goo blog サービス終了のお知らせ 

いいね~おいしいね~

食べたり買って良かったもの等を実体験に基づき厳選紹介!ぜひご利用頂きより良い人生や日本経済等活性化につながれば幸いです♪

「ラーメンの語られざる歴史(ジョージ・ソルト)」という本はとてもオススメ!

2016年11月11日 01時00分00秒 | 
「ラーメンの語られざる歴史」の購入はコチラ

 「ラーメンの語られざる歴史」という本は、1880年代に中国から日本に当時支那そばと呼ばれたラーメンが入ってからの歴史について詳しく、分かりやすく、その背景も含めてまとめたものです♪

具体的には以下となります。

第1章:日本ラーメンの誕生可能にしたのは、1870年代のヨーロッパ料理の流入後に起こった小麦と肉の生産拡大と、1880年代に横浜地域に定住した中国人移民労働者の食習慣の導入があったこと。また1910年代と1920年代に産業経済活動が急拡大したとき日本人と中国人の料理人たちは「支那そば」という料理を広めた。しかし1940年代初頭に食糧不足と戦争のため支那そばは日本の都市から消え失せた。

第2章:第二次世界大戦後にアメリカ軍が日本を1945~1952年に占領したとき、アメリカ小麦からつくられた「支那そば」などの食べ物は緊急時に栄養を与える重要な役割を担い、米不足の対応であり深刻な食糧不足を緩和し助けた。また帝国主義と戦争という記憶につながる「支那そば」の代わりに、「中華そば」や「ラーメン」という言葉になった。またアメリカから日本に送られた小麦は共産主義を封じ込める重要手段だった。

第3章:急速な再工業化の時代である1955~1973年のラーメンについて、アメリカ小麦の大量輸入と急速な再工業化、官僚制度・企業・政治指導層の継続性が食糧消費の傾向との間に関係性があること。ラーメンは日本人労働者の典型的な高カロリー昼食としてより頻繁に大衆文化に登場するようになり、若者の流行になっていく。また日清食品が1958年に発売したインスタントラーメンの成功について、家族構成の変化や家庭電化製品、湯沸かし器など新しい台所用器具普及との関連があったこと。

第4章:ラーメンが1980年代のマスメディアで若者に人気の消費財へと変化し、やがて1990年代には国民食として象徴化されたこと。1994年に約34億円をかけて新横浜にラーメン博物館が建てられ、肉体労働者を連想させる食べ物から愛される国民食へと変化したこと。

第5章:過去10年のニューヨークとカリフォルニアからのラーメンの国際化について探求。

特に夜にこの本を読んでいると、ラーメンが食べたくて堪りませんでしたね^_^;)
糖質制限中に読むのはキツイです^_^;)

 「ラーメンの語られざる歴史」という本は、1880年代から中華そばと呼ばれ、戦後のアメリカからの小麦粉の大量輸入により中華そばという名称に変わって発展したラーメンについて、その裏側にもメスを入れて、歴史の勉強にもなり、とてもオススメです!

以下はこの本のポイント等です。

・ラーメンは多様で、作り手ごとに違うほどだが、もっとも基本的な構成要素は麺とスープ、調味ソースだ。麺は小麦粉と塩、水、かんすいで作られるのが普通だ。かんすいは、麺に黄色い色味となめらかな質感、独特の香りを与えるだけでなく、歯ごたえもよくする。一般的には、日本列島の南と西へ向かうと、だんだんとラーメンに使うかんすいは減っていく。かんすいを多く含む(水分中に30から40%のベーキングソーダ、つまり炭酸ナトリウムを含む)麺を使う傾向が強いのは、日本の北と東だ。博多スタイルのラーメン(九州の博多にちなむ)と沖縄そば(主に沖縄県で食べられる)の麺にはかんすいは使用されず、東京と札幌スタイルのラーメンの麺ではかなりのかんすいが使われている。スープは肉と魚介、野菜を煮出して作られる。肉は一般的に鶏や豚だ(特に使われるのは脚や背中、あばら、膝で、豚の頭が使われるときもある)。伝統的な東京ラーメンでは豚は使わず鶏だけを用いるが、九州ラーメンの店は豚と豚骨を大量に使うことで有名だ。使われる魚介は二枚貝や乾燥させた魚(通常は鰯やカツオ)、乾燥させた海草(昆布)だ。スープに一般的に使われる野菜は、玉ねぎにネギ、ショウガ、ニンニクだが、東京の大井町駅近くの「Ajito」(アジト)は、カボチャやジャガイモ、さらにはリンゴを使い始めた。ここのラーメンは野菜ポタージュ(ベジポタ)ラーメンとしてよく取り上げられている。最後の要素である濃縮された調味ソース(タレ)には、一般的に塩、発酵させた大豆ペースト(味噌)、醤油の3つの味があり、スープベースに味を足す。東京のオシャレな表参道にある「ラーメンゼロPLUS」のように、タレをまったく使わない例外的な店もあるが、ほぼすべてのラーメン職人が独自のタレをつくり、スープをつくるテクニックと同様にタレのレシピを秘伝にしている。個人経営のラーメン店が繁盛するようになったのは、小規模な飲食業のほとんどが苦境にあった時代だった。日本にはラーメンを出す店が8万以上あり、そのうちラーメン専門は約3万5千店である。どの地方にも独自のスタイルのスープや麺、トッピングのラーメンがあり、常に新たな材料の組み合わせが工夫されて、新しい店の売りになっている。ラーメン産業のロビー団体の役割を果たしているラーメン店協会がいくつもあり、何万人ものラーメン店従業員の生活は地元客が常連になってくれるかどうかにかかっている。新入社員の平均時給は一般的には800円から1000円で、東京のラーメン一杯の平均価格は1990年の450円から上昇して、現在は590円になった。

