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「千年企業の大逆転」という本は、有名な会社ではありませんが100年も200年も続いている会社で、倒産寸前の崖っぷちから劇的なV字回復をなしとげ、本業の核となるものは変えず、時代に適応しながら業態を柔軟に変化させてきた以下の5社について解説したものです。
・近江屋ロープ株式会社
・ヤシマ工業株式会社
・新田ゼラチン株式会社
・テイボー株式会社
・三笠産業株式会社
※DOWAホールディングス株式会社
なお、DOWAホールディングス株式会社については、この会社も倒産寸前のどん底からよみがえってきた企業であることから、その立役者の吉川廣和会長との対談も巻末に掲載されています。
そのほか以下についても書かれていてとても興味深かったですね。
・近江商人
・京都の老舗の歴史との関わり
・京都が老舗企業率が最も高い
・日本が老舗大国の理由
・経営者と信仰
・老舗の本業力
・巨大団地の減築が再生のポイント
・各国の立て替えサイクル年数
・創業以来危機となった出来事
・外断熱による省エネと長持ち
・大倉財閥
・老舗企業のお化けと思われる素材
・老舗企業の倫理感
・静岡の浜松界隈の世界規模メーカー
・織機の技術革新
・創業者の気質や考え方等の製品への集約
・血族は一般の従業員以上に働かせること
・一族経営の長所と短所
・権限委譲で人を育てる
会社を永続的に続けるには、本業の核となるものは変えず、しかしながらも時代に適応しながら業態を柔軟に変化させることが大切で、国としては戦争状態をなくすというのもポイントだと思いました。
「千年企業の大逆転」という本は、永続的に会社を続けるポイントが分かるだけでなく、歴史の勉強にもなりとてもオススメです!
以下はこの本のポイント等です。
・近江商人に対しては、けちでこすっからいとの陰口もきかれるが、その商売への、堅実にして粘り強く、かつ積極果敢な姿勢は現在の伊藤忠商事や丸紅、西武およびセゾンの両グループ、ワコールといった世界的な企業へと大成する商家をいくつも生み出した。近江商人の商道徳をひとことであらわす言葉として、「売り手より、買い手よし、世間よし」の”三方よし”が、つとに知られる。
・近江屋ロープは新撰組とは商売での関わりもあり、「御用の縄」を納めていたという。彼らが捕らえた尊王派の志士たちを縛り上げる捕縄のことだ。代金を踏み倒される場合がほとんどだったらしく、「とにかく新撰組はこわかったという話だわ」と祖母は眉をひそめたものである。こんなふうに歴史上の人物や出来事が、一家のエピソードとして語られるのが、京都の老舗ならではのおもしろさだ。別の例を二つだけあげよう。1160年創業の「通圓」という宇治茶の老舗では、初代が平家との合戦で、主君の源頼政とともに討ち死にをとげている。七代目は、「一休さん」こと一休和尚と親しく、八代目は、銀閣寺を建てた足利義政の茶坊主(本来の意味での茶職)であった。いまに残る家宝は、豊臣秀吉が千利休につくらせた、茶道の水汲み用の釣瓶である。また、「永楽屋」という400年続く織物商は、織田信長の軍にいた先祖が出陣のおり、よろいの下に着た直垂の「永楽通宝」の紋から屋号をとっている。京都を訪れた読者なら、きっと近江屋ロープの麻にふれたことがあるはずだ。えっ、思いあたらない?では清水寺の舞台で、正面入り口の上からぶらさがっている太い綱をゆらして、鈴をじゃらじゃら鳴らしたことはありませんか。正式には「鐘の緒」という、あの麻の綱を代々製造してきたのが、近江屋ロープなのである。
・ご存じのように、戦中、京都は空襲を免れた。なにせ、京都のお年寄りが「こないだの戦争」といえば、室町時代の「応仁の乱」を指すといった逸話がまことしやかに語られる土地柄である。このことと、京都が「老舗企業率」で日本のトップに立つ現実とは、まったく無縁ではない。それどころか、日本にはなぜこんなにたくさん老舗があるのかという理由の核心にまで、大いに関わってくる。日本は、文句なしに「世界一の老舗大国」なのである。たとえば、近江屋ロープのような創業から200年を超えて続く企業が、各国にどれくらいあると思われるだろうか。実践経営学の調査によれば、韓国を含む朝鮮半島はゼロ、つまり一社もない。古代文明と長い歴史を誇る中国・インドでも、中国が6、インドが3といずれも一桁である。では日本はどうか。なんと3千社にものぼるのだ。日本に次ぐのがどいつだが、およそ800社で日本の4分の1程度にすぎない。別のデータもある。後藤俊夫著「三代、100年潰れない会社のルール」によると、業歴200年以上の会社は、日本・3113、ドイツ・1563、中国・64となっている。データベースの違いによるのだろうが、いずれにせよ、200年以上の老舗が日本に最も集中している点に変わりはない。韓国にそれが皆無である事実は、韓国銀行が2008年にまとめた報告書でも認めている。次に100年以上の国内老舗企業の数に関しては、帝国データバンクが26144社(2013年)、東京商工リサーチが27441社(2012年)と発表している。しかも驚くべきことに、この数は年を追って増えてきた。つい見落とされがちだが、豆腐屋、銭湯、薬局、和菓子屋、旅館、呉服屋といった、どこにでもありそうな店の中にも、創業100年以上の老舗が息づいている。このような株式会社化されていない個人商店なども含めると、業歴100年以上の老舗は10万軒を超えると推計する専門家もいる。500年以上は、帝国データバンクが39社(2010年)、東京商工リサーチが158社(2012年)と、かなりの差があるが、担当者によれば、前者は相当しぼりこんだ数字とのことであった。千年以上のいわば”超老舗”となると、さすがに減って6社を数えるのみ。だが、100年以上、200年以上、500年以上、千年以上のいずれの指標で見ても、日本の老舗の数はずばぬけているのである。
・いったいどうして日本は世界一の老舗大国になれたのか。その一番の理由は、日本が事実上、長期にわたって侵略されたことも内線にみまわれたことも、ただの一度さえなかったためと私は考えている。鎌倉時代の元こうは、二度とも水際で撃退した。先の大戦に敗れ、連合国軍に占領されたが、あれは世界史で一般に定義される「侵略」とはいえない。また「内戦」とは、異民族や同じ民族でも党派・宗派の異なるグループが、国土の大半を戦場にして血で血を洗うような殺しあいをくりひろげることだ。最近ではイラクとシリアに国内紛争が、その典型である。日本の戦国時代や幕末の勤王・佐幕の争いは、私見では「局地戦」にすgない。世界中の老舗を調べていて、はたと気づいたことがある。被侵略や内戦の期間が長ければ長いほど、その国に老舗は残らない。逆もまた真なりで、老舗の数は、被侵略・内戦の期間に反比例して少なくなる。
・老舗企業のトップは京都だが、最下位は沖縄である。帝国データバンクが2008年に発表した「伸びる老舗、変わる老舗」と題するぶあついレポートによれば、沖縄には業歴100年以上の企業がたった9社しかない。そのうちの6社は泡盛の蔵元である。老舗企業率でいうと、沖縄は京都の1/44にも及ばない。企業数でも京都は876、第一位の東京は1646だから、なおさら沖縄の「9」という数字の特異さがきわだつ。その背後にある戦禍のすさまじさに、言葉を失うほかはない。老舗の最大の敵-それはまぎれもなく戦争である。
・昔から、経営者と信仰とは切ってもきれないつながりがある。”経営の神様”松下幸之助は、天理教の影響を深く受けていた。京セラを一から優良企業に育てあげ、日本航空の再建にもあたった稲盛和夫は、谷口雅春が創設した「生長の家」に一時期、足げく通い、のちに60代半ばになって臨済宗の寺で得度をうけている。変わり種では、西武鉄道グループのオーナーだった堤義明が、9つの頭を持つとされる九頭竜をたてまつった九頭竜大明神の信者である。スタジオジブリの現・社長やヤマダ電機の前・社長は、いずれも創価大学の出身で、池田大作・創価学会名誉会長への敬慕の念を隠さない。老舗企業のオーナーには、私が知るかぎりでも、神道のさまざまな神々をあがめる人が多い。経営者は、かくも孤独なのだ。そう言ってしまうと所詮ひとごとになるので、我が身におきかえてみたい。野々村さんを10年以上にもわたって苛んだ蟻地獄のような経営危機に、もし私が直面し、自力だけで立ち向かい持ちこたえられるかと問われれば、私は首を横に振らざるをえない。それが新興宗教で何であれ(カルトは論外だが)、苦難や窮状から人を救い、周囲を害せず、ともに前を向いて進ませる心の支えとなっているなら、斜に構えた第三者がとやかく言う筋合いのものではなかろう。これは、その教団に対する世間一般の評価とは、まったく別の問題である。とはいえ、野々村さんが尊敬する女性指導者の教団が、悪評紛々というわけでは決してなく、その信奉者には大企業の経営者や有名芸能人も名を連ねている。
