小沢一郎に政治的責任・道義的責任を負わせ、その政治生命を断つのは日本の政治にとって大いなる損失

2012-05-09 09:50:53 | Weblog

 4月26日の判決公判で東京地裁は小沢一郎元民主党代表に対して無罪を言い渡した。

 東京地検特捜部検察官が検察審査会の起訴相当議決を受けて行った石川知裕元小沢一郎秘書再捜査での小沢氏の関与を認めている供述調書と捜査報告書を東京地裁は証拠採用の段階で、供述調書は任意性の点で、捜査報告書は実際にはなかったやり取りの虚偽の記載があるとして、その多くを不採用の決定とした。

 要するに東京地検特捜部は小沢一郎に対する自らの捜査で起訴できる証拠がなかったために2度も不起訴としていながら、検察審査会の起訴相当議決を受けた強制起訴裁判を維持するために証拠を捏造した。

 証拠捏造は、勿論、小沢元代表を冤罪に陥れる最終意図を含んでいたはずだ。

 一度ブログに書いたが、大阪地検から東京地検に応援を頼まれて大久保元小沢秘書の取り調べに当たった前田恒彦大阪地検特捜部元検事の2011年12月16日の第10回公判での証人証言が東京地検特捜部の陰謀を象徴的に表している

 前田証人「小沢さんに裏金を渡しているという検察の想定と違う取り調べ内容は、証拠化しないんです。
 
   ・・・・・・・

 水谷(建設)で言えば、4億円の原資として5千万円は水谷かもね、となっても、残りの3億5千万円については分からない。何十人の検察官が調べて、出てこない。検審(検察審査会)にそれが示されれば(そのことを示したなら)、水谷建設の裏献金の信用性も、減殺されていたはず。想定に合わなければ証拠にならない(証拠にしない)というのがこれまでの検察で、私も感覚がずれていて、厚労省の(証拠改竄)事件を起こすことにもなった」(MSN産経

 「私も感覚がずれていて、厚労省の(証拠改竄)事件を起こすことにもなった」とは周知の事実となっているように、自身による取調べの際、有罪に持っていくためにフロッピーディスクデータの日付を書き換えた村木裁判の押収資料改竄事件を指している。

 検察の取り調べには先ず想定があって、想定と違う取り調べ内容は証拠化しない、想定に合わなければ証拠から外すと力説している。

 東京地検はこの捏造も厭わない取調べ内容操作・証拠操作の方法論を小沢一郎の強制裁判に向けて駆使した。有罪に陥れようと謀ったのだが、証拠がないのに有罪に陥れようとしたのだから、冤罪目的の陰謀だったと批判されても反論はできまい。

 上記ブログには書かなかったが、前田元検事は次のようにも証言している。

 前田証人「本件では(ゼネコンからの)裏献金で小沢先生を立件しようと積極的なのは、東京地検特捜部特捜部長や■■主任検事(法廷では実名)など一部で、現場は厭戦(えんせん)ムードでした。東京高検検事長も立件に消極的と聞いていましたし、厚労省の事件とは比較になりませんでした」

 東京地検ぐるみの陰謀ではなく、いわば組織ぐるみの陰謀ではなく、上層部のごく一部の陰謀だと証言している。

 この有罪目的の陰謀だったことを証明する記事がある。全文を参考引用してみる。

 《小沢氏起訴積極派が報告書添削 陸山会事件の虚偽作成問題》47NEWS/2012/05/05 01:24 【共同通信】)
 小沢一郎民主党元代表(69)の捜査をめぐり、元東京地検特捜部の田代政弘検事(45)=現法務総合研究所=が虚偽の捜査報告書を作成した問題で、当時の特捜部副部長が作成した別の報告書を元代表の立件に積極的だった幹部が添削し、検察審査会に提出していたことが4日、関係者への取材で分かった。

 副部長の報告書でも、元代表の関与を強調した田代検事の報告書が引用された。幹部がどのように手を入れたかははっきりしないが、検察当局は議決に影響を与える狙いがあった可能性もあるとみて慎重に調べている。

 この記事を読んで、5月5日、Twitterに投稿した。「着罪(ちゃくざい)・陥罪(かんざい)――罪を着せ、罪に陥れる意味の造語が最も適した表現の特捜の小沢氏をターゲットとした生贄の陰謀」

 だが、特捜の冤罪目的の一連の陰険・陰湿な陰謀は証拠採用の時点で潰えることとなって、その当然の結果の無罪である。

 そして民主党は5月8日常任幹事会で党員資格停止処分の身分にあった小沢氏のそれを10日付けで解除する方針を決定した。

 但し野党は無罪判決が出た直後から、裁判は無罪でも、政治的・道義的責任は免れることができない、国会で説明責任を果たすべきだと証人喚問を求める姿勢でいる。

 山口公明党代表「説明責任は広い観点から求められており、国会で説明責任を尽くしていただきたい。民主党も自浄能力の一環として説明責任を果たさせる責任がある」(MSN産経

 石原自民党幹事長「小沢氏は『事件の審査中なので国会で答弁できない』と言っていたが、判決が出たので、みずからが潔白であれば、国会の場で何の問題もなく話せるはずだ」(NHK NEWS WEB

 江田憲司みんなの党幹事長「小沢氏は国会での説明責任をしっかり果たしてもらいたい。証人喚問にも積極的に応じてもらいたい」(NHK NEWS WEB

 穀田共産党国対委員長「無罪になっても政治的、道義的責任が不問に付されるわけではない。国会に出てきて説明し、真相解明に応じるべきだ」

 自民党と公明両党の幹事長ら幹部が5月8日、東京都内で会談して、小沢一郎元代表の証人喚問を求めていくことで一致したという。

 国政に携わる政治家としての政治的才能・政治的創造性から言って、政治的責任だ、道義的責任だ、あるいは説明責任だと騒いでいるのは小沢氏と比較してザコばかりである。

 確かに秘書が3人逮捕されたのだから、政治的責任・道義的責任は免れることはできない。だからと言って小沢氏みたいな有能な政治家に政治的責任・道義的責任を負わせ、その政治生命を断つのは日本の政治にとって果たして得になることなのだろうか。

 谷垣や山口、石原、あるいは民主党の野田、菅、前原、仙谷、枝野等々のザコとは大違いなのである。

 これらザコ連中の政治生命がいつ断ち切られようと、日本の政治にとって損失でも何でもなく、痛くも痒くもないだろうが、官僚の傀儡・操り人形とならずに政治主導を実現できる政治家が小沢氏を除いて他に存在するだろうか。

 このような重要なことに気づかずに政治的責任だ、道義的責任だ、あるいは説明責任だと騒ぐのはザコの大物に対する妬みから出て、その妬みを解放し、解消して、小沢氏に取って代わる形で自らを大物に擬したい欲求以外の何ものでもない。

 マスコミや世論に便乗して、いくら小沢氏を失脚させることに成功したとしても、ザコは大物に代わることはできない。ザコはザコでしかない。谷垣や山口、石原、あるいは民主党の野田、菅、前原、仙谷、枝野等々を見れば、一目瞭然ではないか。

 4月29日のフジテレビ「新報道2001」でのこと。

 東祥三前内閣府副大臣「洞察力、明確なビジョン、具体的に政策を実行していく能力を持っている政治家は、今の政界には小沢一郎しかいない」

 小沢一郎元代表に近い人物とは言え、言っていることは事実であろう。

 秘書が3人逮捕されたことによる政治的責任・道義的責任で以って小沢氏のザコ連中とは比較にならない洞察力、明確なビジョン、具体的に政策を実行していく能力を犠牲にしてはならないということである。

 日本の国益に関わる大いなる損失であろう。

 参考までに。

 2011年12月23日記事――《小沢裁判に見る検察の立件を前提とした捜査と証拠選択 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

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日本の竜巻規模のよりアメリカ化が始まる?

2012-05-08 10:22:57 | Weblog

 ――アメリカと相互情報交換・相互研究を開始して、竜巻に対する危機管理構築を早急に果たすべきではないだろうか――

 5月6日の茨城県各地で発生した竜巻は幅約500メートル、距離約15キロの範囲に及び、家屋全壊、半壊、車を飛ばすなどの大きな被害を与えた。茨木県つくば市で中学3年男子生徒1人が倒壊した家屋の下敷きになり死亡したほか、37人が怪我を負ったという。

 それぞれが自分なりの人生を抱え、自分なりの世界を抱え、関わりを持つかなりの数の人間がいる中で相互に無くてはならない存在として位置していた者にとって、その人生との関わりを失い、相互性を抱えていた世界からその相互性を欠かす無力感・哀しみには耐え難いものがあるに違いない。

 特に将来に亘って長く続くことを意識しないまま自然体とし、予定調和としていた相互性が突然裏切られて短い期間で断ち切られた自然体の意識することとなったその喪失感・絶望感には激しいものがあるはずだ。

 《気象庁 竜巻被害15キロに及ぶ》NHK NEWS WEB/2012年5月7日 18時4分)

 気象庁の調査によると、家の屋根や自動車が吹き飛ばされたりする瞬間的な風の強さは風速50メートルから69メートルで、風の強さを示す6段階の指標の上から4番目の「F2」に相当するそうだ。

 この「F2」は6年前の2006年(平成18年)9月に宮崎県延岡市で発生した竜巻の強さに匹敵すると記事は伝えている。

 竜巻の発生をニュースで知ったとき、日本で初めての大規模な竜巻発生ではないかと思っていたが、単なる無知で、実際は6年前に発生していた。

 但し「F2」は初期的調査情報で、最終的調査情報ではない。

 気象庁「今後の調査によっては『F2』より強くなる可能性もある」

 無知は無知でも、なぜ日本初の大規模竜巻発生と思ったかと言うと、昨今の世界的な異常気象現象を受けた印象である。

 小司禎教気象庁気象研究所研究室長「被害の甚大な場所と被害があまりない場所が隣り合っていて、風速が急激に強まるという竜巻の被害の特徴が出ていた。さらに詳しく調査していきたい」

 佐々木洋気象庁予報課主任予報官「今週の後半にも、寒気の影響で大気の状態が不安定になると予想されている。地元の気象台が出す気象情報などに注意し、竜巻などの突風が予想される場合は、できるだけ頑丈な建物の中に避難してほしい。建物の中でも、カーテンを閉めて窓から離れた安全な場所に待避し、万が一、突風が吹いた場合は、地震のときと同じように机の下などで身を守ってほしい」

 他の記事が建物被害は約900棟だと伝えている。そのうち住宅全壊259棟。3分の1が全壊だから、どれ程の竜巻だったか、想像がつく。

 日本だけではなく、世界的に異常気象が年々進行している。今後大規模な竜巻が1年のうちに何回も発生するといったことはないだろうか。アメリカでは例年以上に竜巻が発生していて、異常気象と関連づけられているという。

 《米国の気温、3月は史上最高 異例の暖かさで異常気象も》CNN/2012.04.11 Wed posted at: 10:05)

 米海洋大気局(NOAA)の発表。

 今年3月の米国平均気温が1895年の記録開始以来最高。全米で最高気温などの記録が1万5292件更新。

 1~3月期平均気温、アラスカとハワイを除く48州で史上最高を記録。平年を約3.3度も上回る平均摂氏約5.6度。

 3月のみの平均気温はロッキー山脈東側の25州で過去最高。西海岸のワシントン、オレゴン、カリフォルニア各州では平年を下回る。

 最高気温の記録7755件が塗り替えられ、夜間の最低気温が過去最高を上回ったケースが7517件。

 NOAA報道担当者「暖かい天候がこれだけの範囲と規模で観測された前例はない」

 年平均80件の竜巻発生が3月は3倍近い223件の観測。その大半が3月初めにオハイオ渓谷や南東部で観測された竜巻で、死者40人、被害総額15億ドル(約1200億円)で、今年最初の大規模災害となった。

