石原慎太郎の愚かしいばかりの、自分が何を言っているのか気づかない「ゆとり教育」真っ向断罪論

2012-10-31 11:25:12 | Weblog

 石原慎太郎が2012年10月25日、まだ東京都知事の肩書きで辞任・新党立ち上げ記者会見を行った中で、「ゆとり教育」に触れている。

 勿論、国家主義者のスタンスからの評価だから、肯定論であるはずはない。

 発言は第2日テレ「ノーカット工房」の動画から取った。

  「色々言いたいことがる」と言い出した中の一つである。

 石原慎太郎「例えばね、文部省、これが主導したゆとり教育ってのはとうなりました?

 あれで兎に角、バカみたいな子どもたちでね、たちまち学力が落ちた。

 公立の学校がですね、1年目から、(言い直しなのだろう)3年目からこれを無視してね、どういう授業を始めたか。私立は全く言うことを聞きませんでしたね。

 そういうね、自分たちが犯した文部省が公式に取り消しましたか。ゆとり教育などと、要するにバカな、このリーダーシップを。

 これも一つです」

 マスコミはこの発言を重要視しなかったが、発信力ある著名人だけあって、「ゆとり教育」自体が不人気を抱えている状況下で、この真っ向断罪論は相当な影響を与えたのではないだろうか。

 「ゆとり教育」が学力を落とすのは当たり前のことであって、前以て予定調和としなければならない事態であったが、多くが予定調和とすることができずに、学力が落ちてから慌て出した。

 「ゆとり教育」の真の目的は従来の詰め込み主義の反省に立って導入されることになった「総合的な学習の時間」(総合学習)であった。

 「総合的な学習の時間」の最大の狙いは「子供たちが自分で課題を見つけて、主体的に判断して自ら考え学び、よりよく問題を解決する資質や能力を育てることによって、自分から『生きる力』を身につけていく」ことにあると言われていた。

 と言うことは、日本の教育がスタイルとしている詰め込みの暗記教育では「総合学習」が目的とする、何事も自分で考え、判断して解決していく自発的学習態度の涵養は望めないと認識して、「総合学習」を取り入れることにしたということになる。

 両者を比較した場合、詰め込みの暗記教育はその学力を得るに自発的教育と比べて、時間は短くて済む。教師が与える知識・情報をひたすら暗記するだけで解決するからである。

 勿論、暗記能力や暗記に対する熱意に個人差があり、暗記の確度や量に差は出てくる。

 但しその差に関係なく、思考性・行動性に関してはテストの設問に対しても、何らかの行動に於いても、暗記した知識・情報を機械的になぞって回答としたり、活動の基準とすることになる。

 行動に於ける典型的なパターンがマニュアル人間であり、横並び行動なのは断るまでもない。両者とも行動の手本を自身の考えや判断に置かずに他者の指示や行動に置く。

 行動に於けるこの構造は教師が与える知識・情報をなぞって自身の情報・知識とする暗記教育の構造と重なるのも断るまでもないことである。暗記教育から発した思考性・行動性なのだから、当然のことである。
 
 逆に何事も自分で考え、判断して解決していく自発的学習態度の涵養は単に教師が与える知識・情報をなぞって自身の情報・知識とする暗記と違って、時間がかかる。例え他人の力を借りるとしても、基本的には何事も自分で答を見つける姿勢を維持しなければならないし、その代償として暗記型の思考・暗記型の行動を捨てることになる。

 当然、機械的な暗記学力も基本的には捨てることになる。自分で考え、判断して納得し、記憶した、教師が与えて機械的に暗記したのとは異なる知識・情報を思考や行動の基本とすることになるからである。

 また、親から子に受け継ぎ、子が学校で暗記型思考性と行動性をなお一層刷り込まれて成長して大人になって、設けた子供に自らが刷り込まれた暗記型思考性と行動性を刷り込み、その無限循環を伝統・文化としてきて、暗記に慣らされた思考性・行動性にいきなり自分で考え、判断する自発的思考性と行動性への転換を求めたとしても、短期間に順応できるはずはない。

 こうったことを見極めた上で、詰め込みの暗記教育を取って、それが主として暗記知識であったとしても、それによって得ることができる機械的な学力を取るか、あるいは暗記学力を捨てて、何事も自分で考え、判断して解決していく、時間のかかる自発的学習態度の涵養とそのことによって得ることができる、それぞれに独自な内容を備えることになる柔軟思考の学力を取るか、覚悟しなければならなかったはずだ。

