なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

祖父の孤独

2005-05-22 18:34:13 | 昭和
祖父はその頃70歳を越えていたが漁で鍛えた肉体は一回り若く見えた。祖父には4人の息子がいた、その息子達は漁師以外に収入のない串木野を離れ県外に職を求めて祖父の家は祖父と祖母の二人だけの生活に戻ってしまった。その猟師町のどこの家も状況は同じであり過疎化が進んでいた。海がしけて漁のない日は祖父は朝から焼酎を飲んでいた、酔いが回ると僕をひざに乗せて昔話を聞かせてくれた。少年時代の僕の父は素もぐりで町一番になった事、昭和の初めの頃は串木野の海岸がいわしの大群で海の色が銀色に輝いていたこと、その採れすぎたいわしをツミレにして油で揚げたのがさつま揚げ(つけあげ)の元祖だとかいろいろな話を聞かせてくれた。祖父は昔を思い出していたのだ大正から昭和にかけて漁一筋で4人の息子を育て上げ、世に送りだした安堵感と寂しさ。4人の息子のために一生懸命頑張った大正から昭和の初めの頃。父を戦地に送り出した事、そして父の無事な帰還。それから母と結婚し初孫の僕を授かったことなど色んな思い出が頭をよぎっていたに違いない。しかし、初孫一家も今は遠くに暮らす身の上だ。こうして4年ぶりに祖父の元に里帰りした初孫と過ごす幸せをその時かみ締めていたのかも知れない。僕の夏休みもいよいよ残り少なくなってきた。僕は猟師町の子供そのものに変身していた、全身を真っ黒に日焼けし来たときよりもたくましくなっていた。そして、祖父母との別れの朝がやって来た。祖母は列車の中で食べる弁当を昼と夜の2食分を僕に持たせた。そして、門司港行きの蒸気機関車が駅に入った、祖父と祖母は窓の下で「また、遊びにこいよ、学校の勉強がんばれよ」と大きな声で言っていた。蒸気機関車の「ポー」の汽笛とともに列車はジワリと動き始めた、祖父の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。そして、また大きな声で「きばれよ T雄!」と叫んだ、僕は列車を飛び降りたい気持ちだった。せつない寂しい気持ちを残したまま列車は串木野駅を後にした。その夜遅く列車は戸畑駅に着いた。こうして僕の8歳の一人旅は終わった、一ヶ月にわたる長期旅行だった、子供心に身も心も一回り自分が大きくなって帰ったような気がした。それから5年後の夏の夜、父宛に電報が着いたそれは「父死す、帰れ」と記されていた。祖父が亡くなったのだ、脳溢血による急死だった。享年77歳。僕は5年前の串木野駅で最後になった祖父の顔を思い出して絶句した。「T雄 キバレよ」と祖父の声が聞こえた。僕が中学生になった夏の出来事である。「じいちゃん T雄はまだキバッテ(頑張って)いますよ」。

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1 コメント

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戸畑行って来ました (よしこ)
2005-05-22 21:35:44
戸畑レトロ行って来ました。サテイに車を留めて主人と駅北口に出ました。そして歩きました。本当ですね、昭和の雰囲気がそのまま残っていてなつかしい気分になりました。若戸渡船に乗って若松も歩きました、古川鉱業ビルの中も覗かせてもらいました。帰りは戸畑チャンポンを食べました。細めんで美味しいですね。使ったお金は渡船の船賃100円とチャンポン代一人で千円でお釣りがきました。心も身体も満足しました。いい所を案内してもらってありがとうございました。今日のプログの最後の方は目がウルウルになりました。力持ちでやさしいおじいさんだったのですね。
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