 記事。〈異例の暖かさが続いた結果、雷雨や竜巻が発生しやすくなった面もある。〉と異常気象と関連づけている。

 但し、〈長期的な地球温暖化との関連は不明。東欧などではこの冬、気温が平年を下回ったり記録的な寒さとなったりする傾向がみられた。〉と結んでいる。

 「Wikipedia」を参考にすると、異常気象自体が長期的な地球温暖化との関連は不明ではあっても、竜巻は積乱雲や積雲の急激な発達によって発生する集中豪雨が関係していて、集中豪雨が大気から気化熱を急激に奪って下層の空気を冷却、冷却した下層の空気の上に暖かく湿った空気が乗り上げて上昇することで上昇気流が発生、その部分の気圧が低くなり、急激な空気の流れが生じて竜巻が発生するということらしい。

 今回の竜巻は集中豪雨はなかったらしいが、晴れていた空が急に暗くなり、雹(ひょう)が降り、雷が鳴ったというから、雹が強い雨に代わって下層の空気を冷却して急激な上昇気流を生じせしめたのではないだろうか。

 日本では毎年のようにどこかで集中豪雨が発生、大きな被害をもたらしている。集中豪雨が長雨とならずに急に降って、急に晴れ上がった場合、竜巻が発生、それが大規模に発達しない保証はないはずだ。

 大規模な竜巻が発生したとき、守ることができるのは自らの身ぐらいのもので、動かすことができない建物等の不動産は竜巻が襲うままに任せるしかないが、今回の竜巻の報道で頼みとする気象庁の竜巻注意情報の的中率がかなり頼りにならないことが分かった。

 《竜巻注意情報 的中の割合低い》NHK NEWS WEB/2012年5月7日 19時23分)

 「竜巻注意情報」は平成18年に宮崎県延岡市(9月)や北海道佐呂間町(11月)で竜巻の被害が相次いだのをきっかけに、気象庁が平成20年3月から運用を開始したと記事は書いている。

 但し、〈積乱雲は急激に発達することがあり、突風がいつ、どこで発生するのかを細かく予測するのは難しいのが実情〉で、去年1年間の「竜巻注意情報」は589回発表、この内実際の突風発生は8回の的中率約1%。「竜巻注意情報」を出さないときに発生した突風回数31回。

 記事は「突風」と書いているから、それ程の被害をもたらさなかったということなのだろう。

 このような「竜巻注意情報」と的中率の関係が影響してのことだろう、気象庁が茨城県や栃木県などに「竜巻注意情報」を発表して注意を促していたそうだが、エリアが茨城県や栃木県というだけでは地震の被害影響域と比較して範囲が広過ぎ、場所をピンポイントに特定する技術もないことから、それが限界だということと、地震に対する危機管理意識は日常的に鋭敏化させているが、竜巻に対しては未成熟であることも手伝ってのことに違いない、自治体の方で住民に周知徹底する注意まで払わなかったらしい。

 「東京新聞」が伝えている、つくば市付近で大きな被害を生んだ竜巻発生僅か7分前の5月6日午後零時38分の水戸地方気象台竜巻注意情報第1号にしても、範囲は茨城県であって、気象庁の竜巻注意情報と同程度の効果しかなかったはずだ。

 いわば竜巻は地震程には身近な危険とはなっていないということである。

 竜巻発生翌日の5月7日、内閣府の末松副大臣を団長とする調査団を現地を視察している。

 視察後の記者会見。

 末松副大臣「日本の場合は、(竜巻に対して)あまり対策ができていなかったので、これを機に(政府でも)しっかり検討していきたい」(FNN

 要するに竜巻に対する対策を十分に取って来なかったので、今後対策を検討したいと言っているが、対策を十分に取って来なかった成果が「竜巻注意情報」的中率約1%にとどまっている技術状態であり、あるいは発生を把握するまでに至らないケースもある技術の未到達ということなのだろう。

 だが、中学生3年生の少年一人を死なせているのである。異常気象が進行していることからも、竜巻の発生頻度の増加とその大規模災害化を想定内とし、地震と同様に竜巻に対しても身近な危険とし、身近な危機管理の対象としていく必要があるはずだ。

 末松副大臣が言う対策の検討とは、各省庁の担当者や専門家による作業チームを近く発足、アメリカなど海外の事例も参考に今年7月末までに対策をまとめる方針だと「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。

 事例参考だけで、アメリカの竜巻研究者等を招いて共同研究するとまでは書いてない。福島原発事故時にアメリカの原子力研究者と情報・知見の共有を図ったようにアメリカの竜巻研究者と情報・知見の共有を測って、研究の相乗効果と成果達成時間の促進を図るべきではないだろうか。

 福島原発事故発生初期にはアメリカに対する情報提供が遅れて、少なからず事故収束に向けた初期対応に遅れを取ったはずだ。《【つくば突風】予測困難、どう守る? 本場・米国でも的中2割》MSN産経/2012.5.7 20:34)記事には、〈年間約800例の竜巻(トルネード)が発生するとされる「本場」米国に比べ、発生数の少ない日本は予測に必要なデータ蓄積に乏しい。〉ことに対して、〈しかし研究が進んでいる米国でも予測の的中率は20%程度。〉と、その予測の困難さを書いているが、例え予測困難であっても、日本の的中率約1%に対して20%ものアメリカ的中率と見るべきだろう。

 アメリカと日本では地理的条件も気象条件も違うだろうが、アメリカ側のデータの蓄積は無視できるわけがなく、衆知を集めることが地理的条件や気象条件の違いをも乗り越えることとなって、相互の利益に適うことにもなる。

 日本の竜巻規模のよりアメリカ化が始まるかも知れないという強い危機意識をことさら設定して、そのような危機意識のもと危機管理態勢を整えていこうという意志が否応もなしにアメリカの情報・知見を必要とするだろうし、共同の危機管理体制構築こそが竜巻によって1人として死なせないという、少なくとも気持ちの上での危機管理にもつながっていくはずだ。

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橋下徹大阪市長入れ墨調査はプライバシー&思想・信条・表現の自由の明らかな侵害

2012-05-07 11:29:30 | Weblog

 大阪市が5月1日(2012年)から全職員約3万8000人を対象に入れ墨の有無を調べる書面調査を始めたという。《大阪市:入れ墨調査始まる 記名式で回答義務付け》毎日jp/2012年05月02日 15時12分)

 調査のキッカケは今年2月に市職員が児童福祉施設で児童に入れ墨を見せていたことが発覚したためで、橋下徹市長が調査を指示したという。

 橋下市長名通達「入れ墨が見えるような服装で業務を行うことは不適切で、市民の目に触れれば不安感や威圧感を持ち、市の信用失墜につながる」 

 このような通達文書を全職員に配布、人目に触れる腕や足などについては、入れ墨の大きさや部位を記入するよう記名式で回答を義務付けているという。

 回答は5月10日まで。

 調査書はご丁寧にも身体全身の前面と背面の人体イラスト付きで、入れ墨箇所と範囲を記入するよう指示しているとのこと。

 例えば龍の刺青なら、肩から背中、さらに胸の当たり、左右の二の腕当りまで入れているということがあるから、人体イラストの相当する箇所を隈なく塗りつぶさなければならない。

 龍とか桜吹雪の入れ墨なら、黒のマジックで塗りつぶすのは折角の入れ墨が満足に伝わらないことになるから、赤、ピンク、黒のマジックを使い分けて、より正確に書き写したらいいのではないだろか。

 橋本市長がその人体イラスト図を見て、「おっ、これは見事そうだ。実物を見て、実際に見事なら、許してやろう」という気に、・・・・まあ、ならないだろうが。

 市人事室「全国の自治体で初めての調査だが、法的な問題はない」

 法律上問題はない取っているが、果たしてそうだろうか。憲法が保障する思想・信教の自由、表現の自由を侵す調査ではないと断言できるのだろうか。

 調査結果を基に、職員の配置転換やルール化を検討するそうだ。

 赤黒い怒りの形相も露な閻魔大王の鎮座した入れ墨を背中中央にデンと彫った職員は市営火葬場(所有しているなら)に配置するのだろうか。

 閻魔大王はウソをついた人間の舌をやっとこで抜くというから、市議会開催のたびに一段と高い場所に鎮座させて上半身裸にさせ、ウソを得意としている人種でもある政治家に位置している市議一同に閻魔大王の入れ墨をご開帳させて、ウソをついたら舌を抜かれるぞという暗示としたなら、子供騙しではあっても、後ろめたさぐらいは与える効果があるかもしれない。

 いや、そんな玉は政治家人種に存在しないか。
 
 5月2日の記者会見。

 橋下市長「人事管理として聞いておくのは問題ない。まともな組織だったら、こんなことやらなくてもいい」 

 要するにプライバシーの侵害にも当たらないし、思想・信条・表現の自由の侵害にも当たらないと御託宣している。

 同じ内容を扱った、《橋下市長「人事配置の参考に」大阪市職員の入れ墨調査》スポニチ/2012年5月3日 06:00)

 記事は調査主体は橋下市長を委員長とした3月発足の「市服務規律刷新プロジェクトチーム」だと伝えている。
 
 右崎正博独協大大学院教授(憲法)「表現の自由やプライバシーに関する事項を申告させるには、よほどの必要性がなければいけない。

 市民に威圧感を与えるというだけで大阪市が調査するのは認めにくいのではないか。職務能力には直接関係のない問題で、市が強制力をバックに申告させ、従わなければ処分というのは乱暴だ」

 鎌田慧氏・ルポライター「暴力団の構成員だったら問題だが、今はファッションで入れ墨をする人もいる。長袖を着るなど、本人が隠すように気を付ければいい。

 思想表現の自由に関わるだけに見逃せない。上からがんじがらめにされて萎縮した職員に柔軟で良質な市民サービスはできなくなるだろう」

 大阪市職員労働組合「仕事と入れ墨とどういう関係があるのか。調査に問題がないか、弁護士と検証している」

 大阪市役所労働組合「今後、入れ墨だけでなく服装やひげなどまで調査が広がり、個人の自由やプライバシーが侵害される可能性がある」

 このような批判がある一方で、インターネット上にはかなりの賛成意見が飛び交っている。その多くが「公務員だから」という理由を挙げていて、一般人よりも公務員に対してより厳しい規律を求めている。

 ということは、一般人は公務員よりも規律は厳しくなくてもいいことになる。

 職務上の規律にしても社会人としての規律にしても、公務員と一般人と何ら変わらないと思うが、違うのだろうか。

 公務員だからと言って、特別な資質を求めるとしたら、その要求に対する相応の代償が必要になる。その代償が一般勤労者よりも高い賃金、公務員宿舎の民間相場よりも遥かに安い家賃に相当するとしたら、何も批判ができなくなる。

 かつてのヤクザやその類いが強がるために彫った入れ墨と最近のアクセサリーとしての入れ墨を分けて考えなければならない。

 強がるために彫った入れ墨と書いたが、初期的には彫ることで少なくとも強さを感じたい欲求が動機となった入れ墨であるはずだ。

 入れ墨は誰もが彫るわけではないゆえに自身を特別な存在だとする意識(=特別な存在意識)が働き、その特別な存在意識がある種の強さを自身に与える。

 その強さを自身の中にとどめておくことができずに入れ墨をひけらかして自身が特別な存在であることを他者にも知らしめたい衝動が往々にして働き、ヤクザやその類いが入れ墨をひけらかして暴力を振るったりするのは例外だが、ひけらかしたといっても、それが実際には人間としての強さの証明でも何でもないことから、結果的に他人から見ると強がりが目的の入れ墨となってしまうし、本人からしても強がりで終わってしまうひけらかしとなる。

