――蓮舫がそうであるように自らの政治能力の万能性を安請け合いする政治家は信用できない。"政治は結果責任"に対する常日頃からのシビアな自覚不足が政治家を口先だけの万能感に誘い込む――
蓮舫Xのプロフィールには2025年7月3日時点で次のような自己紹介が記されていた。
「この夏、【全国比例】で挑戦する予定です。日本で暮らすすべての人々のお役に立ちたいです。貴女、貴方の声を代弁する。誰もがその生き方を尊重されるために。他人の夢を笑わない社会を創りたいと強く思っています。趣味は登山、好物は激辛。宝物は双子と猫の美、麗くんと日本スピッツうるるくん」――
7月7日は「日本で暮らすすべての人々のために働きます」とより確信的な誓約へと言葉を変えている。厳密に言うと、蓮舫は「すべての人々」の役に立つことができる、あるいは「すべての人々」のために働くことができる程に万能の政治能力を備えた政治家と言うことになるが、そんな政治家など存在しない。
当然、「すべての人々のお役に立ちたい」は自らの政治能力の万能性の訴え、あるいは誇示となるから、「すべての人々のために働きます」は自らの政治能力の万能性をより強めた断言ということになる。
「すべての人々」を対象にしている以上、喩えて言うと、同性婚や夫婦別姓賛成派のためにも、反対派のためにも両方に役に立つことができる、あるいは両方のために働くことができると宣言していることになって、蓮舫がどう逆立ちしても、本人に限って万能な政治能力を備えているスーパーウーマンというわけにはいかないにも関わらず不可能を可能とすることができるような政治能力の万能性を誇示するという矛盾を曝け出していることになる。
政治は全ての集団、すべての団体、全ての階層、あるいは全ての個人の利益を等しく代弁できる程に万能ではないし、完璧性を備えているわけではない。
例えば第2次安倍政権は2012年12月26日から2020年9月16日まで7年8か月に亘って長期政権を築いたが、日銀と一体となった円安・株高政策は大企業の史上最高益年々の更新に最大限貢献した一方で、中低所得層は円安を受けた生活関連物資の高騰に賃金が追いつかずに苦しい生活を強いられることになった。この状況は政治が自らの万能性を大きく欠いていることに連動することになる政治の恩恵そのものの大きな偏りの反映以外の何ものでもない。
だが、蓮舫は万能な政治など存在しないという自覚が持てずに、万能であるかのような言説を振り撒いている。そしてこういった政治家が意外と多い。
第一生命経済研究所の《実質賃金低迷の主因は低労働生産性の誤解》(2024.11.25)なる記事に、〈2007年を100とした1人当りの日米欧比較の実質賃金は2023年時点で米国が2007年対比で+16.8%、ユーロ圏が同+3.1%増加しているのに対し、日本は同▲4.2%減少している。〉といった趣旨の一文が載っているが、野党は第2安倍政権下で政治は万能ではないことの宿命を目の当たりにしてきたはずだし、野党側にしても、それを正すための政権交代に無力であった自らの政治の万能性の欠如を抱えていたはずだが、蓮舫はそのことの自覚を持てずに、「日本で暮らすすべての人々のお役に立ちたいです」、あるいは「すべての人々のために働きます」と自らの政治の万能性を安請け合いしている。
蓮舫は自分を相当に優秀な政治家だと思い込んでいるはずだ。思い込んでいなければ、これ程までに自らの政治能力の万能性を振り撒くことはできない。
蓮舫はここに来て自民党の政治資金収支報告書不記載という派閥ぐるみの一大政治スキャンダルの敵失が影響して2024年衆院選で自公過半数割れが実現、スキャンダルの尾を引いた石破内閣の超低支持率によって2025年参院選で同じく過半数割れに追い込める予想可能性の高さから政権交代が視野に入り、指をくわえて眺めているわけにはいかず、閣僚での活躍の機会到達を計算した参院選立候補ということかもしれない。
そのためにも自分の政治能力の高さを宣伝しなければならない。
だが、自分が政治に関してオールマイティであるかのように自らの政治能力の万能性を訴えるのは行き過ぎている。
例え政権交代が実現したとしても、自らの政治能力の万能性を安請け合いする政治家であることに変わりはない。無数の利害が限られたパイを奪い合うことになるのである。勢いパイの配分によって、あるいはパイのお裾分けに預かることがでるかできないによって満足・不満足の差が生じて、政治の万能性は限りなく影を潜めることになる。
