日本海軍 400時間の証言/ 第二回 特攻 やましき沈黙(1)

2009-12-28 10:13:13 | Weblog

 以前書いてそのまま放置し、忘れていた記事です。参考までにブログ記事に加えることにしました。

 途中途中で( )付き青文字で気づいたことを記した。

●印は殆んど解説の言葉を簡略化したものとインポーズの文字を書き写したものとの混交です。

 最初に総合的な感想を記しておくと、元海軍将校たちは“やましき沈黙”は海軍という組織に特有な行動慣習であるが如くに扱っているが、これは日本人が権威主義を行動様式としていることから起きている日本人全体の問題だということ。

 確かに戦後アメリカから民主主義の思想と個人の権利の思想が移入されて日本人の権威主義性は弱まっているが、それでも組織の中で力を得た者や地位の上の者を、あるいは組織そのものを比較絶対者として下の者をして“やましき沈黙”を自らに課す悪しき権威主義性は依然として残っている。

 例えば妻が出産した。夫が育児休業を取って妻と共に育児を体験したいと思っても、社員の権利として認められていながら、本来の仕事から離れて育児などしていていいのだろうか、長期休暇で会社の評価が下がりはしないだろうかなどと恐れて声を上げることができず我慢してしまうのも自己を下に置く、いわば会社や上司に対して自己を対等に置くことができない権威主義性が強いる“やましき沈黙”であろう。

 個人の権利は相互の関係を対等に置くことによってよりよく発揮可能となる。上下の力関係で人間関係を律する権威主義は個人の権利主張の阻害要因として立ちはだかる。

 08年度の雇用均等基本調査によると、育児休業の取得率は女性が前年度より0.9ポイント上昇して90.6%と初めて9割を超えた一方で、男性は前年度より0.33ポイント低下して1.23%と低い水準にとどまっていると「asahi.com」記事)2009年8月18日23時5分)が伝えている。
 
 〈育休取得率は、前年度の出産者(男性は妻が出産した人)のうち調査時までに育休を始めた人の割合。男性は05年度の0.50%よりは上昇したものの、政府が目標とする10%には遠く及ばない。取得期間も女性は10カ月以上が52%を占めるのに対し、男性は54%が1カ月未満と短い。〉――

 当然の権利を発揮できないこの状況は権利主張の阻害要因として立ちはだかっている権威主義性にとらわれているからに他ならない。 


 日本海軍 400時間の証言/ 第二回 特攻 やましき沈黙(総合テレビ/2009年8月10日(月) 午後10時00分~10時59分)

●特攻隊員死亡者――陸海会わせて千人以上。

●特攻作戦推進部署――軍令部、海軍のすべての作戦構想が練られていた部署。

大本営――陸海軍合同の戦争指揮機関、その中核が軍令部。
        特攻にどう関与したのか、その全容を示す資料は殆ど残されていない。

●「海軍反省会」の録音テープ。
 戦後、元海軍将校が400時間に亘って議論していた。

軍令部は神風特攻隊よりも前から組織的に特攻兵器の装備を始めていた。

●軍令部はどのような特攻作戦を進めていたのか。戦後沈黙を続けてきた日本海軍幹部たち当事者の告発。

●フィリッピン・マニラの北の街スバラカット、日本から遠く離れたこの地から最初の特攻神風特別攻撃隊が出撃。
 特攻は生きたまま体当たり攻撃していく作戦。その死が想像を絶するものであるがゆえに隊員たちの姿は広く伝えられてきた。特攻隊の慰霊碑の碑文にはb>隊員たちが自ら志願したことを示す「Volunteer」(ボランティア)の文字が刻まれ、当時の姿を今に伝えている。

●しかし隊員たちに比べて特攻を命じた側のことはあまり知られていない。特攻は死ぬことでしか目的を達成できない作戦。誰が、なぜ、何のためにこの作戦を行ったのか。

●昭和56年(1981)2月13日。東京原宿。水交会(海軍OB)――海軍元将 
 校たちが集まり、海軍反省会を開催。メンバーの年齢は70代~80代。
戦争の真実を語り、残しておくことが目的。

●反省会が始まって21年。この日初めて特攻に関する議論が行われた。口火を切ったのは特攻を現場で担当した鳥巣健之助元中佐。中央の軍令部は特攻を早くから計画していたが、関与を認めてこなかったと批判。

 鳥巣「中澤さん(軍令部一部長)が中央で特攻を指令したことはないと言うんですよ。私はね、冗談じゃないよと。それは間違いだと。中澤さんはですね、まことにその点はけしからんと私は思いますよ」