・ラーメンは、日本の各地方で異なる進化をとげた。1920年代と1930年代に急速に発展した多くの都市では、現代的な都市生活の到来を示す主要な食べ物のひとつになった。東京だけでなく、北の札幌や南西の博多のような地方中核都市でも、安くて早く、塩と獣脂、工場で処理された小麦粉がたっぷりの腹持ちのいい食べ物は、新しい労働形態や食物、娯楽が古いものに取って代わっていく近代産業の生活様式にぴったりだった。19世紀後半から20世紀初頭、日本が工業化され、より都市化していくにつれ、それまで街の生活で優勢だったそば屋と落語は、しだいに中華料理店と映画館に取って代わられていった。このようにして、ラーメン製造と消費は、社会や政治、経済が急速に変わっていく時代の日本において、近代の都市労働者階級の生活に欠かせない要素になっていった。ラーメンの人気が高まったのは、日本の都市労働人口が増大していった1920年代と1930年代だ。しかし、1937年に中国と、その後1941年にアメリカとはじめた戦争のせいで物資不足となり、1940年代には日本の人々がラーメンを楽しむのは非常に難しくなった。1945年8月に終戦を迎えたとき、空襲や封鎖、不作の結果として、ラーメンだけでなく、ほぼすべての食料の入手が難しくなった。第二次世界大戦敗北後の2年間の食糧事情では飢餓と欠乏が際立っていたが、1947年以降になると、アメリカ軍による日本の小麦緊急輸入がラーメン製造と消費を大きく回復させた。アメリカから(カナダとオーストラリアからも)の小麦輸入は、1952年の正式な占領終了のあとも継続し、冷戦中の東アジアに位置する日本などのアメリカ同盟国の人々の食習慣を根本的に変えていった。1960年代、建設業と重工業での雇用が増えるにつれてラーメン文化が広まっていき、1980年には、ラーメンは流行をつくる若者たちが好むものとして、有力メディアで全国的な注目を浴びる。地方の有名店が国内旅行者の名所になり、ラーメンの長所や短所について、書かれたものを読んだり、考えたり、語りたがる大衆相手に、数え切れないほどのテレビ特集や雑誌、ガイドブックが競って最新情報や穴場を伝えた。1994年のラーメン専門テーマパークの開業とその宣伝は、日本の国民食の象徴的な存在としてのラーメンの地位を確立させた。その後1990年代にはじまった世界進出で、ラーメンは海外における日本の確固たる象徴となった。一方の日本国内では、現在の材料や技術、用語の地域差だけでなく、テレビ番組に登場する奇抜な有名職人に注目するのがトレンドだ。ラーメンはいつの間にか、日本の日常生活の象徴に、そしてその結果として、国そのものの象徴へと進化したのだ。

・1910年、尾崎貫一は賃金労働者が押し寄せることで有名な地域、浅草に「来々軒」を開店した。「来々軒」がつくったのは1880年代と1890年代に南京町(現在の中華街)で出されていたネギだけの簡単な汁麺と違って、醤油ダレを使った汁そばで、「支那そば」と呼ばれ、「チャシュー」と「ナルト(かまぼこ)」、ゆでたほうれん草、海苔が乗っていた。このすべての具が揃うと真正な東京ラーメンの典型になる。「来々軒」はすぐに、安くてうまくて早い「支那そば」だけでなく、「焼売」や「ワンタン」(スープワンタン)などの日本人の舌に合わせた中華料理で評判になった。

・1920年代の日本では喫茶店や洋食屋でも「支那そば」が食べられた。喫茶店と洋食屋はどちらも新しい食べ物を紹介する重要な役割を担っており、ヨーロッパの材料と技術を日本のものと組み合わせて、まったく新しい食べ物を生み出すことも多かった(たとえばオムライスはケチャップと卵焼き、いためた玉ねぎと鶏肉を組み合わせた日本式のオムレツ・ライスで、今でも人気がある)。特に札幌では、1930年代にはすでにラーメンは喫茶店の定番で、ラーメン史でよく述べられているように「支那そば」ではなく「ラーメン」として出されていた。

・科学知識の食物生産への応用が大幅に増加したのは、1920年代のことだった。食物と栄養の研究は、戦前の日本でもっとも権力のあった省のひとつ、内務省のもとで1920年に設立された政府機関「栄養研究所」とともに発展した。この研究所がなによりも力を注いだのは深刻化しつつあった食物生産と流通に関する問題、なかでも産業労働者の生産性を保つために適切な栄養を与えることだった。このような研究は軍隊の食糧計画にも利用され、田舎出身の多数の徴集兵がはじめて中華料理を体験することになった。これでわかるように、軍隊は国が後押ししている栄養学の発見を大衆へと広げる最初の場所の一つだった。

・1920年代と1930年代の日本の都市に中華料理が普及したのは、いくつもの要素が重なった結果だったのだ。その要素とは、安くて高カロリーの食べ物への需要を生み出す工場労働者階級が登場したこと、より多くの小麦や肉が手に入ったこと、近代栄養学における発見が乳製品の消費を奨励したこと、小麦への麺への加工などの機械化された生産技術が発展したこと、そして、日本の中国進出によって中国の食文化が日本人に身近になったことなどであった。互いに深く関係しているこれらの変化が、日本の都市住民、なかでも労働者階級のあいだでの「支那そば」消費の拡大に大きく寄与したのだ。

・食糧配給と民間の食品流通規制という政府の厳格な制度によって、「支那そば」などの大衆食堂の食べ物は1942年に都市から消え失せる。まさにこの時期は、この10年「支那そば」を食べてきた労働者や兵士からの需要が急増していたときだった。戦争による兵士と重工業労働者の増加は、彼らに一般民間人より多くの食糧を割り当てねばならない戦時体制下で、必要な食糧を管理する人々にとっては深刻な問題だった。1942年の食糧管理法によると、兵士や重工業労働者、一般民間人は一日それぞれ、600、420、330gの米あるいはその代替品を付与されることになっていた。満州での大豆の増産と日本本土での民間人の食糧増産努力によって、戦争による需要贈のいくらかは充当できたが、主食は不足していた。

・アメリカ占領時代、日本の麺類業者は次第に中華汁麺のことを、戦争を想起させる「支那そば」ではなく「中華そば」と呼びはじめた。この変化は、アメリカと日本が日本を平和国家へと作りかえようとした努力の表れでもあった。占領下でアメリカが草案をつくり、日本が公布した戦後の日本国憲法第9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とうたっている。日本政府とマスメディアも「中央の国」や「中央の王国」を意味する「中国」と呼びはじめたが、この戦後の名称は、中国政府代表が日本政府に使用するように要求したものだった。

