安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(6)

2007-05-12 02:14:26 | Weblog

 A級戦犯合祀、御意に召さず

 S20/2月14日(水)近衛文麿(10・20-11・20侍従長病中に付、木戸内大臣侍立。重臣〔拝謁〕のつづき也)。

 〈注〉重臣拝謁の近衛の日である。このとき近衛は「勝利の見込みのない戦争を、これ以上継続することは、まったく共産党の手に乗るものというべきでありましょう」といい、軍部の中の〝かの一味〟を一掃することが緊要である、と天皇もア然となることを奏上する。そして「上奏文」を奉呈した。その中に、この戦争は一貫した陸軍の計画基づく侵略戦争であり、日本を共産革命化する〝五十年戦争計画〟によって進められている、などと驚くべきことが書かれていた。
     
 ――「軍部の中の〝かの一味〟」とすることで、自分たちの責任・無能を逃れることができる。責任転嫁のために持ち出した陰謀説。自分で東条英機を後継推薦しておき、自分で東条打倒の先鋒に立った木戸と同じ責任回避の構造。

 S20/3月9日(金)〔10日〕0・15-2・40、B29 120機帝都来襲、中心部を爆撃す。被害甚大なり。

 〈注〉深川・本所・向島など東京下町が、夜間の低空による焼夷爆弾攻撃という新戦法で、一夜で壊滅した日である。死者8万9千。総指揮をとったルメイ少将は「日本の家屋は木と紙だ。焼夷爆弾で十分に効果があがる」と、それまでの昼間の高高度からの爆弾攻撃作戦を変更した。B29の大編隊による日本本土焼尽夜間攻撃が、この日からはじまった。戦後、そのルメイに日本政府は最高の勲章を与えている。

 ――政治の中枢部である首都は防衛体制が最も堅固に準備されているはずである。それが一挙に120機もの空からの攻撃を許し、「死者8万9千」も数えた。防衛力が如何に脆弱化していたか、この時点でもはや国は持たないと悟るべきを徹底抗戦を掲げるばかりだったのだから、そのことを誰も悟らなかった。

 S20/3月16日(金)17日前2・00過より、B29数十機神戸付近を盲爆す。

 〈注〉この日、硫黄島で頑強な戦闘を続けていた総指揮官、栗林忠道中将からの訣別の電文が大本営に送られてきた。
「・・・・今や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し最後の敢闘を行はんとするに方(あた)り、熟熟(つらつら)皇恩を思ひ、粉骨砕身も亦悔いず・・・」
 この電文を最後に連絡が絶える。
 3月26日、日本軍玉砕。硫黄島の戦闘は終る。日本軍の死傷者2万数百人(うち戦史1万9900人)、米軍の死傷者2万5千900人、

 S20/3月18日(日)戦災地巡幸(8・55-10・07)。今回の行幸は極秘にて、遽(にわ)かに仰出されたるものなり。従って、御警護など常侍る依らざりき。

 〈注〉藤田侍従長の『回想』にある。深川から本所へ、さらに浅草から上野へと一巡した。焼け跡に立つ都民は驚きと敬虔のまざった複雑な気持で、金色の菊の紋章のついたあずき色の車を迎えた。天皇はいった。
「大正12年の関東大震災の後にも、馬で市内をまわったが、こんどのほうがはるかに無惨だ。(略)侍従長、これで東京も焦土となったね」
    
 ――心象風景としては、天皇が置かれていた裏切られた自己状況を象徴する焼け野原だったのではないだろうか。そのときは気づかなくても、戦後のある時点で気づいたに違いない。蚊帳の外に置かれていた末の結末。蚊帳の外で見舞わされることとなった最終局面。

 S20/4月1日(日)敵は沖縄本島に上陸する。

 〈注〉この日の午後2時には島の中央部にある読谷、嘉手納両飛行場が占領される。なぜこれほど容易に?そこには沖縄戦を事実上の本土決戦と見る海軍と、これを来るべき本土決戦のための出血持久の前哨戦とする陸軍との、戦略戦術的対立があったからである。それにしても地上戦闘は悲惨を極めた。組織だった戦闘といえるものはなく、沖縄県民をまきこんでの〝火と鉄の暴風〟による殺戮に近かった。死者は軍関係(中学生や女学生の義勇兵も含む)10万9千600人、一般県民10万人を超える。

