安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(1)

2007-05-10 04:33:14 | Weblog

 A級戦犯合祀、御意に召さず

 敢えて刺激的な言葉を使って、安倍国家主義の愚かさを衝く。

 07年04月26日の朝日新聞。
 ≪逝く昭和と天皇、克明に 卜部侍従32年間の日記刊行へ≫

 <晩年の昭和天皇と香淳皇后に仕え、代替わりの実務を仕切った故・卜部亮吾(うらべ・りょうご)侍従が32年間欠かさずつけていた日記を、朝日新聞社は本人から生前、託された。天皇が病に倒れて以降、皇居の奥でおきていた昭和最後の日々が克明に記されている。天皇の靖国神社参拝取りやめについては「A級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」と記述。先の戦争への悔恨や、世情への気配りなど、天皇の人柄をしのばせる姿も随所に書きとめられており、昭和史の貴重な記録といえそうだ。(後略)>

 06年7月20日読売新聞インターネット記事。
 ≪昭和天皇、A級戦犯合祀に不快感…宮内庁長官メモ≫

 <昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に関し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」などと語ったとするメモを、当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が残していたことが20日、明らかになった。
 昭和天皇はA級戦犯の合祀に不快感を示し、自身の参拝中止の理由を述べたものとみられる。参拝中止に関する昭和天皇の発言を書き留めた文書が見つかったのは初めて。
 遺族によると、富田氏は昭和天皇との会話を日記や手帳に詳細に記していた。このうち88年4月28日付の手帳に「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」などの記述がある。
 「松岡、白取」は、靖国神社に合祀されている14人のA級戦犯の中の松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐伊大使とみられる。2人は、ドイツ、イタリアとの三国同盟を推進するなど、日本が米英との対立を深める上で重大な役割を果たした。
 また、「松平」は終戦直後に宮内大臣を務めた松平慶民氏と、その長男の松平永芳氏(いずれも故人)を指すとみられる。永芳氏は、靖国神社が78年にA級戦犯合祀を行った当時、同神社の宮司を務めていた。
 昭和天皇は戦後8回、靖国神社を参拝したが、75年11月が最後になった。その理由を昭和天皇自身や政府が明らかにしなかったため、A級戦犯合祀が理由との見方のほか、75年の三木首相の参拝をきっかけに靖国参拝が政治問題化したためという説などが出ていた。富田氏が残したメモにより、「A級戦犯合祀」説が強まるものとみられる。靖国神社には今の陛下も即位後は参拝されていない。
 富田氏は年に宮内庁次長に就任。78年からは同庁長官を10年間務め、2003年11月に死去した。>

 卜部侍従と故富田宮内庁長官の天皇が語ったとしている日付は共に1988年4月28日。

 戦前の天皇は立憲君主とされていた。立憲君主制とは、「憲法に従って君主が政治を行う制度。君主の権力が憲法によって制限されている君主制」(『大辞林』)ということだから、昭和天皇の権力は大日本帝国憲法によって制限されていた。天皇の権力を戦前の『大日本帝国憲法 第1章 天皇』は次のように規定している。

 第一条
  大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 第三条
  天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
 第四条
  天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
 第十一條
  天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 第十三條
  天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス

 【統治権】「国土・国民を治める権利」
 【総攬】「掌握して治めること」
 【統帥】「軍隊を支配下に置き率いること」

 第一条の「統治権」と第十一条の「統帥権」等は旧憲法下では天皇の大権として、政府・議会から独立したものとされていたという。ということは、天皇は立憲君主とは言うものの、その権力は憲法の制限を受けていたというよりも、逆に憲法がその絶大なる権力を保障していたと見るべきではないだろうか。

 国家の元首として国民・国土を統治し、且つ軍隊を統帥し、それらは政府・議会から独立した天皇個人に帰する権力であり、天皇を批判すれば不敬罪に問われる神聖にして侵すべからざる現人神とされていたのである。

