千葉法相の死刑に立ち会った真意を勘繰る

2010-07-29 08:57:16 | Weblog

 法務省は28日、2人の死刑を執行したと発表。〈民主党政権下の千葉景子法相による執行命令は初めて。〉と、《死刑執行:1年ぶり、2人執行 政権交代後初、千葉法相立ち会い》毎日jp/2010年7月28日)が書いている。

 千葉法相は超党派でつくる「死刑廃止を推進する議員連盟」のメンバーだったということ。法相就任後は「政府の一員となり距離を置く」としてメンバーから外れていたということ。刑事訴訟法は「死刑の執行は法相の命令による」と定めていて、信念よりも法相の職務を優先させたとみられるということ。

 指揮命令を確認するためとして、東京拘置所で自ら執行に立ち会ったということ。法相が立ち会ったのは初めてとみられるということ。

 東京拘置所の刑場を報道機関に公開するよう省内に指示したことを明らかにしたということ。

 民主党枝野幹事長が千葉法相が死刑執行命令書に署名したのは参院議員の任期(7月25日まで)が切れる前の24日だったことを明らかにしたということ。

 執行は07年12月の鳩山邦夫法相(当時)下での死刑執行以降、ほぼ2カ月ペースが維持されていたということ。但し、今回の執行は09年7月28日に森英介前法相下で執行されて以来、ちょうど1年ぶりだということ。この間も死刑確定は相次ぎ、今回の執行後の確定死刑囚は前回執行後の101人から107人に増えたということ。

 執行された尾形英紀死刑囚(33)(東京拘置所収容)は03年8月、交際していた少女を巡ってトラブルになった飲食店従業員の男性(当時28歳)を埼玉県で刺殺。様子を見に来た同じアパートの住人(同21歳)も絞殺し、他の2人にも重傷を負わせて死刑判決を受けたということ。死刑確定から執行までの期間は3年であるということ。

 篠沢一男死刑囚(59)は00年6月、宇都宮市の宝石店を訪れ宝石を用意させ、6人を縛って休憩室に押し込み、ガソリンをまいて放火。全員を殺害し、指輪など293点(計約1億4025万円相当)を奪い、死刑判決を受けたということ。死刑確定から執行まで3年4カ月であるということ等々を伝えている。

 記事解説――

1.死刑廃止論者とも指摘される千葉景子法相だが、法が定める執行命令の職責を重んじた結果、09年9月の就任から参院選落選を経て11カ月目にして死刑執行命令に踏み切った。

2.就任後、「死刑の在り方について論議の場を」と繰り返したが、法務省内には「議論を呼びかけるにはまず執行を経験すべきだ」との意見が根強かった。

3.廃止派の反発は必至だが、今後は死刑を含めた刑罰論議が加速する可能性がある。

4.就任後、執行するかどうかについては言及を避けてきた。信念と職責のはざまで揺れていたとみられる。

5.法務省は大量執行期からの大幅な後退を不安視していたが、これで事実上の執行停止状態に入る懸念は免れたと言えるだろう。

6.同時に、千葉法相は「国民に目を向けて考えてもらう議論の場を作りたい」と、刑罰論議に意欲をのぞかせている。執行の職責を果たした以上、執行方法や執行順などの情報公開を進める可能性が強まった。――等々と解説している。

 千葉法相が死刑廃止論者でありながら、7月11日の参議院選投票の結果、落選が確定、7月25日に参院議員の任期が切れる前の24日に死刑執行命令書に署名した上、指揮命令を確認するためとして、東京拘置所で自ら執行に立ち会った事実と「国民に目を向けて考えてもらう議論の場を作りたい」と言っていることを併せ考えると、出てくる答は記事が書いているように〈法が定める執行命令の職責を重んじた結果〉というよりも、大臣の身分を優先させ、優先させたことを隠すために「国民に目を向けて考えてもらう議論の場を作りたい」という問題提起を持ち出したということではないだろうか。

 なぜなら死刑廃止論者として最後まで死刑執行の署名を拒否することも可能だったはずで、拒否を貫くことで死刑廃止論者としての自らの信念を貫くことができた上に最後まで署名に抵抗した法務大臣という稀有な実績を以ってして、「国民に目を向けて考えてもらう議論の場を作りたい」という問題提起も可能だったからだ。

