派閥は永遠の生命を持ち続ける

2006-08-30 19:08:33 | Weblog

 06年8月11日の朝日新聞朝刊に派閥に関する記事が二つ出ている。一つは社説の「自民総裁選 派閥の哀れな末路」、もう一つは「自民‘06 総裁選 『鉄の結束』今は昔」との見出し。見出しだけで、従来の派閥の姿が力を失ったとする内容だと分かる。

 社説の「自民総裁選 派閥の哀れな末路」は自民党総裁選に向けた安倍支持が他派閥をも巻き込んで雪崩現象を起こしている状況から、「『数は力』。派閥の離合集散で総裁を決めた、かつての自民党の派閥力学が復活したかのように見えなくもない」が「実際はまったく逆のメカニズムが働いている。派閥のリーダーや有力議員が手を上げようにも、あるいは別の候補を推そうにも派閥の議員たちを従わせる力がもはやない」と、派閥力学がその有効性を失い、派閥としての磁力を失った姿を伝えている。

 安倍支持の雪崩現象を引き起こしているメカニズムは「理念や政策より主流派にいたいという思惑」であったり、「早く安倍氏に擦り寄って、よいポストにありつきたいという『勝ち馬』に乗る心理」であったりするとしている。その様子を「あるベテラン議員」の感想を借りて、「結局、みんなおいしいご飯が食べたい、うまい酒が飲みたい、ということだ」と解説している。

 そして結論として「安倍氏への雪崩現象は、弱体化した果ての派閥の末路を鮮やかに見せている」と伝えているが、「末路」(「①一生涯の末。人生の終わり②物事の衰えたすえ」『大辞林』三省堂)という言葉を使っている以上は、派閥の終焉を意味していなければならない。

 果して派閥は瓦解したのだろうか。『小泉壊革 5年の軌跡(上) 派閥解体冷徹貫く』と題した06年4月18日『朝日』朝刊記事では、「自民党内に派閥という『政党』がひしめく姿は消えた」と断定もしている。

 しかしである。「理念や政策より主流派にいたいという思惑」、「擦り寄って、よいポストにありつきたいという『勝ち馬』に乗る心理」、「結局、みんなおいしいご飯が食べたい、うまい酒が飲みたい」といった政治家の態度傾向は何も今に始まった光景ではなく、以前からあり、既に歴史・伝統・文化となっている派閥行動ではないだろうか。

 もう一つの「自民‘06 総裁選 『鉄の結束』今は昔」は、かつての田中派・竹下派の流れを汲む津島派の防衛庁長官額賀氏と山崎派領袖の山崎氏の不出馬を把えて、「額賀氏の後ろ盾になるはずだったかつての最強派閥は結束力を失い、『戦う集団』ではなくなっていた」原因が派閥所属議員の「主流派志向」であり、「山崎氏は安倍官房長官と明確な対立軸を掲げようと試みたが、主流派を目指す足元の動きを抑え切れなかった」と同じ線上の「主流派志向」を出馬断念の原因に挙げている。これらのことを以て、派閥がかつて結束力を喪失し、派閥としての体裁が取れなくなっていると見ている。

 だが派閥の求心力を形成する、安倍候補に十分に対抗できるだけの候補者を自派閥に抱えていないこと、支持する形で担ぎ上げてもいい目ぼしい候補者が他派閥にもいない情けない状況にあること、各候補がスタートラインに勢揃いする前から安倍ランナーが遥か先を走っている一人勝ちの状況にあることなどが結束力を失わせて浮き足立たしめ、ならばと、「理念や政策より主流派にいたいという思惑」、「擦り寄って、よいポストにありつきたいという『勝ち馬』に乗る心理」、「結局、みんなおいしいご飯が食べたい、うまい酒が飲みたい」といった利害が露出することとなって安倍支持に向けた逆の遠心力が働いたと見ることもできる。

 いわば派閥という集団自体が「派閥のリーダーや有力議員が手を上げようにも、あるいは別の候補を推そうにも派閥の議員たちを従わせる力がもはやない」のではなく、「派閥の議員たちを従わせる」だけの「力」を持った魅力ある「リーダーや有力議員」を自派閥だけではなく、他派閥にも不在であることが派閥が持つべき凝集性(=足並み)を目下のところ失わせている一時的状況にあるということではないだろうか。

 もし福田康夫が津島派に所属していたなら、山崎派やその他の他派閥を吸収して、安倍候補と優劣つけがたい対抗馬となり、両陣営からの人事をエサに一本釣りといった切り崩しが展開された可能性も考えることができる。だが現実は他派閥には不幸なことであるが、安倍候補と同じ森派所属である。