・日本でラーメンが復活したのは、アジアの同盟国に優先的に小麦の食糧援助を行うというアメリカの戦略的決定の結果だった。当初、アメリカ政府は日本の深刻な食糧不足は、日本自らの責任だとしていたが、その方針を変えて、1948年から日本経済再建計画の一環として、大量の小麦を輸出しはじめた。戦争で破壊されたとはいえ、いまだに日本は東アジア最大の非共産国だったため、アメリカ産小麦には日本を再建する労働者の体力維持・強化という重要な政治的な意図があったのだ。このように、東アジアでの冷戦激化につれて、アメリカの日本占領政策はやむを得ず行う緊急援助だけでなく、戦略的・地政学的目的と輸出利益を持つ政治・経済両面からの支援へと変化していった。アメリカ産小麦からつくられるラーメンなどの食品は、多くの日本人の飢餓を防ぐ重要な政治的機能を担った。さらに、小麦が到着したのは、日本当局とアメリカの監督者が行う食糧配給制度の機能不全と腐敗に対する抗議運動が頂点に達したまさにそのそきだった。当時、日本の共産主義指導者たちは、政府当局の食糧対策への大衆の不満を、共産党への支援に誘導しようとしていた。アメリカはこれに対して、ことあるごとに輸入小麦を宣伝し、アメリカは飢餓の時代の救済者だというイメージをつくりあげようとした。アメリカからの緊急食糧は絶妙のタイミングでラーメン露店を復活させ、これによって、共産党支援のきっかけになっていた飢餓と生活物質入手の不公平さ、困窮による暴動の可能性を期せずして鎮めることになったのだ。

・戦後にさらに事態を悪化させたのは、食べさせる国民の数が増加したことだった。日本帝国の植民地が失われた結果、アジア太平洋のさまざまな地域から約600万という多数の日本人が引き揚げてきたのだ。この増加によって、必要食糧は米に換算して1946年度の655万2千トンから、1947年度には794万6千トンに増加した。これは最悪のタイミングだった。もはや植民地から日本への食糧供給が不可能になったときだったのだ。戦争と天候不良による1944年と1945年の米の凶作がさらに拍車をかけ、栄養失調状態と飢餓が蔓延する結果を招いた。配給食糧だけでは生きていけなくなり、農家以外の国民にとっては闇市の食糧が不可欠になった。飢餓か犯罪に手を染めるのかという、苦しい選択を迫られたのだ。のちに新聞記者たちが日本のソクラテスと称した判事の山口良忠は、闇市の食糧を食べることを拒絶した結果、1947年10月に栄養失調で死亡している。こうして、配給食糧だけでは生きられないということが劇的な形で政府当局に突きつけられた。

・この文書は、すぐには用意できないアメリカからの追加部隊を必要とするような暴動の可能性を抑えるために、アイゼンハワー将軍が緊急食糧輸送を要求していたことを示している。アメリカ政府は緊急食糧を援助ではなく貸し出しとして提供し、日本政府の準備が整いしだい正規料金が支払われることを期待していた。報告書「占領初年度の食糧状況」が述べているように、「この1年間の日本の食糧輸入は、直接の救援物質という形ではなかったことが指摘されるべきだ。それらは商業的な輸出であり、日本はアメリカの現行価格を請求されている」。つまりアメリカ小麦からつくられた「中華そば」は、日本でそれを食べている人々は知らなかったが、高価なものだったのだ。アメリカは日本政府に対して緊急食糧援助に正規輸出価格を請求しただけでなく、占領の結果として発生する占領軍の経費のほとんどを、日本政府が補償するように規定していた。ジョン・ダワーは次のように書いている。
 占領軍がやってきてはじめて、巨大な占領軍のための住宅費と維持費の大半を支払わねばならないことがわかったのである。事実、この占領軍向け支出は、占領開始時の国家予算の実に3分の1を占めた。・・・1948年の時点で約370万所帯が住宅のない状態であった一方で、日本政府は占領軍の住宅と施設に予算の相当部分をあてなければならなかった。しかも、それはアメリカの生活水準に合わせる必要があった。しかし、日本の報道機関へのアメリカ軍の厳しい統制のため、日本人はほぼ、あるいはほとんど、日本占領の費用について知ることはなかったし、それどころか、食糧援助を提供したアメリカの寛大さと慈悲深さを教え込まれた。食糧もまた、歴史の書き換えと無縁ではない。

・アジアで冷戦が始まったことで、アメリカは日本に対する懲罰的な食糧政策を転換し、飢餓の緩和に向けて大いなる努力を開始した。つまり、「中華そば」などの食べ物になった小麦の背後には、日本での共産主義の高まりを回避する地政学的戦略があったのだ。このために、アメリカ政府は1947年の春に日本経済の自力回復を期待する姿勢を変えて、日本の再工業化を援助する政策を積極的に考えるようになった。この変化は、ドイツと日本の経済復興を利用してソビエト連邦を封じ込めるというトルーマン政権の政策によるものだった。1947年初めには、中国においてアメリカが支援していた国民党政府が共産党勢力に敗北しようとしていた。アメリカはこの紛争から軍を撤退させ、日本の軍隊と経済力の再構築を利用して共産主義を封じ込める地政学的戦略へと舵を切った。

・占領時代のアメリカ小麦輸入への依存が日本の長期的な食糧輸入の方向性を決定し、その後数十年にわたってラーメンなどの小麦を原料にした食品が興隆する基礎となった。第一次世界大戦後にはじまった米代替品への動きは、日本人の食習慣を根本的に変えた。アメリカ産小麦粉(メリケン粉)を料理する主婦の多くは、堅パンなどの素朴な調理法のパンや団子(すいとん)、手打ち麺(うどん)をつくった。このうち、もっとも劇的だったのはパンの消費量増加だ。小麦粉の歴史を研究する食文化史家の大塚滋によると、アメリカ小麦が増加した結果、日本でのパン消費量は1948年の26万2121トンから1951年には61万1748トンへと増加している。闇市ではアメリカ小麦を使った「中華そば」や焼きそば、お好み焼きなどのごちそうが使用量を大きく押し上げた。アメリカが日本の食習慣調査に努めたのは、労働力強化によって経済生産を刺激する総合的な目的の一環だった。日本人の食習慣をアメリカ流につくり変える試みは、学校給食プログラムでもはっきりとわかる。最初は大都市の小学校児童にのみパンにビスケット、粉ミルクが食事の主要品目として提供されたが、のちに年齢や地域に関わらずすべての日本人児童に提供されるようになった。学校給食は、戦略的な反共同盟国に必要な頑健な労働力育成に不可欠だっただけではなく、被占領民に占領を合法的だと認めさせる強力なプロバガンダの手段でもあった。

