イジメ未然防止目的のロールプレイ――厭なことは「やめて欲しい」で始まるイジメ態様に応じた参考例をいくつか創作してみた

2023-01-15 10:45:25 | 教育

 2022/12/9更新の「ブログ」(2)でアドリブを用いたロールプレイの参考例をいくつかを例示したが、改めて目的や効果、方法等を纏めた上で例示した参考例を再度記載し、さらにイジメ態様に応じた新たな参考例をいくつか創作してみた。イジメの未然防止に少しは役立てばいいが、どんなものか。

 再度触れるが、イジメは怒り、憎しみ、恨み、嫉み、嘲り(面白がって笑う)、間違った優越感の誇示(その裏返しとしての蔑み)等々の負の感情の発露によって引き起こされる。当然、その未然防止はイジメ側の児童・生徒の負の感情のコントロールに負う。小中学校のイジメの未然防止を目的の一つとしたロールプレイング、略してロールプレイにしても、負の感情のコントロールに主眼を置いているはずで、この線に添ったイジメの様々な態様に応じた場面を設定してアドリブ(即興劇)で演じさせるロールプレイの参考例ということになる。

 アドリブ・ロールプレイのルールは次のとおり。

 1.現実に起きているイジメにどういった種類があるのか、生徒それぞれの知識となっていると思うが、その態様や特質、原因・背景等々を改めて復習させておく。既知の知識・情報についての記憶を新たにさせるためと未知の知識・情報を新たに記憶させるために。

 2.アドリブとする目的は相手との関係に応じて相互に希望通りの言葉を的確・率直に作り出す会話思考能力とその言葉を思い通りに相互に伝え合う会話伝達能力を養い、両能力の取得によって険悪な人間関係にあっても、言葉を用いた秩序だったコミュニケーションを生み出すことのできる訓練の一つとするためである。

 3.イジメのシチュエーションと大まかな展開は学校側が指示し、導入部はイジメ被害者がイジメ加害者に対して「イジメはやめてくれ」と断る場面から入ることを決まりとする。目的は上記訓練の必要不可欠な実践例の一つとするためでもあるが、何よりも大切なことは嫌なことをされたときには断ることのできる会話を習慣とすることが当たり前のことだと児童・生徒全員に認識させることにある。ロールプレイの登場人物も観客もイジメを断る場面を当然の光景として頭に記憶するようになれば、断らないことの方が生理的にも不自然な態度と認識することになる。イジメ加害者に対しても同じ感覚に持っていくようにする。

 さらにイジメ側が単にからかっているだけだ、懲らしめるためにやっているだけと思ってしている行為であっても、相手が嫌な思いがすると伝えた場合、少なくとも相手の言葉の正当性を考えざるを得なくなって、自分の行為に対しての無考えな容認(頭から間違ってはいないとする思い込み)は許されなくなる。

 4.現実のイジメで一方の断りに対して相対するもう一方が断られる状況に立たれさることによって例えカッとなったとしても、一方の断ることをロールプレイで演じ続けた場合、相手が嫌がることをしたことに対する自然な反応だと学ぶことになり、この学びは感情のコントロールの学びを唆す。嫌なことをされたときは断ることを当たり前の感覚とし、相手が嫌がることをしてしまった場合は断られることを当たり前の感覚とする場所にまで持っていくよう努める。

 5.ロールプレイを通してイジメの加害者、被害者、観客としてイジメの場面とイジメに対する善悪の感覚を、現実に似せた状況に身を置き、現実に起こるであろう様々な感覚を体験することを意味する疑似体験することにより、それが頭の中に記憶として僅かにでも残れば、のちにイジメ加害者の立場に立つ、あるいは被害者、観客それぞれが似たような立場に立たされたとき、ロールプレイでの疑似体験を実体験する形を取ることになるから、僅かにでも残ったロールプレイでの記憶はよりはっきりとした姿かたちで再現を受けやすく、イジメの加害者は自分は今イジメを働いている、イジメの被害者は今イジメを受けている、あるいはその場に居合わせているイジメの観客は今イジメを目にしている等々、それぞれに現在進行形の自己認識(自分は今何をしているかという認識)を促せやすくすることになり、同時に疑似体験で受けた善悪の感覚をも自己認識(自分は今何をどのように感じているかという認識)を発動させるキッカケを与え、自分自身の言動を省みて善悪いずれかを判断するのかの自己省察の場に立たざるを得ないよう持っていく。つまりイジメ加害者に対してであっても、結論はどう自己認識しようが、善悪いずれかを考えざるを得ない自己省察の場所に立たせるよう取り計らう。

 6.自己省察をより確実に習慣づけるためにロールプレイの出演者それぞれの言葉から人間を観察するよう求める。クラスメートとして人柄をよく知っていても、アドリブでどのような人間(役柄)を演じようとしているのか、口にした言葉自体から観察し、自身の性格や人柄との違いや似た点を見つけ出すよう求める。この自分で自分の性格や人柄を省みる心理的働きも「自己省察」であり、他者の性格や人柄を知ろうとする心理的働きが「他者省察」であって、自己省察と他者省察の比較によって言動の善悪を知ったり、長所や欠点を知ることになると教える。小学校低学年には教師が言葉を砕いて教え込む。他者省察によって知ることになる他人の良し悪しを自己省察によって知ることになる自分自身の良し悪しと比較して、他者の優れた点を学んだり、自身の劣る点を正したりするところにまで行く、この状況は何かしらの成長を示すことになるから、自己省察と他者省察は成長を促す要素としての意味を持つことになると教える。

 自他の省察を通して自分の長所・欠点を知りながら、手つかずのままにしておくのは自己省察と他者省察の意味を失うだけではなく、人間としての成長を望まない態度となる。ロールプレイを用いて自他省察の心理的働きを習慣づけ、この習慣づけを通して"成長"というものを意識させるよう心がけ、イジメの未然防止に役立てるよう努める。つまり自分を成長させるためには他人の行動や発言を省みる他者省察との比較で自身の行動や発言を省みる自己省察は欠かすことができない必要条件となる。欠かせている人間、つまり他人の言動を省みることもなく、自身の言動をも省みることのない人間は自己の感性や感覚、考えのみに従う自己中心の生き方をしているからであって、そのような生き方は他者との関係で成長する機会を持ち難い人間と言える。

 また、自己省察によって自分の長所・欠点を知り、他者省察で他者の長所・欠点を知ることになれば、両者の長所・欠点の比較から、自身も他者も絶対的価値観を持って存在しているのではなく、それぞれに長所もあれば欠点もあるという他者との比較で自分を見る、逆に自分との比較で他者を見る価値観の比較化(価値観の相対化を価値観の比較化と呼び慣わすことにする)の原理を自然と学ぶことになり、この学びは負の感情のコントロールを身につける場所に運んでくれるはずである。なぜなら、自分は他者と同様に絶対的存在ではなく、長所もあるが欠点もある人間だと価値観の比較化ができれば、他者の長所に対しても欠点に対しても寛大になりうるし、欠点を笑って攻撃を加えることなどはできなくなって、知らず知らずのうちに負の感情のコントロールを同時に発動することになるからである。

 7.ロールプレイは各教室でクラスメートのみで演じるのではなく、小学生、中学生、それぞれが講堂や体育館に全生徒を集めて全校集会形式で行う。理由はクラス内では自他の関係性に慣れてしまっていて、他者を意識する気持ちが薄れがちとなり、その分集中力を欠くことになるが、全校生徒が体育館なり、講堂なりにその都度集合した場合、いつもとは違う大勢の他者存在を意識して改まった気持ちからのそれなりの緊張感を得て、集中力が増し、ロールプレイに注視する効果が期待できるからである。さらにこの効果を最大化するために席はクラスごと、学年ごと、男子生徒、女子生徒ごとに固めるのではなく、見知らぬ者同士を順不同に入り交じるようにする。

 8.小学生は演劇クラブ所属生徒や児童会役員、中学生は演劇部所属生徒や生徒会役員等のうちの各上級生が人前で話すことに慣れていることを見込んで、彼らから始める。イジメのシチュエーションと大まかな展開は学校側が指示するが、その前提としてのロールプレイのテーマと登場人物は校内生徒指導委員会等が決め、生徒指導主任等が司会と進行役を務める。以後取り上げるアドリブ・ロールプレイはあくまでも参考例、サンプルだから、当面はシナリオとして用いたとしても、ゆくゆくは児童・生徒それぞれに自分独自の言葉を駆使したロールプレイへの、それぞれのテーマに添ったステップアップを求めていく。

 最初からは臨機応変な言葉の遣り取りは難しくても、考える力や会話力を養うという目的を共通認識とさせて、シナリオをベースにアドリブを少しずつ混じえていき、混じえたアドリブを参考材料や反省材料に学習させ合い、最終的にはシナリオを離れて、アドリブのみでコミュニケーション能力を獲得できるように指導していく。

 9.校内生徒指導委員会指導主任はロールプレイの開始前には「誰もが生きている一つの一つの命だ」ということを伝えておくべきだろう。「自分だけが喜怒哀楽の感情、喜びや怒りや哀しみや楽しみの感情を持って生きている命というわけではない。暗い一辺倒で何の取り柄もないように見える生徒であっても、ほかの生徒と同じように喜怒哀楽の感情を持ってそれぞれに生きている一つの命だということを忘れないように。暗い、キモイと言われれば、その命は傷つき、怒りの感情を持ったり、哀しみの感情を湧かせたりする。こういったことが理解できて、それぞれの命を尊重できる心の広い人間に成長していけるようにしなければ、生きている命としてどこがが足りないことになる」と。

 自分だけではなく、どの生徒もそれぞれに喜怒哀楽の感情を持ってそれぞれに生きている大切な命であるという価値観の比較化と比較化を可能とする成長を求めていき、求めに応じた成長を見せることができれば、成長に応じて負の感情をコントロールする能力も自ずと身についていく。

 10.指導主任はアドリブで演じることになるロールプレイだから、登場人物が次のセリフに詰まった場合、適宜手助けする。手助けは自他の省察を自ずと働かせて価値観の比較化と負の感情のコントロールを仕向ける方向への展開とするように努める。指導主任は適宜終了を告げ、解説と講評を行う。指導主任以外が意見を述べる場合もあるだろうが、ここでは指導主任のみが解説と講評を行う形式を採る。

 では、上記伝えた当ブログ記事で取り上げたアドリブ・ロールプレイを手直しが必要なところは手直しして、再度提示するところから始める。小学校か、中学校か、あるいは学年の記載があるなしに関係なしにそれぞれの区分を超えて広範囲に応用して貰うことにする。

 わざと靴を踏むイジメ

 被害者A「靴を踏むのはやめてくれ」
 加害者B「間違えて踏んだんだ」
 (言葉に詰まったなら、指導主任が手助けする。)
 指導主任「イジメは特定の誰か1人か2人を標的にする。イジメなら踏む生徒と踏まれる生徒は決まっていて、しかも何回も踏まれることになる」
 被害者A「何回も踏んでいる。同じ人間の靴を何回も踏み間違えるわけはない。目的があって、わざと踏んでいるんだ」
 加害者B「・・・・・」
 指導主任「何か原因があって、嫌がらせをするという結果がある。原因は面白くない態度を取られたとか、面白くないことを言われたとか、何かで得意になっていて面白くないとか。原因を尋ねたまえ」
 被害者A「なぜ踏むのか教えて欲しい」
 加害者B「いつもいい子ぶっている」
 被害者A「いい子ぶってなんかいない」
 加害者B「自分で気がつかないだけじゃないか。いい子ぶってる」
 被害者A「いい子ぶってなんかいない」
 加害者B「みんなからもいい子ぶってるって見られている」
 指導主任「終了。加害者Bは被害者Aがいい子ぶってると思っていて、それが面白くなくて、懲らしめてやろうと思って靴を踏む嫌がらせをした。そうなんだな?」
 加害者B「そう」
 指導主任「誰かをいい子ぶっていると思ってしまうと、大抵、厭な奴と誰もが抱く自然な感情だと思う。どこまで懲らしめるつもりでいたのだろうか。不登校になるまで、あるいはイジメを苦にして首を吊るか、ビルの屋上から飛び降りるまでだろうか」
 加害者B「・・・・」(答えることはできないだろう)
 指導主任「だけど、いい子ぶっていると思わない生徒もいるはずだ。クラスの全員が全員共にいい子ぶっているとは思っていないと思う。例えA自身がいい子ぶっているのが事実だとして、いい子ぶるのはA自身の問題で、いい子ぶっていて面白くないと思うのは懲らしめるために靴を踏む嫌がらせをしているのだから、取り敢えずはB自身の問題となる。だが、Aにしてもそうだが、Bにしても、自分自身の問題としてやらなければならないことはたくさんあるはずだ。いい子ぶっていて面白くないからと靴を踏んでいるよりもやらなければならない自分自身の問題を一つ一つ片付けていくことの方が自分自身の成長のためには大切なことだと思う。いい子ぶってるから面白くないからと靴を踏むことが自分の成長に役立つのなら、いくらでも靴を踏んだらいい。誰もが自分自身の成長のためにしなければならないたくさんのことがあるはずで、そのことから比べたら、ほかの生徒がいい子ぶっていることなどどうでもいい小さなことになると思う」(自他の省察、価値観の比較化と負の感情のコントロール)

 プロレスごっこ

 被害者A「プロレスごっこはもうやめにする」
 加害者B「なぜ?」
 被害者A「技を掛ける方と技を掛けられる方が決まっているのは遊びではなく、イジメだと本で読んだ」
 加害者B「しょうがないだろ、俺の方が強いんだから」
 被害者A「勝ったり、負けたりして、初めて遊びになるんだって」
 加害者B「八百長はできない」
 被害者A「勝ったり負けたりするには弱い相手ばかりではなく、同格の相手や強い相手とも戦わなければならないんだって。いつも相手は僕一人だ。僕ばかりを相手にしないで欲しい」
 加害者B「じゃあ、今度負けてやる」
 被害者A「首を絞められて、苦しい思いはもうしたくない。床を叩いてギブアップしても、すぐには腕を離してくれないから、この間は苦しくて、本当に死んでしまうんじゃないかと思った」
 加害者B「じゃあ、今度からはすぐに腕を離す」
 被害者A「僕はもういい。誰か君よりも腕っぷしの強い相手を選んで欲しい」
 加害者B「・・・・・」
 指導主任「終了。B、君はプロレスごっこの相手になぜAを選んだんだ」
 加害者B「友達だからです」
 指導主任「友達はA以外にいないのか」
 加害者B「います」
 指導主任「友達がA以外にもいながら、プロレスごっこの相手はいつもAと決まっているのはなぜかね」
 加害者B「・・・・・」
 指導主任「何か腹が立って、懲らしめてやるつもりでプロレスの技を掛けたのが始まりだったが、技があまりうまく掛かって得意な気持ちになり、続けることになってしまったのではないのかね?」
 加害者B「分かりません」
 指導主任「AはBよりも体力的に弱い人間であるためにAとプロレスごっこをしている間は幸いにもカッコいい主役クラスの活躍を演じることができていたことになる。いつもAを負かせて、君自身はいつも勝利する活躍を見せつけることができていたからだ。だけど、弱い人間相手の活躍はAだけか、Bの仲間数人だけに通用させることができていたのであって、その他大勢の生徒にまで通用させることができていた活躍というわけではない。(自他の省察、価値観の比較化)社会に出てからも同じように似た活躍しかできなかったなら、ごく少数の仲間には通用しても、その他大勢の社会人には通用しないことになる。社会に向かって成長していくためにも今のうちから、その他大勢の生徒にまで通用させることができる活躍の道を考えるべきではないのか。そのためには面白くないことをされたから、懲らしめで痛めつけてやるといったことは、Bに限らず、誰にとっても自分の成長にとって意味があることなのかどうか考えて欲しい」(自他の省察、価値観の比較化、負の感情のコントロール)

 集団無視のロールプレイ(加害者Bが集団無視のリーダー、被害者Aは以前グループのメンバー)

 被害者A「みんなで無視するのはもうやめてほしい」
 加害者B「無視なんかしていない。相手にしないだけだ」
 被害者A「・・・・」
 指導主任「理由を聞いたら?」
 被害者A「なぜ?理由は?」
 加害者B「口を利く必要がないから口を利かない。呼びかける必要がないから呼びかけない。だから、相手にしないことになる」
 被害者A「・・・・・」
 指導主任「Aはクラスの全員から口を利いてもらえないのか?」
 被害者A「ううん。Bのグループからだけ」
 指導主任「B、Aはクラスの全員から口を利いて貰えないわけではない。なぜ君のグループの全員だけが口を利かないのだ?」
 加害者B「そんなことは知らない」
 指導主任「グループのメンバーはリーダーの君が恐くて、口を利かない君に従って口を利かないようにしているのか?」
 加害者B「口を利くなって一言も言っていない」
 被害者A「グループの中に以前口を利いてくれたメンバーが何人かいたけど、Bから無視されるようになってから、誰も口を利いてくれなくなった」
 指導主任「Bは本当に全員に口を利くなって指示は出していないんだな」
 加害者B「指示なんか出していない。勝手にみんながそうしているだけだ」
 指導主任「指示を出さなくても、メンバーはBが怖いから、顔色を窺う形で口を利かなくなったことになる」
 加害者B「そんなことはしらない」
 指導主任「どうしても口を効きたくなくても、必要に迫られる以外は口を利かないでいる相手というのはいる。先生もいる。だが、誰と口を利く、利かないは本人の自由意思で決めることで、誰それが恐くてとか、誰それに気兼ねしてといった理由で自分自身の自由意思を曲げてしまう人間関係は本当の友だち関係とは言えない。Bはグループのメンバーと本当の友だち関係を築いているとはとても言えない。君が恐くて従っている。君は怖がらせて従わせている。本当の友だち関係と思うか」
 加害者B「・・・・・」
 指導主任「BがAと口を利かないのは君の自由意思だが、メンバーと本当の友人関係を築きたいと思ったら、メンバーがAと口を利く、利かないはメンバーそれぞれの自由意思に任せるようにできるまでに年齢相応に成長していなければならないだろう。もし自由意思に任せることができるようになったら、君は一段と成長したところを見せることになる。ここで見せることができるかどうかで社会に出てからの成長も違ったものになっていくと思う」(自他の省察、価値観の比較化、負の感情のコントロール)

 以下、イジメの未然防止に役立てる意図の新たに創作したアドリブ・ロールプレイを例示していくが、物語の組み立てを改めて述べてみる。児童・生徒それぞれに対して自分がどのような人間であるかを省みる自己省察とこのこととの比較でほかの児童・生徒がどのような人間であるかを省みる他者省察を習慣づけて、自分も他者と同じように絶対的存在ではなく、長所もあるが欠点もある人間だと気づかせる自他の価値観の比較化を行うように仕向けて、自分も何らかの欠点があるのだから、他人の欠点に対してムカつきや腹立ちを持つことよりも自分の欠点を直すことのほうが大切であるということ、あるいは他人が長所としている能力や才能に対して妬みや不快な思いに駆られることよりも自分が長所としている能力や才能が何かしらあるはずだから、その能力や才能を社会に出て生きていくための可能性の一つと考えて伸ばしていくこのとの方が自分自身を社会に向けて成長させていくためにはより意味があるということを認識させ、ムカつきや腹立ち、妬みや不快な思い等々の負の感情をコントロールさせる訓練とすることができるよう仕向けていく展開を目指すことにする。

部活動での仲間外れ

 登場人物(被害者中2A、加害者中2B、被害者友人中2C、被害者友人中2D)

 2022年12月18日付の「asahi.com」記事《泣き叫ぶ妻の横で謝罪なき顧問 自死したバレー部員の父が語る防止策》が伝えていたバレーボール部活顧問から激しい暴言・叱責を受けて高校3年の男子生徒が2018年7月に自死した、体罰でもあり、イジメでもある事件を中2のバレー部員に置き換えて、同学年の同じ部活部員からの仲間外れとして脚色し、アドリブ・ロールプレイ仕立てにした。記事内容はアクセスして貰うことにして、男子生徒が遺書に書き遺してあった部活顧問が当該生徒に浴びせた、「背は一番でかいのに、プレーは一番下手だな。・・・・そんなんだから幼稚園児だ。・・・・必要ない、使えない」等の罵倒のみを参考にする。

 被害者中2A(部活部員)「背は一番でかいのに、プレーは一番下手だななんて言うのはもうやめて欲しい。下手だからといって、これからは幼稚園児扱いはしないで貰いたい」

 加害者中2B(部活部員)「事実じゃないか。幼稚園児扱いされたくなかったら、少しはうまくなってくれ」

 被害者友人C(クラスメート)「下手なら、試合に出さずにベンチに置けばいいじゃないか」

 加害中2者B「部員が6人しかいない。試合に出さないわけにはいかない。相手チームが下手なのを知っていて、狙い撃ちするから、足を引っ張るのはいつもAだ」

 被害者友人中2D(クラスメート)「相手チームの攻めのパターンが分かっているなら、腕のいい選手をAの横に置いて、ボールを受けさせればいいじゃないか」

 加害者中2B「そんなことは言われなくたって分かっている。とっくの昔にやってるんだけど、こういう作戦で行くからって決めておいても、自分のところにボールが来ると、ボールだけ見て、他の選手の動きを見ていないから、自分からボールを取りにいって、打ち返すと決めていた選手とぶっつかってしまったりする。結局打ち返せずに点を取られてしまう。こういう作戦だと何度言い聞かせても、自分のところにボールが来ると、反応してしまって、作戦もクソもなくなってしまうんだ。チームの中で一番背が高いから始末に悪い。顧問が幼稚園児だってバカにするから、みんなも幼稚園児、しっかりしろって言うことになる」

 被害者友人中2D「一番背が高んだから、ネットの近くに置いて、ブロック専門に使ったらどうだ。両手を上げて相手ボールを跳ね返すやつ」

 加害者中2B「ブロックも満足にできないし、サーブプレーヤーが変わるごとにポジションを順番に時計回りに移動するルールなんだから、いつまでも一番前に置いておくことはできない。ブロックだけではなく、攻撃の役目もある。手首を効かせて、狙った場所にボールを強烈に撃ち込む技術もないんだから、どのポジションでも使えやしない」

 被害者友人C「Aが抜けて、他の選手と同じ程度の技術のある部員が入ったら、強いチームに変身できるのか?」

 加害者中2B「負試合ばかりではなく、少しはマシな試合をするようになるかもしれない。顧問も口汚く怒鳴ることが減るはずだし、とばっちりでほかの部員まで怒鳴られることも減るはずだ」

 被害者友人中2C「要するにAが抜けても、少しはマシな試合ができるようになるというだけで、総合力は元々たいしたことはないんだ?」(自他の省察と価値観の比較化)

 加害者B「たいしたチームじゃなくても、ボールは受け損う、打ち返すことはできない、一番ドン臭い。背が一番高いから、ドン臭いのが一番目立つ」

 被害者友人中2D「総合力がない中でAのヘマが一番目立つというだけなら、チームの弱いのをAのせいにして、自分たちを納得させているんじゃないのか?」(自他の省察と価値観の比較化))

 加害者中2B「まさか、そんなことはない」

 被害者友人中2C「将来、バレーボールでメシを食っていこうと考えている部員はいないということだ?」

 加害者B「いるはずがないじゃないか」

 被害者友人中2C「近所に大学生がいて、ときどき勉強を見て貰っているんだけど、小学生や中学生、高校生はまだまだ可能性の途上にあるんだって。発展途上国の途上。その人自身の最終的な可能性が固まっていくまでにはまだまだ時間がある途中にいるんだって」

 加害者中2B「スポーツをしたことがない優等生の言うことなんか役に立たない」

 被害者友人C「バレボール部の勝利が社会に出てからの最終的な可能性に直接関係するわけではないのなら、試合に勝つことだけに可能性を限定するのは間違っている。今は色々な可能性を試したり、学んだり、楽しんだりして、最終的な可能性に役立てるときだっていうことを教えられた」(自他の省察と価値観の比較化)

 被害者友人中2D「顧問に言ってやった方がいい。Aにしたって、好きでやっているけど、バレーボールの技術だけが可能性というわけではないのだから、その技術だけで可能性がない人間扱いして、悪く言うのは間違いだって」(価値観の比較化と負の感情のコントロール)

 被害者友人中2C「近所の大学生は東大野球部は約4年半近くの間に2引き分けを含んで94連敗も記録したことがあって、春と秋のシーズンで毎年、1勝かそこらしかできない野球ベタの集まりだけど、野球することが好きな気持ちや練習で学んだ忍耐力、部員同士の絆、それぞれに好きな勉強などを最終的な可能性を実現する支えにして社会に巣立っていくはずだって言っていた。Aはバレーボールの技術では幼稚園児並みの可能性しかないかもしれないが、可能性は一つではないのだから、今は眠っている状態の可能性がいつか目覚めて、立派な人間にならないとも限らない。今はバカにできても、将来、逆にバカにされてしまうこともあるかもしれない。バレーボールの可能性だけでバカにするのは気をつけた方がいい」(自他の省察と価値観の比較化、負の感情のコントロール)

 被害者友人中2D「試合に勝てる可能性が低いなら、試合を楽しむ可能性に重点を置いてもいいじゃないか。ヘマしたら、ドンマイ、ドンマイと庇って、あとに残さない。ついついバカにしてしまうストレスを抱え込むこともないし、バカにされるストレスを抱えることもない。勝ち負け抜きにみんな助け合ってバレーボールを楽しめば、将来的な可能性に何かしらプラスしていくかもしれない」

 加害者中2B「そうだなあ。プレーは一番下手だ、幼稚園児並みだと厭味を言ったって、俺たちのこれからの可能性にプラスにはならないだろうし、Aのこれからの可能性にもプラスになるわけでもないのに、何でイラついていたのだろう」(自他の省察と価値感の比較化と負の感情のコントロール)

 指導主任講評「イジメ被害者中2Aの友人同学年のCは『小学生や中学生、高校生はまだまだ可能性の途上にあるんだ』と近所の大学生に教えられた。可能性とは児童・生徒それぞれが持つ能力や才能を力にして成功する見込みや発展していく見込みがあることを言う。だが、将来的に成功したり、発展するためには現在の能力や才能では力不足で、年齢を重ねると共に色々なことを学び、経験して、能力や才能の力をつけていって、今身につけている可能性だけではないそのほかの色々な可能性を身につけ、最終的にはこれはといった可能性に絞って社会に立つことになる。だから、Cが近所の大学生に教えられたように『小学生や中学生、高校生はまだまだ可能性の途上にある』のだから、将来身につけるかもしれない可能性を一切無視して、今の可能性をさも最終的な可能性であるかのように人の能力や才能を評価するのは間違っていると指摘したことになる。

 加害者Bの最後のセリフは他者省察と自己省察を経て、中学生の時点で可能性というものを限定することの間違いに気づいた言い回しとなっている。Aの友人のCやDとの会話を通して、一歩成長したところを見せたことになる」

 言葉の暴力

 登場人物(母親がフィリピン人、父親が日本人の被害者中2女子Aは1年時に転校。被害者Aの友人中2E、加害者中2Bとその仲間中2Cと中2D)

 被害者中2A「私をもうバイキンと呼ばないで欲しい。バイキンなんかじゃないんだから」

 加害者グループリーダー中2B「ちょっと、あんまり近づかないでよ。だって、バイキンでしょ?顔、日焼けして黒くなっているようには見えないし、土色に汚れている感じは、マジ、病気じゃん。何かバイキンに取り憑かれていなければ、そんな汚い肌にはならない」

 被害者中2A「バイキンではなくて、生まれつき、こんな肌なんです」
 加害者グループリーダー中2B「だから、生まれつきバイキンが入り込んでいたんだよ」
  5人全員して笑う。

 被害者中2A「お母さんの故郷のフィリピンではこんな肌の人はいくらでもいるって言ってた」

 加害者グループリーダー中2B「満足に病院もないんでしょ。フィリピンでは当たり前でも、ここではバイキンが入っていなければ、そんな肌にはなりっこがない」

 被害者中2A「じゃあ、今度病院で精密検査をして貰って、診断書を書いて貰って、見せます。何も病気にかかっていなければ、バイキンと呼ぶのはやめてください」

 加害者グループリーダー中2B「診断書を見るまでは約束できない」

 被害者中2A「ええ、いいですよ」

 加害者グループ中2C「あんたの体から臭いニオイがするのは事実だよ」

 加害者グループリーダー中2B「そうよ、診断書に問題がなくたって、クサイ臭いがするのは事実だからね」

 被害者中2A「誰かほかにクサイ臭いがする女子はいるんですか」

 加害者グループリーダー中2B「あんただけに決まってる」

 加害者グループ中2E「あんた以外にフィリピンとのハーフなんかいないじゃん)

 加害者グループリーダー中2Bとグループ中2D(同時に)「そう、そう」

 加害者グループ中2C「キモイんだよ」

 加害者グループ中2B(続けて)「キモイったらありゃしない」
  (ほかの4人が同時に小馬鹿した笑いを見せる)

 被害者Aの友人中2 E「私には臭いニオイなんかしない」

 加害者グループリーダー中2B「鼻が悪いからじゃん」
  加害者グループ全員して笑う。

 被害者Aの友人E「本当に臭いんだったら、近づかなければいい」

 加害者グループリーダー中2B「近づきたくないんだけど、廊下ですれ違わない訳にはいかないときもあるんだから」

 被害者Aの友人E「ほんの少しの間だけでしょ。我慢すればいい」

 加害者グループリーダー中2B「嫌な臭いはいつまでも鼻について離れないじゃん。頭の中にまで残る」

 被害者Aの友人中2 E「クラス32人だけど、臭いニオイするって言っているのはあんたたちグループの5人だけで、残り27人は何とも言っていない」(自他の省察と価値観の比較化)

 加害者グループリーダー中2B「私たち5人は鼻が敏感だからね」

 被害者Aの友人中2 E「そうだったとしても、ちょっと我慢すれば、『キモイ』、『汚い』、『臭い』、『近寄るな』などと言わなくても済むし、言わなければ、Aが厭な思いをさせられることもない」

 加害者グループリーダー中2B「言わなくて済むように臭いニオイ、先にどうにかしてよ」

 被害者Aの友人中2 E「Aのお母さんはフィリピン人で英語を話すから、Aは子どもの頃から教えられていて、英語も話せる。だから、英語の成績がいいんだけど、私たちもAから教えて貰って、英語の成績を上げることができている。私たちの大切な仲間だから、あんたたちが臭いニオイがするからっていくら拒否しても、私たちはずっと友達でいる。A、負けちゃダメよ」

 被害者A「ええ、ありがとう」

 加害者グループリーダー中2B「何よ、英語の成績が少しぐらいいいだけのことで、バイキンじゃしょうがないじゃん」

 加害者グループ中2C「バイキンは殺さなければならない」

 加害者グループリーダー中2Bと加害者グループ中2D(嘲りながら)「死んで貰おう、死んで貰おう」(終了)

 指導主任講評「BたちのグループがAに対して『キモイ』とか、『汚い』とか、『臭い』、『近寄るな』などと言って、近づけないようにしていたのは日本人の父親とフィリピン人の母親の間に生まれたハーフだから生まれつきバイキンが入り込んでいて、そのせいで肌の色が汚くて体から臭いニオイがするからだと、そのような理由を述べている。言っていることが正しいとすると、日本人の父親とフィリピン人の母親の間に生まれたハーフは全員が生まれつきバイキンが入り込んでいて、臭いニオイがして、肌の色がよくないことになる。今どきの若者の言葉を借りて言うと、『ちょっとおかしくね』となるが、Bとそのグループの4人はちっとも『おかしくね』とはなっていない。

 被害者Aの友人Eが、『クラス32人だけど、クサイ臭いがするって言っているのはあんたたちグループの5人だけで、残り27人は何とも言っていない』と、自分たちの言っていることがおかしいか、おかしくないかを省みる自己省察のキッカケを与え、同時に27人が何とも言っていない状況をなぜだろうと省みる他者省察のキッカケを与えているが、自分たちの立場に拘って、折角のキッカケを生かすことができずじまいにしている。

 さらにEが『Aはフィリピン人のお母さんの影響で英語が話せて、英語の成績がいい』とAがフィリピン人のハーフであっても、英語力という長所を持っていることを指摘したのに対してBたちは自分たちにはこういった長所があると正当な方法で対抗するわけでもなく、これと言って長所がなければ、得意になれることは自分たちに何があるのだろうかと自分自身を省みて、このことも自己省察のうちに入るが、探し出して自分たちの長所にしようと人間的成長を図ろうとする気持ちも持たない。

 結局のところ、BたちはAに対して何かしら面白くない感情を抱いていて、それが『バイキンだ』、『クサイ臭いがする』、『キモイ』、『汚い』、『近寄るな』といった言葉の攻撃となって現れたに過ぎないことになる。一つ考えられる理由は転校生で日本人とフィリッピン人のハーフということで自分たちのエリアに侵入してきた他所者と見て反発したものの、Eたちに歓迎されている様子から嫉妬心が湧いてなおさら反発し、嫉妬と反発が憎しみにまで進んでしまったという状況が考えられる。

 一般社会に出て自分をどう生かしていくか、生かすことのできるようにどう成長していくかはあくまでも自分自身の問題であって他人の問題ではないということを忘れてはならない。誰がハーフであるとか、ないとか、誰が面白くないとか、面白いとかの問題よりも自分自身を成長させていくことの方がより大切なことだということを忘れてはならない。そして最も注意しなければならない言葉はCが『バイキンは殺さなければならない』と言い、それに対してBとDが『死んで貰おう、死んで貰おう』と応じているが、バイキンにかこつけてAの死を望むような言葉は相手の置かれた精神状態次第では実際に死に追い詰めてしまうことはないこともないから、決して口にしてはならないことを記憶しておかなければならない」

 身体的特徴を笑いの対象とするイジメ

 登場人物(被害者中3A、被害者Aの友人中3F、加害者グループリーダー中3B。その仲間その仲間C、D、E。C、D、E。)

 シチュエーション(被害者中2男子A。加害者クラスメートBとその仲間C、D、E。Aの友人F。Aが右足をびっこを引きながら、廊下を友だちのFと肩を並べて歩いている。Aの右足は両の太腿の下辺りからくるぶしにまで達する金属製の幅の狭い2本の支柱が挟みつけていて、太腿、膝、ふくらはぎ、足首それぞれを幅の異なる革製のベルトで固定している形の装具を着けている。5メートル程背後をBたち5人が歩いている。BがCの背中を押し、Aの方に顎をしゃくる。CはAとFの背後にこっそりと近づき、1メートル程離れながら大袈裟にびっこの真似をしてついていく。顔だけをBたちに振り向け、笑いをこらえる様子で得意げな様子を見せる。DがCの背後に同じように近づき、縦1列に並んで同じ真似をする。BとE、ニヤニヤ笑う。Cがこらえきれずに笑い声を立てる。続いてDが笑い出す。AとFが振り返る。B、ニヤニヤ笑いながら「おい、おい、からかうもんじゃないよ。困っている人には手助けしてやらなくっちゃあ」、C「なんじゃい、この歩き方」と言って、その場で笑いながら体を左右に揺するようにして大袈裟にびっこの真似をする。Dが急いで同じ真似をする。)

 被害者中3A「もうびっこを笑ってからかうのはやめて欲しい。病院の先生はあと1年程したら完治するって言ってた。普通に歩けるし、走ることもできるって」

 加害者グループリーダー中3B「おかしいんだから仕方がないだろ。治たって、びっこ引いていたときのことを思い出して、笑っちゃうかもしれない」
  Eと顔を合わせて、「なあ」と言いながら笑い出す。「とにかくおかしな歩き方をしてくれるぜ」

 被害者中3A「君たちは病気で、こういう歩き方なんだと同情する気持ちはないのか」

 加害者グループリーダー中3B「何言ってやがる。同情が欲しいのか。哀れなこと言うなよ」

 被害者Aの友人中3F「Aはここまでずうっとこのような歩き方をしてきた。Aの個性となっている」

 加害者グループリーダー中3B「笑っちゃう個性だってあるはずだ。顔を見せただけで、笑ってしまうお笑い芸人がいる」

 被害者Aの友人中3F「お笑い芸人の場合は笑わせてくれるのを期待して何も言わないうちから笑ってしまうことがあるけど、Aに対してはバカにして笑っている」

 加害者グループリーダー中3B「バカにされてしまう個性だからだろう」

 被害者Aの友人中3F「バカにしてもいい個性だと思っているようだけど、Aの歩き方である個性が恥ずかしさに耐える我慢強さやびっこを引いて長い距離を黙々と歩く我慢強さを生み出して、その我慢強さが難しい問題に諦めずに立ち向かおうとする挑戦する気持ちなどの別の個性を生み出している。だから、成績がいいんだ。君たちはびっこを引く歩き方だけがAの個性だと思っているようだが、個性がたくさんあるうちの一つに過ぎない。笑っちゃう個性を一つぐらい持ったとしても、人に笑わせない個性がどのくらいあるかだと思う」(自己省察と他者省察の促し。価値観の比較化)