蓮舫が吹聴する政治の万能性を言葉どおりに受け止めたものの政治の現実を見せつけられて、失望する有権者が数多く出てくるに違いない。
もし蓮舫が如何なる政治も万能ではないことの指摘を受けて、「日本で暮らすすべての人々のお役に立ちたい強い思いで」、あるいは「すべての人々のために働きたい強い思いで」「政治を行っていますが、思いを形にできないこともありますし、形にできたとしても、その思いがすべての人に届かない場合もあります」と言い逃れたとしたら、それこそ"政治は結果責任"の自覚を欠いている何よりの証明となるだろう。
"政治は結果責任"の意味は、断るまでもなく、結果を十二分に計算し尽くして政治を行い、結果を出せなければ責任を負うというもので、思いを形にできなければ、結果を出すまでに至っていないことを示し、責任はさらに重くなるだけではなく、形にできても、届かない人たちが存在するなら、届かないことの結果責任を負わなければ、自身の政治に対しても、有権者に対しても謙虚さを欠いた政治家となる。
謙虚さを欠いた最大・最適な例は安倍晋三を措いてほかに存在しない。アベノミクスの経済政策で生活に困窮を来たした階層が存在することの政治の万能性の不完全さには目を向けずに国の成長を示す各経済指標の伸びのみを誇って、自らを優れた政治家の数に置いていた。
また、それ相応に結果を出したとしても、政治が万能ではない理由から結果としての国民向けの政治の恩恵は全ての階層、すべての個人に等しく行き渡らない限界を抱えることになり、行き渡らない対象に対しては別途対処療法となる何らかの政治の手当を施していくことになるが、それさえも万能の役目を果たすわけではないことを自覚しなければならない。
もし政治が万能であるなら、社会のあらゆる不公平はとっくの昔に消滅している。
蓮舫にはこういった自覚がないから、安易に「すべての人々のお役に立ちたい」とか、「すべての人々のために働きます」と持ち合わせてもいない自らの万能性を安易に振り撒くことになる。
蓮舫は2025年6月25日のX でも、「新しい気持ちで。日本で暮らすすべての人たちのために、声をあげさせてください」と説明文で自らの政治の万能性を前面に出し、字幕入りの動画を投稿している。立候補に向けて"立ち上がる"姿勢を象徴付けているのだろう、上半身を勢いよく起こすところを画面に見せてからマイクを握って演説する姿を映し出している。
声を上げよう。その声を残して。
残した声は絶対無視しない。
そういう「れんほう」でいたいと思っています。
みなさんこんにちわ。
れんほうです。
立ち止まって考えて、
私の道は
誰かの声を代弁する
政治家であるということに
答を導き出しました。
それでもう一度国政です。
高額医療費の自己負担をいきなりあげられるって
言われた時の
切り捨てられ感
こんなにみんなが
物価高で困ってるのに
「米は売るほどある」って
言えちゃう人が
大臣だったんだ
選択的夫婦別姓。同性婚。
最も遅れてる。
やっぱり政治に対する憤りとか悔しさとか
立ち上がれるのって
私なんじゃないかって
思ったのが
すごく強かった
お肉屋さんに買い物に行ったときに
ふっと手をつかまれて
「戻ってきなさいよ」って
いわれたりね
そういう声がすごく私の中では
積み重なって
背中を押してくれてます
20年間で日本中を回りました
北海道から沖縄まで
その地域の人たちの顔は
今でも思い出すことができます
やっぱり東京に
一極集中になっている
シニアの人たちとか
ひとりで暮らす選択をした人たち
東京で暮らす不安よりも
重いと思うんです
商店街がなくなっていくし
移動手段もなくなっていくし
病院が閉鎖されていくとか
そうか、日本に暮らす
すべての人たち
すべての人たちの声を
私はあげ続けたいって
すごく切に思ったのが
全国で挑戦をしたいという
私の思いです。
あなたのための政治を
ここから
(キャプション)
あなたのための政治。
立憲民主党 (川面 波がキラキラと眩しい)
政治の万能性約束満載の文章となっている。最初の「声を上げよう。その声を残して。残した声は絶対無視しない」の「その声を残して」は声を残して"欲しい"の意味で言っている「残して」なのだろう。だが、如何なる政治家と言えども、残した声の全てを掬い上げることなどできない。掬い上げたとしても、"政治は結果責任"、全ての声が望むどおりの"結果"まで持っていく万能性は政治にはない。