 選挙に落選して議員の身分を失った。議員の身分がなくても大臣にはなれる。菅首相から要請を受けて法務大臣留任を引き受け、代表選の9月までとされているが、菅首相が再選されたなら、議員の身分がないまま再任の可能性も期待できる。法務大臣の身分に欲が出た代りに、欲だけ出したのでは格好がつかないからと死刑執行に協力、死刑廃止論者である手前、死刑廃止の是非を問う議論の場を設けることを提案して死刑執行署名の整合性を演出した。例え議論の場が実現したとしても、今年2月公表の死刑制度の是非を問う内閣府の09年11、12月実施の「基本的法制度に関する世論調査」では死刑容認が04年調査より+4・2ポイントの85・6%に達した事実からすると容認の議論が大勢を占める可能性があり、そうなった場合、死刑執行署名の最終的な正当性を手に入れることができる。死刑廃止論の主義主張を以てしても、国民世論を無視するわけにはいかないという。

 これは100%近く勘繰りで成り立たせた主張だとは自覚している。

 「議論の場」について、千葉法相はインタビューに答えている。
 
 《死刑執行の立ち会い「指揮命令を確認する意味」千葉法相》asahi.com/2010年7月29日1時31分)(一部抜粋参考引用)

 ・・・・・・・

 ――27日の記者会見で「国民的議論を深める具体的な行動について知恵がない」と語っていた。なぜ執行してから議論を深めようとしたのか。

 どのような形で行えばいいのか、私なりに考え続けてきた一つの結果だ。

 ――国民的な議論は起きていないが。

 これまでなかなかそこまで至らなかったことは確か。私たちも真正面から議論し、国民の皆様にも様々な場で(議論を)展開していただくことを願っている。

 ・・・・・・・

 ――在任中に勉強会で一定のめどを出すのか。

 そんなに簡単に結論が出るとは思わない。やって何にもならない、ということがあってはならないので、できるだけ精力的にご意見も聞き、発信もし、議論を進めたい。

 ――執行を見て、想像と違っていた点は。

 執行について私の個別のコメントは差し控える。

 ――執行したのは、国会での問責決議案が出される動きがあることについて、批判をかわすねらいがあったのか。

 まったくない。

 記事の〈国会での問責決議案が出される動き〉とは自民党内に「国民の信任を得られなかった人物が閣僚を続けるのは問題だ」として臨時国会で問責決議案提出を唱えている動きがあることを指す。民主党が2007年7月の参院選で与野党逆転を果たしたとき、民主党は参院選を直近の民意だと言って衆院解散を求め、自民党は衆議院の議席が民意だといって解散に応じなかった。このことからすると、千葉氏が国民の信任を得られなかったと言っても、神奈川選挙区という一選挙区の事態であって、法相は一選挙区相手が任務範囲としているわけではなく、日本全体を任務対象としている上に民主党自体は第一党を守ったのだから、日本全体では信任を得たとする理論も可能とすることができる。

 2007年参院選自民党敗北は当時の安倍首相不信任の民意でもあったわけだが、政権を問う選挙ではないからとその民意を否定していた。

 いわば衆院選の民意と参院選の民意を使い分けていた。一選挙区の民意と日本全体の民意の使い分けも可能となる。

 その使い分けを可能とすることができたなら、議論の場については9月までに立ち上げ、そんなに簡単に結論は出ないから、最終的な結論が出るまで見届けたいという姿勢を見せて、再任に意欲を示した結果の死刑執行署名と推測することも可能となる。

 これも勘繰り。

 善意に解釈するなら、東京拘置所の刑場を報道機関に公開するよう省内に指示したということだから、死刑の残酷さを確認するために死刑に立ち会い、その残酷さを目の当たりにした法務大臣として、残酷さを訴えることで劣勢にある死刑廃止論に勢いをつけようとしたと考えることもできる。そうすること自体が自身の死刑廃止論に添うことになるからと。

 但し死刑の残酷さを目の当たりにするために死刑の現場に立ち会ったなら、公平を期すために殺人の現場にも立ち会うべきだろう。

 今回死刑執行された篠沢一男死刑囚(59)も死刑の残酷さを口にしている。《「法相自ら執行すべき」 尾形死刑囚、アンケートで注文》asahi.com/2010年7月29日1時37分)

 記事は死刑廃止団体「フォーラム90」が2008年に死刑囚77人から集めたアンケートの回答に含まれている今回死刑執行の尾形英紀死刑囚(33)と篠沢一男死刑囚(59)の回答を紹介している。

 尾形死刑囚「求刑した検事、判決を出した裁判官、それに法務大臣らが自ら執行すべきだ。それが責任だ。・・・・ほとんどの死刑囚は反省し、被害者の事(こと)も真剣に考えている。(自分については)死を受け入れるかわりに反省の心をすて、被害者・遺族や自分の家族のことを考えるのをやめた」