 加害者グループリーダー中3B「いい子ぶるな。覚えていろ」(終了)

 指導主任講評「Aの歩き方も一つの個性だが、加害者グループがAの歩行困難をからかい、笑うのも彼らの個性の一つだということを認識しておいて欲しい。被害者Aの友人FがA自身の個性と加害者グループリーダーのB自身の個性に対して忠告を通して自己省察と他者省察の機会を暗に与えているが、Bは応じなかった。しかもFが注意したことを『いい子ぶるな。覚えていろ』と反発しているから、面白くない感情、不快な感情で受け止めたことになる。こういった感情にさせられた場面は記憶に残ることになるから、何度でも思い出すことになる。思い出すたびに面白くない感情、不快な感情に改めて襲われるか、ふとした弾みでFの忠告に反発したことは間違っていなかっただろうかとちょっとでも反省したとしたら、ほんの僅かだが、自己省察と他者省察のメカニズムに歩を進めることになり、どちらが正しくて、どちらが間違っているのかの価値観の比較化にまで進むことが期待できる。そうしたことができるようになれば、負の感情のコントロールも可能となり、成長を果たすことになる。こういった方向に進まなければ、Bとその仲間は成長しないままに今の状態にとどまることになるだろう」

 裸の写真を撮られ、lineグループに流される
 
 登場人物(被害者中1女子ソフトボール部員A、加害者中2女子リーダーBとその仲間C、D)

 被害者中1A「裸の写真、撮るの、もう辞めにしてください」

 加害者リーダー中2B「ソフトボール部やめたら、許してやる」

 被害者中1A「だめです。私、ソフトボールしかないから」

 加害者リーダー中2B「だったら、裸の写真、撮らせて貰う」

 被害者中1A「裸の写真、撮らせるのも、ソフトボール部、やめるのも断ります」

 加害者中2C「強情だよ、あんた」

 加害者中2D「やめるまで、脱がせて、写真、撮る」

 加害者リーダー中2B「今度もlineグループに流す」

 被害者中1A「私にはソフトボールしかないから」

 加害者リーダー中2B「あんた、監督からソフトボール選手としての可能性があるって言われたんだって?」

 被害者中1A「ええ、まあ・・・」

 加害者リーダー中2B「その気になってんじゃねえよ。あんたがキャッチャーのレギュラーになったから、3年生が抜けてもEは補欠のまんまじゃないか」

 加害者中2D「順番ってもんがあるんだよ」

 被害者中1A「順番は監督が決めることですから」

 加害者リーダー中2B「E先輩の方がキャッチャーとしての可能性は私よりも上ですって譲ることだってできるはずよ」

 被害者中1A「今度監督にそう言ってみます」

 加害者リーダー中2B「言うだけじゃ、誰だってできる。何か理由を作って、あんたの方から部をやめたら、あんたの裸の写真を撮る必要もなくなる」

 被害者中1A「ソフトの可能性を大事にしたいんです。ほかに勉強はできないし、得意にできるものもないし。ソフトバカなんです」

 加害者リーダー中2B「じゃあ、裸の写真撮らせて貰う。今度はlineグループつながりで別のグループにも流すから、どこまで拡散するか知らないからね」

 被害者中1A「もう写真は撮らせません。lineの写真も削除して貰います。これは犯罪だって教えられました。削除しなければ、警察に訴えます」

 加害者リーダー中2B「私たちを威す気?」

 被害者中1A「最初に威したのはB先輩の方です。後輩を威して裸の写真を撮って、lineに流すしか自分たちの可能性はないんですか」

 加害者リーダー中2B、C、D「ふざけたこと言うな」(終了)
 
 指導主任講評「被害者Aはソフト部の監督からソフトボール選手としての可能性があると言われていた。本人も『ソフトの可能性を大事にしたい』と言っていて、1年先輩である加害者のBたちを『後輩を威して裸の写真を撮って、lineに流すしか可能性はないんですか』と批判している。この『可能性』という言葉について改めて説明すると、野球やサッカーや音楽などでそれぞれの能力や才能に見込みがあると見られたときに使われるように児童・生徒それぞれが持つ能力や才能でそれ相応に活躍する見込みや成功する見込みがあることを言う。ソフトボール選手としての可能性があるということはソフトボールの部活動では選手として活躍する見込みがある、あるいは成功する見込みがあるということになる。 

 断っておくが、あくまでも見込みであって、実現の保証ではない。それ相応に努力しなければ、見込みが実現そのものに向かうことはないだろし、将来的な可能性として活躍する見込みや成功する見込みまで保証しているわけではないことは理解できると思う。

 加害者BたちがAから『後輩を威して裸の写真を撮って、lineに流すしか可能性はないんですか』とそれぞれの可能性を比較されたとき、ここでBたちが自分たちの可能性を省みる自己省察ができ、対してAの可能性を省みる他者省察を試みて、両者間の可能性を比較、どちらの可能性に価値があると言えるか、価値感の比較化ができて、改めるべきは改めることができたなら、成長を見せていることになって、その成長が負の感情のコントロールをしやすくする場所に導いてくれることになるが、『ふざけたこと言うな』とあくまでも反発している。反発することだけしかできなくて、面白くないからと何か仕返しを企むようだったら、成長しない状態を続けることになる。こういったことから、イジメっ子は『成長していない子』と定義づけることができる。イジメっ子でいる間は人間として成長していない状態にあることを示すことになる。

 加害者BたちがここではAが後輩として先輩を立てる身の程を弁えていない、生意気だ、懲らしめてやろうと裸の写真を撮って自分たちのLINEに流した。成長するためにはこういった懲らしめてやろうと思ってしたイジメだけではなく、面白がってやっていた、あるいはからかっていただけだと思ってしていたことが実際にはイジメになっていることもあるのだから、自分たちが考えたり思ったりしてしていることと相手が考えたり思ったりしていることの違いを自己省察と他者省察を通して価値観の比較化にまで持っていき、答を出そうとする姿勢が必要になってくる。もし相手が嫌がっていることを歓迎されていることだと答を出し、その間違いに気づかないとしたら、自己省察も他者省察も不足していて、価値観の比較化を行うについての材料不足を来しているからだろう。結果、何も成長できないままでいることになる。

 こいつ、気に食わないから、懲らしめてやれ、あるいはあいつをからかっていると面白いからなどと相手が嫌がるイジメを働いたはいいけど、イジメられっ子から逆に『成長していない子』と言われないように気をつけなければならない」

 貧乏を笑い、イジメの対象とする

 登場人物(被害者中2A、加害者中2B、C、D、E、仲裁人中3F)

 仲裁人中3F(中2B、C、D、Eに)「ちょっとこい」

 加害者中2B、C、D、E「な、何だよ」
  (被害者中2Aのところに連れて行かれる)

 仲裁人中3F「Aがお前たちに言いたいことがあるそうだ」

 加害者B「言われることなんか何もない」

 仲裁人中3F「黙って聞け」

 被害者中2A「全校集会で体育館に座っているとき、4人で後ろから小さな声で『ナマポ、ナマポ、ナマポ』って囃すように言うのはもうやめて欲しい。廊下などですれ違うとき、『くっせえ』って言うのもやめて欲しい」

 仲裁人中3F「どうなんだ、やめるのか?」

 加害者B「Aのかあさん、生活保護受けている」

 仲裁人中3F「生活保護受けているのはAんち家庭の事情で、Aには関係のないことだろう。俺んちも母子家庭で、生活保護受けている。俺が悪いわけではないし、Aが悪いわけではない。Aの母さんも、俺んち母さんも生まれつき体が弱くて、みんなみたいに働けないんだから、母さんたちが悪いわけでもない。それぞれ事情があるんだ」

 加害者B「そんなこと、知らなかった」

 仲裁人中3F「知ったんだから、もうやめるな?」

 加害者B「仕方がない」

 仲裁人中3F「仕方がないとはどういうことなんだ。理解が悪いな」

 加害者B「・・・・」

 仲裁人中3F「Aも生活保護を受けているのは親の事情なんだから、恥ずかしがって、自分を小さくすることはないんだ。BたちもAをバカにしたり、蔑んだりして、Aが自分を小さくするのを手伝っていることになる。大体が他人をバカにしたり蔑んだりするのは人間が小さくできているからだ。小さくできている上にほかの人間まで巻き込んで小さくさせている。少しは考えろ」

 加害者B(不承不承)「ああ・・・」

 仲裁人中3F「ここでは仕方なく言うことを聞いて、陰に回って嫌がらせをするようなことはするなよ」

 加害者B「しない」

 仲裁人中3F「約束だからな。もう行っていい」(終了)

 指導主任講評「からかい言葉の『ナマポ』は知っている児童・生徒はいると思うが、知らない児童・生徒のために説明すると、『生活保護』の『生(せい)』を『ナマ』と読ませ、『保護』の『ほ』を『ポ』と読ませて、『ナマポ』と呼び習わし、生活保護受給者やその子どもをバカにするときの言葉として使われている。誰かがSNSで言い出し、たちまち拡散したのだと思われる。体が弱いから働けないからといって生活保護を受けて、パチンコばかりしている受給者を実際に知っていて、税金泥棒と腹の中で思ったとしても、そのような受給者はごく少数で、実際には殆どの受給者が働いて稼ぐことができなくて止むを得ず受給することになっている。生活保護という国の制度がある以上、受給者を一緒くたにして税金泥棒とか、怠け者とか決めつけることは間違っていることになる。

 中2のB、C、D、Eが同級生のAに対して『ナマポ』と蔑んだり、多分、貧乏だから、洗濯もせずに同じものを長い間着ているからだろうと名推理して『くっせえ』と厭味を投げつけた。B、C、D、Eは3年生のFにAのところに連れていかれ、そこでAに『ナマポ』と言うのも、『くっせえ』と言うのもやめて欲しいと言われると、加害者Bは『Aのかあさん、生活保護受けている』という事実を挙げて、自分たちのからかいや蔑みを暗に正当化している。対して上級生Fは『生活保護受けているのはAんち家庭の事情で、Aには関係のないことだろう』と言って、Aの母親が生活保護を受けていることに対してAをからかったり、蔑んだりしていい理由とはならないことを伝えている。

 さらに上級生Fは他人をバカにしたり蔑んだりするのは人間が小さくできているからで、自分という人間が小さいだけではなく、他人をバカにしたり蔑んだりすることでほかの人間まで小さくしていると言い、Aに対してもイジメられて悩むのは自分で自分という人間を小さくすることだと注意している。

 上級生Fはこのような言葉で加害者B、C、D、Eに対しても被害者Aに対しても自分やほかの人間が言っていることや行っていることを省みて、その良し悪しを考える自己省察と他者省察を促している。この促しが意識下に残って、自他の省察を試みるようになって、正しいことをしていたのか、間違っていたことをしていたのか、あるいは生活保護をからかったり、蔑んだりしてもいいことだったのかどうかを考える価値観の比較化へといい方向に向かえば、負の感情のコントロールを学ぶキッカケとなり、学んだなりの成長を見せることができて、イジメっ子は『成長していない子』というレッテルを剥がすことができるようになるだろう。レッテルを剥がすことができるかできないかは自己省察や他者省察のチャンスを見逃すか見逃さないかにかかっていることになる」

 アドリブ・ロールプレイで上級生Fのような役割を作り出したり、Fが口にするセリフは簡単には出てこないだろうが、この参考例をベースにしたアドリブ・ロールプレイを通して会話思考能力や会話伝達能力を少しずつ獲得していくようにすれば、イジメ未然防止の一つの方法としてだけではなく、言葉を用いた秩序だったコミュニケーションを生み出すことのできる訓練としても役立つことになると思われる。

 集団暴力によるイジメ

 登場人物(被害者中2A、加害者グループリーダー中2B、加害者グループ中2C)

 被害者中2A「一発芸を無理やり要求するのはもうやめて欲しい」

 加害者グループリーダー中2B「何だと?」

 被害者中2A「断ると殴る。面白くないと言って殴る。それもやめて欲しい」

 加害者グループリーダー中2 B「ふざけんな」 

 加害者グループ中2C「ふざけたことを言っている」

 加害者グループリーダー中2B「お前は一発芸してなんぼじゃないか」

 被害者中2A「僕は勉強はできない。スポーツも何もできない。だけど、家に帰ると、昆虫採集している。いつか世界中を飛び回って、新種の蝶を見つけるのが夢なんだ」

 加害者グループリーダー中2 B「だから、何だって言うんだ。学校ではタダの陰キャ(陰気なキャラクター)に過ぎないじゃないか。一発芸取ったら、何もない」

 被害者中2A「学校では何もなくてもいい。放課後や休みの日に昆虫採集することが僕の中では凄い活躍になっている。BもCも放課後や日曜日の活躍はゲームセンターに行ってゲームすることで、みんなの活躍になっているけど、学校では僕に無理やり一発芸させたり、僕を殴ったりすることを自分たちの活躍にしている。僕は学校では活躍できるものは何もないけど、誰かを困らせたり、誰かが嫌がるようなことをさせる活躍はしていない」

 加害者グループリーダー中2 B「ふざけたことを言いやがる。ぶん殴っちまえ」

 被害者中2A「殴りたければ、殴ればいい。自分たちがしている活躍がどんな活躍なのか、しっかりと見ながら殴って欲しい」(終了)

 指導主任講評「被害者中2のAは勉強はできない、スポーツもできない陰キャで、学校では活躍できるものは何もないけども、放課後や休みの日に昆虫採集することが僕の中では凄い活躍になっていると、『活躍』という言葉を使って、自分はこのように存在していると自分や他人に証明する自己存在証明を行っている。対してBとCの活躍は学校ではAに一発芸をやらせたり、殴ったりすること、休日や放課後ではゲームセンターでゲームすること。それらの活躍を自己存在証明としていると両者の活躍に基づいたそれぞれの自己存在証明を比較している。

 この比較に応じてBとCが自分たちを省みる自己省察とAを省みる他者省察を行い、それぞれがしていることの価値の良し悪しを考える価値観の比較化にまで進んで、適切な答えを導き出すことができて、改めるべきは改めることができれば、負の感情をコントロールできるようになって、人間として自ずと成長を果たすことができるようになる。BとCはAからそうする機会を与えられたが、機会を機会として捉えることができるかどうかはBとC自身の考えにかかることになる。

 活躍ということと自己存在証明ということをもう少し説明すると、野球部員やサッカー部員、その他の運動部活部員は野球やサッカー、その他のスポーツの活躍で、自分はこのように存在していると自分や他人に証明する自己存在証明を日頃から行い、文化系部活での美術クラブ員や音楽クラブ員、その他のクラブ員は美術や音楽やその他の部活の活躍で、自分はこのように存在していると自分や他人に証明する自己存在証明を日頃から行っている。勿論、テストの成績でいい点を取る活躍を通して自己存在証明としている児童・生徒もいる。

 そしてその活躍はAの昆虫採集のように趣味を通して発揮してもいいわけで、趣味が高じて専門職になる例は世の中にいくらでも転がっている。つまり誰もが何かしらの活躍で自分はこのように存在していると自己存在証明していることになるし、他人が嫌がることや迷惑をかけることではない活躍で、それが例えささやかな活躍でもいいから、自分はこのように存在していると自己存在証明しなければならないことになる。

 となると、校内大会とか対外試合といった学校行事での活躍はそのまま自己存在証明としての評価を受けることができるが、一般的な学校社会での自分の中での活躍が自分の自己存在証明として評価される種類のもなのかどうか、自己省察と他者省察の篩に掛けて、確かめておかなければならないことになる。確かめずにいて、人に迷惑をかけているのを知らずにいたら、まさしく成長していない子になってしまう」

 集団暴力と金銭恐喝のイジメ

 登場人物(被害者中3A、加害者リーダー中3B、加害者中3C、加害者中3D)

 被害者中3A「もう集団で殴ることも、カネを持ってこさせることもやめて欲しい」

 加害者リーダー中3B「カネのこと、オヤジにバレたのか」

 被害者中3A「まだバレていない」

 加害者リーダー中3B「じゃあ、何でだ?」

 被害者中3A「僕は勉強した。一切断ることにしたんだ」

 加害者リーダー中3B「ふざけたこと言うな。持ってくるまで痛い目にあうことになるだけじゃないか」

 加害者中3C「お前んちオヤジ、金持ちだから、少しぐらいなくなったって、分かりゃしない。痛い目にあうよりましだろ?」

 被害者中3A「大勢で一人を殴りつけると、一人の方が弱い子ならなおさら思いのままに殴りつけることができるから、万能感に取り憑かれて、物凄く力を持った強い人間になったような錯覚に陥って、ブレーキが効かなくなり、相手を殺してしまうところまでいってしまうこともあるんだって。気をつけた方がいい」

 加害者リーダー中3B「俺たちを威す気か?何だ、その万能感って何だ」

 被害者中3A「大きな力で凄いことをしているような感覚になることだって書いてあった。でも、大勢で一人を殴りつけるときに手に入れる感覚だから、その感覚を手に入れるためには同じことをしなければならなくなって、最後には一人を大勢で殴りつけることがやめられなくなってしまうって書いてあった。病みつきになるんだって。だから、一歩間違うと、相手を殺してしまうところにまでいくって」

 加害者リーダー中3B「ふざけたこと言うな。言いつけどおりにカネを持ってこなかったり、持ってきたカネが少なかったりするから、ぶん殴るだけのことで、万能感とか何とか、関係ねえ」

 被害者中3A「持ってこさせたおカネを使うときも、自分のおカネではないから、自由に惜しげもなくパッパと使うことができて、何か物凄いカネ持ちになったような万能感に取り憑かれることになるんだって。勿論、その万能感も、病みつきになると、おカネを強請り続けなければ発揮できないし、万能感を十分に味わうために強請る金額も大きくなっていくんだって」

 加害者リーダー中3B「ふざけたこと言いやがって。いいからカネを持って来い。持ってこなければ痛い目に遭うのは分かっているだろ?家までついていく。ゲーセンへ行って、一緒に遊ぼうぜ」

 被害者中3A「ゲーセンでは僕から取り上げたおカネを自分のおカネのようにしてみんなのプレイ料金を払っているけど、気前のよい気分になって、おカネ持ちになったような万能感を味わっているんだ。自分のおカネでもないのに」

 加害者リーダー中3B「この野郎」(襟首を掴む)

 加害者中3C、D「ふざけやがって。痛めつけ足りないんだ」

 被害者中3A「いつかは僕を殺してしまうところまでいく」

 加害者リーダー中3B(ハッとなって手を離す)(終了)

 指導主任講評「被害者中3Aは集団暴力のイジメがときとして被害者に対する殺人にまで至ってしまう原理と金銭恐喝がときとして際限もなく金額を増やしていく原理を述べた。大勢の人間で一人を自由自在に殴りつけることができるのだから、物凄い力を手に入れたと勘違いして、万能感に取り憑かれるのも無理はないし、強請ったおカネを自分のカネにして使うのだから、ついつい気前良くなって、金銭に対する万能感もハンパではなくなり、その万能感をより大きくしたくなって、強請る金額も増やさなければならなくなる。1万円を気前良く使うのと10万円を気前良く使うのとでは万能感は桁違いとなるはずだ。しかも他人のカネだから、あとのことは何も心配せずに思い切り使うことができる。

 覚醒剤常習者が常習を続けて覚醒剤が体に蓄積されるようになると、始めた頃のときのような効き目を失って気持ちよくならないから、1回の使用量を増やしていくことになり、増やしていって、体が受けつける許容量を超えると、急性中毒を起こして、ときにはショック死を招くのと似ている。

 Aは弱い1人の人間を大勢で殴って腕力で万能感を手に入れる、あるいは他人から強請ったカネを使って金遣いで万能感を手に入れる、その考え違いと万能感が際限のないものとなっていくことの危険性を加害者グループのBたちに伝えるが、このことは言葉で直接言っている訳ではないが、自己省察や他者省察を促していることになる。その促しに応じて自分たちがしていることの意味とその良し悪しを他者との比較で答を出そうとする価値観の比較化にまで進まないと、負の感情をコントロールする機会にも恵まれないとになって、Aが言ってたように一歩間違うと、相手を殺してしまうところにまでいってしまうかもしれないし、恐喝する金額も桁違いとなっていくこともあるかもしれない。

 実際にも集団で1人を殴り続けて死に至らしめてしまったイジメも存在するし、強請ったカネで気前よく使う万能感に麻痺してしまったのだろう、1人の中学生から5000万円ものおカネを強請ったイジメ事件も起きている。こういったイジメの形もあるということを頭に入れておかなければならないし、同じようなイジメに遭ったなら、早い段階で断る勇気を持ち、相手が応じなければ、担任等に相談して、自分のことだけではなく、学校全体の問題としてイジメそのものの芽を摘むようにしなければならない」

 カネ持ちの家の子に遊興費を支払わせるイジメ

 登場人物(被害者中2女子A、担任女性教師B、加害者中2女子C)

 担任女性教師B「Aが用事があると言うから、Aのところに一緒に行きましょう」

 加害者中2女子C「何で先生が一緒なんよ?」

 担任B「付き添い役を頼まれた」

 加害者中2女子C「逮捕じゃなくて、任意でしょ?断る」

 担任B「怖気づいた?」

 加害者中2女子C「怖気づきゃあしない。行ってやる」
  (被害者中2女子Aのところに行く)

 被害者中2女子A「これからみんなの遊興費を払うことはやめるから。一緒に遊びに行くのもやめる」

 加害者中2女子C「好きにすればいい。あんたが払ってやるって言うから、払って貰っただけなんだから」

 担任B「そお?Cの言う通り?」

 被害者中2女子A「4月に転校してきて少し経ってから言葉のイジメを受けていた」

 加害者中2女子C「お前、変なこと喋んじゃねえよ」

 担任B「Cの今の言葉遣いでCとAの力関係がどちらが上か分かった。どんな言葉でイジメられたの?」

 被害者中2女子A「『いい家の子なんだってね。だからツンツンしてるんだ』とか、『テストの成績がよかったんだってね、だから何様顔してんだ』とか、すれ違いざまとか、すぐ後ろから厭味を言われるようになり、殆どの生徒から無視されるようになった」

 担任B「任意の取り調べだけど、認める?認めない?」

 加害者中2女子C「いい家の子だってことにも、成績がいいってことにも少しムカついていたから、からかっただけ。だけど、みんながシカトするようになったのは私には関係ない。みんなの勝手だから」

 担任B「どうかしら?(Aに)それで?」

 被害者中2女子A「夏頃にコンビニで会ったら、『これ飲みたいんだけど、小遣い足りないの。払ってくれる?』って言われた。厭味を言われたり、無視されるのが少しは収まるかなと思って、払ってしまった」

 担任B「ご機嫌取りに出たのね?でも、一度のご機嫌取りでは終わらなかった」

 被害者中2女子A「ええ。『買いたい物があるから、今からコンビニに行くけど、お小遣い底をついっちゃった。一緒に行っておカネ、払ってくれない』とか、『ゲーセンに行くけど、小遣いが足りないから、メダル代、払ってくれない』ってスマホを掛けてきて、断ったら、また言葉のイジメを受けたり無視されたりするかもしれないと思って、嫌だったけど、一緒に行って、おカネを払うようになった」

 加害者中2女子C「頼んでそうして貰っただけで、脅したりしていない。イジメなんかじゃない」

 担任B「言葉のイジメや無視するイジメの続きでやったことでしょ?それができたのはさっき言ったようにCの方の力関係がAよりも上に置くことができていたからで、その力関係を利用しておカネを払わせていたのだから、立派なイジメね。もしイジメでないと言うなら、おカネを払ったり、払われたり、双方向の対等な関係でなければならない。Cは一度でも払ったことがあるの?」

 加害者中2女子C「Aが勝手に払っていたんだ」

 担任B「一度ぐらい私が払うって言ったことあるの?」

 加害者中2女子C「何で私が言わなきゃならないのよ」

 担任B「イジメではない、対等な関係なら、何度かは払っていたでしょうね。もしAが自分の意思で払っていて、Cが払うと言っても払わせず、そういう関係を当たり前にしていたなら、Cはお金を払って貰う済まなさの埋め合わせに大抵のことはAの言うことを聞こうとして、今とは逆にAを上に置いてC自身を下に置く上下関係ができていたでしょうね」

 加害者中2女子C「何で私がAの下にならなきゃなんないのよ」

 担任B「そら、ご覧なさい。CはAの上に立っていた。その関係でおカネを払って貰っていたから、言葉はお願いのように見えても、一種の強制行為でイジメだった」

 被害者中2女子A「例え無視されたり、厭味を言われたりしても、私はもう、1円も払わない」

 加害者中2女子C「勝手にすればいい。お前になんか、払って貰わなくたっていい」

 担任B「返金を求める裁判を起こせば、勝てる。おカネが戻ってくる」

 被害者中2女子A「裁判に勝っても、嬉しくないでしょうから。人生の勉強をさせて貰ったと思って、苦い経験のまま残しておきます」

 担任B「C、Aの自分にはない勉強の優秀な成績も、家におカネがあることも、どれも様々な可能性を生み出す土台となるから、羨ましくなったり、妬ましくなったり、ムカつく気持は理解できるけど、他人の可能性は自分の力とはならない。力となるのは自分自身の可能性だから、これと決めた可能性に賭けてみるべきでしょうね」

 加害者中2女子C「ハッキリ言ってくれたね。可能性を生み出す土台なんて何もない。土台がなければ、何も生まれない」

 担任B「高校まで行くにしても、大学まで行くにしても、あるいは専門学校に行くにしても、先ず大人になったらしてみたい仕事は何か、探すことから始めたら?職業ガイドブック関係の本なら図書館にもあるし、気に入りそうな仕事を探してみる。探すことができたなら、本に書いてあることだけではない色々なことを知りたければ、ネットでさらに詳しく調べてみる。気に入りそうだと思ったことや、やってみたら面白そうだと思ったことが土台となって、自分なりの可能性に導いてくれる」

 加害者中2女子C「保証してくれるの?」

 担任B「保証はできない」

 加害者中2女子C「えっ、なぜ?おかしいじゃないか」

 担任B「どれくらい真剣に取り組むか分からないから保証できない。真剣に取り組めば、その姿勢自体が可能性を生み出す土台となる」

 加害者中2女子C「ああー、そうか。途中で飽きちゃうかもしれないけど、やってみるか?」

 担任B「是非試してみるべきね」(終了)

 指導主任講評「担任Bの会話の中に自己省察、他者省察、価値観の比較化を促す言葉が多く含まれている。加害者中2女子Cの最後の言葉は負の感情をコントロールできる地平に立った内容となっている。だが、あくまでもその地平の出発点に位置することができただけで、本人の成長はC自身の今後の姿勢に負うことになるだろうし、どういった姿勢を取り続けるかによって生み出す可能性にしても、その結果としての社会に出てからの本人なりの活躍も違ってくることになるということを誰もが頭に置いて置かなければならない」

 以上、アドリブ・ロールプレーの参考例をいくつか例示してみた。アドリブに拘るのはシナリオ仕立てのロールプレーだったなら、セリフをなぞる方向に注意が向けられ、言葉を作る頭に向ける注意が疎かになりがちで、暗記教育とさして変わらぬ道筋を辿ることになる危険性を抱えかねないからである。児童・生徒たち自身が担任や指導主任の助けを借りたとしても、アドリブで言葉を作る試行錯誤を繰り返しながらロールプレーを組み立てていった場合、イジメの問題に最も近くにいる児童・生徒たちの感性によって現実のイジメにより即した、嫌なことは断るところから入る展開が期待できる。と同時にその友人等を含めてイジメ被害者側が利益相反の関係にあるイジメ加害者側とその利益相反を押さえて自らの利益に適うようにアドリブでイジメを断るためのセリフを成り立たせていく試行錯誤は会話思考能力とその言葉を思い通りに相互に伝え合う会話伝達能力の訓練と、険悪な関係にあっても言葉を用いた秩序だったコミュニケーションを成り立たせる能力の訓練に役立っていくだろうし、それが全校生徒の前で行われることによってより多くの児童・生徒に訓練の影響を与えることができる。そのような状況に向に進めば、イジメの未然防止にも役に立つ方向に事態は少しずつではあっても、動いていくことと思われる。

 理想はロールプレイ中の指導主任の役割や最後の事例に於ける担任Bの役割を児童・生徒自身が被害児童・生徒やその友人等の役割として担い、指導主任や担任Bのような言葉を作り出すことができるようになることである。
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イジメ過去最多歯止めは厭なことは「やめて欲しい」で始まり、この要請に順応できる人間としての成長を求めるロールプレイで(1)

2022-12-09 05:49:59 | 教育
  イジメ加害者にイジメという攻撃を強いる要因は広く知られていることの説明だが、怒り、憎しみ、恨み、嫉み、嘲り(面白がって笑う)、間違った優越感の誇示(その裏返しとしての蔑み)等々の負の感情の発露に基づく。この感情をコントロールするキッカケを与えることができれば、イジメの未然防止に役立つ。役立たせようとして学校で行っている方法の一つがロールプレイングであり、略してロールプレイと呼ばれている。role(役割)+playing(演じること)で「役割演技」と呼称されているが、前以って用意しておいたシナリオに基づいて演じさせるのとイジメの様々にある場面のみを設定してアドリブ(即興劇)で演じさせる二つの方法が行われている。どちらもイジメ加害者とイジメ被害者、イジメ傍観者等を登場人物に仕立てて、実際の状況に即してそれぞれの役割を演じさせることでイジメの成り立ちやイジメの展開、さらにイジメ加害者とは何か、イジメ被害者とは何か、イジメ傍観者とは何かなどなどの感じ方や思いを見つめさせて客観的視点を持つように仕向け、その視点を自身の行動にまで反映させて、その行動の善悪が判断できる成長を促し、イジメ未然防止に応用する。果たして学校で行っているイジメ未然防止目的のロールプレイは誰もが抱えることになる負の感情をコントロールする仕掛けとなっていて、イジメの未然防止に一定程度役立っているだろうか。どうも、そうではないようだ。

 不登校とイジメが過去最多との記事を読んで、両弊害を終息させる方法はないにしても、歯止めをかける方法ないのだろうかと考えてみた。学校教師や教育評論家といったことを職業としている優れた人材ができていないことを教師として学校教育に携わった経験ゼロの人間が考えつくはずはないと思われそうだが、戦前生まれの比喩となるが、竹槍でB29に向かうが如くに解決困難な障害に突っかかっていくのも悪くはない。歯止めに関してはイジメの問題に絞って取り上げるが、イジメの歯止めは学校という社会の生活環境の改善となって現れて、不登校生徒数もかなり減少することになると思う。

 2022年10月27日付NHK NEWS WEB記事が2021年度の小中学生の不登校が2020年度+約4万9000人、+25%の24万4940人で過去最多と出ていた。内訳は小学生8万1498人、中学生16万3442人。不登校の小中学生増加は9年連続、10年前との比較で小学生3.6倍、中学生1.7倍。特に中学生は20人に1人が不登校となっている。増加要因を調査した文科省はコロナ禍の影響を挙げている。学級閉鎖だけではなく、感染への不安による自主休校など「感染回避」で30日以上休んだ児童・生徒数は小中学生と高校生で合わせて7万1704人、2021年度に比べて休みが2倍以上に増えたと記事は伝えている。2021年度の感染児童・生徒数は約59万人。コロナ禍での生活環境の変化や学校生活での様々な制限が交友関係などに影響、登校する意欲が湧きにくくなったのではないかと分析しているという。この分析を素直に受け止めると、日本国内コロナ患者第1号発症確認は2020年1月初旬のことで、それまでの不登校の小中学生増加8年連続は説明がつかなくなる。コロナ禍の影響もあるだろうが、学校社会の一般的な人間関係から受ける児童・生徒のそれぞれの感受性に問題点を置くべきだと思う。

 日常的な人間関係は良好なコミュニケーションのみで成り立っているわけではない。良好なコミュニケーションを取れる人間と仲間を組むことになるが、厄介なことにある日突然、良好が険悪に変じて人間関係を阻害することになり、往々にして不登校やイジメという形を取ることになる。険悪へと変じたなら、良好なコミュニケーションを取れる新たな仲間を早急に求めるべきだが、妬まれはしないかなどと恐れてグズグズするうちに新しい仲間をつくる機会を逃してしまったりする。

 不登校が過去最多となったことについて。

 清重隆信文部科学省児童生徒課課長「不登校の要因が複数の場合もあるので、一人ひとりにあった対応を進められる環境整備に取り組み、学びの保障に努めたい」

 不登校の小中学生が9年連続の増加という記録を前にしながら、環境整備を今後の取組みとする発言となっている。しかもあるべき人間関係の構築に的を絞った問題意識の提示を全面に出すべきを、そうはなっていない。教育行政の専門家の発言だから、間違ったことは言っていないように思えるが、問題の根本にある原因の改善に立ち向かわなければ、懸案の放置とさして変わらないことになるが、9年連続の増加という事態そのものが懸案となっている問題放置そのものを示すことになる。この長年の放置は何を言おうと、今後共実を結ぶ期待可能性を抱かせないことになる。

 同じ日付(2022年10月27日)のNHK NEWS WEB記事が文部科学省が同日発表した2021年度の全国の学校に於けるイジメ認知件数が61万件超で、コロナ禍で一斉休校が行われた2020年度より約9万8000件増の過去最多だと伝えている。

 内訳は
▽小学校50万562件
▽中学校9万7937件
▽高校1万4157件
▽特別支援学校2695件
 
 イジメ原因の自殺児童・生徒368人。内訳は
▽小学生8人
▽中学生109人
▽高校生251人

 368人もの児童・生徒。1学級生徒数約30人としても、12学級の児童・生徒を1年間にイジメで死に追いやってしまった。考えられない恐ろしい数字である。

 イジメを含めた不登校等の「重大事態」は2020年度から+191件の705件で過去2番目。SNSなどインターネットを使ったイジメ件数は2020年度+約3000件の2万1900件で過去最多。文部科学省はイジメ増加の背景に不登校と同様にコロナ禍で学校行事の制限や給食の黙食などが続いたことで人間関係を築くのが難しくなっていることがあると見ているという。

 清重隆信文部科学省児童生徒課課長「(コロナ禍による)さまざまな行事の制限で子どもたちに大きなストレスがかかっている。スクールカウンセラーなどによる相談体制の充実に努めたい」

 コロナ禍の前からイジメも不登校も深刻な状況にあったのだから、コロナ禍にのみ目を向けた対応は問題意識を狭くする。安倍内閣が内閣の最重要課題の一つと位置づけた教育の再生を議論し、実行に移していくための「教育再生実行会議」の設置を閣議決定したのは2013年1月15日。1999年以前は成人の日であった1月15日の閣議決定とは何か象徴的である。第1回会議は2013年1月24日に開催。2013年2月26日に第一次提言がなされた。

 《教育再生実行会議の提言の概要》(文部科学省)から「いじめの問題等への対応について」(第一次提言)(2013年2月26日)を抽出。

🔴 心と体の調和の取れた人間の育成に社会全体で取り組む。道徳を新たな枠組みによって教科化し、人間性に深く迫る教育を行う。
🔴 社会総がかりでいじめに対峙していくための法律の制定
🔴 学校、家庭、地域、全ての関係者が一丸となって、いじめに向き合う責任のある体制を築く。
🔴 いじめられている子を守り抜き、いじめている子には毅然として適切な指導を行う。
🔴 体罰禁止の徹底と、子どもの意欲を引き出し、成長を促す部活動指導ガイドラインの策定 

 「社会総がかりでいじめに対峙していくための法律の制定」の謳い文句どおりに『いじめ防止対策推進法』が2013年(平成25年)6月28日に公布。〈体罰禁止の徹底と、子どもの意欲を引き出し、成長を促す部活動指導ガイドラインの策定〉の謳い文句に添って体罰禁止を主眼とした『運動部活動での指導のガイドライン』を2013年5月27日に発表。道徳の教科化が2018年に小学校、2019 年に中学校で全面実施。だが、2021年度の全国の学校でのイジメ認知件数は過去最多。いじめ防止対策推進法の施行に伴って2013年度からイジメの定義は、〈当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為 (インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。〉とされているが、それ以前は、〈当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの〉とされていた。イジメを幅広く捕捉するために言葉を和らげたのかもしれないが、イジメは児童・生徒なりの人格や喜怒哀楽の自然な感情を歪める心身に対する硬軟の攻撃そのものであって、いじめ防止対策推進法施行以前の、〈心理的、物理的な攻撃〉とする解釈の方がより適切な表現に思える。