例えば今回2025年7月参院選挙では各党教育政策で奨学金問題を取り上げている。貸与型奨学金の廃止、給付型奨学金の拡充、貸与型奨学金返済の減免等々を訴えている。
主な理由の一つとして修士号取得者数や博士号取得者の減少、結果としての若手研究者の減少傾向と日本の研究力低下に危機感を抱いているからだろう。
2021年(令和3年)2⽉に⼀般社団法⼈⽇本若者協議会が立憲民主党に対して、「若⼿研究者の課題に関する要望書」を提出している。
冒頭、〈主要先進国が軒並み博⼠号取得者を増やす中、⽇本は2008年度の⼈⼝100万⼈当たり131⼈から減少し、2017年度には119⼈と、アメリカ、ドイツ、韓国の半分以下の⽔準にまで
落ち込んでいる。〉と貧しい現状を訴え、給料や給付型奨学⾦の支給、学費減免、研究費の増額等々の実現努力を要求している。
元々国際的に見て日本の教育費に於ける公的負担の低い水準を出発点とした教育機会の問題点ということになるが、こうったことは今に始まったことではなく、今に始まったことではないこと自体が"政治は結果責任"の約束事を履行できていない何よりの証明となるが、この証明は関係各方面からの国民の声を政治側が「絶対無視しない」という関係性を築くことができているわけではないことを示す。
だが、蓮舫は政治というものが万能ではないことを自覚できずに、「残した声は絶対無視しない」と政治の万能性のみならず、議員にならないうちから、"政治は結果責任"の結果を保証してしまう自己絶対性を前面に押し出すことができる。
だが、一転して矛盾したことを言っていることには気づかない。「私の道は誰かの声を代弁する政治家であるということに答を導き出しました」――
そもそもからして政治家という職業は誰かの声を代弁する役目を負っている。政治家を目指す誰もの道がその役目を負うのであって、蓮舫のみが負うわけでもないのに、何か特別なことをするかのような言い回しと代弁行為を何の障害もなく担うことができるかのような言い回しは鉄則とすべき"政治は結果責任"のルールをどこか鉄則とし切れない甘さを抱えているからだろう。
「残した声は絶対無視しない」は全体に対するその全てを指し、「誰かの声を代弁する」は全体の一部分を指す。精々可能なのは前者ではなく、後者であるが、この相互矛盾に気づかずには前者をも可能としているのは政治家としては致命的な客観的な認識能力の欠如から来ているはずだ。
矛盾を無視するとしても、"政治は結果責任"に結びつけることができるかどうかの成果の実現はやはり別の問題として浮上する。
野党の立場ではなおさら、与党の立場に立ったとしても、全ての国民が利益とすることができる政治の実現を図ることができるわけではない。政治家としての評価が"政治は結果責任"の評価
と相関係していくことへのシビアな気持ちの希薄さが言葉を安易に紡ぎ出す原因となっているに違いない。
蓮舫が"政治は結果責任"意識を欠き、当然、保証する資格がないにも関わらず自らの政治の万能性を自ら保証している極めつけは次の文章である。
「選択的夫婦別姓。同性婚。最も遅れてる。やっぱり政治に対する憤りとか悔しさとか立ち上がれるのって私なんじゃないかって思ったのがすごく強かった」――
「立ち上がれるのって私なんじゃないかって思った」とそれなりの特別な自負を示すには示せるだけの"結果責任"を果たしていることが条件となる。果たしもせずに自負だけ示したのでは、思い上がりとなる。
政治の場で夫婦別姓がいつ頃から言われだしたのかネットで調べたところ、1996年に法制審議会が選択的夫婦別姓制度の導入を盛り込んだ「夫婦別姓を認める民法改正の法律案要綱」を法務大臣に答申。しかしこの改正案は国会に提出されなかったと言う。
この11年前1985年の「女性差別撤廃条約批准」、3年後1999年の「男女共同参画社会基本法」等が刺激になったのか、2011年5月25日に憲法13条違反、憲法24条違反、女性差別撤廃条約違反等を理由に夫婦同氏を強制する民法750条は違憲であるとして、東京地方裁判所に訴状が提出された。
東京地方裁判所は合憲判断を下し、高裁控訴審も合憲、2015年12月16日の最高裁判所大法廷は、夫婦同姓を義務付ける民法750条は憲法24条に違反するとする反対意見があったものの合憲とされ、一方で夫婦別姓制度のあり方は国会の合理的な立法裁量に委ねられるべきとされた。
