赤ちゃんポスト遺棄第1号3歳児

2007-05-16 06:20:56 | Weblog

 棄てられる乳幼児を救う目的で設置されたばかりの熊本県の慈恵病院の赤ちゃんポストに棄てられた(棄てたか預けたかは、親の姿勢にかかっているが)名誉ある第1号が乳幼児とは程遠い3歳児(ぐらい)だった。「父親に連れてこられた」と本人は言っているという。

 本人は第1号だという名誉ある勲章を、それも新生児ではなく、3歳になってからの、スポーツの世界で言えば、既に引退間近の年齢になってからということになる特別待遇となる勲章を背負って自らの人生を歩むことになる。なかなか自分からでは滅多には得ることが難しい運命といったところで、結構なことではないか。尤も第1号だと本人が知ればの話だが。

 夜中にパソコンを叩くつもりで早くに寝たはいいが、昼寝が過ぎて寝つけなく、9時頃に目を覚ましてどのチャンネルかも分からずにテレビをつけたら、安倍首相が3歳児のことで記者の前で喋っている。既にNHKの大相撲放送の前のニュースで聞いていたから、何気なく聞いていただけだったが、その後古舘伊知郎が顔を覗かせたから、ああ、報道ステーションかと気づいた。古館は「政治家は当たり前のことしか言わない」と独り言のように言った後を受け継いだコメンテーターの朝日新聞の編集委員だとかいう加藤千洋先生がコメンテーターにふさわしく政治家を超える当たり前のことをもっともらしい顔で喋った。

 「賛否両論がありますけど、記憶に残る3歳男児をもし父親が来て棄てたのだとすると心にキズが残る。棄てるべきではなかった、無責任だ」といった表面をなぞって解説するだけのごくごく当たり前のコメントで、さすがと思いながらバカらしくなってテレビを切ってしまった。

 「賛否両論がある」と言うが、本人は賛否のどちらなのだろう。賛成なら、赤ちゃんポストと切り離して論ずべき事柄で、そうなっていないから、だったら反対なのだろうかと推測しても、要領を得ない。

 「心のキズ」にしても、キズをキズとしていつまでも抱え込む人間もいるが、心のキズとして残さずに、バネとする人間もいる。いわば人格形成に与える決して小さくはないであろう影響は常に悪い方向に向かうばかりとは限らない。人様々であって、記憶に残る年齢であろうがなかろうが、棄てられたという一事だけで物事がすべて決定するわけではない。

 とすれば、決して簡単なことではないが、周囲の大人が担うべき役目は心のキズをバネとする方向に導くことだろう。こういうことがあって、ああいうことがあった、そうすべきだ、すべきでないなどと表面をなぞっていても始まらないのではないのか。

 人間は罪を犯す生きもの、あるいは犯してしまう生きものであることを弁えることもできずに、罪を犯すべきではなかったと役にも立たない繰言を言ったに過ぎない。

 赤ちゃんポスト設置には新聞・テレビがあれほど大量に報道しているのだから、当たり前の生活者なら設置対象が新生児・乳幼児の類だと周知徹底しているはずである。熊本県外からわざわざ目差したとすると、父親は赤ちゃんポストにそれ相応の知識がなかったはずはない。

 この見方が正しいとしたら、父親は遠い距離と距離に見合う時間をかけて既にしっかりと歩ける3歳(ぐらい)の男児をポストの扉を開けて置き去りにする一種の年齢制限無視を年齢制限無視だと知っていて大胆にも犯したことになる。

 父親が自分の息子が既に中学生になっているのに、身体が小学生並みに小さいのを利用して、どこに連れて行くにも小学生料金しか払わない大胆さに似ていないこともない大胆さである。

 子供に与える心理的影響は前者と後者でどちらが大きいかは、受け止めようによって個人差が生じるから、一概に棄てられた子供の方が大きいとは即断はできないはずだ。

 年齢制限無視の大胆さを父親に強いた容易に考えることができる一番の理由は赤ちゃんポスト反対派が反対の根拠としている「助長しかねない」とするまったくの「養育放棄」であるが、わざわざ県外からやって来て暗黙的な了解事項に達している年齢制限を無視したのは赤ちゃんポストに預けることによって自分の良心の痛みを少しでも和らげる意図があったとしたら、情状酌量の余地がないわけではない。