 心身に対する硬軟の攻撃とは心理的・肉体的痛めつけであって、心理的と肉体的とが合わさって命そのものとなるから、イジメは命に対する痛めつけ、命の痛めつけそのものであり、体罰が心理的・肉体的攻撃を用いた命の痛めつけでもあるのだから、イジメの範疇に入り、イジメと体罰は命の痛めつけという点で同質同士の仲間関係にある心理的・肉体的攻撃ということになる。

 安倍晋三が2013年1月に閣議決定、「教育再生実行会議」設置から9年経過したが、いじめと対峙していくために制定した2013年6月のいじめ防止対策推進法施行も、道徳の教科化も、イジメ・不登校の抑止に役に立たなかった。その結果の過去最多ということである。例えコロナ禍の影響があったここに来ての増加傾向だとしても、施策の全てが抑止要因としての働きを一貫して見せることはなかった。

 イジメも不登校も児童・生徒間の人間関係の結果値の一つであるが、このことは人間が他者との関係で存在する相互性の社会の生き物であり、児童・生徒同士が学校社会を主舞台として他の児童・生徒との関わりで相互に自己を存在させている生き物である以上、断るまでもないことで、上記NHK NEWS WEB記事がネタ元とした『令和3年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について』 (文科省・2022年10月27日)が児童・生徒の問題行動のうち、公立小学校のイジメに限定して、人間関係という視点からどの程度に捕捉しているか、主だった内容を眺めてみることにする。NHK NEWS WEB記事から既に触れているが、先ずこの画像を載せておく。
  ② いじめを認知した学校数は29、210 校(前年度29、001 校) 全学校数に占める割合は79.9%(前年度78.9%)
③ いじめの現在の状況として「解消しているもの」の割合は80.1%(前年度77.4%)
④ いじめの発見のきっかけは、
 ・「アンケート調査など学校の取組により発見」が54.2%(前年度55.4%)と最も多い
 ・「本人からの訴え」は18.2%(前年度17.6%)
 ・「当該児童生徒(本人)の保護者からの訴え」は10.7%(前年度10.1%)
 ・「学級担任が発見」は9.5%(前年度9.6%)
⑤ いじめられた児童生徒の相談の状況は、「学級担任に相談」が82.3%(前年度81.5%)と最も多い
⑥ いじめの態様のうちパソコンや携帯電話等を使ったいじめは21、900 件(前年度18、870 件)。総認知件数に占める割合は3.6%(前年度3.6%) 
⑦ いじめ防止対策推進法第28 条第1 項に規定する重大事態の発生件数は705 件(前年度514 件)

 (イジメ解消の条件は次のようになっている。)

 「解消している」状態とは、少なくとも次の2つの要件が満たされている必要がある。ただし、これらの要件が満たされる場合であっても、必要に応じ、他の事情も勘案して判断するものとする。

① いじめに係る行為の解消;
 被害者に対する心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)が止んでいる状態が相当の期間継続していること。この相当の期間とは、少なくとも3か月を目安とする。ただし、いじめの被害の重大性等からさらに長期の期間が必要であると判断される場合は、この目安にかかわらず、学校の設置者又は学校いじめ対策組織の判断により、より長期の期間を設定するものとする。

② 被害児童生徒が心身の苦痛を感じていないこと;
 いじめに係る行為が止んでいるかどうかを判断する時点において、被害児童生徒がいじめの行為により心身の苦痛を感じていないと認められること。被害児童生徒本人及びその保護者に対し、心身の苦痛を感じていないかどうかを面談等により確認する。

 イジメ発生件数に対して解消割合は80.1%。だが、年々のイジメ件数が減らない状況は解消が一時的に終わっていて、3ヶ月後か、あるいはそれ以上の月数を経て、あるいは年次を超えて標的を変えることなく再発させているか、標的を変えて、新たなイジメを発生させている様子を窺わせると同時にイジメ解決が事後対応、あるいは対処療法となっていて、事前予防、あるいは原因療法となっていないことを証明することになる。

 (5) いじめの発見のきっかけ(公立小学校のみ抽出)

(注)(A)と(B)の構成比は「(A)+(B)」合計件数に対する(A)、(B)それぞれの件数の割合。(1)~(5)と(6)~(12)それぞれの構成比は「(A)+(B)」合計件数に対する各件数の割合。

(A)学校の教職員等が発見(公立小学校342、274件 構成比69.0%)

(1)学級担任が発見(公立小学校47、177件 構成比9.5%)
(2)学級担任以外の教職員が発見(養護教諭、スクールカウンセラー等の相談員を除く) (公立小学校6、274件 構成比1.3%)
(3)養護教諭が発見(公立小学校1、022件 構成比0.2%)
(4)スクールカウンセラー等の相談員が発見(公立小学校494件 構成比0.1%)
(5)アンケート調査など学校の取組により発見(公立小学校287、307件構成比57.9%)

(B)学校の教職員以外からの情報により発見(公立小学校153、820件 構成比31.0%)

(6)本人からの訴え(公立小学校81、261件 構成比16.4%)
(7)当該児童生徒(本人)の保護者からの訴え(公立小学校50、902件 構成比10.3%)
(8)児童生徒(本人を除く)からの情報(公立小学校14、721件 構成比3.0%)
(9)保護者(本人の保護者を除く)からの情報(公立小学校5、683件 構成比1.1%)
(10)地域の住民からの情報(公立小学校293件 構成比0.1%)
(11)学校以外の関係機関(相談機関等含む)からの情報(公立小学校620件 構成比0.1%)
(12)その他(匿名による投書など) (公立小学校340件 構成比0.1%)

 (A)を見てみると、学校社会に於ける生徒にとって最も身近な存在である学級担任のイジメ発見は9.5%と多くはなく、「アンケート調査など学校の取組により発見が」半数以上の57.9%を占めているが、アンケート調査が主体ということなら、学校が用意したものであっても、間接的な把握にとどまる。

 (B)から窺い得ることは「本人からの訴え」と「当該児童生徒(本人)の保護者からの訴え」が合計合わせて26.7%、約3分の1近くを占めるているということと、想像するに生徒それぞれにとってイジメがかなり深刻な程度に達している、あるいは限界に近づいていて、我慢できなくなって訴え出たという状況が見て取れる。そして訴え出るまでの間、学校側は様々な対策に取り組んでいながら、イジメを把握するまでに至っていなかった裏の状況が見えてくる。
 

 (7) いじめの態様:

冷やかしやからかい、悪口や脅し文句、嫌なことを言われる。(公立小学校282、582件 構成比57.0%)
仲間はずれ、集団による無視をされる。(公立小学校61、127件 構成比12.3%)
軽くぶつかられたり、遊ぶふりをして叩かれたり、蹴られたりする。(公立小学校124、059件 構成比25.0%)
ひどくぶつかられたり、叩かれたり、蹴られたりする。(公立小学校31、218件 構成比6.3%)
金品をたかられる。(公立小学校4、393件 構成比0.9%)
金品を隠されたり、盗まれたり、壊されたり、捨てられたりする。(公立小学校25、430件 構成比5.1%)
嫌なことや恥ずかしいこと、危険なことをされたり、させられたりする。(公立小学校47、742件 構成比9.6%)
パソコンや携帯電話等で、ひぼう・中傷や嫌なことをされる。(公立小学校9、264件 構成比1.9%)
その他(公立小学校21、907件 構成比4.4%)

 イジメの種類の多さに驚くが、学校はこれだけのイジメの方法を把握していながら、事前予防、あるいは原因療法に役立たせることができないでいる。
 

 (9)学校におけるいじめの問題に対する日常の取組

 (注3)構成比は各区分における学校総数に対する割合

職員会議等を通じて、いじめの問題について教職員間で共通理解を図った。(公立小学校数18、859校 構成比98.4%)
いじめの問題に関する校内研修会を実施した。(公立小学校数17、229校 構成比89.9%)
道徳や学級活動の時間にいじめにかかわる問題を取り上げ。指導を行った。(公立小学校数18、695校 構成比97.5%)
児童・生徒会活動を通して、いじめの問題を考えさせたり、児重・生徒同士の人間関係や仲間作りを促進したりした。(公立小学校数16、390校 構成比85.5%)
スクールカウンセラー、相談員、養護教諭を積極的に活用して教育相談体制の充実を図った。(公立小学校数17、626校 構成比91.9%)
教育相談の実施について、学校以外の相談窓口の周知や広報の徹底を図った。(公立小学校数16、456校 構成比85.8%)
学校いじめ防止基本方針をホームページに公表するなど、保護者や地域住民に周知し、理解を得るよう努めた。(公立小学校数17、561校 構成比91.6%)
PTAなど地域の関係団体等とともに、いじめの問題について協議する機会を設けた。(公立小学校数8、602校 構成比44.9%)
いじめの問題に対し、讐察署や児童相談所など地域の関係機関と連携協力した対応を図った。(公立小学校数7、140校 構成比37.2%)
インターネットを通して行われるいじめの防止及び効果的な対処のための啓発活動を実施した。(公立小学校数16、531校 構成比86.2%)
学校いじめ防止基本方針が学校の実情に即して機能しているか点検し、必要に応じて見直しを行った。(公立小学校数18、036校 構成比94.1%)
いじめ防止対策推進匡第22条に基づく、いじめ防止等の対策のための組織を招集した。(公立小学校数18、307校 構成比95.5%)

 〈学校におけるいじめの問題に対する日常の取組〉のうちのどれかは役立った事例や学校もあっただろうが、全体的には役立たなかったことになる。例を上げてみると、〈インターネットを通して行われるいじめの防止及び効果的な対処のための啓発活動を実施した。>が、〈公立小学校数16、531校 構成比86.2%〉も占めている状況に対して2021年度のSNSなどインターネットを使ったイジメ件数は2020年度+約3000件の2万1900件で過去最多という状況はイジメ解決がやはり事後対応、あるいは対処療法となっていて、事前予防、あるいは原因療法となっていないことを証明することになる。

 (10) いじめの日常的な実態把握のために、学校が直接児童生徒に対し行った具体的な方法(いじめを認知した学校)

アンケート調査実施

①【いじめを認知した学校】

②【いじめを認知していない学校】の統計も取っている。

 
以上見てきた中で何よりも問題なのは、〈 (9)学校におけるいじめの問題に対する日常の取組〉である。イジメ認知件数が年々増加して過去最多となっている状況を前にするなら、「日常の取組」が機能している学校が存在するかもしれないが、全体的には機能不全に陥っていることを示す。当然、その原因調査が行われていなければ、イジメや不登校、あるいは暴力行為が増えた、減ったの結果値だけを辿ることになる。特に「児重・生徒同士の人間関係や仲間作りの促進」は人間関係がイジメや不登校発生の主たる要因となっていると見なければならない以上、イジメや不登校の事前予防・原因療法を「促進」する取組でもあるが、他の取組同様に機能不全の観点から眺め返してその原因を探らなければ、機能することのない"促進"に向けた無駄な努力を続けることになるだろう。

 《学校におけるいじめ問題に関する基本的認識と取組のポイント》(文部科学省)には次のような記述がある。
  
 〈いじめ問題に関する基本的認識

 1.「弱いものをいじめることは人間として絶対に許されない」との強い認識を持つこと。
 2.いじめられている子どもの立場に立った親身の指導を行うこと。
 3.いじめは家庭教育の在り方に大きな関わりを有していること。
 4.いじめの問題は、教師の児童生徒観や指導の在り方が問われる問題であること。〉等々・・・・・

 「2」番目は事前予防・原因療法をすり抜けたイジメや不登校に対する事後対応・対処療法ということになる。このことはイジメや不登校が過去最多という現状、横行を恣にさせている現状からみても証明できることであって、当然、「教師の児童生徒観や指導の在り方が問われる」ことになっているが、その問われ方は主として事後対応・対処療法の場でのこととなり、「1」の〈「弱いものをいじめることは人間として絶対に許されない」との強い認識を持つこと。〉は現実には生かされていない単なるタテマエ、単なる標語に陥っていることになる。イジメを受ける生徒が見つかってから、不登校となる生徒が出てきてから、指導に取り掛かるという手順だけが見えてくる。

 人間関係教育に関しては次の記述がなされている。
 
 〈適切な教育指導

 ③ 学校教育活動全体を通して、お互いを思いやり、尊重し、生命や人権を大切にする態度を育成し、友情の尊さや信頼の醸成、生きることの素晴らしさや喜び等について適切に指導すること。特に、道徳教育、心の教育を通して、このような指導の充実を図ること。
 また、奉仕活動、自然体験等の体験活動をはじめ、人間関係や生活経験を豊かなものとする教育活動を取り入れることも重要であること。〉――

 イジメの加害生徒や被害生徒、不登校生徒には耳に届くことはない、具体性の全くない美しい言葉の羅列に過ぎないだろう。

 実際問題として学校・教師がイジメ問題について具体的にどう取り組んでいるのか、《いじめ対策に係る事例集》(文部科学省初等中等教育局児童生徒課/平成30年9月)からいくつかの事例を見てみることにする。文飾は当方。

 冒頭部分に次のような断りが記載されている。〈本事例集の作成に当たっては、各教育委員会や学校等から募集した多くの実際の事例の中から、いじめの防止、早期発見及び対処等の点で特に優れていると判断した事例や学校現場において教訓となると判断した事例を掲載しました。また、事例ごとに文部科学省のコメントを付記し、着眼点を整理しましたので、事例とあわせて御参照ください〉――

 要するにイジメ解決の対応がスムーズに進めることができなかった事例や早期発とはいかなかった事例等々は文科省の募集に応じなかったケースがあることが考えられ、逆に満足のいく対応ができた事例のみが募集に応じた可能性は否定できず、募集に応じた事例はさらに篩を掛けられて、「いじめの防止、早期発見及び対処等の点で特に優れていると判断した事例や学校現場において教訓となると判断した事例」が主として掲載の栄誉を受けたということになる。結果として文科省のコメントは肯定的な評価という形を取るはずである。このことを前以って承知して読み通さなければならない。

 公立中学校 明らかに法のいじめに該当するので、いじめとして扱うべきもの等の具体例 Case 01 加害・被害の関係性に気づきづらい事案

事例の概要
❶ 関係生徒
●【被害】中学1年男子A(1名)
●【加害】中学1年男子B(1名)

❷ いじめの概要
 BがAに対し女子生徒の嫌がることや、女子生徒への告白を「やらないと痛い目にあうぞ」「先生にはC(無関係の生徒)にやらされたと言え」などと強要してやらせていた。

 中学校における普段の二人の様子は、主従関係があるようには見えず、普段は一緒に行動していた。周囲には仲良くしているように見え、何もなく過ごしていた。Aは性格がおとなしく静かなタイプであり、そのことがBにとってAは自分の言う通りになる都合のよい相手であったようである。

 今回の事案以外にも、同様のケース(BがAに命令すること)は複数あった。違う小学校出身の男子に「アホと言ってこい」、あるいは、違う小学校出身の女子に無差別に「告白してこい」「身体を触ってこい」などと、昼休みに廊下で命令していた。

 Bが今回の出来事を起こした動機については、本人曰く特にこれといった理由はなく、ただ楽しかったようである。関係教職員は、違う小学校出身の同級生に、自分の存在をアピールしようとしたのではないか、と見ている。

 AとBに事実確認をしていく中で、二人は小学校6年生のときにけんかをし、それ以降、勝ったBがAとの間に主従の関係をつくって命令に従わせていたことが判明した。小学校では当時「けんか」と判断し、事後の関係性に気づいておらず、小中間の引き継ぎも行われていなかった。

 よって、学校は、Aを自分の弟子として、見下して命令していたこと、過去の暴力で支配しようとしたこと、Aをターゲットにし続けたこと、長い期間続いていること、AがBの暴力に怯え命令に従っていたこと、やりたくないことをやらされたこと、嫌なことを隠していたことといった理由から、いじめと認知し、事案に対応した。

事態の経緯及び対応
❶ 本事案を教師が把握することとなった経緯
●昼休みに廊下で騒がしく女子が逃げ回っていたのを確認したこと
●他クラスの女子生徒が自学ノート(自主学習ノート:小学生の家庭学習)に「Aくんが身体を触ってくるので注意してください」と担任宛に書いていたこと
●同じ小学校出身の男子3名(A・Bと同クラス)が「小学校の時からAがいじめられている」と担任に相談したこと

❷ 教師が生徒から事情聴取した内容
Aより: 命令に従わないと「殴るぞ」と(Bから)言われていた。先生に事情を聞かれた時は、『命令をやらされたことは、Bからの命令ではなく、C(同じ小学校出身で小学校のときにAに嫌がらせをしていた)に命令されたと言え』と(Bから)言われている。
Bより: CがAに命令をしていたが、自分は友達だから身体を張ってでも(Aを)守ってあげなければならない。
Cより: 特別何かを命令したり、いじめたりしていない。

❸ 教師が指導した内容
A: 自分が嫌なことを強要されたときは、誰かに相談すること。Bと一緒にいることが苦しいと思うなら距離を置くことも考えること。
B: 師匠と弟子の関係は友人同士には成り立たないので解消すること。今まで自分がAに対して行った嫌がらせを謝罪し、友だちとして生活すること。嘘をつかないこと。いじめは許されないこと。
C: 人に対して嫌がらせをしないこと。

❸ 本事案を連絡した際の保護者の反応
A保護者: 事柄の内容、小学校のときから続いていたこと、本人が相談してくれなかったことすべてにショックを受けていた。
B保護者:「はぁ…そうですか。うちの子だけですか?」という無関心な反応。
(Bの母親にAの自宅へ謝罪に行くよう促し、本人と母親が謝罪へ)

❺ 教師から周囲の生徒に対する説明
 嫌がらせを受けた女子生徒にはAが行った行為はA本人の意思ではなく、やらされていた行動だったと伝え、納得をしてもらうことができた。

 学年生徒へは集会の時間を使い、「知っていること、見たことは教えて欲しい。いじめのないクラス、学年、学校を目指そう」と呼びかけた。

❻ 本事案に関して職員間の共通理解を図るための方法
 学校全体及び学年の生徒指導担当が複数で事案に対応した。事実を把握した初期の段階で、生徒指導担当は、管理職・学年団・部活動担当職員を招集し、事実の共通理解と今後の対応について協議を行った。
 後日、校内生徒指導委員会にて、他の学年生徒指導担当職員へ報告した。それ以外の教職員には職員会議で報告した。

❼ 指導後のA、Bの関係性・様子及び生徒指導担当の支援
 部活動がスタートしてからはA-B間の生活リズムの違いもあり、自然に良い距離ができていった。Bは部活動での仲間が増えたことや多くの先生に関わってもらうことで、明るく前向きに生活できている。

 Aも現在では新しい友人と仲良く、楽しそうに過ごしている。AとBが顔を向き合わせても、ごくごく自然体で対等に接しており、現在では主従関係があるようには感じられない。

 生徒指導担当教諭は、定期的にA本人に声かけをし、いじめが継続されていないか確認している。

本事例に対するコメント
●本事例は、一見すると、対等な関係性の下で仲良く過ごしている2人の友人が、実際には加害-被害の関係(非対称的な力関係)にあった事案である。「いじめの防止等のための基本的な方針」においては、いじめの認知について、「けんかやふざけ合いであっても、見えない所で被害が発生している場合もあるため、CE景にある事情の調査を行い、児童生徒の感じる被害性に着目し、いじめに該当するか否かを判断する」としている。いじめは教職員の目の届かない所で起きる場合があることに留意しつつ、児童生徒の感じる被害性に着目して、適切に認知することが重要である。
●学校が事実確認を進めた結果、本件をいじめと認知したことは適切な判断だったと言うことができる。なお、学校がいじめと判断した理由のうち「見下して命令していたこと」や「Aをターゲットにし続けたこと、長い期間続いていること」は、いじめか否かを判断するに当たっては考慮に入れる必要がない要件ではあるが、教職員においては、このような背景事情にも留意しつつ、適切な支援・指導につなげていくことが重要と考えられる。
●本事例のように、加害者と被害者の関係性に気づきづらい事案の場合は、当該児童生徒の表情や様子をきめ細かく観察するなどして、注意深く確認する必要がある。この点、生徒指導担当教諭が、Aの様子を継続的に確認していることは有効な取組と言える。

 この事例はイジメ加害者と被害者の関係性に気づきづらいものとしているが、イジメは本来的には教師に気づかれずに行うものだから、簡単には気づかれないのが当たり前であって、結果としてイジメの殆どが一定程度かそれ以上に進行したところで被害者本人が担任に訴えるか、たまたま目撃したほかの生徒が訴えるか、同じく教師がたまたま目撃することになって表面化するパターンを踏むことになるから、個別的に解決に乗り出す事後対応・対処療法の形式を取ることになっている。教師は学校教育者である以上、このことを自覚していなければならない義務があるはずだが、この義務に反して気づきづらい事例に入れているとしたら、教師として鈍感なのか、自分たちでイジメを発見できなかったことに対する責任回避意識を働かせているかどちらかだろう。

 加害者B自身は「これといった理由はなく、ただ楽しかった」こととしていて、関係教職員はBがAにさせていたことは違う小学校出身の同級生に自分の存在をアピールしようとしたと解釈していた。Aが命令なのか、指示なのか、自身の思い通りにBを行動させるのは一種の支配欲求から出た行為であって、その具体化がBを介した女子生徒に対しても支配を及ぼそうとする嫌がることや告白の強要であり、その支配欲求どおりにBを行動させることができた点に"楽しさ"を感じていたのだろう。如何なる行為・行動にも意味や目的があり、である以上、教師がBの「これといった理由はなく、ただ楽しかった」をそのまま受け止めるのは教育者としてあまりも素直過ぎる。

 BのAに対する支配行為には関係教職員の見立て通りに自己存在アピール目的が果たして加わっていたのだろうか。そのような目的があったとしたら、AがしていることはBがやらせていることだと自身の存在を表に出していなければ、自己存在アピールとはならない。他クラスの女子生徒が自学ノートに担任宛に「Aくんが身体を触ってくるので注意してください」と書いていることはA自身の存在のみを視野に入れた言葉であって、B自身の存在は見ていない言葉の成り立ちとなっているし、教師が嫌がらせを受けた女子生徒に対して、〈Aが行った行為はA本人の意思ではなく、やらされていた行動だったと伝え、納得をしてもらうことができた。〉としていることも、Aが嫌がらせを行っていた際にはBの存在は見えない状態になっていたことになり、見えない状態の存在はどうアピールもしようがない。但しBはAに対する支配行為を通して思い通りのことをさせることで達成感や満足感、肯定感を手に入れ、これらを手に入れることがAに対する自己存在をアピールする道具としていたことと解釈すべきだろう。学校教師が生徒の行動の目的や意図を読む目を欠いていたなら、事前予防・原因療法は夢のまた夢で、事後対応・対処療法すら、満足な決着を見ることなく、どこかが抜け落ちた解決しかできないことになる。

 公立中学校 明らかに法のいじめに該当するので、いじめとして扱うべきも Case02「大丈夫」と答えたので苦痛を受けていると判断しなかった事案

 事例の概要
❶ 関係生徒
●【被害】中学2年女子A(1名)
●【加害】中学2年女子B(1名)

❷ いじめの概要
●被害生徒Aは、加害生徒Bと同じグループの一員であるが、グループ内での立場が弱く、からかいやいじり、嫌がらせが起こるようになった。
●Aは、グループの一員であるため、自分がされて嫌だと思うことは嫌だと言えていると主張しており、いじめ被害を認めようとしない。

事態の経緯及び対応
❶ 事態の経緯
●Aはグループの一員として行動をともにしていたが、弱い立場のように見えたため、他のメンバーからからかわれたり、いじられたりすることがあった。Aは、常に同じ役割を担わされているわけでなく、言い返したりもしていることを例にあげ、いじめではないと主張している。

</>❷ 学校の対応
●客観的に見て、いじめに当たる事案としてとらえ、いじめ対応チーム会議を開き、対応した。
●Aから、どのような言動を受けているのか丁寧に聞き取るとともに、Aの心情に寄り添った指導を行った。
●Bを直接指導することをAが望んでいないため、教育相談の中で示唆的に指導を行った。
●学年集会を開き、いじめアンケートの結果をもとにした講話を行った。
●学年集会や教育相談を通じて、いじめについて指導を行った後、経過観察を行い、Aへのいじめにつながる言動があった時は、加害生徒に対し、その場でただちに指導を行った。

●本事例に対するコメント
❶ いじめ防止対策推進法の視点から
●「からかいやいじり、嫌がらせ」の行為があり、被害児童生徒が「心身の苦痛を感じている」(いじめ防止対策推進法第2条第1項)のであれば、「いじめ」として認知して適切な措置を講じる必要がある。
●本事例では、被害生徒がいじめ被害を認めていないため、いじめの定義に該当しないようにも思われるが、グループ内における当該生徒の立場など背景事情を考慮し、いじめ事案として捉えた上で、いじめ対応チーム会議(学校いじめ対策組織)を開催して対応した点は評価することができる。

❷ 児童生徒への支援・指導の視点から
●本事例では、加害生徒への指導をAが望んでいなかったために、教育相談の中で加害生徒に示唆的に指導を行うに留まっているが、示唆的な指導だけでは、必ずしもいじめの解消に結びつかない場合があることを認識しておく必要がある。

●グループ内のいじめについては、「いじめの防止等のための基本的な方針」において、「特定の児童生徒のグループ内で行われるいじめについては、被害者からの訴えがなかったり、周りの児童生徒も教職員も見逃しやすかったりするので注意深く対応する必要がある」とされている。こうしたことも踏まえ、グループ内のいじめを早期に発見するためには、「日頃からの児童生徒の見守りや信頼関係の構築等に努め、児童生徒が示す小さな変化や危険信号を見逃さないようアンテナを高く保つとともに、教職員相互が積極的に児童生徒の情報交換を行い、情報を共有することが大切」(基本方針)である。
●「いじめの防止等のための基本的な方針」で示しているいじめの解消の考え方も参考としつつ、Aに対する「からかいやいじり、嫌がらせ」が予期しない方向へ推移することのないよう、加害・被害生徒とも日常的に注意深く観察することが重要である。この点、学校が経過観察を行い、いじめにつながる言動があったときにただちに指導を行ったことは適切な対応であると考えられる。

❸ 保護者対応の視点から
●被害生徒の心情やグループ内での様子、いじめの状況について、経過観察の結果を踏まえ、保護者にも定期的に説明・報告することが重要と考えられる。

 被害生徒Aは〈グループ内での立場が弱く、からかいやいじり、嫌がらせが起こるようになった。〉――グループ内での立場の弱さがどのような理由で生じたのか、何がキッカケで「からかいやいじり、嫌がらせ」を受けていることを発見するに至ったのかの理由と、「からかいやいじり、嫌がらせ」の具体的内容は記載されていない。当たり前のことだが、事例集とはただこういうことがあった、ああいうことがあったと起きたことの事実を並べるだけではなく、他の参考に供する目的の情報として作成する。容姿や動作の点で、あるいはテストの成績の点で身体的を除いた攻撃の標的にされたのか、発見は生徒か教師の目撃によるものなのか、アンケートによる発見なのか、発見時のイジメの進行度合いも、発見が早かったのか遅かったのかの問題にも繋がることになるから、知らせるべき重要な情報としなければならない。だが、一切曖昧なままとなっている。

 〈Aは、常に同じ役割を担わされているわけでなく、言い返したりもしていることを例にあげ、いじめではないと主張。〉。対して学校側の対応を改めて。
 
●客観的に見て、いじめに当たる事案としてとらえ、いじめ対応チーム会議を開き、対応した。
●Aから、どのような言動を受けているのか丁寧に聞き取るとともに、Aの心情に寄り添った指導を行った。
●Bを直接指導することをAが望んでいないため、教育相談の中で示唆的に指導を行った。
●学年集会を開き、いじめアンケートの結果をもとにした講話を行った。
●学年集会や教育相談を通じて、いじめについて指導を行った後、経過観察を行い、Aへのいじめにつながる言動があった時は、加害生徒に対し、その場でただちに指導を行った。

 Aのイジメ否定を本人のプライドからと見てのことだろう、「客観的に見て」イジメ事案とした。だが、「からかいやいじり、嫌がらせ」の具体的な内容の提示もなく、それに対して客観的にどう判断するに至ったのか、その道筋も示さずにイジメだと結論した。後先からすると、順番が違うように見えるが、Aに対して丁寧な聞き取りを行い、Aの心情に寄り添った指導を行ったとしているが、丁寧な聞き取りがどのような言葉を用いて行われたのか、心情に寄り添った指導がどのような性格の内容のものなのか、さらにBに対して教育相談の中で「示唆的に」行ったとしている指導が厳密に言うと、どういった言葉をどういったふうに用いて、どういった効果を結果としたのか、さらにさらに学年集会や教育相談を通じて行ったとしているいじめについての指導は一般的なものか、当該学校独自の内容に基づいてしたことなのか、学校当事者のイジメについての諸々の認識を知る上で重要なことだが、肝心の知りたい情報は何一つ見えてこない。

 ところが文科省は「本事例に対するコメント」で"示唆的指導"については、〈加害生徒への指導をAが望んでいなかったために、教育相談の中で加害生徒に示唆的に指導を行うに留まっているが、示唆的な指導だけでは、必ずしもいじめの解消に結びつかない場合があることを認識しておく必要がある。〉と取り上げていて、共通理解の対象としているようである。もしかすると言葉の意味どおりにイジメはいけないといったことを一般論で仄めかしただけのことなのだろうか。

 Aがイジメではないとする根拠は、〈自分がされて嫌だと思うことは嫌だと言えていると主張して〉いることと、〈常に同じ役割を担わされているわけでなく、言い返したりもしていることを例にあげ〉ていることの2つとなっている。だが、自分がされて嫌だと思うことは嫌だと言ったり、言い返したりしているものの、自分がされて嫌だと思うことを完全に止める効果を与えることはできず、繰り返されている状況を窺うことができ、完全には止めることができない点に一定程度の上下関係が固定化されていることを意味することになる。この上下関係が「からかいやいじり、嫌がらせ」が繰り返される原因であって、そこに軽度ながら、イジメを見ないわけにはいかないということなのだろう。

 このような場合のイジメに関わる教師の指導は「自分がされて嫌だと思うこと」をA本人自身がか、担任が代わってか、相手に明確に告げて、「からかいやいじり、嫌がらせ」の対象から外すよう求めて、お互いが嫌だとは思わない、冗談で済ますことができる「からかいやいじり、嫌がらせ」にとどめることをルールとするよう決めさせることだろう。あとはこのように決めたルール通りの関係を築くことができるかどうかを見守り、できたなら、今までできていなかったことができるようになったのだから、お互いに人間的にそれなりに成長していることになるということを伝えて、「成長している」、「成長していない」をイジメの加害・被害を含めたそのときどきの児童・生徒の人間関係を向上させるキーワードにすべきだろう。例えば、「イジメを働くのは成長していない人間のすることだ」といった使い方をする。

 文科省が「本事例に対するコメント」の中で述べている「いじめの防止等のための基本的な方針」(2013年10月11日 文部科学大臣決定 最終改定2017年3月14日)とは、「いじめの定義」から始まって「いじめの防止等のために学校が実施すべき施策」、「いじめ防止基本方針の策定」等々イジメ防止を目的としたマニュアルで、学校・教師は学習指導要領に対するのと同じくこのマニュアルに従ってイジメ対応を行っているように見受ける。例えば「7 いじめの防止等に関する基本的考え方 (1)いじめの防止」で、〈いじめは、どの子供にも、どの学校でも起こりうることを踏まえ、より根本的ないじめの問題克服のためには、全ての児童生徒を対象としたいじめの未然防止の観点が重要であり、全ての児童生徒を、いじめに向かわせることなく、心の通う対人関係を構築できる社会性のある大人へと育み、いじめを生まない土壌をつくるために、関係者が一体となった継続的な取組が必要である。〉云々とあるようにイジメの未然防止に関しては「心の通う対人関係の構築」、「社会性のある大人へと育み」、「いじめを生まない土壌の形成」等、このように抽象的な理念を謳うだけで、具体的な取組抜きのマニュアルとなっているから、学校の文科省のマニュアル追従の習性上、既に二つ挙げた事例だけではなく、以後の事例についても同じだろうが、事前予防・原因療法とならずに事後対応・対処療法ということにならざるを得なかったのだろう。

 明らかに法のいじめに該当するので、いじめとして扱うべきもの等の具体例  Case03 公立中学校 双方向の行為がある事案

事例の概要
❶ 関係生徒
●【被害】中学2年男子A(1名)
●【加害】中学2年男子B、C、D、E(4名)
❷ いじめの概要
●中学2年男子Aが、同級生B、C、D、Eからあだ名で呼ばれている。
●AもB、C、D、Eに同じようにあだ名をつけて、グループの輪に入ろうとしているが、自分の行為だけ、周囲から否定されている。
●Aは他の4名と仲良くやりたいと思っており、あだ名をつけられていることは、友情の証と捉えている。Aも他の4名に自分と同じようにあだ名をつけているが、なぜか自分の行為は否定されているような気がしている。

 事態の経緯及び対応
●生徒指導部会での報告、対応策の検討、職員会での情報共有を行った。
●Aに対して、今の気持ちを聞くための面談を行った。
●Aは加害生徒への指導を望んでいなかったが、あだ名に込められた正しくない言葉遣いや、人を傷つける言葉遣いは、他の4名のために良くないことから、耳にした時点で指導することを確認した。
●同様に他人にあだ名をつけている行為について、仲の良さをはき違えないようにと指導した。
●B、C、D、Eには個人面談を行い、Aに対する感情や、振る舞い方について話を聞き、アドバイスと指導を行った。

 本事例に対するコメント
●本事例では、あだ名で呼ばれることに対して、当該生徒が心身に苦痛を感じていることも勘案し、いじめに該当すると捉えて対応している。本事例のように、双方向の行為がある事案については、「いじめの防止等のための基本的な方針」にあるとおり、「けんかやふざけ合いであっても、見えない所で被害が発生している場合もあるため、背景にある事情の調査を行い、児童生徒の感じる被害性に着目し、いじめに該当するか否かを判断する」ことが必要である。
●本事例では、被害生徒Aが、加害生徒4名にあだ名をつけてグループの輪に入ろうとしているが、その行為が否定されている状況にある。Aは加害生徒4名と仲良くしたいと思っているためか、当該4名への指導を望んでいないようだが、Aの感じる被害性に着目して、個人面談や指導など必要な対策を講じたことは適切であったと考えられる。
●加害生徒に指導を行う際は、友情や親しみに由来するあだ名であっても、相手に心身の苦痛を与えてしまう場合があることを、あわせて理解させることが考えられる。

 AはB、C、D、Eのグループの一員になりたいと思っているが、なれないでいる。B、C、D、EはAをあだ名で呼び、Aも仲良くやりたいと思って、親密さを演出する目的でか、4人にあだ名を付けて、〈グループの輪に入ろうとしているが、自分の行為だけ、周囲から否定されている。〉と思っている。否定の根拠はあだ名に正しくない言葉遣いが込められていることと人を傷つける言葉遣いを投げつけられること、さらに4人をあだ名で呼んだとき、受け入れられないこと、多分、「あだ名で呼ばないでくれ」、「ちゃんと名前で呼べ」と言われているのかもしれない点に置いているのだろう。4人はAのあだ名に正しくない言葉遣いを込めていることからか、Aからあだ名で呼ばれると、同じ性格のあだ名と疑い、拒絶反応を示しているのかもしれない。