現在の夫婦同氏制度は憲法違反と訴えた裁判の2021年6月23日最高裁大法廷判決にしても合憲判断を下しながらも、「この種の制度の在り方は、平成27年大法廷判決の指摘するとおり、国会で論ぜられ、判断されるべき事柄にほかならないというべきである」と国会での議論に委ねている。
当然、夫婦別姓を憲法上合憲とする戦いは国会が主戦場と思い定めなければならないのは誰の目にも明らかである。
立憲民主党は2025年4月30日、「民法の一部を改正する法律案」(通称:選択的夫婦別姓法案)を衆院に提出している。しかし野党側が過半数を握っていながら、国民民主党の同種の法案と一本化できず、賛成多数を得ることはできなかった。
衆院を通過したとしても、参議院に回された場合、過半数を自公が握っている状況にあった以上、成立の可能性は低かった。当然、蓮舫は夫婦別姓にしても、同性婚にしても、7月20日投票の参議院選挙で立憲民主党が第一党を確保する形で自公を過半数割れに追い込み、次のステップとして政権交代に持っていくことが合憲を可能とする近道と考えて、全体的な協調作業の必要性に触れるべきを、「立ち上がれるのって私なんじゃないかって思った」と自分一人の力で進めることができるかのような万能性を披露する。
元々、何でも自分は正しいとする自己正当化バイアスの傾向があると見ていたが、自己評価が過剰に高いところは相変わらずである。
大体が、「選択的夫婦別姓。同性婚。最も遅れてる」としている以上、その遅れている状況は選択的夫婦別姓や同性婚の憲法容認に向けた活動に関して蓮舫自身にしても役に立つ程の政治力を示し得ていなかっことの証明、いわば、"政治は結果責任"に関して何ら"結果"を出していなかったことの証明でもあり、にも関わらず、「立ち上がれるのって私なんじゃないかって思った」と自らの政治力を両者を進める拠り所とするのは矛盾そのもので、その矛盾からは自己の政治力に対する根拠のない過信しか見えてこない。
そしてこの根拠のない過信は、「20年間で日本中を回りました 北海道から沖縄まで その地域の人たちの顔は今でも思い出すことができます」の言葉にも現れている。立憲民主党は、「政権交代で『分厚い中間層の復活』を」掲げることで主として中間層の利益を代弁することを党の存在意義としている。
蓮舫は自身が日本中を20年間走り回って、自民党政治に対して中間層の生活に余裕を持たせるどのような政策を迫ることができたのだろうか。あるいは2024年7月7日の都知事選で第3位に沈み、参議院議員の職からは離れていたものの、2024年10月の衆院選で自公与党を過半数割れに追い込むどのような力を発揮できたというのだろうか。
自公過半数割れは旧統一教会問題や政治資金収支報告書不記載の政治とカネに関わる一大スキャンダルが国民の怒りを買った自滅――敵失に過ぎない。「20年間で日本中を回りました」は回ったという事実だけのことであって、これといった見るべき"政治は結果責任"を政治の成果として上げているわけではないから、言葉だけで勇ましいことを言っているに過ぎない。
「やっぱり東京に一極集中になっている」現象、そしてその反動としての地方の過疎、人口減少、このことに付随した商店街の衰退、移動手段の減少、病院の閉鎖は1950年代の高度経済成長期に地方から東京圏への人口移動の急増が端緒の既に久しい問題であり、与野党全体の政治の力不足が加速させてきた現象である以上、一朝一夕には片付かない問題であるのは誰の目にも明らかであろう。
蓮舫にしても問題解決に特段の政治力を発揮できたわけではなく、政治力不足を曝してきた一人であって、当然、"政治は結果責任"を果たしてきていないのだから、その自覚を持つことができずに「そうか、日本に暮らすすべての人たち すべての人たちの声を私はあげ続けたいってすごく切に思ったのが全国で挑戦をしたいという私の思いです」と、自らの政治能力の万能性を言い立てることができる。
この自信過剰は、勿論、解決困難な政治上の諸問題に対して実質的にどれ程の"政治は結果責任"を見せることができたのか、冷静に自らを省みる謙虚さの欠如から来ている。謙虚さを持ち合わせていたなら、自信過剰は影を潜めるはずだし、政治の万能性に安易に取り憑かれることもないはずだ。