・アメリカの寛大さが宣伝されはしたものの、最終的には日本政府が占領中に受け取った食糧その他の援助の代金を支払うことになった。1962年1月、日本政府は占領中に輸入された食料と原材料、燃料の4億9500万ドルの弁済に同意した。これは、外国軍を維持する「終戦処理費」として支払済みの約50億ドルへの追加だ。つまり、日本の納税者は自分たちが食べた食糧に支払いをしていたのに、アメリカは日本がもっとも必要としていた時期に寛大だったという物語が、日本の公式な戦後史の基礎になったのだ。

・ラーメンは、1955年から1973年の日本の高度経済成長時代に建設労働者と学生の昼食の主役になった。この時代、数多くの建設計画と田舎から出てきた大勢の若者が、東京などの大都市の生活をつくりかえた。ラーメンはより手軽に食べられるようになっただけでなく、急成長する経済の片隅で苦闘する人々にも手が届く食事というイメージが生み出された。この時代の映画や短編小説、雑誌記事は、ラーメンが手軽になったことと、裕福ではない人々が頻繁に食べていたことを裏付けている。ラーメンが露店の闇市から郊外や中心部の普通の飲食店へ進出していったのは、あらゆる世帯の購買力が向上した結果でもあったし、若者が油っぽい麺を好んだからでもあった。1955年から1973年までに、収入に対する食べ物への支出が50%減少しているにも関わらず、ラーメンへの世帯支出は250%上昇した。この間、食べ物への需要とインフレーションのせいで、ラーメン一杯の値段は1954年の35円から1976年には250円に値上がりした。これと比較して、標準的なカレーライスは同じ時期に100円から300円に上がり、トンカツは280円から650円に値上がりしている。このあいだにラーメンは、主として苦しい生活の屋台引きが売る安い軽食から、政府による国民の健康福祉調査の統計に含まれる、普通の食堂で出されるものへと出世していった。

・小麦と肉消費量の全般的な増加によるラーメン販売の増加は、米やサツマイモ、豆への需要低下を反映していた。食習慣変化の大きな原因は、同盟国にアメリカの輸出小麦を大幅な値引き価格で買うように奨励するアメリカ政府の政策と、日本における小麦や肉、乳製品の消費を推奨する現代栄養学の広がりだった。さらに、戦後のベビーブームによって日本の人口構成が変わり、ラーメンを食べたがる(予算もある)若い都市消費者という新しい世代も生まれていた。食の観点から見ると、高度成長の時代はインスタント食品お時代とも考えられるかもしれない。最初のインスタントラーメンは1958年に登場し、カップ麺は1971年に売り出された。日本で全国的に人気を得た最初のインスタント食品である日清食品のチキンラーメンは、食品技術と市場戦略、そしてこの時代を象徴する消費行動の大変化における中心的存在だった。日清食品のチキンラーメン販売が成功したのは、そのとき住居(郊外化と大規模共同住宅)と販売(スーパーマーケット)が変化したことにあった。日清とインスタント食品産業のすべてが、日本における人と食との関係を根本的に変え、食事がより便利で個別的なものとなる流れを加速させたのだ。高度成長時代のインスタントラーメンの物語は、先に述べたアメリカ小麦の消費(と米消費の減少)、地方色のあった食習慣の全国的な均質化、食の流行を宣伝するメディアの強い影響力などの要素をきれいにまとめてくれる。

・アメリカの農事産業代表者も膨大な量のアメリカ小麦を処分するために、日本政府当局者に明確な政治圧力をかけていた。小麦粉食品の供給増加は、オレゴン産小麦を日本へ輸出したいアメリカ側の目論見と、日本の主婦にアメリカ流の栄養科学を広めて、小麦を普及させた日本の官僚の努力によるところが大きかった。西洋料理と中華料理は栄養とエネルギー源として優れているという観念は、1920年の栄養研究所の設立によって科学的に補強されていたが、これらの食べ物が実際に広まったのは、厚生省の指導があった1950年代後半から1960年代だ。アイゼンハワー政権はアメリカの農事産業代表者による日本への小麦輸出増加を支援し、日本の指導者たちは官僚や栄養学者に小麦消費を奨励させて、アメリカの輸出意欲にこたえた。食生活史研究家の鈴木猛夫は、占領後の20年間で日本の食習慣が小麦や肉、乳製品へと変化していったのは、味覚と偶然によるものではなく、日米両政権による綿密な計画の結果だと断言している。占領時に暴動の脅威抑制の緊急手段として大量に小麦を輸入したのは駐留アメリカ軍だったが、アメリカ農事産業の余剰産品の日本やアジアの同盟国への輸出を最優先経済事項のひとつにしたのは、占領後のアイゼンハワー政権だ。アメリカ政府が民間による小麦輸出の促進重視の決定をした大きな理由は、1953年にカナダとオーストラリアの生産力回復によって世界の小麦価格が下落し、アメリカ産小麦の余剰品が政府倉庫に山積みになっていたからだった。

・小麦はアメリカの冷戦戦略における重要な道具だった。アメリカは無償の食糧(それと食糧という形での代金後払いの低利貸付)を利用して、しぶる吉田茂政権に対し事実上の再軍備に同意させた。この政策がほぼ確定したのは、1953年の池田・ロバートソン会談だ。日本はアメリカ代表からの圧力を受けて、アジア地域の政治経済的利益を守るためにさに大きな軍事的役割を引き受け、再軍備にともなう兵数拡大に同意した。同意した要因のひとつh、60万トンの小麦を含む5000万ドル相当のアメリカからの食糧援助だった。アメリカは日本での食糧販売で得たこの5000万ドルのうち、日本の経済、軍事援助に4000万ドルを費やし、日本政府に渡された残りの1000万ドルは国内の農業復興と発展のために使われた。日本だけでなく、イタリアとユーゴスラビアも食糧援助としてそれぞれ600万ドルを受け取り、パキスタンとトルコもそれぞれ300万ドルを受け取っている。ほとんどの食糧援助を受け取ったのがこのような国々だったという事実から、アメリカの外交政策立案者から見ると、彼らとの継続的な同盟関係(あるいは、ユーゴスラビアの場合はソビエトとの非同盟関係)がいかに重要だったかがわかる。