 市職員が児童福祉施設で児童に入れ墨を見せていたことが発覚したことが入れ墨調査のキッカケだということだが、それがどんな入れ墨か記事が書いていないから、前者に入る入れ墨なのか、後者の入れ墨なのか分からないし、単に見せただけなのか、見せた挙句に、「おじさんは強いんだぞ」と何らかの威迫を与えたのか、それも分からないが、例え入れ墨をひけらかして乱暴な口を利いて相手に威迫を与えたとしても、あくまでも個別的事案であって、入れ墨をしている者すべての問題ではないはずだ。

 例えば市役所の窓口担当で書類を閉じたバインダーなどを持ち上げると、長袖がまくれて手首にまで彫った入れ墨が市民の目についてしまうといった場合にしても、本人は結構意識して手首の入れ墨が他人目に触れるようにバインダーなどを持ち上げるものだが、いわば自分は特別な存在だという意識を抑えがたくそうしてしまうものだが、このような例にしても、個別的な事案であって、上司が注意するなり、持ち場の配置換え等を行なって個別に解決すべき問題であろう。

 もし公務員だからという理由で彫った場所や大きさに応じて入れ墨を断罪するとしたら、必ずしも入れ墨が決める勤務態度でも、本人の規律の程度でもないにも関わらず、入れ墨で勤務態度や規律の程度を決定することになって、プライバシーや思想・信条・表現の自由にまで入り込む、その明らかな侵害に当たるはずだ。

 かつて女性が髪を染め出した頃、まともな女性がすることではないと世間は眉をひそめた。ましてや若い男が染め出すと、「何だ、男のくせに」と非難の眼差しを向けた。

 染髪の習慣が初期の頃は就職の面接で他に理由を設けて不採用の差別をつけ、市役所等では染髪の習慣が広まるまで髪を染めた女性は一人としていなかったかもしれない。

 それが現在、女性のみならず、男性も若い男性だけではなく、結構年のいった、高齢者に属する男性も髪を染めている。

 少なくとも現在では髪の色で公務員と一般勤労者を差別する習慣はないはずだ。

 染髪の習慣が一般的でなかった時代、他の女性に先駆けて髪を染めた女性はいわば先駆者とさえ言える。

 橋下徹市長にしても、確かかつて髪を染めていたはずだ。県知事という名の公務員の身分となったから、髪を染めるのはやめた、その流れで市長になっても髪を染めないままでいるとしたら、職務上の規律にしても社会人としての規律にしても、公務員と一般人と何ら変わらないというルールに反して両者の規律に差別をつけていることになる。

 入れ墨にしてもそうだが、髪を染める染めないは規律とは関係しない個人の嗜好が決める問題であるはずだ。その嗜好は勿論、プライバシーや思想・信条・表現の自由の保障が許容する範囲内の決定事項でなければならないが、法律が禁じているわけではないのだから、許容範囲にあるはずだ。

 実質的な規律で勤務態度を計るのではなく、髪の色や入れ墨で勤務態度を計る。あるいは人柄を図る。プライバシーや思想・信条・表現の自由の明らかな侵害でなくて、何と言ったらいいのだろうか。

 染髪と同様に最近若い男女の間で流行り出したアクセサリーとしての入れ墨が一般男女の間で当たり前となる時代を迎えるかもしれない。

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関越自動車道観光バス事故に発した道路の安全性報道に見る事実誤認

2012-05-06 11:12:07 | Weblog

 ――道路の安全は第一義的には運転手・運転者がつくるという意識の徹底・普及、情報の発信を忘れてはならない――

 4月29日(2012年)未明、群馬県藤岡市関越自動車道での7人死亡、39人重軽傷の高速バスツアー事故で、バスが最初防音壁手前のガードレールに接触、ガードレールを外側に押し広げたためにバス前部が防音壁と正面から向き合う形となり、そのまま防音壁側面にバス左側面からほぼ4分の1辺りの位置で正面衝突することになって、左側座席7列目付近まで突き刺す形となり、大事故に至った。

 問題はガードレールと防音壁が接続・固定の一体型ではなく、10センチ程離した分離型であったことが、車体との接触によってガードレールが外側に曲がった結果、バスが防音壁側面と正面に向き合うことになり、被害を大きくしたのではないかと新聞もテレビも一様に取り上げて、もし一体型だったなら、死者数を抑えることができたのではないのか、被害を小さくできたのではないかと論評したり、識者の声を伝えたりした。

 新しい高速道路ではガードレールと防音壁は接続・固定の一体型となっているが、1998年の国交省の通達によるもので、それ以前の古い高速道路では分離型のままだという。

 高速道路建設を少しでも大掛かりにして建設会社に少しでも多くの利益を振る舞うためではなく、危険と見たから、一体型の通達を出したのだろうから、通達以前の高速道路も分離型から一体型に直すべきだったはずだが、これがお役所仕事ということなのか、行政の怠慢そのものであろう。

 だからと言って、一体型だったなら、被害を小さくできたのではないかという指摘に全面的に与(くみ)することはできない。この指摘は一体型のみに目を向けた可能性であろう。

 観光バスはガードレールを数十センチ程外側に押し曲げる程に接触しているのである。その衝撃は決して小さくはないはずで、接触した瞬間に居眠りから覚醒し、運転手である以上、本能的に反射神経が働いてブレーキを踏んでいてもよさそうだが、ブレーキ痕がどこにもなかったとマスコミは伝えている。

 勿論、ブレーキを踏んだとしても、防音壁側面への正面衝突は避けられなかっただろうが、踏むと踏まないとでは被害に違いが出てくるはずである。

 居眠りしていても、右足はアクセルに置いていた。運転席のスピードメーターの針は時速92キロを指して止まっていたというから、居眠りしていても92キロの速度を出して走行し、92キロの速度で防音壁側面に正面衝突し、バス車体の左側部分を縦に断ち割る程の衝撃を与えた。アクセルを離すだけでも、防音壁正面衝突までのほんの僅かな時間だろうが、エンジンブレーキがかかって衝突の衝撃をほんの僅かながら和らげていたはずである。

 ましてやガードレール衝突の衝撃で居眠りから覚醒してブレーキを反射的に踏んでいたなら、かなりの違いが出ていただろう。
 
 だが、居眠りから覚醒することもなく、当然、ブレーキも踏んでいなかった。

 このような状態であったなら、もしガードレールと防音壁が接続・固定の一体型だったとしても、ガードレールを外側に押し曲げたことからすると、ガードレールに接触した後、ほんの数十メートルの距離であっても、引き続いて防音壁をこする形で走行するか、防音壁に接触した反動で逆に道路中央方向に跳ね返される状態となって、防音壁から次第に離れる形で走行するか、いずれかの形を取ることが考えられる。

 そして居眠りから覚醒した途端、防音壁をこする形で走行していた場合、反射的に右に急ハンドルを取らずに防音壁から少し離して車の態勢を維持できる状態とするような冷静なハンドル操作ができるだろうか。

 このことは防音壁に接触した反動で防音壁から次第に離れる形で走行していた場合にも言える。

 驚いて右に急ハンドルを切るのが人間の本能的な反射神経であろう。前者の場合、右に急ハンドルを切ったために走行車線を走ってきた後続車と接触、もしくは衝突の危険性を考慮外に置くことはできないはずだし、後者の場合は走行車線、あるいは追い越し車線を走ってきた後続車との接触、もしくは衝突、そういったことがなくても、ハンドルを切り過ぎて横転、あるいは中央分離帯を乗り越えて対向車と衝突ということも、現実に度々ある事故である以上、否定できない危険性であるはずである。

 いわば一体型だから、被害を小さくすることができたのではないかという指摘は一体型のみに目を向け、他の危険要素を考えない可能性に過ぎない事実誤認ではないかということである。

 また生活道路や通学路で速度制限を従来以上に規制したり、道路の一定区間に腰高の赤いポールを左右両側に一列ずつ立てて、その区間の一定位置にスピードを極端に落とさなければ走行できないように左右両側からくびれをつくる形で狭くしたり(女性の細くくびれた腰の形を思い出していただきたい)、交差点の手前の四点や一定区間途中の路面を人工的に山なりに高くして、そこを通ると車がバウンドして、その衝撃で居眠りからの覚醒に役立たせるといったアイデアで事故を減らすことができた、あるいはできるとテレビが紹介していたが、あくまでも普通に近い運転の車か、たいした居眠りではない車に役立つ事故の減少であって、事故自体も軽微な被害であったはずだ。

 このように断言できるのは、こういったアイデアが京都府亀岡市府道で起きた集団登校中の児童・保護者と保護者の胎児合わせて4人を死亡させた、18歳少年の無免許・居眠り運転に役立つとはとても思えないからだ。

 少なくとも深い居眠り運転には速度規制は意味を持たなくなる。暴走を一定距離維持できる道路幅といった条件を備えた場所では、暴走車も速度規制を超えた存在となり得る。

 また路面を人工的に山なりに高くしてあったとしても、運転しながら、前後不覚の状態で居眠りしていて、何かにぶち当たった衝撃で初めて覚醒するこれまでの事故例からすると、車の小さなバウンドぐらいの衝撃は夢現に感じる程度のように思える。

 さらに運転中に心臓発作や脳の発作で運転手が意識を失った場合、それが20キロの徐行程度の速度であっても、道路に対する様々な規制は役に立たないことになり、園児や児童の列にまともに飛び込んだなら、決して被害は少なく済まないだろう。

 様々にアイデアして、道路を各種規制したり、通行者の安全を確保する努力は続けなければならないが、それで以って事故を少なくすることができた、役に立つとする視点からのみ見て、それで終わる自己完結型の受け止め、報道姿勢は全体を見ない事実誤認そのもので、避けなければならないはずだ。

 道路の安全は第一義的には運転手・運転者がつくるという意識の徹底・普及、情報の発信も必要なこととして忘れてはならない。

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前原誠司の民主党の各政策が相互機能を持たせているのか疑わせる4月22日NHK「日曜討論」発言

2012-05-05 12:55:22 | Weblog

 4月22日(2012年)日曜日のNHK「日曜討論」。明日の日曜日もNHK「日曜討論」があるから、2週遅れの日曜討論の録画視聴といったところだが、パソコンを叩きながら聴いていて、出席していた民主党前原政調会長の発言が民主党の各政策が相互機能を持たせているのか疑わせたことと、みんなの党浅尾慶一郎の発言からすると、消費税増税は必要ではないように思えて、両者の発言を取り上げて見ることにした。

 先ず浅尾慶一郎の発言から。

 浅尾慶一郎「社会保障と言ったときに大きな財源は社会保険の保険料がある。保険料の徴収については税金(の徴収)と比べて物凄い大きな穴が開いている。

 例えば厚生年金はすべての法人が加入する義務があるが、今の日本年金機構は全国の法人数のデータすら持っていない。税務署はデーターを全部持っていて、年間273万何千何百社というところが、赤字があっても、申告をし、そこに勤めている人の所得税を(源泉徴収という形で)全部収めている。

 年金の保険料というのは基本的には人件費がかかるから、健康保険の保険料にしても人件費がかかるから、そのデータさえ持っていない結果どうなるかというと、恐らく法人に対して3分の1くらいしか実際には厚生年金に加入していなんだろうと。

 このところを改めるべきで、10兆円くらいのおカネは出てくるし、なおかつ今の健康保険一つ取っても、協会健保の料率は10%だが、国家公務員の共済の保険は6.何%なので、3%以上の差がある。

 これが公平なのかどうかということも考えなければならない」

 「年金の保険料というのは基本的には人件費がかかるから」と言っていることは、役所の方が人手をかけてやることから漏れが出て、完全なデータとはなっていないという意味だと思う。
 