だが、蓮舫の言葉に動かされ、その万能感に感動して、一票を投じる有権者が数多くいるに違いない。
蓮舫Xのプロフィールには2025年7月3日時点で次のような自己紹介が記されていた。
「この夏、【全国比例】で挑戦する予定です。日本で暮らすすべての人々のお役に立ちたいです。貴女、貴方の声を代弁する。誰もがその生き方を尊重されるために。他人の夢を笑わない社会を創りたいと強く思っています。趣味は登山、好物は激辛。宝物は双子と猫の美、麗くんと日本スピッツうるるくん」――
7月7日は「日本で暮らすすべての人々のために働きます」とより確信的な誓約へと言葉を変えている。厳密に言うと、蓮舫は「すべての人々」の役に立つことができる、あるいは「すべての人々」のために働くことができる程に万能の政治能力を備えた政治家と言うことになるが、そんな政治家など存在しない。
当然、「すべての人々のお役に立ちたい」は自らの政治能力の万能性の訴え、あるいは誇示となるから、「すべての人々のために働きます」は自らの政治能力の万能性をより強めた断言ということになる。
「すべての人々」を対象にしている以上、喩えて言うと、同性婚や夫婦別姓賛成派のためにも、反対派のためにも両方に役に立つことができる、あるいは両方のために働くことができると宣言していることになって、蓮舫がどう逆立ちしても、本人に限って万能な政治能力を備えているスーパーウーマンというわけにはいかないにも関わらず不可能を可能とすることができるような政治能力の万能性を誇示するという矛盾を曝け出していることになる。
政治は全ての集団、すべての団体、全ての階層、あるいは全ての個人の利益を等しく代弁できる程に万能ではないし、完璧性を備えているわけではない。
例えば第2次安倍政権は2012年12月26日から2020年9月16日まで7年8か月に亘って長期政権を築いたが、日銀と一体となった円安・株高政策は大企業の史上最高益年々の更新に最大限貢献した一方で、中低所得層は円安を受けた生活関連物資の高騰に賃金が追いつかずに苦しい生活を強いられることになった。この状況は政治が自らの万能性を大きく欠いていることに連動することになる政治の恩恵そのものの大きな偏りの反映以外の何ものでもない。
だが、蓮舫は万能な政治など存在しないという自覚が持てずに、万能であるかのような言説を振り撒いている。そしてこういった政治家が意外と多い。
第一生命経済研究所の《実質賃金低迷の主因は低労働生産性の誤解》(2024.11.25)なる記事に、〈2007年を100とした1人当りの日米欧比較の実質賃金は2023年時点で米国が2007年対比で+16.8%、ユーロ圏が同+3.1%増加しているのに対し、日本は同▲4.2%減少している。〉といった趣旨の一文が載っているが、野党は第2安倍政権下で政治は万能ではないことの宿命を目の当たりにしてきたはずだし、野党側にしても、それを正すための政権交代に無力であった自らの政治の万能性の欠如を抱えていたはずだが、蓮舫はそのことの自覚を持てずに、「日本で暮らすすべての人々のお役に立ちたいです」、あるいは「すべての人々のために働きます」と自らの政治の万能性を安請け合いしている。
蓮舫は自分を相当に優秀な政治家だと思い込んでいるはずだ。思い込んでいなければ、これ程までに自らの政治能力の万能性を振り撒くことはできない。
蓮舫はここに来て自民党の政治資金収支報告書不記載という派閥ぐるみの一大政治スキャンダルの敵失が影響して2024年衆院選で自公過半数割れが実現、スキャンダルの尾を引いた石破内閣の超低支持率によって2025年参院選で同じく過半数割れに追い込める予想可能性の高さから政権交代が視野に入り、指をくわえて眺めているわけにはいかず、閣僚での活躍の機会到達を計算した参院選立候補ということかもしれない。
そのためにも自分の政治能力の高さを宣伝しなければならない。
だが、自分が政治に関してオールマイティであるかのように自らの政治能力の万能性を訴えるのは行き過ぎている。
例え政権交代が実現したとしても、自らの政治能力の万能性を安請け合いする政治家であることに変わりはない。無数の利害が限られたパイを奪い合うことになるのである。勢いパイの配分によって、あるいはパイのお裾分けに預かることがでるかできないによって満足・不満足の差が生じて、政治の万能性は限りなく影を潜めることになる。