・アメリカ小麦は、日本の食習慣の変化に広く影響を及ぼした。1950年代後半に日本がアメリカから輸入した小麦は日本の新聞で「MSA小麦」と呼ばれるようになり、厚生省は多くの人員と資金をつぎ込んでパン食の利点を賞賛した。食生活史研究家の鈴木が述べたように、パン中心の食事への移行は主食穀物と結びつく食べ物へと好みを変化させるため、この移行は単なるパン消費以上の意味があった(彼は例として、パンは味噌汁や焼き魚、漬け物には合わないと指摘する)。このように、補助金つきのアメリカ小麦の大量輸入後の乳製品と肉の消費量増加と米の消費量減少は、まったく別のことではなく関連していたのだ。鈴木によれば、アメリカは小麦を主要穀物として奨励して日本人の食習慣を変えることを目指していた。なぜなら、肉や粉ミルクなどの輸出食料品の市場もつくりだせるからだ。彼はこの証拠として、1954年の農業貿易促進援助法(PL480)が、同盟国へのアメリカの食糧援助輸出について4つの重要点を規定していることをあげる。
(1)アメリカ農産物をドルではなく、その国の通貨で購入でき、しかも代金は後払い(長期借款)でよい。
(2)その国の政府がアメリカから代金後払いで受け入れた農産物をその国で民間に売却した代金(見返り資金)の一部は、事前にアメリカの協議のうえ経済復興に使える。
(3)見返り資金の一部は、アメリカがその国での現地調達などの目的のほか、アメリカ農産物の宣伝、市場開拓費として自由に使える。
(4)アメリカ農産物の貧困層への援助、災害救済援助及び学校給食への無償贈与も可能である。
鈴木が強調しているのは、最初の2条件は食糧を輸入する国の経済的発展に役立つが、3、4番目の条件はアメリカの食糧に合わせた食の好みに変化させるために、実際には国内の農業発展の可能性を制限しているという事実だ。池田・ロバートソン会談でアメリカ側と交渉した日本の高官たちは、アメリカ小麦の大規模輸入によって日本の小規模農家が被る経済的損害を認識していた。国内農家の懸念に対処するため、政府はアメリカ食糧の販売から得られた1000万ドルの大半を国内農業生産拡大にあてた。この見返り資金の多くがそそぎ込まれたのは、愛知用水事業だ。幹・支線を含め1242kmもの水路が新たに建設され、木曽川からの水が、濃尾平野と知多半島の慢性的水不足地帯へと供給された。皮肉なことに、愛知用水が完成した1961年には(手に入れやすい安い小麦食品のせいで)米の消費が減少したため、この地域での米生産はもはや魅力的な事業ではなくなっていた。

・アメリカの小麦生産者は日本市場への輸出拡大のために日本へ代表を送り込み、厚生省の役人を説得して、移動「キッチンカー」料理教室で主婦にアメリカ食品を売り込んだ。厚生省の役人は仕方なく栄養士の荻原八重子と生徒たちを雇い入れ、キッチンカーで「MSA小麦」や缶詰の肉などの輸入食品などの材料を使い、ほとんどが西洋と中国の料理の作り方を実演させた。アメリカ政府はこのような活動に、日本へ輸出されたアメリカ農産品から得た資金をあてた。日本食生活協会の当時の副会長、赤谷満子によると、アメリカはキッチンカー活動用の12台車とガス、食品、人員に十分すぎるほどの資金を提供したという。彼女はこの資金について、「ことさら隠そうとしたわけではないのです。けれdも、何と言いますか、アメリカの資金について触れるのは、協会の中ではタブーのような空気がありましてね」と述べている。さらに、鈴木みずからがインタビューした戦後もっとも有名な日本の栄養学者のひとり、東畑朝子によると、気前のよいアメリカの資金提供は「誰もが隠したいと思っていたこと」だった。アメリカ政府は日本の栄養学者に助成金を出し、アメリカ農産品が広く消費されるための科学的根拠を広めその結果、日本の国内農業部門の衰退を招く一因となったのだ。1950年代なかばからおわりまで、日本の第一級の栄養学者は、米に代わる食品とまでは言わなかったが、便利で栄養に富む食品としてパンの利点を売り込んだ。西洋の「パン食文化」における食習慣の利点を訴えるため、科学的権威者を利用した。尊敬されていた栄養学者や科学者の一部は、大きな文化的欠陥は米食に起因し、西洋人と比べて工業生産性の競争力が劣っているのはアジア人の食習慣が根本原因だと主張した。そのような栄養学者の一人が、1953年から1963年に厚生省栄養課の二代目の課長をつとめた大磯敏雄だ。それまで10年間占領軍で働いていた大磯は、1959年に「栄養随想」を発表し、ヨーロッパに「理性」と「進歩」が生まれたのは小麦中心の作物によると述べた。大磯と彼の指揮下にあった人々が、1950年代後半から1970年代初期のアメリカ産食品の大規模な取り入れに対する思想的な下準備のほとんどを整えたのだ。

・同様に、慶応大学医学部教授の「林たかし」は、1958年に大きな影響を与えた本「頭脳-才能を引き出す処方箋」を発表し、過剰な米食は脳の発達を妨げると主張した。彼はこう述べている。「親たちが白米で子供を育てるということは、その子供の頭脳の働きをできなくさせる結果となり、ひいてはその子供が大人になってから、又その子供を育てるのに、バカなことを繰り返すことになる・・・米食をすると頭脳が悪くなる。日本人を西洋人に比べると2割方アタマが悪い。ノーベル賞の受賞者が日本人に少ないのもそのためだ・・・日本は水田を全廃して総パン食をめざせ」。この林の研究はその後、小麦製食品生産者の全国組織が印刷し、全国メディアが注目したパンフレット、「米を食べるとバカになる」のもとになった。