 暴力団にしても組長の権威と威令が行き届いていて、鉄の結束を誇っている組もあれば、子分たちが陰で好き勝手なことをしていて、親分がそれとなく耳にしても、苦々しく思うだけで統制を取ることもできない組もあれば、親分とは飾りでしかなく、幹部が牛耳っているといった組もある。

 要するに派閥の結束力も求心力もコマ次第だと言うことである。額賀氏にしても山崎氏にしても後から追いかけるにはコマ不足は否めないということではないだろうか。神輿として担ぐべき人材次第で、担ぐ力が入る場合と入らない場合があるし、担ぐだけの人材が不在の場合は、力の発揮どころを失って味わうことになる淋しい思いを他処の神輿を担いで自己存在を示す。同じ担ぐなら、世間から拍手もされ、ご祝儀(=閣僚ポスト)も期待できるような担ぎ甲斐のある人材がいいに決まっているのは世の常だろう。

 津島派や山崎派の足の乱れとは正反対に、安倍氏に「政策提言」して認められると、いち早く派閥として安倍支持を表明した伊吹派に関しては「派内では、人事への厚遇を求めて、『主流派』への復帰願望が強かった」と「政策提言」を支持表明の口実とした猟官レベルの派閥行動であること、「さらに所属の参院議員14人中9人が来年夏に改選を迎えるため、世論調査で支持率の高い安倍氏に選挙の『顔』としての期待も高かった」と、派閥維持のための派閥利害からの支持であると、記事の全体的なトーンとなっている派閥崩壊とは裏腹の「鉄の結束」とまでは行かなくても、一致団結して主流派入りに向けた乱れのない元来の派閥の姿を伝えている。

 尤もこれも主流派に向けた動きだから一致団結が可能で、逆にこれまでのしがらみで派閥上層部が谷垣支持だ、麻生支持だと動いたら、〝一致団結〟はたちまち崩壊の憂き目を見るのは目に見えている。貧乏くじを引くと分かっているからである。損だ得だといった自己利害が噴き出すのがオチだろう。元々領袖に力がないから、小派閥なのである。

 さらに言えば、伊吹派といった小派閥であっても、ベッカムやペ・ヨンジョンといったイケメンで、その上たっぷりとユーモアがあり、頭の回転の利く若手でも現れ、ミーハーやオバサンたちといった無視できないパーセンテージの有権者から人気を博したなら、大派閥にこれといった総裁候補が不在である場合は、逆の雪崩現象が起きる可能性も生じる。特に次の総選挙で自民党は議席を大幅に失うと予測されている状況にあった場合は、派閥の数の力で大派閥候補が総理・総裁に納まったとしても、政権を失ったなら意味を失うことになる。数の力を上回って〝選挙の顔〟が先ず第一番に優先される事態が生じることになるだろう。

要するに派閥が集団として力を持つには数の力は重要な要素ではあるが、その時々の状況に応じて相対化を受ける比較要素に過ぎず、すべてを決定する唯一絶対の要素としての姿を取る場合もあれば、取らない場合もある従属変数に過ぎないということである。

 そして現在は世論調査で高い支持を受けている安倍候補が所属する森派にとってはまさに数は力であるが、これといった総裁候補を抱えていない他派閥にとっては意味もない数でしかないといった状況にあるということだろう。

※【猟官】(りょうかん)「官職をあさること。官職に就こ
      うと人々が争うこと。
【猟官制】「公務員の任用を党派的情実により行う政治慣
      行。スポイルズシステム」(『大辞林』)

 山崎氏不出馬の原因を成している「主流派志向」の具体的な事情が「00年、当時の森内閣の不信任案に同調しようとした『加藤の乱』で山崎派は一致した行動を取った。その結束が崩れた背景には、昨年秋の人事がある。郵政政局で小泉氏を支えたはずなのに、山崎派に閣僚ポストはゼロ。入閣待ちの議員を中心に高まった不満は、安倍支持に向かった」と解説している。

 山崎派の「主流派志向」にしても、人事期待――猟官レベルの支持を内容としているということであろう。逆説すると、〝政策支持〟ではないということである。但し政策支持ではなくても、人事に釣られて、人事のために政策のすべてに賛成の態度を示して従うだろう。安倍長期政権となれば、一次内閣で入閣できなくても、主流派に属して政策支持の貢献に務めれば、いつかは順番が回ってくる。

 8月26日(06年)の夜のNHKニュースが、「安倍氏を支持する中堅・若手議員らが作る『再チャレンジ支援議員連盟』が『派閥の枠組みを超えた支援態勢を目指すべきだ』として独自に選挙対策本部を立ち上げることにした」ことと、「石原前国土交通大臣や佐田衆議院議院運営委員長ら党内の中堅議員8人が、25日夜会合を開き、来週中に安倍氏を支援するグループを新たに立ち上げ、活動を始めることで合意」したことを伝えた上、世代間の対立と主導権争いの懸念、さらに一体感維持の可否について言及していた。