・バブル期の雇用人数はほぼ維持したままで、卸売りから製造業へと業態を成功裏に変えられた老舗などというものはめったにない。「見捨てないでください」と必死に訴えてきたベテラン社員ら全社員をひとりも見捨てなかったからこそ、近江屋ロープは世間から見捨てられずにすんだともいえるのである。こういう力を、老舗の「本業力」と私は呼んでいる。代々家業としてきた本業を守り、かりに新たなビジネスを手がけるにしても、本業の”レール”の延長線上からは決してはずれない。この本業力こそ、つぶれない老舗の共通点のひとつなのである。
・知っている人にはどうということもない話だろうが、知らなかった私は心底驚いた。いやもう「減築」というやり方に、びっくりしてしまったのである。繰り返すけれど「減築」であって、「建築」ではない。たとえば、目の前に、1970年代に建てられた巨大団地があるとしよう。6階建てで、屋上に物干し場がある。にもかかわらず、エレベーターはない。売り出し当時は、抽選でもめったに当たらない人気物件だったが、一戸建てへの引っ越しや少子高齢化で世帯数が減り、いまや空き部屋ばかりが目立つ。これを「減築」すると、どうなるだろうか。かりに、ひとつの階に50室あり、「1」から「50」までの番号がふられているとする。一階は「101」から「150」まで、6階は「601」から「650」までといった具合にである。このうちのちょうど真ん中にあたる、「21」から「30」までの部屋を、思い切って全部とりはらってしまうのである。団地をケーキにたとえると、屋上からナイフを入れ、一番下までいっきに刃をおろす。一棟の幅広の団地から、あいだをそっくり抜き、壁と壁とを切り離して、建物を二つに分けるのである。そのうえで、おのおのの棟に三角屋根をつくる。最新のエレベーターを設置する。バルコニーもつけ、外壁は明るい色に塗りかえる。もう、かつての古びた巨大団地の面影はない。新築の高級マンションかと見まがうような集合住宅が、眼前にあらわれる。まるで大がかりなマジックの実演を見せられたようではないか。この工法を「減築」といい、実際に、ドイツの旧東ドイツ地区で持てあまされていた巨大団地は、これでよみがえった。若い世代の入居者が増え、保育園が4軒できた。少子高齢化の問題をかかえる欧米諸国や日本からは、視察団が引きも切らずおとずれるという。
・二つのデータからあらためてはっきりするのは、私たちの暮らしに住宅費がどれほど重くのしかかり、とりわけローン金利の支払いがいかに大きな負担となっているか、その理不尽な実態である。身も蓋もない言い方をすれば、マンションをローンで買うと、金融機関や住宅関連業界にむしり放題にむしりとられる。おまけに、そのまま何もしなければ、資産価値は目減りする一方で、転売も難しい。夢に見たマイホームのせいで、泣きっ面に蜂のようなありさまに成り果ててしまうのである。そうまでして手に入れたマンションも、6戸に1戸は、1981年に定め得た現在の耐震基準の前に建てられたものだ。国土交通省の推計では、およそ106万戸を数え、うち3割が築40年を超えている。いまから10年後、このような築40年超のマンションは100万戸以上に激増する。東日本大震災以降、耐震基準への国民の目は、俄然厳しくなった。ことに1981年以前の建築物では、居住民のあいだから、次の大地震に対する不安の声があがっている。人口の4人に一人が分譲マンションで暮らす東京都では、耐震診断の義務化が条例で課せられた。
・ヤシマの試算では、築30年・全50戸のマンションを立て替えた場合、総計で12億6千万円かかり、一戸あたりの費用は2520万円となるが、改修なら総計1億2500万円、一戸あたり250万円で済む。他のデータでも、改修なら立て替えの8分の1から12分の1程度の金額が相場だ。立て替えよりも改修のほうが現実的かつ合理的な選択であることは、だれの目にも明らかだろう。築30年や築40年のマンションを改修して、欲を言えば、築100年を超えても住み続けるのが理想ではあろう。
・「住環境の機能が、住んでる人の暮らしと合わなくなったから、壊して建て替える。これはわかるんです。やむをえない。でも、日本は、住民のためじゃなくて、建築業界のために壊しているように見えるんですよ。これはおかしいじゃないですか」独立行政法人建築研究所による各国での建て替えサイクル年数を見ても、イギリスの131.2年、フランスの85.6年、アメリカの74.1年と比べ、日本は38年とあきれるほど短い。
・帝国データバンクの「伸びる老舗、変わる老舗」によると、アンケートに回答した814社のうち、「創業以来の危機となった出来事・事件」に「戦争」をあげた老舗企業が最も多く、278社で全体の34.2%を占める。3社に1社が「戦争」と答えたのである。やはり、老舗の最大の敵は戦争にほかならない。次が「主力商品の売り上げ激減」で27.5%、さらに「資金繰り」21.4%、「災害」19.2%と続く。
・「今までのような内断熱では、冬に暖房のスイッチを入れると、室内はすぐ暖かくなるんですけど、周りのコンクリートは冷えたままなので、スイッチを切るとまたすぐに寒くなっちゃう。それでエアコンをフル回転させるから、エネルギーのロスがものすごく大きい。外断熱なら、そういうロスが少なくてすむわけです」-省エネ対策になる?「ええ。外断熱化や、窓ガラスを「ペアガラス」という複層ガラスに変えることで、暖房費が年間4割以上も減らせます。これは経済産業省の試算ですけど、太陽光パネルや電気自動車よりも省エネに一番貢献するのは、建築物の省エネなんですね。外断熱のポテンシャルは実際、ものすごく大きいんですよ。それなのに、中古集合住宅への外断熱って日本ではほとんどおこなわれてきませんでした」-なぜですか?「技術的に非常に難しかった。実は20年くらい前に、我々も外断熱に一度挑戦して失敗しているんです。また、古い建物を耐震改修すると、見た目が非常にゴツくなってしまうのも問題でした」ーどのように技術的な問題をクリアしたのですか?「たとえば外壁がタイルなら、全体に網タイツのようなネットをかぶせ、その上にポリスチレンフォームの断熱材を接着剤で張り付けていく工法です。外から覆うので、建物は冷えません。以前なら古いタイル張りのマンションを改修しようとしたら、タイルを全部張り替えるしか方法がありませんでした。でもポリスチレンフォームなら表面の仕上げがいろいろできるので、ゴツくならずセンスよく仕上げられるようになったんです」-新築じゃなくても外断熱の工事が可能になった?「ええ、改修でも外断熱はできます。海外の高級ホテルでは、改修の際、外断熱にするところが増えています。外断熱に限らず、ビルを改修してエネルギー効率を高めるのは、世界的な趨勢なんですよ。ニューヨークのエンパイアステートビルなんか、省エネ改修工事で熱効率が30%もアップし、建物の資産価値も高くなって、テナント料が2倍になったそうです」アメリカではこのところ、建物の断熱性に厳しい目が向けられているという。建物の断熱性を調べるために、夜間、ヘリコプターを巡回させている自治体もある。上空から、一軒一軒に赤外線カメラを照射して、断熱性が悪い家屋には、あとでドアに”バッドマーク”のシールをベタベタと貼っていく。その結果、ある街では省エネ率が3割も向上したとか。「そこまでやるか」と言いたくなるが、外断熱化を勧めるもう一つの決定的な理由がある。それは建物を長持ちさせられるからだ。外断熱化の結果、コンクリートが気温の変動によって伸びたり縮んだりしにくくなるため、コンクリートのひび割れや、外壁タイルの剥落などもかなり防げるようになる。こうして建物の寿命を大幅に伸ばせるのである。
・”富国強兵”の時節柄、軍靴の需要は、うなぎのぼりに高まっていた。西郷隆盛の西南の役や日清・日露の両戦争で巨利を得た大倉組は、やがて「大倉財閥」と称されるまでにのしあがる。創業者の大倉喜八郎は、そもそも鳥羽伏見の戦いで明治新政府軍と旧幕府軍の双方に鉄砲を売ってボロ儲けをしたといわれ、陰では”死の商人”呼ばわりされていた。その反面、鹿鳴館や帝国ホテルの建設時には、立役者のひとりともなった。大倉組の土木部は現在「大成建設」になり、軍靴製造所のほうは靴の有名ブランド「リーガル」と名前を変えている。