 三代一就(みよ・かずなり)元大佐(元航空作戦担当者――昭和14年~17年軍令部)「僕の知っている範囲に於いてはね、特攻隊のオー・・・」

 「大西さん」

 三代「ね、大西さんがね、赴任する前に軍令部に来たんですよ。軍令部の方には総長と次長と部長、これらがおられたわけです。そして、その場で以って、『もう日本海軍の航空兵力の連中の実力が到底、それは敵を攻撃するなんてできないから、じゃあ体当たりでも手がないんでしょう』と。みんな黙っちゃったと」

●最初の特攻は大西中将が発案し、軍令部は認めただけだと、三代元大佐は語った。

 (提案を認めたとは提案にある計画の成算を検討した上で成功の見込みありと承認した場合であっても、上の言うことだからと無条件な従属性で単に黙認しただけであっても、最終責任は承認側にもある。)

 鳥巣健之助「いや、それはね、あくまでもね、あの飛行機(神風特攻機)だけの話だけであってねですね、もうその前にですね、神風特攻よりもずっと前にですね、回天(水中特攻機)をね、採用しているわけです。実際の――」

 「中央で」
 
 鳥巣「実際の計画はもう中澤さん(軍令一部長)おられるときにやってるわけですから、それを俺は中央では指令をした覚えはないなんてことをね、言われること自体おかしいとことですよ」

  (否定自体が特攻を間違っていたと中澤が認識しているからであって、正しい作戦だったと信じていたなら、隠すどころか胸を張るだろう。)

 「時期が違うんじゃないかと――」

 鳥巣「違いませんよ」
 
 「今のね、今の問題、ね。あの、みなさん、一寸待ってください」

●     
     |―軍令部(作戦立案)――第一部・第二部・第三部・第四部
     |
 天皇― |
     |             
     |―政 府――海軍省(予算・人事)

 軍令部は予算・人事を掌る海軍省に対して作戦を立案、天皇が持つ軍隊を指揮する権利・統帥権を補佐する機関。

●鳥巣元中佐が名前を挙げた中沢佑(たすく)元中将は軍令部一部の部長をしていた。この反省会の3年前に死亡。軍令部が作戦命令を伝えるが、連合艦隊、その指揮下にあった第三艦隊で鳥巣元大佐は特攻作戦を実行していた。鳥巣元大佐が担当していたのは人間魚雷・回天作戦。

●回天基地のあった瀬戸内海大津島。ここで鳥巣元中佐は軍令部の指示に従って隊員を送り出していた。亡くなった隊員について次のように記していた。

 鳥巣元中佐・記「戦後神風特別攻撃隊のことは知らない人は殆んどいないようであったが、同じ特攻隊でも回天特別攻撃隊のことを知っている人は極めて少なかった。戦死した1万人以上の潜水艦乗員や回天搭乗員に対しても、またその遺族の方々に対しても、相済まぬことだと思っていた」――

 鳥巣「確かに特攻に準じた若者たちの行為は如何なる賛美も惜しむものではない。だからと言ってですね、特攻作戦を賛美することはできない。そこには深刻な反省と懺悔がなければならない」

●鳥巣元中佐の発言を受けて、重要証言があった。特攻作戦が始まったとき、軍令部にいた土肥一夫元中佐(昭和19年~20年軍令部)

 土肥「この今のお話の、大西さんとの話じゃなくて、その遥か前にですね、回天も桜花も、マル四艇もみんな、海軍省で建造はじめているんですよ。そうするとね、その特攻をね、(軍令部)一部長ともあろう者がね、知らないというのはおかしいとこう言うちょるとです、鳥巣さん」

 鳥巣「そうなんですよ」

●土肥元中佐が語った特攻兵器、魚雷を改造した回天、小型戦闘機の先端に爆弾を取り付けた桜花、ボートに爆薬を積んで体当たりする震洋(マル四艇)、なぜ軍令部は特攻兵器の開発に踏み切ったのか。

●昭和18年、日本は太平洋の拠点を次々と失い、9月には絶対国防圏と名づけて死守すべき前線と定める。

 以下「Wikipedia」参照 
 絶対国防圏とは、第二次世界大戦において、守勢に立たされた大日本帝国が本土防衛上確保及び戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である。

