安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(2)

2007-05-10 17:08:09 | 政治

 A級戦犯合祀、御意に召さず

 S15/1月29日(月)歌会始 御製
 西ひかしむつみかわして栄ゆかむ世をこそいのれとしのはしめに

 〈注〉第2次大戦のゆくえを憂う歌である。
  
 ――「世界中が睦み交わして栄えていく世となることを祈りたい、年の初めに」。そのような世になって欲しい。天皇の本心はそこにあった。だが、軍部・政府は日本を支配者の位置に置いた「栄ゆかむ世をこそ祈」っていた。その違いがあったのだろう。両者の世界に向けた希望の違いを次の日付の日記が象徴的に証明している。 

 S15/2月3日(土)夜、稲田〔周一〕内閣総務課長より、斎藤隆夫議員の質問演説の内容、及、之が措置に関し、政府は断固たる決意を以て望む決心を為し、事態、相当緊迫せる旨告げ来る。而して首相、または他の閣僚が左様の場合は参内上奏すべきなるも、時間の関係にて夫(そ)れを許さざるときは如何にすべきや相談あり。左様の場合は、書類により奏上なり、又は侍従長に予め出仕してもらひ侍従長より伝奏するなり。内閣の都合よき方途を講ずべき旨答ふ。
 後、斎藤議員懲罰に附することに決定、事態は急転直下解決せる旨、通じ来る。内閣としては事変処理に付き、国論がわれていると言ふ事にては時局を担当し行けざる筋合なるを以て、断固たる決心を為したるものと認めらる。

 〈注〉斎藤議員の質問演説は今は憲政史上に輝く反戦演説として有名である。2月2日衆議院本会議で民政党の代表質問として「ただいたずらに聖戦の美名にかくれて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べて・・・」戦争をつづけるとは何事か、と斎藤は思い切ったことを言った。当然、陸軍は「聖戦」を冒涜するといきり立ったのである。「なかなかうまいことをいう」と米内首相も畑陸相も感服したというが、それは控室での話。結局、3月7日、斎藤議員の除名でケリがついた。
  
 ――天皇の反戦意志に反する陸軍の「聖戦」の振りかざしは見事な逆説関係にあって、ものの見事に両者の立場の違いを証明している。

 斎藤議員の演説は実質的には天皇の平和願望に添う。が、天皇には除名を止める力はない。名目だけの統帥権・国家元首・国家統治者・神聖な存在であることをも証明している。

 S15/7月8日(前略)米内内閣総理大臣、后7・19-7・25拝謁。闕下(けっか・天子の前)に辞表を捧呈す。理由は畑陸軍大臣より、近時の政権は所信と異なり、引いて軍の統督を期し難しとの理由にて辞表の提出あり。翻意せしめ難く、又、後任を得難きを以て、辞表を奉呈するの意なり。(後略)

 <注>米内内閣が総辞職に追い込まれたのは、ここに記されているように、畑陸相の突然の辞任にあった。「軍部大臣現役武官制」をふりかざして、陸軍が倒したのである。陸軍が米内内閣を嫌ったのは、その政策が新英米的であり、7月3日に策定した時局処理方針をこの内閣では実行に移せぬと認識したからである。①日独伊三国同盟を強化する。②南方への進出を決意する、というのがその内容である。では陸軍中央では、だれに後継者としてひそかに白羽の矢を立てていたのか。それが新体制運動の推進者たる近衛文麿であったのである。
 そして予定どおりに近衛内閣は7月22日に成立した。
  
 ――〈注〉が言う「新体制運動」とは「1940年(昭和15)から翌年にかけて行われた新政治体制の創出をめざした運動。第2次大戦のヨーロッパの戦局がドイツ有利に展開していた情勢を背景として、40年6月24日枢密院議長を辞任した近衛文麿は新体制運動に乗りだすと声明した。8月15日の立憲民政党解党を最後に全政党が解散、第2次近衛内閣が各界有力者を集めて8月23日に設置した新体制準備会での議論を経て、10月12日大政翼賛会が結成された。新体制推進派は翼賛会をナチス的な政党とすることを目論んだが、議会主流や精神右翼は憲法違反として批判し、結局翌1月に政府は翼賛会の政治性を事実上否定する見解を示し、4月に翼賛会が改組されて、運動(自体)は挫折した」(『日本史広辞典』山川出版社)