 言っていることが事実で、実際に10兆円くらいのおカネが出てくるとしたら、消費税で換算して1%2兆円の税収なら5%分、1%2.5兆円の税収なら、4%分となる。

 後者だとしても、国家公務員共済年金の保険料率を協会健保と同じ10%にすることと財政支出の効率化等で5%の消費税増税は必要なくなる計算となる。

 また税務署は納税者の形で法人勤労者のデーターをすべて把握しているのに対して日本年金機構は厚生年金加入者のデータに漏洩があって完全な状態になっていないという指摘にしても事実としたら、役所の縦割りの弊害を放置した措置となり、日本年金機構自体が国に対して年々損失を与えていることになる。

 共産党の笠井亮(あきら)議員が年金支給額を過去の物価下落時に物価変動に合わせて減額せずに据え置いた特例水準によって本来の年金支給額よりも2.5%高くなっていることから、2012年度10月から2014年度までの3年間で年金を減額、本来の支給水準に戻す特例水準の解消と、年金支給開始年齢の68歳~70歳引き上げについて反対の姿勢で前原に問い質した。

 前原誠司「(年金支給の)特例水準の問題は今までは賃金が上がっていくという前提に立って物価スライドというものが導入されていたが、平成8年から平成20年、ま、これは自公政権下ですけども、国民の所得はマイナス8.4%減ってるんですね。

 収入が減っている中で、下がる方の物価スライドが採用されていないという中での、この特例水準というものを見直すということがまず一つと。それから先程おっしゃった年金の給付開始年連の引き上げ問題については、その議論をする前に必ずやらなくてはならないのは定年延長の問題と再雇用の問題をどうするかといことが先だと思いますね。

 先の議論がなくして年金の給付開始年齢が引き上がるということはいたずらに社会に不安を与えることになると、私はそう思っている」

 この男、何を言っているのだろうと思った。前原の発言に対して笠井亮が批判している。

 笠井亮「一言だけ。(年金支給開始年齢の)引き上げの検討って、大綱で言ってることです。物価が下がると言いますけども、結局生鮮食料品なんかは高止まりですから、私は暮らしは大変になる一方なんですよ。

 そういう中で(特例水準の解消を)やることは重大だと思います」

 過去の物価下落によって本来の年金支給額よりも2.5%高くなっているから、その分を今後3年間に年金支給を減額する。だが、前原は「平成8年から平成20年」の間に「国民の所得はマイナス8.4%減ってるんですね」と言っている。

 物価下落と賃金減少はデフレ下では表裏一体であり、連動するとする説を採用すると、物価下落は国民所得マイナス8.4%減少を相互に連動させた関係にあることになり、物価下落を国民所得減少が相殺して物価下落をプラス・マイナスゼロ前後とする計算になる。

 但し国民所得減少は現役世代のみに影響して、年金生活者には影響しないことだから、物価下落に応じて年金支給を減額し、年金財源の維持を図ろうということなのだろう。

 いわば物価が下落したとしても、給与も減っているから、物価が下落したことにならないという現象は働いて給与を得ている現役世代のみに関係するということなのだろう。

 だとしても、政府税収を減少させている景気の悪化状況は政治の責任であるはずである。景気の面から国民に安心を与え、消費税増税に頼るだけではない税収増を図る実効ある景気策を講ずる責任があるはずだ。

 「ま、これは自公政権下ですけども」と言って、国民所得減少の責任は民主党政権の責任ではない、自公政権の責任だとまで間接的に言っている場合ではないはずだ。

 また年金政策にしても子育て政策にしても人口増加政策にしても、さらには景気対策にしても相互に絡み合って成果を上げる相乗効果的な相互機能を持たせていなければ、すべての問題が相互関連している関係から、景気回復を含めた国力の全体的な向上は望めないはずで、その内の政策の一つでも成果を上げるだけの力を有していなかったとしたら、全体的な成果も抑圧を受ける可能性が生じる。

 このことの関連から言うと、総務省が5月4日まとめた人口推計(2012年4月1日現在)によると15歳未満の子どもの数は前年比12万人減の1665万人と31年連続で減少しているという。

 その中で未就学児のうち0~2歳が316万人で最も少ないという統計は民主党が政権担当して以来のこの2年間で「子ども手当」や少子化解消策を含めた子育て対策が減少傾向にあった子どもの数に対して何ら歯止め効果を上げていなかったことを示しているはずだ。

 人口は年金保険料の担い手として大きく影響する。また0~2歳が最も少ないということは画期的な人口増加政策を見い出さない以上、0~2歳児の15年~13年後からそれ以降の将来的な生産年齢人口(15~64歳)の減少にもろに影響し、このことは各業種の生産そのものにも影響していく。

 野田政権の社会保障改革の大きは柱の一つである肝心要の子育て対策が機能していなかったということは各政策全体に亘って相互機能を持たせていなければならない関係から、政策全体の効果に対する期待を殺ぐ結果となる。  

 勿論、各政策に相乗効果的に成果向上を図る相互機能を持たせていないとしたら、そのことも問題となる。

 個々の政策に相互機能を持たせていないのではないかと疑わせるのが、年金支給開始年連引上げ問題である。このことについて前原は、「年金の給付開始年連の引き上げ問題については、その議論をする前に必ずやらなくてはならないのは定年延長の問題と再雇用の問題をどうするかといことが先だと思いますね。

 先の議論がなくして年金の給付開始年齢が引き上がるということはいたずらに社会に不安を与えることになると、私はそう思っている」と言っているが、年金の支給開始年齢が2013年度以降、60歳から65歳まで段階的に引き上げることが決まっていることに対して、定年の60歳~65歳から68歳~ら70歳への引き上げを決めもせずに支給開始年齢の68歳~70歳への引き上げのみを唐突に持ち出したのは野田政権である。

 既に希望者全員を60歳から65歳まで再雇用することを企業に義務づける高年齢者雇用安定法改正案に対して反発していた経済界は高齢者再雇用によって若者の就業機会が失われる、全員再雇用では必要としない人材まで抱えることになると猛反発し、識者の多くも批判をした経緯がある。
 
 経済界のこの猛反発、あるいは多くの識者の批判を受けて、68歳~70歳への引き上げを断念したが、この断念に詭弁を用いている。

 小宮山厚労相「今の年金財政が厳しいから検討している訳ではなく、将来的に検討が必要だから議論をしている。来年や再来年という短時間の中で引き上げのための法案を提出することは考えていない」

 「今の年金財政が厳しいから検討し」たはずなのに、そうではないと詭弁を用いて誤魔化している。薄汚い限りである

 この年金支給開始年齢引き上げにしても定年延長対策や若者雇用対策、ひいては企業の業績にも関係していくことだから、景気対策等、これら全般に亘って相互機能を持たせて打ち出さなければならなかったはずだが、他を置き去りにして持ち出した、いわば相互機能を持たせていなかった政策に過ぎなかったから、犬が尻尾を巻いて逃げるようにたちまち引っ込めざるを得なくなった。

 各政策に相互機能をもたせるという政策運営の鉄則を破ったのである。

 経済界からも多くの識者からも反発を食らったこのような経緯を見ると、前原の「その議論をする前に必ずやらなくてはならないのは定年延長の問題と再雇用の問題をどうするかといことが先だと思いますね」は如何にヌケヌケとした発言かが分かる。

 ましてや、「先の議論がなくして年金の給付開始年齢が引き上がるということはいたずらに社会に不安を与えることになると、私はそう思っている」は、さも自身を道理ある政治家と思わせる居直りの奇麗事発言としか言いようがない。

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維新の会市議団家庭教育条例案、日本人の考えとして最適のアイデアであり、日本人向けに最適の強制

2012-05-04 12:40:38 | Weblog

 維新の会市議団が「家庭教育支援条例案」を、提出時期は未定ながら、5月1日(2012年)、市議会に提出する方針を決めたという。成立した場合、公権力が家庭にまで入り込んで、家庭教育をあれこれ強制することになると反対する意見もあり、逆に役立つとして賛成する意見もある。

 マスコミは公明党市議団も賛同する見通しだと伝えているが、大阪維新の会代表の橋下徹大阪市長自身の態度はと言うと――

 橋下大阪市長「市民に義務を課すのは好きでない。だが、必要なルールなら議会でどんどんつくったら良い」(MSN産経

 矛盾した言い方となっている。「義務を課すのは好きでない」と言いながら、市議団が「必要なルール」としていることに賛成している。

 義務を通り越して強制の域に達しているように見える。自分たちがすることは何でも許されるといった独裁意志さえ嗅ぎ取ってしまう。

 但し日本人の考えとして最適のアイデアであり、日本人向けに最適の強制だとも言える。日本人は元々上が下を従わせる権威主義性を思考様式・行動様式としているからであり、この権威主義性に非常にマッチする条例案となっているからである。

 自由法曹団のページに紹介してあったから、全文を参考引用してみる。「前文」が提案理由の位置を占め、「第1章」以下が主として具体的方策の提示となっている。 

 主に「前文」を取り上げて、自分なりの解釈を施したいと思う。

 重要と思われる箇所は色付けした。前文冒頭は提案理由の前提をなしているが、そもそもからして前提自体に事実誤認があることを最初に断っておく。 

 《維新の会市議団 家庭教育条例案》(自由法曹団ページ/平成24年5月) 

 家庭教育支援条例 (案)   

(前文)

 かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ、父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた。

 しかし、戦後の高度成長に伴う核家族化の進展や地域社会の弱体化などによって、子育ての環境は大きく変化し、これまで保持してきた子育ての知恵や知識が伝承されず、親になる心の準備のないまま、いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている。

 近年急増している児童虐待の背景にはさまざまな要因があるが、テレビや携帯電話を見ながら授乳している「ながら授乳」が8割を占めるなど、親心の喪失と親の保護能力の衰退という根本的問題があると思われる。

 さらに、近年、軽度発達障害と似た症状の「気になる子」が増加し、「新型学級崩壊」が全国に広がっている。ひきこもりは70万人、その予備軍は155万人に及び、ひきこもりや不登校、虐待、非行等と発達障害との関係も指摘されている。

 このような中で、平成18年に教育基本法が改正され、家庭教育の独立規定(第10条)が盛り込まれ、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と親の自覚を促すとともに、「国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」と明記した。

 これまでの保護者支援策は、ともすれば親の利便性に偏るきらいがあったが、子供の「育ち」が著しく損なわれている今日、子供の健全な成長と発達を保障するという観点に立脚した、親の学び・親育ちを支援する施策が必要とされている。それは、経済の物差しから幸福の物差しへの転換でもある。

 このような時代背景にあって、本県の未来を託す子供たちの健やかな成長のために、私たち親自身の成長を期して、本条例を定めるものである。

第1章 (総則)

(目的)
第1条:

1項 親およびこれから親になる人への「学習の機会及び情報の提供等」の必要な施策を定めること
2項 保育、家庭教育の観点から、発達障害、虐待等の予防・防止に向けた施策を定めること
3項 前2項の目的を達成するため、家庭教育支援推進計画を定めること

(基本理念)

第2条:家庭教育の支援は、次に掲げる条項を基本理念として、推進されなければならない。

(1) 親は子の教育について第一義的責任を有すること
(2) 親と子がともに育つこと
(3) 発達段階に応じたかかわり方についての科学的知見を共有し、子供の発達を保障すること

(社会総がかりの取組)

第3条:前2条の目的および基本理念にもとづき、家庭教育の支援は、官民の区別なく、家庭、保育所、学校、企業、地域社会、行政が連携して、社会総がかりで取り組まれなければならない

第2章 (保護者への支援)

(保護者への支援の緊急性)

第4条:現に子育て中であるか、またはまもなく親になる人への支援は、緊急を要するため、以下に掲げる施策が、遅滞なく開始されなくてはならない

(母子手帳)

第5条:母子手帳交付時からの親の学びの手引き書の配付など啓発活動の実施、ならびに継続的学習機会の提供および学習記録の母子手帳への記載措置の実施 

(乳幼児検診時)