・老舗企業の成否は、自社が連綿と受け継いできた素材を「お化け」と思えるかどうかにかかっている。数多くの老舗企業を取材してきた私は、そう断言してもさしつかえないのではないかと考えるようになっている。典型的な例を3つ挙げよう。四国の香川で安政元年(1854年)から続いてきた「勇心酒造」という醸造元では、もう清酒そのものからの利益は全体の1%にも満たない。だが、米の発酵技術を活かして、アトピー性皮膚炎や胃潰瘍の症状の改善が副作用なしに「期待される」液剤を開発したり、皮膚そのものを健やかにして肌を潤わせる素材を大手化粧品メーカーに提供したりしている。そのかたわら、清酒づくりも断じてやめない。そこに自社の原点があると確信しているためだ。発酵した米が、この老舗企業のお化けなのである。神奈川の「セラリカNODA」にとって、それはロウである。天保年間の1832年に九州・福岡で創業して以来、江戸末期から明治・大正を経て昭和40年代に至るまで、ハゼの実からとれるこの会社のロウは、整髪料と切っても切れない間柄にあった。当初は鬢付油として、のちにはポマードとして、ロウがそこに加えられないことなど想像もできなかった。それが、リキッドやトニックといった液体整髪料の登場で、行き場を失う。会社は倒産寸前にまで追い込まれたが、ロウへの信頼はゆるがなかった。コピー機やファクシミリ機のトナーにロウを入れ、その特質を活かして、すぐ乾き、こすれにくくにじみにくいクリアな印字を実現させたのである。さらに、「マーブルチョコレート」のようなお菓子のコーティングや、フローリングの床を這い這いする赤ちゃんがなめても安心なワックスなどさまざまな製品に、ロウを浸透させていった。最後にあげる例は、「筆ぺん」の発明で知られる奈良の「呉竹」である。業歴112年は奈良の墨業界では長いとは言えないが、伝統工法で墨を手作りするかたわら、墨とは無関係のように見える新製品を次々と世に送り出してきた。夜道を歩いていて、気づかれたことがあるに違いない。路面でくるくると回転しているように光あの「道路錨」も、呉竹が生んだ傑作だ。あれは何も、電線から電気を引いて光っているわけではない。太陽電池が生み出した電気をいったん蓄電池にたくわえ、そこから配線しているため、電線がなくても光るのである。この蓄電池に、独自の炭素微粒子分散技術によって開発された塗料が使われている。「融雪剤」という、ゴルフ場に雪が降ったとき、早くきれいに雪を消し去る製品もそうだ。原理は、雪だるまの目のところに炭団を入れると、太陽の熱を吸収して溶けやすくなるのと一緒である。炭素を非常に細かく砕いて着色力をあげれば、少量の融雪剤でも、広範囲の雪を溶かせるのである。墨は炭素でできている。道路鋲も融雪剤も言ってみれば、”炭素つながり”で、この老舗企業にとってのお化け素材は、つまり炭素なのである。
・新田ゼラチンの社是にある「愛と信」にはヤシマ工業の「正義の味方」に呼応するところがある。この”ベタな”感じ、気恥ずかしさと背中合わせにあるこのモットーは、老舗企業に受け継がれてきた倫理観を、現代風に言い換えたものではないか。江戸時代や明治時代に多くつくられた老舗の家訓も、同じ精神を伝えている。いわく、「信用第一」「信義を重んずべし」「和心誠心」「先義後利」「誠心誠意正直な商い」「お客様に誠実を」-。「士魂商才」という家訓もある。三越呉服店を明治末から大正にかけて躍進させた日比翁助は、「武士の魂をもって世に還元する商店」をめざせと説いた。これなど、ようするに「正義の味方」という意味ではあるまいか井原西鶴にならえば、「欲に手足の付いたるもの」の人の世ではまっとうな商いを貫いていくのは、なまなかなことではなかろう。現代に生きる老舗企業も、移り気な大衆社会の中で、わかりやすい倫理観を標榜する必要性に、たえずせまられているのである。
・かねてから気になっていた。静岡の浜松界隈からは、どうしてあんなに世界規模のメーカーが続々と出現したのか。「ホンダ」の本田宗一郎がオートバイをつくりはじめた場所が浜松である。自動車の「スズキ」も、浜松で誕生した。同じ浜名湖沿岸の湖西市は、あの”世界のトヨタ”を創業した豊田佐吉のふるさとである。楽器の「ヤマハ」も、浜松の産だ。世界最大の楽器メーカーで、オートバイの「ヤマハ」は途中で枝分かれした兄弟会社である。
・浜松近郊の出身者はこう語る。「同じ静岡でも、県庁のある静岡市のほうと、こことでは気質が全然違うんですよ。静岡市のほうは、どちらかというとコンサバ(保守的)。こっちは革新といいますか、何かをしようとするとき、頭で考えすぎないでとにかくやってみる。頭で考えていてもしょうがないから、うまくいくかどうかわからないけど、「何かやるか、じゃあやろうか」と。地元の言葉で「やらまいか」というんですけど、そういう精神を我々も持っているんじゃないか。それと基幹産業が多い。クルマのようにファンダメンタルな技術を持っているメーカーさんがたくさんあるので、技術的な問題が起きたとき周りに相談しやすいというのもあったんじゃないですか」
・「遠州」と呼ばれた江戸時代から綿作と織物業が非常に盛んで、日々工夫を凝らし切磋琢磨しているうちに、知らず知らず技術革新が繰り返される。かくして地元で懸命にしのぎを削りあっていたら、いつのまにか国内でも最高水準の技術と紡績工場を有するようになっていたというのである。この構図は、江戸の絵師たちが、いまでいうところのスターの”ブロマイド”やら”名所観光写真”やら、”無修正AV”にあたるものをせっせと描いていたところ、その大胆な構図や色彩表現、対比遠近法がどんどん洗練されていき、やがてはるかかなたのヨーロッパの画家たちに影響を及ぼし、世界的な芸術として認められたものだ。ゴッホやモネなど、浮世絵そのものを自作の中にまで描き込んでいる。ついでに言えば、江戸の浮世絵師たちをとりまとめた版元の代表格が蔦屋重三郎という人物で、映画や音楽などのレンタル・ビジネスで有名なTSUTAYAの社名の元となった。現代日本の漫画家たちにしても、週刊漫画誌での熾烈な競争に生き残るため、不眠不休で描き続けているうちに、作画の水準が途方もなく上がっていき、ふと気づいたら、彼らの漫画や劇画が世界各地で人気の”コミック”に変身していたのであった。
・一説によると、糸で織物をおる織機には、現代の機械に必要な、ありとあらゆる要素が詰め込まれていたという。明治時代、紡績工場の女工たちを悩ませていた織機の問題は、大別すると二点あった。頻繁な糸切れを、どう防ぐか。不便なよこ糸の交換を、もっと簡単に手早くできないか。この二大難問は、織機が手動から自動に変わっても、つきまとった。しかし、地道な技術革新を重ね、やっとのことで、横糸の自動交換装置をつくりだす。糸が切れたときには、機械が自動的に止まり、ただちに新しい糸を補給する仕組みも完成させた。操業中の異常や故障の検知、不良品の発生防止から、大量生産、高速運転、無人化に至るまで、そのつど必要とされた技術を現実のものとしていくにつれ、織機の性能は目を見張らせるほど向上していった。豊田佐吉の考案した自動織機がその後、国産自動車につながっていくように、織機の技術をとことんまで突き詰めていく風土のなかから、ホンダもスズキもヤマハも世界に飛び立ったのである。
・テイボーの帽子専業時代の興味深い裏話は多々あるが、ひとつだけご披露しよう。明治末、中国大陸に進出をはかって、”天国と地獄”を両方味わったことの顛末である。清の時代、「弁髪」という、欧米人からは「豚のしっぽ」などと揶揄された独特な髪型が強制されていたが、1911年の辛亥革命で中華民国ができると、今度は断髪令がくだされる。ここを商機とみたテイボーの創始者たちは中国向けの輸出にのめりこみ、会社はじまって以来の大儲けをする。ところが、革命の頓挫と、手のひらを返したような断髪令のせいで、ついには大量在庫の投げ売りや、野澤社長の辞任にまえ追い込まれてしまう。この窮地を救ったのも、海外での大事件であった。1914年に勃発した第一次世界大戦により、ヨーロッパからの高級帽子の輸入が、ぷっつり途絶えた。ヨーロッパでも品不足が深刻となり、めぐりめぐって国産がふたたび脚光を浴びて、からくも立ち直りのきっかけをつかんだのである。中国での革命騒ぎにふりまわされて倒産寸前におちいったものの、第一次世界大戦で息をふきかえしたわけだ。帽子市場の国際性を如実にあらわる一例といえよう。これを機に和製帽子の輸出が急伸し、じきに輸出高が輸入高を上回って、帽子は日本の重要な輸出品となっていく。
・テイボーでは、変わり種ではアラビア文字専用のペン先をつくったこともあるそうだ。我々から見ると至極ユニークなあの文字は、太さが均一ではなく、太いところと細いところがある。テイボーでは、両方の文字が一本のペンで書けるペン先を開発して、イスラム圏の顧客からの要望に応えたという。
・ユーザーからのリクエストを徹底的に製品化してきた末に、三笠の現在がある。それは、事実上の創業者と言ってよい二代目の孝一さんが敷いたレールの到達点でもある。このことは何も経営の全体を指しているだけではない。大阪・船場での丁稚奉公で身にしみこんだ知恵や、戦中の二等兵時代に上官の濡れた軍足を体温で乾かした姿勢が、キャップの改良にそっくり受け継がれているのである。創業者の気質や考え方、実人生での立ち居ふるまいがこれほど製品に集約されている老舗企業は滅多になかろう。孝一さんはのちに地元の町長にも二度なるのだが、選挙戦で連呼していたせりふが、なんと「あなたが主役で、わたしはしもべ」というものなのである。