 要するに『新体制運動』とは政党政治否定の運動というわけである。『大日本史広辞典』からの参考と併せて理解できることは、畑は陸軍の意を受けてか、陸軍と共に共謀してか、単独辞職したということである。軍が米内内閣打倒の意志の下に「軍部大臣現役武官制」を主張する限り、米内首相が陸軍大臣の後任候補を陸軍から求めざるを得ないが、協力を得ることはできないだろうから、「後任を得難き」は目に見えていて辞職以外に道はなかったということなのだろう。

 このような混乱から見えることは陸軍の意志が天皇の意志を上回って力があるということ以外に何もない。その具体化が「①日独伊三国同盟を強化する。②南方への進出を決意する」の形を取っているということなのだろう。そして憲法の権力保障と天皇の意志の双方に反する事態は当然のことながら、日本が戦争に向かって進展していく事態と並行して展開されていく。

 【大政翼賛会】「1940年(昭和15)10月近衛文麿を中心とする新体制運動推進のために創立された組織。総裁には総理大臣が当たり、道府県支部長は知事が兼任するなど官製的な色彩が強く、翼賛選挙に活動したのを始め、産業報国会・大日本婦人会・隣組などを傘下に収めて国民生活のすべてにわたって統制したが、1945年国民義勇隊ができるに及んで解散した。」(『大辞林』三省堂)、

 S15/7月27日(土)宮中東一の間に、近衛内閣成立後、最初の大本営連絡会議開催せらる。親臨はあらせられず。前11・40閑院、伏見両総長の宮殿下。11・50近衛首相、夫々拝謁奏上す。恐らく会議内容に関する奏上ならむ。(後略)

 〈注〉〝大本営連絡会議〟は正確には大本営政府連絡会議という。このときの会議で、後からみればとんでもない政策をいくつも決めた。日中戦争の処理。三国同盟の強化。(ベトナム、ラオス、カンボジア)の基地強化。東南アジアの重要資源確保などである。それは対米戦争を想定するものでもあった。

 ――「陸軍中央」が近衛文麿を後継者の白羽の矢に立てた成果の数々が早速にも形を取った。だが、すべてが天皇の意思に反する成果なのは言うまでもない。それを可能とし、旧憲法が描いている天皇の姿を否定する権力力学が横行していた。

 S15/9月19日(木)朝内閣より、本日午后3時より御前会議を奏請すべき旨、内報あり。次いで本件に付ては既に去る16日、首相拝謁の際、大体申し上げあるを以て、侍従長より伝送願い度き旨、申出あり。侍従長11・30伝奏す。議案の内容に付、御疑点あり、直ちに允許(許すこと。許可)せられず。侍従長、御前を退下、内大臣と協議す。内大臣は首相と電話にて話し、松岡外相が御前会議前、拝謁を願い出ることとなり、后1・18御裁可ありたり。外相后1・50-2・40拝謁。后2・50-3・05内大臣、后3・07-6・05 御前会議。列席者、
 閑院参謀総長宮、伏見軍令部総長宮、近衛首相、松岡外相、河田蔵相、東条〔英樹〕陸相、及川海相、星野企画印総裁。
 特に勅旨に依り列せしめられたるもの
 原枢府議長、沢田〔茂〕参謀次長、近藤〔信竹〕軍令部次長
 会議後、議案は直ちに上奏、御裁可を得たり。(后6・10)
 (本日の御前会議は日独伊条約に関する事項の模様なり)

 <注>9月7日ヒトラーの特使スターマーの来日、1週間後の14日には大本営政府連絡会議、16日の臨時閣議で決定と、三国同盟の締結が承認されるまで、あれよあれよという早さである。16日の近衛首相上奏のとき、参戦義務によって国際紛争にまきこまれるのを憂慮した天皇は、「今しばらく独ソの関係を見極め上で締結しても、晩くはないではないか」と最後の反対意見を言ったが、それまでとなった。
 この日の御前会議ですべてが決したのである。
 
 ――〈注〉が記している、天皇が「最後の反対意見」を言ったこと自体が、「憲法上の責任者(内閣)が、ある方策を立てて裁可を求めてきた場合、意に満ちても満たなくても裁可する以外にない」とする自己に課せられた役目に逆らう意思表示であろう。憲法が描く姿に反して、「反対意見」を国策に反映させるだけの現実の姿となっていなかったと見るべきが自然ではないだろうか。