第6条:3ヶ月、6ヶ月、1歳半、3歳児検診時等での講習の実施ならびに母子手帳への学習記録の記載措置の実施

 (暗記式学校教育と何ら変わらない。教えたことを母子手帳に書かせる。日本全国金太郎飴、画一化。個性の喪失、個性の剥奪。)

(保育園、幼稚園等での学習の場の提供)

第7条:すべての保育園、幼稚園等で、年間に1度以上、保護者会等での「親の学び」カリキュラムの導入

(一日保育士、幼稚園教諭体験)
第8条:すべての保育園、幼稚園で、保護者を対象とした一日保育士体験、一日幼稚園教諭体験の実施の義務化

(学習の場への支援)

第9条:保育園、幼稚園、児童館、民間事業所等での「親の学び」等の開催支援

第3章 (親になるための学びの支援)

(親になるための学びの支援の基本)

第10条:これまで「親になるための学び」はほとんど顧みられることがなく、親になる自覚のないまま親になる場合も多く、様々な問題を惹起していることに鑑み、これから親になる人に対して次に掲げる事項を基本として、学びの機会を提供しなければならない。

(1) いのちのつながり
(2) 親になることの喜びと責任
(3) 子供の発達過程における家族と家庭の重要性

(学校等での学習機会の導入)

第11条・小学校から大学まで、発達段階に応じた学習機会を導入する

(学校用家庭科副読本および道徳副読本への導入)

第12条:小学校から高等学校まで、発達段階に応じて、次に掲げる事項を基本とした家庭科副読本および道徳副読本を作成し活用する

(1) 家族、家庭、愛着形成の重要性
(2) 父性的関わり、母性的関わりの重要性
(3) 結婚、子育ての意義

(家庭用道徳副読本の導入)

第13条:前12条の内容に準じて、保護者対象の家庭用道徳副読本を作成し、高校生以下の子供のいる全ての家庭に配付する

(乳幼児との触れ合い体験学習の推進)

第14条:中学生から大学生までに対して、保育園、幼稚園で乳幼児の生活に触れる体験学習を義務化する

第4章 (発達障害、虐待等の予防・防止)

(発達障害、虐待等の予防・防止の基本)

第15条:乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因であると指摘され、また、それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与していることに鑑み、その予防・防止をはかる

(保護者、保育関係者等への情報提供、啓発)

第16条:予防、早期発見、早期支援の重要性について、保護者、保育関係者およびこれから親になる人にあらゆる機会を通じて情報提供し、啓発する

(発達障害課の創設)

第17条:
1項 発達障害の予防、改善のための施策は、保育・教育・福祉・医療等の部局間の垣根を廃して推進されなければならない
2項 前1項の目的達成のために、「発達障害課」を創設し、各部局が連携した「発達支援プロジェクト」を立ち上げる

(伝統的子育ての推進)

第18条:わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する

(学際的プロジェクトの推進)

第19条:保育・教育・福祉・医療等にわたる、発達障害を予防、防止する学際的研究を支援するとともに、各現場での実践的な取り組みを支援し、また、その結果を公表することによって、いっそう有効な予防、防止策の確立を期す

第5章 (親の学び・親育ち支援体制の整備)

(民間の、親の学び・親育ち支援ネットワークの構築推進)

第20条:親としての学び、親になるための学びの推進には社会総がかりの取り組みが必要なため、民間の、親の学び・親育ち支援ネットワークの構築を支援し、推進する

(民間有資格者の育成に対する支援)

第21条:親としての学び、親になるための学びを支援、指導する「親学アドバイザー」など、民間有資格者等の育成を支援する

(「親守詩」実行委員会の設立による意識啓発)

第22条:親と子がともに育つ実践の場として、また、家族の絆を深める場として、親守詩実行委員会を設立して発表会等の催しの開催を支援し、意識啓発をおこなう

(家庭教育推進本部の設置と推進計画等の策定)

第23条:
1項 首長直轄の部局として「家庭教育推進本部」を設置し、親としての学び、親になるための学び、発達障害の予防、防止に関する「家庭教育推進計画」を策定する
2項 「家庭教育推進計画」の実施、進捗状況については検証と公表をおこなう

 前文冒頭で、「かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ、父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた」と言っている。

 かつての日本社会を矛盾なき完全な理想社会として描いている。父母も祖父母も兄弟も地域社会も欠点も矛盾もない理想の存在だったと絶対的な価値づけを行なっている。

 当然、欠点も矛盾もない理想の存在によって「温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた」きたかつての子供たちは同じく理想の存在として育っていった「子育ての文化」ということでなければならない。

 確かに戦後、社会のあり方や家族のあり方は大きく変わった。だが、かつての欠点も矛盾もない理想の存在によって育まれて理想の存在となった子どもたちが大人となり、自分たちの子どもを理想の存在に育んていく、理想の存在から理想の存在への循環は戦後の変化によって伝統・文化とし得ない程に脆弱だったということになる。

 この矛盾はどう解釈したらいいのだろうか。

 戦後は約70年弱の積み重ねしかないが、戦後以前は何百年の積み重ねがある。かつての「子育ての文化」は何百年の積み重ねによって育まれ、到達した文化であろう。それが70年そこそこの戦後の変化によっていとも簡単に変質させられてしまった。

 人間の歴史に矛盾なき理想の社会など存在した試しはないという真理を知らないから、理想社会が存在したかのような、こういった事実誤認が生じる。

 日本のかつての「子育ての文化」が非の打ち所のない理想的な文化であったなら、戦争中の大日本帝国軍隊兵士の残虐行為は存在しなかったろう。

 明治・大正・戦前昭和の歴史を紐解くと、学歴高い政治家・官僚・教育者の汚職・収賄・贈賄等々の犯罪はゴマンと認めることができるが、これも日本の理想的な「子育ての文化」にどっぷりと浸かって育った大人たちだったからに違いない。

 前文冒頭の事実誤認に触れて、事実誤認として横行していた児童虐待に関する日本の初期的認識を思い出した。

 児童虐待の初期的認識とは関係しないが、この前文でも児童虐待について次のように触れている。「近年急増している児童虐待の背景にはさまざまな要因があるが、テレビや携帯電話を見ながら授乳している『ながら授乳』が8割を占めるなど、親心の喪失と親の保護能力の衰退という根本的問題があると思われる」――

 この認識も事実誤認に相当するはずだ。児童虐待の多くは保護者の“心の余裕”が影響しているはずだからだ。経済的余裕のなさや夫婦間の不和等が生活の余裕を奪い、それが心の余裕まで奪い、ちょっとしたことでイライラすることになって子どもに辛く当たったりして、抑えることができなくなって慣習化してしまう。

 貧困、失業、職に就いていても、非正規やフリーターといった不安定で低賃金、病気をしても満足に病院にかかることができない等々の生活環境が多くをして心の余裕を奪っている。その結果としての「親心の喪失と親の保護能力の衰退」ということでもあるはずだ。

 このことは各国の外国人問題が証明している。世界的に景気がよく、国民の生活に余裕があった時代は自国に流入した外国人に寛容であったが、不景気となり、自国民でも失業者が増大して、仕事が見つからない、生活が苦しいとなると、外国人に非寛容となって、襲撃したり、最悪殺人まで犯したりする心の余裕のないことを仕出かしてしまう。

 いわば児童虐待は親の問題である以上に社会の問題でもあるはずだ。多分維新の会大阪市議団は大きな家に住んで心の余裕ある者ばかりなのだろう。

 児童虐待に関する日本の初期的な事実誤認については、《ニッポン診断 児童虐待の『発見』と専門家の不在》朝日新聞/2005年5月29日 朝刊)が触れている。ロジャー・グッドマン英オックスフォード大学講師の寄稿記事である。

 次のような記述がある。「親子心中といった日本社会ならではの現象があるということは認めながらも、感情的・身体的・性的な虐待は『欧米の』問題で日本には存在しないと見られていた」

 何と見事な合理的判断能力を欠いた認識だろうか。

 平安時代の『落窪物語』は継子いじめ物語である。その他にも継子いじめを題材にした物語、歌舞伎等はいくらでもあったはずだ。物語には殺してしまう程の最悪の虐待は存在しなかったとしても、だからと言って、現実世界に於ける存在を否定できないはずだ。

 人間は人としての心の余裕を失うと、見境ない行為に走る。天明・天保の両飢饉では食べる物がなく、死人ばかりか、生きている人間の肉を食べたとする記録が残っているそうだし、『近世農民生活史』(児玉幸多著・吉川弘文館)には次のような記述がある。

 〈「動転愁記」という天明の飢饉の実情を記したものには更にいくつかの惨事が記されている。津軽領(弘前藩)で猫犬が何百文という値段で売買された話、同城下で相応の町人が金銭を枕元に積み重ねて絹布の夜具を着て家内数人が餓死した話、南部領(盛岡藩)でも三戸の在で実子二人を食い殺した女の話、ニ、三歳の子どもを川へ投げ入れて乞食に出る者の話、「これからは食いたい食いたいと言わないから、許してくれ」と泣き叫ぶ七、八歳の娘を石で打ち殺した女の話、追剥・強盗。強請(ゆすり)の横行する話しである。〉――

 子どもを殺す母親は生きながらに飢えで苦しめるよりも、あるいは飢えで苦しんでいるのを見るに堪えずに一思いにと思って殺してしまうのかもしれない。
 
 天明の飢饉では弘前藩と盛岡藩で12万人もの餓死者を出したとされているが、一説では弘前藩だけで13万人から20万人の餓死者だとされているという。
 
 『近世農民生活史』にはさらに次のような件がある。〈飢饉の年には木の根・草の根を掘り起こし、犬猫牛馬を食い、人の死骸を食い、生きている人を殺して食い、何万何十万という餓死者を出した時でさえも、武士には餓死する者がいなかったという。〉・・・・・

 権力者側に所属する「武士には餓死する者がいなかった」とは武士以外の人間にとってはこれ以上ない残酷な話しとなる。

 人間にとっては生活がすべてである。生活に余裕があるかないかで人間の行動を制約することになる。

 こういった認識があったなら、〈8割を占める〉〈テレビや携帯電話を見ながら授乳している『ながら授乳』〉が〈親心の喪失と親の保護能力の衰退〉の原因をなす現象であり、このことが児童虐待の主たる原因となっているとする事実誤認に至ることはないだろう。

 上出の《ニッポン診断 児童虐待の『発見』と専門家の不在》が次のように伝えている。「調査によると、日本で公式には年間に千六百十一件しか児童虐待がなかったとされる一九九三年に、人口が二倍の米国では二百三十万件の虐待があり、人口が半分の英国では約四万件あった。問題意識が高まるに連れ、日本で報告される件数は今後数年で、急速に増え続けていくのはまず間違いない」

 その一九九三年とは、「医師や福祉の専門家を含む殆どの人たちが、日本で児童虐待が起きている可能性を否定していたころからまだ十年もたっていない」年である。

 いわば10年も経たないうちに児童虐待発生件数ゼロから1680件も急激に増加したことになる。この不自然さに、「医師や福祉の専門家を含む殆どの人たち」の誰もが気がつかなかった。

 親の子どもに対する歪んだ身体的暴力行為が、いわゆる“愛の鞭”だと把えていても、児童虐待に相当するという認識が親を含めて社会が持っていなかったことからの(児童虐待という言葉すらなかったのではないのだろうか)情報把握不足と情報伝達不足が招いていた児童虐待は日本には存在しないとした事実誤認ではなかったろうか。