・ドラッカーによれば、100年以上続く世界のファミリー企業には、いくつかの不文律がある。血族は雇っても構わない。だが、一般の従業員以上に働かせる。実際に血族を働かせてみて、将来「トップ・マネージメント」がつとまらない、つまり日本流に言えば部長以上の幹部になれないと見極めたなら、10年でやめさせる。そうしないと、一般の従業員のほうがやめていく。こうした不文律を守っているファミリー企業は存続してきたが、そうではないファミリー企業は淘汰されていった。
・「林田孝一さんは、かなり割り切って社内改革を進めると思っていましたが、現にそのとおりに進められましたね。ご自分の兄弟をご自分で処理された。現社長もいとこの方たちも処理されました。いえ、解雇したんじゃなくて、みなさん、自らやめていかれたんです」-いったい、どんな方法を用いたのですか?「現社長は、親族の方たちを一人一人呼んで、「しっかり仕事しろよ」「みんなに恥じない仕事をしろよ」と諭された。それをひとり3、4回されたようです。そう言われても、ほとんどの人が何も答えられなかった。で、自分からやめていかれた、と。そのやり方には、私も感服しまsた。とくに奈良には、神武天皇以来2600年の歴史があるのはいいんだけど、”ことなかれ主義”も非常にはびこっているんです。会社の中にも巣くっている。そこで、林田孝一さんがおやりになったことは、実にすごいことですよね」
・一族経営には概して、経営判断と事業着手の速さ、果断な実行力、長期的な経営戦略といった長所がある。その一方で、同族による経営権の独占や会社の私物化、ワンマン化、内部チェック機能やコンプライアンスの乏しさなどの短所も指摘されてきた。
・私から見ても、一族経営と非上場が、日本の老舗企業を語る際にふっけつな二大要素なのである。この両方が林原にも、そして三笠にもあてはまる。さしずめアメリカ発のマーケット至上主義者などからは、真っ先にやり玉にあげられる対象なのであろう。しかし、林原さんは逆に、一族経営で非上場を続けてきたからこそ、会社の進む方向がぶれず、長い年月をかけた研究開発が可能だったと反論した。周知の通り、一般の上場企業では、社長の任期は2年と限られている。ひとりの社長が長期間つとめる場合もあるが、2年おきに数字ではっきりとした結果を出さなければ、株主から突き上げを食らうのは必至だ。短期決戦型の悪弊に陥らないためには、株主対策も含めた気配りを多方面に向け続けていなければならない。その反面、研究開発には時間とおカネがかかる。投資に見合う成果が得られない場合もある。むしろ、その方が大多数と言ってよい。このテーマは必ずものになると確信して研究をすすめていっても、競合他社に先を越されたら、それまでに投入した時間もおカネもすべて水泡に帰してしまう。そうしたリスクも抱え込みながら、研究開発は進められる。二年おきに結果が出ないからといって、そのつど研究開発の見直しを迫られていては、到底、大きな成果は望めない。つまり、株主の声が以前に比べ格段に大きくなったいま、単なる”サラリーマン社長”では、”ハイリスク・ハイリターン”の研究開発を長期にわたって続けることなど、事実上不可能に近いのである。
・通常でも、ひとつの研究テーマを追っていると、予想外の副産物が得られる場合がある。まだ用途が見つかっていないけれど、とにかく特許は取得しておく。すると、忘れた時分になって、その特許を活かす技術が別のところでひょっこり生まれ、眠っていた特許がよみがえって、一挙に商品化が実現したりする。こうしたことも、一族経営のため社長が長年代わらず、また株主の顔色を伺わずにすむから可能だったと、林原さんは考えた。「同族経営・非上場でなければ、インターフェロンやトレハロースの世界初の量産化といった、画期的な独自の研究開発など不可能でした」林原さんは、そう断言したものだ。
・今は亡き父や叔父から受けた教えは現在「三笠スタイル」という名刺サイズのカードになって結実している。表面こそ「創意工夫」という、よくある標語だけれど、裏面を見ると「現状否定」とかなり異質だ。「批判を恐れずに現状否定しよう」「物事が上手くいっているときこそ現状否定しよう」「外部の環境変化を意識して現状否定しよう」「本質に立ち返るまで繰り返し現状否定しよう」なんでまた、ここまで現状否定を?「いまある方法が一番ええのか、つねに疑ってかないかんのやないかということなんです。もっとええ方法があるやろ、と。技術者だけやなく、全員がそういう気にならんとあかん。だから、うちは「社員全員開発」と言っているんです。「家で料理するやろ。そんとき、使い勝手がいいとか悪いとかあるやろ。それを出してほしい」と。出してくれたアイデアがよかったら、必ず報償を出しています」
・一族経営については、こう語った。「うちは、もともと家内工業で、ファミリーという形でずっときましたんで、これからは企業としてマネージメントをしっかりとしていかなあかんと思います。創業から100年が経って、次の100年に向かって、組織で動いていく。トップの決断ですべて決めていくよりも、組織一丸となって決めていく。外から新しい優秀な血も入れて、いいところをコラボしながら、さらに伸びていったら、私もわくわくするなあ、と(笑)」ここ3、4年の間に、大手の名だたる企業から十数人を中途採用で入社させたという。「衝突ですか?しっかりコミュニケーションをとってさえいれば、衝突はいいと思うんですよ。新しく来られた方々に、「そりゃ、あかん」と言っていただかないとね」そして、私がまったく思いもよらなかったことに、前任の三代目の社長から、「身内を入れても、早いうちに部長職に上がれんようなら、切らなあかん」と釘を刺されていた事実を明かした。諫言役の元・取締役が、かく首を恐れず口にしたドラッカーの一言は、二代目から三代目を通じても、しっかりと四代目に届いていたのである。私は老舗の老舗たるゆえんをここに見た気がした。
・実はDOWAの工場でも、基準を上回る排水を流出したうえ、関係各所への通報が遅れるという大失態を演じたことがあるんです。「社会に迷惑をかけない」という企業存立の大前提が崩れてしまった。このときは、直ちに自主的に操業を停止し、一ヶ月にわたって自主安全点検を実施し、厳しい社内処分で対処しました。この苦い経験から、今は外部からの工場見学はいつでも歓迎しています。当社はあらゆる工場や事業について、隠し立ては一切しない、というのを基本姿勢にしています。それは、外部からの信頼を得るためだけではなく、社内に緊張感をもたらし、不祥事の芽を断つことにもつながるからです。
・部長の権限は課長に、課長の権限は部下にと、「権限委譲で人を育てる」のがいちばん早道です。将来幹部にしたい人は、できる限り子会社や海外に出して苦労させています。以前と違って最近は左遷されたと思う人はいないですね。というのは、帰ってきた人が結構いいポストに登用されていきますから、「楽をしたら出世できないぞ」と思っているのではないでしょうか。
良かった本まとめ(2015年下半期)
<今日の独り言>
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「千年企業の大逆転」という本は、有名な会社ではありませんが100年も200年も続いている会社で、倒産寸前の崖っぷちから劇的なV字回復をなしとげ、本業の核となるものは変えず、時代に適応しながら業態を柔軟に変化させてきた以下の5社について解説したものです。
・近江屋ロープ株式会社
・ヤシマ工業株式会社
・新田ゼラチン株式会社
・テイボー株式会社
・三笠産業株式会社
※DOWAホールディングス株式会社
なお、DOWAホールディングス株式会社については、この会社も倒産寸前のどん底からよみがえってきた企業であることから、その立役者の吉川廣和会長との対談も巻末に掲載されています。
そのほか以下についても書かれていてとても興味深かったですね。
・近江商人
・京都の老舗の歴史との関わり
・京都が老舗企業率が最も高い
・日本が老舗大国の理由
・経営者と信仰
・老舗の本業力
・巨大団地の減築が再生のポイント
・各国の立て替えサイクル年数
・創業以来危機となった出来事
・外断熱による省エネと長持ち
・大倉財閥
・老舗企業のお化けと思われる素材
・老舗企業の倫理感
・静岡の浜松界隈の世界規模メーカー
・織機の技術革新
・創業者の気質や考え方等の製品への集約
・血族は一般の従業員以上に働かせること
・一族経営の長所と短所
・権限委譲で人を育てる
会社を永続的に続けるには、本業の核となるものは変えず、しかしながらも時代に適応しながら業態を柔軟に変化させることが大切で、国としては戦争状態をなくすというのもポイントだと思いました。
「千年企業の大逆転」という本は、永続的に会社を続けるポイントが分かるだけでなく、歴史の勉強にもなりとてもオススメです!
