歴史認識と「国民の生命・財産を守る」を言うこととの関係
防衛省の次期次官人事を巡って小池防衛相と6年目の続投を狙っていた現次官の守屋武昌とが醜悪・滑稽なドタバタ劇を演じてマスコミに格好のネタを提供していた問題は昨8月18日の『朝日』朝刊≪時時刻刻≫で≪人事バトル 痛み分け≫の見出し解説となっている。小池女を売り物大臣が推薦した警察庁出身の候補と続投を断念した守屋が推薦した防衛省生え抜き候補を二人とも外して、非守屋派の生え抜きを当てる妥協案で決着、<痛み分け>と言うわけである。残るは今月末の内閣改造で小池オバサンが留任するか、次官人事のドタバタの責任を取らされる形でクビのすげ替えが行われるかに興味は移った。暫くはマスコミスズメがピーチクパーチクかしましく囀ることになるだろう。
「続投」と言えば、安倍首相にも関係するキーワードであって、自分の「続投」は許すが、他の者の「続投」は許さないでは自他のバランスが取れないのではないか。
「続投」と言っても自分の場合はこの先1年持つかどうかも分からない不透明・不安定な続投であるに対して、相手は4年以上も続投し、さらに続投と言うことになったら5年目の長期政権ということになる。そのことに嫉妬した<首相の指示で急転>(同『朝日』記事)といった「痛み分け」なのだろうか。大いにあり得る展開ではある。
6日前の13日夜の首相官邸の例のぶら下がり記者会見で、テレビの中からあの顔でじっと見つめられているような気色の悪いカメラ目線一本やりではない、あっちに顔を向け、こっちに顔を向ける落着きのないキョロキョロで「人事はまだ何も決まってませんよ。防衛、安全保障は極めて重要で、しっかりと日本の国を守ることができる態勢をつくるという観点から人事を決めなければいけません。当然、この国民の生命と財産を守る、役所にふさわしい人事を考えていかなければなりませんね」と言い諭すようにのたまわっていたが、「国民の生命と財産を守る」といった言葉を口にする資格が安倍首相は自分にはあると思っているのだろうか。
安倍首相は8月10日の首相官邸での記者会見で、参議院与野党逆転で「政策を進める上で困難な状況になったと覚悟しているが、私が続投するのはあくまでも政策を前に進めていくためで、国民の生命と財産を守る政府の責任には変更はない」と、集団安全保障等憲法解釈の見直しに関連してここでも「国民の生命と財産を守る」を口にしているし、これまでも機会あるごとに「国民の生命・財産を守る」を言っている。
なぜ口にする資格がないのか。安倍晋三が国家主義者だからなのは言うまでもない。何度でも言うように国家主義者とは「国家をすべてに優先する至高の存在と考え、個人の権利・自由をこれに従属させる思想」(『大辞林』三省堂)である国家主義に染まった人間のことを言う。
口にするとするなら、「人事はまだ何も決まってませんよ。防衛、安全保障は極めて重要で、しっかりと日本の国を守ることができる態勢をつくるという観点から人事を決めなければいけません。国民の生命と財産を守ることも大切だが、『ときにはそれをなげうっても守るべき価値(国家的大儀)が存在する』(『美しい国へ』安倍著)ことを国民の共有意識に仕向ける役所にふさわしい人事を考えていかなければなりませんね」であろう。
安倍首相はこのような指摘を不当な冤罪だと否定するだろうが、否定できない物的証拠を提示できる。
≪A級戦犯無罪主張のパル判事遺族と面会へ 安倍首相≫(asahi.com/07.8.14)
<安倍首相は今月下旬にインドを訪れる際、極東国際軍事裁判(東京裁判)のパル判事の遺族と23日に面会する方向で調整していることがわかった。パル氏は連合国側判事として唯一、東条英機元首相らA級戦犯全員の無罪を主張したことで知られている。
政府関係者によると、パル氏の遺族との面会は首相の強い希望だという。首相は東京裁判について国会答弁などで「国と国との関係において、この裁判について異議を述べる立場にはない」と述べるにとどめている。ただ、かつてはそのあり方に疑問を唱える立場をとっており、波紋を呼ぶ可能性がある。>
8月15日の『朝日』朝刊では<安倍首相は14日、今月下旬のインド訪問の際、極東国債軍事裁判(東京裁判)のパル判事の遺族と面会する予定を明らかにし、「パル判事は日本とゆかりのある方。お父様のお話などをお伺いできることを楽しみにしている」と述べた。パル氏は連合国の判事として唯一、東条英機元首相らA級戦犯全員の無罪を主張した。この点について、「面会はアジア諸国を刺激するのでは」と記者団から聞かれると、首相は「そんなことにはならないと思いますね」と語った。>(≪パル氏遺族と「面会楽しみ」安倍首相≫)と報道されている。