・アメリカ食品への移行には、米への需要落ち込みが反映されていた。一人一日あたりの平均的な米の摂取量は、1925年に最高値の391gに達し、1946年には米不足のために254gにまで低下していたが、1962年には戦後最高の324gにまで盛り返した。しかし、可処分所得が著しく増加し、国内生産米の供給が豊富だった1962年のはいめには、一人あたりの平均一日摂取量は急激に低下しはじめる。1978年になると、1946年を下回る224gにまで低下した。これで明らかになるのは、小麦は産業復興段階の戦後初期には米の生産不足の埋め合わせだったが、食の好みには戦前のパターンへ戻ろうという欲求が反映されていることだ。1962年以降の消費パターンが示唆しているのは、食習慣の変化は好みによるものであり、高度経済成長時代の要請ではなかったこと、つまり日本人の多くは米があっても、小麦製食品を選択していたということなのだ。日本の世帯の可処分所得が増加すると、食べ物の選択は栄養学者が指示しているものや、アメリカが輸出しているものと同じになっていった。これは、戦後日本の食習慣に、官僚の指導とアメリカによる貿易政策がきわめて広範囲に影響を与えていたことを物語っている。地方有権者の支持に頼っていた与党自由民主党は、米消費の落ち込みに対して、1960年代後半から積極的に米を推奨した。なかでも農林省は、大手食品会社に米を使った大量消費製品の開発を奨励した。これにこたえて、日清食品は1967年にインスタントライス製品の「日清ランチ」を売り出したが、この製品は日清の歴史では珍しい失敗作としてすぐに姿を消した。1976年、日本政府は地方自治体に学校給食で米を使うように指導をはじめた。政府が1960年代後半から学校とインスタント食品業者を対象に、小麦ではなく米の利用に向かわせようとしたことは、これらが日本での余剰の主要穀物を吸収する重要な場所として機能していたことが現れている。しかし、このような政策にも関わらず、一日あたりの米消費量は1960年代後半から1970年代にかけて低下し続けた。

・ラーメンライスやB定食(ラーメンと餃子とチャーハンの定食)のような高カロリーの食べ物が人気だったのは、都市の建設労働需要が急増した時期と同じだった。1960年代初期は、1959年に発表された1964年の東京オリンピックに向けての首都の建設ラッシュの時期であり、東京とその周辺地域では数多くの公共工事が行われていた。オリンピック施設(日本武道館など)だけでなく、東京と名古屋、大阪を結ぶ新幹線、東京の地下鉄日比谷線、羽田空港と都心を結ぶ東京モノレール(当時世界最長)、全長31.7kmの高架の都市高速5路線など、すべてが1964年のオリンピックに間に合うように姿を現した。これらの建設計画と下水道施設の改良工事は、建設業に大きな労働需要を生み出した。この需要を満たした労働者の多くは「出稼ぎ」と呼ばれる季節労働者で、10月から4月の農閑期に農業以外の仕事をする人々だった。ほとんどが20代から30代の若い男性で、都市部でひっきりなしに行われていた建設工事で半年間働いた。

・仕事を求めて田舎から出てきた大勢の若い独り者のおかげで、占領時代に屋台を引いていた人の多くが安い食べ物への需要をとらえて成功し、ラーメンを商う小さな中華料理屋へとのし上がった。たとえば札幌では、札幌ラーメンのパイオニア<龍鳳>は闇市の屋台からはじまった(残念ながら、この店は2011年に約60年の歴史を閉じた)。屋台からはじまったその他の店には、東京荻窪駅近くの、<春木屋>(東京スタイルの荻窪ラーメンに特化した店のひとつ)や、1998年に和歌山ラーメンブームを起こした功績のある和歌山の<井出商店>などがある。また同様に、1980年代初期に東京地区で豚骨スープを広めたことで有名な<ホープ軒>は、1934年に東京錦糸町の<貧乏軒>という屋台からはじまった。このように闇市から都市の商業地区に移ったラーメンは、労働者に必要なカロリーを与え、安いアメリカ小麦を労働者へ提供することで、公共インフラと有名プロジェクトが進展する手助けとなったのだ。

・世界的なラーメン・フランチャイズの<天下一品>も、1971年に木村勉が脱サラ事業として立ち上げたものだ。屋台からはじめた木村は苦労して京都で店を構え、その後日本を越えて海外のハワイなどに拡大させた。1970年代にラーメン事業をはじめたその他の脱サラたちも、札幌ラーメン<どさん子>などのような有名ブランドのフランチャイズ店舗を開業することが多く、同店は1967年の1店舗から1977年には1000店舗以上に拡大した。

・1950年代から1970年代半ばに、ラーメンを特に昼食として食べる習慣が、都市に住む建設労働者と若い独り者に広まった。政府は、労働者の生活水準を調べる世帯の食費出費調査で、ラーメン消費の情報収集を開始した。ラーメンがどこでも食べられることは、国の急成長の労働力として、地方から都市に移住してきた多数の独り者のための手頃な食堂が、急増していることを現していた。多くの会社員は会社帰りに、同僚と酒を飲んで仕事の息抜きをするため、ラーメンは夜の娯楽産業に不可欠なものでもあった。つまりラーメンは、高度に合理化され、急成長する商品経済における不満と停滞のシンボルとして、きわめて重要な役割を果たしていたのだ。また同時に、小規模なラーメンの商売はこの時代の終わり頃には経済的自由というオーラをまとうようになり、実際にはそうでなくても、次第に多くのホワイトカラーが、ラーメン店主は「脱サラ」だと考えるよになった。このように、ラーメンづくりは新しい逃げ道となり、その結果として、日本の大企業に蔓延する厳しい労働慣行への批判となったのだ。

・ラーメン店は公共住宅や道路建設の労働者に力をつけるものだったが、インスタントラーメンは郊外に住む新しい中流階級にとっては便利な食べ物だった。かつてクリエイター達が独り者の労働者階級の食べ物として描いたラーメンが、1958年に発売されたインスタントラーメン判では、中流階級の子供たちと結びつくようになった。テレビで頻繁に流れる宣伝や、便利な食品の人気、郊外でのスーパーマーケットの普及が、インスタントラーメンが成功する大きな要因となった。