 S15/9月27日(金)本夜8・15、ベルリンに於いて、日独伊三国条約締結調印を了せり。直に発表、同時大詔渙発せらる。

 【大詔】「天皇の詔勅。みことのり」(『大辞林』)
 【渙発】「詔勅を広く発布すること」(『大辞林』)

 <注>9月24日の天皇の言葉。
 「日英同盟のときは宮中では何も取行われなかった様だが、今度の場合は日英同盟の時の様に只慶ぶと云ふのではなく、万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから、親しく賢所に参拝して報告すると共に、神様の御加護を祈りたいと思ふがどうだろう」(『木戸日記』)
 そして詔書の一説。
 「帝国の意図を同じくする独伊両国との提携協力を議せしめ、ここに三国間における条約の成立を見たるは、朕の深くよろこぶ所なり」
   
 ――自身が現人神でありながら、「神様の御加護を祈」る無力の存在と化している。それは憲法の保障に反する天皇自身の無力と重なる。「帝国の意図を同じくする」も、天皇の「意図を同じくする」ものではないが、「朕の深くよろこぶ所なり」とする構図は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の規定に於いて、「大日本帝国」と「統治」との間に乖離が存在することを示している。

 S15/10月7日(月) 新体制出発に付、時局重大なる折柄に付、地方長官会議の機会に西溜の間にて列立配列。

 〈注〉新体制出発とは大政翼賛会の発足である。正式には10月12日のことで、その前日の近衛首相に語ったという天皇の言葉が面白い。「このような組織をつくってうまくいくのかね。これではまるでむかしの幕府のできるようなものではないか」。さすがの近衛も絶句したという、と迫水久恒が『大日本帝国最後の四か月』に楽しそうに書いている。
 
 ――「まるでむかしの幕府のできるようなものではないか」。文明開化、近代化を旗印にしていても、旗印だけのことで、明治の政治権力も江戸幕府を受け継いで本質的には権威主義を構造とした国家主義国家であって、それを伝統とした日本の政治体制が戦争という形で国民を一つの方向に向かわせようとするとき、そこから外れさせない国家による国民統制の方法として「大政翼賛会の発足」といった社会の全体管理は当然の進行であり、それが「まるでむかしの幕府のできるようなもの」だとする相似性も当然の結果性であろう。そして「大政翼賛会」の名残りが全国自治会連合会の形で現在も引き継がれている。

 S15/10月12日(土)聖上、長時間当直の常侍官へ出御あり。本年の米作状況、食糧問題、特に米のみに依存するは如何との仰せあり。又、支那が案外に強く、事変の見透しは皆が誤れり。それが今日、各方面に響いて来て居るなど仰せあり。武官〔侍従武官〕は陪席せざりし折なりき。

 <注>天皇は泥沼化した和平の見通しのつかね支那事変を悔い、陸軍の戦局の見通しの悪さに強く不満を持っていたことがわかる。
 
 ――確かにそのとおりだろうが、「事変の見透しは皆が誤れり」は「当直の常侍官」にではなく、軍首脳や政府首脳に直接伝えるべき政策事項であろう。それができない天皇の立場のもどかしさ・弱さを逆に窺うことができる。そのもどかしさ・弱さは同時に憲法が謳っている天皇の権限が現実には保障されていない状況を浮かび立たせている。

 S15/11月10日(日)一天快晴。二千六百年式典、両陛下出御。御予定の通り行はせらる。
  
 ――天孫降臨だ、天照大神の天の石窟(あまのいわや)だといった高天原神話・建国神話が如何に役立たない合理性を持たない形式に過ぎないかが分かる。だが、多くの日本人がそういったことを勲章としている。2600年の歴史だ、アメリカは高々200年の歴史しかないではないかとか。

 S16/1月9日(水) 常侍官向候所〔侍従詰所〕に出御。種々、米、石油、肥料などの御話あり。結局、日本は支那を見くびりたり。早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき旨、仰せありたり。