天皇の権力が政府・議会から独立していたからこそ、国の重要政策決定機関として、政府や議会とは別の場所に御前会議を設けることができたのだろう。独立していずに設けていたとしたら、政府・議会を否定する越権行為となる。

 では、旧憲法に表現されているのではない現実の天皇は旧憲法が保障する絶大な権限を憲法の保障どおりに体現していたのだろうか。旧憲法の条文に登場する天皇と現実世界に登場している天皇とが一致するのかどうかということである。勿論、憲法がそうと規定している以上、一致しなければならない。一致したとき、日本の戦争は昭和天皇の戦争だったと断定できる。何しろ「陸海軍ヲ統帥ス」と規定した統帥の大権を正真正銘自らのものとしていたということになるのだから。

 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と高らかに規定していた天皇のその大権の支配を受けて、国民はその支配行為の一つとして戦争を演じた。

 戦前の天皇が置かれていた状況――天皇は戦前どのような存在とされていたのか、憲法の規定どおり、あるいは保障どおりだったのか、それとも違った姿を取っていたのか、これらを明かすために侍従として天皇に身近に接していた人物が書き遺した『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号)を主な資料として、そこから色々と引用して『日記』から窺うことができる戦争の推移、その状況と共に探ってみる。

 日記の日付の先頭に年数が一目で分かるように、昭和14年なら、「S14/」と付け、用いられている漢数字を便宜上算用数字に置き換えた。〈注〉を用いた解説は半藤一利氏(昭和史研究家・作家)によるものだが、非常に参考になるためにほぼそのまま引用する。私自身の解釈等は文頭に――を示す。

 「はじめに」に、「小倉侍従は侍従職庶務課長として、各大臣や陸海統帥部総長や侍従武官長などの天皇への拝謁の時間調整を担当して」いたとある。

 文藝春秋に記載された『日記』は昭和14年5月3日から始まり、敗戦2日前の昭和20年8月14日で終っている。開始の5月3日から4日後の5月7日の日記の半藤氏の〈注〉には「天皇このとき38歳。皇太子5歳」とある。

 当時日本は日独伊三国同盟を締結するかどうかの議論がせめぎあっていた。5月9日の〈注〉には〈この頃、昭和11年11月広田弘毅内閣のときに締結した日独防共協定を、軍事同盟にまで強化する問題をめぐって、平沼騏一郎内閣は大揉めに揉めていた。陸軍の強い賛成にたいして、海軍が頑強に反対していたのである。このため平沼首相、有田八郎外相、石渡荘太郎蔵相、板垣征四郎陸相、米内光政海相による五相会議が連日のように開かれていたが、常に物別れとなり、先行きはまったく見えなかった。〉とある。

 天皇はどうかというと、S14/5月11日、5月12日の日記の〈一歳下の弟宮〉秩父宮と天皇の対面を解説する〈注〉が明らかにしてくれる。

 〈注〉『昭和天皇独白録』(文春文庫)にはこう書かれている。
「それから之はこの場限りにし度いが、三国同盟に付て私は秩父宮と喧嘩をしてしまった。秩父宮はあの頃一週三回くらい私の処に来て同盟の締結を進めた。終には私はこの問題については、直接宮には答へぬと云って、突放ねて仕舞った」
 そのことが裏つけられる記述である。

 ――昭和天皇は日独伊三国同盟締結には反対であった。当然その反対は、政府・議会から独立した天皇の大権としてあった「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治」し、「陸海軍ヲ統帥」する者として、国策に反映されることになる。

 だが、締結賛成派の秩父宮は反映されては困るから、「私の処に来て同盟の締結を進めた」のだろう。逆に憲法の姿に反して天皇に決定権がなければ、「一週三回くらい」も天皇に面会を求めて締結するように求めはすまい。