以下はこの本のポイント等です。
・近江商人に対しては、けちでこすっからいとの陰口もきかれるが、その商売への、堅実にして粘り強く、かつ積極果敢な姿勢は現在の伊藤忠商事や丸紅、西武およびセゾンの両グループ、ワコールといった世界的な企業へと大成する商家をいくつも生み出した。近江商人の商道徳をひとことであらわす言葉として、「売り手より、買い手よし、世間よし」の”三方よし”が、つとに知られる。
・近江屋ロープは新撰組とは商売での関わりもあり、「御用の縄」を納めていたという。彼らが捕らえた尊王派の志士たちを縛り上げる捕縄のことだ。代金を踏み倒される場合がほとんどだったらしく、「とにかく新撰組はこわかったという話だわ」と祖母は眉をひそめたものである。こんなふうに歴史上の人物や出来事が、一家のエピソードとして語られるのが、京都の老舗ならではのおもしろさだ。別の例を二つだけあげよう。1160年創業の「通圓」という宇治茶の老舗では、初代が平家との合戦で、主君の源頼政とともに討ち死にをとげている。七代目は、「一休さん」こと一休和尚と親しく、八代目は、銀閣寺を建てた足利義政の茶坊主(本来の意味での茶職)であった。いまに残る家宝は、豊臣秀吉が千利休につくらせた、茶道の水汲み用の釣瓶である。また、「永楽屋」という400年続く織物商は、織田信長の軍にいた先祖が出陣のおり、よろいの下に着た直垂の「永楽通宝」の紋から屋号をとっている。京都を訪れた読者なら、きっと近江屋ロープの麻にふれたことがあるはずだ。えっ、思いあたらない?では清水寺の舞台で、正面入り口の上からぶらさがっている太い綱をゆらして、鈴をじゃらじゃら鳴らしたことはありませんか。正式には「鐘の緒」という、あの麻の綱を代々製造してきたのが、近江屋ロープなのである。
・ご存じのように、戦中、京都は空襲を免れた。なにせ、京都のお年寄りが「こないだの戦争」といえば、室町時代の「応仁の乱」を指すといった逸話がまことしやかに語られる土地柄である。このことと、京都が「老舗企業率」で日本のトップに立つ現実とは、まったく無縁ではない。それどころか、日本にはなぜこんなにたくさん老舗があるのかという理由の核心にまで、大いに関わってくる。日本は、文句なしに「世界一の老舗大国」なのである。たとえば、近江屋ロープのような創業から200年を超えて続く企業が、各国にどれくらいあると思われるだろうか。実践経営学の調査によれば、韓国を含む朝鮮半島はゼロ、つまり一社もない。古代文明と長い歴史を誇る中国・インドでも、中国が6、インドが3といずれも一桁である。では日本はどうか。なんと3千社にものぼるのだ。日本に次ぐのがどいつだが、およそ800社で日本の4分の1程度にすぎない。別のデータもある。後藤俊夫著「三代、100年潰れない会社のルール」によると、業歴200年以上の会社は、日本・3113、ドイツ・1563、中国・64となっている。データベースの違いによるのだろうが、いずれにせよ、200年以上の老舗が日本に最も集中している点に変わりはない。韓国にそれが皆無である事実は、韓国銀行が2008年にまとめた報告書でも認めている。次に100年以上の国内老舗企業の数に関しては、帝国データバンクが26144社(2013年)、東京商工リサーチが27441社(2012年)と発表している。しかも驚くべきことに、この数は年を追って増えてきた。つい見落とされがちだが、豆腐屋、銭湯、薬局、和菓子屋、旅館、呉服屋といった、どこにでもありそうな店の中にも、創業100年以上の老舗が息づいている。このような株式会社化されていない個人商店なども含めると、業歴100年以上の老舗は10万軒を超えると推計する専門家もいる。500年以上は、帝国データバンクが39社(2010年)、東京商工リサーチが158社(2012年)と、かなりの差があるが、担当者によれば、前者は相当しぼりこんだ数字とのことであった。千年以上のいわば”超老舗”となると、さすがに減って6社を数えるのみ。だが、100年以上、200年以上、500年以上、千年以上のいずれの指標で見ても、日本の老舗の数はずばぬけているのである。
・いったいどうして日本は世界一の老舗大国になれたのか。その一番の理由は、日本が事実上、長期にわたって侵略されたことも内線にみまわれたことも、ただの一度さえなかったためと私は考えている。鎌倉時代の元こうは、二度とも水際で撃退した。先の大戦に敗れ、連合国軍に占領されたが、あれは世界史で一般に定義される「侵略」とはいえない。また「内戦」とは、異民族や同じ民族でも党派・宗派の異なるグループが、国土の大半を戦場にして血で血を洗うような殺しあいをくりひろげることだ。最近ではイラクとシリアに国内紛争が、その典型である。日本の戦国時代や幕末の勤王・佐幕の争いは、私見では「局地戦」にすgない。世界中の老舗を調べていて、はたと気づいたことがある。被侵略や内戦の期間が長ければ長いほど、その国に老舗は残らない。逆もまた真なりで、老舗の数は、被侵略・内戦の期間に反比例して少なくなる。
・老舗企業のトップは京都だが、最下位は沖縄である。帝国データバンクが2008年に発表した「伸びる老舗、変わる老舗」と題するぶあついレポートによれば、沖縄には業歴100年以上の企業がたった9社しかない。そのうちの6社は泡盛の蔵元である。老舗企業率でいうと、沖縄は京都の1/44にも及ばない。企業数でも京都は876、第一位の東京は1646だから、なおさら沖縄の「9」という数字の特異さがきわだつ。その背後にある戦禍のすさまじさに、言葉を失うほかはない。老舗の最大の敵-それはまぎれもなく戦争である。
・昔から、経営者と信仰とは切ってもきれないつながりがある。”経営の神様”松下幸之助は、天理教の影響を深く受けていた。京セラを一から優良企業に育てあげ、日本航空の再建にもあたった稲盛和夫は、谷口雅春が創設した「生長の家」に一時期、足げく通い、のちに60代半ばになって臨済宗の寺で得度をうけている。変わり種では、西武鉄道グループのオーナーだった堤義明が、9つの頭を持つとされる九頭竜をたてまつった九頭竜大明神の信者である。スタジオジブリの現・社長やヤマダ電機の前・社長は、いずれも創価大学の出身で、池田大作・創価学会名誉会長への敬慕の念を隠さない。老舗企業のオーナーには、私が知るかぎりでも、神道のさまざまな神々をあがめる人が多い。経営者は、かくも孤独なのだ。そう言ってしまうと所詮ひとごとになるので、我が身におきかえてみたい。野々村さんを10年以上にもわたって苛んだ蟻地獄のような経営危機に、もし私が直面し、自力だけで立ち向かい持ちこたえられるかと問われれば、私は首を横に振らざるをえない。それが新興宗教で何であれ(カルトは論外だが)、苦難や窮状から人を救い、周囲を害せず、ともに前を向いて進ませる心の支えとなっているなら、斜に構えた第三者がとやかく言う筋合いのものではなかろう。これは、その教団に対する世間一般の評価とは、まったく別の問題である。とはいえ、野々村さんが尊敬する女性指導者の教団が、悪評紛々というわけでは決してなく、その信奉者には大企業の経営者や有名芸能人も名を連ねている。
・バブル期の雇用人数はほぼ維持したままで、卸売りから製造業へと業態を成功裏に変えられた老舗などというものはめったにない。「見捨てないでください」と必死に訴えてきたベテラン社員ら全社員をひとりも見捨てなかったからこそ、近江屋ロープは世間から見捨てられずにすんだともいえるのである。こういう力を、老舗の「本業力」と私は呼んでいる。代々家業としてきた本業を守り、かりに新たなビジネスを手がけるにしても、本業の”レール”の延長線上からは決してはずれない。この本業力こそ、つぶれない老舗の共通点のひとつなのである。