 但しAは正しくない言葉遣いがあだ名に込められていても、人を傷つける言葉遣いを使われてても、加害生徒への指導を望んでいなかった。この関係性はA自身を4人の人間よりも自分という人間を下に位置させて下位権威とし、4人の人間をAという人間よりも上に置いて上位権威とする構造を取っていることになる。このように上下の関係性を築いていても、グループの輪に入ろうとしているところに現れているようにAは苦痛を感じていなかった。教師たちはB、C、D、EをAに対するあだ名に正しくない言葉遣いが込めている点と人を傷つける言葉遣いを投げつける点で指導するに至ったのみで、Aの4人に対する上下関係を当然視している態度に対等な関係の必要性から指導の目が向いていたかどうかは窺うことはできない。文科省の「本事例に対するコメント」に、〈本事例では、あだ名で呼ばれることに対して、当該生徒が心身に苦痛を感じていることも勘案し、いじめに該当すると捉えて対応している〉と書いてあるが、指導前は、〈AもB、C、D、Eに同じようにあだ名をつけて、グループの輪に入ろうとしている〉こと、〈Aは他の4名と仲良くやりたいと思っており、あだ名をつけられていることは、友情の証と捉えている〉としているのだから、あだ名に苦痛は指導開始後、教師たちに諭されて、そう思うようになった可能性は否定できない。

 素(す)の人間関係は地位の上下や年齢の上下、男女の性別の違い等に関係なしに対等でなければならない。対等の意識は相互に同じ一個の存在と見ることによって成り立つ。人間関係が例え児童・生徒の間でも対等の意識に裏打ちされているべきである以上、Aが自分という人間をB、C、D、Eという4人の人間よりも下位権威と看做して下に置き、4人を上位権威に位置させて自分よりも上に置く上下意識(上下の権威主義)は時と場合に応じて自身をいつ卑下する場所に立たせかねない危険性を抱えるゆえに阻止しなければならない。上下関係のもとでの卑下や服従、妥協が当たり前になると、自分という人間を小さくすることになる。

 人間を小さくする学校教育は考えられないが、テストの成績にばかり目を向けると、テストの成績順位を受けた上下関係が形成されて、成績の悪い生徒に自己達成感の機会を与えず、自信喪失させ、結果的に児童・生徒の人間を小さくする手助けをすることになりかねない。 

 公立小学校 明らかに法のいじめに該当するので、いじめとして扱うべきもの等の具体例

Case04 グループ内のトラブル(その1)

事例の概要
❶ 関係児童
●【被害】小学3年女子A(1名)
●【加害】小学3年女子B、4年男子C(2名)

②いじめの概要
●11 月中旬、3日間に渡って、登校班で登校中、小学3年女子Aが、同じ登校班の小学3年女子Bと小学4年男子Cから「足を踏まれる行為」を複数回受けた。Aは心身ともに苦痛を感じていた。その行為を見ていた登校班の児童が担任に報告。しかし、担任は、事実関係を確認したところ、「足踏み遊び」の中で起こった行為であったとして、校内の「いじめ対応チーム」に報告しなかった。
●11月下旬、Aは学校を欠席し、その日にAの父親が来校した。学校は、父親の訴えにより、「しつこく足を踏まれる行為」を受けたことで、Aが心身ともに苦痛を感じていたことを初めて知った。
●学校は加害・被害児童の聞き取り調査を行い「しつこく足を踏まれる行為」を確認し、児童どうしの謝罪をもって事案終結としていた。加害及び被害児童の保護者には、面談による報告や謝罪の場に同席させることもなく、電話連絡に留まっていた。
●12 月中旬、Aが1週間連続して学校を欠席した。欠席の理由は「同じクラスのBが怖い」であった。
 12 月下旬、Aの父親が、BとCの保護者を家に呼び出し、謝罪させるという事態が発生した。学校が市教育委員会に「いじめ」の報告をしたのはその直後であった。

事態の経緯及び対応
❶ 学校が「しつこく足を踏まれる行為」を確認した直後の対応
●管理職、生徒指導、担任で今後の指導について協議。
●BとCから聞き取りを行うとともに、BとCがAに謝罪する場を設定。
●加害・被害児童の保護者に指導の結果を電話にて報告。
●Aの不安解消のため、集団登校時に教諭が同行。
●その後、Aは連続1週間の欠席。Aの保護者がBとCの保護者を家に呼び出して謝罪させるという事態に発展した。(情報不足。Aの連続1週間欠席の理由
❷ 学校が市教委にいじめを報告した後の対応
●「いじめ対応チーム」にて、今後の指導について協議。
●加害・被害児童の保護者に直接会い、事実関係とともに指導方針を伝える。
●「ケース会議」を継続して開催(市教委やスクールカウンセラーも参加)。
●Aが別室で学習できる体制を構築。
●進級時にBと違う学級・登校班になるよう配置。その結果、Aは、3学期は別室で、4月以降は教室で毎日学習している。

成果
●この事例により、「いじめの定義」「早期発見における取組」「いじめに対する措置」等が学校において徹底されていないことが明確となり、全教職員で「学校いじめ防止基本方針」を確認するとともに、「学校いじめ対応マニュアル」を作成する契機となった。
●いじめの認定後、別室で学習できる体制の構築、進級時の学級・登校班編成により、被害児童が安心して登校できるようになった。

本事例に対するコメント
❶ いじめ防止対策推進法の視点から
●11 月中旬の「しつこく足を踏まれる行為」について、担任は、Aが心身に苦痛を感じていたにもかかわらず、「足踏み遊び」の中で起こった行為であるとして、校内のいじめ対応チーム(学校いじめ対策組織)への報告を行わなかった。これは、いじめ防止対策推進法第23条第1項が求める「いじめの事実があると思われるとき」の「学校への通報」が適切に行われなかったケースと言うことができる。この時点で、いじめの疑いがあるとして学校いじめ対策組織へ報告し、組織的な対応をとる必要があったと考えられる。
●また、学校は、加害・被害児童に聞き取り調査を行った際に、Aの足を踏む行為がしつこく行われた旨を確認していたことから、この時点で、いじめと捉え、学校いじめ対策組織への報告等の必要な措置を講ずる必要があったと考えられる。

❷ 児童生徒への支援・指導の視点から
●学校は、「しつこく足を踏まれる行為」を確認した後、聞き取りや謝罪の場の設定等の対応をとったが、Aの不安は解消されなかった。その後、いじめと認知し、学校いじめ対策組織での指導方針を踏まえ、別室での学習体制の構築や進級時のBと異なる学級・登校班への配置等の措置を講じた結果、Aが安心して登校できるようになった。
●これを踏まえると、より早期の段階から、いじめを認知した上でAの心情に寄り添った対応を行うべきであった。

❸ 保護者対応の視点から
●11 月下旬にAの父親が来校し、Aが心身ともに苦痛を感じていることを把握した時点で、「しつこく足を踏まれる行為」がいじめに該当すると判断し、今後の指導方針等を丁寧に説明する必要があった。Aの不安が解消されなかったために、Aの父親がBとCの保護者を家に呼び出し、謝罪を求める事態に至ってしまった。

 被害児童小学3年女子Aは加害児童小学3年女子B、4年男子Cから「足を踏まれる行為」を複数回受け、心身ともに苦痛を感じていた。目撃児童が担任に報告。担任は事実確認を行った。被害児童の女子Aは足を踏まれる行為がエスカレートするのを恐れて、はっきりしたことは言えなかったのだろうか。加害側の児童が遊びだと証言したために担任は加害側の言い分のみ従ってイジメとしての対応は放置した。被害児童女子Aがはっきりとしたことが言えない性格なのは自分から担任に訴えることはできずに目撃児童が訴えた事実から窺えるし、結局のところ、学校を欠席することで嫌がらせからの回避策としたところにも現れている。

 勿論、学校を欠席したのは遊びだと判定後のことではあるが、担任は足を踏む行為が女子Aに対して女子Bと男子Cとの間でのみ行われていたのか、踏まれる側がAにターゲットを絞った一方通行のものなのか、両者間でターゲットが不定期的に入れ替わる両方向のものだったのか、あるいは登校班の中で一般的に行われていた遊びだったのか、B、Cから聞き取りをするのではなく、被害児童Aからも根気よく聞き取りをすべきだったし、登校班の他の児童からも同じ聞き取りをすべきだった。遊びはしたり、されたり、両方向からの相互性をルールとしていて、ターゲットを固定した一方向をルールとしていた場合、それが他愛のないことに見えても、遊びではなく、攻撃の部類に入るイジメそのものとなる。担任はこういったことに気を配るだけの教育的配を欠いていた。

 Aの学校欠席と入れ替わりの父親の来校で実際には「しつこく足を踏まれる行為」を受けていて、Aに苦痛を与えていたことを学校側は初めて把握することになり、加害・被害児童の聞き取り調査、「しつこく足を踏まれる行為」を確認、11月下旬以降、児童同士の謝罪を以って事案終結としたが、12 月中旬、Aが1週間連続して学校を欠席。理由は「同じクラスのBが怖い」。イジメとされて根に持ち、睨みつけるか何かしたのかもしれない。学校は人間関係の修復を理想の解決策とすることができずにAを3学期は別室で学ばせ、進級時に別の学級に移し、登校班も変える、より安易な隔離政策で問題の決着を図った。

 「自分の成長は学校での毎日の生活や家での毎日の生活を自分がどう過ごしていくか、どう送っていくのかによって決まっていく。あの子が面白くないといったことは自分の成長という問題から比べたら、どうでもいい小さな問題ではないか。どうでもいい小さな問題とすることができずに足踏んだりする嫌がらせをする。成長していない人間のすることではないのか。クラスメートや同級生に何かするんだったら、お互いの成長に役立つことをして欲しい」ぐらいのことは日々話して聞かせておかなければならないだろう。イジメの事前予防に役立つ可能性は否定できない。この点については文科省の「本事例に対するコメント」も何ら触れていない。イジメ事例から事後対応・対処療法のみに目を向けて、事前予防・原因療法の可能性に目を向けることを忘れているらしい。

《イジメ過去最多歯止めは厭なことは「やめて欲しい」で始まり、この要請に順応できる人間としての成長を求めるロールプレイで(2)》に続く

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イジメ過去最多歯止めは厭なことは「やめて欲しい」で始まり、この要請に順応できる人間としての成長を求めるロールプレイで(2)

2022-12-09 05:10:10 | 教育
 「Case05 グループ内のトラブル(その2)」は公立特別支援学校高等部1年男子Aのイジメ被害者とし、1年男子B、C(2名)をイジメ加害者とする事例であるが、前に載せた画像から2020年度の小中高のイジメ合計認知件数は612656件。ネットで調べた2020年5月1日現在の小中高生数12、686、079人で、イジメ認知件数の割合は20.7人に1人。特別支援学校(幼稚部、小学部、中学部、高等部、高等部専攻科)生徒数は144、823人でイジメ認知件数は2695件。2020年5月1日現在の支援学校生徒数は144、823人で、イジメ認知件数の割合は53.7人に1件。小中高の認知件数の半分以下だが、障害の特性上、個別面談にはイラストを使って行うと紹介されていて、教師・職員は並大抵ではない苦労をしているに違いないという思いに駆られるが、特別支援学校に関わるイジメ問題については勉強不足で考える力は持ち合わせていないから、残酷な話だが、省略することにする。

 Case06 公立高等学校 組織的ないじめの認知(その1)

事例の概要
❶ 関係生徒
●【被害】高校1年女子A(1名)
●【加害】高校1年女子B(1名)
❷ いじめの概要
●高校1年女子Aから、同じ学級内の女子生徒Bと席が近くなった際や体育等でペアを組む際に、Bから「最悪、地獄、キモい」と言われるなどの訴えがあった。

事態の経緯及び対応
●訴えを受け、担任、学年主任、生徒指導部が連携し、Aと仲の良い生徒3人から聞き取りを行った。その中で「学級内の女子が2つのグループに分かれており、Aがもう一方のグループから毛嫌いされている。特にBのAに対する言動はひどい」との情報を得た。
●聞き取りを受け、いじめ認知対応委員会(学校いじめ対策組織)で協議し、Aの保護者に実態を報告することを決めた。Aの保護者は、実態に驚くとともに、Bに直接注意することは避けて欲しいと述べた。学校は学年全体に指導すること、本人を見守るとともに様子を定期的に伝えることなど、家庭と連携していくことを伝えた。
●学年集会で全体指導を行うも、状況の改善が見られなかったため、いじめ認知対応委員会で協議した結果、Bに聞き取りを行うとともに、指導を行うことを決定した。
●BはAに対する言動を認め「Aに原因があるのではなく、自分に悪感情があるために行ったもの」と答えた。
●その後、Bに指導を行ったにもかかわらず改善が見られなかったことから、いじめ認知対応委員会は、このことを重く受け止めさせ、今後の生活について考えさせるために謹慎指導を行うこととし、校長は保護者を呼び出して申し渡しを行った。
●Aの保護者に状況を説明し、学校の対応に納得してもらった。今後も連携してAを見守ることを確認した。

成果
●生徒の訴えを受け、複数の職員が関わり、組織的に対応することができた。特に実態把握をする上で、周辺生徒への聞き取りをすることで、全容を把握することができている。
●指導後の見守りが、改善していないことを確認することにつながった。また、加害生徒については毅然とした態度で指導するとともに、指導後の学校生活について考える指導がなされた。

本事例に対するコメント
❶ いじめ防止対策推進法の視点から
●いじめ防止対策推進法第22条に基づき、学校は、複数の教職員、心理、福祉等に関する専門的な知識を有する者等により構成されるいじめの防止等の対策のための組織(学校いじめ対策組織)を設けることとされている。また、「いじめの防止等のための基本的な方針」においては、いじめ問題への学校が一丸となった組織的対応の重要性が強調されている。
●本事例では、学校いじめ対策組織で協議を重ねながら対応方針を定めるなど、組織的に対応を進めている。このことにより、事案の全容把握やBへの毅然とした指導が可能となり、Aに対するいじめをやめさせることにつながったと考えられる。
❷ 児童生徒への支援・指導の視点から
●保護者の意向を踏まえ、最初はBに対する直接的な指導ではなく、学年集会における全体指導を選択しているが、全体指導と個別指導の効果等を見極め、保護者に事前に説明した上で、早期に個別指導を行うことも考えられた。
●「いじめの防止等のための基本的な方針」において、「加害児童生徒に対しては、当該児童生徒の人格の成長を旨として、教育的配慮の下、毅然とした態度で指導する」とされている。
加害児童生徒に対する指導については、自らの行為を見つめることや相手の立場に立った言動の大切さを考えさせることを通して、反省を促す指導が必要である。
●本事例では、学級内の女子が2つのグループに分かれているが、仮に双方のグループが対立関係にあるのであれば、今後のいじめの未然防止の観点から、学級全体の在り方について指導を行うことも考えられた。
❸ 保護者対応の視点から 
●学校いじめ対策組織における協議を踏まえ、早い段階でAの保護者に状況を伝えることで、保護者の意向を踏まえつつ、段階的な指導を進めることが可能となったと考えられる。

総括
●いじめの加害生徒及び被害生徒に対する指導を実施した後、双方の状況を見守ることは欠かせない。本事例では、見守りを継続したことによって、Aへのいじめ行為が継続されていることが分かり、Bがいじめ行為の非や責任を十分に自覚できていないことが明らかとなった。
学校は、Bに指導を行ったにもかかわらず改善が見られなかったことを踏まえ、今後の学校生活について考えさせるために謹慎指導を行うことを決定した。このことは、Bの今後の学校生活の土台を固めるとともに、より良い人間関係の形成に資する観点から必要な指導であったと考えられる。

 公立高校1年の学級内で女子が2つのグループが存在、一方のグループのBからもう一方のグループのAに対して身近にいるときや体育等でペアを組む際に「最悪、地獄、キモい」等の言葉を投げつけられている、いわば言葉の暴力を受けているとの訴えがあった。Aと仲の良い生徒3人から聞き取りを行い、相当程度深刻なレベルと判断。いじめ認知対応委員会(学校いじめ対策組織)で協議、Aの保護者に実態を報告することを決めて報告。Aの保護者から驚きながらも〈Bに直接注意することは避けて欲しい〉との要望を受け、〈学校は学年全体に指導すること、本人を見守るとともに様子を定期的に伝えることなど、家庭と連携していくことを伝えた。〉

 学校側のこの経緯には責任回避意識を色濃く滲ませている。イジメとなるこの言葉の暴力に関してはBに聞き取りを行い、その悪意ある言動が何に発しているのか、その理由を把握しない限り、問題解決には取り組むことはできないという関係を取ることになる。但しAの保護者の要望を拒否して解決がこじれてイジメが悪化した場合は非は全面的に学校側にあることをAの保護者から突きつけられる恐れが予想される。このために優先すべきBからの聞き取りを後回しにしてAの保護者の要望を優先させた。「Bへの聞き取りを行わなければ、嫌がらせの原因を探り当てることができませんし、できなければ、根本的な解決策を見つけることはできません」と保護者を説得すべきだったが、それを回避した責任の放棄である。

 学校はAの保護者の要望を受け入れることと「学年全体に指導する」こと、その他を保護者に伝えた。この"学年全体への指導"とは具体的にどのような内容の指導なのか、何ら触れていないのは事例集の他の参考となるための情報という役目を何ら果たしていないことになって、この点も学校の責任が問われることになるし、このことに何ら配慮を向けずに事例集に載せた文科省の責任も問題となる。

 察するに「いじめ防止対策推進法」が触れている「いじめの定義」、〈「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。〉とか、「基本理念」としている〈いじめの防止等のための対策は、いじめが全ての児童等に関係する問題であることに鑑み、児童等が安心して学習その他の活動に取り組むことができるよう、学校の内外を問わずいじめが行われなくなるようにすることを旨として行われなければならない。〉などなどを講話の形で触れたといったことなのだろうか。

 Bの言葉の暴力、悪意ある言動の理由をB本人から聞き出さない限り、問題解決に取り組むことはできないという関係を無視したのだから、学年集会で全体指導を行ったものの、靴の上から足の痒いところを掻くのと同じで、「状況の改善が見られなかった」のは前以って予測できていたはずだが、その予測を責任回避意識が打ち消してしまったといったところなのだろう。結果、寄り道をした上でBへの聞き取りを行うことになった。

 〈BはAに対する言動を認め「Aに原因があるのではなく、自分に悪感情があるために行ったもの」と答えた。〉が、〈その後、Bに指導を行ったにもかかわらず改善が見られなかった〉。

 学校はBの最初の説明をどのように解釈し、その解釈に基づいてどのような指導を行ったのだろうか。何も触れていないから、事例集としての情報の役目を何も果たしていない点はここにも現れている。学校側のこのような対応に対して文科省は焦点を当てることは何もしていない。事例集の意味をなくしている。

 改善が見られなかったということは、当然、「最悪、地獄、キモい」等の言葉の暴力をやめなかったことになる。だが、Aに原因はなく、自分の悪感情がそう言わせてしまっているといったことを説明したのだろう。考えられる主な原因は生理的な拒絶感の可能性が高い。生理的に受け付けることができないという対人関係がときとして起こりうる。顔も見たくない。顔を見てしまうと、押さえようもなく腹が立ってくる。だが、完璧な人間は存在しない。誰もが何らかの欠点や欠陥を抱えている。自分自身の欠点や欠陥に目を向けずに他人の欠点や欠陥にだけ目を向けて、生理的な拒絶感を剥き出しにし、言葉の暴力を働くのは許される、あるいは自分の勝手だとするのは成長していない人間のすることではないのか。体育等でペアを組む際の生理的な拒絶感は体育の先生にほかの生徒とペアを組ませて欲しいと申し出て許可を取れば、抑えることができるし、教室で直ぐ側を通らなければならないときぐらいは一瞬のニアミスと自分に言い聞かせて生理的な拒絶感を抑えることができるくらいに成長しているところを見せて欲しいと伝えることぐらいは教師はすべきだろう。

 人間としての成長を促す方法でイジメの事前予防・原因療法を試す。そうはしなかったようで、指導の結果、改善が見られなかったために校長は保護者を呼び出して謹慎指導という隔離政策を申し渡した。要するに加害者を被害者から遠ざけることで沈静化を図った。校長、あるいは担任がB本人にどのような言葉をかけて自宅謹慎を申し渡したのか知りたいが、「自宅で一人じっくりと考えて、反省するところは反省して欲しい」程度の声掛けしかできなかったに違いない。

 隔離政策による沈静化に過ぎないのに掲げた「成果」はなかなかのものとなっている。〈生徒の訴えを受け、複数の職員が関わり、組織的に対応することができた。特に実態把握をする上で、周辺生徒への聞き取りをすることで、全容を把握することができている。〉、〈指導後の見守りが、改善していないことを確認することにつながった。また、加害生徒については毅然とした態度で指導するとともに、指導後の学校生活について考える指導がなされた。〉云々。イジメ被害者からイジメ加害者を遠ざける解決策に過ぎないにも関わらず、〈加害生徒については毅然とした態度で指導〉したとしている。そして「本事例に対するコメント」では、〈事案の全容把握やBへの毅然とした指導が可能となり、Aに対するいじめをやめさせることにつながったと考えられる。〉と抜本的に解決できたかのような万々歳のことを言っている。 

 Case07 公立小学校 組織的ないじめの認知(その2)

事例の概要
❶ 関係児童
●【被害】小学5年男子A(1名)
●【加害】小学5年男子B、C、D(3名)
❷ いじめの概要
●小学5年男子Aが、同じ学級の男子B、C、Dから継続的な仲間はずれや言葉による嫌がらせを受けていると、Aの保護者より学級担任に相談があった。
●Aの保護者によると、そのいじめは、休み時間や放課後等の担任の目が届かない場面で行われているようであるとのことであった。

事態の経緯及び対応
❶ いじめの発見
●担任は保護者からの相談により、いじめの疑いがあると認識し、保護者からAの訴えや心身の状況を丁寧に聞き取るとともに、今後、校内いじめ防止対策会議(学校いじめ対策組織)に報告し、組織的な対応を約束。Aからの聞き取りの実施に向けて、今後、保護者と相談の上で進めていくことを話した。
●担任は、保護者からの相談内容を学年主任及び管理職に報告。管理職は直ちに校内いじめ対策会議を開催した。対策会議では、これまでに実施したアンケートや関係児童の生活の記録等を見直し、対応の方針を協議。Aの聞き取りには、Aが話しやすい教職員として現担任と前年度担任を、B、C、Dには現担任と学年主任(必要に応じて養護教諭)が聞き取りを行うことを決めた。
●学校は、Aに対する聞き取りの方針を保護者に説明し、協議の上で、翌日、学校でAに対する聞き取りを実施することを決めた。
❷ 情報共有
●Aの聞き取り後、対策会議でAの状況を情報共有し、Aが心身の苦痛を感じていることから、いじめとして対応することを確認した。また、Aからの聞き取りにおいて、SNSによる仲間はずれの疑いも浮上したため、その内容に即してB、C、Dへの個別の聞き取りを実施し、事実関係が整理できた時点で、保護者への協力依頼を行うことを決定した。
●学校はB、C、Dへの聞き取りの結果、言葉による嫌がらせは確認できたが、SNSでの仲間はずれ等については確認することができなかった。
❸ いじめに該当するか否かの判断
●対策会議では、これまでの情報を整理し、本件の「言葉による嫌がらせ」はいじめに該当すること、また、SNSによる仲間はずれは確認できなかったものの、事実であればこの行為もいじめに該当する可能性が高いことを確認した。今後は、関係保護者に調査の結果を伝えるとともに、SNSの適正な使用を含め、
学校と保護者が連携して関係児童を見守っていくことを依頼する旨の指導方針を確認した。
❹ 関係保護者への報告及び謝罪と見守り
●学校は対策会議での調査の結果を関係保護者へ報告し、言葉による継続的な嫌がらせについてはB、C、DがAに対して謝罪することができた。しかし、SNSによる仲間はずれについては関係児童・保護者ともに事実を認めることがなく、学校もそれ以上踏み込むことができなかった。現在、Aの保護者は警察へ相談し、法的手続きも検討している。

本事例に対するコメント
❶ いじめ防止対策推進法の視点から
●担任は、保護者からの相談を受け、被害児童Aに対するいじめの疑いを認識した段階で学校いじめ対策組織へ報告している。この報告は「いじめの防止等のための基本的な方針」でも速やかに行うこととされており、直ちに校内いじめ防止対策会議が開催されたことによって、組織的な対応をとることに繋がっている。
●被害児童及び加害児童からの聞き取りを、話しやすさ等を考慮して担任や学年主任を充てるなど、複数人で組織的に聞き取るようにした点は有効であると考えられる。
●「いじめの防止等のための基本的な方針」においては、「学校いじめ対策組織において情報共有を行った後は、事実関係の確認の上、組織的に対応方針を決定し、被害児童生徒を徹底して守り通す」とされている。本事案においても、Aからの聞き取りを受け、いじめと対応する方針を、校内いじめ防止対策会議において決定しており、基本方針に則った対応が行われている。
❷ いじめの判断の視点から
●校内いじめ防止対策会議において、本事例における「言葉による嫌がらせ」は被害児童Aが心身の苦痛を感じていることから、いじめ防止対策推進法の定義に基づきいじめとして認知し、対応を判断している。加えて、SNSでの仲間はずしについても、いじめの「疑い」があるとして、いじめの可能性を考慮しながら事実関係を確認したことは、適切な対応であったと考えられる。

 イジメ被害者は小学5年男子A。イジメ加害者は同じ学級の男子B、C、Dの3対1となっている。Aの保護者の学級担任への相談で表面化した。イジメの内容は継続的な仲間はずしや言葉による嫌がらせ。Aの聞き取りにはAが話しやすい教職員として現担任と前年度担任が担当し、B、C、Dに対しては現担任と学年主任(必要に応じて養護教諭)が行うなかなかの配慮をみせている。Aからの聞き取りによって前記以外にSNSによる仲間はずしの疑いも浮上し、Aが心身の苦痛を感じていることが分かった。この聞き取りの結果を受けてB、C、Dへの個別の聞き取りを実施。言葉による嫌がらせは確認でき、加害側が被害側に謝罪。SNSによる仲間はずしについては加害側は保護者共に認めなかったため、学校もそれ以上踏み込むことができなかった。

 但しAの保護者が警察へ相談し、法的手続きも検討しているのは加害側が後者のSNSを使った仲間外しを認めていない点にあり、前者よりも後者の方を匿名を利用したより悪質なイジメだと見ている可能性からなのかもしれない。B、C、Dも匿名だから、露見しないと思って事実を否定している可能性はある。根拠はAにはウソをつく理由も利益もないが、B、C、D側には両方共にある。罪と責任を軽くできる理由と利益である。Aの肯定に対してB、C、Dが否定したからと言って、その否定が正しいとは限らない。SNS等の利用サイトにIPアドレスの開示請求を行い、開示を受けてプロバイダに対して契約者情報の開示請求すれば、海外のプロキシサーバー経由かログ(コンピューターの通信記録等)が消去されていない限り、匿名の投稿者を特定できるという。学校は前以って特定できるということを生徒全員に伝えておかなければならないだろう。学校はそれ以上踏み込むことができなかったでは責任を果たしていないことになる。と同時に誰かのことを陰でコソコソと悪く言う、自分自身はそれが間違っていない言い分だと思っていても、ある人間をどう見るかの評価は人によって違ってくるから、悪く言われた側が悪く言った人間の言い分として間違っていないかどうかを判断するには顔を隠し、名前を出していなければできないことになる。このことを避けるためには誰かを悪く言う場合は顔と名前を出して、その言い分に対しての責任を負わなければならない。このようなことを道理とするよう、日常普段に生徒に語りかけていなかったとしたら、Aの聞き取りにはAが話しやすい教職員として現担任と前年度担任が担当し、B、C、Dに対しては現担任と学年主任(必要に応じて養護教諭)が行うといった配慮はさしたる意味は持たないことになる。

 また対策会議で、〈SNSの適正な使用を含め、学校と保護者が連携して関係児童を見守っていくことを依頼する旨の指導方針を確認した。〉としているが、学校・教師がSNS適正使用の言葉を持たない限り、このことは加害者側がSNSの不適正使用の事実を認めなければ、それ以上踏み込むことができないとしている姿勢に現れているが、変わらない事態を繰り返すことになって、言葉倒れとなるだろう。

 文科省の「本事例に対するコメント」は結局のところ、途中過程の対応をよしとするだけで、最終的問題解決に至ったのかどうかの点については触れていない。

 Case08 いじめとして認知するが、「いじめ」という言葉を使わずに指導する対処例

事例の概要 
❶ 関係児童
●【被害】小学6年男子A(1名)
●【加害】小学6年男子B、C、D(3名)
❷ いじめの概要
●小学6年男子Aが、同級生の男子B、C、Dから、下校中に冷やかしの言葉を浴びせられた。また、学校で、BがAの靴のかかとを繰り返し踏もうとした。
●個人懇談会で、Aの母親が担任に話したことにより発覚した。

事態の経緯及び対応
●個人懇談会において、担任は「すぐに対応したい」と母親に伝えた。しかし、母親は「本人が『先生に言ってほしくない。自分の力で仲良くなりたい』と強く言っているので、対応はしないでほしい。次、もし何かがあった場合はすぐに先生に言うように約束をしている」とのことであった。
●懇談後、担任はいじめ対応チーム(学校いじめ対策組織)に報告し、対応について話し合った。すぐ対応した方が良いと判断し、母親に電話連絡をしてその旨を伝えたが、「やっぱり本人の意思を尊重したいので対応はしないでほしい」とのことであった。そこで、「もし今後、何かあればすぐに対応する」という約束をした上で話を終えた。
●後日、BがAの上靴のかかとを踏もうとしているところを他クラスの担任が発見し、すぐに担任に伝え、そのままBから聞き取りをした。B以外にAに嫌がらせをしている児童は誰かをBに聞くと、C、Dの名前が出たので、Aから事実確認した後、C、Dそれぞれからも聞き取りをした。内容はAやBが話していたことと一致していた。その後4人を集めて事実関係を確認した後、今回の問題点や人間関係の築き方について指導した。
●4人全ての家に家庭訪問し、指導内容を伝えた。加害側の3人は保護者とともにAの家に行き謝罪している。

成果
●担任は、Aの母親から話を聞いてすぐ校内いじめ対応チームに報告し、対応について話し合った。これを受けて、担任以外の教師も注意して見守りを行った結果、いじめの行為を見つけることができた。Aの母親の意向は、「対応はしないでほしい」ということであったが、組織的対応の体制を整えずに児童を注視しているだけでは、事態の深刻化を招く恐れがある。この事案では、母親の意向を尊重しつつ、何かあればすぐに対応するという姿勢で見守りを続けた結果、事態が深刻化する前に指導することができたと言える。

本事例に対するコメント
●「いじめの防止等のための基本的な方針」においては、「例えば、好意から行った行為が意図せずに相手側の児童生徒に心身の苦痛を感じさせてしまったような場合、軽い言葉で相手を傷つけたが、すぐに加害者が謝罪し教員の指導によらずして良好な関係を再び築くことができた場合等においては、学校は、『いじめ』という言葉を使わず指導するなど、柔軟な対応による対処も可能である」とされている。
●本事例は、被害児童もその保護者も教員が介入して解決に至ることを望んでいない事例であるが、「いじめ」という言葉を使うことなく見守りや指導を行うことで、被害児童や保護者の意向に配慮した生徒指導が可能であることを示している。
●本事例については、被害児童及びその保護者に寄り添い、その意向を尊重しつつ、事態の深刻化を防ぐため、担任以外の教師も注意して見守りを行い、加害児童への指導につなげていった点が優れた対応であったと評価できる。

 小学6年男子AがB等同級生男子3人に下校中に冷やかしの言葉を浴びせられ、学校でBがAの靴のかかとを繰り返し踏むイジメを働いた。個人懇談会でAの母親が担任に訴えたことにより発覚したが、母親から「本人が『先生に言ってほしくない。自分の力で仲良くなりたい』と強く言っているので、対応はしないでほしい。次、もし何かがあった場合はすぐに先生に言うように約束をしている」と言われて、取り敢えずいじめ対応チーム(学校いじめ対策組織)に報告、チームは即座の対応が望ましいと判断、その旨を母親に電話連絡すると、「やっぱり本人の意思を尊重したいので対応はしないでほしい」と言われて様子を見ることにした。多分、教師全員で注意深く見守ることにしていたのだろう、〈後日、BがAの上靴のかかとを踏もうとしているところを他クラスの担任が発見し、すぐに担任に伝え、そのままBから聞き取りをした。B以外にAに嫌がらせをしている児童は誰かをBに聞くと、C、Dの名前が出たので、Aから事実確認した後、C、Dそれぞれからも聞き取りをした。内容はAやBが話していたことと一致していた。その後4人を集めて事実関係を確認した後、今回の問題点や人間関係の築き方について指導した。〉

 結構毛だらけ猫灰だらけの対応に見えるが、母親から「本人が『自分の力で仲良くなりたい』」と言われたあと、A本人から、「どのような方法で仲良くなりたいと考えているのか」と尋ねたのだろうか。単なる強がりで口にするケースも考えられるが、そうでない場合は本人の主体性を尊重し、本人の成長に手を貸すためにもその方法を聞いて、試させるのも一つの教育的配慮となるだろう。だが、そうしたことは触れていない。

 Bからの聞き取りで仲間だと分かったCとDの3人のうちで誰がリーダー格なのか確認したのだろうか。B自身がリーダー格で、率先してAを冷やかし、靴の踵を踏んでいるのか、C、Dのどちらからに命令されてしていたことなのか、それによって指導の方法が違ってくるはずである。4人に対して〈人間関係の築き方について指導した。〉とあるが、どのような言葉を用いて指導したのだろうか。知りたいが、何ら触れずじまいで、事例集としての情報提供の役目を果たしていない。2013年10月11日文部科学大臣決定の《いじめの防止等のための基本的な方針》をマニュアルとして、〈7 いじめの防止等に関する基本的考え方〉に書いてある、〈心の通う対人関係を構築できる社会性のある大人へと育み〉云々から、「心の通う対人関係でなければならない」とか、「社会性のある大人になって欲しい」とか言葉で訴えるのみの指導したということなのだろうか。学校独自の創造的な人間関係の築き方の教えであり、何がしかの効果があるものなら、公表の価値があるはずだが、公表しないところを見ると、そうしましたというだけの形式的なものに過ぎない疑いが出てくる。

 やはり「成長」をキーワードに「冷やかしの言葉を浴びせたり、靴の踵をわざと繰り返し踏んだりして相手が嫌がることをするのは成長していない人間のすることだと思うが、成長している人間もしていることなのかどうか考えてみたまえ」と問いかけ、成長という観点から自分のしていることを眺めさせて自分自身を客観的に見つめさせる機会とし、自己省察能力というものの育みに力を貸すべきではないだろうか。

 加害側の3人は保護者と共にAの家に行き謝罪した。指導を受け、求められたから応じた謝罪なのか、素直に反省して成長を見せることができた結果の謝罪なのか。後者なら、成長を促す指導はイジメの事前予防・原因療法にも役立つはずだから、イジメは減少傾向に向かうはずだが、そうはなっていない以上、後者の可能性は低い。Aにしても個人懇談会でAの母親が担任に訴えたことで表面化したイジメであって、その場でやめて欲しいと訴えたわけでも、自分から担任に訴え出たイジメでもない点で、加害者たち程ではないにしても、自律的な成長からは程遠い姿をしている点でAに対しても成長を促す指導を心がけなければならなかったはずだが、一切窺うことができない事例となっている。文科省の「本事例に対するコメント」がこの件に関する学校対応に「優れた対応であったと評価できる」と高得点を与えているが、加害者・被害者に対して人間としての成長を促す教育配慮が共に見えてこない以上、マニュアル通りの機械的な対応としか見えない。

 次の「Case 09」は「いじめ防止等に効果的な学校基本方針の例」として平成29 年度の「市立A中学校のいじめ問題対応の基本方針の事例」を取り上げているもので省略することにする。理由は上に挙げた2013年10月11日文部科学大臣決定の《いじめの防止等のための基本的な方針》のマニュアルをほぼなぞった内容だからである。その根拠を示すためにほんの一部を取り上げると、次のとおりとなっている。

〈「いじめは、人間として絶対に許されない」という強い認識をもつこと
「いじめは、どの学校でも、どの子にも起こりうる」という危機意識をもつこと
「いじめられている子どもを最後まで守り抜く」という信念をもつこと
 本校においては、この3つの考え方を基本に、家庭・地域等と連携を図り、自校の課題を見出し、生徒の実態に応じた取組を推進する。また、市教委や関係機関等と連携し、「いじめの防止」「いじめの早期発見」「いじめに対する措置」を適切に行う。〉・・・・・・・