 ごく常識的に考えるなら、秩父宮は憲法の姿そのままに天皇の決定にかかっていることを前提に天皇の反対から賛成への翻意を求めて天皇の説得に努めたと見るべきではないか。

 ここで問題となってくるのは昭和天皇が敗戦翌年の1946年2月に侍従長藤田尚徳に語ったとされる<「立憲国の天皇は憲法に制約される。憲法上の責任者(内閣)が、ある方策を立てて裁可を求めてきた場合、意に満ちても満たなくても裁可する以外にない。自分の考えで却下すれば、憲法を破壊することになる」>(06.7.13.『朝日』朝刊/『侍従長の回想』)ことを開戦を阻止できなかった理由に挙げていることとの整合性である。

 「憲法上の責任者」が内閣であるとすると、旧憲法の天皇に対する絶大なる権力の保障は見せ掛けと化す。

 大日本帝国憲法は第四章で「國務大臣及樞密顧問」の役目を次のように規定している。

 第五十五條 國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
       凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大
       臣ノ副署ヲ要ス
 第五十六條 樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇
       ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ國務ヲ審議ス

 【輔弼】「天子の政治を助けること。旧憲法で、天皇の機能行使に対し、助言を与えること」
 【諮詢】「参考として問い尋ねること」
 【諮詢機関】「旧憲法下、天皇がその大権を行使するにあたって意見を徴した(求めた)機関。枢密院・元老院。元帥府など。(以上(『大辞林』三省堂)

 どの条項を取っても、天皇は他の機関の上に位置していて、決して下には位置していない。求めた意見に対して「意に満ちても満たなくても裁可する以外にない」といった意志決定の構造はどこを探しても見当たらない。

 内閣に関しては旧憲法とは別に明治22年に制定され、昭和22年5月に廃止された内閣官制があり、その「第二條 内閣總理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」となっていて、天皇の意志の優先を謳っているし、「第七條 事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下附セラルルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣總理大臣ニ報告スヘシ」は、憲法上の主人公があくまでも天皇であることを示している。

 【機務】「機密の政務・非常に重要な事務」
 【奏宣】「天子に申し上げること」
 【旨】「心持・意志」
 【承ケ】「謹んで承知する」
 【奏上】「天皇に申し上げること」

 とすると、天皇は開戦責任に関して事実と反する責任逃れを働いたのだろうか。
 
 S14/6月26日日独伊軍事同盟は、伊は日本の回答にて満足せしも、独が承諾せざるらし。この問題も落着までは経過あるべし。
 聖上、皇后宮、御用品中、金製品並に金を主とする御装身品等を御下渡しあり。恐懼に堪えず。
 平沼首相、后2・00より約1時間拝謁上奏す。暫く拝謁なかりしを以て、内大臣あたりより思召を伝え、参内せるやに内聞す。

 〈注〉五相会議で決定した日本の回答が独伊に送られた。その骨子は、独伊がソ連との戦争を起こした場合には、日本は参戦する。しかし、ソ連を含まない戦争が起こった場合には、参戦するかどうかはもちろん、武力援助を独伊にするかもふくめ言えないと、肝要の点をぼやかした苦心のものであった。ドイツは承知しなかった。天皇の耳には正確に達していなかったと見える。何も報告してこない平沼首相を呼びつけて、問いただしたのであろう。
  
 ――上記〈注〉を見る限り、天皇の反対姿勢に関わらず、条約締結に向けた外交交渉が着々と進んでいる。それとも秩父宮は天皇の翻意に成功したのだろうか。だが、「何も報告してこない平沼首相を呼びつけて、問いただした」とすると、蚊帳の外に置かれた天皇の状況を物語っていないだろうか。

 S14/6月29日参謀総長宮〔閑院宮戴冠仁(かんいんのみやことひと)親王〕、午后2・30拝謁上奏。直後、内大臣思召あり。満蒙国境ノモハン事件に関し或は兵を動かすにあらずや。
 ノモハン事件は或限界以上には越えざる事と決定したる模様にて、大きく展開することはなかるべし。首相の拝謁上奏も御満足に思召されたる御様子に拝す。