 S20/4月5日(木)小磯首相(10・37-10・50.辞表奉呈)。(中略)鈴木〔貫太郎〕
 枢府議長(9・58-10・05)組閣の大命拝受。(後略)

 〈注〉この日、モスクワでソ連外相モロトフから佐藤尚武駐ソ大使に、日ソ中立条約延長せずの通告があった。『大本営機密戦争史』4月7日の項にある。
「佐藤駐ソ大使より日ソ中立条約破棄通告時におけるモロトフとの問答経過を報告し来る。モロトフが案外冷厳なる態度を持しある点より観て、既にソ連は帝国を准敵国視する腹なるべし」
 ここまで正確な判断をしながら、なお条約有効期間をあてにするとは、日本人は甘かったというほかない。
  
 ――元々ソ連とは敵対関係にあった。日本が負け犬となれば、なおさらいつまでも付き合ってはいないだろう。分かっていても、溺れる者、藁をも掴む。当てにするしか方策なし。最初から方策らしい方策もなく、猪突猛進的に戦争を始めたのではなかったか。

 S20/4月13日(金)宮内大臣(ルーズベルト死去奏上)。(後略)
     
 ――S20/5月5日(土)」の日記の〈注〉に、「4月30日、ヒトラー総統自決。そして5月7日、盟邦ドイツは無条件降伏する。9日には日本政府は、トイツ降伏にかかわらずわが国の戦闘遂行決意は不変である、と声明した。」とある。結果的に広島・長崎の原爆を招いた「声明」となったに違いない。

 S20/5月16日(水)B29百数十機、夜間、名古屋に来襲す。熱田神宮、本殿及屋根一部炎上。
 S20/5月25日(金)B29 二百五十機来襲、焼夷弾を投下す。都下に大火災発生す。――宮城も火災。

 〈注〉宮殿本殿を焼いたのは、皮肉にも三宅坂上の参謀本部からの飛び火であったという。満州事変以来の陸軍の横暴の歴史を、何か象徴するようである。(後略)
 
 S20/6月8日(金)前10時より正午迄、御前会議。重要国策に付、審議せらる。

 〈注〉この御前会議で決定された大事なところは次のとおり。「方針=七生尽忠の信念を源力とし、地の利、人の和をもってあくまでも戦争を完遂し、もって国体を護持し、皇土を保護し、征戦の目的の達成を期す・・・」
 すなわち徹底抗戦、最後の一兵までの決意である。天皇はこれを裁可した。
    
 ――相変わらずの精神論一辺倒。聞こえは勇ましいが、具体策のなさに比例して、言葉は勇ましさを否応もなしに獲得するに至る。
 
 戦争を終らせるのは難しいと自ら言っていた困難な道を敢えて採るべきを、勢いで取り掛かることができる簡単ではなるが、より最悪な徹底抗戦を天皇は「裁可した」。愚かしいこと。

 S20/6月15日(金)本日は、終日御床にあらせらる。御回復は極めて御順調に荒らせらる(昨夜より御下痢あらせらる)。

〈注〉天皇は戦争勃発いらい、風邪を引くことはあっても政務を休んだことは一度もなかった。「聖上昨日から御不例に渡らせられる」と野田海軍侍従武官の日記にあり、陸軍の尾形侍従武官も「聖上昨日よりご気分悪く数回下痢遊ばされ、今日は朝より休養なり」と日記に記した。この小倉日記でいっそう確認されたことになる。仮説であるがわたくしはこのとき天皇は戦争終結の決意を固めたと考えている。