 1番目と2番目はなぞりで、3番目は文部科学大臣決定に、〈教職員はいじめを受けた児童等を徹底して守り通す責務を有するものとして、いじめに係る研修の実施等により資質の向上を図ること。〉と書いてあることの言い換えに過ぎない。イジメ対応のマニュアルはそれらしく立派に作り上げることはできる。だが、「はじめに」の項目に〈いじめは、いじめを受けた児童生徒の教育を受ける権利を著しく侵害し、その心身の健全な成長及び人格の形成に重大な影響を与えるのみならず、その生命又は身体に重大な危険を生じさせる恐れがあるものである。〉とイジメの悪影響に触れてはいるが、イジメ加害者のみならず、時と場合のイジメ被害者に対しても「心身の健全な成長」と「人格の形成」を促すことのできる具体的な"言葉"を創造できなければ、マニュアルはマニュアルで終わる。

 以下、イジメとその指導の事例は続くが、ブログ字数の関係と、以上各「Cace」を見てきたようにマニュアルに従った個別的対応の繰り返しで、児童・生徒の成長を促すような教育上の創造的な言葉は一切見えてこないから、省略することにする。

 ネットを調べてみると、どの学校も当然のこととしてイジメの未然防止に取り組んでいる。学活(小学校・中学校で行われる特別活動の一つ。学級を単位として、学校生活の充実と向上をめざし、諸課題を解決しようとする態度や健全な生活態度を育てる教育活動。高等学校ではホームルーム活動という。「goo辞書」)や道徳の時間を使った「イジメはいけません」を主題とした担任講話、イジメ防止アクティビティ(活動)での、同じく「イジメはいけません」を主題として様々に工夫を凝らしているのだろう、スローガン作り、全校集会で全校生徒対象で行う、イジメに関わる校長講話、そしてイジメ防止のロールプレイングが幅広く行われていることを窺うことができる。

 多分、文部科学省の学習指導のお仕着せの一環として始まったことなのだろう。《学校における「いじめの防止」「早期発見」「いじめに対する措置」のポイント》(文部科学省)に次の一文を見かけることができる。
  
 「イ)いじめに向かわない態度・能力の育成」の具体的方策を「注2」として記載している。

 〈2 児童生徒の社会性の構築に向けた取組例としては、以下のようなものがある。
 「ソーシャルスキル・トレーニング」:
 「人間関係についての基本的な知識」「相手の表情などから隠された意図や感情を読み取る方法」「自分の意思を状況や雰囲気に合わせて相手に伝えること」などについて説明を行い、また、ロールプレイング(役割演技)を通じて、グループの間で練習を行う取組〉・・・・

 今まで挙げてきた《いじめ対策に係る事例集》(文科省・平成30年9月)にも同じ文言が記載されている。

 〈2 児童生徒の社会性の構築に向けた取組例としては、以下のようなものがある。
 「ソーシャルスキル・トレーニング」:
 「人間関係についての基本的な知識」「相手の表情などから隠された意図や感情を読み取る方法」「自分の意思を状況や雰囲気に合わせて相手に伝えること」などについて説明を行い、また、ロールプレイング(役割演技)を通じて、グループの間で練習を行う取組〉・・・・

 「ソーシャルスキル」とは、「社会の中で他者と関係を築いたり、一緒に生活を営んだりするために必要な技能、社会的技能」で、そのトレーニングが「ソーシャルスキル・トレーニング」ということになる。教師や児童・生徒、児童・生徒同士の日常普段の授業内や授業外の生活の中で喜怒哀楽の感情を交えた意思疎通を通して感覚的に学んでいく人間関係・対人関係を特別な授業をお膳立てして喜怒哀楽の感情を離れた言葉によって学ばんでいく。その一つがイジメの問題に絞ったロールプレイング、略してロールプレイということなのだろう。プロフェッショナルスキル(職業的、あるいは専門的技能)ではないソーシャルスキル(社会的技能)を特別に授業をお膳立てして学ばなければならない理由は教師対児童・生徒、児童対児童、生徒対生徒が時間的に最も長く、距離的にも、当然心理的にも最も近接した関係を取る授業の場、授業の世界で教師を介して教科書の内容と内容に関する知識・情報の遣り取りに時間を取られ、教師のリードで児童と児童の間で、あるいは生徒と生徒の間で喜怒哀楽の感情を交錯させた意思疎通の言葉の闘わせが殆ど不在であるところにあるように思える。その不在を補う道具としてロールプレイが位置づけられているということなのだろう。

 言葉の闘わせの不在は2006年6月22日の当ブログ《愚かしいばかりの"愛国心"教育 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》でNHKが放送した実際の小学校の授業風景を参考に取り上げてみたが、そこでは愛国心を育てる授業が行われていた。担任にとって初めての愛国心教育ということからか、NHKが撮影に入るからか、担任だけではなく、校長が直々に授業に参加した。授業の背景には教育基本法が改正され、2006年12月22日の公布・施行を受けて学習指導要領の内容が基本法の「教育の目標」〈5 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。>の規定に従って変更されたという事情があった、

 校長は子どもたちに自分たちが住む日本のよさは何だと思うかと前置きしてから質問した。
 校長「僕はこうなんだ、私はこうなんだとよということを少し紹介して欲しい」
 女子生徒「日本人は正直さと言うことを大切にしていて、日本人は正直だと思う」
 男子生徒「空気がきれいなところへ行けば、星がたくさん見れる」
 女子生徒「春夏秋冬の四季があって、景色が四季によって変わるし、何か旬の食べ物も四季によってある」

 校長も担任も生徒それぞれの意見を言ったままに引き取ってそれで終わらせている。一つの意見が出るごとにその意見についてどう思うか、違う意見があるかほかの生徒の何人かに尋ねて、いくつかの違う意見と合わせてより幅広い知識・情報へと近づけていく相対化を試み、視野を広げ、世界を広げる意図の言葉の闘わせは一切行うことはなかった。例えば最初の女子生徒の意見「日本人は正直さと言うことを大切にしていて、日本人は正直だと思う」に対して「この意見はどう思うか」を尋ねた場合、「正直な日本人ばかりではない。中には平気でウソをついて人を騙す日本人もいる」、あるいは「正直でいようとしても、ついウソをついてしまうこともある」、「正直なのは日本人ばかりではない。どこの国の人も正直な人間は存在する」等の異なる意見が出た場合、校長・担任がそれぞれが間違ってはいない意見であって、正しい意見は一つではないことを教えることができれば、言葉の闘わせを通した知識・情報の相対化の訓練となり、自ずと児童・生徒の視野と世界を広げることができる。但し最初に意見を述べた女子生徒が自分の意見が否定されたような不愉快な感情に囚われることになったとしても、違う意見を出し合う授業が日常的に繰り返されるようになれば、喜怒哀楽の感情の交錯がごく自然に当たり前となって、不愉快な感情に囚われることもいっときのことと慣れて知識・情報の相対化を通した自分自身の視野や世界を広げていく"成長"に意味を見い出す可能性にこそ期待できる。

 要するに相対化の言葉の闘わせを通して快・不快の感情のコントロールの訓練とすることができる。この論理でいくと、アメリカでは小学校から自分の意見を言う教育が行われ、中学からは何らかの議題について「賛成派」と「反対派」に別れて「ディベート」と呼ばれる言葉の闘わせが頻繁に行われているが、にも関わらずイジメが存在するのは平行して感情のコントロールの訓練が行われていないことが原因と見なければならないことになる。思うにディベートという言葉の闘わせは「論理的に話す力」や「説得する技術」の競い合いであって、本質的には情報リテラシー(情報活用能力)を試す活動であり、特に他者関係を動機として誘発される自身の感情を客観視して言語化し、コントロールする感情リテラシー(感情活用能力)を試す活動ではない点がイジメ防止に有効な手立てとなっていない原因と言えるように思える。

 当然、言葉の闘わせは情報リテラシーと同じ線上に置く活動とは限定せずに感情リテラシーをより重視する活動とし、イジメ防止のためのロールプレイは感情リテラシーを十分に意識した快・不快の感情コントロールの訓練となる言葉の闘わせとする必要がある。

 では、現在学校で取り入れているイジメ未然防止のロールプレイはイジメ加害者に対して自身の負の感情を見つめさせて言語化を仕向け、快・不快の感情のコントロールへといざなう仕組みとなっているのか、次のネット記事からロールプレイ用シナリオ3例を挙げてみる。ネット検索で気づいたことだが、ロールプレイが物事への客観的視点を高めて日常生活での課題や問題点、さらに自己自身の行動や思考に目を向けるようになって自己再発見能力や善悪の判断能力の向上をもたらし、イジメ未然防止には役立つといった記事の多さに比較してロールプレイの実践例を紹介するページは非常に少なかった。

 《いじめ6時間プログラム》(ほんの森出版)

シナリオ 小学生用
Aはこの前トイレに行ったとき、うっかりと手を洗うのを忘れてしまいました。
BとCはそれを見ていて、その日からAのことを「バイ菌」と呼んだり、「ふけつ」と言ったりしています。また、「バイ菌がうつる」という理由で、Aに触ったり近くに行ったりするのを嫌がります。
※Bは、Aにプリントを配布しない。
A「プリント回してよ」
B「Aさんはふけつだから、プリント配りたくない」
A「ふけつじゃないよ」
C「だって、Aさんはこの前トイレのあとに、手を洗わなかったでしょ」
B「そうそう! Cさんと見てたんだからね」
A「あのときは、たまたま洗い忘れてただけで......今日は、きれいだよ」
C「Bさん! Aさんと話してたら、バイ菌がうつっちゃうよ」
B「そうだね。Aさんはふけつだから、話さないほうがいいよね」
A「今日は、きれいだって言ってるのに......」

シナリオ 中高生用①
Aは教科書の音読を指名されたとき、つっかえてしまい、クラスで笑われてしまいました。
次の授業で、またAの順番になったとき、後ろの席のBとCが小さな声で「また、読めないんじゃない?」と言いながら、クスクス笑っています。そのことがプレッシャーとなって、Aが小さな声で読んでいると、後ろから「聞こえませ~ん」「何を言っているかわかりません」などの声があがり、他のクラスメイトも笑っています。Aに対するからかいが、しだいにクラス全体に広がっていってしまいました。

※Aが指名されて、小さな声で教科書を読んでいる。
A「..................」
B「聞こえませ~ん。もっと大きな声で読んでくださ~い」
A「..................」(1回目より、ちょっとだけ大きな声で)
C「すみませ~ん。何て言ってるか全然わかんないですけど」
D「アハハハ~!」(大勢で笑う)
A (黙ってしまう)
E (下を向いて黙っている)
〈2回目は続きとして〉
F「からかったり、笑うのやめなよ。そういうこと言われたら、だれだって嫌でしょう?」

 シナリオ 中高生用②

 昼休みにAが図書室から借りた本を読んでいると、後ろでBとCのグループが「Aって
いつも本ばかり読んでいて暗いよね」「話しかけても続かないよね」「何、考えているんだ
ろうねぇ~」などとうわさ話をしています。
 ある日の休み時間、いつものように本を読んでいると、また自分のうわさ話が始まった
ので、Aは思いきって後ろを振り返ってみました。すると、BやCが「うわっ、こっち見
てる、キモイ!」などと大声で叫び、それを見ていたまわりの人たちまで一緒になって笑
い始めました。
※Aが昼休みに教室で本を読んでいる。
B「Aさんってさ~、いつも本ばっかり読んでるよね。暗いよねぇ~」
C「だよね。何、考えてるか、全然わかんないよね」
B「このあいだ、話しかけてきたんだけど、何言ってるか全然わかんなかった」
C「うける~」
※たまりかねてAが振り返る。
A「……あの……」(小さな声で)
B「うわっ! こっち見てるし。こわっ」
C「超キモイんですけど~」
D「アハハハ~!」(大勢で笑う)
A(黙ってしまう)
E(見て見ぬふりをして、下を向いて黙っている)
〈2回目は続きとして〉
F「からかったり、笑ったりするのやめなよ。陰口はよくないよ」

 この記事ではロールプレイでのこれらのシナリオの意図についてイジメの場面かどうかを把握させること、いじめの発端となりやすい場面を認識させること、それぞれの役を交代で演じさせて、イジメ加害者やイジメ被害者、イジメ傍観者等になったときのそれぞれの気持ちを発表して、お互いの気持ちをシェアリング(共有)すること、このような相互理解を通してイジメに関する判断能力を高めてイジメ防止に役立てるといったことを説明している。但しどのシナリオを見ても、目的に入れていないのかもしれないが、負の感情をより直接的にコントロールさせることを意図した内容とはなっていない。例えば小学生用のシナリオにあるトイレに行ってうっかりと手を洗い忘れた行為を取り上げて「バイ菌」、「ふけつ」と名指しするのは他人の些細な落ち度に対して自分には些細な落ち度もないとする、負の感情となる自己優越性の誇示に当たるが、現実には落ち度のない人間は存在しない。友達との約束を破る、大事な用事を忘れてしまう、ついウソをついてしまう等々。当然、小学生相手でも、自分にも何かしら落ち度があると他の生徒の落ち度を相対化して(価値観の相対化)、他人の落ち度のみに不快な感情を投影させることの間違いを指摘、指摘を通して負の感情をコントロールさせる技術を学ばせなければならない。

 先ずシナリオ通りのロールプレイを行ってから、Aに「BさんとCさんは手を洗い忘れたことはないの?友達との約束を忘れたり、大事な用事を忘れたり、何かしら失敗したことはないの」というセリフを付け加えたロールプレイを次に演じさせたなら、他の生徒の些細な落ち度に「バイ菌」、「ふけつ」と決め付けて自分はさも落ち度が全然ない完璧な人間であるかのように自己の優越性を誇示する類いの負の感情の見せつけは、当たり前の感覚をしていたなら、恥ずかしい思いに駆られなければならない。最後に担任が「自分には全然落ち度がないかのようにほかの生徒の落ち度を攻撃した生徒が自分にも何かしら落ち度があることに気づいて(自己客観視からの価値観の相対化)、攻撃したことが間違いだったと気づいたとしたら、それだけ人間として成長していることになる。いつまでも気づかないでほかの生徒の落ち度を攻撃し続ける生徒は人間として成長していないことになるから、気をつけるように」とロールプレイを講評したなら、イジメ未然防止により役に立つことになるだろう。

 「中高生用①」のイジメは緊張を原因とした失敗を笑って、からかう内容となっている。もし自分も緊張して失敗することがある生徒だったら、笑うことも、からかうこともできず、逆に同情することになるだろう。緊張し、失敗する生徒との比較で自分を緊張することも失敗することもない優秀な生徒と位置づけていなければ、ほかの生徒の失敗を笑ったり、からかったりはできない。しかし緊張もしない、失敗もしないという完璧な人間はこの世に存在しないのだから、間違った自己優越性に囚われた負の感情からの嘲り、からかいということになる。そのような負の感情をコントロールさせるためにはAかほかの誰かに「自分が何があっても緊張することもない、どのような失敗もすることもない完璧な人間でなければ、誰かが緊張して、失敗したことを笑うことはできないはずだ」のセリフを一言喋らせたなら、ロールプレイの観客は誰もが完璧な人間など存在せず、誰だって緊張することも失敗することもありうるという人間価値観の相対化を学ぶことになり、誰かの緊張や失敗を標的にからかったり、笑うことは間違っていることだと気づくことになるはずだし、そこまでいかなくても、耳にすることで自分が何かで失敗したときに思い出して、人が緊張して失敗したことを笑うのは間違いだったと気づく、否定できない可能性に掛けることもできる。

 担任は「どのような緊張も、どのような失敗もしない完璧な人間はこの世に存在しない。誰もが緊張することも失敗することもあるというアタリマエのことをいつも頭に入れておくことができる、人間としての成長を見せて欲しい」と講評して、児童・生徒一人ひとりの人間としての成長がイジメの起きない学校環境を作り出す要因となるということを伝えておくべきだろう。

 「中高生用②」のシナリオは学校社会のルールに反していないにも関わらずにその範囲内の自分たちとは異なる児童・生徒の存在の有り様を認めることができずに快・不快の感情だけで判断して、からかい、笑う内容となっている。この関係は自分たちの存在の有り様を絶対とし、異なる児童・生徒の存在の有り様を否定すると同時に自分たちと同じ存在の有り様を押し付け、全く同じ存在の有り様に持っていこうとする強制意思の働きを見ることになる。自分たちと同じでないことが面白くないためにからかい、笑う負の感情の働きがそうさせている。人は社会のルールに反しない限り、その社会に自身をどう存在させるかは自由である。本ばかり読んでいて、ほかの生徒と話すのが苦手というのも一つの生き方であり、その生徒の個性である。お互いの生き方、お互いの個性を尊重する教えができていて、生徒それぞれが自身の感性とすることができていたなら、快・不快の感情をコントロールできないままに、不快の感情のみを突出させて、自身のそのような感情の中に他者存在の有り様を取り込もうとする欲求は誰かがブレーキ役を果たして、簡単には集団化することはないだろう。

 お互いの生き方、お互いの個性を尊重する教えは簡単である。「ほかの生徒を笑うことができる程に自分は立派な人間か、先ず考えて、立派な人間だと自信を持って誰にでも言うことができるようなら、ほかの生徒を笑うようにしたまえ。だが、実際には立派な人間程、人の失敗を笑うようなことはしない。どの生徒も、その生徒なりに生きている。その生き方がその生徒の個性であって、立派な人間程、お互いの生き方、お互いの個性を尊重することができるから、他人の失敗を笑うようなことはしない」
 
 当然、生徒それぞれに自分はどのような人間か振り返る自己省察の機会を頻繁に与えて、価値観の相対化を学ぶことができるように仕向けなければならない。価値観の相対化を学ぶことができれば、自ずと感情のコントロールができるようになる。となると、「中高生用②」のシナリオに、「本ばかり読んでいて、暗い印象を与えてしまうのはAの個性だし、そのせいで話しベタでも、頭の中は物凄い知識が詰まっているのかもしれない」とこのようなセリフを付け加えれば、個性が人それぞれによって違いがあり、それぞれの違いを認めなければならないという個性の尊重の訴えとなり、そこから何がしかを学ぶだろうし、本ばかり読んでいて暗いように見えるマイナスの価値観(他人の価値観)に対して頭の中は知識が一杯詰まっているかもしれないというプラスの価値観(本人の価値観)を置くことで価値観の相対化に思いを持っていくようにしなければならないし、このようなロールプレイを繰り返すことで価値観の相対化を生徒それぞれの確かな感性とするに至る可能性は否定できない。価値観の相対化が感情のコントロールを伴走者とする。

 担任は次のようなことも伝えるべきだろう。「自分たちだけが喜怒哀楽の感情、喜びや怒りや哀しみや楽しみの感情を持って生きている命というわけではない。暗い一辺倒で何の取り柄もないように見える生徒であっても、ほかの生徒と同じように喜怒哀楽の感情を持ってそれぞれに生きている一つの命だということを忘れないように。暗い、キモイと言われれば、その命は傷つき、怒りの感情を持ったり、哀しみの感情を湧かせたりする。こういったことが理解できて、それぞれの命を尊重できる心の広い人間に成長していけるようにしなければ、生きている命としてどこがが足りないことになる」

 それぞれの生徒がそれぞれに喜怒哀楽の感情を持ってそれぞれに生きている命であるという価値観の相対化と相対化を可能とする成長を求めていき、求めに応じた成長を見せることができれば、負の感情をコントロールする能力も自ずと育っていく。

 では、最後に当方がイジメの事前防止に役立つと考えたロールプレイを紹介してみる。前以ってシナリオを用意して演じさせるものではなく、現実に起きているイジメをベースにして全編アドリブの即興劇で演じるロールプレイとする関係上、各学年の各教室で演じるのではなく、中学生、小学生、それぞれ全校集会形式で行う。小学生は6年生から、中学生は3年生から始めて、以下下級生たちにセリフの受け答えや展開の方法を学習させる。始める前に半ば生徒それぞれの知識となっているだろうが、イジメはどういった種類があるか、その態様や特質、原因・背景等々を学習させておく。最初からはロールプレイでの臨機応変な言葉の遣り取りは難しくても、考える力や会話力を養うという訓練の意味も込めて様々に繰り返させ、お互いのアドリブを参考材料や反省材料にして上達させていくという方法を採用する。テーマは担任が決める。導入部はイジメ被害者がイジメ加害者に対して「イジメはやめてくれ」というところから入るのを決まりとする。目的は厭なことをされたとき、断ることのできる会話を習慣とすることが当たり前のことだと生徒全員に認識させるためである。ロールプレイの登場人物も観客もイジメを断る場面を当然の光景として頭に記憶するようになれば、断らないことの方が生理的にも、理性の点から言っても、不自然な態度と認識するようになる。イジメ加害者にとっても、同じ感覚に迫られるだろう。

 ロールプレイを通してイジメの加害者、被害者、観客としてイジメとイジメに対する善悪の感覚を疑似体験(現実に似せた状況に身を置き、現実に起こるであろう様々な感覚を体験すること。)し、それが頭の中に記憶として僅かにでも残れば、のちにイジメ加害者の立場に立ち、あるいは被害者、観客がそれぞれの立場に立たされた場合にロールプレイでの疑似体験の再体験の形を取ることになるから、僅かにでも残ったロールプレイでの記憶ははっきりとした姿かたちで再現を受けやすく、イジメの加害者は自分は今イジメを働いている、イジメの被害者は今イジメを受けている、その場に居合わせている、いわば観客は今イジメを目にしている等々、それぞれに現在進行形の自己認識(自分は今何をしているかという認識)を働かせやすくなり、同時に疑似体験で受けた善悪の感覚をも自己認識(自分は今何を感じているか、どのような感覚でいるかという認識)することになって、自分自身を省みて善悪いずれかを判断するのかの自己省察の場に向かわざるを得なくさせる。つまりイジメ加害者に対してであっても、結論はどう自己認識しようが、善悪いずれかを考えざるを得ない自己省察の機会を与えることになる。

 アドリブで演じることになるロールプレイだから、登場人物が次のセリフに詰まった場合、担任が適宜手助けする。手助けは価値観の相対化と負の感情のコントロールを仕向ける方向への展開としなければならない。担任はそれ以上の展開が望むことができない場合、終了を告げて、解説と講評を行う。では、以下を参考にアドリブのロールプレイを演じるよう求めて欲しい。

 わざと靴を踏む嫌がらせを例としたロールプレイ

 被害者A「靴を踏むのはやめてくれ」
 加害者B「間違えて踏んだんだ」
 (言葉に詰まったなら、担任が手助けする。)
 担任「イジメは特定の誰か1人か2人を標的にする。イジメなら踏む生徒と踏まれる生徒は決まっていて、しかも何回も踏まれることになる」
 被害者A「何回も踏んでいる。同じ人間の靴を何回も踏み間違えるわけはない。目的があって、わざと踏んでいるんだ」
 加害者B「・・・・・」
 担任「何か原因があって、嫌がらせをするという結果がある。原因は面白くない態度を取られたとか、面白くないことを言われたとか、何かで得意になっているとか。原因を尋ねたまえ」
 被害者A「なぜ踏むのか教えて欲しい」
 加害者B「いつもいい子ぶっている」
 被害者A「いい子ぶってなんかいない」
 加害者B「自分で気がつかないだけじゃないか。いい子ぶってる」
 被害者A「いい子ぶってなんかいない」
 加害者B「みんなからもいい子ぶってるって見られている」
 担任「終了。加害者Bは被害者Aがいい子ぶってると思っていて、それが面白くなくて、懲らしめてやろうと思って靴を踏む嫌がらせをした。そうなんだな?」
 加害者B「そう」
 担任「誰かをいい子ぶっていると思ってしまうと、大抵、厭な奴と誰もが抱く自然な感情だと思う。どこまで懲らしめるつもりでいたのだろうか。不登校になるまで、あるいはイジメを苦にして首を吊るか、ビルの屋上から飛び降りるまでだろうか」
 加害者B「・・・・」(答えることはできないだろう)
 担任「だけど、いい子ぶっていると思わない生徒もいるはずだ。クラスの全員が全員共にいい子ぶっているとは思っていないと思う(価値観の相対化)。例えA自身がいい子ぶっているのが事実だとして、いい子ぶるのはA自身の問題で、いい子ぶっていて面白くないと思うのは懲らしめるために靴を踏む嫌がらせをしているのだから、取り敢えずはB自身の問題ということになる。だが、Aにしてもそうだが、Bにしても、自分自身の問題としてやらなければならないことはたくさんあるはずだ。いい子ぶっていて面白くないからと靴を踏んでいるよりもやらなければならない自分自身の問題を一つ一つ片付けていくことの方が自分自身の成長のためには大切なことではないだろうか。このことを理解できたら、自分自身の成長のためにしなければならないたくさんのことから比べたら、ほかの生徒がいい子ぶっていることなど小さなことになると思う」(価値観の相対化と負の感情のコントロール)

 プロレスごっこ。

 被害者A「プロレスごっこはもうやめることにする」
 加害者B「なぜ?」
 被害者A「技を掛ける方と技を掛けられる方が決まっているのは遊びではなく、イジメだと前に本で読んだことがある」
 加害者B「しょうがないじゃないか、俺の方が強いんだから」
 被害者A「勝ったり、負けたりして、初めて遊びになるんだって」
 加害者B「八百長はできない」
 被害者A「勝ったり負けたりするには弱い相手ばかりではなく、同格の相手や強い相手とも戦わなければならないって書いてあった。いつも相手は僕一人じゃないか。僕ばかりを相手にしないで欲しい」
 加害者B「じゃあ、今度負けてやる」
 被害者A「首を絞められて、苦しい思いはもうしたくない。床を叩いてギブアップしても、すぐには腕を離してくれないから、この間は苦しくて、本当に死んでしまうんじゃないかと思った」
 加害者B「じゃあ、今度からはすぐに腕を離す」
 被害者A「僕はもういい。誰か君よりも腕っぷしの強い相手として欲しい」
 加害者B「・・・・・」
 担任「終了。B、君はプロレスごっこの相手になぜAを選んだんだ」
 加害者B「友達だからです」
 担任「友達はA以外にいないのかね」
 加害者B「いいえ、います」
 担任「友達がA以外にもいながら、プロレスごっこの相手はいつもAと決まっているのはなぜなのかね」
 加害者B「・・・・・」
 担任「何か腹が立って、懲らしめてやるつもりでプロレスの技を掛けたのが始まりだったが、技があまりうまく掛かって得意な気持ちになって、続けることになってしまったのではないのかね?」
 加害者B「分かりません」
 担任「少なくともAは幸いにもBよりも体力的に弱い人間であるためにAとプロレスごっこをしている間はカッコいい主役クラスの活躍を演じることができていたことになる。いつもAを負かせて、君自身はいつも勝利する活躍を見せつけることができていたからだ。だけど、弱い人間相手の活躍はAだけか、Bの仲間数人だけに通用させることができていたのであって、その他大勢の生徒にまで通用させることができていた活躍というわけではない。(価値観の相対化)社会に出てからも同じように似た活躍しかできなかったなら、ごく少数の仲間には通用しても、その他大勢の社会人には通用しないことになる。社会に向かって成長していくためにも今のうちから、その他大勢の生徒にまで通用させることができる活躍の道を考えるべきではないのか。そのためには面白くないことをされたから、懲らしめで痛めつけてやるといったことは、大体からして意味はないことなのだから、控えるべきではないのか」(負の感情のコントロール)

 集団無視のロールプレイ(加害者Bが集団無視のリーダー、被害者Aは以前グループのメンバー)

 被害者A「みんなで無視するのはもうやめてほしい」
 加害者B「無視なんかしていない。相手にしないだけだ」
 被害者A「・・・・」
 担任「理由を聞いたら?」
 被害者A「なぜ?理由は?」
 加害者B「口を利く必要がないから口を利かない。呼びかける必要がないから呼びかけない。だから、相手にしないことになる」
 被害者A「・・・・・」
 担任「Aはクラスの全員から口を利いてもらえないのか?」
 被害者A「ううん。Bのグループからだけ」
 担任「B、Aはクラスの全員から口を利いて貰えないわけではない。なぜ君のグループの全員だけが口を利かないのだ?」
 加害者B「そんなことは知らない」
 担任「グループのメンバーはリーダーの君が恐くて、口を利かない君に従って口を利かないようにしているのか?」
 加害者B「口を利くなって一言も言っていない」
 被害者A「グループの中に以前口を利いてくれたメンバーが何人かいたけど、Bから無視されるようになってから、誰も口を利かなくなった」
 担任「Bが口を利くなって指示を出さなければ、全員が口を利かなくなるなんてことはなかったことになる」
 加害者B「指示なんか出していない。勝手にみんながそうしているだけだ」
 担任「指示を出さなくても、メンバーはBが怖いから、顔色を窺う形で口を利かなくなったのではないのか」
 加害者B「そんなことはしらない」
 担任「どうしても口を効きたくなくて、必

要に迫られる以外は口を利かないでいる相手というのはいる。先生もいる。だが、誰と口を利く、利かないは本人の自由意思で決めることで、誰それが恐くてとか、誰それに気兼ねしてといった理由で自分自身の自由意思を曲げさせてしまう人間関係は本当の友だち関係とは言えない。Bはグループのメンバーと本当の友だち関係を築いているとはとても言えない。君が恐くて従っている。君は怖がらせて従わせている。本当の友だち関係ではない」
 加害者B「・・・・・」
 担任「BがAと口を利かないのは君の自由意思だが、メンバーと本当の友人関係を築きたいと思ったら、メンバーがAと口を利く、利かないはメンバーそれぞれの自由意思に任せるようにしなければならない。(負の感情のコントロール)任せることができるまでに成長しなければ、今はいいかもしれないが、社会に出てからはそれ相応のリーダーとはなれないかもしれない」(価値観の相対化)

 参考のためのアドリブ即興劇のロールプレイを挙げたが、担任のセリフは同じような場面設定のロールプレーを繰り返すうちにその多くを生徒自身が慣れを受けて、肩代わりするようになるだろう。誰もがそれなりに考える力を持っている。その考える力をロールプレイの繰り返しによって刺激することの意図のもと、イジメを断るところから入ることで断ることができるようにならなければならないという義務感を持たせるように促していく。以上――

 良い年の瀬を。来年もよろしく。

 《イジメ過去最多歯止めは厭なことは「やめて欲しい」で始まり、この要請に順応できる人間としての成長を求めるロールプレイで(1)》に戻る
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教師の働き方改革に適う顧問の手を煩わさない学校単位の生徒自身運営の中学校運動部活動を模索する

2022-06-30 07:04:54 | 教育
 ――競技志向の生徒は学校運動部活動で、レクリエーション志向の生徒は地域運動部活動で――

 現在81歳と6カ月。歳を取ってから気づいたことが多々ある。いわば歳取ったからこそ、言える言葉の方が多く、ここに書いていることの殆どは歳を取ってから気づいたことばかりであることを前以って断っておく。81歳と6カ月にもなってこの程度のことしか書けないのかという評価も当然のことあるだろうが、読むのにムダな時間を使わせてしまったと謝るしかない。

 ブログで何度も繰り返し言ってきたことだが、日本人の行動様式は基本的なところで権威主義的人間関係の影響下にある。「権威主義」とは「権威を振りかざして他に臨み、また権威に対して盲目的に服従する行動様式」と「大辞林」(三省堂)には出ているが、要するに上の立場の人間が自らの上の立場を権威とし、その権威を以ってして下を従わせ、下は上の立場を権威として、その権威に無条件同様に従う行動様式を指すが、私自身が使う「権威主義」は権威を媒介物として上は下を従わせ、下は上に従う行動傾向だと簡略的に意味させている。要するに日本人の殆どの場合、と言うのは、封建時代から遥か遠ざかってきたために日本人全体というわけではなくなっているが、傾向としては立場上の上下を人間関係にそのまま反映させて上下に隔て、上により価値を置いた上下方向の人間関係を意思決定の大きな力学として働かせている。いわば立場上の上下関係に無関係に水平方向の対等な人間関係を取って相互に意思決定する関係性を多くの場合取っていない。

 勿論、この上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係は学校社会の授業に於ける教師から生徒への知識授受や意思伝達にも影響を与えて、その力学として作用することになるが、同じ日本人として共通の行動様式を取る傾向にある以上、当然の影響ということになる。教師が教科書と教科書付属の参考書で得た自らの知識をほぼ機械的に伝えて、生徒に機械的に暗記させる一方通行の知識の授受にしても教師が自らの立場を上に位置づけて権威とし、その権威に則って生徒を下に位置づけている権威主義的な上下の人間関係に則り、上は下を従わせ、下は上に従う上下方向の力学を教師と生徒が相互に働かせているからこその自然な成り行きとしてある影響であろう。

 いわば教師が生徒を機械的に従わせ、生徒が教師に機械的に従う権威主義的な上下の人間関係が暗記教育を可能としていて、未だ色濃く残っているのであり、裏返して言うと、暗記教育は学校社会での教師対生徒の権威主義的な上下の人間関係が産み出している必然的な産物ということになる。

 逆に考えさせる教育は考える生徒生徒が主体となるから、上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的関係は関係してこないことになる。如何に日本の教育が暗記教育となっているのか、2020年9月に一度当ブログに使ったが、《我が国の教員の現状と課題 – TALIS 2018結果より –》(文部科学省)から見てみる。ブログに使ったのは「国立教育政策研究所」の資料だったが、リンク切れしているから、同じ内容の文科省のを使うことにした。「TALIS」とは「Teaching and Learning International Survey」の略で日本語では「国際教員指導環境調査」と紹介されている。

 〈日本では2018年2月~3月に小学校約200校及び中学校約200校の校長、教員に対して質問紙調査を実施〉とある。

 教師が批判的に考える必要がある課題を与える  
  小学校11.6%
  中学校12.6%
  参加48か国平均 61.0%

 児童生徒の批判的思考を促す
  小学校 22.8%
  中学校 24.5%
  参加48か国平均 82.2%

 さらに一つ加えると、

 明らかな解決法が存在しない課題を提示する
  小学校 15.2%
  中学校 16.1%
  参加48か国平均 37.5%

 教師が教えるのをただ従うという上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的関係が大勢を占めている状況が如実に現れている、

 授業の場のみならず、運動部活動の場でも、文化部活動の場でも顧問対生徒の間に同じ日本人として同じ人間関係を取り、同じ行動様式を踏むゆえに授業の場とほぼ同じ暗記教育型の上は下を従わせ、下は上に従う知識授受や意思伝達の影響を受けることになる。教室での教師同様に顧問も自らを上の権威と位置づけ、部員を下の権威と看做して上の権威を以ってして下の権威を従わせる力学が働く。顧問の命令・指示に対して部員各自が「ハイ、ハイ、ハイ」と無条件に従う光景はこのような上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係の影響なくして成り立たない。そしてこの人間関係の力学は当然のこととして先輩対後輩の間にも存在することになる。先輩が自身を絶対的な存在として後輩に服従を求めたり、対して後輩が先輩を絶対的な存在としてその命令・指示への服従を受け容れるのは上は下を従わせ、下は上に従う同じ人間関係に基づいた同じ行動様式の最たる影響としての現れであろう。

 教師であれ、顧問であれ、先輩であれ、上の立場にある人間が自己の権威を絶対視して下の立場の人間に命令・指示を下し、無条件に従わせる場合は当初の権威の提示は他人を支配し、服従させる権力の行使へと一段も二段も強めた色合いを帯びることになる。そしてそのような権力の行使は自己絶対視を背景としているために自己の絶対性を押し通そうとして当たり前の方法で押し通すことができなかった場合、押し通すために、あるいは自己の絶対性を否定された場合、否定への反発として、教育活動のみならず、運動部活動や文化部活動でも往々にして暴力やその他の方法を使った体罰という形で自己の絶対性を守ることになる。体罰は上の立場から下の立場に対する権力行為であり、下の立場からの上の立場に対する権力行為として現れることはない。一時期はやった生徒が教師に暴力を振るう校内暴力は教師が教師としての上の立場からの権威を示すことができずに生徒を精神的に上に立たせてしまう上下の権威関係の逆転からの暴力の形を取った生徒の権力行為だったはずだ。

 余談になるが、セクハラは一般的には年上の上司である男性が年上の上司であることと男性という存在に権威を置いて、女性であることと年下の部下であるということから二重にその権威を蔑ろにしている下の存在に対する男から女への一方的な権力行為として現れ、その逆はあり得ないが、その例外が女性が男性の上司であるといった立場が上の場合に限られ、上司等の上の立場に権威を置いて部下等の下の立場の権威を認めていないことから起こる女から男への一方的な権力行為としてしばしば見聞きすることは周知の事実となっている。だが、権威の上下関係を利用した権力行為であるという点で、年上の男性の年下の女性に対するセクハラとその本質的な構造に違いはない。