・知っている人にはどうということもない話だろうが、知らなかった私は心底驚いた。いやもう「減築」というやり方に、びっくりしてしまったのである。繰り返すけれど「減築」であって、「建築」ではない。たとえば、目の前に、1970年代に建てられた巨大団地があるとしよう。6階建てで、屋上に物干し場がある。にもかかわらず、エレベーターはない。売り出し当時は、抽選でもめったに当たらない人気物件だったが、一戸建てへの引っ越しや少子高齢化で世帯数が減り、いまや空き部屋ばかりが目立つ。これを「減築」すると、どうなるだろうか。かりに、ひとつの階に50室あり、「1」から「50」までの番号がふられているとする。一階は「101」から「150」まで、6階は「601」から「650」までといった具合にである。このうちのちょうど真ん中にあたる、「21」から「30」までの部屋を、思い切って全部とりはらってしまうのである。団地をケーキにたとえると、屋上からナイフを入れ、一番下までいっきに刃をおろす。一棟の幅広の団地から、あいだをそっくり抜き、壁と壁とを切り離して、建物を二つに分けるのである。そのうえで、おのおのの棟に三角屋根をつくる。最新のエレベーターを設置する。バルコニーもつけ、外壁は明るい色に塗りかえる。もう、かつての古びた巨大団地の面影はない。新築の高級マンションかと見まがうような集合住宅が、眼前にあらわれる。まるで大がかりなマジックの実演を見せられたようではないか。この工法を「減築」といい、実際に、ドイツの旧東ドイツ地区で持てあまされていた巨大団地は、これでよみがえった。若い世代の入居者が増え、保育園が4軒できた。少子高齢化の問題をかかえる欧米諸国や日本からは、視察団が引きも切らずおとずれるという。
・二つのデータからあらためてはっきりするのは、私たちの暮らしに住宅費がどれほど重くのしかかり、とりわけローン金利の支払いがいかに大きな負担となっているか、その理不尽な実態である。身も蓋もない言い方をすれば、マンションをローンで買うと、金融機関や住宅関連業界にむしり放題にむしりとられる。おまけに、そのまま何もしなければ、資産価値は目減りする一方で、転売も難しい。夢に見たマイホームのせいで、泣きっ面に蜂のようなありさまに成り果ててしまうのである。そうまでして手に入れたマンションも、6戸に1戸は、1981年に定め得た現在の耐震基準の前に建てられたものだ。国土交通省の推計では、およそ106万戸を数え、うち3割が築40年を超えている。いまから10年後、このような築40年超のマンションは100万戸以上に激増する。東日本大震災以降、耐震基準への国民の目は、俄然厳しくなった。ことに1981年以前の建築物では、居住民のあいだから、次の大地震に対する不安の声があがっている。人口の4人に一人が分譲マンションで暮らす東京都では、耐震診断の義務化が条例で課せられた。
・ヤシマの試算では、築30年・全50戸のマンションを立て替えた場合、総計で12億6千万円かかり、一戸あたりの費用は2520万円となるが、改修なら総計1億2500万円、一戸あたり250万円で済む。他のデータでも、改修なら立て替えの8分の1から12分の1程度の金額が相場だ。立て替えよりも改修のほうが現実的かつ合理的な選択であることは、だれの目にも明らかだろう。築30年や築40年のマンションを改修して、欲を言えば、築100年を超えても住み続けるのが理想ではあろう。
・「住環境の機能が、住んでる人の暮らしと合わなくなったから、壊して建て替える。これはわかるんです。やむをえない。でも、日本は、住民のためじゃなくて、建築業界のために壊しているように見えるんですよ。これはおかしいじゃないですか」独立行政法人建築研究所による各国での建て替えサイクル年数を見ても、イギリスの131.2年、フランスの85.6年、アメリカの74.1年と比べ、日本は38年とあきれるほど短い。
・帝国データバンクの「伸びる老舗、変わる老舗」によると、アンケートに回答した814社のうち、「創業以来の危機となった出来事・事件」に「戦争」をあげた老舗企業が最も多く、278社で全体の34.2%を占める。3社に1社が「戦争」と答えたのである。やはり、老舗の最大の敵は戦争にほかならない。次が「主力商品の売り上げ激減」で27.5%、さらに「資金繰り」21.4%、「災害」19.2%と続く。
・「今までのような内断熱では、冬に暖房のスイッチを入れると、室内はすぐ暖かくなるんですけど、周りのコンクリートは冷えたままなので、スイッチを切るとまたすぐに寒くなっちゃう。それでエアコンをフル回転させるから、エネルギーのロスがものすごく大きい。外断熱なら、そういうロスが少なくてすむわけです」-省エネ対策になる?「ええ。外断熱化や、窓ガラスを「ペアガラス」という複層ガラスに変えることで、暖房費が年間4割以上も減らせます。これは経済産業省の試算ですけど、太陽光パネルや電気自動車よりも省エネに一番貢献するのは、建築物の省エネなんですね。外断熱のポテンシャルは実際、ものすごく大きいんですよ。それなのに、中古集合住宅への外断熱って日本ではほとんどおこなわれてきませんでした」-なぜですか?「技術的に非常に難しかった。実は20年くらい前に、我々も外断熱に一度挑戦して失敗しているんです。また、古い建物を耐震改修すると、見た目が非常にゴツくなってしまうのも問題でした」ーどのように技術的な問題をクリアしたのですか?「たとえば外壁がタイルなら、全体に網タイツのようなネットをかぶせ、その上にポリスチレンフォームの断熱材を接着剤で張り付けていく工法です。外から覆うので、建物は冷えません。以前なら古いタイル張りのマンションを改修しようとしたら、タイルを全部張り替えるしか方法がありませんでした。でもポリスチレンフォームなら表面の仕上げがいろいろできるので、ゴツくならずセンスよく仕上げられるようになったんです」-新築じゃなくても外断熱の工事が可能になった?「ええ、改修でも外断熱はできます。海外の高級ホテルでは、改修の際、外断熱にするところが増えています。外断熱に限らず、ビルを改修してエネルギー効率を高めるのは、世界的な趨勢なんですよ。ニューヨークのエンパイアステートビルなんか、省エネ改修工事で熱効率が30%もアップし、建物の資産価値も高くなって、テナント料が2倍になったそうです」アメリカではこのところ、建物の断熱性に厳しい目が向けられているという。建物の断熱性を調べるために、夜間、ヘリコプターを巡回させている自治体もある。上空から、一軒一軒に赤外線カメラを照射して、断熱性が悪い家屋には、あとでドアに”バッドマーク”のシールをベタベタと貼っていく。その結果、ある街では省エネ率が3割も向上したとか。「そこまでやるか」と言いたくなるが、外断熱化を勧めるもう一つの決定的な理由がある。それは建物を長持ちさせられるからだ。外断熱化の結果、コンクリートが気温の変動によって伸びたり縮んだりしにくくなるため、コンクリートのひび割れや、外壁タイルの剥落などもかなり防げるようになる。こうして建物の寿命を大幅に伸ばせるのである。
・”富国強兵”の時節柄、軍靴の需要は、うなぎのぼりに高まっていた。西郷隆盛の西南の役や日清・日露の両戦争で巨利を得た大倉組は、やがて「大倉財閥」と称されるまでにのしあがる。創業者の大倉喜八郎は、そもそも鳥羽伏見の戦いで明治新政府軍と旧幕府軍の双方に鉄砲を売ってボロ儲けをしたといわれ、陰では”死の商人”呼ばわりされていた。その反面、鹿鳴館や帝国ホテルの建設時には、立役者のひとりともなった。大倉組の土木部は現在「大成建設」になり、軍靴製造所のほうは靴の有名ブランド「リーガル」と名前を変えている。
