いいね~おいしいね~

食べたり買って良かったもの等を実体験に基づき厳選紹介!ぜひご利用頂きより良い人生や日本経済等活性化につながれば幸いです♪

田季野(福島県会津若松市)の輪箱飯はとてもオススメ!

2017年11月08日 01時00分00秒 | 外食
 とあるゴールドのクレジット会社が毎月発行する会報誌の会津若松の街歩きの特集で、「田季野(たきの)」というお店が紹介されていましたので、あらかじめ予約して行きました♪

 お店は玄関がかなり綺麗で、「元祖 輪箱飯」という暖簾がかかり、生け花もあります♪
玄関が綺麗なお店は美味しい可能性が高いので、期待が高まります♪


↑店構え

 「曲げわっぱ」とは林業が盛んな南会津の檜枝岐村などで古くから山人の弁当の器として用いられてきて今では全国的に有名になりましたが、その器にご飯を盛り、会津の食材を活かした料理を乗せて、せいろで蒸し上げた「輪箱飯」は、この「田季野」が元祖で、今では会津の郷土料理として有名なようです♪

 店内に入るとかなり古い建物ですが、2階が吹き抜けになっていて驚きました♪
大きな提灯もぶら下がっています♪
大きな生け花もありましたね♪
このお店は、200年近く前に建てられた旧陣屋を移築復元した建物とのことです♪


↑1階から2階を見上げる


↑大きな生け花

 中央奥には番頭?が座る席があり、そこに女将が座り客の予約の確認や指図、支払いを行っているようでしたね。
予約した旨を伝えると2階の吹き抜け部分の席を案内され、そのまま靴を履いて2階に上がります。
2階で靴を脱ぎました♪


↑中央奥の2階席


↑2階席

一人で訪れたのですが、予約したにも関わらず最初は靴箱近くの壁に向かって座る何とも侘びしい席を案内されたのは残念でした。
しかしすぐに奥の4人テーブル席に案内してくれて嬉しかったです♪
1階を見渡せます♪
大きな提灯が目立ちますね♪
なかなか良い眺めです♪
それにしても、次々と予約なしの客が現れますが、満席で諦めるか、約1時間待ちとなっていたようです。
「田季野」は予約必須の大人気店ですね。


↑2階から1階を見下ろす♪

 すぐに熱いおしぼりや木のスプーン、箸が運ばれ、テーブルの下のポットから熱いお茶を茶碗に注いでくれます♪
お茶のお代わりは自分でそのポットを使用すれば良いようです。
メニューを見て、あらかじめ頼もうと思っていた「よくばり輪箱飯」2484円を注文します♪


↑メニュー


↑メニュー

「よくばり輪箱飯」は、具がぜんまい、茸、カニ、鮭、イクラ、玉子焼き、筍などと、ふんだんにあるので「よくばり」なようです^_^;)

 かなり時間が経ってその「よくばり輪箱飯」が運ばれました♪


↑よくばり輪箱飯

この「よくばり輪箱飯」は「輪箱飯」だけでなく前菜2品、味噌汁、お新香付きです♪

 さっそく輪箱飯を食べてみますが、想像以上にアツアツに蒸されていて、特にこんなアツアツなカニを食べるのは初めてかもしれません^_^;)
そのアツアツのカニやたくさんの具材がしっとり艶があって非常に美味しくて感動♪
もちろんシャケやイクラも美味しい!

ご飯は会津産のようですがこれも艶がありながらもそれぞれ一粒ずつしっかりとしていて、そして出汁も効いていて美味しい♪
こんなに美味しい蒸されたご飯を食べたのは初めてですね♪
感動しました!!
特に「よくばり輪箱飯」は、たくさんの具材が入っているので、いろんな味も楽しめて良いと思います。
また寒いお国柄なので、このアツアツさが重要なのかもしれませんね。

そのほかもちろん、きゅうりの漬け物や前菜のゴボウと肉を炒めたもの、味噌汁なども上質で美味しかったです♪

「田季野」は築約200年の古く綺麗な家屋を楽しみながら、美味しい元祖「輪箱飯」を堪能でき、とてもオススメです!

美味しかったものまとめ(2017年上半期)

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おおつかようすけ(東京 西麻布)の日本料理はとてもオススメ!

2017年11月07日 01時00分00秒 | 外食
 東京の西麻布にある「日本料理 おおつかようすけ」というお店はこの地に2016年12月にオープンしたばかりなのですが、このお店の近くに住む知人が、いつもこの辺りを歩いていると店主が真面目に店の前を掃除したり考え事をしている姿を見たとのことで、それで3人で行ってみました♪

 確かに店の玄関はかなり綺麗で掃除が行き届いていて、美味しそうな雰囲気醸し出していましたね♪


↑店構え

 予約が平日の18:30にも関わらず18:00頃到着しましたが、がらりとたまたまだと思いますが玄関が開けられ、快く席に案内してくれました♪
靴を脱いでカウンター席に座ります。
カウンター席には6人ほど座れるようですが、今日は3人で独占です♪
そのほか玄関近くのテーブル席には9人ほど予約客が入りました。
この日はこれで満席でしたね♪
人気店のようで、2日に1度ぐらいのペースで来る常連客もいるとのことで、その方たちにも飽きない料理を志しているようです。
店主は福岡県久留米市出身の31歳と若く、九州の食材が多く使われているようです♪

料理はあらかじめ6500円のコースが注文されていました♪


↑コースメニュー

席に着くと冷たくて気持ちよいおしぼりが運ばれました♪
今治タオルでしたね♪
そしてドリンクメニューを見ます♪


↑ドリンクメニュー


↑ドリンクメニュー


↑ドリンクメニュー

 お酒は店主のオススメで、シャンパンとなりました♪
その後は白ワインとなります♪


↑シャンパン


↑白ワインのグラス

まずは前菜が5種類運ばれますが、どれも上質で美味しいです♪
レンコン等を明太子で和えたもの、イクラと茄子、魚の南蛮漬け、お浸し、長芋など♪
夏らしいメニューで嬉しいです♪


↑前菜

そしてアオリイカの刺身がかなり切れ込みが入っているせいかかなり上質さを感じ美味しい♪
岩塩もしくはワサビ醤油で楽しみます♪
無添加な生ウニも美味しい♪


↑アオリイカやウニ

そして圧巻は店主が大好きというもので、ぐつぐつと沸騰している出汁の中に、目の前で揚げ出し豆腐を入れられ、これは食欲を沸き立てられます♪
やはりこの沸騰したアツアツ感が美味しくて、揚げ出し豆腐が素晴らしいです♪
カツオ出汁がよく効いていて美味しいですね♪
これはインパクトがありました♪


