なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

父の仕事その1

2005-05-08 21:02:58 | 昭和
僕の父の職業はトラックの運転手だった。その当時車の運転免許をもっている人は稀だった。しかも旅客自動車や大型車も運転できるのは特殊技能だった。父は戦争に行く前から運転免許を取得し軍隊でも上官のお抱えの運転手としてT型フオードなど現在で言う高級セダンを運転していたのだ、戦地の写真でT型フオードをバックに写る父親の姿は凛々しい、「俺は車の運転だけで、伍長までなったぞ」が父の自慢だった。シベリア抑留から引き上げて故国、串木野に戻ってきたものの漁師町に特技を生かした仕事などあるはずもなかった。そして、石炭と製鉄で賑わう北九州に4歳の僕を連れて両親は故郷鹿児島を後にしたのだ。最初の就職先は小倉の日明にあった、小さな運送会社だったが待遇の悪さから辞職して戸畑の会社に引っ越す事になる、それが日本水産近くにあったM醤油戸畑製造所の運送部だった。そこで出来た醤油をトラックに積んで北九州一円とその郊外の得意先に配送する仕事だった。当時の醤油は全て一升瓶だ、その瓶が8本位入った木箱を何段にも積み上げる作業から朝の仕事が始まる、今のようにベルトコンベアやフォークリフトのある時代ではない、積み降ろしは全て人力の時代だった。当時の父のランニングシャツ姿の写真を見ると腕や肩の筋肉がたくましい。車の運転中以外は全て重量物の積み下ろしの作業が筋トレになったのである。当時のトラックを運転する人は運転手の仕事と積み下ろし作業が当たり前の時代だった。父の仕事は日曜出勤もざらだった、だから僕は日曜日に父から遊びに連れて行ってもらった記憶はない。醤油という日本人必須の調味料が生産が追いつかないほどM醤油に注文が来ていた。その醤油を配達したのが僕の父である。その頃の北九州やその近郊の家庭は父の運んだ醤油で料理を作っていたのだと思うと微笑ましい。----その2へ続く----