亀井静香の天皇「お住まい」発言のトンチンカン

2009-12-29 08:59:42 | Weblog

  《亀井金融・郵政担当相:お住まい、京都か広島に 内容暴露「天皇陛下に申し上げた」》毎日jp/2009年12月28日)

 国民新党代表の亀井静香金融・郵政担当相が12月27日放送のテレビ朝日の番組で天皇との会食の際の発言を披露。

 「権力の象徴だった江戸城に今もお住まいになるのは、お立場上ふさわしくないのではないか。京都か、(亀井氏の地元の)広島に(お住まいになれば)」

 記事はこの発言は12月24日、皇居で天皇と鳩山首相及び閣僚らによる宮中昼食会が行われた場で行われたと見られるとしている。12月24日はクリスマス・イブ。だからと言って、七面鳥の丸焼きが食卓に上ったということはあるまい。いくら亀井静香が七面鳥の丸焼きにかぶりつく姿が絵になるからと言って。

 亀井静香はテレビ出演後に記者団に対して陛下が直接の返答を避け、「京都が好きです」と答えられたことも明かしたという。また自身の発言の意図を次のように説明したという。

 「明治期に幕府の権力の象徴の跡に入られたことが、その後の歴史で、政治利用みたいな形になってしまった」――

 つまり現在も「政治利用みたいな形になってしまっ」ているから、その原因をつくった「幕府の権力の象徴の跡」である現在の皇居から移られた方がいい、移るとしたら、京都か広島がふさわしいのではないのかと進言したことになる。

 政治利用から一切合財無縁の場所に天皇が存在していると把えていながらの亀井の発言だとしたら、無用の進言となる。

 天皇の政治利用という問題は最近では鳩山内閣の方から天皇の会見“一カ月ルール”を無視させて習近平国家副主席と天皇を会見させたことによって持ち上がったことだから、そのことに関連付けてその延長線上で把えた「政治利用みたいな形になってしまった」とする懸念でなければ矛盾が生じる。

 いわば、テレビ番組では天皇と習近平国家副主席との会見は天皇の政治利用には当たらないと断言していながら、実際には少なくとも「政治利用みたいな形になってしまった」と把えていたことになる。

 24日の会食では天皇の政治利用の懸念を抱えながら、27日の朝日テレビ「サンデープロジェクト」では政治利用ではないと断言する。

 と言うことは、古い政治家・亀井静香の天皇と習近平国家副主席との会見は天皇の政治利用には当たらないのテレビ発言は鳩山内閣の一員であることからの身贔屓から出た擁護発言で、野党の立場にいたなら、「天皇の政治利用に決まっている」と徹底攻撃に変じた可能性が生じる。

 立場に応じて態度を変える。亀井静香も利害の生きもの、人間であることの証明でもあるが、政治家の中でも利害に敏(さと)い点でランクの最上位につけることができる政治家ではないだろうか。

 尤もそのことが亀井静香の勲章ともなっている。

 上記「毎日jp」記事は〈閣僚が天皇陛下との会話の内容を明らかにするのは極めて異例。〉だと伝えた上で、〈内奏の場合、内容が外に漏れることは天皇の政治利用につながるとの指摘があり口外しないことが原則になっている。1973年に増原恵吉防衛庁長官(当時)が昭和天皇のお言葉を引き合いに、政府の防衛力増強を合理化するような発言をし、閣僚辞任に追い込まれた例がある。〉と紹介し、ノンフィクション作家の保阪正康氏の意見を伝えている。

 保阪正康「(閣僚が所管事項を天皇陛下に報告する)内奏ではないが、現職閣僚が陛下との会話を明らかにすることに軽率さがある。陛下には反論権がなく、我々も判断する根拠がない。・・・・現政権は皇室問題についての基本的な考え方を説明すべきだ」――

 例え天皇に「反論権」がなくても、内奏であるなしに関わらず、閣僚の天皇に対する発言で国民の知らないことが存在するのは情報公開の民主主義に反する事柄ではないだろうか。政治利用に触れる危険性があるということなら、内奏だけではなく、閣僚との接触自体もやめればいい。