 日本人の行動様式が基本のところでは上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的上下関係の影響を受けていて、多くの人間関係が同じ構造を取る傾向にあることを前提としてスポーツ庁が手始めに休日のみに限定して進めようとしている運動部活動の地域移行を考えてみることにする。

 2022年6月6日、「運動部活動の地域移行に関する検討会議」が提言書をスポーツ庁に手交したとマスコミが伝えていた。「運動部活動の地域移行に関する検討会議提言 ~少子化の中、将来にわたり我が国の子供たちがスポーツに継続して親しむことができる機会の確保に向けて~」

 「提言書」題名によって検討目的はほぼ把握できるが、少子化を受けて小中高の生徒数の減少が部活動維持を困難にさせていることと、併せて教師が顧問として部活動に拘束される時間外勤務に多くの時間を取られて、教師本来の業務に影響が生じていることから取り敢えずは公立中学校の休日の運動部活動を地域の運動クラブ等に移行することによって教師の部活動顧問の役割と役割に付随する時間的制約からの解放を図ることで、この面の教師の働き方改革を推進するという内容になっている。

 移行期間は2023年度から2025年度末までの3年間を目途にしていて、将来的には平日の運動部活動の地域移行をも想定している。地域に於ける実施主体は総合型地域スポーツクラブやスポーツ少年団、クラブチーム、民間事業者等々を想定しているようだが、中学校の運動部活動の地域移行だから、便宜的に"地域運動部活動"と呼ぶことにする。少子化の影響を受けて2つの中学校や3つの中学校が合同で野球部とかサッカー部を結成したとしても、野球部とかサッカー部とかの部活動となることに変わりはないはずだからだ。体制的な変化はなく、活動場所が学校から地域に変更する変化しかないはずだ。

 「提言書」は先ず最初に運動部活の教育的意義を高々と掲げている。

 〈中学校等(義務教育学校後期課程、中等教育学校前期課程、特別支援学校中学部を含む。以下同じ。)の運動部活動は、これまで生徒のスポーツに親しむ機会を確保し、生徒の自主的・主体的な参加による活動を通じて、達成感の獲得、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等に資するとともに、自主性の育成にも寄与するものとして、大きな役割を担ってきた。

 また、学校教育の一環として行われる運動部活動は、異年齢との交流の中で、生徒同士や教師と生徒等の人間関係の構築を図ったり、生徒自身が活動を通して自己肯定感を高めたりするなどの教育的意義だけでなく、参加生徒の状況把握や意欲向上、問題行動の発生抑制など、学校運営上も意義があった。

 さらに、生徒や保護者から学校への信頼感を高めることや、学校の一体感や愛校心の醸成にも大きく貢献してきた。

 あわせて、スポーツの「楽しさ」や「喜び」を味わい、生涯にわたって豊かなスポーツライフを継続する資質・能力の育成や、体力の向上や健康の増進につながるなどの意義も有してきた。〉――

 「生徒の自主的・主体的な参加による活動」、「達成感の獲得」、「学習意欲の向上」、「責任感、連帯感の涵養」、「自主性の育成」、「異年齢との交流」、「生徒同士や教師と生徒等の人間関係の構築」、「自己肯定感の獲得」、「意欲向上」、「問題行動の発生抑制」、「生徒や保護者から学校への信頼感」、「学校の一体感」、「愛校心の醸成」等々、言うことなしの様々な価値を学校部活動に付与している。学校という社会にイジメなど存在しないかのようだ。2020年度中学校のイジメ認知件数は80877件。いじめを認知した学校数は前年度から4.1ポイント減ではあるものの8485校で総数の82.2%を占めている。

 部活動維持が困難になってきたことの単なる回避策ではなく、教師の働き方改革の推進をかねているものの、生徒が学校の部活動で手に入れてきたこれらの様々な優れた価値を地域運動部活動でも保証するだけではなく、運動部活動に所属する生徒のみならず、〈地域における新たなスポーツ環境を整備充実する際には、単に運動部活動の実施主体を学校から地域のスポーツ団体等へ移行するのではなく、現在、運動部に所属していない生徒も含めて、スポーツ活動への参加を望む生徒にとってふさわしいスポーツ環境の実現につなげていく必要がある。〉と運動部活動未所属の生徒のうち、スポーツに本格的に、あるいは趣味的に参加したい生徒をも地域運動部活動に呼び込むことのできる環境の提供をも目論んでいるから、なかなか壮大な計画ということになる。

 要するにスポーツ機会平等論に立ち、その実現を目指している。その目指す方法論が次の一文である。〈地域における新たなスポーツ環境の構築の趣旨・目的は、どの生徒にとってもスポーツに親しむ機会を確保していくためのものであり、複数の運動種目の活動があることも生徒にとっては重要なことである。また、たとえ同じ運動種目であっても、レクリエーション志向の生徒向けの活動と競技志向の生徒向けの活動を提供したり、競技志向の活動であっても、生徒がそれぞれのレベルでスポーツを楽しむことができるよう複数のレベルに分けた活動を提供したりするなど、生徒自身が自分の志向やレベルに合う活動を選べる環境を構築していくことも重要である。〉

 同じスポーツでも生徒それぞれの志向やそれぞれのレベルに合わせた技術的に複数の段階の活動を自由に選択させる新たな取組みを学校で行った場合は活動の段階に合わせた細分化が必要になり、細分化は教師の分担を分散させることになるだろうから、運動部活動から地域部活動の移動によって解放されて手にする部活動顧問の時間の新たな拘束要件となって教師の働き方改革に逆行する恐れが出てくるため、地域部活動でこそ解決可能な問題となる。その対象生徒と活動種類を次のように記述している。

 〈○ 地域におけるスポーツ環境において、生徒のスポーツの機会を確保する際、中学校等の生徒には、体力や技量が高い競技志向の生徒もいる一方で、スポーツを楽しむことを重視するレクリエーション志向の生徒や運動が苦手な生徒、障害のある生徒もおり、生徒の志向や状況に応じた対応が求められる。

 ○ そのため、現行の運動部活動のように競技志向で特定の運動種目に継続的かつ長期間にわたり専念する活動だけではなく、青少年期を通じて幅広いスポーツ活動に親しむため、休日や長期休暇中などに開催されるスポーツの体験教室や体験型キャンプのような活動、レクリエーション的な活動、シーズン制のような複数の運動種目を経験できる活動、障害の有無にかかわらず、誰もが一緒に参加できる活動など、生徒の志向や体力等の状況に適したスポーツの機会を確保し、体験の格差の解消にもつなげていく必要がある。〉

 特定のスポーツの高度な技量の獲得を目指す継続的かつ長期間に亘って部活動に従事する生徒だけではなく、スポーツを楽しむことを重視するレクリエーション志向の生徒や運動が苦手な生徒、障害のある生徒も地域運動部活動ではスポーツ体験できる様々な場と選択可能な様々な時間の提供を図り、前者後者間のスポーツ体験の格差の解消に努めるとなっていて、学校運動部活動そのままの地域運動部活動への移行とはしない、学校部活動からこぼれ落ちていた生徒まで掬い上げることを狙ったなかなか壮大な目論見となっている。

 このように志向するに至ったのは、〈多くの学校の運動部が、日本中体連が主催する全国大会を目標としているため、スポーツを楽しむことを重視する生徒や複数のスポーツ等を経験したいと考えている生徒にとって、ふさわしい活動内容の運動部活動があまり見られない状況もある。〉ことからの学校運動部活動体制の欠陥の改善を地域運動部活動で図るということになる。

 こういった欠陥だけではなく、学校運動部活動の運営面、あるいは指導面の欠陥についても、一般的に広く指摘されていることだが、言及している。

 〈全国一位に至るまで「上を目指す」仕組みとなっており、生徒や保護者、指導者が、より上を目指そうとして、練習の長時間化・過熱化やそれによる怪我や故障を招いている。中には、勝利至上主義による暴言や体罰、行き過ぎた指導等が生じる一因となっている。〉――

 当然、学校運動部活動の地域運動部活動への移行は休日のみならず、ゆくゆくは平日も想定している都合上、中学校の運動部活動体制の欠陥の改善のみならず、部活動運営面や指導面の欠陥の改善までを想定内としていることになる。いわば「勝利至上主義」に基づいた「練習の長時間化・過熱化」、そして「暴言や体罰」、「行き過ぎた指導」、この結果としてある「怪我や故障」等の是正・解消をも頭に置いていて、このことが次の一文となっている。

 〈運動部活動の地域移行にあたり、地域における新たなスポーツ環境については、単に休日の運動部活動の練習内容、活動時間、指導体制などを、そのまま地域に移していこうとすると、地域におけるスポーツ環境において、生徒のニーズに十分に応じることができなかったり、大会での成績等を重視した活動が多くなったりするなど、学校の運動部活動が抱える課題がそのまま温存されてしまう恐れがある。このため、中学校等の生徒が参加できる地域における新たなスポーツ環境の在り方を新たな視点で具体的に示していく必要がある。〉――

 学校部活動のこのような指導面に於けるマイナス要素が「成績重視」の姿勢が招いた考え方や態度であるとするだけでは温存の危険性を抱えかねないが、「成績重視」が何によって起因しているのか、本質的な点にについては触れていない。確かに地域のスポーツクラブなど営利を目的とした組織はスポーツ庁が示すルールの都合上、客を失って利益を落とす危険性を避けるために厳しい指導は行わない可能性はあるが、体力や技量の高みを目指す競技志向の強い、結果、成績重視・勝利至上主義に染まった生徒が厳しくない指導に不満をいだいて厳しい指導を求める突き上げを行ったり、別のクラブに移籍する事態が起きたなら、経営維持のためにスポーツ庁のルールを無視して厳しい指導を行わざるを得ないケースが持ち上がる事態も想定される。となったなら、成績重視や勝利至上主義に走るのも走らないのも、学校の運動部活では顧問か生徒の、あるいは顧問と生徒両者の、地域運動部活動では主として生徒自身の姿勢の問題に帰することと捉えなければならない。

 要するに体力や技量の高みを目指す結果、成績重視や勝利至上主義に囚わることになる思いの大部分は高い体力や技量が約束してくれるだろうと想定している素晴らしい成績や輝かしい勝利の経歴が将来の自己実現を約束する大いなる要因となると見ているだろうから、彼らにその実態と価値の程度を認識させておかなかった場合、地域運動部活動であったとしても成績重視や勝利至上主義がいつ頭をもたげないとも限らなくなる。成績重視や勝利至上主義が頭をもたげて、勢いがつくと、練習の長時間化・過熱化へと走ることになり、成績という結果がついてこないと、必然的に監督や顧問の部活生徒に対する、あるいは先輩の後輩に対する、暴言や体罰、行き過ぎた指導等々、学校部活動と同じ局面に行きつく危険性は決してゼロとは言えなくなる。あるいは中学生の3年間に頭を抑えられて我慢していた成績重視や勝利至上主義が高校に入って反動で迸ることになって、生徒の方から監督や顧問を成績重視や勝利至上主義に巻き込まないとも限らない。

 成績重視や勝利至上主義がなぜ長時間の練習になるのかと言うと、監督や顧問といった上の指示を受けて、下の各部員がその指示に従って各技術の向上を図ることになるが、多くの場合、指示の範囲内で指示内容を何度も反復練習し、体で覚えさせる方法で最低限、身につけている技術のレベルを維持するか、レベルアップを図っていく方法を取るが、このような方法によるその機械性によって目指す成績や勝利の程度に応じて反復練習の回数とその積み重ねが必要となり、自ずと長時間へと向かうことになるからだろう。

 但し各部員は監督や顧問等の上の指示をそのままなぞる形で練習を成り立たせている構造は一般的な人間関係の方式となっている上は下を従わせ、下は上に従う権威主義性の行動様式そのままの反映となる。授業の場で教師が教科書と教科書付属の参考書で得た自らの知識をほぼ機械的に伝えて、生徒に機械的に暗記させる一方通行の知識の授受となっている暗記教育と同じ構造であり、伝える知識の量の多い少ないに応じて暗記する時間の多い少ないが決まってくるのと変わらない。上から言われた一つの指示を部員が自分で考えて二にも三にも発展させることができるだけの考える力を備えていたなら、備えるについては監督や顧問がその方向に指導しなければならないのだが、反復練習は機械的であることから免れて、体で覚えるだけではなく、頭で組み立て、頭で覚えていくことになるから、反復練習に於ける機械的な時間の経過は必要なくなり、結果的に長時間は回避可能となり、上は下を従わせ、下は上に従う権威主義性の行動様式からの解放ともなる。

 いわば監督や顧問の指示にそのままに従うのではなく、指示を自分なりに咀嚼して自分なりの意味を加えて行動するようになると、野球で言うと、「しっかり捕れ」、「どこを見ているんだ。ボールをよく見ろ」、「遣り直しだ」、「バットの芯に当てることができないのか」等々次から次へと指示が飛ぶのを待たずともまずいプレーに対してどこが悪かったのか、どうしたら良くすることができるのかを頭で考えてプレーするようになり、結果を出しさえすれば、監督も顧問も選手自身に任せるようになって、その選手に対する指示を必要としなくなる。いわば一から十まで指示を受けなくても、考えたプレーで自分を律することができるようになれば、自分の力で少しずつ自分を発展させていくことができる。だが、こういった行動は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義性の行動様式を当たり前としている間は望むことができない。指示を受けてそれに従う機械的反復のみを必要とし、結果として長時間の猛練習を招くばかりか、機械的な反復でしかない練習量の多さと比較した結果を求めるようになって、いわばこれだけ練習したのだからとそれ相応の成績や勝利を目指すようになって、そういった目標が成績重視や勝利至上主義へと繋がっていく。

 自分という素材をどう活かすか活かさないかの決定権は最終的には持って生まれた才能+自分自身の意志と姿勢(=気持ちの持ちよう)に掛かっている。監督や顧問の指導が新たな技術の獲得のキッカケやモチベーション(=やる気を起こす動機づけ)を与えるキッカケとなることもあるだろが、その技術を自分のモノにできるかどうかにしても、モチベーションどおりに力を発揮できるかどうかにしても、やはりあくまでも持って生まれた才能+自分自身の意志と姿勢(=気持ちの持ちよう)に掛かかることになる。指導は何かを誘発するキッカケになるに過ぎない。個々の運動部活員の素材を活かす決定権を監督や顧問が握っているとしたら、高校野球で言うと、春夏いずれかの甲子園大会で何回も優勝に導いている名の通った強豪校の監督や顧問の指導を受けた部員の殆どがプロ野球や職業野球で大活躍することになるが、真に活躍する選手は1年にそれ程多くは存在しないはずだ。そもそもからしてプロで活躍する選手の多くが強豪校野球部出身の肩書を持っているものの、その部員の殆どはプロの野球選手として自己実現を目指す全国の中学校野球部からの越境入学者で占められている状況にある。今年2022年春の選抜優勝校大阪桐蔭高は地元選手は1人のみだという。

 いわば強豪校の優秀な監督、あるいは顧問と言えども、最初から優れた素材が指導の対象となっている。それでも指導した優れた素材の全員をプロや職業野球界に送り込んで、全員をスタープレイヤー(花形選手)に育てることができるわけではない事実はスタープイレヤーに育つかどうかは、つまり自分という素材を活かすか活かさないかの決定権はやはり最終的には持って生まれた才能+自分自身の意志と姿勢に掛かっていることの証明としかならないし、監督や顧問の意志や姿勢ではないことは誰もが理解しなければならないことだろう。

 自分という素材を本質のところでどう扱うかは最終的にはあくまでも自分自身の問題だということであって、肝に銘じておかなければならない。プロで名を成した野球選手を見ると、持って生まれた才能だけではなく、野球について本人独自の考えを持っている上に野球選手としての自分を語る言葉を持っているように見える。こうなるには監督や顧問の指示に従うだけではなく、指示を自分なりに考えてプレーするようになると、そのプレーは自分の考えを加えてしていることだから、その良し悪しは監督や顧問の評価に従うだけで済まずに自分で確かめて、なお進化を図らなければならないために外側から自分を眺める目が自然と養われることになる。外側から自分を眺めて自分自身を様々に評価することになるから、自ずと言葉を獲得していく作業と同時進行していくことになる。言葉でプレーを修正し、プレーを動きだけではなく、言葉でも確認して、常時相互反応させることによって、言葉もプレーも磨きがかかっていくはずで、このようなステップを踏んだ選手が選手としても名を残し、監督になっても名を残し、解説者になっても名を残すことになるのだと思う。

 こういったことを裏返してみると、持って生まれた才能がいくら優れていても、その才能を監督や顧問の指示に従うだけではない、部活部員自身が十分にバックアップできるだけの強固な意志と姿勢(=気持ちの持ちよう)を持ち合わせていなかったなら、折角の才能を宝の持ち腐れとしてしまうだろうし、事実、宝の持ち腐れとしてしまう例は少なからず存在するはずである。例えば高校野球や大学野球で大活躍し、プロでも通用する逸材と言われた選手がプロに入って芽を出さずに終えてしまう例である。

 尤もそのような選手でも、プロから離れた世界で今までの鳴かず飛ばずがウソのように活躍する例がある。自分という素材を本質のところでどう扱うかはあくまでも自分自身の問題だからと気づいて、腹を据え、新しい世界なりに自身の問題として取り組むことに成功するからだろう。

 持って生まれた才能は先天的に与えられたもので、それを伸ばすための極めて個人的な意志と姿勢は「自発性」(他からの影響・強制などではなく、自己の内部の原因によって行われること:goo辞書)や「主体性」(自分の意志・判断で行動しようとする態度:goo辞書)、「自主性」(他に頼らず、自分の力で考えたり行なったりすることのできる性質:コトバンク)、「自律性」(他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動する態度:goo辞書)といった精神的資質を後天的に獲得、自らのモノとしていかなければならない。そしてこれらの精神的資質を個人の内面に育む共通する要因は考える力である。考える力がなければ、これらは育むことはできない。他人に従うだけの人間となって、その範囲内で終わる。奴隷がいい例で、奴隷は主人の考えに絶対的に従い、自身の考えを持たないことを存在理由とし、主人に従う範囲内の人生を送る。

 既に触れている監督や顧問の指示にそのままに従うのではなく、自分の頭で考えてプレーするという行為は自発性や主体性、自主性、自律性といった各資質を既に獲得しつつあるか、獲得に向かう状況にあることを示す。そしてこれらの資質を獲得するのも獲得しないのも自分自身の気づかないところで進行することになるが、例え気づかなくても、獲得するしないは自分自身の問題として付いて回る。

 また、これらの資質が考える力と関連付けが必要である以上、基本のところで日本人の行動様式として日々影響を受けることになっている上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的な人間関係はその関係性から言って、自発性や主体性や自主性、自律性獲得の阻害要因として作用することになる。なぜならこの人間関係は指示に従うのみで自分からは考えないことによって最大限機能することになるからなのは断るまでもないが、具体的には自発性や主体性や自主性、自律性はそれぞれの単語の意味が示しているとおりに極めて内発的な精神性によって獲得しうる性格傾向であるのに対して上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的な人間関係は下の存在は上の存在との関係を受けて成り立たせることになり、外発的関係性を取ることになるため、自発性や主体性や自主性、自律性といった内発的な精神性の発揮に対して否応もなしに頭を抑える力学を取ることになるからである。

 このことを認識しないままに学校部活動を地域運動部活動に移行させた場合、成績重視や勝利至上主義が一定程度抑えられたとしても、残滓として生き残ることになって、高校に入ってから反動という形で取り戻して却って始末に悪い状況に至る事態も起こりうる。

 権威主義的な人間関係の影響を受けて、自発性や主体性や自主性、自律性がどのように阻害されているか、《運動部活動等における体罰・暴力に関する調査報告書》(公益社団法人全国大学体育連合)を基に指導者からの体罰という名の暴力行為に対する体罰対象者の受け止め方から窺ってみる。

 〈1。調査の目的
 本調査の目的は、学校や社会において運動部活動の指導者となる可能性のある大学生の運動部活動における体罰・暴力の経験や意識を把握することであった。

 2。調査の方法一対象
 本連合の会員校に共同研究への参加を募集したところ、全国の13大学・2短大から協力を得られた(「共同研究参加大学募集要項」は後掲する)。所在地は、首都圏が8大学、東海地方が2大学、近畿地方が1大学・1短大、九州地方が2大学・1短大であった。これらの会員校に在学する学生3,957名(男性2504、女性1,417、無回答36)から同答を得た。調査はアンケート用紙を用いて2013年9月1日から10月31日の期間に実施した。〉

 調査は2013年9月1日~10月31日で、約9年前の少々古いものだが、「体罰の実態把握について(令和2年度)」(文部科学省)によると、小中高校から中高一貫の中等教育学校、特別支援学校を含めた2020年度に処分等が行われた体罰は2019年度 685件に対して485件の発生で、減少してはいるものの、表に現れていない件数が相当数あると仮定できるから、決して少なくない状況を示している。この仮定の根拠として児童虐待も体罰の一種に当たり、「厚労省調査」は、〈2019年度中に、全国220か所の児童相談所が児童虐待相談として対応した件数は205,044件で、過去最多。〉と伝えていることを挙げて、日本人の多くが上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的な人間関係に如何に影響を受けていて、最悪の状態にまで達している例が数多く存在していることを類推できるはずである。

 要するに暴言や暴力を用いてまでして言うことを聞かせようとする究極の行動形態は児童虐待の場合は親という存在を権威とし、学校の体罰の場合は教師や顧問という存在を権威として上は下を従わせ、下は上に従うべきとする権威主義的人間関係を元々の素地としていなければ、究極にまで行き着くことはないということであり、このことは日本人の行動様式は広い範囲でそういった素地の影響下にあることを示すことになる。

 では、上出「運動部活動等における体罰・暴力に関する調査報告書」にある権威主義的な人間関係の究極の形としてある体罰に対する大学生、短大生の受け止め方から自発性や主体性や自主性、自律性を如何に阻害することになっているのかを見ていく。

 「調査報告書」は「体罰の頻度」や「体罰の回数」、「体罰に至った経緯」等を調査項目としているが、「受け止め方」のみの画像を取り出して、貼り付けておいた。
       
 体罰を受けて、「精神的につよくなった」、「技術が向上した」、「試合に勝てるようになった」等、プラスの能力を手に入れたと見る多数派を占める肯定的な価値判断は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係を積極的に、あるいは無条件に受け入れていることを示すことになる。この人間関係に於いて上の権威主義性が強まる程に上の下に対する自発性や主体性、自主性、自律性といった各人独自の精神的資質の発揮を要求する度合いが弱まり、体罰はこれら精神的資質の発揮を、備えていたとしての話だが、一切考慮に入れない考えのもとに行われることになる。

 尤も暴言や体罰を与えることで自発性やそれ以下の資質を引き出すんだと体罰に正当性を与える主張もあるだろうが、自発性等々の資質はいつ如何なる場合も他からの強制を受けて発揮するものではなく、強制は自発性等の資質を反対に歪める働きをし、十分に機能しない状態にさせて、だから体罰は繰り返される、あるいは繰り返さなければならないという性格を持つのだが、自発性とそれ以下の資質は自分が経験することになる数々の事例から直接学んだことや他人が経験した事例を直接目撃するか、情報として受け取った中から自分から学んで考える力を身に付け、自分の中に確立していくことになる各性質であって、このような構造上、自分の中にある性質として他からの強制を受けなくても自然と反応して自分自身の意志と姿勢となって現れなければならない。要するに体罰をそのまま受け入れて、なおかつプラスの評価を与えた大学生・短大生は、それぞれの年令になっても、自発性やそれ以下の資質を満足な状態で前以って備えていなかったことが監督や顧問をして誘発させることになった体罰ということにもなる。体罰受けて一見、自発性や主体性や自主性、自律性等を発揮したかのように見えるが、実際の精神性の発揮とは似ても似つかない機械的な反応に過ぎないということなのだろう。

 当然、「精神的につよくなった」以下のプラスの能力は極めて内発的なモチベーション(=やる気を起こす動機づけ)に基づいて手に入れることになったものではなく、体罰が外発性であるにも関わらずに自らのモチベーション(=やる気を起こす動機づけ)にして手に入れた実態を如実に物語ることになる。
      
 かくこのように上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的上下の人間関係自体が自発性や主体性、自主性、自律性といった精神的資質を排除する形で成り立っていて、そうであるゆえに日本人が行動様式として影響を受けている権威主義的な人間関係そのものがこのような精神的資質を育む阻害要因として立ちはだかっていることになる。

 一方の「プレーが萎縮した」、「体罰・暴力を受けることが不安になった」、「反抗心を持った」等は体罰を嫌悪し、反抗心が湧いていることからのマイナス評価であるものの、監督や顧問を上の権威に置いていて、止むを得ずか、諦めているかして体罰を受け入れていることに変わりはなく、結果として上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係を相互に維持し合っていることになっている状況は否定できない。とは言っても、体罰を嫌悪し、反抗心を湧かせること自体が何がしかの自発性とそれ以下の精神的資質を備えていて、その内発性と体罰という外発性との衝突が誘発したマイナス感情と見ることができる。

 但し肯定派にしても否定派にしても運動部活動の指導者や顧問が自らの立場を権威として上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係を行動様式としていて、部活部員はその影響下にあることに変わりはなく、体罰という究極の形で現れなくても、その人間関係が自発性以下の資質を育むのを抑圧する力学として働いているということにも変わりはない。

 となると、権威主義的人間関係の行動様式をそのままにして学校部活動を地域部活動へと移行させた場合、体罰やイジメが減ることがあったとしても、自発性や主体性、自主性、自律性といった内発的精神性の際立った育みは期待できないことになり、上は下を従わせ、下は上に従う関係性の影響下にある人間を地域部活動でも再生産し続ける恐れは否定できない。

 この再生産を断ち切って、自発性や主体性、自主性、自律性といった内発的精神性を備えた人間を育てるための核心は断るまでもなく指導者や顧問と部員との間の行動を規制して、その規制が外面的な行動だけではなく、内面的な人格形成にまで影響することになっている上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係を断ち切り、この人間関係から部員を解放することであり、解放がそのまま指導者や顧問としての教師の部活動に関わる時間の短縮に繋げることができるなら、何もわざわざ学校部活動の"地域部活動"へと移行させる必要はなくなる。

 もしこういった目論見が成功した場合、授業の場で同じ人間関係を取って成り立っている暗記教育を生徒自らが自発的・主体的に進んで学び取り、自主性や自律性を確立していく考える教育、思考型の教育への転換も不可能でなくなる。

 では、その方法を模索してみる。主に野球部について述べるが、他の競技にも応用できるはずである。

 部活の顧問は教師が担うが、練習には基本的には参加しない。このことによって顧問による部活生徒に対する上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係の接触は制限され、制限に応じて行き過ぎた指導としてある暴言や体罰は存在しなくなる。小学校の部活は6年生の中から5人程度を選抜して集団で指導する。中学校は3年生の中から5人程度を選抜してこの役目を担う。小学校の6年生や中学の3年生の部員が5人を欠く場合は小学校は5年生から、中学校は2年生から必要人数を繰り上げる。もし小学校も中学校もチームを組むだけの人数が不足する場合は最寄りの学校と合同チームを組む。この方法はあとで述べる。

 ミーティングを全体練習と同等に重用視する。ミーティングには顧問の教師が加わるが、進行は小・中共に集団指導の5人が行う。但し教師はミーティングを行うに当たって先ず最初に自分という素材を本質のところでどう扱い、どう発展させるかは監督や顧問といった他人ではなく、最終的には自分自身の問題にほかならないということを教え、押さえさせて置かなければならない。ミーティングは上級生と下級生の上下の壁を取り払い、下級生も自由に発言できることをルールとする。顧問は上級生と下級生が自由に意見を言い合い、自由に質問し合う環境づくりの責任を負う。このことを義務とする。目的は勿論のこと、上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係を断ち切るためである。顧問はときに応じて下級生を名指しし、「何か意見はないか」とか、「何か質問はないか」と聞いて、誰もが自由に口を利き合うことができる対等な場作り、雰囲気作りに努める。

 ミーティング開催の回数は各部で決めることを原則とするが、最低、週に1回か、2週に1回は行い、紅白試合と対外試合後はその当日か翌日に必ず開く。練習や紅白試合、対外試合の反省点や満足点を話し合い、反省部分は改善点を模索し、満足部分はさらに伸ばす方法を全員で考える。監督や顧問にああしろ、こうしろと言われれて、ハイ、ハイと頷くだけの指導ではなく、全員で意見を出し合い、考えることによって自然と言葉の力と考える力を付けて、その力は自発性とそれ以下の資質の形成に向かうことになるだけではなく、競技に関わる技術についても、自分で考えることによって自分で発展させることになるから、長時間のハードトレーニングは必要なくなるということも前以って教えておかなければならない。そして監督や顧問の指示を受けて練習するのではなく、部員が上級生から下級生まで交えて効率よくできる練習メニューを考え、考えたとおりに練習ができれば、自分がしている競技にについて学ぶだけではなく、自己達成感や自己肯定感を味わうこともできて、これらの感覚は効率のよい短時間の練習で仕上げることができる程に確実性を増すことになるから、自ずと長時間の練習は効率の悪さの証明となるだけで、自然と好まない傾向として扱われることになる。

 紅白試合と対外試合後のミーティングは各試合を動画撮影し、撮影した動画に基づいて行い、各選手の動きの良し悪しを分析し、良い点を学び、悪い点は改善策を全員で論じ、見つけ、実践していく。動画撮影は誰でもいい。最初は下手でも、次第に慣れてきて、上達する。引き受けてくれる保護者がいるかもしれない。部員でなくてもいい。このこと以外にも動画を活用することにする。部員各自は各競技ごとのそれぞれのフォームを自分に合ったものとして備えた状態でそれぞれの競技に入部することになるが、記録や成績が伸びない、もっと記録や成績を伸ばしたいという部員のための技術指導はミーティングの場でユーチューブの動画を活用する。野球で言えば、何人かの元プロ野球選手が小学生や中学生のための技術指導を動画で公開している。動画は技術指導の必要ない部員も視聴することのよって一つのフォームを紹介する説明自体に参考になる知識が含まれていて役に立つ場合があるし、自分が行っている競技について知らないことを学ぶことは視野を広げる機会となる。顧問はこういったことを部員に説明して、動画視聴を行わせる。あるいは高校や大学に進学した参加できる先輩に加わって貰って、技術指導を受けるという手もある。

 部員はより良い成績を上げるために自分に合った新しいフォームを見つけようとして試行錯誤した末にこれでやってみようと自分で決めたフォームを暫くの間続けてみて、成績が上がるかどうか様子を見てみる。そこに新たな思考作用が生じ、自分で考える習慣を積み上げていくことになって、ただ単に持って生まれた才能に任せて競技を行ったり、顧問の指導に従うだけで技術を伸ばすのではない、自分発の思考と行動をベースにした歩みをより強固にしていくことになって、自分なりの自発性や主体性、自主性といった精神的特性をより確かな状態で形作っていき、芯の強い自律性の獲得に向かうことになるはずである。

 先輩も後輩もこういった精神的特性に基づいて行動することの大切さ、価値観を知ることになれば、上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係の影響は次第に剥がされていき、このような人間関係から自由な境地に立つことになる。真の自律への旅立ちとなるだろう。当然、このような人間関係の行き過ぎた指導としてある暴言や体罰は監督や顧問と部員を律する、あるいは先輩と後輩を律する無縁の力学として忘れ去られていくことになる。要するに上の権威・立場から下の権威・立場に向けた暴言や体罰といった強制力学も、同じ関係式による長時間のハードトレーニングという強制力学も、自発性や主体性、自主性、自律性といった精神的資質の前に意味を成さなくなる。

 教師が顧問として部活動の練習に参加しないことで一番気をつけなければならないことは生徒の大怪我である。生徒が大怪我をした場合に備えて従来から保健室の養護教諭に連絡を取る、あるいは救急車を出動を依頼するといった備えのためにベンチとかにスマホを用意していると思うが、AEDにしても各部に備えるだけの台数が不足する場合は校舎のグランドから最も近い場所、昇降口等に備え付けの形で用意しているはずだが、練習場所がグランドから遠い場合はより短時間で準備するために自転車を用意しておくのも必要であろう。ミーティングでAED使用の訓練を適宜行い、使用の注意点について常時記憶を新たにさせておくことも肝心である。緊急の場合を常に想定していると、杞憂で終わることが多いが、心がけることだけは忘れてはならない。

 よく言われているように練習に休憩を挟むことは忘れてはならない。

 2007年2月13日の当ブログ《運動に於ける新たな練習理論 :(<リズム&モーション>) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に次のようなことを書いた。

 〈これは主として特別な才能を持たない運動選手の体力と技術の底上げを目的とした練習理論である。野球で言えば、高校野球や大学野球、あるいはプロ野球の万年2軍選手に有効と思われる。

 この運動理論は最初に断っておくが、科学的根拠なし、経験からの理論付けのみ。経験からと言っても、プレーヤー、あるいはアスリートとしての経験・実績はゼロに等しいから、乏しい経験を基に頭の中で考え出した練習理論に過ぎない。既に誰かが以前から実践している理論であるとか、全然役に立たない可能性もあるが、だとしたら、悪しからずご容赦を。

* * * * * * * *

 ①<リズム&モーション>

 すべてのトレーニングに亘ってのコンセプトは<リズム&モーション>。リズムとモーションを一体化させたトレーニングを意識的、目的的に、且つ継続的に行うことで、その二つが身体に一体化して記憶され、肉体化を受ける。

 当然必要とする動きが求められたとき、身体は記憶し、肉体化していた情報に従って、リズムとモーションを一体化させた動き(<リズム&モーション>)で反応することになる。

 ダンスを考えてみれば、理解を頂けると思う。同じステップを踏み続けることで、リズムとモーションが身体に記憶され、肉体化して、逆に身体は音楽を主体とした外部からの動きの指令に従って自然とステップを踏むようになる。ダンスのステップ自体が<リズム&モーション>で成り立っている。私自身、ダンスの経験はないのだが、上達したダンサーを見ると、彼らは非常に心地よい動きをする。運動に於いても、リズムとモーションを一体化させた動きは大切で、そのことは野球の試合で解説者が好調に投げている投手を評して、「非常にリズムよく投げている」とか、勝利投手自身が「最後までリズムよく投げることができた」と勝因を分析したりする言葉が証明している。途中で崩れた投手は「リズムに乗れなかった」とか言う。

 勝利を手にしたマラソンランナーにしても、「最後までリズムよく走れた」と言うし、逆に希望したとおりに走れなかったランナーは「途中でリズムが崩れてしまった」と述懐したりする。

 かくこのようにプレーする点でリズムに則った動作(モーション)=<リズム&モーション>が重要な要素となるということなら、リズムとモーションを一体化させた身体の動きの習得を最初から目的とし、そのことを基本に据えた継続的なトレーニングが重要になる。〉――

 そのためには練習の合間に休憩を取ることの必要性に触れた。最近では休憩を取る例も出てきたようだが、休憩も取らず、水分補給も禁じていた時代があった。根性が付く、忍耐力が付くと行った根性論に支配されていた。だが、疲れることで動作(モーション)が惰性となり、リズムも失い、そのままに練習を続けたなら、練習そのものが消化するための義務となって積極性が失われ、その間の「リズム&モーション」は身体への記憶も肉体化も意味のないものとなる。途中休憩を取りながら、疲労を取り去り、気分を改めて練習を開始することで練習開始から終了まで積極的な「リズム&モーション」を維持できたなら、維持できない場合と比較して身体への記憶と肉体化への滋養分は比較にならない程に違いが出てくるはずである。滋養分の違いは成長の違いとなって現れるだろう。

 〈ボクサーが試合で3分のラウンドの間に1分の休憩がなかったなら、回を重ねるごとにステップはリズムを失い、打ち合いの殆どは威力もないパンチを惰性でただ単に繰り出すだけとなるのは目に見えている。1分の休憩があることによって、体力の回復が可能となる。ラウンドを重ねるごとに体力の回復は遅くなるが、それでも戦っているときの体力消耗を1分の休憩が僅かでも救うことになる。〉といったことも書いた。

 人は運動や仕事でリズムを持って動くことができるそのリズムは運動や仕事に従事している際に心に余裕が持てているときに身に付いていくもので、余裕がなければ身につくはずはないことは誰にでも明らかであろう。身につけたリズムで運動や仕事をこなしていく。但し野球のように相手がある競技の場合は打者がいくらリズムを持ってバットを振ることができても、相手投手の投球が打者のリズムを狂わすだけの威力があった場合はリズムは封じられることになるが、動きに応じた自分に最適のリズムを獲得、備えていなければ、プロにもなれないだろうし、打者なら、ここぞというときに好球必打を見せることはできないだろうし、投手なら、登板の機会を与えられることはないだろう。そして心に余裕を持てる練習でなければ、動きに応じた自分なりのリズムは身に付かないということである。

