金属バット祖父殺人/加害者は祖父なのか、高校生なのか
暴力団組員1人に銃1丁時代だと言う。以前は幹部クラスが持ち、出入りや鉄砲玉を仕立てる必要が生じたとき手下に貸し渡す慣習となっていたから、限られた数で収まっていたのだろう。
銃1丁時代は海外旅行やインターネットを通して簡単に手に入ることも原因しているのだろうが、組長や幹部と下の者との従来の上下関係に微妙な変化が起きていることから生じている現象でもあろう。組長や組幹部の側にとっては自らの命令・指示は自己利益となるし便利だし、何よりも上の地位の証明でもあるから、永遠の絶対性と下の者の無条件の服従を確保したいだろうが、下の側にとっては時代的な権利意識の発達を受けて絶対的服従要件とするには権利意識との関係で居心地が悪く、受け入れ難くなっていることから、対等な関係に持っていく備えとしての意味を持たせた銃1丁という状況ではないだろうか。
このことは上の者の厳しい命令・指示が耐え難さの一線を越えたとき、耐え難さの反発を銃を使用して上の者の命を奪うことでその命令・指示を抹消してしまう、命令・指示とそれに対する無条件の服従という従来の上下関係には殆ど組み込まれていなかった最近よく見られる銃が可能としている力関係の逆転が証明している。
≪立てこもり前射殺で再逮捕=元組幹部「我慢ならなかった」-神奈川≫ (2007年7月30日(月)12:39 [時事通信社]
<東京都町田市の都営アパートで起きた立てこもり発砲事件の直前に、神奈川県相模原市で指定暴力団極東会系金原組の横山円組員(37)を射殺したとして、県警暴力団対策課などは30日、殺人容疑で、同組元幹部竹下祐司容疑者(36)=殺人未遂罪などで起訴=を再逮捕した。
同容疑者は「間違いない。ひどい扱いを受け、我慢ならなかった」と供述している。
調べによると、竹下容疑者は4月20日午前11時半ごろ、相模原市上鶴間本町のコンビニ駐車場で、横山組員の頭部と背中に拳銃2発を発射し、射殺した疑い。
同課などは、竹下容疑者と横山組員との間に上納金をめぐるトラブルがあったとみている。
竹下容疑者は4月20日午後、東京都町田市の都営アパート1階の自宅から、警視庁町田署地域課の巡査長ら4人を殺害しようと発砲。パトカーの窓ガラスなどを破損させ、拳銃2丁と実弾を自宅に隠し持っていたとして、今月20日に起訴されていた。>
上の者の命令・指示を絶対とした下の者への無条件の服従要求は下の者の権利を介在させない関係によって成り立ち可能となる。権利を認めないことは相手の人格をも認めていないことを意味する。当然、そのような関係に対する下からの反動はある意味下の者の権利行為であり、人格発現行為と言える。例え暴力団社会のルールに反していてもである。
上の者は一旦手にした従来のルールに則って常に自らの命令・指示を絶対とする方向に力を注ぐ。そのような従来の上下関係の画然性を埋め合わせる下からの権利行為の発現に銃を手に入れることによって、銃を代弁者とすべくその備えとする。いわば銃を上の者の命令・指示の絶対性に対抗する唯一の手段とする。
当然上の者も下の者のそのような備えに自らも備えるべく、銃が1人1丁へと向かったということではないだろうか。
上の者の命令・指示の絶対性はそこに下の者の権利・人格を認めないことによって成立可能となるが、同時に上下の議論の不在がそのことの要件となる。議論は自己主張を構成要素とするから、そこに議論を介在させたとき、自己主張が生じ、自ずと声を出す者の権利・人格を表出させることとなって、命令・指示の絶対性を揺るがすことになるからである。問答無用(=議論不在)こそを命令・指示の絶対性確保の絶対条件としなければならない。戦前の天皇・軍部の国民に対するようにである。
また、上の者の命令・指示に不満を持ち、その絶対性を破ろうとして銃を発射して命令・指示そのものだけではなく、それを超えて命令・指示を発した上の者の存在そのものを自らが力としている銃によって抹殺する行為も問答無用(=議論不在)のものである。
上の者の下の者の権利・人格を認めないそもそもからの議論の不在が下の者の上の者に対する銃による抹殺というの権利・人格を認めない議論の不在を再生産させる契機となっていると言える。