 この事実誤認に勝るとも劣らない維新の会大阪市議団の8割を占める「ながら授乳」が児童虐待の主たる原因だとする事実誤認であろう。
 
 親が先ずは第一番に経済的な生活の余裕と良好な夫婦関係がもたらす心の余裕に恵まれ、それらの余裕が支えとなって、単身者なら、経済的な余裕が唯一の支えとなるが、出産・育児に関しても心の余裕を持って接することができたなら、発達障害との関係が指摘されていると言っているひきこもりや不登校、虐待、非行等もかなり減るはずだ。

 舅や姑との人間関係、ごく近所の住人との人間関係も精神的余裕に関係してくる。ときには経済的な余裕を相殺して上回る焦燥や苛立ちを与える人間関係ということもあり、それが子どもに対して攻撃の形を取ることもあるだろう。

 以上見てきた日本の「子育ての文化」の事実誤認からすると、第18条の「わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる」としていることも事実誤認そのものとなる。

 戦後も尾を引き、現在もその名残りを残しているが、戦前の家庭は家長が絶対的権力を握っていた権威主義社会にあった。それゆえ妻も子どもも父親の権威主義的強制に対しては面と向かっては逆らうことができなかった。

 いわば人間性に関しては家長の言うがままの鋳型にはめられた抑制された存在として育つしかなかった。その典型的な例が職人や商人の世界での、学問なんか必要ではない、親の職業を継ぐんだという強制であろう。

 この強制は戦後も核家族化が社会的に当たり前の姿となる前頃まで続いたはずだ。だから、核家族化が権威主義的な家父長制の打破に役立ち、そこから個人を救ったとも言える。

 維新の会市議団の家庭教育条例案には権威主義的な家父長制が持っていた強制意志を嗅ぐことができる。「わが国の伝統的子育て」だとしている日本の「子育ての文化」への回帰を謳っていること自体が、自分たちでは気づかなくても、かつて存在した家父長制への回帰となるからである。

 あるいは家父長制の強制とまで行かなくても、歴史とし、文化としてきた権威主義性を現在も残している日本の教育の上が下を従わせる形式の暗記知識授受・暗記情報授受を見習ったかのような権威主義的強制を滲ませていると言える。

 常々言っているように暗記教育は児童・生徒の自ら考えるプロセスを教育そのものに介在させないことによって成り立つ。児童・生徒が自ら考えるプロセスを介在させていたなら、暗記教育でなくなる。

 維新の会市議団の家庭教育条例案にしても、ああしろ、こうしろという強制ばかりで、親が自ら考えて子育てする“考えるプロセス”に何ら期待しない内容となっているからである。

 日本の暗記教育が金太郎飴に譬えられるように児童・生徒の思考の画一化・行動の画一化を招いているように維新の会市議団の家庭教育条例案の強制に忠実に従ったなら、その強制を受けた親によって子どもは幼稚園・保育園に入る前から画一化に慣らされ、現在以上のマニュアル人間、横並び人間を育てるには役立つに違いない。

 だからこそ、冒頭、〈日本人の考えとしてふさわしいアイデアであり、日本人向けにふさわしい強制だとも言える。日本人は元々上が下を従わせる権威主義性を思考様式・行動様式としているからであり、この権威主義性に非常にマッチする条例案となっているからである。〉と書いた。

 いずれにしても個人の考えに任せることができない、いわば個人それぞれの自律性・主体性に任せることができない、親方日の丸の口出しがここにある。

 このことも日本人が未だ権威主義性を色濃く残しているからだろう。

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都合の悪いことは情報隠蔽し、ゴマカシの情報公開となった前原誠司の見当違いな訪露成果誇示

2012-05-03 11:15:44 | Weblog

 日本のホープ、有言不実行の口先番長、前原誠司民主党政策会長がロシアを訪問、日本時間5月2日(2012年)夜、ラブロフ外相と会談。北方領土問題を解決した上で、日本とロシアが経済やエネルギー分野などで関係を強化していく必要があるという考えを伝えという。

 《“北方領土問題解決し関係強化を”》NHK NEWS WEB/2012年5月3日 1時6分)

 会談で実際にどのような言葉が交わされたのか、会話情報の事実は出席当事者しか知らない。会談後の記者会見か、その後の何かの機会で双方の代表者やその他の発言でしか窺い知ることはできない。

 その一つとして、前原誠司は“北方領土問題を解決した上で”の条件をつけて、日露の経済的関係の強化の必要性を訴えたと自らの話として明かした。

 前原誠司が明かした具体的な発言内容を記事は次のように伝えている。

 前原誠司「日本とロシアは、戦略的・地政学的に、重要な関係にある。今後、懸案となっている北方領土問題を解決したうえで、平和条約を締結し、さらに日ロ両国の関係を発展させなければならない」

 日ロ両国関係の発展はあくまでも北方領土問題解決を前提とすると宣言している。

 前原誠司のこの発言に対するラブロフ外相発言だが、ラブロフ外相自身が記者団の前で口にしたものなのか、前原誠司が紹介したラブロフ外相の発言なのか記事からでは把握できない。

 ラブロフ外相「両国の戦略的発展の重要性には同意する。特に経済面やエネルギー分野、そして、海上の国境警備や密輸対策といった東アジア地域での協力などが重要だ。

 両国の首脳、外相同士が話し合うことは大変重要だ。野田総理大臣と玄葉外務大臣には、ロシアを訪問してほしい」

 記事は以上の発言を紹介した上で、〈会談のあと、前原氏は記者団に対し〉と注釈をつけているが、前の発言も記者団の前で口にした発言でなければ、公開形式の会談でなければならなくなる。あくまでも記者団の前で前原誠司が紹介した自身とラブロフ外相の発言であったか、前原誠司とラブロフ外相がそれぞれに個別に紹介した発言でなければならないはずだ。

 前原誠司「プーチン新政権が改めて誕生するタイミングで、野田総理大臣を含め、日本の政府与党が、日ロ関係の強化に強い意欲を持っていることを伝えることができたのは成果だ」

 記事はこの発言を、〈今回のロシア訪問の意義を強調し〉たものだとしている。

 平和条約締結と日ロ両国関係の発展はあくまでも北方領土問題解決を前提とすると宣言している以上、いわば平和条約締結と日ロ両国関係の発展は北方領土問題解決の次だと言っている以上、その解決の糸口を何らか見い出したことを以って「成果」とすべきだが、平和条約締結はさておいて、日ロ両国関係の発展を先に持ってきて、「野田総理大臣を含め、日本の政府与党が、日ロ関係の強化に強い意欲を持っていることを伝えることができたのは成果だ」と誇るのは、北方領土問題解決を次にする後先の誤魔化以外の何ものでもないはずだ。

 これを北朝鮮の日本人拉致問題に譬えると、日本政府の公式的立場は“拉致解決なくして日朝国交正常化なし”であるが、いわば日朝国交正常化は拉致解決の次だとしていながら、拉致解決を次にして日朝国交正常化を先にするようなものだろう。

 「懸案となっている北方領土問題を解決したうえで」と言いながら、その解決を差し置いて日ロ両国関係発展に重点を置くのはまさしく口先番長そのものの態度となる。

 ラブロフ外相との会談で果たして実際に北方領土問題解決を前提とした発言を最後まで通したのか、極めて疑わしくなる。記者団の前でのみ表明した北方領土問題解決ではないのかの疑いである。

 この疑いは別の記事を見ると、間違っていないことを証明してくれる。《「領土問題に柔軟に対応」 ロシア訪問の前原政調会長》MSN産経/2012.5.2 22:13)

 記事題名からして上記「NHK NEWS WEB」記事が伝える“前提”から外れて、北方領土問題解決を条件としない両国関係の構築を指しているはずだ。

 会談後の記者会見での前原誠司の発言として、ラブロフ〈外相から「両国の法的な立場を害さない立場で協力を行うことは大変重要。実を結ぶことを期待している」との表明があったと語った。〉となっているから、ラブロフ外相出席なしの前原単独記者会見だったことが分かる。

 「両国の法的な立場を害さない立場」とは、日本側の「北方四島は日本固有の領土である」、ロシア側の「北方四島は第2時大戦の結果ロシア領となった」という双方それぞれの主張を崩さない、いわば双方並立の現状維持を言っているはずで、ラブロフ外相からそういう主張があったということは、前原誠司が実際に発言したかどうか分からないが、実際に発言したと仮定したとしても、「北方四島は日本固有の領土である」の日本側の主張が無視されたことを示しているし、実際には発言しなかったとしても、「北方四島は日本固有の領土である」の日本側の主張を最初から最後まで無視する姿勢でラブロフ外相は会談に臨んでいたことを示すことになる。

 このことはロシア側の北方四島に対する実際的な行動が証明している。「両国の法的な立場を害さない立場で」といった主張で以って日本側の抗議や干渉からロシアの立場を守りつつ、着々と北方四島の開発を推し進めて実効支配を強化していく戦略推進に表れている日本側主張の無視である。

 いわば「両国の法的な立場を害さない立場」はロシア側にとっては最好都合の主張であって、当然、日本側にとっては最不都合の主張となる。

 前原誠司はラブロフ外相のその主張を容認したことになる。

 但し前原誠司が口では言っていながら、本音のところでそうは思っていない北方領土問題解決前提であるなら、いわば記事が伝える領土問題に柔軟対応であるなら、ロシア側の「両国の法的な立場を害さない立場で」という主張は最不都合でも何でもなくなり、容認可能となる。

 記事の結び解説と前原誠司の発言を纏めて、前原誠司の発言を創作してみる。

 前原誠司「協力の具体的な方策については、日露の実務者間で交渉が進んでいる。ラブロフ外相とは依然として低いレベルにある日露関係を発展させることの重要性を共有しあった。

 但し北方四島が日本固有の領土であることは紛れもない事実であり、一般論として(領土問題に)柔軟に対応することが求められている時期にある」

 実際の記事結び解説。〈協力の具体的な方策については、日露の実務者間で交渉が進んでいるという。双方は、依然として「低いレベル」にある日露関係を発展させることの重要性を共有しあったといい、前原会長は四島が日本固有の領土であることは「紛れもない事実」という認識を示した上で、「一般論として(領土問題に)柔軟に対応することが求められている時期にある」と語った。(モスクワ 佐々木正明)〉・・・・・

 「低いレベルにある日露関係を発展させることの重要性を共有しあった」という発言は北方領土問題解決を抜きにして成り立つ、あるいは解決を前提としないことによって成り立つ議論ということになる。

 実際の会議の場ではそのような姿勢で議論した。あくまでも領土問題解決の前提に拘っていたなら、関係強化の話へと前へは進まないことになるからだ。

 進まないとなれば、「ラブロフ外相とは依然として低いレベルにある日露関係を発展させることの重要性を共有しあった」という話はなかったことになる。

 だが、これだけの紹介では日本国民に対して格好がつかないし、批判も浴びることになるから、記者団の前では「北方四島が日本固有の領土であることは紛れもない事実」だと、あくまでも北方四島返還要求の姿勢を崩していないことを表明した。

 但し記者団向けの発言はロシア側にも知れることになるし、日本国民に対しても北方領土問題解決を次にして日ロ両国関係発展を先にする都合上、矛盾を排して全体の発言に整合性を持たせるために、「一般論として(領土問題に)柔軟に対応することが求められている時期にある」と巧妙な言い回しで、自分一人の考えではない、一般論だとして、北方領土問題解決を前提としないことを暗に示した。

 「柔軟に対応」とはそういうことでなければならないはずだ。

 前原誠司がラブロフ外相との会談に先立って地元テレビ局の取材を受けたときの発言が既に触れたことと同じ趣旨となっている。

 《前原氏、ロシア外相と会談 領土問題「懸案解決を」》asahi.com/2012年5月2日23時11分)