蓮舫が吹聴する政治の万能性を言葉どおりに受け止めたものの政治の現実を見せつけられて、失望する有権者が数多く出てくるに違いない。
もし蓮舫が如何なる政治も万能ではないことの指摘を受けて、「日本で暮らすすべての人々のお役に立ちたい強い思いで」、あるいは「すべての人々のために働きたい強い思いで」「政治を行っていますが、思いを形にできないこともありますし、形にできたとしても、その思いがすべての人に届かない場合もあります」と言い逃れたとしたら、それこそ"政治は結果責任"の自覚を欠いている何よりの証明となるだろう。
"政治は結果責任"の意味は、断るまでもなく、結果を十二分に計算し尽くして政治を行い、結果を出せなければ責任を負うというもので、思いを形にできなければ、結果を出すまでに至っていないことを示し、責任はさらに重くなるだけではなく、形にできても、届かない人たちが存在するなら、届かないことの結果責任を負わなければ、自身の政治に対しても、有権者に対しても謙虚さを欠いた政治家となる。
謙虚さを欠いた最大・最適な例は安倍晋三を措いてほかに存在しない。アベノミクスの経済政策で生活に困窮を来たした階層が存在することの政治の万能性の不完全さには目を向けずに国の成長を示す各経済指標の伸びのみを誇って、自らを優れた政治家の数に置いていた。
また、それ相応に結果を出したとしても、政治が万能ではない理由から結果としての国民向けの政治の恩恵は全ての階層、すべての個人に等しく行き渡らない限界を抱えることになり、行き渡らない対象に対しては別途対処療法となる何らかの政治の手当を施していくことになるが、それさえも万能の役目を果たすわけではないことを自覚しなければならない。
もし政治が万能であるなら、社会のあらゆる不公平はとっくの昔に消滅している。
蓮舫にはこういった自覚がないから、安易に「すべての人々のお役に立ちたい」とか、「すべての人々のために働きます」と持ち合わせてもいない自らの万能性を安易に振り撒くことになる。
蓮舫は2025年6月25日のX でも、「新しい気持ちで。日本で暮らすすべての人たちのために、声をあげさせてください」と説明文で自らの政治の万能性を前面に出し、字幕入りの動画を投稿している。立候補に向けて"立ち上がる"姿勢を象徴付けているのだろう、上半身を勢いよく起こすところを画面に見せてからマイクを握って演説する姿を映し出している。
声を上げよう。その声を残して。
残した声は絶対無視しない。
そういう「れんほう」でいたいと思っています。
みなさんこんにちわ。
れんほうです。
立ち止まって考えて、
私の道は
誰かの声を代弁する
政治家であるということに
答を導き出しました。
それでもう一度国政です。
高額医療費の自己負担をいきなりあげられるって
言われた時の
切り捨てられ感
こんなにみんなが
物価高で困ってるのに
「米は売るほどある」って
言えちゃう人が
大臣だったんだ
選択的夫婦別姓。同性婚。
最も遅れてる。
やっぱり政治に対する憤りとか悔しさとか
立ち上がれるのって
私なんじゃないかって
思ったのが
すごく強かった
お肉屋さんに買い物に行ったときに
ふっと手をつかまれて
「戻ってきなさいよ」って
いわれたりね
そういう声がすごく私の中では
積み重なって
背中を押してくれてます
20年間で日本中を回りました
北海道から沖縄まで
その地域の人たちの顔は
今でも思い出すことができます
やっぱり東京に
一極集中になっている
シニアの人たちとか
ひとりで暮らす選択をした人たち
東京で暮らす不安よりも
重いと思うんです
商店街がなくなっていくし
移動手段もなくなっていくし
病院が閉鎖されていくとか
そうか、日本に暮らす
すべての人たち
すべての人たちの声を
私はあげ続けたいって
すごく切に思ったのが
全国で挑戦をしたいという
私の思いです。
あなたのための政治を
ここから
(キャプション)
あなたのための政治。
立憲民主党 (川面 波がキラキラと眩しい)
政治の万能性約束満載の文章となっている。最初の「声を上げよう。その声を残して。残した声は絶対無視しない」の「その声を残して」は声を残して"欲しい"の意味で言っている「残して」なのだろう。だが、如何なる政治家と言えども、残した声の全てを掬い上げることなどできない。掬い上げたとしても、"政治は結果責任"、全ての声が望むどおりの"結果"まで持っていく万能性は政治にはない。