↑揚げ出し豆腐

 そして宮崎牛の大きなサーロインステーキが目の前で切られますが、さすが良い焼き加減で、素晴らしい器に乗せられて運ばれます♪
かなり高価な器を用意したとのことで、出世払いのようでしたね^_^;)
サーロインステーキは上質で柔らかく、塩が合いますし、レモンもかけて楽しみます♪
美味しい~♪
もちろんワサビでも堪能しました♪
素晴らしい♪


↑宮崎牛のサーロインステーキ

そしてたっぷりなイクラと漬け物が運ばれます♪


↑イクラと漬け物


↑蓋をした土鍋

そして蓋をした土鍋が運ばれ、その蓋を開けると、サンマの炊き込みご飯が美味しそう♪
ちゃんと蒸らしてあってさすが良い炊き加減です♪
そして茶碗にその炊き込みご飯がよそわれ、その上にイクラを載せたりして楽しみます♪


↑炊き込みご飯


↑イクラを載せる

 実は土鍋で簡単に早くご飯は炊けるとのことですが、これが程よい炊き加減でかなり美味しい♪
このしっとりとしながらもツヤがある食感がとても良いです♪
しかも、おみやげにこれをおにぎりにしてもらうこともできました♪
このサービスはとても嬉しいですね♪

 お味噌汁は大分の麦味噌とのことで、これもまろやかで美味しい♪
厚揚げ豆腐もいい~♪
思わずお代わりをお願いしてしまいました♪


↑味噌汁

 そして店主の地元の福岡県久留米市の梨とのことで、これも黒い素敵なお皿で提供されました♪
梨の白色が映えます♪
もちろん梨は薄い塩水で浸されていましたね♪
美味しい♪


↑梨


そして最後のお茶はもちろん福岡県八女市の八女茶♪
熱いお茶で癒されます♪


↑八女茶

最後までじっくり堪能できましたね♪
店主は始終笑顔で優しく会話も楽しめました♪

「日本料理 おおつかようすけ」は、きれいな店内で、美味しい日本料理を頂け、とてもオススメです♪

美味しかったものまとめ(2017年上半期)

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鶴ヶ城(福島県会津若松市)見学はとてもオススメ!

2017年11月06日 01時00分00秒 | イベント・外出
 福島県会津若松市にある鶴ヶ城は、戦国時代の武将である蒲生氏郷が築城したとして有名なので、行ってみました♪

 会津若松駅近くで自転車を1日500円でレンタルして、さざえ堂の後に鶴ヶ城に行ってみました♪
ちなみに観光客向けに「ハイカラさん」や「あかべぇ」というバスもあり便利なようですね♪
その案内の大きな看板が、鶴ヶ城の東口駐車場近くにありました。


↑会津若松マップ

東口駐車場から廊下橋を渡って天守閣へ向かいます♪


↑鶴ヶ城案内図

さっそく石垣がありますが、かなり綺麗に石垣が積まれていて、これはただの城ではないなということが伺えます^_^)


↑石垣

また堀も大きく、これはかなり巨大な城ですね♪


↑堀


↑堀と廊下橋


↑近づいた廊下橋

緑が多くかなり綺麗です♪
水面も緑で覆われていましたね♪


↑水面も緑

廊下橋を渡って、しばく石垣の横を歩いていると、突然、鶴ヶ城天守閣が現れて度肝を抜かれました♪
5層の天守閣がでかい!
美しい!


↑石垣の横を歩く


↑突然の鶴ヶ城天守閣

この鶴ヶ城は実は1965年(昭和40年)にコンクリート造りで復元したものですが、1868年(明治元年)の戊辰戦争で、薩長らの西軍を相手に5千人が1ヶ月の籠城戦の後に降伏開城し、6年後の1874年(明治7年)に新政府陸軍の命令で建物は解体されたようです。

ちなみに戊辰戦争直後の鶴ヶ城の写真は以下で、砲弾の痕が生々しいです。


↑戊辰戦争直後の鶴ヶ城

 鶴ヶ城の歴史としては、蘆名直盛が1834年にこの地に鶴城として築城し、後に城主となった蒲生氏郷が1592年(天正20年)から2年かけて7層の天守閣をはじめ本格的に大改修を行い、これが幕末に至る鶴ヶ城の基本となったようです。

天守閣の周りを歩くと、いろんな角度で鶴ヶ城を楽しめます♪


↑鶴ヶ城


↑鶴ヶ城


↑鶴ヶ城


↑鶴ヶ城


↑鶴ヶ城


↑鶴ヶ城

入場料410円を支払って天守閣に入ります♪
天守閣の構造は以下となっていました。
残念ながら一層と二層は撮影禁止でした。

入口:塩蔵
一層:鶴ヶ城の歴史と会津の遺産
二層:領主の変遷と国づくり
三層:幕末の動乱と会津
四層:会津のゆかりのせんじんたち
五層:城下町展望

入口には塩蔵とのことで、籠城のために塩を大量に保管していたんですね。
また保存用食料として乾燥したタニシなども備蓄されていたとは意外でしたね。


↑塩蔵


↑塩蔵の説明

それから石垣の種類の説明がありました。
冒頭の石が密着した素晴らしい石垣は「切込み接ぎ」というんですね。
逆に排水ができないため排水口が設けられたとはナルホドです。


↑石垣の種類の説明

一層と二層は戦国時代などの歴史の勉強になり良かったですね。
写真で紹介できないのは残念です。

三層は「幕末の動乱と会津」ということで、大政奉還の辺りから鶴ヶ城開城まで詳しく説明があり、歴史の勉強になりました。

まず、日本地図の東側で全体の流れがありました♪
会津は三方から攻められたということでしょうか。


↑日本地図東側での全体の流れ


↑日本地図東側での全体の流れの説明

歴史的には以下の流れですね♪

1867年10月 大政奉還
1868年1月 鳥羽・伏見の戦い
1868年4月 奥羽越列藩同盟
1868年4月 江戸城無血開城 
1868年5~7月 北越戦争
1868年8~9月 会津戦争
1869年5月 函館戦争

上記のそれぞれの説明がありました♪


↑1867年10月13日 大政奉還の説明


↑1868年1月 鳥羽・伏見の戦いの説明


↑1868年4月23日 奥羽越列藩同盟の説明


↑1868年5~7月 北越戦争の説明


↑新政府軍の進路と奥羽越列藩

奥羽越列藩同盟とは東北で31藩もあったんですね。


↑会津戦争開戦


↑会津戦争の詳細


↑会津戦争 城下の戦い


↑会津戦争 城下の戦いの拡大


↑1868年9月22日 会津戦争で鶴ヶ城開城


↑1874年 鶴ヶ城取り壊し

鶴ヶ城の五層に上がると、綺麗な会津若松の町並みや緑、山並みが広がっていました♪
美しいですね♪


↑鶴ヶ城五層からの町並み


↑鶴ヶ城五層からの町並み


↑鶴ヶ城五層からの山並み


↑鶴ヶ城五層からの町並み


↑鶴ヶ城五層からの町並み


↑鶴ヶ城五層からの山並み


↑鶴ヶ城五層からの本丸広場?


