なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

愛機よ何処に

2005-05-15 20:49:16 | 昭和
僕が小5の時に夢中になった遊びは模型飛行機作りだった。最初は文具店で長方形の袋に入ったセットを買って作っていたのだが、もっと滞空時間の長い飛行機が作りたいと思い、竹ヒゴやフレームの材料を模型店で手に入れ自作するようになった。翼の湾曲部分はロウソクの炎をあてて自由に曲げて作るのだ。飛行機の骨組みは殆ど徹夜で作っていた。そして、翼に紙を貼り、水を霧吹きでかけて乾燥したら翼はピンと張って出来上がりだ。そして、わくわくする試験飛行だ。プロベラをまわしながらゴムを巻き風に向かって飛行機を手から静かに放すと我が愛機は空高く上昇して行った。そうして僕は何機も飛行機を作って行った。いつの間にか僕の飛行機作りは友達の間から評判になり、飛行機の製作も時々注文を受けるようになった。オリジナルだから、部品代はもちろん、工賃も十分過ぎるほど貰っていた。僕の作った飛行機は離陸するときは地上滑走して舞い上がりそして着陸も2本の車輪で着陸するのだ、だから評判になったのだ。それは翼の竹ヒゴを湾曲させる時の微妙なバランスにコツがあった。僕の家系はみんな手先の器用な者が多かった、だから、貧乏だったのかも知れない。ついに僕はプロペラまで自作した、しかも市販のプロペラより大きなプロペラを作った、シャフトも長く、翼も大きく、ゴムも倍位巻ける大型機だった。完成までに何日もかかった、試験飛行のたびに墜落して、そのつど手を加え、何とかこれまでの飛行機の滞空時間をかなり越える力作が完成した。僕が広場で試験飛行をしていると小さな子供達が僕の周りに集まってきた。僕は得意気にゴムを巻くと飛行機を地上滑走させた、その飛行機は翼を得た鳥のように大空に舞い上がった、そして左旋回しながらさらに上昇を続けたそして飛行機は西大谷の頂上を超えたのだ、頂上の下は八幡東区の日の出町だ。僕は青ざめたあんなに高く上っていくとは思わなかったのだ、上昇気流が強かったとは言っても今までに飛行機はあそこまで高く昇った事はない。僕は機影の消えた付近まで必死に駆け上り愛機を探したが、どこにもその姿は見あたらなかった。眼下の住宅の屋根を一軒〃目を凝らして探したが愛機は見つからなかった。そして日の出町に下りて道路も隅々まで探したが徒労に終わった。僕の手作り愛機は越境して行方不明になってしまったのだ。僕は今でもホームセンターで売っている模型飛行機のキットを見るたびに「空高く消えた我が愛機」の事を思い出す。僕は間もなく小学校卒業を控えていた頃だ。あの頃は近所で模型飛行機を飛ばして遊べる空き地がどこにでもあったのだ、住宅やマンションの密集した現代では絶対に出来ない飛行機遊びだ。僕は大人になってからも大空に吸い込まれえていく「我が愛機」の夢を見る事がある。それは、昭和の空を飛び続け平成の空を今でも格好良く飛び続けている我が愛機の夢だ。