 ――ヒステリー症状のように人間は自身の感情の許容量を越える感情を発すると、身体の変調を伴う場合がある。

 S20/6月22日(金)本日午后3時より開催せられたる、最高戦争指導会議に臨御あらせらる(総理、陸海両総長、同両大臣、外相)。
 約30分にて終了す。本日の会議には特に〔天皇の〕御召に依り、開催せられたるものと拝す。

 〈注〉この会議における天皇の発言は、諸資料でほぼ共通している。
「戦争指導に付ては、先の御前会議〔6月8日〕で決定しているが、他面、戦争の終結についても、この際従来の観念にとらわれることなく、速に具体的研究を遂げ、これを実現するよう努力せよ」
 だれもが口に出せなかった「戦争終結」を天皇がはじめていった。このときに終戦への第一歩がやっと踏みだされたのである。
     
 ――例え天皇が「戦争終結の決意を固めた」としても、従の関係にある天皇は軍部という障害を越えたわけではない。「決意を固めた」ものの、みなの意見を聞かなければならなかったのは、そのためだろう。

 S20/6月23日(金)(前略)聖上には、自分の御生れ遊ばされてよりの御住居が、皆無くなった、高輪(大正震災)、御誕生の青山御殿、霞関離宮、宮城と四つなくなった。此処だけ残っている、と仰せあり。皇后宮にも、渋谷の御殿、麻布御殿など無くなってしまったと仰せあり。府中第三高女に御下賜の御花御殿の、戦災を免れたるを申上げたる処、御満足に思召されたる。(後略)

 <注>沖縄侵攻の米軍総司令部は、6月23日、沖縄戦の終了と正式占領を表明した。菊水第一号より第十号出撃まで、のべ2千867機を投入し、精根尽くした日本海軍の特攻作戦も、この日で打切られた。米艦隊の艦船の損傷368隻、沈没36隻、飛行機768機を喪失したと、戦後の米軍の記録は伝えている。
     
 ――6月23日の日記は沖縄に関しての情報は一切触れていない。沖縄がかくも無惨な結末を演出していることに反して、皇族は自分の住いの喪失のみに関心を寄せている。いい気なものである。住む場所を一切合財無くし、青空しか住む場所のない国民は頭にはないらしい。

 S20/6月27日(水)后0・50、上野発、長野県に向け加藤〔進〕総務局長、東部軍の井田〔正孝〕中佐、小林少佐、同道せり、と庫温泉に泊す。
 翌日午前、松代在の山中(烽山)に築造せる地下工事を視察す。

 〈注〉日本陸軍は、本土決戦となったとき、東京は海に近く平野にあるゆえとても守れないと考え、長野県松代に皇室ならびに大本営を移すという案を立てた。そこでひそかに築城工事をはじめたのが19年9月中旬、それが完成となったのであろう。が、この年の晩春ごろそのことは知れ渡り天皇の耳にも入った。天皇は不快げにいったという。
「私は行かないよ」
     
 ――天皇は戦争終結の方策の模索を言いつけているが、陸軍は着々と本土決戦に備えている。天皇の意志が日本を動かしているのではなく、軍部(特に陸軍)が動かしている。天皇一人の「決意」が如何に力を持たないかをも物語っている。天皇の意志は戦争終結に関するだけではなく、すべてに於いて最初から最後まで力を持つに至ってはいない。それが天皇の姿だった。

 S20/8月9日(水)ソ連、今暁零時を期し、日本と交戦状態にある旨、宣戦を布告し、ソ満国境並、北鮮国境を越え侵入、攻撃し来れり。我亦自衛の為め之に応戦す。事態極めて重大となれり。去る6日8時過、広島に対し原爆らしきものを投じ大被害を惹起。その際、李ぐう公殿下(李王垠の甥)御負傷、終に薨去遊ばされたり(7日前5時5分)。遺骸は海軍機を以て宮城に御運びす。