↑鶴ヶ城五層からの櫓?

鶴ヶ城見学は、鶴ヶ城が広大で天守閣が美しいだけでなく、天守閣内では歴史の勉強になり、そして五層からの会津若松市の美しい町並みや緑、山並みを見ることができて、とてもオススメです!

お勧めなお話(2017年上半期)

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「江戸の災害史(倉地克直)」という本はとてもオススメ!

2017年11月03日 01時00分00秒 | 
「江戸の災害史」の購入はコチラ

 「江戸の災害史」という本は、江戸時代の大地震や津波、火山噴火、飢饉、大火事、洪水、疫病など災害についてまとめたもので、特に大地震や津波、火山噴火も昔からよくあり、改めて気をつけなければならないなぁととても興味深い内容でした。

 特に地震は周期的に頻発するようですし、津波も東日本大震災のような広範囲な被害が特に太平洋岸には何度もあり、また火山も富士山や浅間山が噴火し大きな被害を受けたようです。

 また実は気候も温暖期と寒冷期が交互にあり、飢饉といわれる時期はやはり寒冷期だったようです。
 大きくみると西暦900年~1300年は中世の温暖期で、1550年~1880年は寒冷期だったようで、以下の写真のようにその寒冷期の中でも特に1610年~1650年や1690年~1720年、1820年~1850年は非常な寒冷時期だったようです。


↑江戸時代の気候変動

 今は温暖期という認識ですが、今後寒冷期が訪れることをあらかじめ考え、食料確保など考えておく必要があるかと思います♪

そのほか、当時はコレラや麻疹、天然痘など約4年ごとに疾病が流行して死者も多かったというのも興味深かったですね。

「江戸の災害史」という本は、江戸時代の災害やその対策、歴史など学べる良書でとてもオススメです♪

以下はこの本のポイント等です♪

・表1は「日本災異志」に見える災害を種類別に集計したものだ。年代は100年ごとに区分けした。飢饉や疫病は記録が増えるわりに江戸時代の数はそんなに多くない。むしろ8、9世紀の古代の多さが目立つ。律令国家が飢饉や疫病に関心を持っていたことの結果ではあろうが、実際にも多かったに違いない。江戸時代に減少するのは、凶作や疾病への対策が相対的に改善されたことを予想だせる。火山の噴火や津波は江戸時代に多くなる。記録の増加や人々の見聞する範囲が広がったことによるのだろう。地震は古代・中世の多さが特異だ。大風や洪水は江戸時代にむしろ多い。生産活動の広がりや生産条件への関心の深まりが記録の増加につながったのではないか。大河川の下流域での耕地開発が進んだことにより、水害を受けやすくなったということもあるだろう。火災も江戸時代の多さが目立つ。京都は古代以来の都市であったが、江戸時代には江戸と大阪という巨大都市が出現する。各地にも城下町や宿場町・湊町など多くの都市が誕生した。都市は家屋が密集しており、いったん火事になると被害も大きい。基本的には全国的に都市化が急速に進んだ結果だと考えて間違いないだろう。


↑表1

・一般に10~12世紀は、温暖な気候であったと言われている。気温は現在と比べても2~3度も高かったという。それにあわせて、稲作限界が東北地方を次第に北進した。しかしその結果として冷害の影響がまともに現れるようになる。飢饉の原因として長雨や冷夏が増加する。ついで、14、15世紀には気候は気まぐれに変動したが、それでも15世紀までは大雪や寒冬の記録は少ない。全体としては温暖期が続いていた。それが16世紀になると急激に寒冷化するという。以上は日本列島の状況なのだが地球規模で見ても900年~1300年の間は「中世の温暖期」で、それに続く1550年~1880年までは寒冷期であった。この時期には山岳氷河や海氷が最終氷期以降で最も発達しており「小氷期」と呼ばれている。日本列島の江戸時代はまさにこの寒冷期にすっぽり入っている。ただし同じ寒冷期といっても、その中で寒暖は周期的に変動したようだ。歴史気象学では江戸時代の気候変動が図1のように考えられている。これによれば、40~50年の周期で寒冷な時期と温暖な時期とが繰り返していたことがわかる。江戸時代の飢饉として有名なのは「寛永の飢饉」「享保の飢饉」「天明の飢饉」なのだが、いずれも寒冷な気象状況であったことが確かめられるだろう。

・江戸時代の平均寿命は正確には分からないが、19世紀末の日本では、男42.8歳、女44.3歳と言われている。江戸時代も40歳代前半と考えて間違いないだろう。この時代に60歳で「還暦」を祝うことはまれだ。それよりも重視されたのは「42歳賀」で、村に残された「祝儀帳」は「42歳賀」のものが多い。これがだれもがする「歳祝い」の最後だったのだろう。もちろん80歳、90歳まで生きる人もいたが、そういう人は特別で、領主から褒賞される対象だった。

・特に子供は生きにくかった。生まれた子供の半分は5歳までに亡くなった。多産多死であったため、どの家族でも平均すれば子供数は2、3人であった。また出産は危険を伴うため、出産前後に亡くなる女性も少なくなかった。医療・衛生環境、食料・栄養事情などが十分でなかったのは言うまでもない。

・江戸時代の前期には、急激な人口増加と国土開発が起きている。それぞれの動向を追ってみると、人口は17世紀に2倍から2.5倍に急増するが、18世紀は4.5%の減少、19世紀になって8.5%増加する。耕地は、17世紀に1.5倍増加し、18世紀は横ばい、ないし微増、19世紀は再び増加に転じている。ここから、人口も耕地も17世紀末にほぼ飽和状態になったと考えられる。そうした状況のもとで災害が頻発する。つまり江戸時代は災害が社会に特別な意味を与える歴史段階であったのではないだろうか。

・江戸時代の一般的な庶民の家族は単婚小家族と言われる。平均的な家族数は、地方や時期によってやや異なるが、4人から7人程度であった。労働力の中心は1組の夫婦で、子供や老人も相応の働きが求められた。こうした小家族では、夫婦の一方が倒れるとすぐ危機に陥る。耕地が少なく経済的な余裕のない家族ではなおさらであった。大ざっぱに言って、江戸時代中頃の村で、2代、3代を超えて存続する家族は半数ほどであった。あとは潰れるか村から姿を消した。それでも戸数や人口が維持されたのは、余裕のある家族が分家を繰り返したからだ。同族関係が広がり、そうした家族が婚姻で結びつく。その親族ネットワークが家族を支えた。

・織田信長によって緒に就いた天下統一の機運は、豊臣秀吉に引き継がれた。天正18年(1590年)の小田原合戦で後北条氏を滅ぼした秀吉は、その余勢を駆って東北地方を平定し、全国統一を成し遂げる。その5年前の天正13年11月29日に天正大地震が起きている。震源は美濃国中部、M7.8と推定され、広い範囲で活断層が動いた。被害は中部地方全域から近畿地方東部に及んだ。地震列島が活動期に入ったことを知らせる地震であった。