 天皇からしたら、政治問題に関して国民と同様に新聞・テレビで知れば片付く問題であろう。

 「毎日jp」記事が伝えている1973年の増原恵吉防衛庁長官問題を「Wikipedia」で見てみた。

 〈増原内奏問題

 1973年5月26日、増原惠吉防衛庁長官は昭和天皇に「当面の防衛問題」について内奏した時、昭和天皇は「近隣諸国に比べ自衛力がそんなに大きいとは思えない。国会でなぜ問題になっているのか」と述べた。

 増原は「おおせの通りです。わが国は専守防衛で野党に批判されるようなものではありません」と述べると昭和天皇は「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いことは真似せず、良いところは取り入れてしっかりやってほしい」と述べた。

 増原はこの内奏を新聞記者に昭和天皇の言葉を紹介した上で「防衛関連法案の審議を前に勇気づけられた」と話した。しかし、現役閣僚が天皇の政治的言葉を紹介したことが5月28日に新聞記事に載り、「天皇の政治利用である」との批判を受けて政治問題化した。

 問題が皇室に及ぶことを回避するため、5月29日に増原は防衛庁長官を辞任した。〉――

 増原防衛庁長官の「政治利用」云々を言う前に天皇の「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いことは真似せず、良いところは取り入れてしっかりやってほしい」という日本の防衛問題そのものに関わった発言自体が「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と規定している日本国憲法に違反する、天皇自らが政治利用を侵す発言行為となっている。

 もし政治利用が政治家側から天皇に働きかける事柄で終わらずに、天皇の側から政治家に働きかける相互性を備えているとしたら、亀井静香が言っていた「明治期に幕府の権力の象徴の跡に入られたことが、その後の歴史で、政治利用みたいな形になってしまった」は客観性を欠いた滑稽な発言と化す。

 明治天皇は明治元年(1986年9月8日)の前年の1867年1月30日に即位している。15歳である。父親の孝明天皇は36歳で突然死を迎えている。公武合体派の攘夷論者で明治の時代を担った薩長土肥と一部公家の王政復古派及び開国派には邪魔となる煙たい存在であったことから、若過ぎるその突然の死を暗殺だとする噂が流れたという。

 少なくとも明治天皇15歳即位は孝明天皇の公武合体・攘夷の政治を王政復古・開国の政治へと方向転換させるに役立った転換点と言える。
 
 さらに言うなら、即位15歳の明治天皇が徳川幕府崩壊、王政復古、鎖国に幕を降して端緒についた開国から本格的な開国へと向かった激動の時代を薩長土肥・一部公家の上に立ってよりよくリードし得ただろうか。単に幕府打倒の大義名分、王政復古正当化の象徴として祭り上げられ、利用されたことは想像に難くない。維新政府が政治体制の根幹とした15歳の天皇が行う天皇親政は自分たちが望む政治を何ら障害なく遂行するにこの上なく好都合な存在であったに違い。

 この、言ってみれば天皇の名の元に政治を行う天皇の政治利用体制が敗戦まで続いた。決して「明治期に幕府の権力の象徴の跡に入られたことが、その後の歴史で、政治利用みたいな形になってしまった」わけではない。

 「明治期に幕府の権力の象徴の跡に入」る前の15歳明治天皇即位のそもそもの出発点からして、政治利用そのものの存在形式を取っていたのである。

 このことは天皇が住いとする場所が政治利用の媒体となるのではなく、天皇を取り巻く人間たちの天皇の操作が政治利用が生むことを示している。

 にも関わらず、亀井静香は住いとする場所が問題だとするトンチンカンを示している。さすが日本の頭の古い政治家だけのことはあるが、新しい住いを京都と推薦するのは理解できないことはないが、なぜ自分の選挙区である広島を推薦したのか、自身の政治人生の勲章としたい意図以外に理解できない。

 天安門事件から3年後の1992年の平成天皇の訪中を中国の天皇の政治利用だとする説があるが、その訪中は欧米の対中経済制裁のさ中の極めて政治的な状況下にあった中での宮沢内閣の助言と承認の元行われ、欧米の対中経済制裁を解除するキッカケとなったということなら、中国側の天皇の政治利用に応じた宮沢内閣による天皇の政治利用に当たると言えないだろうか。

 ブログ《貼る・ノート2》が中国の天皇政治利用をテーマとした「SAPIO」( 2007/6/13号)《史上最大の対日工作「天皇訪中」に秘められた中国の野望》を紹介している。参考までに。

 


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