例えば今回2025年7月参院選挙では各党教育政策で奨学金問題を取り上げている。貸与型奨学金の廃止、給付型奨学金の拡充、貸与型奨学金返済の減免等々を訴えている。
主な理由の一つとして修士号取得者数や博士号取得者の減少、結果としての若手研究者の減少傾向と日本の研究力低下に危機感を抱いているからだろう。
2021年(令和3年)2⽉に⼀般社団法⼈⽇本若者協議会が立憲民主党に対して、「若⼿研究者の課題に関する要望書」を提出している。
冒頭、〈主要先進国が軒並み博⼠号取得者を増やす中、⽇本は2008年度の⼈⼝100万⼈当たり131⼈から減少し、2017年度には119⼈と、アメリカ、ドイツ、韓国の半分以下の⽔準にまで
落ち込んでいる。〉と貧しい現状を訴え、給料や給付型奨学⾦の支給、学費減免、研究費の増額等々の実現努力を要求している。
元々国際的に見て日本の教育費に於ける公的負担の低い水準を出発点とした教育機会の問題点ということになるが、こうったことは今に始まったことではなく、今に始まったことではないこと自体が"政治は結果責任"の約束事を履行できていない何よりの証明となるが、この証明は関係各方面からの国民の声を政治側が「絶対無視しない」という関係性を築くことができているわけではないことを示す。
だが、蓮舫は政治というものが万能ではないことを自覚できずに、「残した声は絶対無視しない」と政治の万能性のみならず、議員にならないうちから、"政治は結果責任"の結果を保証してしまう自己絶対性を前面に押し出すことができる。
だが、一転して矛盾したことを言っていることには気づかない。「私の道は誰かの声を代弁する政治家であるということに答を導き出しました」――
そもそもからして政治家という職業は誰かの声を代弁する役目を負っている。政治家を目指す誰もの道がその役目を負うのであって、蓮舫のみが負うわけでもないのに、何か特別なことをするかのような言い回しと代弁行為を何の障害もなく担うことができるかのような言い回しは鉄則とすべき"政治は結果責任"のルールをどこか鉄則とし切れない甘さを抱えているからだろう。
「残した声は絶対無視しない」は全体に対するその全てを指し、「誰かの声を代弁する」は全体の一部分を指す。精々可能なのは前者ではなく、後者であるが、この相互矛盾に気づかずには前者をも可能としているのは政治家としては致命的な客観的な認識能力の欠如から来ているはずだ。
矛盾を無視するとしても、"政治は結果責任"に結びつけることができるかどうかの成果の実現はやはり別の問題として浮上する。
野党の立場ではなおさら、与党の立場に立ったとしても、全ての国民が利益とすることができる政治の実現を図ることができるわけではない。政治家としての評価が"政治は結果責任"の評価
と相関係していくことへのシビアな気持ちの希薄さが言葉を安易に紡ぎ出す原因となっているに違いない。
蓮舫が"政治は結果責任"意識を欠き、当然、保証する資格がないにも関わらず自らの政治の万能性を自ら保証している極めつけは次の文章である。
「選択的夫婦別姓。同性婚。最も遅れてる。やっぱり政治に対する憤りとか悔しさとか立ち上がれるのって私なんじゃないかって思ったのがすごく強かった」――
「立ち上がれるのって私なんじゃないかって思った」とそれなりの特別な自負を示すには示せるだけの"結果責任"を果たしていることが条件となる。果たしもせずに自負だけ示したのでは、思い上がりとなる。
政治の場で夫婦別姓がいつ頃から言われだしたのかネットで調べたところ、1996年に法制審議会が選択的夫婦別姓制度の導入を盛り込んだ「夫婦別姓を認める民法改正の法律案要綱」を法務大臣に答申。しかしこの改正案は国会に提出されなかったと言う。
この11年前1985年の「女性差別撤廃条約批准」、3年後1999年の「男女共同参画社会基本法」等が刺激になったのか、2011年5月25日に憲法13条違反、憲法24条違反、女性差別撤廃条約違反等を理由に夫婦同氏を強制する民法750条は違憲であるとして、東京地方裁判所に訴状が提出された。
東京地方裁判所は合憲判断を下し、高裁控訴審も合憲、2015年12月16日の最高裁判所大法廷は、夫婦同姓を義務付ける民法750条は憲法24条に違反するとする反対意見があったものの合憲とされ、一方で夫婦別姓制度のあり方は国会の合理的な立法裁量に委ねられるべきとされた。