・アメリカからの食糧援助は、日清食品の安藤たち実業家にとって、強力な政府との関係を利用して確かな流通経路を通し、自分たちの大量生産製品を売るチャンスであり、高い利益が確保できた。安藤によると、彼の使命はラーメンのインスタント版をつくることであり、その理由の一部は、アメリカ輸入小麦を学校給食向けのパン以外の食べ物に加工する方法を模索していた農林省と厚生省の官僚との会合の結果だった。彼は次のように書いている。世界初の即席めん、チキンラーメン開発を語る前に、もう少し、その背景となったエピソードを紹介しておきたい。それは、栄養剤ビセイクルの製造、販売をしていたころにさかのぼる。仕事の関係から、私は厚生省に出向く機会が多くなっていた。占領下、日本がアメリカからの援助物質で、辛うじて食をつないでいたころである。コムギ、トウモロコシなど、なんでも食べないと生きていけない時代だった。そうした環境の中で、粉食に慣れない日本人に、援助物質であるコムギの普及、援助を図るのが、厚生省の仕事の一つだった。当時、十数台の宣伝車を動員して「パンを食べよう」と盛んにPRしえいた。街頭で宣伝車を見かけるたびに、私には思うところがあった。粉食といえばパンばかりというのが私には不満である。学校給食などもパンが主流になっていた。食が文化、芸術、社会すべての原点である、という考え方はすでに述べた。とすれば、食のあり方を変えるのは、自分たちの伝統、文化を捨てることを意味する。パン食に慣れるのは欧米文化に支配されることだ、と私は考えた。この議論を厚生省の担当者にぶつけたのである。「粉食=パンでいいのだろうか。パン食は本来、副食物をたくさん食べないと栄養が偏ってしまう。日本ではパンとお茶だけですませている。東洋の伝統食めん類をどうして粉食奨励に加えないのですか」担当者はうなずいて聞いていた。しかしそのころのラーメンやうどんは中小、零細企業の分野で、アメリカの余剰農産物である大量のコムギ粉を加工し、配給するパイプ役は存在していない。工業化の面がネックになっていた。「偉そうにおっしゃるなら、安藤さん、あなたが研究したら・・・」と、そのとき勧められた。これもまた動機となった。ラーメンのインスタント版をつくるという安藤の意向は、その後豊富なアメリカ小麦に刺激された。彼はアメリカの安い供給食糧を即席めんにして、スーパーマーケットに流通させることにも興味を抱いた。即席麺の供給元として可能性があったのは、特に栄養指導に関してアメリカの学校給食制度を参考につくられた占領軍による学校給食制度だった。安藤のような大規模食品加工業者は、大量にインスタント食品を供給するために給食を目標としたものの、この計画は実現しなかった。

・安藤は1948年9月に、深刻な栄養状態の大衆に栄養を与える目的で食品加工業に参入した。脱塩工場からはじまった会社は拡大して、ふりかけ製造と動物性タンパク質抽出の工場も持つようになった。ビセイクルと名付けられた牛と豚の骨髄からのタンパク質抽出物は、栄養補助が必要な患者用として病院に販売された。これと同様に、魚の余り物から製造された魚調味料が良質なタンパク質とカルシウム源として販売されていた。一時期安藤は栄養補助食品の実験で、ゆでたカエルからの抽出物で食べ物をつくろうとしたこともあった。安藤が食品加工業を行ううちに親しくなった厚生省の役人は、廃棄物から栄養食品をつくる努力を熱心に支援した。つまり、安藤のすべての食品事業ビジネスモデルは、それまでは食べられないと考えられていたきわめて低コスト、あるいは無料の材料や物から食品をつくりだし、栄養とエネルギー源という外見をととのえて、政府のルートを通じて販売するという考えに則っていたのだ。インスタントラーメンの開発も、基本的に同じ道をたどっている。安藤は、簡単に手に入る安いアメリカ小麦と普通は食べない鶏の部位を使い、大企業と政府との関係を使える日清の力と組み合わせれば、製品を健康的食品として売り出すといううまい仕組みを思いついた。安藤が言うように「魔法のラーメン」の新しさは即席性にあったが、日清の最初のマーケティング戦略では便利さよりも栄養が強調されていた。最初のパッケージには、大きく「体力をつくる、最高の栄養と美味を誇る完全食」と書いてあった。この宣伝文句の魅力については、日本の高度成長時代という歴史的な文脈で考えなければならない。栄養学者が日本人と比較したアメリカ人の肉体的、精神的強さを引き合いに出しながら、小麦粉(麺)と肉(チキンエッセンス)の組み合わせの良質さを宣伝していた時期だったのだ。日清は麺にビタミンB1とB2を添加したあと、1960年4月にインスタントラーメンを厚生省から「特殊栄養食品」として販売する許可を得た。さらに1967年8月には、栄養面を向上させるために補助タンパク質のリジンを添加しはじめた。社史で説明されているように、補助タンパク質を添加したのは「当時、日本食は植物性タンパクに偏りすぎていると言われていた」からだった。このような考え方もやはり、小麦と肉、乳製品の方が優れているという考えを広めている日本の栄養学者と、アメリカの農産物輸出代表の努力で形成されたものだ。しかし日清は1975年6月に「国民の栄養状態の向上に伴い」、この種の栄養素の添加を止めている。加工食品への栄養添加物の魅力が低下して、添加物のコストに見合うメリットがなくなったためだ。

・日清食品の日本最大の即席めんメーカーへの成長には、日清との訴訟に破れて撤退していった何百もの小さなメーカーが密接に関連している。つまり、日清が成功した大きな理由のひとつは、特許等をめぐる係争や法律上の駆け引きを通じて競争相手を排除できたからでもあった。社史によると、日清は「会社の利益を守るために」、多数のライバル会社相手に訴訟を起こしている。

・チキンラーメンが皇太子殿下のご成婚によるテレビ保有率の増加から恩恵を受けたように、カプヌードルも事件への注目で利益を得た。この事件はテレビで生中継され、瞬間視聴率89.7%を記録している。この事件は、仲間14人と部外者1人を総括と称して殺害した左翼過激派大学生グループの連合赤軍が、警察から逃れて避暑地の長野県軽井沢の山荘に10日間立てこもったものだ。赤軍の5人のメンバーはライフルで武装して管理人の妻を人質に取り、突入の朝までに2人の警察官を殺害した。テレビ6局が生中継したこの事件は、日本で初めてテレビで目にした人質事件だった。膠着状態のあいだに記者たちが映し出したのは、守りを固める学生たちと対峙している警官たちが、寒さと空腹と闘うためにカップラーメンを食べている姿だった。氷点下の気温では弁当もおにぎりも具合が悪かったため、警察に1個50円(定価の半額)で売ったカップラーメンが隊員たちに配られた。警察官2名が死亡したこの立てこもりは、朝の突入で人質が解放され、学生5名全員が逮捕されて終わったが、その模様が逐一放送されたことで、発売後わずか5ヶ月のカプヌードルは全国的に知られることになった。後年、学生たちも立てこもり期間のほとんどをインスタントラーメンで生き延びていたことが明らかになった。こうして、カップラーメンは厳しい気候でも食べられる、緊急時にきわめて便利な商品として広く認められることになる。その後の数十年でこの機能はさらに重要になり、日清は自然災害後の危機的状況でインスタントラーメンやカップラーメンを提供する重要な役割を担っているという世界的な評価を得ることになる。1995年の阪神大震災や2011年3月11日の東日本大震災は、災害後のインスタントラーメンの有用性だけでなく、日清が日本の緊急食料の供給者として並ぶもののない役割を果たしていることを見せつけた。

