すべて任せてよし。信じる者は救われる。 次に同じ国家主義者のべったり犬・麻生が控えていることでもあるし。
今朝8月14日のNHKニュースで内閣改造人事について安倍首相は「まだ人事は白紙の段階で、よく熟慮して決めていきたい。わたし一人で決めないといけない」と話していた。
人事をあれこれ言うとき以外は殆どテレビに映らないからあれこれ言いたがる、それしか能のない、夏向けに暑苦しく太った森「日本は神の国」元首相から福田康夫元官房長官や谷垣前財務相の名前を挙げて挙党態勢でいくべきだとご教示預かったことに関しても、安倍首相は「いろいろな方がそれぞれの見識に基づいて話をされている。わたし自身、熟慮して断行する」。「安倍カラー」重視か「挙党態勢」重視かの質問には、「まだ白紙」と答えているが、「わたし一人で決めないといけない」と言っていることと「わたし自身、熟慮して断行する」と言っていることからすると、「安倍カラー」重視だろうと「挙党態勢」重視だろうと、自分のリーダーシップで決めていくということなのだろう。
問題はそのリーダシップである。いくら自分のリーダーシップで決めたいと思っていても、本人が思っている程にリーダーシップがなければ、満足な内閣人事は望みようがなくなる。
その点、政治とカネの問題も年金の記録の問題も天下りや談合の問題も「私の内閣で解決します」と固い約束を国民と交すことができる程に自らのリーダーシップに揺るぎのない自信を見せているのである。リーダーシップはあまりある程に内心に漲っているに違いない。
安倍第1次内閣人事に於いてもそのリーダーシップは発揮された。他の誰もが備えていない安倍首相独自のリーダーシップこそが事務所費疑惑の佐田前行革相や同じく事務所費疑惑の松岡自殺元農水相や同じく事務所費疑惑の赤城前農水相といった適材適所を生み出し、「女性は産む機械」問題発言の柳沢厚労相や女性と官舎住まいの本間前政府税制調査会長や「原爆投下しょうがない発言」の久間前防衛相等々を優秀な人材と見なすに至ったのだろう。中川秀直幹事長や中川昭一政調会長、公明党の冬芝だ北側だといった胡散臭さばかり、いかがわしさばかりが臭う面々を周囲に集めることになったのだろう。
稀有なリーダーシップによる鉄壁のメンバーであった。「私の内閣で解決する」はそういった有能なメンバーを自らのリーダーシップで使いこなし、諸問題を解決して正常な状態に持っていくということを意味する。人事決定も問題解決もすべて安倍首相のリーダーシップを必要条件とする原則を打ち立てたのである。そういったリーダーシップがエネルギーとなって、「わたし一人で決めないといけない」へと向かった。安倍首相自身からしたら、極く自然な勢いの落着き場所であったろう。
ところが安倍晋三には首相としてのリーダーシップに欠けると見て、参院選では民主党に投票した不見識な有権者がいた。この倒錯的逆説は何を意味するのだろう。国民に見る目がないとしか言いようがない。第2次安倍内閣人事で安倍晋三の稀有なリーダーシップは証明され、名誉回復を見るに違いない。
7月29日の参院選投票日当日の大勢がほぼ明らかになった夕方に安倍首相は次期首相になりたくてうずうずしている麻生外相と会談している。続投の話は交したのは明らかで、専ら次期幹事長は麻生と噂されているところをみると、安倍晋三は続投支持を交換条件に次期首相のエサで釣ったのではないか。その確約のお印として自民党幹事長職を約束した?――。自民党幹事長は自民党総裁に次ぐ実力者、ナンバー2が占める地位であり、総理・総裁への最短距離の場所提供を意味する。
麻生は小派閥の領袖に過ぎないから、党を纏めきれないのではないかとの危惧の声があるとのことだが、安倍出身派閥である町村派は自民党最大派閥である。その援護を受け、幹事長職を失言を用心してそつなくこなし、援護を維持して次の総理・総裁にありつく。続投支持という芸を見せて、その後褒美に菓子にありつく犬のように。
尤もこれはひとつのカケだろう。安倍がコケたら、麻生もコケる可能性が生じるからだ。
一部報道によると、安倍首相は評論家のあの厭味な桜井よしこに入閣を誘ったが、断られたと言う。従軍慰安婦軍強制性否定の強力な援軍となっただろうに、残念である。「単一民族発言」の麻生プラス桜井よしこで安倍国家主義を両脇から固め、「戦前レジーム」体制で塗り固めた鉄壁の陣容をなすことができただろうに、なぜ安部強いリーダーシップは桜井よしこには通じなかったのだろう。世界7不思議の一つになるのではないか。
桜井よしこは自分が引き受けたなら、戦前色が勝ち過ぎてしまい、まずいことにならないかと懸念して遠慮したのだろうか。それとも安倍首相が自らのウリとしているリーダーシップは自分の能力を実際以上に見せようとする自己顕示から生じている見せ掛けのリーダシップに過ぎないということなのだろうか。
俺にはリーダーシップがある、俺にはリーダーシップがあると四六時中自分に言い聞かせてあると思い込ませたリーダーシップに過ぎないとでも言うのだろうか。そうだとすると、「私の内閣が、私の内閣が」はリーダーシップの過剰なまでの安売りに過ぎなかったこととなり、「私が一人で決めないといけない」はリーダーシップの安請け合いとなってしまう。
そんなことはあってはならない。戦前型の「規律ある、凛とした美しい日本」を作り上げようとしているリーダーシップである。時間を時代錯誤の方向に遡ろうとするそのエネルギーを見ただけでも凄い話ではないか。教育勅語や特攻隊員もどきの「お国のために生命を投げ打つ」ことに郷愁を感じ、そのような郷愁を戦後活動の主たるエネルギーとしているリーダーシップである。
すべて新しい「私の内閣」に格差・貧困の問題、地方の崩壊といった諸問題の解決を任せ、「私一人で決めないといけない」強力・強靭な国家主義色に染まったリーダーシップに期待しようではないか。