・文禄5年(1596年)6月27日、秀吉は和議のために来日していた明の使節を伏見城で謁見した。このあとの閏7月13日深夜、有馬-高槻構造線を起震断層とするM7.5の大地震が起こる。新築された伏見城が倒壊したことから伏見地震と呼ばれる。豊後国でも7月頃から地震が続いていたが、閏7月9日(12日ともいう)に別府湾を震源とするM7.0の地震が起き、津波が発生した。この津波によって、湾内にあった瓜生島が海没し、別府村も水没したため、のちに西へ移動して再建されたという伝承が生まれている。時期的にみて伏見地震との連動が考えられるが、この豊後地震津波についての同時代資料は残されていないようだ。

・慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いに勝利した家康は慶長8年に征夷大将軍となって徳川幕府を開く。翌慶長9年12月16日、房総半島から九州南部までの太平洋岸に津波が押し寄せ、大きな被害が出た。駿河沖と紀伊水道沖を震源とする東海地震と南海地震が同時に発生したと言われているが、地震像はいまひとつ明確でない。地震による揺れは大したことはなかったようで「津波地震」(地震の揺れは小さいが大きな津波が起きる)の可能性もある。津波の記録としては、四国地方の阿波国鞆浦で津波の高さが約30mにも及んだと伝えられ、宍喰浦では1500余人が亡くなったという。家康周辺の同時代記録である「当代記」は、この津波についての各地の情報を書き留めている。浜名湖の東の舞阪宿では「にわかに大波来て」100軒のうち80軒が流され、多くの人が亡くなったという。伊勢国でも関東でも同じような「大波」が襲った。244年前の康安元年(1361年)6月24日に摂津国難波浦でも同じようなことがあったと記録者は「太平記」の記事を引く。

・慶長16年には、東北地方で地震が連続する。まず8月21日にM6.9の会津地震が起きる。若松城の石垣がことごとく崩れ、天守も破損した。領内の潰家は2万余戸、死者は3700人にのぼったと伝えられる。地震の揺れにより領内各地で山崩れが発生し、会津盆地を流れる大川は土砂でせき止められた。村や耕地が水没し「四方七里(約28km)」という山崎湖が出現した。この湖の水を抜いて耕地を復元するために会津藩は30年以上を要したという。

・ついで10月28日に三陸地方で地震津波が発生する。M8.1。地震による被害の状況はよく分からないが、津波の被害は甚大で、仙台領では溺死者1783人、牛馬85匹溺死と伝えられ、駿府記には南部・津軽地方の海辺で人馬3000余が溺死したと記されている。

・元禄16年(1703年)11月23日午前2時頃、M7.9~8.2と推定される巨大地震が関東地方を襲った。相模トラフ付近で起こったプレート境界地震で、震源域は相模湾から房総半島沖にまで及んだと考えられている。このため房総半島では激しい地殻変動が起こり、南端で6mほど隆起したのに対して25km北では1mほど沈降したという。土砂崩れも各地で発生している。地震の直後には津波が起き、相模湾から房総半島で10mを超えた。東京湾の浦安や江戸品川でも2mの津波があった。小田原藩領は、地震・津波のうえに城下で起きた火事による被害が甚大であった。死者は約2300人、全潰家屋は8000軒を超えた。このほか、鎌倉では約600人が流死、伊豆半島の伊東でも約780人が流死、とりわけ宇佐美村では380余人が犠牲になったという。伊豆大島でも10m前後の津波があり、北部の岡田湊では58軒が流失、56人が流死と記録されている。江戸での被害は大きく見えないが、それでも家屋や土蔵の倒壊によって300人以上の死者が出ている。むしろ地震から6日後の11月29日に起きた大火によって、より多くの犠牲者が出た。死者は3000人にのぼるという。房総半島は津波の被害が甚大であった。長生村一松の本興寺にある2m近い大位牌には700人近い戒名が書かれている。その本山にあたる茂原の鷲山寺の供養塔には、「一松郷845人」をはじめ他の9か村をあわせて溺死者「2550余人」と記されている。いずれも九十九里浜の低地に広がる村々で、家も人も津波に洗い流された。安房郡真浦村では、地震による山崩れで28人が死亡、津波では80余人が溺死した。

・元禄地震の記憶も生々しい宝永4年(1707年)10月4日、関東地方から九州地方にかけての広い範囲で大きな地震があった。南海トラフ沿いに起きたプレート境界地震で、最近の研究では、震源域は西は四国沖から東は御前崎沖までの広範囲に及ぶものであったと推定されている。M8.6、歴史地震として最大級のものであった。地震後、九州西部から東海地方まで津波が押し寄せている。紀伊半島では、熊野灘側で10mを超える津波が押し寄せた。紀伊長島では町中が流され、500余人が流死した。尾鷲5か浦でも500軒以上が流失、530余人の流死者が出ている。紀伊水道側でも津波は6~7mに及び、湯浅村・広村は「惣海」となり、湯浅で50人、広で600余人が流死した。印南浦では300人以上、富田川河口周辺で87人、周参見浦で134人が溺死した。阿波国でも南部が大津波に襲われた。宍喰浦で11人、浅川浦で170余人、牟岐浦で100余人がそれぞれ流死、家はいずれも残らず流された。最も被害が大きかったのは土佐国である。藩が幕府に報告したところでは、亡所の浦61、半亡所の浦4、亡所の村42、半亡所の村32、流家1万1167軒、潰家5608軒、破損家1000軒余、損田畠4万5657石余、流失破船768艘、怪我人926人、死人1844人、死牛馬548匹、城下町の過半が潮入りとなった。豊後水道の両側では、リアス式の海岸部で津波被害が大きくなった。伊予国では宇和島藩領で流失家屋257軒、流死8人、城下も潮入りとなった。日向国では延岡藩領で5人、豊後では佐伯藩領で23人がそれぞれ流死している。大阪では三郷で1061軒が倒壊、534人が亡くなった。地震から2時間後くらいに津波が川口から逆流し、湊に係留されていた大船が道頓堀や日本橋まで押し上げられた。流失した船は300艘、流死者は1万人を超えたという記録もある。名古屋の朝日定右衛門はやはり全国の状況を収集している。大阪と東海道筋の宿場の状況が詳しい。遠江では白須賀・新居が残らず潰れ、宿場の半分は海に没したという。