 また毎日新聞のインターネット記事(06.8.23.20:12)が、「自民党の『無派閥新人議員の会』(小野次郎代表幹事、37人)は23日の総会で、党総裁選対応について協議し、安倍晋三官房長官を支持する意見が大勢を占め」、「来週の総会で、会として正式に安倍氏支持を表明するかを話し合う。23日の総会には19人が出席した」と伝えている。

 こういった動きの続きとして8月30日の『朝日』朝刊は、「自民党の新人衆院議員の有志が29日、党総裁選に向けて安倍官房長官を『激励する会』を国会内で開いた」と報じている。「小泉チルドレンと呼ばれる新人の多くが安倍氏を支持することが鮮明になった」という。

 「一方、派閥に属していない『無派閥新人議員の会』(小野次郎代表幹事、37人)は同日の総会で会として安倍氏支持すを打ち出すかどうかを協議した。小野氏らは安倍支持が大勢の党内情勢を踏まえ、『まとまった行動をとるべきだ』との考えだったが、『派閥と同じように安倍氏支持を打ち出すのは結局、無派閥という派閥ととられる』(牧原秀樹氏)」等の反対意見もあって、結論を先送りした。
 ただ、牧原氏がこの後開かれた『激励する会』であいさつするなど、異論を唱えた議員が必ずしも『非安倍』というわけではなく、新人議員の安部支持は変わりそうにない」(同記事)と伝えている。

 まさに安倍一色の雪崩現象である。だが、伊吹派はもとより、「再チャレンジ支援議員連盟」にしても、「石原前国土交通大臣や佐田衆議院議院運営委員長ら党内の中堅議員8人」にしても、仲間を募り、派を組んでの行動である。また「無派閥新人議員の会」にしても、「会」という集団を組み、その上メンバーの資格を共通の政策としているのではなく、政策とは無関係の「新人」に限定している以上、「無派閥」とは名ばかりの派閥そのものである。「無派閥という派閥ととられる」(牧原秀樹氏)などは奇麗事に過ぎない。その上安倍官房長官を「激励する会」で挨拶までしている。将来有望な、なかなかしたたかな新人である。「会」全体での支持となると、自分の支持が目立たなくなるということなのだろうか。

 〝派内派〟とか〝党内党〟と言った言葉があるが、派閥を異にする議員との連携であるなら、それぞれが〝派外派〟を組もうとしていると言えなくもない。石原前国土交通大臣など中堅議員にしても、たった8人であっても立派な集団行動であり、派の形成に当たるだろう。「無派閥新人議員の会」にしても、会として安倍支持を打ち出さずに所属議員がそれぞれに安倍支持で動いたとしても、他の派閥と連携して主流派を形成することになり、〝派外派〟を組むことになる。

 額賀擁立を断念した第2派閥津島派は自主投票を決めたが、「安倍氏の選挙対策本部にパイプ役として所属議員5人を送ることを決定。久間章生総務会長は、『安倍氏支持色の強い自主投票』だと語った」(asahi.com/06. 8.24. (木) 21: 29)というから、所属議員すべてでなないにしても、一定の派(=集団)を組んだ共同行動であろう。

 そもそもからして派閥とは政策集団ではない。政策集団であるなら、すべての議員がすべての政策で考えが一致するとは限らないだろうから、政策ごとにメンバーの移動、もしくは変化があって然るべきだが、派閥はほぼ固定化している。

 派閥が政策集団でないことは、福田康夫元官房長官が総裁選立候補を断念したあと、所属する自民党最大派閥の森「派の一人として安倍氏を支持する」と表明していることが最も象徴的に証拠立てている。派閥が政策集団なら、アジア政策及び靖国神社参拝問題とそのことに関わる歴史認識で相互に考えを異にする安倍氏と福田氏が同じ派閥に所属することは許されないだろう。派閥が政策集団でないからこそ、同居も許されるし、自身が立候補しないとなれば、政策が異なる安倍氏を支持することもできる。

 また、派閥の弊害がかしましく言われると派閥を解消して政策集団に衣替えする歴史を繰返してきたが、元のモクアミでいつの間にか元の派閥の姿に戻るが、このことも派閥が政策集団でないことを証明する一つの事例であろう。

 派閥は議員の身分を保証し、人事を約束することを目的とした利害集団でしかない。そのような利害集団だからこそ、人事によって結束という状況も起きれば、逆に足並みの乱れといった状況も起こり得る。派全体で主流派に属すことができる状況にあれば問題はないが、そうでなければ、人事決定権から自派閥を遠くに置くこととなり、結束か否かの決定要素が人事と連動する関係から、足並みに乱れが生じることになる。