 少子化で部員数不足の運動部活動は同じ状況にある他校運動部と合同運営を行う。スクールバス、あるいはマイクロバスで1時間以内で移動可能な中学校同士が1日交代で練習場所を変えるといった条件付きで練習を行う。移動側の中学校運動部は練習の1時間以内のロスをDVDプレイヤー内臓24型ディスプレーをスクールバスかマイクロバスに設置、部活動と同じ競技や関係しない競技の映像を視野を広げさせる勉強目的で見させる。どのような映像のDVDやBDを購入し、その日は何を見るかは部員自身に決めさせる。前以って顧問である教師が自分という素材を本質のところでどう扱い、どう発展させるかは最終的には自分自身の問題であるということ、所属する競技だけが自分自身の将来的な可能性ではないこと、可能性は様々にあるということ、何をするにしても心に余裕を持つことが大切であるということ等々を機会あるごとに言い諭していたなら、自発性や主体性や自主性、自律性等々の資質を獲得する状況に向かっていさえすれば、何事も自分自身の問題として立ち向かう意志を持つはずだし、そのような意志を持てるよう指導していかなければならない。

 こういった方法を取れば、学校部活動の地域部活動への移行は必要なしに顧問の教師が部活動に時間を取られて、自身の業務に必要な時間が削られるといった事態に対処した教師の働き方改革にも適うことになり、暴言や体罰、長時間練習を生みがちな権威主義的人間関係の排除と排除に応じて部活部員を主体性や自主性等の資質の獲得に向かわせ、彼らを自律した存在に持っていくことも可能となる。部活動の監督や顧問からやる気を出させるための体罰を受けて、「精神的につよくなった」、「技術が向上した」等々、評価する部活動員も影を消すことになるだろう。

 地域への移行は競技志向を持たないが、スポーツを楽しみたいレクリエーション志向の生徒や運動が苦手な生徒、障害のある生徒等々を募って
学校を超えてそれぞれにチームを組み、本人それぞれの技術に合わせた各レベルのスポーツの場の提供のみにとどめておくべきだろう。こういった場の学校内設置は難しいと思われるからであることは既に触れた。

 学習指導要領で学校部活動は教育課程外とされているが、学校の教育活動の一環と位置づけられていて、教育課程との関連付けを求められている以上、学校という場で行われることが理想に思われる。
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(1)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説

2022-05-31 08:16:04 | 教育
 (1)旭旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《旭川市教育委員会第三者委員会(旭川市いじめ防止等対策委員会)の「中間報告」》
  (2)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「NHKクローズアップ現代+」記事の母親の証言から見る学校の対応と教育評論家尾木直樹の役立たずな解説》
  (3)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「文春オンライン」記事に見る校長の教育者としての姿とイジメの定義変更のススメ》

 先ずは各マスコミ報道から旭川市中学校当該女子生徒が中学入学から転校、自死までの経緯とその年月日を簡単に記してみる。

2019年4月に北海道旭川市X中学校に入学
2019年5月連休中、深夜3時頃、上級生男子3人とW公園で合う約束(一つの事件)
2019年6月22日に死ぬと言って川への入水未遂と入院
2019年9月 退院・引っ越し、Z中学校に転校 PTSD発症、入院、通院
2021年2月13日に自宅を出た後、行方不明、
2021年3月23日に凍死体で発見

 次に旭川市教育委員会の対応をざっと追ってみる。全ての報道を覗いたわけではないから、抜け落ちがあるかもしれない。当該女子生徒が2019年6月末に川に入り入水未遂を起こしてパニック状態に陥り、そのまま入院した際、母親が娘のスマホを見て、彼女自身のわいせつ写真や動画を発見、履歴からだろう、送信されていることを知り、そのことを学校に伝えるが、学校はイジメ事案はなく、猥褻事案として対応。

 2019年9月(6月末の自殺未遂から3カ月後近辺)に旭川市教育委員会から女子生徒の事案報告を受けた北海道教育委員会は報告内容からいじめの疑いがあると判断、詳細な事実関係の把握と把握に応じた対応を口頭で指導。だが、旭川市教育委員会は指導を受けたという認識を持たず、調査を行わなかった。

 2021年4月下旬、2021年3月に凍死体で発見以後、文部科学省が音無しの構えでいる旭川市教育委員会に痺れを切らしたのかどうかは分からないが、北海道教育委員会に対して事実解明に向けて適切に旭川市教育委員会を指導・助言するよう指導。旭川市教育委員会は2021年4月27日(「asahi.com」記事)に外部有識者による第三者委員会(旭川市いじめ防止等対策委員会)を立ち上げることを決め、2カ月近辺後の2021年6月に調査を開始。文部科学省という"お上"の威光は凄い。鶴の一声である。北海道教育委員会は上部機関に位置していながら、旭川市教育委員会に対しての"お上"としての威光を電池切れ間近の懐中電灯の明かり程の役にしか立てることができなかったようだ。

 ところが、旭川市教育委員会は第三者委員会を立ち上げながら、その調査は遅々として進まず、旭川市長から「第三者委員会におけるスピード感をもった丁寧な調査の実施」、「可能な限り2021年内、遅くても2021年度内の最終報告の実施」の依頼を受けたのに対して旭川市教育委員会は2021年10月29日に市長に対して「現段階では、最終報告の明確な時期などを示すことは難しいが、市長の考えも踏まえ、1日も早く最終報告ができるよう調査を進める」と返答。それでも進捗状況が芳しくないと見てのことか、市長は最終報告期限を「遅くても2021年度内(2022年3月末)」から2022年6月末までに3カ月間引き伸ばす譲歩を行った。

 旭川市教育委員会第三者委員会は市長の譲歩に褌を、まだ使っているかどうか分からないが、締めてかかることにしたのか、調査開始から約10カ月が経過した2021年度切れ間近の2022年3月27日になって最終報告には手が届かない中間報告を旭川市内で母親と弁護団に読み上げたと言う。

 旭川市教育委員会が第三者委員会に諮問したのは4項目

1、いじめの事実関係の調査と検証
2、当該生徒が死亡に至った過程の検証
3、学校と市教委の対応調査と課題検証
4、今後の再発防止策)〈文春オンライン記事から〉

 その1項目目の「いじめの事実関係の調査と検証」のみの報告となったために「中間報告」という体裁を取ることになった。第三者委員会は2022年4月15日に記者会見を開き、調査結果を報告し、記者の質問を受けた。2022年3月27日の中間報告の読み上げから19日もの経過後で、全てに亘って素早い対応となっていない原因は既に触れたように北海道教育委員会はイジメ事案と見ているのに対して旭川市教育委員会と学校はイジメ事案はなく、猥褻事案と見ていたことの認識の違いからそれぞれの聞き取りに齟齬を来していたからと考えられないこともない。もしかしたら、第三者委員会の中にも検証を経ても猥褻事案と見る委員がいて、記者会見という形での公開に手間取っていたのかもしれない。

 この記者会見の内容を以下の記事が詳細に報じていて、当初は要点のみを取り上げる予定だったが、既にリンク切れとなっていることから参考のために全文を参考引用することにした。中学校名と関係人物はローマ字で表記されているが、女子生徒のみが「女子生徒」と紹介してあって、男子生徒の場合は「男子生徒」と紹介してなく、在籍中学校名も最初のみの紹介で終わっていることから、読み進めても一目で把握できるようにどの中学校に在籍していて、男子生徒か女子生徒か、当該女子生徒から見て上級生であることを丸括弧を付けて適宜注釈の形で付記することにした。

 《全文掲載 旭川・中2凍死問題…第三者委員会“いじめ認定”6項目、性的行為の強要などに上級生の男女7人関与》(HBC北海道ニュース/2022/4/15(金) 15:39)

第三者委員会が公表した“いじめ認定”の詳細文

 去年3月、旭川市の公園で、当時、中学2年生だった廣瀬爽彩(ひろせ・さあや)さんが凍死した状態で見つかった問題をめぐり、背景にいじめがあったと認定した第三者委員会が15日午後、中間報告として詳細を公表しました。全文を掲載します(人権に配慮し、報告書の表現を一部修正しています)。

 【中間報告における公表事項】

【1】 2019年4月~6月の事実経過(いじめ事実関連の概要)

事実経過<1>廣瀬さんと上級生A、B、Cとの係わり

① 廣瀬さんは、X中学に入学後まもなく、X中学の上級生A(男子生徒)、B(男子生徒)と知り合い、LINEの登録を行い、メッセージの交換等をするようになった。その後、廣瀬さんはA、BとC(共にX中学上級生男子生徒)を含めたグループでオンラインバトルゲーム(以下、ゲームL)をするようになった。その前からA、B、C(共にX中学上級生男子生徒)は3人でゲームLをすることがあり、そのようなとき3人はゲームLをしながら、グループ通話で卑猥な「下ネタ」話をすることがあった。

② 廣瀬さんを入れて4人でゲームLをするときでも、A、B、Cは構わずにグループ通話の中で「下ネタ」話をしていた。あるとき、深夜3時ころまでゲームLをしたことがあって、そのときもA、B、C(共にX中学上級生男子生徒)は「下ネタ」話をした。

③ そのとき、ゲームLを終えた後、A(X中学上級生男子生徒)と廣瀬さんでLINEのやりとりが始まった。その中で廣瀬さんは、下着を着けている胸の画像をAに送った。また、廣瀬さんは、LINEのビデオ通話を使って性的行為の様子をAに見せた。

④ 4月中旬か下旬ころ、W公園で偶然A、B(共にX中学上級生男子生徒)と廣瀬さんが出会い、Bが一時その場を離れた間に、Aが廣瀬さんの身体を触ったことがあった。

⑤ 4月から5月にかけての連休中のある日、上記のメンバー4人で深夜3時ごろまでゲームLをしたことがあり、その中で、深夜を過ぎて補導されない時間になったから集まろうかというような話が出て、公園に集まる話になった。A、B、Cの3人(共にX中学上級生男子生徒)は結局外出しなかったが、誰もそのことを廣瀬さんに伝えなかった。廣瀬さんは、先輩であるAらとの約束を守るため、早朝自宅を出て行き、それに気付いた廣瀬さんの母親らが追いかけて引き止め、家に連れ戻した。

事実経過<2>廣瀬さんと上級生Dとの日常的なW公園での係わり

① X中学の上級生女子Dと廣瀬さんは、A、B、C(共にX中学上級生男子生徒)と一緒にゲームLをしたことで知り合い、2人ともW公園をよく訪れていたことから、W公園で会うことが多くなった。(X中学上級生女子)Dと廣瀬さんは、多いときは週に5日くらい、W公園で会って話をしたりしていた。

② 廣瀬さんは、塾に行く日、母親から飲み物や軽食を摂るためのお金を渡されていた。W公園で(X中学上級生女子)Dと一緒に居るとき、近くのコンビニ等へ2人で行って、菓子、飲み物、アイスクリーム等を買うことがあり、ほとんどの場合、廣瀬さんが(X中学上級生女子)Dの分まで代金を払っていた。W公園に小学生や(X中学上級生女子)Dの友人がいるときは、廣瀬さんがその子たちの分も買ってあげていた。回数、金額ははっきりしないが、5月中旬から6月中旬までの間、相当程度、頻繁にそのようなことがあったと考えられる。

事実経過<3>本人と上級生EとのLINEを通じての係わり

① Y中学の上級生男子Eは、(X中学上級生男子)Cと知り合いで、廣瀬さんとも面識があった。EはCから廣瀬さんがLINEのビデオ通話の中で性的行為の様子をAに見せたことがあるなどと聞いて、Cから教えてもらった廣瀬さんのLINEにメッセージを送ることにした。

② 6月3日(月)午後7時ころ、E(Y中学・上級生男子)から廣瀬さんへLINE登録の許可を求めるメッセージが送られ、廣瀬さんが許諾してLINEでのやり取りが始まった。この日の廣瀬さんとEのLINEのやり取りは4時間半ほどに及んでいるが、やり取りの内容はEが主導する性的な話題に終始している。Eはほぼ一貫して性的行為の動画送信を求めるメッセージを廣瀬さんに送り続けていて、その中には、動画が送信されない場合には、性行為をすることをにおわすような表現や、動画の拡散はしないことを告げるようなものも含まれていた。廣瀬さんはEからの動画送信の要求等を断り続けていたが、断り切れずに性的行為の様子を伝えたり、自分の下半身の画像を送信したりした。

③ 廣瀬さんからE(Y中学・上級生男子)に送られた画像は、その後、EからC(X中学上級生男子)、D(X中学上級生女子)、E、3人のLINEグループに送信されているが、この3人から更に拡散した事実は確認できない。ただし、Cは、6月23日(日)に、この画像をAとB(共にX中学の上級生)に見せている。

事実経過<4>6月15日(土)の出来事

① E(Y中学上級生男子)、F(上級生女子)、G(上級生女子)はY中学の同学年で、FとG(共にY中学上級生女子)の2人がEと遊ぶことはめったになかったが、この日は一緒に遊んでいた。同日、廣瀬さんが1人でW公園にいたところ、C(X中学校上級生男子)とD(X中学校上級生女子)が遊びに来て、そのすぐ後に、E(Y中学校上級生男子)、F(Y中学校上級生女子)、G(Y中学校上級生女子)の3人が合流する形になった。FとC、Dは面識があり、GとDは少し前に知り合った間柄であった。F、Gと廣瀬さんは初対面で、Dが廣瀬さんを紹介した。
 
② そのとき、C(X中学校上級生男子)とE(Y中学校上級生男子)が廣瀬さんが性的行為をしている、A(X中学の上級生)やE(Y中学上級生男子)に性的行為の画像を送っているなどと発言し、D(X中学校上級生女子)、F(Y中学校上級生女子)、G(Y中学校上級生女子)は廣瀬さんにその場でやってみせてと言った。廣瀬さんは、ここではできないと答えたが、3人はやってやってと言い、そのとき近くにいたZ小学校の児童数名も、事情をどの程度理解していたか定かではないが、同じように言い立てた。C(X中学校上級生男子)とE(Y中学校上級生男子)は、それを止めようとしなかった。廣瀬さんは初めは嫌がっていたが、断り切れず、性的行為をすることを受け入れた。

③ D、F、G、C、Eと廣瀬さんの6人は、W公園奥のベンチへ移動し、小学生たちを遠ざけ、ベンチに座る廣瀬さんを囲むようにして立った。廣瀬さんは、腰に回していたパーカーを前に回して隠すようにして、性的行為を行った。

事実経過<5>6月22日(土)の出来事

① この日、廣瀬さんは、午前中からW公園にいた。午後4時ころには、D(X中学校上級生女子)やE(Y中学校上級生男)、Z小学校の児童5~6人もW公園に来て遊んでいた。

② そうしたところ、E(Y中学校上級生男子)が廣瀬さんの仕草などを真似てからかった(6月15日の性的行為の様子を真似た可能性もある)。廣瀬さんは真似しないでくださいと言ったが、Eが面白がって挑発するように真似を続け、Eが知っている廣瀬さんの秘密を、その場で大声で言うかのような発言をしたところ、廣瀬さんは、泣きそうな表情になって怒り出し、Eを握り拳で叩いたり蹴ったりするような状況となった。廣瀬さんは、誰もわかってくれないとか、もう死にたいとか、いろいろなことを大声で怒るように言い続けた。

③ やがて、廣瀬さんは、もう死にますと言ってW公園西側を流れている川の方に向かって歩き出した。D(X中学校上級生女子)は、廣瀬さんの死ぬという趣旨の発言に対して、死ぬ気もないのに死ぬとか言ってんじゃないよなどと言った。廣瀬さんは川の方に走って行って川岸の柵を乗り越えて土手を降りたあと、川の流れ近くの草むらに立ってX中学へ電話をかけた。廣瀬さんは、電話に出た教員らに、死にたいと繰り返した。教員らは廣瀬さんを落ち着かせ、廣瀬さんがW公園にいることを聞きだした。そのころD(X中学校上級生女子)は土手を降りて廣瀬さんのところへ行っていて、廣瀬さんと電話を代わって状況を説明した。すると、廣瀬さんは、雨で増水していた川の流れに入り、膝下まで水に浸かった。

④ その後、現場にやって来たX中学の教員2名が、膝下くらいまで川の流れに浸かっていた廣瀬さんを川岸の草むらに引き上げて座らせた。そのとき廣瀬さんは、死にたい、生きたくないと繰り返しパニックになっていた。廣瀬さんの傍らに付き添っていたDと後から到着した教員1名を加えた4名でいろいろと話していくうちに、廣瀬さんは次第に落ち着きを取り戻した。その後、廣瀬さんは、教員らとX中学に行って休息したりしてから、N病院を受診することになり、受診後そのまま入院することとなった。

【2】 第三者委員会が「いじめ」として取り上げる事実等

以下では、上記【1】の事実経過<1>~<5>の記載内容に沿って、当委員会が「いじめ」として取り上げる事実等を示す。

<Ⅰ>当委員会が「いじめ」として取り上げる事実は以下の通り

1.事実経過<1>② &#9314; &#9315;記載の事実に関して
上級生A、B、C(共にX中学上級生男子生徒)(3名が揃っていない場面も含む)が、グループ通話等において年少女児である廣瀬さんがいる状況でも性的な話題を繰り返したこと、個別のLINE(Aとの関係)のやり取りにおいても性的なやり取りがなされたこと、A(X中学上級生男子)が廣瀬さんと性的な意味での身体接触を持ったことは「いじめ」にあたる。

2.事実経過<1>&#9316;記載の事実に関して 
上級生A、B、C(共にX中学上級生男子生徒)が、深夜(ないし未明)の時間帯に廣瀬さんを含めて公園に集ろうという趣旨の会話をグループ通話で行ったこと、それを実行していないにもかかわらず、それを廣瀬さんに伝えなかったことは「いじめ」にあたる。

3.事実経過<2>②記載の事実に関して
上級生D(X中学校女子生徒)が、廣瀬さんがDの分のお菓子等の代金を負担する行為(おごり行為)を繰り返し受けていたことは「いじめ」にあたる。

4.事実経過<3>&#9313;記載の事実に関して
上級生E(Y中学校男子生徒)が、廣瀬さんとのLINEでのやり取りにおいて、性的な話題を長時間にわたって続けたこと、性的な動画の送信要求を長時間にわたって続けたことは「いじめ」にあたる。

5.事実経過<4>&#9313;&#9314;記載の事実に関して
上級生C(X中学上級生男子)、D(X中学校上級生女子)、E(Y中学校上級生男)、F(Y中学校上級生女子)、G(Y中学校上級生女子)が、廣瀬さんに対して性的行為に関する会話を行ったこと、廣瀬さんに対して性的行為の実行を繰り返し求めたこと、性的行為の実行を求める発言に対して静観したこと、廣瀬さんが性的行為に及ぶ一連の状況を見ていたことは「いじめ」にあたる。

6.事実経過<5>②③③記載の事実に関して
上級生E(Y中学校男子生徒)が廣瀬さんをからかい、廣瀬さんが拒否的な反応を示した後もからかうような行動(廣瀬さんの秘密をその場で大声で言うかのような発言をしたことを含む)を続けたこと、パニックのような状態になった廣瀬さんに対して上級生D(X中学校上級生女子)が突き放すような不適切な発言をしたことは「いじめ」にあたる。

<Ⅱ>第三者委員会が「いじめ」と同様に考える事実は以下の通り

1.事実経過<3>③記載の事実に関して
E(Y中学校上級生男)がC(X中学上級生男子生徒)、D(X中学校上級生女子)、E(Y中学校男子生徒)のLINEグループに廣瀬さんの性的画像を送信したこと、Cがこの画像をAとBに見せたことは「いじめ」と同様に考える必要がある(廣瀬さんに認識がある場合は「いじめ」にあたる)

上記送信行為及び提示行為は、廣瀬さんが直接関与していない行為であるため、廣瀬さんがこれらを認識していなければ、法の定義における主観的要件を満たさないこととなり、形式的には「いじめ」に該当しないものと考えざるを得ない。ただし、法の趣旨を踏まえて「いじめ」と同様に考える必要がある。

 以上の内容から事実経過のみを振り返って、自分なりの解釈を試みることにする。最初に自殺した当該女子生徒の性格を考えてみる。若者の心理を理解するには年を取り過ぎている80歳を超えた老人だから見当違いそのものかもしれないが、他者に迷惑を掛けない範囲内の言論の自由を口実に敢えて解釈してみる。言論の自由を超えて、誹謗中傷にまでいかないと思う。

 この「中間報告書」には当該女子生徒の同級生、あるいはクラスメートといった類いの姿が一切見えない。見えるのは全て上級生との人間関係であり、その上級生も男子生徒との友達関係が初めにあり、後から女子生徒が加わっているが、男子生徒が主体の友達関係となっている。一般的には小学校の頃から親しい女子生徒がクラスにいたなら、その女子生徒と、いなくて他処のクラスにいたならその女子生徒と、あるいは新しくクラスメートとなった女子の中からか友達を作っていき、それらの女子の中から同性の友達の輪を広げていき、そこにクラスメートや同学年や上級生の男子が加わっていくのが普通の展開のように思えるが、そうはなっていない。勿論、一般とは異なるバリエーションもあるだろうが、中学入学早々の友達付き合いが上級生の男子であり、その男子との付き合いが友達関係の中心というのは「中間報告書」の説明がそうなっているだけのことかもしれない。

 「中間報告書」から見えてくる友達関係だけと見て、そのような選択となる可能性としての一例について考えてみる。相手が同級生であれ、上級生であれ、たまに下級生からということもあるだろうが、一般的にはいきなりイジメの支配と被支配の関係から始まるわけではなく、そのような関係が徐々に形成されていくことを考えると、当該女子生徒が中学に入って最初に持った親しい友達関係が男子上級生を対象としていた場合の考えられる理由は彼女にとって女子生徒の自分を後輩の位置に置いて、男子生徒を先輩とした上下関係がより心地よい友達関係であったということが考えられる。このような上下関係には自身を後輩として上級生である先輩の庇護を求めたい欲求(年上の先輩に庇って貰いたい欲求)が往々にして隠されているはずである。

 先輩に庇護されていると十分に感じ取ることができたとき、同級生に対して男子の上級生と良好な関係を持てていることに誇らしさを持つこともあるだろうが、下の関係に位置する者が庇護を望む姿勢を当たり前としていると、自身を自分からは働きかけない非主体的存在、いわば受け身の存在とすることになり、逆に上の関係に位置する者が庇護する姿勢を日常化させてしまうと、その日常化がいい意味でも悪い意味でも支配という形を取りやくすくなる。いわば支配と従属という上下関係に進むこともありうる。支配と従属とは好きに言い聞かせる上と好きに言い聞かせられる下という関係であると言い換え可能で、支配が万が一にも下の関係に位置する者の意思を無視するところまで進むと、イジメという何らかの形を取るケースが生じることもありうる。

 当該女子生徒が同級生やクラスメートの女子との人間関係を築いていたとしても、あくまでもメインの人間関係は先輩男子との上下関係であり、上が下の庇護を求めて「先輩、先輩」と呼びかけて近づいてくる態度をいいことにその意思を自分たちの思い通りに操るようになることも可能性としてはある。良好な関係にあった間は、「先輩、先輩」と嬉々として呼びかけることになるだろう。

 後輩が何かと言うと親しみを込めて「先輩、先輩」と呼びかけることは先輩を常日頃から立てているからであって、相手を立てる心理には同時に自分を相手の影響下に置く心理が働くことになる。相手の影響下に自分を置かなければ、相手を立てたことにはならない。相手を立て、相手の影響下に自分を置くことによって、自分を庇護される存在に置くことができる。

 後輩として自身を下に置く関係が当たり前になったとき、自分が庇護されるためにも先輩の意向に従属することとイコールの行為となり、自身の務めとしがちとなる。例えその意向が少しぐらいの無理難題を含んでいたとしても、無理難題に対するためらいを振り払って潔く従うことが後輩の役目とすることもありうる。先輩が命じる部活の体罰でしかない、無理難題そのものの過酷なハードトレーニングに勇んで従うような現象を例として挙げることができる。無理難題が肉体と精神の限界を超えたとき、体罰死に至る事例がしばしば発生する。

 当該女子生徒はX中学に入学後まもなくに同校の上級生である男子生徒AとBとCと知り合い、LINEの登録を行い、オンライゲームをするようになった。AとBとCが3人でオンライゲームをするときには習慣的な話題としていたのだろう〈卑猥な「下ネタ」〉を当該女子生徒がゲームに加わっている際も口にした。どのような「下ネタ」なのか、明らかにされていないが、のちに彼女に性的行為――自慰行為なのだろう、させているところを見ると、ふざけながらだろうが、露骨なきらいのある「下ネタ」だったことが予想される。それも最初は小出しにして、相手の反応を窺いながら次第にエスカレートさせていったはずだ。

 当該女子生徒が〈卑猥な「下ネタ」〉を聞かされたとき、一見すると、拒絶反応を示さなかったように見えるが、同級生の女子とLINEのグループを作っていたなら、上級生男子とのLINEグループを抜け出していたかもしれない。だが、同級生女子とLINEグループを作っていたようには見えないし、男子先輩との上下関係を学校生活に於ける自身のふさわしい友達関係としていたとしたら、この関係を壊したくないために先輩の意向を立て、何でもない振りを装ったのかもしれないし、あるいは中高生女子を読者対象とした、スマホでも手軽に読むことのできる少女漫画に触れていたことがあったかして、登場人物の中高生男女が交わす性行為に関わる際どいセリフへの慣れもあり、〈卑猥な「下ネタ」〉に左程の抵抗感を持たなかったかもしれない。

 あるとき、X中学の上級生男子生徒のAとBとCと一緒に「下ネタ」を話題に交えながらオンラインゲームを深夜3時頃までしたのちにAのみとLINEの遣り取りが始まり、どういった受け答えの結果かは明らかにされていないが、下着を着けている胸の画像をAに送り、LINEのビデオ通話を使って自慰行為を見せた。オンラインゲーム時の「下ネタ」の続きとしてある下着を着けた胸の画像送信と自慰行為の動画送信だから、「下ネタ」は自慰をしたことがあるのか、ないのかといった話題も混じっていたと思われる。尤もそのときが初めての自慰についての話題だったかどうかははっきりしないが、性の知識について強がりたい年頃だから、漫画やネットの知識に基づいて自慰を小学生の頃から男女共に誰れもがしている行為だという結論を共有することになっていたのかもしれない。当該女子生徒にしても経験があるなしに関係なく自分の秘密にしておくべきことを勢い子どもではないところを見せたくて経験があると答えていたとも想像できる。

 そのような前提がなければ、いきなり自慰して見せてくれとなかなか切り出すことはできないはずだ。Aは自慰を次の段階に置いて、そこに進むためのステップとして最初に下着を着けた胸の画像を送らせたと思われるが、当該女子生徒を名字で呼んだか、名前で読んだか、あるいは「お前」という言葉を使って、「お前のだから、見たいんだ。ほかの子なら、見たいと思わない」といった言葉遣いで好きという感情から出た要求であるかのように装ったのかもしれない。実際には恋愛感情を持たない相手にであっても、男はそういった態度を取るのが大方の相場となっている。

 当該女子生徒は好きだという感情を仄めかされ、先輩の意向に添いたい気持ちも手伝って、自慰の経験があれば、経験どおりに、なければ、小学生の頃から男女共に誰れもがしている行為だという固定観念を力に誰でもの中の一人に自分も入るだけだといった意識で見せてしまったのかもしれない。ただ、何がしかの恋愛感情を示されて自分事として秘密で行うべきことを誰かに見せてしまったとき、その露出は相手の共有を前提とすることになる。いわば2人だけの秘密にする暗黙の契約を前提とすることになる。

 もしこういった経緯を取ったとしたら、当該女子生徒がAに恋愛感情をいだいたとしても不思議ではない。あるいは元々Aに先輩として好もしく感じていて、好きという感情を見せられて、要求に応じてしまったという可能性もありうる。

 その後、オンラインゲーム終了後の公園で当該女子生徒は同じ中学の上級生男子生徒A、B、Cの3人と会う約束をして、3人にすっぽかされた。Aは行くつもりだったかもしれないが、B、Cに引きづられてすっぽかしてしまった可能性も否定できない。だが、アルファベットで仮名をつける順位が最初の文字Aとなっているのは3人の中で主導的立場にいるからだと考えると、Aの意思が多分に入った、あるいはAが主導したすっぽかしと考えられなくもなく、すっぽかしはAが好きという感情から当該女子生徒の裸に興味を持ったわけではなく、単なる性的興味から裸を覗いてみたかっただけだったということになる。当該女子生徒からしたら、自分の秘密を見せたAにすっぽかされたことは相当にショックだったに違いない。

 但し他記事によると、当該女子生徒は家を出たものの、母親に止められて公園に行かなかった。すっぽかしを知ったのは部屋に戻って、最初にAにだろう、スマホを掛けるかして知ったはずだ。

 性的興味に過ぎなかったことは画像と動画の送信の事実をAがCに漏らしていたことからも判断できる。そしてその事実はCからY中学上級生男子Eに伝えられ、Eに「じゃあ俺も」と思わせたところをみると、AはCに手柄話として話したのだろう。Eは性的興味を満足させると同時に自分も手柄にしたくなった。EはCから教えてもらった当該女子生徒のLINEにメッセージを送り、二人はLINEを通じて会話するようになった。Eは性的な画像と動画配信に持っていく前準備としてだろう、当該女子生徒が興奮してくると考えたのか、性的なことしか口にしなかった。多分、頃合いを見計らって自慰行為の動画配信を求めた。当該女子生徒は最初は断っていたと言うから、EはAには下着を着けている胸の画像を配信し、自慰行為を動画配信で見せたではないか、そのことをAがCに話し、Cから聞いたといったことを伝えて、こういった場合の男の一般的態度として当該女子生徒がEに見せることの正当性、Eが見せられることの正当性の口実としたと思われる。

 当該女子生徒がAに見せたのは好きという感情を示されてのことだとしたら、AがB、Cと共に公園での待ち合わせをすっぽかしたことを知った時点でそれがニセの感情だということに既に気づいていたはずだし、見せたことがAの口から漏れてEにまで伝わっていることを知って、Aが好きという感情から自分の秘密を覗いてみたいと思ったのではないことをなおさらに気づかされただろうから、最初は断っていたものの最後はどうなってもいいという捨鉢な気持ちから見せてしまったという心理はありうる。

 Eに自慰行為の様子を伝えたり、下半身の画像を送信したりしたということだが、前者は実際に局部に指を這わせたかどうかは不明だが、声を喘がせたりして自慰行為を声で表現して聞かせたのかもしれない。画像の方は送信を受けたE本人とX中学校上級生男子、X中学校上級生女子の3人でグループを組んでいるLINE上に送信され、拡散されることになったということはEもAと同様に性的興味からの行為だったことを示すことになる。

 LINEを通じた性的な遣り取りはこの2人のみのようだが、当該女子生徒の自慰行為と画像の送信の事実は本人と上級生男女5人が居合わせたW公園で見せた一人のY中学校上級生のE本人とX中学校上級生Aが漏らした同中学校上級生CからX中学校とY中学校の上級生女子の3人に言い触らされることになった。Aの共有で止めておかなければならない秘密のAから始まった一連の暴露は当該女子生徒の存在を軽んじた行為、人格を無視した行為そのもので、当該女子生徒が知らないでいたなら、何ら問題は起きないが、もし知ることになったなら、その時点で心理的な攻撃の意味合いを取り、イジメの範疇にいれなければならない。

 心理的な攻撃にはあざけりの気持ちが多分に含まれることになるが、言い触らすこと自体があざける気持ちがなければできないことで、聞かされた女子上級生にその場で、多分、面白半分を装いながら、男子生徒と同じようにあざける気持ちを内心に抱えていたはずで、巧妙に隠して「やって見せてよ」と上級生の立場から要求したのだろう。この上級生の優越的立場からの下級生に対する要求はイジメと判断される事例となっている。

 言い触らされた上に見せてくれと言われて、彼女にしても感情の生きものである以上、恥ずかかっただろうし、怒りも込み上げてきたはずだが、ある意味、Aに裏切られ、Eに裏切られて、気に入れられ、良好な関係にあると思っていただろう上級生女子からもあざけりを混じえた理不尽な要求をされ、内心はパニックに陥って、頭の中は混乱が渦巻いていたことも考えられる。「中間報告書」は調査して得た事実だけを述べて、感情の働きやそのときどきの心の在り様には一切触れていないが、当該女子生徒が既に死亡していて、聞き取り対象とし得なかった限界かもしれないが、当該女子生徒は上級生女子にやって見せてと言われて、何の感情も持たずに「ここではできない」と答えたわけではないだろう。応ずることの恐れを持ちながら、先輩に従属する関係に慣らされていたとしたら、気持ちとは反対にその場の状況に合わせてしまって、結果的に自分で自分を追い詰めてしまうということもあり得る。

 結局、W公園奥のベンチに移動、そこに座って、周囲から見えないように全員して壁になって囲んだ中で自慰行為を行った。腰に回していたパーカーを前に回して隠すようにして行ったとしているから、局部は満足には見えなかったはずで、顔の表情や声や息の洩らし方で自慰行為を表現したのかもしれない。

 ところが、1週間後の同じ土曜日のW公園で当該女子生徒に対して彼女と2度目にLINEを通じて性的な遣り取りをしたY中学校上級生男子Eが本人の自慰行為の仕草を真似てからかった。「中間報告書」は1週間前の「性的行為の様子を真似た可能性もある」と書いているが、パーカーで隠すようにして行っているのだから、手を股間に持っていって動かしている仕草を真似するよりも顔の表情や声、息の仕方を真似した方がからかいの仕草としてはより効果的だったはずである。当該女子生徒は怒り、「誰もわかってくれない、もう死にます」と言ってW公園西側を流れている川の方に向かって歩き出した。X中学校上級生女子Dが「死ぬ気もないのに死ぬとか言ってんじゃないよな」と当該女子生徒の意志をウソと見る言葉を発した。実際の語尾は「言ってんじゃないよな」ではなく、昔はチンピラを真似て不良学生しか使わなかったと思うが、今では多くの若者が使う、強がり言葉と言うか、今はやりの「ねえよな」を語尾につけて「言ってんじゃねえよな」という言葉遣いをしたのではないだろうか。

 死ぬ気もなかった単なる演技だったかもしれない。そうだとしても、本人は亡くなって、もはや解き明かされることはないが、当該女子生徒なりに様々な感情が渦巻いていたはずだ。「もう死にます」という言葉だけを捉えて、それをウソと見たことで、引くに引けない気持ちにさせた可能性は否定できない。川に入る前に学校に電話を掛け、教師らに死にたいと繰り返した。X中学校上級生女子Dが当該女子生徒に代わって状況を説明している間に雨で増水していた川の流れに入り、膝下まで浸かった。現場に駆けつけた教師らが彼女を岸まで引き上げたが、パニック状態で「死にたい、生きたくない」繰り返した。色々と事情を聞いたり宥めたりしたのだろう、落ち着きを取り戻した彼女を学校に連れて行って休息させてから、N病院に行き、受診、そのまま入院することになった。

 ここまでが「中間報告」の事実経過である。X中学校に戻ることなく引っ越し、Z中学校に転校、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症し、入院や通院を繰り返して不登校状態だったという。2021年2月に自宅を出た後、行方不明となり、2021年3月に凍死体で発見された。2度目の死は失敗したら、みんなにバカにされると思い、確実な死を決行したということも考えられる。人が確実な死を決行するとき、深い孤独を抱えながら死に向かうように思える。勿論、当該女子生徒がそのような経過を取ったのかどうかは本人しか知る由もない。

 2019年6月末の川への入水未遂で学校は当該女子生徒の周囲で起きた出来事をどのような事態として把握し、深刻度のレベルをどの程度に置いて、それぞれの理解に応じてどのような対応を取っていたのかを以下の記事から見てみる。


  (2)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「NHKクローズアップ現代+」記事の母親の証言から見る学校の対応と教育評論家尾木直樹の役立たずな解説》
 (3)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「文春オンライン」記事に見る校長の教育者としての姿とイジメの定義変更のススメ》
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(2)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹の役立たずな解説