・宝永大地震から49日後の11月23日午前10時頃、富士山が噴火した。宝永地震の翌日である10月5日午前6時頃に富士山東麓でM6.5程度の大きな余震が起きており、大地震が噴火の引き金になった可能性は高い。当時の人々も、地震と噴火を関連づけて意識していた。噴火は10日以上続き、麓には焼け石が降り、須走村では75戸のうち37戸が焼け、他の家もすべて倒壊した。火山灰は西風に乗って房総地方にまで広く降り積もった。この噴火で最も大きな被害を受けたのは小田原藩であった。小田原藩は、元禄地震津波で壊滅的な打撃を受けた直後であったから、事態は深刻であった。

・疫病が流行する要因にはさまざまなことが考えられる。自然条件や飢饉などが原因である場合もあるが、都市への人口集中とそれにともなう衛生環境の悪化が流行広げる場合もあるだろう。もちろん医療の発達や普及の程度は、疫病の流行に直接に関係する。こうしたことを考えると、江戸という時代は疫病が流行しいやすい状況であったということができる。多いのは、麻疹・疱瘡・赤痢・疫痢・風邪(流感)などで、これらは免疫の関係があるのだろう。周期的に流行する。おおよそ4年に1度の割合で何らかの疫病が流行したことになる。享保期はほかの時期よりも疫病流行が目に付く。まず享保2年(1717年)から6年にかけて諸国で麻疹が流行した。ついで享保8年から10年にかけては、東海道筋から始まった疫痢が諸国で流行。享保15年には再び麻疹が流行し、享保17年、備中・備後あたりから狂犬病が広がり始め、元文元年(1736年)まで各地で大流行した。「生類憐れみの令」が撤回されて以降、都市部で野犬が野放しになっていた。このころから岡山藩では城下で定期的に野犬狩りをするようになる享保18年には「カナツチ風邪」が流行する。インフルエンザ(流感)の一種と思われ、高熱を発して金槌で叩かれたような頭痛がするのだろうか。大阪では30万7415人が患ったという。

・享保10年代は寒冷な気候が続き、大雨や洪水も少なくなかった。享保17年(1732年)は5月から長雨が続き、閏5月には九州地方で洪水となった。その後は一転して干ばつとなるが、気温は上がらなかった。6月の初めころから九州地方で虫(ウンカとみられる)の被害が目立ち始める。虫害による享保の飢饉が始まった。7月半ば頃には九州や四国西部ではほとんどの稲が枯れ死する。このころから疫病に倒れる牛馬が多くなり、狂犬病も流行した。

・享保飢饉の被害情報をまとめたものだが「平年比」の欄にはこの都市の年貢収納状況を示している。それを見ると、九州では筑後・肥前・豊前で10%に満たない藩があり、平戸新田藩と対馬藩は皆無であった。四国では伊予が深刻であった。松山藩・松山新田藩は皆無、小松藩・宇和島藩も平年の10%ほどにとどまった。また、餓死者は1万2172人、飢人は184万2783人になる。しかしこのうち餓死者はかなり低く見積もられていると感柄れ、30万~40万人は下らないと思われる。

・安永9年(1780年)には能代地方の山田十太郎が「菜種作り方取立ヶ条書」を著す。十太郎は秋田のような寒冷な国でも生育し利益のあがる作物として、菜種油の原料となる蕪菜と油菜に注目する。そして自ら数年間栽培して工夫を重ね、その成果をこの書にまとめた。蕪菜や油菜は、農家の家計の足しになるだけではない。救荒作物になると十太郎は言う。葉は間引いて野菜となり、漬け菜や干し菜にすれば不意の食料にもなる。根は大根と同じように飢饉のときに命の助けとなる。常日頃から農業技術の改良に努める。その際には、凶作飢饉の備えを忘れない。そうした村の指導者たちが東北地方にも現れる。

・江戸時代には家族数を制限するために、堕胎や間引きの風習が行われていた。厳しい条件の中で生活する庶民にとって、それはぎりぎりの選択であった。しかし領主にとっては年貢収奪の基礎となる「家」や人口の維持に悪影響を与えるものと認識された。領主が間引き禁止を教諭した早い例は、寛文3年(1663年)の会津藩保科昌之によるものである。仙台藩では元禄4年(1691年)に「赤子押返し」禁令が出されている。民間で間引きは「押返し」と言われていた。殺すのではなく、あの世に押し返すという意味だろう。

・享保の飢饉で「国役普請」が中断されて以降も洪水の被害は途切れることはなかった。寛保2年(1742年)8月1日、関東各地で洪水が発生。江戸でも城下が浸水し、溺死者が2000人も出たという。幕府は関東川々の御手伝普請を、熊本藩細川・萩藩毛利・津藩藤堂・岡山藩池田・福山藩阿部の各氏に命じた。さらに延享4年(1747年)には、大井川・天竜川を高知藩山内・福岡藩黒田の両氏に、富士川・安倍川・酒匂川を久留米藩有馬氏に、甲州川々を鳥取藩池田・岡藩中川の両氏に、美濃国川々を二本松藩丹羽氏にそれぞれ命じている。このうち鳥取藩は甲斐国内の釜無川・笛吹川の修復、および信濃国境までの道橋修理を担当した。藩が負担した費用は総計5万両。そのほとんどは、鴻池家など大阪の商人からの借入金でまかなわれている。御手伝普請の費用を負担するために領内外の豪商から借金するという事情はどの藩でも同じであった。さらに宝暦3年(1753年)8月には美濃地域で大洪水が起きる。幕府はこの機に、かねてから懸案だった木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる美濃三川の分流工事を実施することにし、この工事の御手伝を鹿児島藩島津氏に命じた。藩では家老を惣奉行に家士から歩行・足軽まで総勢947人を現地に派遣した。工事は宝暦4年に始められ、翌年までかかっている。

・「天明の飢饉」は、江戸時代で最大の犠牲者を出した飢饉であった。飢饉後の人口は、どの地域でも江戸時代の最低を記録する。各地で食料を求める打ち壊しが起こり、打ち壊しが領主や富裕者の施行を引き出すという「慣行」も広まった。飢饉を通じて、地域を単位とした新しい救済システムが模索されるようになる。飢饉の原因の一つに、直前に起きた浅間山の噴火があった。

・浅間山は現在でも活発な活動を続ける活火山の一つだ。歴史上も何度か大噴火を繰り返しており、江戸時代でもその活動が衰えることはなかった。天明3年(1783年)4月9日浅間山が噴火した。麓の村では家が地震のように揺れた。それから1か月半ほどは平穏に過ぎたが、5月26日に再び噴火、3日間続いた。6月17日に3度目の噴火、その後は断続的に噴火が続き、29日からは連日となった。7月6日は昼過ぎから爆発が続き、夕方から夜にかけてさらに激しくなった。麓の村人たちは避難を始めた。降灰は関東一円に広がった。7日は北斜面で火砕流が発生、夜から翌8日朝にかけて噴火は最高潮に達した。中山道の軽井沢や沓掛の宿場に火石が降り、多くの家屋が焼けた。昼前北麓で発生した火砕流は上野国吾妻郡鎌原村を直撃、瞬時に村を呑み込んだ。犠牲者は477人。小高い観音堂に逃れていた老人・女・子ども93人が助かった。さらに流れ下った火砕流は吾妻川に流れ込み、泥流となった。土砂が降り積もっていた吾妻山では山津波が起こり、群馬郡南牧村・北牧村・川島村が壊滅して2480人余が亡くなった。山津波は村々を押し潰して大量の土砂を利根川まで流し込み、各所で洪水を引き起こした。前橋周辺では1500人ほどが亡くなった。9日になって噴火はようやく沈静に向かう。