昨8月18日の『朝日』社説はパル判事の遺族との面会に関して、<旧日本軍の慰安婦問題や靖国参拝を巡って国際社会の視線が厳しい中で、首相の行動は東京裁判と日本の戦争責任を否定するかのようなメッセージを発することになりかねない。>と批判しているが、<発することになりかねない>ではなく、間接的な否定のメセージそのものであり、不本意にも控えなければならなかった今年の8月15日の自身の靖国参拝に代える代理行為でもあろう。
いわば実際には靖国神社に参拝して、A級戦犯に対してはあなた方は国内法的にも国外法的にも戦争犯罪人ではない、東京裁判は不当な勝者の裁判だった、日本の戦争は侵略戦争などではなく、民族自衛自存の戦争だったと参拝のたびに語りかけてきた歴史認識に関わる自らの信念の改めての語りかけを行うべきところを、それができない代わりに「連合国の判事として唯一、東条英機元首相らA級戦犯全員の無罪を主張した」パル氏の遺族との面会という形式を通して靖国神社で果たせなかったひそかなる侵略戦争否定を全世界に向けて間接・象徴的に発しようということなのだろう。
日本人を優越民族とする精神論だけで国民を無謀・杜撰・無計画な戦争に引きずり込み、国民も一体となった責任を免れることはできないが、「一億玉砕」だ、「一人十殺」だ、「皇軍寡兵よく勇戦」だ、「1億死に徹すれば」だのと体裁のいい勇ましいだけのスローガンで多くの国民を無駄死にの戦死に追いやり、「国民の生命・財産を守」る責任を放棄した東条英機等のA級戦犯を始めとする戦前の国家指導者・軍部を擁護しながら、「国民の生命・財産を守る」である。どう公平に見ても、口にする資格があると言えるだろうか。
安倍晋三はA級戦犯を「日本の国内法で裁かれていないのだから、犯罪人だとか犯罪人でないだとか言うのは適当ではない」とか、A級戦犯の戦争責任について「具体的に断定することは適当でない」などとしているが、と言うことは「犯罪人でもない、戦争責任もない」と解釈しているということだが、その根拠を<それは国内法で、かれらを犯罪者と扱わない、と国民の総意で決めたからである。1951年(昭和26年)当時の法務総裁(法務大臣)は、「国内法の適用において、これを犯罪者としてあつかうことは、如何なる意味でも適当ではない」と答弁している。また、講和条約が発効した52年には、各国の了解もえたうえで、戦犯の赦免の国会決議もおこなっているのである。>(同『美しい国へ』)としているが、それは程度の低い日本の政治家たちが自分たちの戦争に対する検証・総括を自分たちに都合がいいだけのお手盛りのご都合主義で飾り立てることしかできなかったことから生じている程度の低い無罪放免であろう。
言い換えるなら、戦争相手国を意識の中に置かない日本という国を考えただけの一国主義に立った安っぽい検証・総括でしかなかったということである。
いわばその程度の戦争検証、戦争総括しかできなかった。それを安倍晋三は戦後60年の時間の経過にも関わらず、無神経に引きずっている。しかも「国内法ではA級戦犯は犯罪人ではない」としていながら、8月15日の戦没者追悼式では、「わが国は、多くの国々、とりわけアジア諸国に対して多大の損害と苦痛を与えた。国民を代表して、深い反省と共に、犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表す」(07.8.15『朝日』夕刊≪「アジアへ加害反省」≫)としている。A級戦犯を含めた日本の戦争指導者は「犯罪人ではない」、日本の戦争は侵略戦でもないとしている人間が心底「多くの国々、とりわけアジア諸国に対して多大の損害と苦痛を与えた」と思っているだろうか。心底思えるだろうか。二つの考えは論理的に整合性を欠く関係にあるのである。
安倍晋三という人間の意識の底では、「国民の生命・財産を守る」が口先だけの言葉であると同様に、「アジア諸国に対して多大の損害と苦痛を与えた」は世間体を取り繕う見せ掛けの言葉に過ぎないのだ。
いずれにしてもA級戦犯を犯罪人でないとし、侵略戦争であったことを真正面から受け止めようとせず、否定の衝動を疼かせていることがそのまま「国民の生命・財産を守る」を口にする資格を失うことになる関係にある。そのことに気づかずに安倍晋三は様々に否定の衝動を働かせながら、口にする資格のない「国民の生命・財産を守る」を盛んに言い立てる矛盾を平気で犯している。