自然の謎の前に「うんうん」いって悩んでいる、そして謎を解く喜びのみを求めて人生を送っている科学者に対して、あんたらは傲慢の権力の側、といってしまってはおしまいでしょう、といいたい。せっかく自然と人間のはざまの中で、いい視点ではじまった著作であったのに、最後は反原発運動をはじめとするエコロジ運動、市民運動を正当化するための論理に落とし込めてしまっていることが残念でたまらない。彼が限りなくシンパシーを感ずるという「自然主義」の方がはるかに優位である。この高木氏の中にも 反原発運動を背負う「ねばならない」が見えてしまうのである。
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