・元禄文化と化政文化にはさまれた18世紀後半の宝暦・天明期の文化を「宝天文化」と呼ぶことにしよう。「江戸っ子」の文化も「宝天文化」に始まる。「江戸っ子」の美意識を「いき」という。哲学者の九鬼周造は、それを「あか抜けして張りのある色っぽさ」と定義した。「あか抜けして」というのは、洗練されていることであり、その道に通じていること。道を知らないのが「野暮」、通じてもいないのにこだわるのが「半可通」だ。道に通じた者は、こだわりがなく、あっさりしている。九鬼はそれを「諦め」と表現している。「張りのある」というのは、自己を貫き通す意気地のあること。「色っぽさ」というのは、男であれ女であれ魅力的であることだ。「宵越しの金は持たぬ」は、「江戸っ子」の信条。「その日稼ぎ」の生活実態に合っており、一見刹那的にも感じられる。「火事と喧嘩は江戸の花」と言われ、災害の頻発する時代。「一寸先は闇」に違いない。そんななかを精一杯生き抜く「意気地」とある種の「諦め」。それが「色っぽい」。「無為」と「諦め」に裏打ちされながら、精一杯自己主張する人々。「宝天文化」のきらめきは、そんなコンセプトで読みとれないだろうか。

・島原半島の雲仙普賢岳は、現在も活動を続ける有数の活火山だ。平成3年(1991年)6月の噴火による火砕流で43人の犠牲者が出たのは記憶に新しい。江戸時代では、明暦3年(1657年)・寛文3年(1663年)と続けて噴火した後、しばらくなりを潜めていた。それが寛政3年(1791年)10月ころから鳴動を始め、翌寛政4年正月からは噴火を繰り返すようになった。3月1日には地震が頻発、島原城や城下に被害が出た。このため藩主一族や家臣は半島北西端に近い守山村に避難した。4月1日大きな地震が2回起きた。これによって島原城下町背後の前山(眉山)が崩落、崩土は城下町や村々を飲み込み、海に流れ込んだ。崩落により前山は150m低くなり、海岸線は800m前進した。海中に流入した土砂によって多数の小島が生まれ(九十九島)、津波が発生した。津波は有明海を3度往復し、島原地方だけでなく、天草地方や対岸の熊本藩領にも大きな被害をもたらした。そのため、この津波のことを「島原大変肥後迷惑」という。死者は島原領で10,139人、天草で343人、肥後3郡で4,653人。

・熊本藩では、享保の飢饉以降、人口が減少し、不耕作地が増大するなど、農村の荒廃が進んでいた。これにより藩財政も窮乏した。こうした状況の改革に乗り出したのが、「明君」と呼ばれた細川重賢であった。重賢による改革は堀平太左衛門を大奉行に抜擢して推進されたもので、当時の年号をとって「宝暦改革」と呼ばれる。その内容は次のようであった。
①大阪御用達へ廻米売却などを委託するとともに、大阪で資金調達を行うこと。
②櫨・楮などの生産を奨励し、それらの領外移出を禁止して、櫨方・紙楮方による専売制を行った。
③「地引合」を実施して、帳簿上の耕地と実際との差異を把握し、実態に即した確実な年貢収納を目指した。
④金融活動を通じた商人からの上納金の増加を図る。
⑤藩校時習館を創設し、家臣の綱紀粛正と人材登用を進める。医者の再教育機関として再春館を設けるとともに、藩営の薬園を作って、薬草の普及に努めた。
この改革により藩財政は一時回復する。しかし、その成果も長続きしなかった。熊本藩ではその後も「改革」が繰り返される。しかしそこではいつも「宝暦改革」への回帰が目標とされ具体的な施策もその枠を出るものではなかった。そして天明の飢饉である。熊本地方でも天明4年(1784年)の春麦から不作で、おまけに疫病も流行した。くわえt熊本藩は幕府から関東諸川修復の御手伝を命じられる。先に触れた浅間山噴火からの復興を目指す普請である。この負担が藩から飢饉に対処す余力を奪った。天明6・7年には米価が高騰し、熊本城下で打ち壊しが起きる。さらに翌天明8年には禁裏造営のための上納金20万両が課せられた。

・18世紀は、打ち続く災害のために、全国的に人口が停滞もしくは減少した。年貢を納められない百姓は耕作権を手放し、小作や諸稼ぎなどで生活を支えたが、やがて堪え切れなくなって、村の中から姿を消した。年貢不納者に貸し金をし、土地を集積して地主になる者もいた。年貢未納のまま欠落(かけおち)した者の耕地などは、村の責任で耕作して年貢を納める惣作地になった。

・18世紀の後半以降、地域の富裕層の存在感が増すことは、こえまでもたびたび触れている。熊本藩でも、「宝暦改革」以降、「御家人」や「在御家人」の制度化と活用が進んだ。「御家人」というのは、戦国時代の地侍に出自を持つような百姓を取り立てて、地域行政の末端に組み込もうとするものであった。また「在御家人」は「寸志」献納などにより褒賞されて苗字・帯刀を許された地域の有力者である。この両者は、「家中」を構成する家臣とも一般の百姓・町人とも異なるいわゆる「中間層」であった。初めはその出自から両者は区別されていたが、やがて「在御家人」に一本化される。藩では、惣庄屋のもとに「在御家人」を結集させることで、家中の役人を減少させ地域行政を民間に委託する方向を進めたと評価されている。惣庄屋は20か村程度からんる手永を管轄する役人で、他地域での大庄屋などと同じような存在であった。