 一つの派閥に所属したままで、他派閥の有力議員を総裁選で支持する。このことも派閥が政策集団でないことの証明と、支持が必ずしも政策を理由としていない証明となり得る光景であろう。

 派閥が政策集団ではなく、議員の身分を保証し、人事を約束することを目的とした利害集団でしかないとすれば、「理念や政策より主流派にいたいという思惑」、「擦り寄って、よいポストにありつきたいという『勝ち馬』に乗る心理」、「結局、みんなおいしいご飯が食べたい、うまい酒が飲みたい」といった風潮は批判事項に当たらない、ごく当然な傾向ということになる。

 無派閥ならいざ知らず、無派閥であっても「会」と名乗る集団に所属しながら、所属する派閥、もしくは会のメンバーであることを辞めて他派閥の総裁候補を支持するといったことをせず、派閥や会に所属したままで支持する。片足は自派閥もしくは会に置き、もう一方の足を主流派という名の二次的且つ比較上位の派閥に置く。最上位は勿論総裁派閥か、総裁を決めるのに最も力のあった派閥――かつての中曽根首相や宮沢首相、森首領をつくった田中派とその流れを汲む竹下派に当たる――といったところなのは言うまでもない。

 もし議員一人一人が自己の身分維持と政策・立案に関して自律した行動を取れるなら、身分維持と人事に関する利害集団でしかない派閥という集団を必要としなくなるだろう。議員の身分を最初に獲得するそもそもからして派閥の世話になる。首相が選挙の有力な顔ともなれば、勢い首相を抱える派閥が選挙のたびに数を増やす。新人として議員を目指す者としたら、政策云々よりも、より手っ取り早く安全確実に当選を図るからだ。当選と当選で得た議員の身分を維持するために派閥に所属してその世話になる関係とは派閥に従属する位置に自己を置くことを意味する。

 最初の選挙のときからそのことに何の疑問も持たずに自然体でできるのは、上が下を従わせ、下が上に従う権威主義性を自らの行動様式にしているからに他ならない。疑問を持つとしたら、どの派閥に属したら自分にとって有利か、損か得かを考えるときぐらいだろう。

 そもそもからして従属する関係に慣れている。一旦一つの派閥に従属・依存しながら、その派閥を離れて他派閥に席を移すと、余程の正当化の理由がなければ、一宿一飯の恩義を忘れた忘恩の徒、あるいは裏切り者と取られて、自己の経歴と評判を傷つけかねない危険を冒すことになる。離れるには離れるだけの条件を必要とする。

 自民党武部幹事長が9月の幹事長退任後に新人議員ら30人を対象に選挙指導などを行う「選挙塾」を立ち上げるとの考えを明らかにしたと昨夜(06.8.29)の日本テレビで報道していたが、「所属する山崎派会長の山崎前副総裁とは、総裁選挙への対応などをめぐって対立しており、新グループ立ち上げの布石ではないかとの憶測も呼んでいる」という。

 小泉首相のもとで党幹事長として働き、新人議員に影響力を及ぼすことのできる有利な状況を手に入れることができた。そういった本人の単細胞とは関係ない偶然の幸運が所属派閥と袂を分かつことを可能とする条件となっている。

 そういった条件に恵まれずに派閥を離れた場合の危険を避けるために結果として一つの派閥に籍を置いたまま、他の派閥の候補を支持するといった純粋に〝独自行動〟とは言えない二股的な独自行動を取ることになる。

 政治家の多くが権威主義から自由にならない限り自律行動を取ることは不可能で、派閥に従属・依存することから逃れられず、身分維持に関しても政策・立案に関しても自らの才能と才覚に拠って立つことはできず、自派閥が人事や有利な立場を保証しなければ、それらの決定権を握っている他派閥に求めて右往左往することになる。

 いわば力ある集団や力ある個人(今までは小泉首相、これからは安倍首相)に依存することによって自己を成り立たせる権威主義的行動様式から離れられない間は派閥はその生命力を失わずに存在し続けるということである。例え「鉄の結束」を失ったり、足並みが乱れることはあっても、閣僚ポスト獲得といった人事問題や身分維持に関して所属派閥に魅力ある利益が期待できない場合に限った限定的現象であって、それは派閥が利害集団であることの必然性から生じる付随事項と言えるだろう。

 勿論離合集散という現象も、合従連衡という現象もそのときどきの状況に応じて発現するだろうが、構成メンバーを変えるだけのことで、派閥はその利害集団としての姿を変えることなく、何らかの形と人数で存続し続けるに違いない。


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