〈注〉満蒙の国境線の侵犯をめぐって5月に生起した小さな紛争事件は、関東軍と極東ソ連軍が大兵力を出動させ、容易ならざる事態となりつつあった。6月下旬のこの時点では、東京の大本営は不拡大の方針だったが、関東軍はモンゴル領内にまで侵犯する攻勢作戦を樹てていた。「或限界以上には越えざる事」どころではなかった。
 
 ――天皇側の「或限界以上には越えざる事」とする事実が架空の状況にあるとしたら、天皇の統帥権も事実として存在していなかったことになる。もし首相が関東軍の作戦を知っていて天皇に知らせずに放置していたとしたら、憲法が保障している天皇の統帥権は有名無実化し、天皇無視・憲法無視は一部にとどまらず、権力機構の広範囲に亘る事態となる。

 【ノモハン事件】「1939(昭和14)5月に起こった満州国とモンゴル人民共和国の国境地点における、日本軍とモンゴル・ソ連両軍との大規模な衝突事件。満・モ両国との国境争いの絶えなかったハルハ川と支流ホルスデン川の合流地点ノモハンで、5月11・12日ハルハ川をこえたモンゴル軍と満州国軍が衝突した。関東軍は事件直前の4月25日、国境紛争には断固とした方針で臨むとの満ソ国境紛争処理要綱を下命。現地に派遣された第23師団はモンゴル軍を駆逐してモンゴル軍の空軍基地の爆撃を行ったが、ソ連軍の優勢な機械化部隊の前に敗退し、8月20日のソ連軍反攻により敗北。独ソ不可侵条約による国際情勢の急転を受けて、9月15日、モロトフ外相と東郷茂徳(しげのり)駐ソ大使の間で停戦協定が成立した。(『日本史広辞典』山川出版社)
 
 S14/7月5日后3・30より5・40位約2時間半に亘り、板垣陸軍大臣、拝謁上奏す。直後、陸軍人事を持ち御前に出たる所、「跡始末は何(ど)するのだ」等、大声で御独語遊ばされつつあり。人事上奏、容易に御決裁遊ばされず。漸くにして御決裁。御前を退下する。内閣上奏もの持て御前に出でたるも、御心止(とどめ)らせられざる御模様に拝したるを以て、青紙の急の分のみを願い他は明日遊ばされたき旨言上、御前を下る。今日のごとき御憤怒にお悲しみさえ加えさせられたるが如き御気色を、未だ嘗て拝したることなし。(この点広幡大夫にのみ伝ふ)。

 〈注〉思わず「跡始末は如何するのだ」と大声でひとりごとを発するほど天皇を煩悶させた板垣陸相。このとき長々と上奏した人事問題とは、石原莞爾少将と山下奉文の師団長・軍司令官新補(栄転)の件で、天皇はこれを容易に認めなかった。さらに寺内寿一大将のナチス党大会出席のためのドイツ派遣問題があった。三国同盟に関しては、ドイツ側が参戦問題をめぐって日本の提案を拒絶している。それなのに陸軍は裏工作をつづけて同盟を結ぼうとはどういうことか、と天皇はいった。 その上で、
「寺内大将のドイツ派遣とは何の目的があってのものか」
 板垣は正直に、というよりぬけぬけと答える。
「防共枢軸の強化のためドイツ側とよく話し合うことが必要と思いまして」
 天皇は叱りの言葉をはっきりと口にした。
「お前ぐらい頭の悪いものはいないのではないか」
 天皇の三国同盟反対の意思のよく分かる話である。

 ――天皇の意思が自分の思い通りに理解されないもどかしさ、ひとり苛立つ姿が手に取るように伝わってくる。但しこのように煩悶する姿は1946年2月に侍従長藤田尚徳に語った「立憲国の天皇は憲法に制約される。憲法上の責任者(内閣)が、ある方策を立てて裁可を求めてきた場合、意に満ちても満たなくても裁可する以外にない」とする従属性とは相容れない、矛盾する感情発露となっている。