・寛政5年(1793年)1月7日、三陸磐城地震津波が起きる。M8.0~8.4。大船渡では2.7mの津波があった。全体で潰れたり流失したりした家が1730軒余、死者は44人以上であった。
 寛政11年5月26日、金沢地震。M6.0。金沢の北東に延びる断層の活動によるとみられている。金沢城下で、潰家26軒、損家4169軒、その他領内での潰家964軒、損家1003軒、死者は全体で21人であった。
 文化元年(1804年)6月4日、象潟地震。M7.0。名所として知られた象潟は、隆起して陸や沼となった。酒田では液状化によって地割れが起こり、井戸水が噴出した。潰家5000軒以上、死者は300人を超えた。
 文化7年8月27日、男鹿半島地震。M6.5。潰家1003軒、損家787軒、死者は57人とも163人ともいう。各地で地割れにより泥が噴出、八郎潟の西岸が1m近く隆起した。
 文政2年(1819年)6月12日、近江地震。M7.0~7.5。近江八幡で被害が大きく、潰家107軒、半潰家131軒、死者は5人であった。また、膳所では50軒が倒壊し、90人の死者が出たという。ほかに尾張・若狭・大和・摂津でも被害があった。
 文政11年11月12日、越後三条地震。M6.9。液状化により多くの家が倒壊した。潰家1万2800軒余、死者は1600人余。三条町では地震後の火災で1000軒以上が焼失した。被害地は、高田藩・長岡藩・村上藩・高崎藩・桑名藩(飛び地)・新発田藩などの領地にまたがっており、各藩では被災者に扶持米を支給するなど救済に努めた。
 天保4年(1833年)10月26日、庄内沖地震津波が起きる。M7.5。秋田・本庄・酒田・鶴岡などで潰家多く、死者は全体で100人近くになった。蝦夷地から隠岐まで広く津波が寄せ、波高は庄内で最大8m、佐渡5m、隠岐2.6という。
 この時期も日本列島は地震活動の活発な時期であった。文政13年は3月頃より、上方や四国から伊勢を目指す人々が目立ちはじめ、たちまち御蔭参りの大流行となった。前回の明和の御蔭参りから60年目にあたっていた。着のみ着のまま金銭も持たずに参詣する人に、各地で施行が行われた。大阪では徳島藩主や豪商鴻池による施行もあった。この年の参詣者には女・子どもが多く、異性装や異形の出で立ちの者も目立った。一行には「解放感」があふれていた。参詣総数は江戸時代最大の427万6700人を数えた。この年7月2日に京都で地震。M6.5。京都で死者280人という。頻繁な余震が続いた。12月10日、「天保」と改元される。

・文政末年から天保初年にかけて、東北地方では不作の年が続いていた。とくに天保3年(1832年)の冷夏の影響は大きく、飢饉必至の状況となった。天保4年になると春から在地を離れて流浪したり、餓死する者が増加する。以後、天保9年までほぼ連年凶作・飢饉が続いた。いわゆる「天保の飢饉」である。この飢饉は数年間に及んだが、凶作・飢饉の程度は地域や年度によってまちまちであった。餓死者数は明確ではないが、菊池勇夫は10万をくだることはないとみている。

・飢饉の深まった天保7年(1836年)は天保年間でも最も多く騒動が多く起きた年であった。全国各地で一揆98件、打ち壊し31件が知られている。翌天保8年2月19日、元大阪町奉行所与力で陽明学者としても知られた大塩平八郎が「救民」の幟を立てて蜂起した。事件は半日足らずで収束したが、参加者の摘発は峻烈を極め、処罰者は武士30人、百姓640人に及んだ。この事件にはいくつかの新しい特徴を認めることができる。一つは、従来の一揆や打ち壊しとは異なって、大砲なども使った武力蜂起であったこと。大塩勢の攻撃対象や要求は従来の騒動と異なるものではなかったが、火器の攻撃で町中に大火災を引き起こしたことなど、社会的混乱そのものを目的としたような行動は、明らかに従来とは異なっていた。当時の社会には、打ち壊しが施行を引き出すという慣習がシステムとして埋め込まれていたが、大塩の行動はそのシステムの作動を目的にしたものではなかった。むしろ、その破壊を狙ったものだと言えるかもしれない。この事件が「乱」と呼ばれるのはそのためだろう。「大塩蜂起」の風聞は、たちまちのうちに東北から九州の果てまで広がった。それだけ衝撃的な事件であった。実際の騒動にも影響が現れる。4月に備後三原で起きた一揆では、「大塩平八郎門弟」の幟が掲げられた。6月、越後柏崎の国学者生田万が「大塩与党」を名乗って蜂起する。7月には摂津能勢で「徳政大塩味方」を称する一揆が起きている。やはりその衝撃は計り知れないものであった。

・嘉永6年(1853年)6月3日、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航、外交・通商を求める大統領の親書を手渡した。ここから幕末維新期の動乱が始まる。同じ年の2月2日、小田原地震が発生。M6.7。潰家1088軒、半潰2304軒、死者24人の被害が出た。山崩れ341か所。箱根山中の東海道は崩れて3日間通行が途絶えた。翌嘉永7年、再来日したペリーとの間に「日米和親条約」が結ばれる。幕府も諸藩も「海防」に追われるようになる。同年6月15日、伊賀上野地震。M7.0~7.5。伊賀・伊勢・近江を中心に、潰家5787軒、半潰9138軒、死者1308人。東海・北陸から中国・四国まで広い範囲で揺れを感じている。
 同じ嘉永7年11月4日午前10時頃、駿河湾から熊野灘までの海底を震源域とする巨大地震が発生した。その約30時間後の5日午後4時頃、今度は紀伊水道から四国沖を震源域とする巨大地震が続いて起きた。駿河トラフと南海トラフで連動して起きたプレート境界地震で、いずれもM8.4と推定されている。地震後、関東から九州までの広い範囲で大津波が押し寄せた。4日の地震では、東海道筋の城下町や宿場町が大きな被害を受けた。山間部では各所で山崩れが起き、富士川では白鳥山の崩落で流れがせき止められ、その決壊によって河口部で大洪水となった。熊野地方の海岸には10mを超える大津波が押し寄せた。5日の地震では、瀬戸内海沿いの町々でも家屋の倒壊や城郭の損壊が相次ぎ、紀伊半島や四国はやはり10mを超える大津波に襲われた。津波は瀬戸内海や豊後水道にも及んでいる。この地震では、宝永地震が想起され、その教訓が生かされて被害をくい止めたところも少なくなかった。紀伊長島浦では、宝永津波で500余人の流死があったが、今回は480軒余が流出したものの、流死人は23人にとどまった。土佐の萩谷や須崎でも昔の言い伝えや記録があったため、それに思い至って我先に山手へ逃げ登って、けが人もなく無事であったという。阿波浅川浦では、宝永津波後に供養のために地蔵尊石像が作られ、経験が伝えられていた。そのため村人たちは用心していて被害はなかったという。この両度の経験を伝えるために浅川浦では改めて石碑を建立した。

・打ち続く災害に、嘉永7年11月27日、「安政」と改元された。そのため、この年に起きた東海・南海地震も、一般にはこの「安政」の年号を付けて呼ばれている。翌安政2年(1855年)10月2日、江戸を中心にした大きな地震が起きた。東京湾北部の30~50kmの深さで起きた直下型地震で、M7.0~7.1。江戸では元禄地震以来の大地震であった。特に軟弱地盤の下町で家屋の倒壊が目立った。その数は1万4346軒、死者は約1万人と推定されている。地震直後に市中30カ所以上で火災が発生した。吉原はほぼ全焼し、遊女や客など1000人余が死亡したという。地震が起きたのが午後9時過ぎの夜間であったために被害が大きくなった。大名屋敷も大きな被害を受けた。