・老舗企業の成否は、自社が連綿と受け継いできた素材を「お化け」と思えるかどうかにかかっている。数多くの老舗企業を取材してきた私は、そう断言してもさしつかえないのではないかと考えるようになっている。典型的な例を3つ挙げよう。四国の香川で安政元年(1854年)から続いてきた「勇心酒造」という醸造元では、もう清酒そのものからの利益は全体の1%にも満たない。だが、米の発酵技術を活かして、アトピー性皮膚炎や胃潰瘍の症状の改善が副作用なしに「期待される」液剤を開発したり、皮膚そのものを健やかにして肌を潤わせる素材を大手化粧品メーカーに提供したりしている。そのかたわら、清酒づくりも断じてやめない。そこに自社の原点があると確信しているためだ。発酵した米が、この老舗企業のお化けなのである。神奈川の「セラリカNODA」にとって、それはロウである。天保年間の1832年に九州・福岡で創業して以来、江戸末期から明治・大正を経て昭和40年代に至るまで、ハゼの実からとれるこの会社のロウは、整髪料と切っても切れない間柄にあった。当初は鬢付油として、のちにはポマードとして、ロウがそこに加えられないことなど想像もできなかった。それが、リキッドやトニックといった液体整髪料の登場で、行き場を失う。会社は倒産寸前にまで追い込まれたが、ロウへの信頼はゆるがなかった。コピー機やファクシミリ機のトナーにロウを入れ、その特質を活かして、すぐ乾き、こすれにくくにじみにくいクリアな印字を実現させたのである。さらに、「マーブルチョコレート」のようなお菓子のコーティングや、フローリングの床を這い這いする赤ちゃんがなめても安心なワックスなどさまざまな製品に、ロウを浸透させていった。最後にあげる例は、「筆ぺん」の発明で知られる奈良の「呉竹」である。業歴112年は奈良の墨業界では長いとは言えないが、伝統工法で墨を手作りするかたわら、墨とは無関係のように見える新製品を次々と世に送り出してきた。夜道を歩いていて、気づかれたことがあるに違いない。路面でくるくると回転しているように光あの「道路錨」も、呉竹が生んだ傑作だ。あれは何も、電線から電気を引いて光っているわけではない。太陽電池が生み出した電気をいったん蓄電池にたくわえ、そこから配線しているため、電線がなくても光るのである。この蓄電池に、独自の炭素微粒子分散技術によって開発された塗料が使われている。「融雪剤」という、ゴルフ場に雪が降ったとき、早くきれいに雪を消し去る製品もそうだ。原理は、雪だるまの目のところに炭団を入れると、太陽の熱を吸収して溶けやすくなるのと一緒である。炭素を非常に細かく砕いて着色力をあげれば、少量の融雪剤でも、広範囲の雪を溶かせるのである。墨は炭素でできている。道路鋲も融雪剤も言ってみれば、”炭素つながり”で、この老舗企業にとってのお化け素材は、つまり炭素なのである。
・新田ゼラチンの社是にある「愛と信」にはヤシマ工業の「正義の味方」に呼応するところがある。この”ベタな”感じ、気恥ずかしさと背中合わせにあるこのモットーは、老舗企業に受け継がれてきた倫理観を、現代風に言い換えたものではないか。江戸時代や明治時代に多くつくられた老舗の家訓も、同じ精神を伝えている。いわく、「信用第一」「信義を重んずべし」「和心誠心」「先義後利」「誠心誠意正直な商い」「お客様に誠実を」-。「士魂商才」という家訓もある。三越呉服店を明治末から大正にかけて躍進させた日比翁助は、「武士の魂をもって世に還元する商店」をめざせと説いた。これなど、ようするに「正義の味方」という意味ではあるまいか井原西鶴にならえば、「欲に手足の付いたるもの」の人の世ではまっとうな商いを貫いていくのは、なまなかなことではなかろう。現代に生きる老舗企業も、移り気な大衆社会の中で、わかりやすい倫理観を標榜する必要性に、たえずせまられているのである。
・かねてから気になっていた。静岡の浜松界隈からは、どうしてあんなに世界規模のメーカーが続々と出現したのか。「ホンダ」の本田宗一郎がオートバイをつくりはじめた場所が浜松である。自動車の「スズキ」も、浜松で誕生した。同じ浜名湖沿岸の湖西市は、あの”世界のトヨタ”を創業した豊田佐吉のふるさとである。楽器の「ヤマハ」も、浜松の産だ。世界最大の楽器メーカーで、オートバイの「ヤマハ」は途中で枝分かれした兄弟会社である。
・浜松近郊の出身者はこう語る。「同じ静岡でも、県庁のある静岡市のほうと、こことでは気質が全然違うんですよ。静岡市のほうは、どちらかというとコンサバ(保守的)。こっちは革新といいますか、何かをしようとするとき、頭で考えすぎないでとにかくやってみる。頭で考えていてもしょうがないから、うまくいくかどうかわからないけど、「何かやるか、じゃあやろうか」と。地元の言葉で「やらまいか」というんですけど、そういう精神を我々も持っているんじゃないか。それと基幹産業が多い。クルマのようにファンダメンタルな技術を持っているメーカーさんがたくさんあるので、技術的な問題が起きたとき周りに相談しやすいというのもあったんじゃないですか」
・「遠州」と呼ばれた江戸時代から綿作と織物業が非常に盛んで、日々工夫を凝らし切磋琢磨しているうちに、知らず知らず技術革新が繰り返される。かくして地元で懸命にしのぎを削りあっていたら、いつのまにか国内でも最高水準の技術と紡績工場を有するようになっていたというのである。この構図は、江戸の絵師たちが、いまでいうところのスターの”ブロマイド”やら”名所観光写真”やら、”無修正AV”にあたるものをせっせと描いていたところ、その大胆な構図や色彩表現、対比遠近法がどんどん洗練されていき、やがてはるかかなたのヨーロッパの画家たちに影響を及ぼし、世界的な芸術として認められたものだ。ゴッホやモネなど、浮世絵そのものを自作の中にまで描き込んでいる。ついでに言えば、江戸の浮世絵師たちをとりまとめた版元の代表格が蔦屋重三郎という人物で、映画や音楽などのレンタル・ビジネスで有名なTSUTAYAの社名の元となった。現代日本の漫画家たちにしても、週刊漫画誌での熾烈な競争に生き残るため、不眠不休で描き続けているうちに、作画の水準が途方もなく上がっていき、ふと気づいたら、彼らの漫画や劇画が世界各地で人気の”コミック”に変身していたのであった。
・一説によると、糸で織物をおる織機には、現代の機械に必要な、ありとあらゆる要素が詰め込まれていたという。明治時代、紡績工場の女工たちを悩ませていた織機の問題は、大別すると二点あった。頻繁な糸切れを、どう防ぐか。不便なよこ糸の交換を、もっと簡単に手早くできないか。この二大難問は、織機が手動から自動に変わっても、つきまとった。しかし、地道な技術革新を重ね、やっとのことで、横糸の自動交換装置をつくりだす。糸が切れたときには、機械が自動的に止まり、ただちに新しい糸を補給する仕組みも完成させた。操業中の異常や故障の検知、不良品の発生防止から、大量生産、高速運転、無人化に至るまで、そのつど必要とされた技術を現実のものとしていくにつれ、織機の性能は目を見張らせるほど向上していった。豊田佐吉の考案した自動織機がその後、国産自動車につながっていくように、織機の技術をとことんまで突き詰めていく風土のなかから、ホンダもスズキもヤマハも世界に飛び立ったのである。
・テイボーの帽子専業時代の興味深い裏話は多々あるが、ひとつだけご披露しよう。明治末、中国大陸に進出をはかって、”天国と地獄”を両方味わったことの顛末である。清の時代、「弁髪」という、欧米人からは「豚のしっぽ」などと揶揄された独特な髪型が強制されていたが、1911年の辛亥革命で中華民国ができると、今度は断髪令がくだされる。ここを商機とみたテイボーの創始者たちは中国向けの輸出にのめりこみ、会社はじまって以来の大儲けをする。ところが、革命の頓挫と、手のひらを返したような断髪令のせいで、ついには大量在庫の投げ売りや、野澤社長の辞任にまえ追い込まれてしまう。この窮地を救ったのも、海外での大事件であった。1914年に勃発した第一次世界大戦により、ヨーロッパからの高級帽子の輸入が、ぷっつり途絶えた。ヨーロッパでも品不足が深刻となり、めぐりめぐって国産がふたたび脚光を浴びて、からくも立ち直りのきっかけをつかんだのである。中国での革命騒ぎにふりまわされて倒産寸前におちいったものの、第一次世界大戦で息をふきかえしたわけだ。帽子市場の国際性を如実にあらわる一例といえよう。これを機に和製帽子の輸出が急伸し、じきに輸出高が輸入高を上回って、帽子は日本の重要な輸出品となっていく。
