映画「靖国」上映中止/稲田朋美が明らかにした功績(1)

2008-04-03 07:11:41 | Weblog

 民主主義発展途上の日本人

 4月12日から東京と大阪でロードショーされる李纓(リ・イン)中国人監督のドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」が映画館側の自主規制で上映中止に追い込まれている。

 事の発端は08年3月19日当ブログ記事≪ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」とNHK番組「ETV2001 問われる戦時性暴力」に見る政治家の干渉とその類似性≫に既に書いたことと重なるが、「反日的」内容と聞いたからと一部自民党議員が配給会社に文化庁を通じて試写を求めたのに対して監督と配給側が「検閲のような試写には応じられない」からと全議員を対象とした試写会を開くことに決定、3月12日に行われた試写会には自民党、民主党、社民党の40人の議員と代理出席の40人、計80人が出席したことがマスコミを通じて世間に大きく報じられたことから始まっている。

 騒動の代表格は自民党稲田朋美・右翼政治家だが、当初「客観性が問題となっている。議員として見るのは、一つの国政調査権」と言っていた。「表現の自由や上映を制限する意図はまったくない。でも、助成金の支払われ方がおかしいと取り上げられている問題を議員として検証することはできる」

 いわば「助成金」を口実に映画の「客観性」に口を挟もうとした。それを「国政調査権」だと言う。試写終了後のコメントがそのことを証明している。

 稲田議員「助成金にふさわしい政治的に中立な作品かどうかという一点で見た」
    「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージを感
    じた」

 「助成金」を受ける資格のある作品は「政治的に中立な作品」に限るという思想・言論の網をかける制限を行ったのである。そして映画「靖国 YASUKUNI」は「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージ」が込められているゆえに「助成金」を受ける資格はない、網に引っかかると認定した。

 「助成金を受けるにふさわしいのか」とか「客観性」とか「国政調査権」だとか色々と言っているが、主張していることに一貫して通底しているのは「反日」のレッテル貼でしかない。

 上記ブログ記事の締めくくりに安倍や中川昭一等の国家主義政治家の政治的介入の「意図」を忖度してNHKが「女性国際戦犯法廷」の番組内容を改変したのと同列に<政治家の他者の思想・信条への有形・無形の干渉も問題だが、干渉を受けてその意図を忖度して過剰反応や自己規制する側の態度も問題としなければならない。稲田朋美等の薄汚い干渉を受けて、文化庁がどういう態度を取るかである。多分、稲田朋美の「意図を忖度」して、影でこっそりと「反日」か「反日」でないかを補助金交付の条件に付け加える「自己規制」を行うことになるのではないだろうか。>と書いたが、文化庁を超えて「靖国 YASUKUNI」の上映を予定していた映画館に「自己規制」は飛び火していった。

 東京、大阪のすべての上映が中止され、そういった中止状況にも関わらず上映を予定していた名古屋の映画館まで中止を決定したと言う。そのことを2008年04月02日の西日本新聞インターネット記事(≪「靖国」の上映を延期 名古屋でも≫)が次のように伝えている。

 <靖国神社を題材にしたドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」について、名古屋市の映画館が上映延期を決めたことが2日、分かった。

 延期を決めたのは「名古屋シネマテーク」(同市千種区)で、5月3日から上映予定だった。

 名古屋シネマテークでは「東京などで上映が取りやめになっているが、いずれは上映したい」と説明。しかし、上映延期をめぐり、政治団体などから働き掛けがあったかどうかについては「お話しすることはない」として明らかにしなかった。

 映画をめぐっては、自民党の稲田朋美衆院議員らが、文化庁の所管法人から助成金が出ていることを理由に試写会を求め、公開前の試写会が実現。その後、東京や大阪の映画館が相次いで中止を決めた。>・・・

 「働きかけ」がなかったなら、正直にありませんでしたと言うだろう。あったから、「お話しすることはない」と隠す必要に迫られた。

 「政治団体などからの働き掛け」についての事情は≪クローズアップ2008:映画「靖国」上映中止 揺れる表現の自由≫(毎日jp/2008年4月2日 東京朝刊)が次のように解説している。

 試写会が行われていた<時点で映画は都内4館、大阪市内1館で、今月12日から公開されることが決まっていた。しかし「バルト9」(東京・新宿)が3月18日「営業上の総合的判断」を理由に公開中止を発表。他の上映予定館周辺では街宣活動が行われたり抗議電話がかかってきた。右翼団体が稲田氏らの動きに刺激された可能性がある。バルト9の中止決定から約1週間後、他館も「観客や近隣に迷惑がかかる」などの理由で、相次いで公開を取りやめた。

 稲田朋美なる国家主義国会議員が発した「政治家の意図」を文化庁よりも敏感・俊敏に思想・言論弾圧勢力である右翼が「忖度」し、過剰に反応、上映館に圧力をかけ、上映中止の自己規制に至らしめた。稲田と右翼は阿吽のいやらしい不倫関係を素早く築いたと言ったところだろう。

 だからこそ、稲田はそう取られない姿勢を示さなければならなかった。

 <「中止は残念」稲田議員

 稲田朋美衆議院議員は31日夜、「日本は表現の自由も政治活動の自由も守られている。一部政治家が映画の内容を批判して上映をやめさせるようなことは許されてならない。今回、私たちの勉強会は、公的な助成金が妥当かどうかの1点に絞って問題にしてきたので、上映中止という結果になるのは残念。私の考え方とはぜんぜん違う作品だが、力作で、私自身も引き込まれ最後まで見た」と話した。(≪「靖国」上映中止 「一番懸念した状況」 上映側萎縮に危機感≫(08.4.1/『朝日』朝刊))

