なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

父の仕事その2

2005-05-09 10:28:39 | 昭和
父が日曜出勤の時に僕は時々トラックの助手席に乗せてもらって色んな所に行った。その当時のトラックはボンネットトラックである。一番遠いところは山口県だった。その当時九州と本州を結ぶ道路はなかった、(海底国道トンネル開通は昭和33年)山口県に行くためには門司港からフェリーに乗って海を渡らなければならない時代だった。だから、山口行きの時は朝5時位に会社を出てフェリーの順番を待つのだ。まだ夜の明けないフェリー乗り場にはすでに沢山の車が整然と並んでいた。その日の配達先のひとつに大きな料亭があった。多分下関だったと思う。醤油の納品を終えて料亭の勝手口から美味しそうな匂いがしてくる、賄い場の奥さんが僕と父のために昼ごはんを作ってくれていたのだ。家のご飯とも違う、学校給食とも違う、とに角美味しかった。この料亭でも父の配達した醤油を使っているのだと僕は誇らしかった。物心つく頃から車に親しんだ僕はトラックの運転を小3の頃までに頭の中で完全に覚えていた、当時のトラックはギアを変える時にクラッチを2度踏まねばならない、一度ギアをニュートラルにしてそれからギアを変えて行くのだ。実際僕は小学5年生の時に昼寝に帰って来た父に黙ってトラックを動かして町内をドライブしている。実際に動かしたのはその時だけだったが。父の横で車の操作をする父の手や足の動きを覚えてイメージトレーニングした結果である。その後免許が取れる年齢になって自動車学校に行ったが僕は最短期間で免許を取得した。当然である。最初に指導に当たった教官が「お前だいぶ無免許で乗っとうやろ?」と聞かれたので「はい、小学5年生の時からトラックを運転できました」。と答えた。教官は「・・・・・・?」
   *上の写真は関門フェリーではありません、若戸フェリーです。