現在の夫婦同氏制度は憲法違反と訴えた裁判の2021年6月23日最高裁大法廷判決にしても合憲判断を下しながらも、「この種の制度の在り方は、平成27年大法廷判決の指摘するとおり、国会で論ぜられ、判断されるべき事柄にほかならないというべきである」と国会での議論に委ねている。
当然、夫婦別姓を憲法上合憲とする戦いは国会が主戦場と思い定めなければならないのは誰の目にも明らかである。
立憲民主党は2025年4月30日、「民法の一部を改正する法律案」(通称:選択的夫婦別姓法案)を衆院に提出している。しかし野党側が過半数を握っていながら、国民民主党の同種の法案と一本化できず、賛成多数を得ることはできなかった。
衆院を通過したとしても、参議院に回された場合、過半数を自公が握っている状況にあった以上、成立の可能性は低かった。当然、蓮舫は夫婦別姓にしても、同性婚にしても、7月20日投票の参議院選挙で立憲民主党が第一党を確保する形で自公を過半数割れに追い込み、次のステップとして政権交代に持っていくことが合憲を可能とする近道と考えて、全体的な協調作業の必要性に触れるべきを、「立ち上がれるのって私なんじゃないかって思った」と自分一人の力で進めることができるかのような万能性を披露する。
元々、何でも自分は正しいとする自己正当化バイアスの傾向があると見ていたが、自己評価が過剰に高いところは相変わらずである。
大体が、「選択的夫婦別姓。同性婚。最も遅れてる」としている以上、その遅れている状況は選択的夫婦別姓や同性婚の憲法容認に向けた活動に関して蓮舫自身にしても役に立つ程の政治力を示し得ていなかっことの証明、いわば、"政治は結果責任"に関して何ら"結果"を出していなかったことの証明でもあり、にも関わらず、「立ち上がれるのって私なんじゃないかって思った」と自らの政治力を両者を進める拠り所とするのは矛盾そのもので、その矛盾からは自己の政治力に対する根拠のない過信しか見えてこない。
そしてこの根拠のない過信は、「20年間で日本中を回りました 北海道から沖縄まで その地域の人たちの顔は今でも思い出すことができます」の言葉にも現れている。立憲民主党は、「政権交代で『分厚い中間層の復活』を」掲げることで主として中間層の利益を代弁することを党の存在意義としている。
蓮舫は自身が日本中を20年間走り回って、自民党政治に対して中間層の生活に余裕を持たせるどのような政策を迫ることができたのだろうか。あるいは2024年7月7日の都知事選で第3位に沈み、参議院議員の職からは離れていたものの、2024年10月の衆院選で自公与党を過半数割れに追い込むどのような力を発揮できたというのだろうか。
自公過半数割れは旧統一教会問題や政治資金収支報告書不記載の政治とカネに関わる一大スキャンダルが国民の怒りを買った自滅――敵失に過ぎない。「20年間で日本中を回りました」は回ったという事実だけのことであって、これといった見るべき"政治は結果責任"を政治の成果として上げているわけではないから、言葉だけで勇ましいことを言っているに過ぎない。
「やっぱり東京に一極集中になっている」現象、そしてその反動としての地方の過疎、人口減少、このことに付随した商店街の衰退、移動手段の減少、病院の閉鎖は1950年代の高度経済成長期に地方から東京圏への人口移動の急増が端緒の既に久しい問題であり、与野党全体の政治の力不足が加速させてきた現象である以上、一朝一夕には片付かない問題であるのは誰の目にも明らかであろう。
蓮舫にしても問題解決に特段の政治力を発揮できたわけではなく、政治力不足を曝してきた一人であって、当然、"政治は結果責任"を果たしてきていないのだから、その自覚を持つことができずに「そうか、日本に暮らすすべての人たち すべての人たちの声を私はあげ続けたいってすごく切に思ったのが全国で挑戦をしたいという私の思いです」と、自らの政治能力の万能性を言い立てることができる。
この自信過剰は、勿論、解決困難な政治上の諸問題に対して実質的にどれ程の"政治は結果責任"を見せることができたのか、冷静に自らを省みる謙虚さの欠如から来ている。謙虚さを持ち合わせていたなら、自信過剰は影を潜めるはずだし、政治の万能性に安易に取り憑かれることもないはずだ。
だが、蓮舫の言葉に動かされ、その万能感に感動して、一票を投じる有権者が数多くいるに違いない。