 前原誠司「4島は日本固有の領土という立場は揺るがない。互いの立場は56年間議論を尽くした。同じように繰り返すことが建設的とは思わない」

 「4島は日本固有の領土という立場は揺るがない」と言いながら、日本側の「北方四島は日本固有の領土である」、ロシア側の「北方四島は第2時大戦の結果ロシア領となった」とするお互いの立場を「同じように繰り返すことが建設的とは思わない」と言って、ある意味、日本側の「北方四島は日本固有の領土である」としていた立場の放棄を示唆している。

 記事はこの発言を、〈新たな解決策が必要との認識を示した。〉ものだとし、〈ただ、日本国内では2島先行返還論などへの批判が根強いため、この場では具体的な案に言及しなかった。〉と解説している。

 ロシアは2島も返還しないだろう。単に経済協力・技術協力を引き出すためのエサとして利用しているに過ぎないはずだ。ロシア側が前々から主張している「南クリル諸島(北方四島)は第2次大戦の結果としてソ連に移り、その後ロシアに法的に引き継がれたのは明らかなことだ」(ロシア外務省)、「第2次世界大戦の結果を認めるという他の国がしていることを、日本がする以外に(平和交渉進展の)方法はない」(ラブロフ外相)の「第2次世界大戦の結果」論を打ち破る創造的理論を日本側が構築できない以上、いくら日本が「北方四島は日本固有の領土である」と言ったとしてもロシアには無効であることは誰の目にも明らかで、明らかである以上、他に返還の方策は見い出せないことも誰の目にも明らかなことであって、二重に明らかであるにも関わらず構築できないままにロシアに乗り込んでいるのである。

 当然、実際の会議の場で、「北方四島が日本固有の領土であることは紛れもない事実」だといった発言は明確にはしなかっただろうということである。
 
 だが、会見の場で発言しなかった不都合を記者団の前では情報隠蔽し、さも明確に発言したような情報公開を行うことで自身の立場に整合性を持たせる情報操作を演じた。

 そして事実そのことしか成果がなかったのだろうし、実際にも目指した成果なのだろう、「野田総理大臣を含め、日本の政府与党が、日ロ関係の強化に強い意欲を持っていることを伝えることができたのは成果だ」と誇示したのはいいが、国民の前では北方領土問題解決が先だとそのことを前提としている以上、そのことに反する見当違いでしかない成果を誇示することになった。

 参考までに。

 2010年11月9日当ブログ記事――《菅民主党政権は北方四島のロシア領土化にサジを投げている? - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

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野田首相の「自衛官のせがれ」対菅仮免許の「サラリーマンの息子」に見る合理的判断能力欠如

2012-05-02 11:48:04 | Weblog

 4月30日(2012年/日本時間1日午前)、米ワシントン市内開催のクリントン国務長官主催夕食会での我が日本の野田首相挨拶。《「私は自衛官のせがれ。安保の重み感じてた」 米で首相》asahi.com/2012年5月1日20時36分)

 野田首相「私は自衛官のせがれとして生まれ育ちました。父親や隊員たちの背中を眺めつつ、日米安保が持つ重みを肌で感じ取ってきました。

 (日米同盟がもたらした米国の被災地支援に感謝し)被災地を救援する目的のために共に必死に汗を流した。この共通体験を糧に、我が国も日米安保の重みを担う決意を新たにした」

 記事結び。〈クリントン長官は、旧東京市からワシントンに桜が贈られて今年で100年になるのを記念し、当時贈られた桜と同数の3千本のハナミズキを米国から被災地などに贈ることを正式に発表した。(ワシントン=伊藤宏) 〉――

 被災地救援の「この共通体験を糧に、我が国も日米安保の重みを担う決意を新たにした」と言っているが、日米安保条約は軍事面に関わる日本防衛を主体としたもので、災害救援は付属的役割として存在しているはずである。

 対して「日米安保の重み」は軍事面に於ける国家・国土全体に関わる最善・最適な日本防衛はどうあるべきかの戦略に基づいて冷静・冷徹に構築し、計算されるべき重要性であって、その重要性は災害救援とは比ではなく、当然、軍事的な国家・国土防衛に関わる重要性の点から「日米安保の重みを担う決意を新たに」すべきであるはずだが、果たして出発点をそこに置いて、被災地救援をキッカケに「日米安保の重みを担う決意を新たにした」ということなのだろうか。

 だが、「父親や隊員たちの背中を眺めつつ、日米安保が持つ重みを肌で感じ取ってきました」は情緒性の「重み」であって、冷静・冷徹な戦略的計算に基づいた「重み」とは異なる。

 大体が野田首相は情緒的な情報把握に基づいた情緒的な情報発信のエピソードが多い。例えば「原発事故との戦いは続いています。福島を必ずや再生させ、美しいふるさとを取り戻すために全力を尽くします」(東日本大震災一周年追悼式 野田首相式辞/2012年3月11日)と言っている。

 確かに野や山の自然は美しいが、地方に於ける人間の生活風景は日本の政治が地方を過疎化させ、経済格差に追い込み、「美しいふるさと」とは言えない悲惨な状況にある。

 降雪が多かった今冬、遠くから眺める雪山は美しいだろうが、現実の生活圏に於いては70歳、80歳の高齢者が壮年・青年の手を借りたくても存在しないために自ら屋根に登って雪かきをせざるを得ず、滑り落ちるなどして多くの死者を出したことがこのことを如実に証明している。

 いわば既に「美しいふるさと」を失っている上に放射能を逃れて一度県外に出た住民がすべて戻るとは限らない点を見ても、原発事故収束=福島再生=美しいふるさと回帰と一足飛びに見做すことはできないはずだが、簡単にそう言うことができるのは情緒性に基づいた情報発信であり、より現実主義的でなければならない政治家でありながら、このことに反して情緒性を感性としているということであろう。

 野田首相の演説の巧みさは情緒性が助けている才能であるはずだ。

 情報処理に於ける情緒性の発揮は往々にして的確な情報処理に必要な合理的判断能力を阻害することによって成り立つ。

 だから、国家・国土防衛の戦略上の必要性から、いわば国益上の必要性から「日米安保が持つ重み」を冷静・冷徹に計算すべきを、「私は自衛官のせがれとして生まれ育」ったから、「日米安保が持つ重みを肌で感じ取って」きた。あるいは「共に必死に汗を流した」被災地救援の「共通体験を糧に、我が国も日米安保の重みを担う決意を新たにした」などと情緒性たっぷりのことが言える。

 もし野田首相が日本のリーダーとして、あるいは内閣のトップとして日本の国益に最大限適う戦略上の必要性から日米安保の重要性を十二分に把握していたなら、その重要性に基づいた的確な指揮命令の責任を常に意識していたはずだし、その意識は今回の北朝鮮ミサイル発射に備えた内閣の危機管理に於いても行動を伴う形で機能しなければならなかったし、機能させる責任を負っていたはずである。

 だが、情報処理に醜態とも言える混乱を引き起こし、内閣トップが自ら担っている指揮命令に関わる意識の行動化を満足に果たすことも果たさせることもできなかった。

 日米安保に文民として関わる指揮命令の実際的運用に於いて一部でも欠けるところがあったなら、いくら日米安保の重要性を口では言っても、言っていること自体を疑わしくする。

 「自衛官のせがれとして生まれ育」ったは重要でも何でもない、必要な資質ではないということである。肝心なことは常に後天的に学び取っていく合理的判断に基づいた情報処理能力であって、「自衛官のせがれ」であることに何ら関係なく、このことを認識していたなら、日米関係構築の場で「自衛官のせがれ」であることなど持ち出さなかったろう。

 野田首相の合理的判断能力欠如は次の発言からも見て取ることができる。《日米首脳、同盟強化を目指す共同声明発表》日テレNEWS24/2012/5/1 13:19)

 オバマ大統領「私は、今後数十年に向けたアジア太平洋の地域の秩序作りや、日米同盟を深化させる共同声明を発表できて光栄です」

 野田首相「日米の同盟というのは揺るぎのないものでなければいけない、揺るぎないものであるということを確信した次第であります」

 確かに「日米の同盟というのは揺るぎのないものでなければいけない」。だが、揺るぎない同盟は終わることのない、常に進行形の双方の努力によって構築し続けるもので、一旦構築したら、それが完成の形を取って既成事実化するということではない。

 それが証拠に鳩山元首相は日米の信頼関係を損ねて揺るぎある同盟とし、その修復を果たしたとは未だ言えない。
 
 また同盟の中身に於いても、思い遣り予算等、平等とは必ずしも言えない契約も含んでいるはずだ。

 にも関わらず、「揺るぎないものであるということを確信した」と、鳩山元首相の「トラスト・ミー」をケロッと忘れて、揺るぎのないことが既成事実化した同盟であるかのようなことを言っている。

 このように言えること自体が既に合理的判断能力を欠いているからこそであろう。

 もし言うとしたら、「日米の同盟というのは揺るぎのないものでなければいけない、揺るぎないものとするためには日本としても必要とされる最大限の努力を常に払わなければならない」と言うべきで、このように言うことによって合理的判断能力を満たすことができる上に言外にアメリカの努力の必要性を含むこともできる。

 菅前首相も野田首相の、「自衛官のせがれ」に相当する「サラリーマンの息子」という言葉を用いて自身を紹介している。

 2010年6月8日の首相就任記者会見。

 菅仮免許>「この多くの民主党に集ってきた皆さんは、私も普通のサラリーマンの息子でありますけれども、多くはサラリーマンやあるいは自営業者の息子で、まさにそうした普通の家庭に育った若者が志を持ち、そして、努力をし、そうすれば政治の世界でもしっかりと活躍できる。これこそが、まさに本来の民主主義の在り方ではないでしょうか」

 確かに普通の家庭の子息・子女が政治家となる志を持ったなら、少なくともカネの力や人脈がなくても立候補できるチャンスは等しく手に入れることができる社会風土は必要である。

 だが、このことはあくまでも初期的条件に過ぎず、必要とされる資質は「普通のサラリーマンの息子」であろうがなかろうが、逆にカネ持ちの息子であろうがなかろうが、結果を出す能力――結果責任能力である。

 一見志ある者を差別なくと言っているように聞こえるが、首相就任記者会見での発言である。「私も普通のサラリーマンの息子でありますけれども」の「私も」は、必要とする社会風土への言及にかこつけて普通のサラリーマンの息子でありながら総理となった自身を例示したのであって、何気なく言いつつもそこに誇るニュアンスを嗅ぎ取ることはできても、結果責任能力に対する意思は全く感じ取ることができない。

 普通のサラリーマンの息子が次から次へと首相に登りつめていく。だが、一人として満足な結果責任を残せずに次から次へと辞めていくのでは普通のサラリーマンの息子が志さえ抱けば国会議員となることができる社会風土は大して意味のあることではなくなる。

 菅仮免許にしても絶対的必要資質条件でないにも関わらず合理的判断能力を欠いていたからこそ言えた、また合理的判断能力を欠いていたからこそ結果責任能力も欠いた、「私も普通のサラリーマンの息子でありますけれども」であろう。

 実際にも退陣するまで合理的判断能力、結果責任能力双方共に欠いた政治家で終わった。このことは首相の任期を衆院4年の任期とすべきだとする主張に表れている。

 首相としての任期はあくまでも結果責任に付属する期間であって、見るべき結果責任さえ残せば、4年が党代表の任期に応じて5年、6年となる可能性も生じる。だが、衆院4年の任期が保証してくれる結果責任能力では決してない。

 大学を4年間通ったとしても、その4年間をムダに過ごしたという学生がザラにいるのは4年間が保証してくれる知識・教養の習得ではないのと同じである。

 結果責任意識があったなら、結果責任で獲ち取る首相任期であることを自覚して、衆院4年任期にああまでも拘ることはなかったはずだ。

 無為・無能だったからこそ、結果責任に期待できないことから、衆院任期にのみ拘った。

 どうも野田首相と菅首相は合理的判断能力欠如という点で似た者同士に見えて仕方がない。

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日米首脳会談/普天間「国外、最低でも県外」移設指導力発揮方向性から見る野田首相指導力