 概要
1943年(昭和18年)9月30日の御前会議で決定された「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」に「帝国戦争遂行上太平洋及印度洋方面ニ於テ絶対確保スヘキ要域ヲ千島、小笠原、内南洋(中西部)及西部「ニューギニア」「スンダ」「ビルマ」ヲ含ム圏域トス」と定められたものがこれで、東部(マーシャル群島)を除く内南洋すなわちマリアナ諸島、カロリン諸島、ゲールビング湾(現在のチェンドラワシ湾)以西のニューギニア以西を範囲とする。

第二次世界大戦時の日本において、太平洋を主戦場とする海軍と中国大陸と東南アジアを主戦場とする陸軍ではその攻撃・防御は分かれていたが、絶対国防圏と設定した地域は陸軍が設定したものに近いものであった。シーレーン防衛能力からして、すでに広範囲な地域を戦場とすることは事実上不可能となっていた。

しかしながら、絶対国防圏設定後も、海軍はその外側に位置する地点の確保にこだわったため、国防圏内で防衛体制の構築が後回しになる拠点があった。重要拠点であるサイパン島についても、防衛体制が整う前にアメリカの侵攻を受けることになる。

倍の兵力をもって侵攻するアメリカ軍に対し日本兵はよく戦ったが、既に制空権、制海権を失っておりマリアナ沖海戦、サイパンの戦いなどで大敗を喫し、サイパン諸島を失ったことによって、攻勢のための布石は無意味となり、日本は防戦一方となる。

絶対国防圏が破られたことで東條英機はその責任を取り内閣総理大臣を辞職した。以後B-29による本土空襲が開始される事となる。〉―― 
 しかし翌19年2月、トラック諸島にある南方最大の海軍根拠地も壊滅的な打撃を受け、軍令部は悪化する戦局の打開策を求められていた。当時作戦を統括する立場だった軍令部一部長中澤佑元中将の軍務日誌昭和18年8月記述の軍令部の別の幹部の提案――。

 「必死必殺の戦法」
 「戦闘機による衝突撃」


●神風特攻隊の1年以上前に出された意見、「体当たり、戦闘機」など、緊急に開発すべき特攻兵器が提示された。回天試作機も完成し、実験の完了。戦局が悪化する中、軍令部の中で特攻兵器の開発が一気に進んでいく。特攻兵器を進言したと記されていた人物は兵器の研究を担当していた軍令部二部の二部長黒島亀人元少将。軍令部はどのようにして特攻兵器の開発を進めていったのか。

●昭和56年8月26日、第20回「反省会」

 鳥巣元中佐が黒島二部長に直接会ったときのことを話す。

 鳥巣「エー、震海(潜水艇の先端に機雷を搭載した試作の兵器)という兵器であります。呉の工廠で審検(審査)があったあときに、黒島少将が立ち会って、私も、この兵器はとても使い物にならんと、元艦隊としてお断りしますとやったわけであります。黒島さん、烈火の如く怒ってですね、この非常時に何を抜かすかと、国賊がっ、て言うわけですね。国賊扱いされたわけですが――」

真珠湾攻撃を行った連合艦隊の山本五十六司令長官の参謀を務めていた黒島少将は真珠湾の成功がその発言力を高めていたと寺崎隆治元大佐が発言。


 (一つの成功を以って、すべての能力に亘って絶対と権威づける権威主義性がここにある。民主党が衆議院選挙で大勝した成功を以って選挙担当の小沢幹事長のすべての能力に亘って絶対と位置づけるのと同じ権威主義性が。)

 寺崎「一番悪いって言うか、あの、思い上がりですね。山本元帥辺りは神格化されておったわけですよ。山本元帥とか黒崎参謀とか、それらの言うことは絶対であるというような、その、恐る恐るやるっていうか。意見の真珠湾作戦が成功、そのためだと思いますけども。非常に神格化されて、寄せつけないと――」

●海軍の頭脳といわれた軍令部の特攻兵器の開発が次々と進んでいったが、特四式内火魚雷を載せた水陸両用の兵器などは使い物にならなかった。潜水服を着た兵士が海底に潜み、爆薬で船を攻撃する「伏龍」は訓練で死亡事故が相次ぐ。

 鳥巣健之助「大本営(軍令部)のお偉方の着想ではありましたけれども、その苛烈な戦局に直面している実施部隊の人々を納得させるような要件は何一つ、具備しておりませんでした。これらの思いつき兵器が如何に大きな無駄を強い、戦争遂行の足を引っ張ったか、想像に余るものがあります」