 <注>15年10月12日にも同様の発言があったが、天皇は日中戦争の拡大には終始反対であったとみてよい。たとえば、13年7月4日口述の『西園寺公と政局』にはこんな記載がある。
 「昨日陛下が陸軍大臣と参謀総長をお召しになった、『一体この戦争は一時も速くやめなくちゃあならんと思ふが、どうだ』といふ話を遊ばしたところ、大臣も総長も『蒋介石が倒れるまでやります』といふ異口同音の簡単な奉答があったので、陛下は少なからず御軫念になった」
 大戦へと拡大したのは、二・二六事件のあと天下を取った統制派軍人や幕僚たちが「中国一挙論」とも言うべき共通した戦術観を持っていたからである。天皇の「日本は支那を見くびりたり」はそのことを衝いている。

 【御軫念】「しんねん・天使が心を痛め、心配すること」(『大辞林』)
   
 ――天皇の「日本は支那を見くびりたり。早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき」としていることやその他から<注>は「天皇は日中戦争の拡大には終始反対であったとみてよい」としている。事実その通りであっても、戦争拡大は軍人たちの「中国一挙論」そのものよりも、天皇自身が旧憲法が謳うのとは反対に従属した存在であった関係から、天皇の戦争中止論が「中国一挙論」の前に力を持たなかった力関係に帰着する問題であろう。

 政府・軍首脳に伝えても力は持たない結果、侍従にも「早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき」とこぼす情景を生じせしめることになる。

 「西園寺公と政局」の譬え話にしても、「蒋介石が倒れるまでやります」の返答にどのような理由があってのことか、そして早期に倒せるどのような成算・どのような方策があるのかを問い質すべきであったろう。

 また戦争終結を決したのは天皇自身の英断だとするなら、「早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき」とする考えも英断として示されて然るべきだったが、「御軫念」で終わった。いわば天皇と軍部との関係は相対的な関係にあり、終戦時にその余力もなしに本土決戦を叫ぶばかりで軍は策を失い、力をなくして天皇が相対的に力を回復したから出せた〝英断〟といったところだろ。軍が力を残していたら、出せなかった〝英断〟というわけである。広島・長崎の次の原爆投下は東京の可能性をバカな軍人でも考えなかればならなかっただろうから、いくら肉弾戦による本土決戦を計画しても、制空権を失って次の原爆投下を防ぐ手立てはなかった結果の〝英断〟に過ぎない。このことは『小倉庫次侍従日記』を読み進めていけば、おいおい分かっていく。

 S16/1月13日(月) 后3・○○―4・50、杉山参謀総長拝謁。御下問ありたる為、長時間に亘りたる模様なり。

 <注>『木戸日記』1月18日、杉山総長にいろいろ問いただしたことが記されている。「種々突込んで質問してみたが、要するに総長の意見は用兵上漢口方面を撤退し、主導作戦を受動作戦となせば到底戦争は有利に解決すること困難となるべきこと、及び将来平和会議等の場合、東洋方面におけては枢軸国が負けたるかの如き印象を与ふるの虞あり。何れにしても戦線の整理縮小は慎重を要すとのこと」というものであった。天皇はこれに対して、戦争を長引かせることは「財政上の見地よりして果して我国力堪へ得るや否や」と詰問した。それはこの日であったのだ。
    
 ――この場面にしても「意に満ちても満たなくても裁可する以外にない」としているタブーは見当たらない。そこにあるのは〝意に満たない〟という経緯をベースにそれを〝意に満つ〟方向に持っていこうと意志する働きである。それが決定的な力を獲得し得ない。そのもどかしさ、苛立ちだけが伝わってくる。

 弟の秩父宮が三国同盟の締結を進めるために週に3回天皇を尋ねたというのも、天皇の反対意志に関係なく締結ができたのだから、天皇の決定にかかっているからではなく、単に天皇の決定を錦の御旗の御墨付きとして締結に向けた弾みとしたかったから、天皇を賛成派とすることを自分の手柄としたかったからなのかもしれない。

 S16/4月13日(日)后3・30-3・43、近衛首相(モスクワにて松岡外相、スターリンとの間に不可侵、不侵略条約成立せる旨奏上。直に松岡、建川(美次、中ソ大使)に御委任状の上奏ありたり。)(後略)
 