・テイボーでは、変わり種ではアラビア文字専用のペン先をつくったこともあるそうだ。我々から見ると至極ユニークなあの文字は、太さが均一ではなく、太いところと細いところがある。テイボーでは、両方の文字が一本のペンで書けるペン先を開発して、イスラム圏の顧客からの要望に応えたという。
・ユーザーからのリクエストを徹底的に製品化してきた末に、三笠の現在がある。それは、事実上の創業者と言ってよい二代目の孝一さんが敷いたレールの到達点でもある。このことは何も経営の全体を指しているだけではない。大阪・船場での丁稚奉公で身にしみこんだ知恵や、戦中の二等兵時代に上官の濡れた軍足を体温で乾かした姿勢が、キャップの改良にそっくり受け継がれているのである。創業者の気質や考え方、実人生での立ち居ふるまいがこれほど製品に集約されている老舗企業は滅多になかろう。孝一さんはのちに地元の町長にも二度なるのだが、選挙戦で連呼していたせりふが、なんと「あなたが主役で、わたしはしもべ」というものなのである。
・ドラッカーによれば、100年以上続く世界のファミリー企業には、いくつかの不文律がある。血族は雇っても構わない。だが、一般の従業員以上に働かせる。実際に血族を働かせてみて、将来「トップ・マネージメント」がつとまらない、つまり日本流に言えば部長以上の幹部になれないと見極めたなら、10年でやめさせる。そうしないと、一般の従業員のほうがやめていく。こうした不文律を守っているファミリー企業は存続してきたが、そうではないファミリー企業は淘汰されていった。
・「林田孝一さんは、かなり割り切って社内改革を進めると思っていましたが、現にそのとおりに進められましたね。ご自分の兄弟をご自分で処理された。現社長もいとこの方たちも処理されました。いえ、解雇したんじゃなくて、みなさん、自らやめていかれたんです」-いったい、どんな方法を用いたのですか?「現社長は、親族の方たちを一人一人呼んで、「しっかり仕事しろよ」「みんなに恥じない仕事をしろよ」と諭された。それをひとり3、4回されたようです。そう言われても、ほとんどの人が何も答えられなかった。で、自分からやめていかれた、と。そのやり方には、私も感服しまsた。とくに奈良には、神武天皇以来2600年の歴史があるのはいいんだけど、”ことなかれ主義”も非常にはびこっているんです。会社の中にも巣くっている。そこで、林田孝一さんがおやりになったことは、実にすごいことですよね」
・一族経営には概して、経営判断と事業着手の速さ、果断な実行力、長期的な経営戦略といった長所がある。その一方で、同族による経営権の独占や会社の私物化、ワンマン化、内部チェック機能やコンプライアンスの乏しさなどの短所も指摘されてきた。
・私から見ても、一族経営と非上場が、日本の老舗企業を語る際にふっけつな二大要素なのである。この両方が林原にも、そして三笠にもあてはまる。さしずめアメリカ発のマーケット至上主義者などからは、真っ先にやり玉にあげられる対象なのであろう。しかし、林原さんは逆に、一族経営で非上場を続けてきたからこそ、会社の進む方向がぶれず、長い年月をかけた研究開発が可能だったと反論した。周知の通り、一般の上場企業では、社長の任期は2年と限られている。ひとりの社長が長期間つとめる場合もあるが、2年おきに数字ではっきりとした結果を出さなければ、株主から突き上げを食らうのは必至だ。短期決戦型の悪弊に陥らないためには、株主対策も含めた気配りを多方面に向け続けていなければならない。その反面、研究開発には時間とおカネがかかる。投資に見合う成果が得られない場合もある。むしろ、その方が大多数と言ってよい。このテーマは必ずものになると確信して研究をすすめていっても、競合他社に先を越されたら、それまでに投入した時間もおカネもすべて水泡に帰してしまう。そうしたリスクも抱え込みながら、研究開発は進められる。二年おきに結果が出ないからといって、そのつど研究開発の見直しを迫られていては、到底、大きな成果は望めない。つまり、株主の声が以前に比べ格段に大きくなったいま、単なる”サラリーマン社長”では、”ハイリスク・ハイリターン”の研究開発を長期にわたって続けることなど、事実上不可能に近いのである。
・通常でも、ひとつの研究テーマを追っていると、予想外の副産物が得られる場合がある。まだ用途が見つかっていないけれど、とにかく特許は取得しておく。すると、忘れた時分になって、その特許を活かす技術が別のところでひょっこり生まれ、眠っていた特許がよみがえって、一挙に商品化が実現したりする。こうしたことも、一族経営のため社長が長年代わらず、また株主の顔色を伺わずにすむから可能だったと、林原さんは考えた。「同族経営・非上場でなければ、インターフェロンやトレハロースの世界初の量産化といった、画期的な独自の研究開発など不可能でした」林原さんは、そう断言したものだ。
・今は亡き父や叔父から受けた教えは現在「三笠スタイル」という名刺サイズのカードになって結実している。表面こそ「創意工夫」という、よくある標語だけれど、裏面を見ると「現状否定」とかなり異質だ。「批判を恐れずに現状否定しよう」「物事が上手くいっているときこそ現状否定しよう」「外部の環境変化を意識して現状否定しよう」「本質に立ち返るまで繰り返し現状否定しよう」なんでまた、ここまで現状否定を?「いまある方法が一番ええのか、つねに疑ってかないかんのやないかということなんです。もっとええ方法があるやろ、と。技術者だけやなく、全員がそういう気にならんとあかん。だから、うちは「社員全員開発」と言っているんです。「家で料理するやろ。そんとき、使い勝手がいいとか悪いとかあるやろ。それを出してほしい」と。出してくれたアイデアがよかったら、必ず報償を出しています」
・一族経営については、こう語った。「うちは、もともと家内工業で、ファミリーという形でずっときましたんで、これからは企業としてマネージメントをしっかりとしていかなあかんと思います。創業から100年が経って、次の100年に向かって、組織で動いていく。トップの決断ですべて決めていくよりも、組織一丸となって決めていく。外から新しい優秀な血も入れて、いいところをコラボしながら、さらに伸びていったら、私もわくわくするなあ、と(笑)」ここ3、4年の間に、大手の名だたる企業から十数人を中途採用で入社させたという。「衝突ですか?しっかりコミュニケーションをとってさえいれば、衝突はいいと思うんですよ。新しく来られた方々に、「そりゃ、あかん」と言っていただかないとね」そして、私がまったく思いもよらなかったことに、前任の三代目の社長から、「身内を入れても、早いうちに部長職に上がれんようなら、切らなあかん」と釘を刺されていた事実を明かした。諫言役の元・取締役が、かく首を恐れず口にしたドラッカーの一言は、二代目から三代目を通じても、しっかりと四代目に届いていたのである。私は老舗の老舗たるゆえんをここに見た気がした。
・実はDOWAの工場でも、基準を上回る排水を流出したうえ、関係各所への通報が遅れるという大失態を演じたことがあるんです。「社会に迷惑をかけない」という企業存立の大前提が崩れてしまった。このときは、直ちに自主的に操業を停止し、一ヶ月にわたって自主安全点検を実施し、厳しい社内処分で対処しました。この苦い経験から、今は外部からの工場見学はいつでも歓迎しています。当社はあらゆる工場や事業について、隠し立ては一切しない、というのを基本姿勢にしています。それは、外部からの信頼を得るためだけではなく、社内に緊張感をもたらし、不祥事の芽を断つことにもつながるからです。
・部長の権限は課長に、課長の権限は部下にと、「権限委譲で人を育てる」のがいちばん早道です。将来幹部にしたい人は、できる限り子会社や海外に出して苦労させています。以前と違って最近は左遷されたと思う人はいないですね。というのは、帰ってきた人が結構いいポストに登用されていきますから、「楽をしたら出世できないぞ」と思っているのではないでしょうか。
良かった本まとめ(2015年下半期)
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