●昭和19年8月、人間魚雷回天を正式に採用。同じ月に公布された「海軍特修兵令」(表紙に筆文字で「裕仁」と書いてある。)。天皇の裁可を経て、特攻兵器で戦う特攻術が法令でさ定められた。その前日、海軍は特攻隊員の募集に向けて動き始めていたが、全国に送った兵士募集の文書(昭和十九年―昭和二十年 航空軍備)には「○兵器(まるへいき)要員」と書いてあるのみで、特攻兵器であることは伏せられていた。

●募集に応じた坂本雅俊さん(83)。戦局打開の新兵器と聞かされ、志願した。

 坂本「(船で)大津島(人間魚雷基地)へ近づいてきて、初めて、あの、人間魚雷をクレーンで吊り上げて、あって、それを見て、ま、ギョッとしたわ」

●戦局打開の新兵器が人間魚雷回天であった。自分の体を兵器に代える訓練が始まる。

 坂本「もうハッチ、ピシャンと閉められたら、全く鉄の棺桶の中に入れられたみたいの、ああ、もう、緊張、最高の緊張ですね。不安と緊張、恐怖。やっぱり人間ですから。まして、若者なんですから。生きたいいう、これは本能、が出てしまうのは当然ですよ」

●軍令部からの指示で現場で実行されていった出撃直前に撮られた写真。送り出す参謀と鳥巣元中佐が映っている。隊員89人が戦死した。

●回天顕彰会長高松工氏が目撃した戦後の回天搭乗員慰霊祭で鳥巣元中佐が生き残った隊員から責められる場面の証言。

 高松(生き残った隊員が座っていたようにだろう、縦長の机の手前端下座に座って)「ここから高橋が立ち上がって(机反対端の上座に指差して)怒鳴り始めたんですよ。鳥巣さんよ、あんたがその上(かみ)の場にあんたが座るもんじゃないよ、ってね。あんたは兎に角あれだけのことをやりやがって、一番下(しも)に座るのがお前の役だ、って」

 (絶対服従の権威主義が支配していた日本軍のかつての上官を「お前」呼ばわりをする。戦時中に囚われていた権威主義性が強かったことに比例した、その解き放ちの反動の強さが「お前」呼ばわりとなって現れたものであろう。言うべきときに言えずに、言っても甲斐なきときに言う。)

 高松「軍令部の参謀なんていうと、本当にクソ喰らえと私は言うんですが、ああいうやつらは兎に角ひどいことをやりやがって、自分は戦後関係ないって、実線におった隊長とか参謀とかは、ヒジョーニ苦しみながら、、兎に角戦争終わって、戦後もそれをずうーっと死ぬまで担いでたと思いますね、私は」

●反省会で軍令部を追及した鳥巣元大佐。これに対して軍令部に在籍したメンバーは多くを語らなかった。反省会で幹部を務めていた平塚清一元少佐(94)は鳥巣元大佐の発言に対する他のメンバーの反応を今も克明に覚えている。

 平塚「黙っていました。沈黙です。誰も反論がない。反応がありませんでしたね。人の命を結局無駄にするわけですね。あのー、軍隊というものは決死で行くけれども、生きて帰れる道が必ずあるわけですよね。特攻隊はそれがないわけですね。あって然るべきじゃなくて、あの、あってはならないことをやったという、気持はみなさん、あるんじゃないですかねぇ」

●日本海軍では兵士の死を前提とした生きて戻ることのできない作戦、特攻は決して命じてはならないとされてきた。しかし、軍令部は戦局が刻一刻と悪化する中で絶対に越えてはならない一線を越え、特攻作戦に踏み切った。

 そして現場には兵士の身体を兵器に代える過酷な作戦を求めていった。最初の特攻隊はここフィリッピンから出撃していった。その前から軍令部は組織的に特攻を準備していたにも関わらず、戦後、このことは私たち(国民)に伝わってこなかった。ここにも軍令部の知られざる動きがあった。 

 日本海軍 400時間の証言/ 第二回 特攻 やましき沈黙(2)に続く
  


コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日本海軍 400時間の証言/ 第... | トップ | 亀井静香の天皇「お住まい」... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
やましき沈黙 (1941)
2010-09-09 12:28:43
高松・・・鳥巣さんよ、あんたがその上(かみ)の場にあんたが座るもんじゃないよ、ってね。あんたは兎に角あれだけのことをやりやがって、一番下(しも)に座るのがお前の役だ、って」・・・
鳥巣健之助参謀は戦後多くの著作をなした有名人だが、あの場面はおどろいた!しかし、もと回天搭乗員、小灘利春さんの「特攻回天戦」をよんで、残念ながら納得した!!
http://www.tante2.com/back-kamikaze-d.htm#konada
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Weblog」カテゴリの最新記事