 S20/8月14日 本日異例の御前会議に於て、聖断に依りポツダム宣言を受諾することに決せる由。内閣全閣僚、内閣書記官長等、統帥部首脳出席。陛下には、卿等色々意見もあろうが、之以上国民の惨害を見るに忍びずと、御涕泣遊ばされつつ仰せあり。各員慟哭、茲に受諾に一決せる由。全く御聖断に依るもの、恐懼に堪えず。直に大詔を煥発あらせられ、夜、表拝謁間に於て、御放送録音。四句5日正午、放送せられたり。一億慟哭す。
     
 ――「之以上国民の惨害を見るに忍びず」ではなく、もはや打つ手を失ったからだろう。「国民の惨害」は口実に過ぎない。8月14日に言う通りの「聖断」が有り得たなら、S20/6月22日に「戦争終結の決意を固め」たその時点でも有り得た「聖断」となる。だが、その可能性を有効化させることもできずに引きずったまま1ヶ月半も経過した時点でのポツダム宣言受諾である。その間に広島原爆投下が8月6日、長崎原爆投下が3日後の8月9日と立て続けの形で受けている。それまで「戦争終結の決意」は「聖断」の形を取ることなく、かくまでも意味をなさなかった。「国民惨害」を言うなら、もっと早くに言わなければならない。

 文藝春秋掲載の『小倉庫次侍従日記』は上記8月14日で終っている。半藤利一氏の解説も合わせた全体を通して窺うことができる事柄は大日本帝国憲法に位置づけられた確固とした天皇の権力・地位に反した軍部・政府に従属した天皇の姿である。その姿は一般国民と同様に情報操作の対象とされるまでに軽い扱いを受けていた。天皇共々、軍部・政府が国民騙していたわけではない。情報操作・情報捏造に於いても天皇を蚊帳の外に置いていた。

 天皇がその当時は気づかなかったとしても、大本営発表の戦果や国の重要政策を含めて天皇自身に上奏された情報の数々が上奏者に都合よく捏造・操作したものだったことを情報の届かない孤島に閉じ込められていたわけではない、戦後、学ばなかったはずはない。自身の愚かさも学習したことだろう。「立憲国の天皇は憲法に制約される」として開戦責任を回避したのは敗戦の翌年のことで、まだ何も学習しなかった可能性も考えられる。
 
 それから20年30年と年数の経過と共に多くを学んだはずである。あの戦争は何だったのか。どのような国策のもとに遂行されるに至ったのか。そこで自分は何をなしたか、なさなかったか。自分は何者だったのか、どのような存在だったのか。

 言葉を替えて言うなら、何が〝真〟で、何が〝虚〟であったかということだろう。そして殆どが虚に満ちていたことを学んだに違いない。天皇自身も〝虚〟の場所に置かれ、〝虚〟の存在とされていたが、A級戦犯となった者、その他が聖戦だとか東亜新秩序だとか、アジア解放だとか八紘一宇だとかの〝虚〟を演出した。戦争遂行政策そのものが〝虚〟で成り立っていた。

 国を無惨に破壊し、国民に多大な犠牲を強いたそのような〝虚〟の主たる演出者を靖国神社に合祀する。天皇の名で犠牲になった国民と天皇の名で国民に犠牲を強要した側のA級戦犯が区別なく、そう区別なく合祀された。それは新たな〝虚〟ではないか。

 「A級戦犯合祀が御意に召さず」は人間として天皇として多くの〝虚〟を学び、学ばされた結果の自然な感情の行く末であったろう。

 もし「A級戦犯合祀が御意に召」して合祀された後の靖国神社をも参拝したとしたら、戦争中の天皇のありよう、天皇制の実体・日本の戦争の実態、その〝虚〟を何も学習しなかったことになる。

 昭和天皇が「A級戦犯合祀が御意に召さ」なかったということなら、A級戦犯合祀前の天皇の靖国差参拝は、国のため・天皇のためという〝虚〟の犠牲となった一般兵士を追悼する参拝だった。

