靖国参拝は政治家たちが国家を体現する数少ない機会

2007-08-16 05:30:57 | Weblog

 昨8月15日のNHKニュース。

 唯一安倍内閣で参拝した高市早苗「尊い命を国家のために捧げられた方々に対して感謝の想いと、それからご遺族の方々がご健康でお幸せでありますようにと、そういう祈りを捧げて参りました」

 安倍首相「国のために戦い、倒れられた方々に対する、尊崇の念・想いは持ち続けていかなければならないと。参拝しなかった、するしない、外交問題なっている以上、そのことを申し上げる考えはございません。」
 記者「そういうことは、あの、総理でいらっしゃる間はずっと同じ姿勢を貫かれるのですか」
 安倍「そう考えております」
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 普段は陰で口利きだ、地位漁りだ、利益誘導だ、自己宣伝だ、売名だと薄汚い行為に終始している。その都度カネを力としないわけにはいかず、汚いカネの使い方をしている。仲間内の集まりで立派な身なりと立派な立居振舞いでさも立派な人間であるかのように装っても、ウラでどんな姿をしているかお互いに知ってもいるし、知られてもいるから、サマにもならないし、個人的行為から出るものではないし満足感も湧かない。しかも国民を相手に見せる姿というわけではない。

 ところが靖国神社参拝となると、「国のために戦い、尊い命を国に捧げた」と国家を持ち出し、国への奉仕を持ち出すことで、自身も普段体現する機会が殆どない国家を体現できる。国家を体現することで、さも自分も同じような立派な精神の持主だと錯覚できる。「規律ある凛とした美しい」人間だと国民に見せかけることのできる数少ない機会とすることができる。その効用からの参拝ではないのか。薄汚い自己利益からのみ行動する人間ほど、愛国心を声高に叫ぶようにである。

 実際には兵士たちの殆どの戦死は「尊い命を国家のために捧げ」たといった美しく勇壮なものではなかっただろう。戦う時間よりも退却の時間、あるいは陣地にこもって敵の襲撃をなす術もなく耐える時間の方が長かった者も多くいたに違いない。飢えと苦しみ、ときには戦死した兵士の肉を食い、飢えを凌ぎ、それでも餓死していったといった〝命の捧げ〟を取らされた兵士もいただろう。

 軍を維持するために、手がまわらないからと保護すべき民間人の生命・財産を保護せずに打ち捨て状態とする。硫黄島、その他の戦闘では国から見捨てられた戦死もあったということは、日本国家自身が兵士の命を「尊い命」扱いをしない裏切り行為を働いてたということで、そういった事実・実態を棚に上げて、戦死したあとの兵士の命すべてを参拝の場では一律に「尊い命」視する矛盾。事実的な扱いとは異なる「尊崇の念・想い」を示し、現実にもそのように扱ったかのように見せかける矛盾。このような矛盾は国家による国民に対する二重三重の裏切り行為を示すものだろう。

 戦前の日本国家が日本国民の命に「尊崇の念・想い」を持っていたなら、殆ど訓練を施さない素人同然の兵士を戦場に送り込むといったことはできもしなかったはずである。しかも戦闘が開始する前から捨石(=見殺し)にすると決めていた。「尊崇の念・想い」を持っていなかったからこそできた、いわば国民の命など何とも思っていなかったからこそできた送り込みであったはずである。

 あるいは過去に於いて「尊い生命」扱いしてこなかったから、「尊崇の念・想い」など国民の命に感じていなかったからこそ、今になって「尊い生命」扱いする必要、「尊崇の念・想い」を示す必要に迫られて「尊い生命」扱いを一生懸命にこなし、「尊崇の念・想い」を一生懸命にアピールして、それが過去から現在にまで連続している国家による国民の命に対する扱いであるかのように見せかけようとしているのかもしれない。

 日本がそのような国家でないとしたら、自己民族を優越民族視している国家主義者たちにとって耐えられないことになるからだろう。

 いずれにしても参拝して体現する国家とは国民を国家に向けて命を捧げさせる対象と見なし、そういった国民との関係を持った国家のようである。ここから安倍国家主義者の「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません」という国家優先の思想が生まれることになるのだろう。

 国民の命は国家に捧げることによって「尊い命」に置き換えられる。靖国神社はそういった関係を提示する場となっている。

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