 人間の世界は何でもありとする考えに立って見るとすると、最も意地の悪い見方は、想定外の年齢の子供を置き去りにする衝撃性を利用して赤ちゃんポストが「養育放棄を助長しかねない」措置だとする警告を発した可能性を100万が一も疑えないことはない。とにかく何でもありなのだから、驚いてもいられないし、表面をなぞるだけでも済まないはずである。

 赤ちゃんポスト設置は生まれたばかりの子を棄てて死に至らしめる事態が少なくないことに対する一種の危機管理であろう。いわば幼い子供の命に対する危機管理であって、親の命に対する危機管理ではない。勿論「養育放棄」という問題は残る。

 例えそれが「養育放棄」そのものからの捨子であっても、捨て子は何も捨てるという実質的行為を伴った捨て子ばかりはない。夫婦の間で家庭内離婚とか家庭内別居があるなら、親子の間にも実際に棄てられていなくても、家庭内捨て子という捨て子状態が存在するはずである。家庭内離婚状態の父母の間でどちらの味方につくこともできずに、子供として宙ぶらりんの状態に置かれた家庭内捨て子。あるいは母親に味方したためにその代償に父親に親しみを見せることを子供自らが禁じたことによって、その反対給付として与えられることとなった父親との関係に限った家庭内捨て子等々。――

 夫婦仲がよくても、夫婦揃ってパチンコやカラオケに行くために幼い子供だけが部屋に残されたり、車の中に外から鍵をかけられて残されたりする当たり前の「養育」から外れた家庭内捨て子といったこともあるだろう。

 実際の棄て子、いわば家庭外捨て子だけではなく、家庭内捨て子も人間である以上、それぞれに何がしかの心のキズを負うはずである。

 周囲の大人にとっては却って家庭外捨て子の方が事実を目で把えることができるから、少なくともどう対応すべきか方法論を打ち立てることができる。その方法を役に立つように生かすことができるかどうかは別問題だが、対応が取りやすいのに対して、家庭内捨て子の場合は第三者からは簡単には窺うことが困難なゆえに始末に悪いという側面を抱えているということもあるだろう。

 家庭内捨て子への恨みが原因となって、中学生・高校生になってからの親殺しということもあるかもしれない。

 安倍首相の記者会見での言葉。NHKのニュースから。

 「そうした事実があったと、いうことについては、え、私は聞いておりません。いずれにせよですね、ええ、そのように、え、子供を置いてくる前に、ええ、児童相談所初め、ええ、ま、そうした相談する体制がありますので、ええ、色々と育児の悩みがあれば、相談してもらいたいと思います」

 誰に向けたメッセージなのだろうか。3歳児を置き去りにした父親だとすると、既に置き去りにしてきてしまった父親に「子供を置いてくる前に、・・・・・ええ、色々と育児の悩みがあれば、相談してもらいたいと思います」はおかしいし、言葉のつながりからすると、棄てるかもしれない捨て親予備軍が最も可能性が濃厚だが、月並み・紋切り型の意見表明に過ぎず、問題提起の深刻さが何も伝わってこない。多分、質問されたから答えないわけにはいかず、ただ単に喋ったといったところで、メッセージの体裁をなしていない。

 満足なメッセージを発することもできない一国の総理大臣という図式はどういった逆説、あるいは単細胞によって成り立っているのだろうか。

 柳沢「女性は産む機械」発言大臣は「これはかねてから申上げているように、あってはならないことだと思います」

 塩崎官房長官「あってはならならないことで、非常に遺憾だと思います」

 「あってはならないこと」とは殆ど起きないことがたまたま起きたことを言うのではなく、よく起きることを言うのであって、当然起きた一つの事を取り上げるだけでは問題解決とはならない。そのことに気づくだけの頭がないらしい。

 このことは政治家・官僚のカネに卑しいコジキ行為はあってはならないことだが、あってはならないことだからといってたまたま起きることではなく、逆にいくらでも起きるあってはならないこととなっていることを見れば、よく分かる。

 要するに、よくある出来事の一つに過ぎないのだから、3歳児遺棄一事を以て「あってはならないこと」だからと、赤ちゃんポスト否定に向かうのは筋が合わない。国会議員があっちでもこっちでもカネに卑しい振舞いに及んでいる。あってはならないことだから、国会は廃止せよと言うようなものだろう。

 どのような道徳論を振りかざそうとも、子棄ては決してなくならない。いくら「養育放棄を助長」しようとも、優先すべきは幼い命に対する危機管理対策であろう。100人の親の「養育放棄」を抑え込んだとしても、一人の幼い命を失わせてしまったのでは、その対策は危機管理としての意味を失う。


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