 「死を受け入れるかわりに」以下は自ら控訴を取り下げた心境を語ったものだという。

 篠沢一男死刑囚「いつ死刑になるのか、きもちのせいりがつきません。死刑はざんこくなものです。まい年、確定の日などはねむれません」

 尾形の自身と対比させた「ほとんどの死刑囚は反省し、被害者の事(こと)も真剣に考えている」は、反省し、被害者のことも考えているから、死刑は受入れ難い、不当だという意味になる。

 そして自身に関しての「死を受け入れるかわりに反省の心をすて、被害者・遺族や自分の家族のことを考えるのをやめた」は開き直りか不貞腐れ以外の何ものでもないだろう。自身が「考えるのをやめ」ることができたとしても、社会に今後とも生きていく、あるいは生きていかざるを得ない「被害者・遺族や自分の家族」は「考えるのをやめ」ることは決してできないだろうからである。

 いわば尾形は利己主義にも自分だけのこと、自分の命しか考えていない。だから、上記「毎日jp」が伝えるように、〈交際していた少女を巡ってトラブルになった飲食店従業員の男性(当時28歳)を埼玉県で刺殺。様子を見に来た同じアパートの住人(同21歳)も絞殺し、他の2人にも重傷を負わせ〉ることができたのだろう。

 自分だけのこと、自分の命しか考えていないのは篠沢一男にしても同じである。自分の命のみを考えた場合、「いつ死刑になるのか、きもちのせいりがつきません」ということになる。宝石店を訪れ宝石を用意させ、6人を縛って休憩室に押し込み、ガソリンを撒いて放火、6人全員を殺害した自らの残酷さは頭にはない。殺された人間の殺された事実は残酷ではないこととしている。

 さしずめ千葉法相はこういった殺人現場に立ち会ってみるべきだろう。

 篠沢一男はそれとも突然訪れる殺人は被害者にとって突然ゆえに残酷さ、恐怖を感じる時間が短いが、死刑は裁判で確定してから執行されるまでの時間が長い分、恐怖に襲われている時間も長く、残酷だと考えているのだろうか。だから、死刑は廃止されるべきだと。

 だとしたら、殺人だけが社会に残ることになる。

 殺人に見舞われなければ10年20年、あるいは30年40年生きるであろう人間がある年齢で突然命を奪われる。単に一人の人間の一つの命、あるいは複数の命を奪ったということだけではなく、それぞれがその背後に背負うはずの10年20年、30年40年の命まで奪ったのである。この倫理的に膨大な残酷さは死刑確定者が死刑執行を待つ恐怖感、その残酷さとは比較することができるだろうか。

 なお言えば、死刑確定者の恐怖、残酷さは自分が種を撒いて自ら招き寄せた責め苦であって、殆んどの殺される者の恐怖、残酷さは自ら招いた突発的感情ではない。

 社会的にも倫理的にも正当な理由なく人間の命を奪った者が死刑は残酷だという理由で自らの命の正当性を訴える。あるいは死刑は残酷だからと、死刑廃止を訴える。矛盾していないだろうか。他人の命を奪うという行為は殺した相手の人間の命を粗末に扱ったということだけではなく、自分の命をも含めた人間全体の命、生命そのものを粗末に扱ったことにならないだろうか。生命なるものへの思いが余りにも安易・不遜だからだ。

 死刑廃止を訴えるのは自由である。千葉法相は今回の死刑執行署名と死刑執行立ち会いが死刑廃止論者として整合性ある態度だというなら、そのことを分かり安く理解できる説明を行うべきだろう。そうしなければ、邪悪な憶測を呼び寄せることになるばかりか、民主党の支持率にも影響する事態を招きかねない。

 この説明に関して、同じ死刑廃止論者の亀井静香が28日午後の記者会見で逆の把え方で似たようなことを言っている。《法相は国民に説明を=死刑執行、変節を批判-亀井国民新代表》時事ドットコム/2010/07/28-18:12)

 亀井静香「(千葉景子法相が)死刑をすべきではないという信念を変えるのであれば、考え方が変わったと国民に説明しないと(いけない)。今は政治家が日ごろの言動、信念と関係ないことを簡単にやっちゃう。千葉法相までもかと(思う)。政治家の信念や公約を国民が信じられなくなっている。私は死刑執行そのものが、けしからんと言っている。国家による殺人に個人の立場では強い憤りを感じている」

 個人が死刑という形で罰を与えることができないから、「国家」が代って死刑を与えている。それが現在の日本の制度となっている。

 勿論、国民の力で、それが大勢意見となったとき、変えることはできる。


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