・安政3年(1856年)7月23日、八戸沖を震源とする地震が起きた。M7.5。北海道から三陸海岸で津波が発生した。盛岡藩で潰家100軒、流失家93軒、溺死26人であった。八戸藩や仙台藩でも流死者が出た。
 安政4年8月25日、芸予地震。M7.0程度。松山藩や今治藩で数人の死者。呉や岩国でも家屋が倒壊した。
 安政5年2月26日、飛越地震。M7.0~7.1。長大な活断層である跡津川断層沿いに319軒が全潰、302人の死者が出た。地震で山崩れも各所で起きた。その最大のものは立山の大鳶山・小鳶山の崩落によるもので、岩屑が麓の集落を埋め、常願寺川をせき止めた。
 同年3月10日、信濃大町付近を震源とする地震が発生。M6.0程度。大町周辺で全潰71軒、半潰266軒、160か所で山崩れが起きた。この地震で飛越地震でできた常願寺川のせき止め湖が決壊、富山平野は大洪水となり、流失家1612軒、溺死者140人余の被害となった。これまでの例からもわかるように、内陸を震源とする地震では、土砂崩れとそれによる二次災害に警戒する必要がある。

・同じ安政5年(1858年)の6月から長崎でコレラが流行、またたく間に全国に広がった。コレラはコレラ菌によって引き起こされる伝染病で、罹患して急死する者が多いことから「コロリ(虎狼痢)」と呼ばれた。1817年インドから世界的な大流行が始まったといわれ、日本では文政5年(1822年)に最初の流行が起きている。安政5年は7月に江戸で流行が始まり、1か月に1万2000人以上が亡くなった。江戸の死者総数は10万人、大阪も3万人を超えると言われている。流行は文久元年(1861年)まで4年間にわたった。

・コレラ騒動の収まった文久2年(1862年)、今度は麻疹が大流行する。麻疹は20年から30年ごとくらいに流行を繰り返していたが、今回は天保7年(1836年)以来26年ぶりの流行であった。流行の始まりは長崎で、6月には江戸でも死亡者が出始め、8月までに1万2000人余が亡くなったという。安政5年(1858年)に将軍に襲職した徳川家茂と、その正室で文久元年に嫁いだばかりの和宮も罹患した。麻疹流行で物価も騰貴する。幕府は食料や薬種値段の引き下げを命じるとともに、富裕者に金米や薬の施行を訴える町触を出した。町会所は備蓄米を放出して貧民に配った。町々では、「疫病神」を送ると称して、山車や踊りを出して臨時祭礼が催された。「世直り」を待望する意識が広がる。

・麻疹と並んで幼児の死亡率を高めていたのは疱瘡(天然痘)であった。イギリスのジェンナーが牛痘を使用した予防接種法を発見したのは1796年のことだが、それが長崎に伝えられたのは嘉永2年(1849年)であった。その後ただちに江戸の伊東玄朴、京都の日野鼎哉、大阪の緒方洪庵が種痘を実施した。安政5年(1858年)大阪に除痘館、江戸に種痘所が幕府の援助で開設され、地方でも在村の開明的な医者たちの努力によって急速に普及した。

良かった本まとめ(2017年上半期)

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「豆香洞コーヒー(福岡県大野城市)」のコーヒーはとてもオススメ♪

2017年11月01日 01時00分00秒 | 外食
 福岡県大野城市の西鉄白木原駅すぐにある豆香洞(とうかどう)コーヒーは、以前読んだ「コーヒーの科学」という本で、2013年にコーヒーの焙煎の世界大会で日本代表として出場し優勝したということなので思い切って行ってみました♪


↑店構え


↑店外のメニュー

店内はかなり綺麗で、静かにクラシックのBGMが流れていました♪


↑店内

一人だったので奥のカウンター席に案内されました♪


↑カウンター方面

東京から本を読んで世界一になったと知ったので来たことをお店の方に伝えると、喜んでくれてこのお店のチラシをくれました♪

それによると「豆香洞コーヒー」は2008年にオープンし、以下のように徹底した選別や適正な焙煎、新鮮であることを目指しているようで、素晴らしいです♪

・農作物である生のコーヒー豆には虫食い豆や発酵豆、カビ豆など、味を濁らせる原因となる豆が少なからず含まれています。豆香洞コーヒーでは世界中から取り寄せた最高級の生豆を焙煎前に2~4回、焙煎後に1~4回チェックして、悪い豆は手作業で全て取り除いています。手間はコストはかかりますが、お客様に安心して飲んでいただける美味しいコーヒーを作るためには欠かすことのできない行程と考え、徹底して取り組んでいます。

・確かな技術を持った職人が、高性能焙煎機「マイスター5」を使い、豆の個性を最大限に引き出す焙煎度合いを見極めながらじっくり丁寧に煎り上げています。芯までしっかりと火が通り、ふっくら仕上がったコーヒーには変な渋さや刺すような酸味、後引く苦みはありません。

・コーヒー豆は「生鮮食品」です。どんなに良質のコーヒーでも時間がたてば「香りの無い」「酸化した嫌な味わい」の悪いコーヒーになります。焼きたての豆だけが持つコーヒー本来の豊かな香りと優しい味わいを楽しんでいただけるように徹底した生産・鮮度管理を行っています。お客様が実際に召し上がるまでの時間も考えてまだまだ十分美味しくても焙煎より10日過ぎた豆は販売しておりません。

そしてメニューを見てどのコーヒーにするか考えます♪


↑メニュー

メ ニューにないものとしては「エチオピア グジ ハイレセラシエ」と「グアテマラ プエブロヌエボ ブルボン」があるとのことで、非常に悩みましたが「エチオピア グジ ハイレセラシエ」を選びました♪
甘みがとてもあって香りが良く、苦みがあまりがないためです♪


↑メニューにはないコーヒー2種類

後ろの壁側を見ると、アラビカコーヒーの世界の歴史的な流れのポスターがあり、なかなか興味深いです♪
大航海時代ですね♪


↑アラビカコーヒーの世界の歴史的な流れ

コーヒーは丁寧に1杯ずつ時間をかけて作られクッキーとともに運ばれました♪
カップはノリタケで、さすが美しいですね♪


↑エチオピア グジ ハイレセラシエ

さっそく、まずは香りを楽しみますが、おぉぉ初めてのフローラルな香りがします♪
そしてコーヒーを飲んでみますが、確かに酸味を感じ、上質な感じがしますね♪
美味しいです♪
甘いクッキーとともに、ゆったりとコーヒーを堪能しました♪

豆香洞では、焙煎の世界大会で優勝したコーヒーを味わえ、とてもオススメですね!!

美味しかったものまとめ(2017年上半期)

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