 〈注〉ヨーロッパ訪問中の松岡外相は、この日、ソ連でスターリンに会う機会があり、「どうです。電撃外交をやって、全世界をアッといわせようじゃありませんか」とささやいた。スターリンは即応し、日ソ中立条約がアッという間に調印される。日ソ相互間の領土の保全、相互不可侵を決めた条約で、有効期限は5年とされた。ところが、2ヶ月余たった6月22日、ドイツはソ連に侵攻する。スターリンが松岡の誘いに乗ったのは、こうした危機的事態の到来を予期してのこと。外交的腹芸では、松岡はスターリンの敵ではなかった。

 ――日独伊三国同盟の締結。そしてのちに何の保障にもならなかったと判明する日ソ中立条約にまで歴史は進んだ。

 S16/5月8日(木)〔松岡〕外相、后2・○○より拝謁。拝謁中に、駐米野村〔吉三郎〕大使より国際電話あり。夫に一時かかり、再拝謁した后4・○○迄。

 〈注〉この日の松岡外相の内奏は大そう天皇を憂慮させるののとなった。「ヨーロッパ戦争への米国の参戦の場合は、日本は当然独伊側に立ち、シンガポールを打たねばなりません。又、ヨーロッパ戦争が長期戦となれば独ソ衝突の危険があり、その場合は中立条約を棄ててドイツ側に立たねばなりません。そういう事態になれば日米国交調整もすべて画餅に帰します。いずれにせよ米国問題に専念するあまり、独伊に対して信義にもとるようなことがあってはいけません。そうなれば、私は骸骨を乞うほかありません(辞表を出すこと)」
 天皇は松岡の発言にあきれ、のち木戸内大臣に「外相をとりかえた方がいいのではないか」と洩らしたという。

 ――〈注〉で見せている見事な松岡外相の壮大な先読みからすると、「外交的腹芸では、松岡はスターリンの敵ではなかった」としているが、なかなかどうして小賢しいばかりの権謀術数ぶりである。独伊に対する「信義」をすべてとするばかりで、次の読みに乗せるべき「信義」の結果=日本の国益・日本の将来を展望していないのだからスターリン以上とすべきではないか。

 だが、そのことよりも天皇が外相更迭の決定もできなかったことを問題としなければなない。軍部の誰よりも、政府の誰よりも日本が置かれている状況を客観的・合理的に読み取る能力を持ちながら、憲法が描くのとは異なった従属的傍観者の立場に立たされていたために、このことこそ問題なのだが、日本が坂道を転げ落ちるように危機的な自殺方向に邁進していくのを手をこまねいて見守るしかなかった。
 日本国の中心に位置しながら、それは形式的体裁に過ぎず、実質的には蚊帳の外に置かれていたということではないか。

 S16/6月22日(日)(前略)松岡外相(5・35-6・30)、内大臣思召(6・42-6・50)。

 <注>独ソ戦をうけて松岡拝謁が終わったあと、木戸を呼んでいった言葉が『木戸日記』にある。
 「松岡外相の対策には北方にも南方にも積極的に進出する結果となる次第にて、果たして政府、統帥部の意見一致すべきや否や。又、国力に省み果たして妥当なりや」
 松岡の大言壮語に、天皇は憂いを隠せなかったのである。
    
 ――ここまで客観的・合理的に状況、あるいは戦局を把握していたにも関わらず、松岡自身に伝えて再考を促すことも、政策に反映させることもできなかった。この国を子孫に伝えるとするからには伝えるにふさわしい国の形を残す天皇なりの努力をすべきで、立憲君主だからは言い訳にはならない。
 
 S16/7月2日(水)漸10・05-12・00御前会議(東1の間。独ソ開戦に伴う重要国策に付、決定ありたるものなり。政府発表)

 <注>この7月2日の御前会議こそ、大日本帝国がルビコンを渡ったとき、とのちに明らかとなる。一方でドイツの快進撃に呼応して対ソ戦を準備しつつ、その一方で、対米英戦争を覚悟し南部仏印進駐を期待する。南北の強攻策である。決定された「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」の、「目的達成のため対米英戦を辞せず」の一行がまぶしく映ずる。
    
 ――いよいよ戦争遂行政策は佳境に入ってきた。「目的達成のため対米英戦を辞せず」。ここには戦後証明されることになる「国力に省み果たして妥当なりや」の天皇の懸念は一切反映されていない。

 《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(3) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》


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