 片やわが日本の美しい国家主義者・安倍晋三総理大臣は戦後A級戦犯容疑を受けて巣鴨プリズンに拘留され釈放された侵略戦争加担者である岸信介おじいちゃんの膝に美しい孫として抱かれ、自己正当化のために日本の戦争は自存自衛の戦争だった、アジア解放の戦争だったとする美しい日本ばかりを聞かされて御坊ちゃん育ちしたのか、〝真〟と〝虚〟を学ぶ合理的な客観的認識性を身につけるに至らなかったのだろう、「A級戦犯は国内法では犯罪人ではない」と彼らを〝真〟とする擁護を行い、それと同じ解釈で「侵略戦争の定義は定かでない。政府が歴史の裁判官になって単純に白黒つけるのは適切でない」と戦前の日本の戦争そのものを〝真〟としたい一方向のみの欲求に立った擁護を行っている。

 「国のリーダーたるもの、国のために戦った人に追悼の念を捧げるのは当然。次の総理もその次の総理も靖国に参拝してほしい」とする、天皇の〝A級戦犯合祀、御意に召さず〟とは真っ向から反する戦争正当化からの靖国思想信奉者にふさわしい靖国参拝首相義務化衝動にしても、戦前の日本の戦争を〝真〟としたいのと同じ文脈にある欲求としてある。

 安倍晋三の「A級戦犯合祀が御意に召」した靖国参拝は「国のために戦った人」と戦死者全体を指しているものの、追悼の主たる対象は戦争遂行者の側に立っていたA級戦犯、その他の戦争指導者ということになる。戦争肯定は一般兵士の肯定であるよりも、より優先的に戦争指導者の肯定へと向かうからである。

 A級戦犯やその他の戦争指導者を主たる追悼の対象とすることによって、安倍晋三は自らの国家主義に美しい一貫性を与えることにもなる。そして中国・韓国との関係で現在は靖国神社参拝の足止めを窮屈なまでに強いられているが、「A級戦犯合祀が御意に召」す意思表示に参拝・追悼の思い止み難く、足止めの代償に今年は4月21~23日の春の例大祭に合わせて内閣総理大臣と木札に書き入れた榊の鉢植えの供物に変え「A級戦犯合祀が御意に召」す思いを叶えさせた。その巧妙狡猾な小賢しいばかりの策士振りは戦争中の松岡外相なみである。そういえば名前だけではなく、人間まで似ているもう一人の松岡がいる。類は友を呼ぶというわけだろう。
 
 昨年7月、昭和天皇が靖国参拝を中止した理由がA級戦犯の合祀にあったとする富田メモの発見に関して時の総理大臣小泉純一郎は、「詳細は分かりませんが、これは心の問題ですから。陛下自身に於かれても、様々な思いがおありになったんだと思いますね」

 「それぞれの人の思いですから、心の問題ですから。強制するものでもないし、行ってもよし、行かなくてもよし、誰でも自由ですね。あの人が、あの方が言われたからとか、いいとか悪いとかいう問題でもないと思っています」

 確かに「心の問題」であり、「人の思い」ではあるが、日本の戦争の〝真〟と〝虚〟にまで思い及ばすことができない「心の問題」、「人の思い」となっている。安倍晋三と同様に客観的認識能力が未発達で、軽薄短小な上っ面の洞察しかできないからだろう。そしてその年(07年)の年8月15日の終戦の日を特に選んで、A級戦犯合祀何のそのの首相としての最後の参拝衝動を満たした。

 小泉も安倍もその他も、戦前の軍部・政治権力者が天皇を軽んじていたからこそ、無謀な戦争計画を立てることができ、無謀な戦争遂行と無益な計り知れない犠牲者を国民から出すことができたように、「A級戦犯合祀が御意に召さず」の天皇の意志を無視、軽んずることができるからこそ、「御意に召」そうが召すまいが、A級戦犯合祀を自らの〝真〟として靖国神社に参拝・追悼の勲章を与えることができる。天皇制の二重構造を日本の歴史・伝統・文化として戦後も受け継いでいるからである。。

 何も学ぶことができなかった愚か者たち。
                  (終)


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2007-06-01 16:40:17
戦争を考えるために、小林よしのり著『戦争論』を読んでみてほしい。

ここが考えるスタートだと思う。
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