 だが、時間のかかる総合学習の教育を選択しながら、暗記学力の低下を予定調和とする覚悟を持つことができず、テストの成績が下がったことを以って学力の低下だと騒ぎ、パニック同然となってたちまち方向転換に出た。

 多くの人間が総合学習の導入によって教科書が薄くなった意味すらも理解することができなかった。

 暗記教育は教科書に書き込んである知識・情報を教師が、少しは補って膨らませることはあっても、ほぼそのとおりになぞって、自らを介して生徒に伝達し、生徒が教師が伝達するままにほぼなぞって暗記していく構造を取る。

 いわば暗記教育に於いては生徒が年齢に応じて必要としている知識・情報の量と教科書に書き込んである知識・情報はほぼ等量を維持しなければならないから、年齢が上がっていくに従って教え込む知識・情報が増えていき、教科書に書き込む知識・情報量も増えて、教科書は厚みを増していく。

 だが、生徒自身が何事も自分で考え、判断して答を見い出し、解決していく自発的教育は教師が与える一つの知識・情報に対して生徒自身が考えて自分なりの知識・情報に膨らませ、二にもし、三にもする結果、教師が生徒に伝達する知識・情報の1に対して、その情報源としている教科書に書き込む知識・情報にしてもほぼ等しい1で済むことになって、生徒が獲得する知識・情報の量と比較して教科書は薄くてもいいことになる。

 いわば厚みの薄い教科書が当然備えることになる知識・情報量の少なさを児童・生徒の自分で考え、判断して付け足していく知識・情報が補う形を取って、実際の知識・情報量は教科書の見た目の知識・情報量を遥かに上回ることになる。

 いずれにしても総合学習の導入による学力の低下を必然とすることができずにパック状態に陥り、詰め込みの暗記教育に早々に回帰することになった。

 当然、教師が児童・生徒に伝達する知識・情報量は教科書に書き込んである知識・情報量とほぼ等量をなし、生徒が暗記する知識・情報量ともほぼ等量をなすために、学力を上げるために多くの知識・情報を詰め込もうとすれば、教科書は厚くなる運命を必然とし、実際にもあれも教えなければならない、これも教えなければならないと厚くなっていった。

 橋本徹が大阪府知事時代、2008年度4月実施の全国学力テストの都道県別成績が2007年度の成績とほぼ変わらない、すべての分野で平均正答率が41~45位と低迷して、激怒した。

 橋本徹「(大阪府)教育委員会には最悪だと言いたい。これまで『大阪の教育は…』とさんざん言っておきながら、このザマは何なんだ」(MSN産経

 要するに暗記教育主義の立場に立って発言した。来春採用の教員志望者向け受験説明会で次のように発言している。

 橋下徹「僕と府教委はいま、日本一の教育制度をつくろうと議論している。でも、日本一の教職員が集まらないとせっかくの制度も実践できない。

 教育から大阪を変えてやろうという熱い気概を持った人たちを歓迎します」(asahi.com

 自分で考え、自分で判断して答を見い出して解決していく自発的教育とは正反対の、従来どおりの自分で考えない、他者の知識・情報をそのままなぞり暗記して自分の知識・情報とする、愚かしいばかりの暗記教育強化の宣言である。

 すなわち考えない子供の育成宣言である。

 勿論、石原慎太郎の「例えばね、文部省、これが主導したゆとり教育ってのはとうなりました?あれで兎に角、バカみたいな子どもたちでね、たちまち学力が落ちた」の発言も、同じ穴のムジナとなる愚かしいばかりの暗記教育強化の宣言であり、考えない子供の育成宣言と言える。

 最後に石原慎太郎や安倍晋三、橋本徹等の国家主義者の愛国心教育の危険性について一言。

 児童・生徒が自分で考え、自分で判断して答を見い出して解決していく自発的教育を排除、上が伝達する知識・情報をそのままなぞる形式の暗記教育に立っている関係から、愛国心教育にしても、国が決めた愛国心の知識・情報をそのまま児童・生徒がなぞって自分たちの知識・情報とする力学・強制が自然と働くことになり、いわば洗脳の構造を取る危険性を抱えることである。

 戦前の愛国心教育も同じ構造を取っていたはずだ。

 児童・生徒が自分で考え、自分で判断して答を見い出して解決していく自発的思考過程・行動過程を排除することによって可能となる国家主義からの愛国心教育ということである。


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