・2005年には日本の即席めん産業は5000億円を売り上げ、日清食品と東洋水産、三洋食品、明星食品、エースコックの五大企業が即席めん販売のほぼ90%を占めた。日本以外のインスタントラーメン市場では、中国、インドネシア、韓国、タイ、アメリカの順に規模が大きい。さらに、ここ10年でメキシコも日本の重要な市場になってきた。ラーメンが成功すると、伝統的な調理習慣が排除され、未来の消費者はインスタント料理の手軽さに頼るようになるというパターンが生まれた。アメリカ小麦が、日本人の消費を米からパンや麺に向かわせたことと同じだ。たとえば1999年から2005年までに、メキシコのインスタントラーメン販売は3倍になり、年10億食、つまりひとりあたり10食にまで達した。インスタントラーメンが広がっていった時期に、メキシコの豆消費は半分以下に減少している。

・徳島ラーメンは札幌や博多、荻窪、喜多方のラーメンが勝ち得たような地位を得ることはできなかったが、それでも新横浜ラーメン博物館が認める19のご当地ラーメンには入ることができた。ラーメン博物館の展示による19のご当地ラーメンは、旭川、白河、喜多方、博多、米沢、横浜(家系)、高山、和歌山、徳島、広島、鹿児島、佐野、札幌、熊本、東京(荻窪)、京都、函館、久留米、尾道だ。ラーメン観光は1990年代後半から2000年代初期にピークに達し、そのなかで最後に独自のラーメンとして有名になったのが旭川と和歌山、徳島だった。

・1994年にオープンした新横浜ラーメン博物館は、日本でラーメンが国民食として偶像化されたことのもっとも有力証拠かもしれない。テーマパークと食堂街、博物館からなる34億円の事業は鳴り物入りで開業し、日本の若者と外国人観光客に大人気のアトラクションになっている。この博物館の成功を受け、日本のさまざまな都市に多くのラーメン・テーマパークがオープンした。福岡の「ラーメンスタジアム」に、広島の「ラーメン横丁 七福神」、札幌の「ら~めん共和国」は、急増したラーメンのテーマパークのほんの一部だが、このどれもがラーメン博物館が確立した基本方式に従って、ノスタルジックな雰囲気のなかに有名なご当地ラーメン店を一同にあつめている。

・ラーメンは西洋が近代性、東洋が後進性を表していた時代に、日本で中国生まれの現代的な食べ物として生を受けた。中国と日本が武力で争っていた時代だったが、日本では中華料理店の中国人料理人だけでなく、彼らと共に働き学んだ日本人料理人もこの食べ物をつくっていた。初期のこの時代は、政府のエリートが急速な工業化と西欧方式の導入を奨励していた時期で、「支那そば」を食べていたのは主に肉体労働者や夜間労働者、兵士だった。「支那そば」を出していた屋台や中華料理店、洋食屋、喫茶店は、田舎からの出稼ぎ労働者や少数外国人、行き場のない人々にとっては、食い詰める可能性が高くても、とりあえずの仕事を提供してくれる場所だった。戦時中は日本の都市からほとんど姿を消していたこの食べ物は、広範囲な飢餓とともに思い出されるアメリカ占領時代に、数少ない「スタミナ」料理の「中華そば」として復活した。やがてこれは、可処分所得が増加し、核家族が主流となっていく高度成長時代(1955~1973年)に、労働者階級の若い独身者に働くエネルギーを提供した。さらに、トヨタのような輸出主導型の大企業が日本経済の国際的主役になっていく1970年代には、自営のラーメン店は不満を抱える会社員の逃げ場へと発展していった。不動産と株式投機による金融バブルで高級品やレジャー消費が活発になった1980年代、ラーメンは当時流行していた高級フレンチやイタリアンへの庶民尾反感を表すものへと進化した。世界中のファーストフード産業におけるアメリカ支配によって、世界的に消費者がかつてないほど均質化した1990年代には、ラーメンが持つ国の象徴性はより強く、より政治的になり、2000年代にいは愛国的あるいはネオナショナリスト的なラーメン店を生み出すことになる。日本でラーメンを主として食べるのは常に若者だったが、日本の人口バランスは着々と高齢化へと向かっている。ラーメンはたいていの場合、脂と塩、デンプン質が多いままだが、流れは明らかにより健康的な食べ物へと向かっている。日本の誰もがラーメンを食べられるとはいっても、熱心なファンが長い列をつくるせいで、何時間も時間をかけないとうまいラーメンを食べるのはほぼ不可能になっている。これは、アメリカの覇権が衰えつつも滅ぶことのない時代における、氾アジア主義の証明なのだ。

・おそらくもっとも重要なのは、日本のラーメン業界が「のれん分け」で店を出す制度を通じて企業資本の独占化に抵抗していることだ。日本のラーメン店の80%は独立系で、他の独立系飲食店が苦闘している1990年代以降でも、小さなラーメン店は頑張っている。最低でも1年間修行して、仕入先やスープのレシピを学んだ元従業員に、店主が通常では無償で店を出すことを許す「のれん分け」制度のおかげで、人気店を手本にした店がピラミッド構造の会社組織をつくらずに広がることが可能になった。山岸一雄(東池袋 大勝軒)店主や山田雄(麺屋武蔵)店主、山田拓美(ラーメン二郎)店主の全員が弟子が支店を拓くことを快く許している。こうして、元の店主に何の金銭的対価も払うことなく、同じ味を提供する独立店が増えているのだ。

良かった本まとめ(2016年上半期)

<今日の独り言> 
Twitterをご覧ください!フォローをよろしくお願いします。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする