現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「大門夏祭」でチンドン屋の仲間入り

2014-07-21 08:35:38 | 虚無僧日記
7/20 「大門夏祭り」。大門(おおもん)は、大正の末から戦前まで
遊郭があった名残り。今でもベンガラ色の壁の
建物が何軒か残っている。それらの老舗は、料亭に
なったり、ソープランドや老人健康施設に模様替え
している。

ここは、名古屋駅から西に1.3km。我が家からは600mほど。
この辺りはちょっと怖い所という思い込みがあって、
虚無僧では 行ったことがなかった。

本日「大門夏祭」というので、こわごわ行ってみた。
居酒屋の前を通ると、中から「お、虚無僧だ」の声がし、
お客さんが出てきて お布施を。戸も開け放たれ、冷房も
ない“一杯飲み屋”。こういうところが 下町風情の
良いところ。

にぎやかにブンチヤカブンチャカ「チンドン屋」がやってきた。
私の前まで来ると、「仲間にはいらないか」と誘ってくれたので、
これ幸いと尺八を吹きながら着いていくことに。この仲間に
入れば、「九の市」の時のようにつまみ出されることもなかろう。

これで「大門通り」に無事進入。警官も祭りの役員も誰も
咎め立てしない。というより、賑やかな「阿波踊り」の
お囃子に消されて、虚無僧なんか完全に無視。

「阿波踊り」は、千代田生命時代、広報部のPRの一環として、
高円寺や下北沢、中目黒などでの「阿波踊大会」に
「千代田生命連」を立てて、太鼓を叩いたり、笛で
参加していたので、血が騒ぐ。


しばらく、阿波踊りに見とれていると、年配の方が御喜捨。
歩いていても、ご喜捨いただける。虚無僧ってすばらしい。

ところが、夜6時半。また雷が鳴り、雨が降りだした。
家の窓を開け放してきたので、これで切り上げて帰る。

「雨降らば降れ、風吹かば吹け」なんて云っていても、
雨にも風にも弱い虚無僧でござる。



梅雨明けか

2014-07-20 08:52:07 | 虚無僧日記
7/17も、虚無僧で出かけたら、ものすごい雷が鳴り、
はげしい夕立。7/!9も、出かけようとしたら雷と夕立。

止むのを待って、夕方5時から出勤。栄に立つ。
栄は、ここ数年で様変わりした。オフィスビルが
名古屋駅前に大量移動したため、ビジネスマンが居ない。
スナックも200店以上がつぶれたとか。代わって
「カラオケ」や「居酒屋」。「SKE48」もきて、
すっかり若者の町になってしまった。

20代前後の若者ばかりだから、虚無僧に布施する人
なんか全くいない。ここ10日の間に4回ほど来たが、
ゼロだった。しかし“絶対(ダメ)”はない。

若い、まじめそうなカップルが私の前に来て、じっと
尺八の音に耳を傾けてくれた。「お若いのに、めずらしい。
尺八興味ありますか?」と聞くと、二人して首を左右に
振る。「興味ないのに なんで?」と思っていると、
「僕たち、今度結婚するんです。今日二人で指輪を
買ってきました。その帰りに、尺八を聞いたのも、
よい記念になると思って」と。

男女二人が同じ思い、意見、同じ感性ということは
すばらしいことだ。普通は、男性が 虚無僧に関心を
寄せても、女性の方が腕を引っ張って連れてってしまう。

それならばと「お祝いの曲を。鶴は夫婦仲、親子の愛情、
とてもいい鳥ですから」と『鶴の巣篭もり』を吹く。

若者が往来する雑踏の中で、じっと耳を傾けて聞いて
くれたお二人さんに、心から感謝の祝福。お布施も
過分にいただき、私の方が感激。

“ケバ猫” 「戸川昌子」

2014-07-20 08:11:25 | 虚無僧日記
「戸川昌子」も「菅原洋一」と同じく 1933年生まれ。
12歳の時、終戦。東京大空襲で父と兄を亡くし、
戦後母との極貧生活。
そんな体験の中から這い上がり。今日シャンソン歌手として、
作家として 大御所的存在。

「美川憲一」が「若い頃からシャンソンを歌いたいと思って
いたが、シャンソンは人生経験を積んで、歳とってからで
ないと味がでない」と言われた」とか。

たしかに、今回の「パリ祭」でも、若いシャンソン歌手では
深みが無い。最後のトリが「戸川昌子」。そして若い男性が
戸川昌子の肩を抱くようにサポートしながら登場。その
若者が「戸川昌子」のことを「こいつ」とか 随分なれなれしく
暴言を吐いていたが、これが息子の「NERO」だった。

戸川昌子は 46歳で高齢出産。「生理が上がって、産婦人科に
行ったら『おめでとうございます』と言われて、『めでたくなんか
ないわよ!』と言い返し、医者をびっくりさせた」とか。
30~50人もの男遍歴で、当時も 3、4人の男と同時進行
だったから「NEROの父親は判らない」と言っている。

その「戸川」がラストに歌った歌。「ヴィアン・ムッシュ」は
娼婦のエログロな歌詞。放送禁止内容。観客も70、80代
だから聞ける。「女は、若ければいいってもんじゃない。顔
じゃない、テクニックよ。女は(生理)が上がってからよ~」と
のたまう ド迫力。

この歳(81)にして、おそろしい“バケ猫”ではない
“ケバ(い)猫”。ひとつの昭和の文化遺産だ。


菅原洋一 81歳の歌声

2014-07-20 05:40:06 | 虚無僧日記
「菅原 洋一」(1933年- )は 国立(くにたち)音大出の正統派歌手。
1965年に出した『知りたくないの』が80万枚を超えるヒット。
「NHK紅白歌合戦」に 22回連続出場。
1968年に『誰もいない』で「第10回 日本レコード大賞歌唱賞」。
1970年には『今日でお別れ』で第12回 日本レコード大賞」を受賞。
実に華々しい履歴の実力派シンガーだった。

千代田生命勤務時、「後援者招待会」で、ゲストに「菅原洋一」さんを
迎えたことがあった。当時すでに 第一線から退き、人気も低迷していたが、
腰が低く、優しい笑顔とトークは、好印象だった。

他の人気歌手は 概して、高慢で高飛車で、後味が悪い思いを
させられたものだった。

その「菅原洋一」さんも今年 81歳。とうに引退されていたかと
思っていたら、デビュー55周年で、「80歳からの歌声」として
「最小限の音飾で、生の歌声と生音の演奏を聞かせるニュー・
クラシカルコンサート」を 全国クラシックホールで行っているとか。

なるほど、80歳には80歳の“初心”。これこそ 世阿弥の
「その時々の“初心”を忘るへからず」なのだ。

美川憲一『生きる』

2014-07-19 15:12:21 | 虚無僧日記
<美川憲一の「生きる」>

日本のシャンソンの祭典「パリ祭」(名古屋場所)で、
美川憲一が歌った『生きる­』。

「ドラマチック・シャンソン」と言うのだそうだ。


原題は、「MA DERNIERE VOLONTE」。意味は「私の遺言」。
作詩は「シルヴィアン・ルベル」。作曲は「アリス・ドナ」と
聞いても、シャンソン音痴の私には判らない。
日本語の訳詩は「矢田部道一」。

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好きなように生きた この私だから
死の訪れなど 怖くはなかった
やり残した事も 沢山あるけれど
やる事はやった 人の倍くらい
生きる 生きる 今になって私は
生きることの 貴さを知った

気がつくと仲間が一人 又一人
帰らぬ旅へと 赴いて行った
天国も地獄も 私は信じない
だけど確実に 死は迫っている

生きる 生きる 今になって私は
生きることの 貴さを知った

生きている間 悔いのないように
私の仕事も 整理しておこう
ろうそくの炎が 燃え尽きるように
私の迎えも もうすぐ来るから
生きる 生きる 今になって私は
生きることの 貴さを知った

ビーブル ビーブル 生きている間
ビーブル ビーブル 悔いのないように

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「好きなように生きた この私だから
死の訪れなど 怖くはなかった
やり残した事も 沢山あるけれど
やる事はやった 人の倍くらい」

まさに私の今の心境。でも、若い人も感銘するという。


「ろうそくの炎が 燃え尽きるように
 私の迎えも もうすぐ来るから」という歌詞だけど
決して“暗くならないで”ネ。「生きる、生きる」
「悔いのないように生きよう」という歌ですから。

と美川憲一の前フリ。

「大相撲」と「シャンソン」はしご

2014-07-19 14:59:00 | 虚無僧日記
7/18(金)は朝から大忙し。午前中は「真如苑」で
清掃のご奉仕。午後からは中村保健所でボランティア演奏。

その後、大相撲「名古屋場所」と、県芸術文化センター・
大ホールでの「シャンソン」。両方とも「招待券」を
いただいての はしご。

「県体育館」での「名古屋場所」は 初めて観た。
以前「千代田生命」の広報部に居た頃、大相撲の
呼び出しに広告を出していた。あの頃は、すごい
ブームで、升席がプレミヤ価格15万円。それでも
取引先から「券が手に はいらないか」と頼まれた
ものだった。

その後、八百長事件だのヤクザとの関連が問題視され、
名古屋場所が中止になったこともありましたっけ。

その後の不人気から 少しは盛り返したか、客の入りは
8割ほど。升席には、粋な着物姿の芸者さんや スナックの
ママさんを連れた旦那衆。今時、こんな “お大尽”が
おられるのかと、私は客席ばかりに目が行く。

知っている力士が出ると、掛け声を出してみた。
周囲の人が私に注目。こんな大声を出せる機会は無い。
20日の「詩吟のコンクール」に備えて、たっぷり
「発声練習」をさせてもらった。こんな臨場感は
テレビでは味わえない。


6時からは「パリ祭・シャンソンの祭典」。
「美川憲一」「戸川昌子」「前田美波里」「菅原洋一」
ほか20名ほどの豪華メンバー。「うつみ宮土理」も
シャンソンを歌うとは知らなかった。

なんとチケットは16,000円。どういう人が観に
くるのかと、客層に関心が向く。大方70代以上か。

「戸川昌子」も御年80歳とか。往年のスターたちも
もう相当なお歳のはず。ま、すごい。

「城山八幡宮」の祭礼

2014-07-19 13:22:00 | 虚無僧日記
名古屋市千種区の「城山八幡」は、かつて織田信秀が築いた
「末森城」があった。父信秀の後を継いだ「織田信行」の
居城だったが、「信行」は兄の「織田信長」謀殺され、
その後 廃城となった。作家の「城山三郎」は、この近くに
住んだので「ペンネーム」とした。

その「城山」で お祭り(茅の輪くぐりと盆踊り)が
あるというので、虚無僧姿で行ってみた。小中学生が
2300人ほども集まっている。浴衣を着ている女の子も
多い。

神社の境内では「神社神道以外の宗教活動禁止」の
張り紙があり、中では尺八は吹けない。階段下の
一の鳥居の外で尺八を吹く。

このへんは、一戸建ての邸宅が多く、生活レベルが
高い。子供たちは 品のよいお坊ちゃま、お嬢さん。
母親たちも 顔立ちも着ている服装からして違う。

「虚無僧」や「尺八」を知っている子も多かった。
聞くと「学校で習った」と。「明暗」を「みょうあん」と
読んだ子もいた。

赤ちゃんを抱っこした若い夫婦が、二組も、私の前に
来て「お願いします」と。神社では「無病息災」を
祈っての神事で、赤ちゃんのおでこに赤い印を
つけてもらってきている。

いままで、大音量で吹いていたが、スヤスヤ気持ちよく
寝ている赤ちゃんを起こしてはいけない。そっと、
静かに気持ちよい音色で吹かせていただいた。

こんな体験は初めて。明に応じては明、暗に応じては
暗。融通無碍の虚無僧でなければと、心して吹く。

二組の若い夫婦からは 過分に ご報謝をいただいた。

夏の夜の風物詩

2014-07-19 12:53:02 | 虚無僧日記
今年は「冷夏」という予報だったのに、連日猛暑。
電気代を抑えるため、クーラーはやめた。昼日中は、
外に出ていた方がよい。

虚無僧9日目の 7/15 は、夜8時になって、ようやく
涼風が吹いてきた。お一人様。

10日目の 7/16 は、夜10時を過ぎても蒸し暑かった。
10時半になって、ようやくお一人様

つまり、昼日中は、ほとんどダメで、夜8時以降に
なってようやく、ぼちぼち足を止めていただける。

虚無僧が夜出歩くのはあまり感心しないが、ゼロでは
帰れない。100円でも入れていただけたら、ようやく
帰ることにしてるので、こんな遅くなる。

毎年、夜の虚無僧は“名古屋の夏の風物詩”ですな。

以前の写真ですが、こちらをご覧ください。

虚無僧の元手

2014-07-18 07:58:39 | 虚無僧日記
「天蓋」がもうボロボロになったので、買い替えた。
以前は、ネットで数件あったが、今や2件。その一件も
「在庫1つ」というのを買ったため、後はもう1件しかない。
井草で編む人が もういないそうだ。そんな希少品だから、
値段も2万円。でも50年も前からこの値段。

私の「天蓋」はこれで4つ目。数年しかもたない。

着物も うす汚れてきたので買い換えた。テトロンだと1万円で
買える。もう一着、ポリエステルも買ってみた。スベスベ
して しまりが悪いが、雨に濡れてもOK。

というわけで、4万円の出費。毎日虚無僧に出て、一日平均
400円のお布施だから、100日は続けなければ、元手が
とれない。

虚無僧するには、この他「げ箱」が必要だが、これがなかなか
手に入らない。高級菓子などの「桐箱」に黒い布を張って、
自分で作るしかない。下げ紐は「大塚屋」にいけば、いろいろ
ある。

袈裟も3万円以上するが、私は最近、門付けでは着けない。
「インチキ僧」と言われた時、「袈裟や数珠」を持って
いないので「僧ではない」という言い訳。虚無僧は「非僧非俗」
でござる。

そして、足袋と草履、手甲脚絆、尺八袋に白い大房。
襦袢に帯。一式まともにそろえると5万~10万円になる。
それに尺八。これはもうピンキリ。3,000円から
300万円まで。虚無僧になるにも元手が大変なのでござる。



師からすると、一番よい弟子は

2014-07-17 04:34:06 | 虚無僧日記
「伝統的家元制度」を批判し、その外に はみ出してきた私
ですが、師の立場からすると、「家元制度」は老後の生活を
確保するための年金制度のようなもの。

直弟子、孫弟子、そのまた ひ孫弟子とピラミッドを形成し
ていけば、歳とって、直接教えられなくなっても、免状料や
尺八購入代金の一部が入って、生活は安泰。

「堀井小二朗」師は、それを構築しなかったので、老後は
みじめでした。私もそうか?

短期間で上達して巣立っていってしまう人より、毎回毎回、
同じことを何度も何度も教えて、ちっとも上達しない
お弟子さんの方が、“宝”です。

早く「上達させてやりたい」と必死に教えても、一向に
上達しない。「気の毒で、申し訳ないと思う」とある方に
こぼしたら、「それでいいんですよ。みなカンタンにプロに
なられたら、食べていけませんよ」と。なるほど。

尺八は実にカンタン。ピアノやバイオリンなど、相当お金を
注ぎ込んで、10年やってもプロにはなれないけれど、
尺八は、習わなくともプロになれる。ライバルがいない。

と思うのだが、やはり、プロになれる人は、ごくごく少数。
「旦那芸で良し」とするお弟子さんたちがいて、プロは
生活が支えられているのだ。そういう方 歓迎。大事に
しなければ。

尺八はいろいろ、その人に応じた“楽しみ方”があるのです。
以前、93歳、耳がまったく聞こえない方が入門してきました。
耳は聞こえないけれど、「骨に響きを感じて、それが心地よい」と。
何を教えても聞こえないので、私は黙って、聞いてあげているだけ。
その方、自分でも吹けているのかどうか判らないので、どんどん
曲を進んでいくのです。一日一曲。1年で地歌の中伝クラスまで
進んでしまいました。全く曲にはなってませんが、「中伝」の
免状を出してあげたら大喜び。そんな楽しみ方もあるのです。