山口県で孫の高校生が「勉強しろ」とうるさかった祖父を金属バットで殴り殺す事件(07.8.19)が起きた。果たして殺された祖父の孫の高校生に対する「勉強しろ」が絶対命令・絶対指示と化していなかっただろうか。祖父は自らの「勉強しろ」の命令・指示を絶対として、孫に勉強することを絶対服従行為として要求していなかっただろうか。そして孫の高校生の祖父のそのような絶対命令・絶対指示を抹消する手段が暴力団の下の者が銃を力とするように金属バッドを力とし、金属バッドを振るうことで命令・指示に対抗しようとして祖父を殺すこととなった一連の顛末ということではなかっただろうか。
高校生は逮捕状を見せられたとき、「分かりました。おじいちゃんは死んだんですね」と言っていたというから、祖父への殺意よりも命令・指示への対抗心の方が強かったのではないだろうか。命令・指示をやめさせることが殺すことに否応もなしにつながった――。
両者の関係がそのようなものであったとしたら、当然そこには勉強することについての双方の議論は存在しなかったことになり、議論の不在は孫の高校生の自己主張を封じていたことを意味する。自己主張の封殺は祖父の意志が孫の高校生の権利・人格を認めない性格のものであったことを証明する。
「勉強しろ」
「するしないは俺の勝手だろ」
「お前の将来を思って言ってるんだ」
「うざったいんだよ」等々は断るまでもなく。議論の内に入らない。
祖父は孫の高校生との議論を介在させないことによって自らの命令・指示の絶対性を可能とした。そして孫の高校生も、祖父の議論の無視を受けて、自らも議論を経ずに祖父の存在そのものを抹殺してしまう命令・指示の抹消を超えた行為に走ってしまった。
物理的殺人行為に関しては孫の高校生が確かに加害者に位置しているだろうが、権利・人格を認めない精神行為に於いて、祖父は加害者に位置していると言えるのではないだろうか。下の者の権利・人格を認める自己主張を構成要素とした議論を無視し、介在させないことによって上の者の命令・指示は絶対性を確保し、それに対する下の者の服従を生じせしめる。両者間の議論の不在がすべての契機となる。あったのは上の者の下の者に対する支配の意志のみで、そのような人間関係が招いた犯罪ではなかったろうか。
事実は異なるかもしれない。だが、そうではないかと考えた人間関係は学校社会に於いてもよく見かける光景となっていないだろうか。授業の場が暗記を主体としたテストの解答技術を授受する意思伝達が支配しているのみで、そこに教師対生徒が相互に自己を主張する議論の習慣がなく、それが通常の人間関係となっている。
人間は議論を通した自己主張の衝突から、対人関係を学ぶ。自他の権利にどう折り合いをつけたら対人関係をうまく維持できるかを学ぶ。それがないから、従うか、上に立つかに偏る。
学校に於いては教師が上に立ち、生徒が下にいて上の教師に従う関係ができている。そのことが教師の教えに生徒が従うだけの暗記教育を可能としているのだが、議論の習慣の不在が教師と生徒を上下に位置するだけの関係に押し込めて、生徒をして議論を通して自己主張し、自己の権利を訴え、対人位置を計ることを学ぶ機会を与えないこととなり、戦後の個人の権利の時代の権利だけは教えられて、それを正当に主張する術を知らない歪んだ人間をつくることとなっている。
授業中の教師の注意を無視した席立ちや私語、あるいは教室からの退出、さらには教師に対する暴力等の問題行動は、テスト教育に馴染めない生徒の議論を通じて訴えることができない、あるいはノーと言えない代理的な自己権利行為としてある自己主張であろう。
なぜなら、それらの問題行動の殆どが生徒の側からの議論を不在として成り立たせている行動だからである。そしてそれは教師の側からの議論の不在を受けた生徒の側の議論の不在であろう。
命令・指示する側にとって命令・指示を無条件に服従させるためには議論の不在は便利であるが、それを受ける側に不当の意識を与えたとき、議論の不在は歪んだ反動を与えることになる。議論の不在が相手の自己主張を抑圧し、自己権利を認めないものだからなのはこれまで言ってきたとおりである。