 いや、その逆だろう。1946年に語った自己の内閣に対する従属性は昭和14年7月当時の天皇が周囲からの従属圧力を拒否しようとする自らの姿勢を打消す、矛盾した場面となっていると見るべきだろう。

 天皇は日本国統治者であり、国家元首であり、陸海軍の統帥者であり、神聖にして侵すべからざる存在である。当然、天皇の意志は絶対であり、その怒りは誰もが従わなければならない畏れ多いものであろう。旧憲法の保障されたそのような絶対的姿を示し得ない天皇の姿を『小倉庫次侍従日記』は図らずも暴露している。

 誰もが従う姿とは、譬えて云えば「天皇のため・お国のために命を捧ぐ」と頭から信じて戦場に赴き、戦い、散った兵士の姿であり、あるいは敗戦を伝える天皇の玉音放送を、それが録音したものであっても、皇居広場やその他の場所で涙し頭を深く垂れて土下座して聞くか、あるいは直立不動の姿勢で涙しながら歯を食いしばって聞き、天皇の意思に従う形で敗戦を受け入れた国民の姿を言うのであって、そのような従順積極的な従属性は天皇を取り巻く国家機関員に於いては見受け難い。

 このことを言い換えるなら、このような天皇に対する従順積極的な従属性は一般国民だけのものとなっていて、体制側の人間のものにはなっていなかったということではないか。いわば憲法が見せている天皇の絶大な権限は国民のみにその有効性を発揮し、軍部を含めた政治権力層には見せているとおりの姿とはなっていなかったということだろう。

 そういった情景が『小倉侍従日記』敗戦の日に向かって随所に見られる。

 S14/10月19日(木)白鳥〔敏夫〕公使、伊太利国駐箚より帰国す。軍事同盟問題にて余り御進講、御気分御進み遊ばされざる模様なり。従来の前例を調ぶるに、特殊の例外を除き、大使は帰国後、御進講あるを例とす。此の際、却って差別待遇をするが如き感を持たしむるは不可なり。仍(よ)つて、御広き御気持ちにて、御進講御聴取遊ばさるるようお願いすることとせり。

 【駐箚】「ちゅうさつ・役人が他国に派遣されて滞在すること。駐在(『大辞林』)

 〈注〉側近が、どうか広い気持ちで白鳥大使に会ってくださいと天皇に頼まざるを得なかったのはなぜか。三国同盟問題で、とくに自動的参戦問題について内閣が揉めているとき、ベルリンの大島大使ともども、駐イタリア大使白鳥敏夫は、何をぐずぐずしているのか、早く同盟を結べ、といわんばかりの意見具申の電報を外務省に打ち続けていた。これに天皇は怒りを覚えていた。「元来、出先の両大使が何等自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか。かくの如き場合に、あたかもこれを支援するかの如き態度をとることは甚だ面白くない」(『西園寺公と政局』)
 その白鳥の話など聞きたくないとする天皇の態度は強烈というほかないであろう。
 
 ――「天皇の態度は強烈」と把える以前に、それぞれが天皇の意思を無視して好き勝手な態度を取っていることを問題としなければならない。裏返すと、「天皇の大権」が「大権」となっていなくて形式に過ぎないから、周囲は天皇の意に反することができる。この構図を前提とすると、「白鳥の話など聞きたくない」は「強烈」とするよりも、駄々をこねているということになりかねない。

 本来なら統治者として厳重注意、召還命令、更迭命令、いずれかの指示を出して済ますべきを「御進講、御気分御進み遊ばされざる模様なり」とか、「甚だ面白くない」という態度となっていること自体が駄々と取られられかねない証明となっている。

 《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(2)-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に続く。


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