2012-05-01 12:06:56 | Weblog

 野田首相が民主党政権として4月29日(2012年/日本時間30日)、初の公式訪米を実現させた。この「初」という点で、歴史に名を残すかもしれない。

 但しその指導力不足から、政策の見るべき実現で名を残すことは期待不可能に見える。

 4月30日(日本時間1日)発表した日米共同声明は米軍普天間飛行場移設問題に関して何も盛り込まず、いわばパスしたという。沖縄の反対が強く、普天間の固定化が現実味を帯びてきたと伝えるマスコミもある。

 民主党政権下で日米関係がギクシャクしたのは鳩山首相が普天間の「国外、最低でも県外」移設を謳いながら、最終的には自民党政権が決定した辺野古へと回帰、辺野古移設を以て日米合意とした迷走が原因であり、次の菅首相がその日米合意を踏襲しながら、辺野古移設決定にまでに至らず、次の野田首相も同じく辺野古移設の日米合意を踏襲しながら、沖縄の強硬な反対に遭って何ら進展を図ることができないでいる。

 要するに民主党政権三代、普天間移設問題で何ら指導力を発揮できないままの状態にある。

 重要・肝心な政策で指導力を発揮し得ずに他の政策で発揮することが期待できるだろうか。一事が万事で、重大な政策に指導力を発揮できなければ他のどのような政策でも発揮できようはずがない。

 逆説すると、困難な普天間移設問題で指導力をより良く発揮できてこそ、他の政策に関しての指導力を確約できると言える。

 見るべき指導力を満足に発揮できない無能の結果としてのここにきての日米共同声明での普天間問題パスということであるはずだ。

 そもそもからして普天間飛行場の辺野古移設の実現を以って民主党政権の指導力発揮としていいはずはない。

 2002年8月、那覇市で発表した「民主党21世紀沖縄ビジョン」には次のように高らかに宣言している。

〈3) 普天間米軍基地返還アクション・プログラムの策定

普天間基地の辺野古移設は、環境影響評価が始まったものの、こう着状態にある。。米軍再編を契機として、普天間基地の移転についても、県外移転の道を引き続き模索すべきである言うまでもなく、戦略環境の変化を踏まえて、国外移転を目指す。

普天間基地は、2004年8月の米海兵隊ヘリコプター墜落事故から4年を経た今日でも、F18戦闘機の度重なる飛来や深夜まで続くヘリの住宅上空での旋回飛行訓練が行われている。また、米国本土の飛行場運用基準(AICUZ)においてクリアゾーン(利用禁止区域)とされている位置に小学校・児童センター・ガソリンスタンド・住宅地が位置しており、人身事故の危険と背中合わせの状態が続いている。

現状の具体的な危険を除去しながら、普天間基地の速やかな閉鎖を実現するため、負担を一つ一つ軽減する努力を継続していくことが重要である。民主党は、2004年9月の「普天間米軍基地の返還問題と在日米軍基地問題に対する考え」において、普天間基地の即時使用停止等を掲げた「普天間米軍基地返還アクション・プログラム」策定を提唱した。地元の住民・自治体の意思を十分に尊重し、過重な基地負担を軽減するため、徹底的な話合いを尽くしていく。〉・・・・・

 そして2005年、2006年、2008年と改定していって、2008年7月8日発表の「民主党・沖縄ビジョン(2008)」を見て見る。

〈3) 普天間米軍基地返還アクション・プログラムの策定

普天間基地の辺野古移設は、環境影響評価が始まったものの、こう着状態にある。米軍再編を契機として、普天間基地の移転についても、県外移転の道を引き続き模索すべきである。言うまでもなく、戦略環境の変化を踏まえて、国外移転を目指す。

普天間基地は、2004年8月の米海兵隊ヘリコプター墜落事故から4 年を経た今日でも、F18戦闘機の度重なる飛来や深夜まで続くヘリの住宅上空での旋回飛行訓練が行われている。また、米国本土の飛行場運用基準(AICUZ)においてクリアゾーン(利用禁止区域)とされている位置に小学校・児童センター・ガソリンスタンド・住宅地が位置しており、人身事故の危険と背中合わせの状態が続いている。

現状の具体的な危険を除去しながら、普天間基地の速やかな閉鎖を実現するため、負担を一つ一つ軽減する努力を継続していくことが重要である。民主党は、2004年9月の「普天間米軍基地の返還問題と在日米軍基地問題に対する考え」において、普天間基地の即時使用停止等を掲げた「普天間米軍基地返還アクション・プログラム」策定を提唱した。地元の住民・自治体の意思を十分に尊重し、過重な基地負担を軽減するため、徹底的な話合いを尽くしていく。〉・・・・・

 2002年発表と何ら変わっていない。強い思いで、このように決めたということであり、その思いを維持してきたことを表しているはずだ。

 そして2009年8月30日投開票の総選挙に向けた選挙運動で鳩山代表以下、民主党は普天間の「国外、最低でも県外」を掲げて戦い、民意を受けて政権交代を果たして、鳩山首相は普天間「国外、最低でも県外」移設の公約の実現に向けて行動を開始した。

 要するに普天間移設問題では鳩山首相のみならず、鳩山首相の次の菅首相も、その次の野田首相にしても、「国外、最低でも県外」移設こそが自らの指導力発揮の方向としなければならなかった。

 特に菅首相は野党時代、しかも場所は沖縄で、「沖縄に米海兵隊は要らない。米本土に帰ってもらう」と演説しているのだから、沖縄米海兵隊米本土帰国を自らの指導力発揮の方向性としなければならない発言の責任を負っていたはずだ。

 だが、鳩山首相は指導力発揮叶わず、退陣に追い込まれ、日米関係のギクシャクというおまけまでつけた。

 そして次の菅首相は自らが負うべき指導力発揮の方向性を違えて、日米合意を踏襲するとして辺野古移設を目指す誤った指導力発揮の方向を目指し、誤っていながらも辺野古移設を実現できないままに退陣に追い込まれた。

 「過去の発言について、色々言うことは控えたいと思いますが」とか、「国際状況の変化を併せて考える中で、内閣総理大臣として就任し、任を持った立場での状況を考えた中で、在日米軍の抑止力は安全保障の観点から極めて重要だ」とか言って言い逃れに終始した。

 確かに「民主党・沖縄ビジョン(2008)」には「戦略環境の変化を踏まえて、国外移転を目指す」と書いてある。「戦略環境の変化」が悪化したゆえに国外移転は無理になったということは許されるかもしれないが、「普天間基地の移転についても、県外移転の道を引き続き模索すべきである」と宣言している県外を実現させる責任は免除されるわけのものではないはずだ。

 指導力発揮の方向性を誤っていることに気づきさえしなかったのだから、その指導力たるや最初から見せかけ以外の何ものでもなかった。

 だから、退陣するまで、東日本大震災の危機対応に関しても福島原発の危機対応に関しても、その他政策の全般に亘ってその指導力欠如を問われ、内閣支持率が終始低迷することとなった。まさしく一事が万事であった。

 そして野田首相。与党民主党の一代表として、総理大臣として普天間「国外、最低でも県外」移設の指導力発揮の方向性を目指すべき責任を負いながら、その責任をケロッと裏切って、県内辺野古移設日米合意を錦の御旗に掲げ、それさえも実現できずににっちもさっちもいかない状況で立ち往生している。

 普天間問題を切り離した他施設の返還等はその場を凌ぐだけのゴマカシに過ぎない。

 当然、鳩山首相や菅首相同様、消費税増税でも、社会保障改革でも、他のどのような政策に関して指導力発揮は期待不可能であろう。

 その証拠を訪米した野田首相の発言から提示してみる。

 4月29日午後(日本時間30日午前)、ワシントンの駐米大使公邸で東日本大震災の被災地救援に当たった米関係者ら約100人を招いてレセプションを開催した。《日米の“絆”を強調 野田総理が初の公式訪米》テレビ朝日/2012/04/30 11:50)

 野田首相「国と国との関係は、ガーデニングに例えられることがあります。私としても日米関係がより美しい花を咲かせるために、先頭に立って土作りや水やりに努力していくことを誓い、感謝の言葉とさせて頂きます」

 いくら被災地救援に当たった米関係者の前での発言であっても、あまりにも善意一方の言葉で、果たして一国の首相にふさわしい喩えだろうか。

 例えばアメリカ原子力規制委員会(NRC)は福島原発事故直後から日本への全面的な支援を打ち出した。だが、日本側から断られた事実は「美しい花」ばかりの関係ではなかったことを証明しているばかりか、この美しくない事実を隠す役目を果たす野田首相の善意一方の発言ともなり得る。

 マグウッドNRC委員「事故発生直後はあらゆる手段を使って日本から情報を入手しようとしましたが、正直ニュースで報道された以上のものはありませんでした」

 3月12日アメリカ・NRCからの支援の申し出に対して原子力安全を所管する独立行政法人幹部の返信メール。

 日本側返信メール「私たちは事故の状況をよく理解しています。支援はありがたいですが、既に十分な業者を国内で確保しています」

 マグウッドNRC委員「緊急時の協力体制が整備されていなかったので、情報の入手や支援を展開する方法がなかった。もし私たちの経験や専門機器を提供できていたら、事故後数日間に何らかの違いがあったのではないかと悔やまれる」(以上NHKクズアップ現代

 日米が確固不動とした軍事同盟国同士であっても、すべての利害が一致するわけではなく、美しいばかりの関係ではない。なぜなら、友好な関係を目指し、そのためにそこに妥協を必要としたとしても、基本姿勢として常に自国国益追求を至上主義としなければならないからだ。

 このことはもし日本がTPP参加を決定したなら、否でも悟ることになる二国関係であろう。交渉の項目によっては食うか食われるかの熾烈な闘いも否定できない。

 「美しい花を咲かせる」ばかりではない、その逆の場合もあり得る国益と国益を激しくぶつけ合わなければならない二国関係を美しいばかりの「ガーデニング」に譬える。

 友好は友好、国益は国益と厳しく使い分ける現実政治の冷徹さに立ったバランスある指導力をとてものこと感じさせない発言内容としか言いようがない。

 一国の首相として基本のところでは常に厳しい姿勢を保持していなければならないはずだが、砂糖より甘い認識を曝してご満悦である。

 日米首脳の記者会見を今朝のNHKテレビが流していた。

 オバマ大統領「野田首相は自らをバスケのポイントガードのポジションに例え、目立つプレイヤーではないが、集中してやるべきことはやる人だと言った」

 野田首相はオバマ大統領に対して自己紹介にかこつけて、自分は指導力のある指導者だと宣言したのである。鳩山元首相がオバマ大統領に対して言った「トラス・トミー」と本質的には同意義だが、野田首相の方がより直裁的な指導力所有宣言となっている。

 対してオバマ大統領は記者会見の場で出席者全員ばかりかテレビを通して全世界の人間に野田首相のこの発言を紹介することで、発言通りに守らすべく、あるいは守らなければいけないようにすべく、約束の手枷・足枷をはめたといったところだろう。

 「集中してやるべきことはやる人」なら、見事やって欲しいと。

 だが、鳩山首相の「トラス・トミー」と同様の運命に陥るのは目に見えている。いくら感謝の気持を伝えるためであっても、二国関係を「ガーデニング」に譬えるような甘ちゃんである。

 普天間「国外、最低でも県外」移設の指導力発揮の方向性を間違えているのも気づかない指導力オンチである。

 このことは美しい言葉を散りばめた譬えが得意なことも証明する指導力不足であろう。真に指導力ある指導者は美しい言葉づくりにエネルギーを注がない。簡潔な言葉の発信と忠実な実行力――有言実行あるのみである。

 野田首相はその逆を行っている。

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