 右翼が暗躍し、上映中止の自己規制に追い込んだ意外な展開の責任が自分に及ばないように自分が「政治家の意図忖度」の発信元ではないことを知らしめるための火消し、いわばマッチポンプに走ったに過ぎないだろう。直接的に指図しなくても、映画の内容を「反日」だと批判することで「公開」がふさわしくないというメッセージを発したのであり、その結果として上映禁止に追い込む間接的な圧力を生じせしめたのである。

 大体が「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージを感じた」と拒絶反応を見せた「私の考え方とはぜんぜん違う作品」を「力作」だと思うはずはないし、当然「引き込まれ最後まで見」ることはないだろう。人間の自然な人情に反するからだ。

 この辺の事情を『朝日』社説(≪映画「靖国」―上映中止は防がねば」08.3.30/日曜日)は違う見方をしている。

 <稲田氏らが問題にしているのは、助成金を出すのにふさわしい作品かどうかだという。そんな議論はあっていいが、もしこうした動きが上映の障害に結びついたとしたら見過ごすことはできない。

 幸い、稲田氏は「表現の自由や上映を制限する意図はまったくない」と述べている。そうだとしたら、一部の人たちの嫌がらせによって上映中止になるのは決して本意ではないだろう。

 そこで提案がある。映画館に圧力をかけることのないよう呼びかける一方、上映をやめないように映画館を支えるのだ。それは、主義主張を超えた「選良」にふさわしい行為に違いない。>――

 上映中止が「本意でないだろう」と推測する感覚は素晴らしい。だから稲田国家主義者に「呼びかけ」が期待できた。「映画館を支える」気持があったなら、どのような口実であろうと介入しなかっただろうことを考えずに。「選良」の名に反して「主義主張を超え」ることができなかったからこそ、そもそもの発端の演出者足り得たのである。ジャーナリズムの一翼を担いながら、事実に向ける目を持たず、安易に希望を語る。

 「政治家の意図忖度」の装置がうまく作動し、上映中止という成功をもたらした。その装置にスイッチを入れた政治家が稲田朋美というに過ぎない。

 先月最後の日曜日3月20日の朝日テレビ「サンデーモーニング」でチベット問題について田原総一郎と森本拓殖大学院教授が討論していた。

 田原「ギリシアのオリンピアで聖火が灯された。そのときに式典に何人かが乱入した、と。で、トラブルが起きた。その乱入シーン。西側の国は全部放送したんだけど、中国は放送していない。違うシーンを撮っているんですね。さらに実は、もう一つ中国ではNHKもCNNも見られるんですが、CNNがそのシーンを出そうとした直前に画面が暗転、身振り手ぶりよろしく)ポーンと黒くなった。見えない、ということが起きています。これはおかしいじゃないかと、私が討論会でやったんです。日本人が。『こんなことじゃ言論の自由も何もないじゃないかっ』と。そしたらね、ここが相当変った。中国のある高名なジャーナリストが言った。一番有名といっても言い。これがね、そんなことをもしやったとすれば、飛んでもないと。そんな映像を流すよりも止める方が遥かに中国にとってはデメリットが大きい、ナンセンスだと、バカげている。堂々と言ったんですよ」

 森本に「そこは大分中国も変化していると言うことですか?」
 田原「うん」
 森本「我々が考えている情報の公開性・透明性からかなり程遠いですね」

 田原の言う「変化」を否定されながら、面の皮厚く「そこはねジャーナリストたちは言える。で、言ったら、それはもう政府に聞こえるに決まってるんだけど」と政府の体制に反する言論の存在を言い張っていたが、中国当局が「そんなことをもしやったとすれば」の仮定ではなく、「そんなことを」既に「やっ」ていた既遂行為なのだから、何ら役に立たないことを言っていたことさえ見抜けない見事なジャーナリストの目を持った田原総一郎に出来上がっていた。

 森本の言う「情報の公開性・透明性」が中国の総体的な現実であったなら、事実そうなっているからこそ「CNNがそのシーンを出そうとした直前に画面が暗転」するといった事態が起こるのだが、例え「政府に聞こえるに決まって」いようがいまいが、結果として政府の言論制限の火付けに対して単に消火の量にも達しなバケツの水をかけるに過ぎない火消しを行う、一種の政府と一体となったジャーナリストのマッチポンプの意味しかないことに気づくべきだが、気づきもしなかった。

 要するに田原は自分が中国人の高名なジャーナリストに「こんなことじゃ言論の自由も何もないじゃないかっ」と中国の言論状況を批判したことの役割を過大評価することにウエイトを置きたいがために、つまり自分の偉さを宣伝したいがために中国全体を総体的に俯瞰する客観的な目を曇らせてしまったのだろう。

 国家主義者稲田朋美は「政治家の意図忖度」装置をうまく作動し得て上映中止にまで持っていくことができた。その結果明らかにされたことがある。右翼といった思想・言論弾圧勢力の直接・間接の威嚇を恐れて、あるいは直接・間接の威嚇が実体として存在しないにも関わらず、自分の方からつくり出して、その影に怯え、言うべき言葉をつぐむ。言論を自己規制する。日本人がそういった精神状況にあるということである。プリンスホテルもそうだったし、NHKもそうだった。かつての昭和天皇の死去の際のテレビコマーシャルの自粛や派手な音楽の自粛もそうだったし、一般人の結婚や祭りの延期に見せた一億総自粛と言ってもいい一大社会現象化した自己規制もそうだった。

 いわば稲田朋美は日本人の民主主義意識、基本的人権意識が未だ発展途上にあることを白日の下に露呈させた。その功績は大きいのではないか。

   映画「靖国」上映中止/稲田朋美が明らかにした功績(2)に続く


    


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