2022-05-31 08:08:18 | 教育
  <b(1)旭旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《旭川市教育委員会第三者委員会(旭川市いじめ防止等対策委員会)の「中間報告」》
  (2)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「NHKクローズアップ現代+」記事の母親の証言から見る学校の対応と教育評論家尾木直樹の役立たずな解説》
  (3)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「文春オンライン」記事に見る校長の教育者としての姿とイジメの定義変更のススメ》

 先ず当該女子生徒の母親の証言を取り上げている2021年11月9日火曜日付けの「旭川女子中学生凍死事件 ~それでも「いじめはない」というのか~」(NHKクローズアップ現代+)から事態を眺めてみる。

 この記事発信の2021年11月9日は2021年3月に凍死体で発見から約7ヶ月近辺後の報道となる。この記事は文春オンラインの報道が事件を表沙汰にしたことに触れている。そして前置きとして次のように触れている。

 〈ことし(2021年)3月、北海道旭川市の公園で女子中学生の凍死体が見つかった。遺族によると、自慰行為の強要やわいせつ画像の拡散などのいじめを受けていた。彼女のSNSには、いじめの告白や、自殺をほのめかすメッセージも残されていた。生徒の生前、映像の存在を知った母親はいじめとしての対応を学校側に繰り返し求めていたが、動きは鈍く、加害者側をかばうような発言さえ聞かされたという。いじめの認定に極めて後ろ向きな教育現場の闇を追う。〉

 では、母親は娘のイジメをいつ、どのように知ったのだろう。記事を読み進めてみると、当該女子生徒の川への入水未遂以前に母親はイジメの兆候を感じ取っていたことが分かる。

 〈入学して1か月後。動揺した様子の爽彩さんが、深夜突然、家を飛び出しました。

爽彩さんの母親
「泣きながら『先輩に呼ばれてるから行かなきゃ』っていうので、震えながら泣いてたので、そのときは『お母さんがだめって言ってるからって断りなさい』って言って。そしたら部屋にこもって誰かと電話してる感じだったんですけど、おびえ方が尋常じゃなかったので」

翌日、母親はいじめを疑い、学校へ電話で相談しました。しかし担任には、ふざけて呼び出しただけだと真剣には受け止めてもらえなかったといいます。

その後も、ふさぎ込むことが多くなった爽彩さん。大好きだった絵にも変化が。

爽彩さんの母親
「これ間違いなくいじめなんだろうなって思ってはいたんですけど、でも本人に『いじめられてないのかい』って聞いたんですけど、『どこからがいじめっていうか分からない』って言ってました」〉

 母親の証言は「中間報告書」の〈【1】2019年4月~6月の事実経過(いじめ事実関連の概要)〉箇所に当たる。改めて取り上げてみる。

 ⑤ 4月から5月にかけての連休中のある日、上記のメンバー4人で深夜3時ごろまでゲームLをしたことがあり、その中で、深夜を過ぎて補導されない時間になったから集まろうかというような話が出て、公園に集まる話になった。A、B、Cの3人は結局外出しなかったが、誰もそのことを廣瀬さんに伝えなかった。廣瀬さんは、先輩であるAらとの約束を守るため、早朝自宅を出て行き、それに気付いた廣瀬さんの母親らが追いかけて引き止め、家に連れ戻した。

 そして第三者委員会はこの箇所について次のようにイジメ認定した。

 2.事実経過<1>⑤記載の事実に関して

上級生A、B、Cが、深夜(ないし未明)の時間帯に廣瀬さんを含めて公園に集ろうという趣旨の会話をグループ通話で行ったこと、それを実行していないにもかかわらず、それを廣瀬さんに伝えなかったことは「いじめ」にあたる。

 この出来事はLINEを通してAに下着を着けた胸の画像と自慰行為を見せた後であり、Eに同じLINEを通して自慰行為の様子を伝えたり、下半身の画像を送信する前のことである。要するにAが秘密の共有を守っていなかったことをまだ知らずにいた。母親が呼び止めると、「先輩に呼ばれてるから行かなきゃ」と震えながら泣いて答えた。母親は「おびえ方が尋常じゃなかった」印象を受けた。

 母親にイジメの可能性を問われて、「どこからがいじめっていうか分からない」と答えていることを額面通りに受け止めて考えると、このある種のパニック状態に陥っている様子は想像するに自分の秘密を見せたことでAに恋愛感情を抱き、約束を破って嫌われたくないという思いがあったからだとした場合、それだけとは考えにくい。男子先輩の意思を絶対と見る従属性が属性化していて、その破綻を来すことの恐れが多分に混じっていたのでなければ、尋常ではない「おびえ方」は考えにくい。要するに先輩に呼ばれている以上、深夜だろうが何だろうが応じなければならないとの思いがあったとしたら、先輩という上の存在に対して後輩という自分の存在をかなり下に置いていることになり、その上下の距離が大きい程、先輩を絶対化していることになる。いわば強度の支配性と強度の従属性の力学下に閉じ込められていた可能性である。

 母親の制止後、「部屋にこもって誰かと電話してる感じだった」。電話は繋がったのだろうか。深夜3時ごろまでゲームをして、そのあとに公園に集まろうと決めて、当該女子生徒だけを行かせて、自分たち3人が行かないことにしたのは、当たり前のことだが、無駄足を踏ませてやろうと3人で示し合わせたからできたことで、無駄足を踏ませる目的は勿論のこと、からかうためだった。3人が公園に着く時間に来なければ、「遅いですよ」とスマホを掛けてくるのは想定していたことだろうから、電源を切っておいて、繋がるはずのスマホが繋がらなければ、相手はどうしたんだろうと戸惑う。3人共繋がらなければ、からかう効果は大きくなる。

 そこまで徹底したように思えるが、もし電話が繋がったとしたら、当該女子生徒は行こうとしたけど、母親に止められて行けなかったことをうろたえながら謝ったはずである。対して相手は「えっ、マジで行こうとしたのか?冗談のつもりだったんだ。真に受けてしまったんだ?行かなくてよかったな」と無駄足を踏ませることができず、からかいが中途半端に終わったことを残念に思いながら、笑って誤魔化した状景が浮かんでくる。

 3人共に電話が繋がった場合、多分、最初に電話した相手は自分の秘密を見せたことで恋愛感情を抱いたという見方をすると、Aだったことになる。繋がるはずの電話が繋がらなければ繋がらなかったで疑心暗鬼に駆られるだろうし、繋がれば繋がったで計画的に騙したと知って不信感を募らせただろうから、「先輩に裏切られた」ということになったとしても、あるいは恋愛感情を抱いた「A先輩に裏切られた」ということになったとしても、「ふさぎ込むことが多くなった」という精神状態はある意味当然ということになる。

 母親が呼び止めたから、無駄足を踏むことにはならなかったが、無駄足を踏む、踏まないの結果には関係なく、約束したことをからかいを目的として反故にすることは約束というものが一般的には信頼を動機づけとして成り立たせることから、それが何らかの強要によって成り立たせた約束であったとしても、前者は信頼への重大な裏切り行為であり、後者は約束を強要しておきながら破ることによって疑心暗鬼や恐れをいだかせることになり、両方共に心理的な攻撃としてのイジメに相当することになる。それを先輩の立場にある者が3人して後輩の立場にある1人に対して行ったのだから、あきらかに力関係からの集団のイジメと言えるだろう。

 この翌日、母親はイジメを疑い、学校へ電話して相談する。ふざけて呼び出しただけだと真剣には受け止めなかった担任はA、B、Cから直接聞き取りをする時間はなかったはずだから、担任自らが「ふざけて呼び出しただけ」と解釈して、その解釈のままを母親に伝えたのだろう。こういった場合の普通の応対なら、「聞き取りをして、後で電話します」と答えるものだが、聞き取りもせずに自身の独断のみを伝えるのは無責任と紙一重、あるいは無責任な態度そのものとなる。

 尤も実際には聞き取りを行って、加害者が"ふざけてしたこと"と答えたとしても、学校のイジメ事案で担任がイジメ加害者に聞き取る際、加害者が「ふざけてしただけだ」、「からかっただけだ」と答えるパターンが通例化している。つまり加害者自身がそう思っているか、罪薄めを謀っているだけで、実際には陰湿なイジメとなっている例が数多く存在する。担任はそういったことにまで想像力を巡らすことなく、イジメを誤魔化す口実、あるいはイジメと気づかないままにイジメを行っているときの口実として否定したか、そういった口実に過ぎないことが往々にしてあることを考えもせずにイジメ加害者のイジメを否定するときの口実をあっさりと受け入れたか、いずれかになる。

 2019年6月22日の川への入水未遂後、パニック状態だったため、そのまま入院した。母親は預かった娘の携帯の中から娘のわいせつ写真や動画を見つけ、それが送信されているのを知った。記事は、〈娘のわいせつ写真や動画。さらに、それが拡散されているという事実〉を知ったとなっている。

 翌朝、母親は学校に駆け込むと教頭が対応する。教頭はLINEでのメッセージの遣り取りを写真で撮って、「これをもとに調べさせていただきます」と言い その結果、学校はAとEに対する自慰行為の動画や性的な画像の送信の事実を把握、加害生徒とその保護者が当該女子生徒の母親に謝罪する場が(「Wikipedia」によると2019年8月29日の夕方に)用意された。当該女子生徒な9月に退院・転校となっているから、まだ入院中だったことになる。

 教頭「これは単なる悪ふざけ、いたずらの延長だったんだから、もうこれ以上何を望んでいるんですか」

 母親「じゃあ娘の記憶を消してください」

 教頭「頭おかしくなっちゃったんですか、病院に行ったほうがいいですよ。加害者にも未来があるんです。10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか。もう一度、冷静に考えてみてください」

 母親「誰が画像を持ってるか分からない、みんなが持っているかもしれないという状況で、学校に通うというのはとても怖くてできないと思う」

 教頭「怖くないです。僕なら怖くないですよ。僕は男性なので、その気持ちは分かりません」

 教頭はナンバー2に出世するだけあって、教育風の高邁な言葉を口にする。イジメではなく、「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」とした。5月の連休中に公園で集まる約束をしてすっぽかされた翌日に母親がイジメではないかと電話した際、担任が「ふざけて呼び出しただけ」とイジメを否定してから入水未遂を図った2019年6月22日の翌日まで1カ月半も経過、学校側は調査に乗り出し、自慰行為の動画や性的な画像の送信の事実を把握し、2019年8月29日の夕方に謝罪の場を設けるまでに2カ月余が経過、十分に聞き取る時間があったはずで、上級生男の「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」といったこの手の主張が、既に触れたように学校の聞き取りにイジメ加害者がイジメを否定する口実として通例化していることを十分に承知の上での結論ということになったはずだ。

 だが、上級生側が「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」だと主張したとしても、その主張どおりに当該女子生徒が悪ふざけやいたずらだと認めるかどうかである。入院中で聞き取ることができなかったとしても、認めるかどうか、当該女子生徒の立場に立って想定する義務が学校側にある。最初に画像と動画の送信を受けた同じ中学校の先輩男子Aは二人で共有すべき秘密を同じ中学校の上級生男子Cに話し、CはY中学校のEに話して、Eは自分もと考えてのことだろう、当該女子生徒に画像、その他の送信を求めて成功し、それをLINE仲間に拡散している。当該女子生徒がこのような事実をどこまで知り得ているかどうか分からないが、Eが当該女子生徒に画像等の送信を求めたとき、Aが画像と動画の送信を受けていること、そのことをCから聞いたこと等を話しているはずだから、、Aが当該女子生徒を騙したかどうかは別にして、こういった漏洩行為は事が秘密を要すれば要する程、"暴露"に相当することになり、一連の暴露は当該女子生徒の存在を軽んじた行為、人格を無視した行為そのものとなり、心理的な攻撃の意味合いを取って、イジメの範疇にいれなければならないことは既に述べている。

 だが、教頭は「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」だとした。そして「もうこれ以上何を望んでいるんですか」の物言いで謝罪すればもう終わりだといった姿勢を取っているが、当該女子生徒がこの結論で納得するのかどうか、問題の経緯と共に学校・校長が慎重に考え尽くしたのかどうかは脇に追いているようにしか見えない。

 母親が娘のトラウマとなることを恐れてのことだろう、「じゃあ娘の記憶を消してください」と要求すると、「頭おかしくなっちゃったんですか、病院に行ったほうがいいですよ」と答えているのは秘密としておくべき自分事を先輩男子に見せてしまったこと、それを先輩男子が共有すべき秘密とせずに他人に暴露してしまったことが当該女子生徒の心の傷になるような出来事ではないと見ているからで、要するに「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」として当該女子生徒も受け入れている、納得していると見ているからで、このことを裏返すと、彼女を被害者と見ずに双方して合意のもと、性的興味と性的欲求を満足させ合った猥褻事案と見ているからにほかならない。要するに見る・見させることでお互いに性的な快感を愉しみ合った、ただそれだけのことだと。

 但し母親が「じゃあ娘の記憶を消してください」と要望したのは学校が出した結論に当該女子生徒が納得していることを想定した判断を伝えていないからであって、想定などしていないのだから、伝えようがないのだが、もし伝えることができていたなら、母親の要望に対して教頭は「頭おかしくなっちゃったんですか、病院に行ったほうがいいですよ」と言うはずはなく、「是非、納得してくださいよ」と言ったはずだ。

 要するにイジメではない、「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」に過ぎない猥褻事案だとするには当該女子生徒自身も納得していなければならない結論でなければならないが、この要件を省いてあくまでもイジメではない、猥褻事案に過ぎないとしていることになる。

 教育者としての頭を整えるところにまでいかずにおかしな頭になっているのは自分の方だとは気づかずに母親の頭は病院に行って診てもらわなければならない程に異常で、自分の頭は至極正常だと判断した。学校教育者として真っ当な頭の持ち主だから、「加害者にも未来があるんです。10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか。もう一度、冷静に考えてみてください」とこれ以上ない真っ当な考えで10人と1人の未来を比較して、1人の未来よりも10人の未来の方が大切だ、10人の未来を潰すわけにはいかないが、10人の未来のためには1人の未来は潰してもいいということになるようなことを平気で言い、1人の未来よりも10人の未来の方が将来の日本のためになると暗に10人の未来のためには1人の未来は犠牲にしてもいいということが口にできる。

 生徒一人ひとりが異なるそれぞれの命を持った個別の異なる存在と見ることができずに数で見て、数の多い方に優先順位を置く。本人たちにとって、それぞれに大切な「未来」である。10人の「加害者にも未来がある」としたら、当該女子生徒にも「未来がある」。当然、「10人の未来」のために1人の未来を潰していいという論理は成り立たない。教頭は教育者としてのどういった権利があって一人ひとりの“未来”を比較の俎板に乗せることができたのだろうか。

 イジメは自分が生きて在る存在であるのと同様に相手も生きて在る存在であることを無視して、その命を痛めつけることによって成り立つ。教頭は当該女子生徒にしても生きて在る存在であることを考えることもできずに10人のみを生きて在る存在として扱っている。これは明らかに当該女子生徒の命に対する痛めつけであって、イジメそのものとなる。

 母親が「誰が画像を持ってるか分からない、みんなが持っているかもしれないという状況で、学校に通うというのはとても怖くてできないと思う」と抗議すると、教頭は「怖くないです。僕なら怖くないですよ。僕は男性なので、その気持ちは分かりません」と言ってのけているが、二つの問題を抱えている。一つはこの言葉は当該女子生徒の立場に立って、その心のうちを想像する物言いではなく、自分の立場に立って、当該女子生徒とは関係しない自身の心のうちを見せているに過ぎないことである。学校教育者が自らの学校の生徒の立場に立った想像力を働かせることができない、あるいは働かせようとしないのは無視という心理作用をある意味仕向けていることになり、学校教育者としての立場上励まなければならない生徒との信頼関係の構築に関わる部分の職務放棄を見事に成し遂げていることになる。

 二つ目はこの手の職務放棄が生徒一般に向けた日常的な姿勢であるなら、教育者失格そのもとなるが、一般の生徒を除いた特定の生徒にだけ向けた姿勢であるなら、依怙贔屓の罪を犯していることになり、この依怙贔屓によって生徒一般に向けた信頼関係構築もニセモノとすることになるという点である。

 記事は地元の月刊誌が当該女子生徒の2019年6月22日の自殺未遂(入水未遂)の背景にいじめがあったことを報じたと伝え、この報道に対する学校側の対応を描写している。ネットで調べたところ、地元紙は「2019年9月発売号」となっているから、2019年8月中の発行と思われる。

 学校の保護者宛配布プリント「ありもしないことを書かれた上、いわれのない誹謗中傷をされ、驚きと悔しさを禁じ得ません」

 当該女子生徒は転校後不登校となり、ネットで知り合った友人に自分が受けたイジメを告白する。

「会う度にものをおごらされる」
「外で自慰行為をさせられる」
「性的な写真を要求される」
「死にたいって言ったら『死にたくもないのに死ぬって言うんじゃねぇよ』って言われて自殺未遂しました」

 次にネットでライブ配信する運営者に相談していた本人の肉声を紹介している。

「いじめを受けてたんですけど、いじめの内容が結構きつくて。先輩からいじめられてたんですよ。先輩にいろんなものおごったりとか、変態チックなこともやらされたりとかもした。自分の方でなかなか納得がいかないっていうか、処理できないっていう気持ちになってしまってて、外に出ることがつらくて体力もなくて、学校に行くだけの体力もなくて、行っても吐きそうになってしまったりだとかあるから、どうなんでしょう、みたいな。人が怖いし、人と話すのも苦手だし、人に迷惑かけるのも怖いし、人に迷惑かけることとかがいけないことだって思っているふしが私の中にあって、そういうのにトラウマがあって、もう学校自体に行けなくなってしまって、学校に行くためにはどうしたらいいんだろうって考えたときに、何も自分じゃ思いつかなくて。学校側もいじめを隠蔽しようとしていて」

 転校は2019年9月。学校が保護者宛にプリントを配布した以後と思われる。本人の肉声部分の最後に「学校側もいじめを隠蔽しようとしていて」とあるから、本人が川への入水未遂を起こした翌日に母親が学校にイジメではないのかと掛け合ったときの学校側の対応を知らされていたり、プリントの内容を知ることになっていたと窺うことができる。

 但し2019年4月から5月にかけての連休中のある日に出かけるつもりもない先輩3人と公園で合う約束をさせられて、出かけようとして母親に止められ、母親から「いじめられてないのかい」と聞かれた際、「どこからがいじめっていうか分からない」と答えている。当時はイジメとまでは認識できていなかったことが上級生男女との上下関係、その従属的位置から解放されて冷静に自分を見つめることができるようになり、イジメと認識できるようになったという解釈もできる。

 「NHKクローズアップ現代+」は教頭に直接取材を申し込んだ。第三者委員会の調査中を理由に応じて貰えなかったが、2021年10月末に教頭が文書で回答してきた。

「私が回答することにより調査に影響を与えることが懸念されることから、回答を差し控えさせていただきます」

 調査は本人の証言のみを鵜呑みにはしない。関係者全員の証言を突き合わせて、その中からどの証言に正当性を見い出せるか検討を加えつつ真相を拾い出していく。イジメではないとしているなら、そのことに添う証言を誰に何を話しても、真相解明の任に当たる構成員が余程の予断を持ってさえいなければ、正当に評価するはずである。正当に評価といっても、事実とするに値するか、値しないかの取捨選択は受けるという意味での正当な評価なのは断るまでもない。要するに教頭はイジメでないとしている自身の証言が否定された場合、「クローズアップ現代+」が取り上げた母親への対応から、その可能性が高いのだが、教育者失格の烙印を押されることになる恐れから、下手に口を利くことができない閉塞状況に追い込まれていて、回答を差し控えるという体裁の対応しかできなかった可能性を窺うことができる。

 記事は、〈自殺未遂後、転校したものの不登校が続いていた爽彩さん。いじめの記憶に苦しみ、心的外傷後ストレス障害=PTSDと診断されていました。〉と書いている。要するに病院でPTSDのカウンセリングを受けることになった。だが、その甲斐がなかった。

 〈ことし(2021年)2月13日。ネット上で知り合った友人に、こう告げました。
「ねぇ。きめた。きょう死のうと思う。今まで怖くてさ。何も出来なかった。ごめんね」
その日の夕方5時ごろ、母親が1時間ほど家を空けた間に爽彩さんは部屋に上着を残したまま行方不明となりました。
爽彩さんが発見されたのは、1か月以上たってから。自宅からおよそ2キロ離れた公園で、雪の下から凍死体となって見つかりました。〉――

 最近、生命保険のコマーシャルでも大活躍している教育評論家の尾木直樹がゲストとして招かれ、イジメについてウンチクを傾けている。「ウンコを傾けている」ではない。誤解がないように。ネットで調べたら、10年以上も前の2011年8月からイオン『24色カラーランドセル』、日産自動車、小学館雑誌、インフルエンザ薬、進学塾、チューインガム等々のコマーシャルで活躍している。教育評論家としての発言が説得力があり、全国の父母の信頼を得ていて、日本の教育の発展に役立っているから、その影響力が商品購買にも貢献することが買われて、コマーシャルでも大活躍ということになっているに違いない。

 井上裕貴アナ:ここからは、教育評論家の尾木直樹さんに加わっていただきます。尾木さんはどう受け止めましたか。

尾木直樹:どきどきするほどつらくて、爽彩さんは6月に自殺未遂をしてSOSを発信しているわけですよね。本人がつらい、いじめだ、助けてと叫んだら、今はいじめとして認めるというのが「いじめ防止対策推進法」、法的にもちゃんと定義されているんです。だから学校の先生が判断するのではなくて、本人が言ってきたらいじめと捉えて動きましょうと。それをやっていないということが僕は許せないです、とんでもないと思います。

それからもう一つは、やはりSNSの怖さですよね。4月に希望に燃えて入ってきたのに、6月にはもうすでに自殺未遂を起こしてしまうわけです。そういうふうに引っ張っていったのはSNS、LINEがすごく影響していて、今は24時間、ほかの中学生とつながれるわけです、広域に。その圧力たるやすごいものなんです。それは昔と全然違います。それから撮られた写真が拡散されたり、行為をやらされただけでも屈辱でプライドはずたずたになっているはずなんです。それなのに、その拡散の恐怖、誰が持っているかも分からない恐怖。これはひどい時代になったなと。SNSの怖さというのを思い知らされました。

井上裕貴アナ:尾木さん、なぜいじめと認定することがこんなにも難しいのでしょうか。

尾木直樹:はっきり言えば構造的な問題です。教育委員会に訴えても握り潰されたと、ほかの事案でいっぱいありますよね。でも、僕ら内部にいた人間から言えば、教育委員会と学校はコインの裏表で一体なんです。もうちょっと具体的に言いますと、教育委員会に勤めている指導主事という方たちがいるわけです、指導する立場の方。その方たちはそのまま定年退職を迎える例は極めて少なくて、ほとんどが中学校や小学校の教頭先生や校長先生、つまり管理職になって現場に行くんです。その現場に自分が行くかも分からない学校で、ちょっと問題が起きているというところにきつい指導はできないんですよ。自分がお世話になるかも分からない。自分がそこに赴任したときにみんなから反発を食らっちゃいけないというので、どうしてもやはり甘くなるし、教育委員会も何々中学校で校長をやったら次は教育長になるとか、そういうルートが全国的にずいぶんできちゃってるんですね。だから表裏一体だということですね。

井上裕貴アナ:繰り返される中で、どうしていったらいいんでしょうか。

尾木直樹:やはり大事なのは、事なかれ主義に陥っているのをどうしていくのかということなんですけれども。今、相談活動は文科省もすごく頑張っていて、24時間のLINEでの体制とか整っているんです。相談を受け付けるということも相談に乗ってもらえるということもありがたいですが、いじめられている子どもたち、あるいはいじめをまだ受けていない子どもたちにとってもやってほしいのは、ストップしてほしいんですよ。つまりいじめは、いじめっこが100%悪いんです。いじめをしなければいじめの被害者は出ないし、つらい思いをする人もいなくなるんですよね。だから、いじめの被害者を生まないように「加害者指導」をするということ。この力量を教育的に学校現場や教育委員会はつけなければいけない。これは絶対的な条件ですよね。それからもう一つ言えば、相談活動だけではなくて「介入活動」、介入にすぐ入れるように。例えば大阪の寝屋川市というところがやっているんですけど、市長部局に監察課というのを置いて、解決するまで面倒を見ると。もちろん学校も支援しながらですけれど、おやりになっている。解決まで面倒を見るという体制を作ってほしいなと思います。

井上裕貴アナ:介入と、加害者指導と。

尾木直樹:そうですね。

保里小百合アナ:新たな被害を生まないためにですよね。

尾木直樹:そういうことが含まれた「いじめ防止対策推進法」の改正にも着手できると、理想かなと思いますね。

保里小百合アナ:尾木さん、今後、第三者委員会による徹底した調査が求められるわけですけど、これ以上遺族の方を苦しめないために何が重要でしょうか。

尾木直樹:一番大事なのは、いじめ防止対策委員会の調査委員会のメンバーが多様性に富んでいるということ。例えば、旭川市内ばかりのメンバーで弁護士を占めてしまうのではなくて、もっとほかのところからも多様に入ってくるというので、爽彩さんたちの無念さを晴らすためにも絶対真相究明できるような多様な第三者の調査委員会活動をしてほしいなと思います。期待しています。

井上裕貴アナ:語りきれませんけれど、ぜひお母さんのインタビュー記事のことばにも皆さん触れてみてください。今夜はどうもありがとうございました。

尾木直樹:ありがとうございました。

 尾木直樹は「いじめ防止対策推進法」の正しい運用方法やSNSの怖さ、教育委員会と学校の馴れ合い関係、その他を発言しているが、仕組みや手続きや現状の解説にとどまっている。イジメ対応の殆どが事前防止ではなく、事後対応となっている現状では、このことは「いじめ防止対策推進法」がさして役に立っていないことを証明することになるが、少なくとも自殺に至らしめてしまうイジメ事案は学校・教師が全てと言っていい程に事後対応でさえも満足に機能させ得ない生徒管理にあることに起因していることを考えると、先ずは事後対応を十分に機能させる方法の模索から始めなければならない。このことは学校教育の現場を外から見ることのできる立場にある教育評論家が問題の本質がどこにあるのかを的確に捉えて、模索の任を特に担っているはずである。

 事後対応を機能させるためには現在起きているイジメをキャッチする初動対応を素早く感知・発動させて、イジメという命の痛めつけを最悪な状態に持っていかないための命の危機管理を事案に即して実践することが必要となるが、この必要性を満たすためには全て学校・教師の生徒という存在を一個一個の命として捉えることができるかどうかの感性に委ねられているはずである。成績や運動能力や容姿の良し悪し、あるいは動作の反応の程度等で命というものに差別を置かずに一個一個の命であるということを受け入れることができたとき、それぞれの命を粗末にはできない方向に教師それぞれの感性は自ずと敏感に反応していくことになる。どこかの教頭のように「加害者にも未来があるんです。10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか」と命に差別をつけることはないだろうし、差別をつけなければ、もしイジメに遭っていたらという思いを強くすることができて、その命を守るために手を最大限に尽くすことになるだろう。だが、命に差別をつけたためにその命を守る方策を頭に浮かべることさえしなかった。イジメや体罰に関わる生徒の死は多くの場合、そういった教師の犠牲という形を取る。

 〈本人がつらい、いじめだ、助けてと叫んだら、今はいじめとして認めるというのが「いじめ防止対策推進法」、法的にもちゃんと定義されているんです。だから学校の先生が判断するのではなくて、本人が言ってきたらいじめと捉えて動きましょうと。それをやっていないということが僕は許せないです、とんでもないと思います。〉――

 そうしている学校も数多く存在しているのだろう。だが、イジメを受けて自殺したり、不登校になったり、転校していく生徒が通う学校ではそうしていないか、初期的にはそうしていても、事後対応を間違えるかして招くことになる態様であることは明らかなのだから、「僕は許せないです、とんでもないと思います」と憤るだけで済ますことができるわけではなく、長年学校教師を続け、教育評論家となってテレビ等の放送媒体や雑誌などの活字媒体を通して教育問題について幅広く発信、イジメについても見たり聞いたりの幅広い経験を通して構築した知識を広く紹介し、それらの発信力が評価を得てコマーシャルでも大活躍しているのだから、自らの言葉でイジメかどうかは「いじめ防止対策推進法」に則って初期的には生徒本人の判断を最優先に尊重するというルールを学校・教師がごく当たり前の知識・情報として確立できるよう言葉の発信に努力しなければならないはずだが、単に憤っているだけでは教育評論家としての情報発信の姿勢が疑われることになる。  

 つまり尾木自身の「本人がつらい、いじめだ、助けてと叫んだら・・・・・」云々は自らの認識としていたことだろうから、当然、何度も情報発信していたはずだが、自殺等の死が絡んでくる重大なイジメ事案の発生後の同じ発言は役に立っていなかったことを再び情報発信しただけの証明で終わることになり、このことが繰り返される可能性は尾木直樹にしたって否定できないだろうから、その情報発信力は教育評論家としての自身の知名度程ではないことになり、このことに思い至らないようなら、尾木直樹は単なる役立たずな解説を垂れ流しているだけの存在になる。

 教育委員会の指導主事は小中学校の教頭や校長として転出したり、中学校の校長が教育長へと起用されるケースがあり、そういった相互の人事交流を無事維持するために教育委員会として「きつい指導はできない」事なかれ主義に陥っていると「僕ら内部にいた人間」としての経験を解説しているが、教育評論家というものはそういうものなのか、やはり解説だけで終えている。その上、イジメがなくならない現状とイジメ対応の殆どが事前防止ではなく、イジメが起きてから対策に取り組む事後対応となっている現状にあることを無視し、「いじめは、いじめっこが100%悪いんです。いじめをしなければいじめの被害者は出ない」とこれ以上ない当たり前の道理を言ってのけるだけで済ましている。学校・教師が当たり前の道理を当たり前とすることができていないから、イジメがなくならず、イジメの被害者が延々と出てくるのであって、当たり前の道理を学校・教師が当たり前の道理とできるように事前防止の有効な手立てを模索・提示するよう努めることこそが肝心要のことであるはずだが、そういった模索・提示を行った形跡とその効果は見えてこない。最近では生命保険の印象の方が強い。

 「いじめの被害者を生まないように『加害者指導』をするということ。この力量を教育的に学校現場や教育委員会はつけなければいけない。これは絶対的な条件ですよね」

 これは事後対応の公式論であろう。多くの教育評論家が何度も繰り返し言っていて、既に手垢がついているはずだ。だが、イジメを受けて自殺したり、不登校になったり、転校していく生徒が跡を絶たないという現実は尾木直樹が上記言っていることを「絶対的な条件」とし得ない学校、事後対応の公式論としていない学校が数多く存在することの証明でしかない。母親は娘がイジメられているのではないのかと学校に掛け合ったが、対応した教頭は取り合わなかっただけではなく、「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか」と1人の未来の価値を否定した。このように事後対応の公式を全然実践できていない学校の態度を議論するためにゲストとして招かれた。当然、このような学校が今後とも出てくる可能性とこういった学校からこそ、イジメを受けて自殺したり、不登校になったり、転校していく生徒が出てくる可能性の両方を頭に置いた議論の進め方が求められているはずだが、頭に置かずに事後対応の公式論だけで役立たずにも済ませている。

 「それからもう一つ言えば、相談活動だけではなくて『介入活動』、介入にすぐ入れるように」と言っていることも事後対応の公式論であって、実践できている学校の例を挙げているが、実践を思いつかない学校にどう思いつかせるか、思いつかせるためには教育委員会と学校との馴れ合い関係を断ち切ることも必要で、どうしたら断ち切ることができるのか、これらを可能としていく議論にまで進む必要があるが、そこまで進まない議論で終わっている。

 勿論、こういった議論を進めたとしても、実践できない学校を皆無とすることはできないだろうが、イジメを少しでも減らしていくためにも実践できない学校に絞った実践させるための議論、公式論ではない議論が必要で、その必要性に気づかないままに公式論だけをコメントする教育評論家は自らの役目を相当程度放棄していることになる。

 また、今後事後対応の公式を実践できない学校が出てきたとき、実践させるための議論が行われていたにも関わらず事後対応の危機管理を満足に機能させることができずにイジメ自殺やその他の被害を出した場合と行われないままに出した場合とでは意味合いが異なってくる。前者の場合は出したことの責任は後者の場合よりも遥かに重くなるだろう。重くなることのメッセージを発し続けることで事後対応の危機管理について常に注意を払わせることの効果が期待できて、その効果が
イジメ被害の抑止に繋がる可能性は否定できない。

 女子アナが尾木直樹の単なる事後対応の公式論を新たな被害を生まないための方法論と取ると、あるいは買い被ると、尾木直樹は「そういうことが含まれた『いじめ防止対策推進法』の改正にも着手できると、理想かなと思いますね」と答えているが、本人は最初に「いじめ防止対策推進法」が現行に於いて機能していないことを口にしていて、このことはすでに触れたようにイジメ対策が主として事前防止ではなく、事後対応となっている事実が証明していることからも、どのような改正が行われても、それを"理想"とするのは甘いと言わざるを得ない。

 大体が親の虐待によって幼い子どもを死なせてしまう児童虐待の防止は児童相談所が最前線での防波堤を担っているのであって、児童虐待防止法ではないのと同じようにイジメ防止の鍵を握るのは、あくまでも学校・教師の姿勢にかかっている。このことも既に触れているが、イジメという命の痛めつけに敏感になれるかどうかは学校・教師それぞれの感性に掛かっている。いくら法律が立派であっても、学校・教師がイジメというものに鈍感であったなら、法律は機能しないだろうし、事後対応も、危機管理としてある決め事への取り掛かりが後手後手にまわって、満足な行く末を見ることはないだろう。

 学校・教師がイジメに敏感であることができている心の状況は生徒という存在を一個一個の命として捉えることができているかどうかにかかっている。このような心の状況にあれば、イジメが身体的・心理的な攻撃を継続的に加えて相手に深刻な苦痛を与えることを定義の一つとしている以上、その攻撃は身体的・心理的に相手の命を痛めつける行為そのものということになって、生徒それぞれがあるべきとしている命に対するどのような痛めつけも、見過ごすことはできないようになる。見過ごしてしまったなら、生徒という存在を一個一個の命として見ることができていないことになるからなのは断るまでもない。生徒という存在を一個一個の命として常に捉えていき、イジメ・体罰=人為的な命の痛めつけと看做していく習慣が身についたなら、イジメも体罰も、その解決に敏感になって、命の痛めつけからの解放を図らざるを得なく。

 イジメの疑いがある事案が発生した場合、あるいはイジメられているといった訴えがあった場合、学校がイジメかどうかの確認を怠たったりして事後対応を機能させることができずに生徒を転校、あるいは不登校、最悪の事態として自殺に追いやったとしたら、今回の場合は先輩男女が当該女子生徒の命を痛めつけ、死に追いやった自殺演出者だとすれば、教育委員会や学校にしても、特に校長・教頭は命の痛めつけを見過ごしたことによって自殺演出者たちの共犯者に加えなければならない。

 当然、一般社会は学校社会の管理者の地位にある校長・教頭・教師たちに対して学校社会の構成員である生徒たちは一個一個の命を持った存在であり、それぞれが自分の命を持って生きて成長し続けている人生の途上にある、そうである以上、そのような成長を阻害するどのような命の痛めつけも許してはならないというメッセージを発信し続けなければならない。生徒を一個一個の命として捉えることができなければ、教育者の資格はないと。

 また、メッセージは「どのような命の痛めつけも許されない」とするのではなく、「どのような命の痛めつけも許してはならない」としなければならない。前者は学校・教師の主体的意志の関わりを後者程には強く要求していなことになるからである。

 勿論、このメッセージは学校・教師が自分たちの道理とするだけではなく、全ての生徒一人ひとりが当たり前の思い・当たり前の認識、道理そのものとするように学校・教師は教育していかなければならない。「生徒誰もが一個一個の命を持ち、生きて成長し続ける存在であって、それを邪魔する権利は誰にもない。誰かをイジメることはその誰かの命を痛めつけていることになる」と。「命を痛めつけられたら、その命は悲鳴を上げる。それを想像できないような想像力の貧しい人間ではあってならない。自分がイジメられて、自分の命が悲鳴を上げて、初めてイジメは命の痛めつけだと実体験に基づかなければ気づかない程に人間関係に冷淡であったはならない」と。

 教師が生徒にこのように教えることによって教師自身がこのことを日々学び、日々認識していくことになる。イジメというもの、命の痛めつけがどこかで始まっていないか、常に注意を払うことになるだろう。万が一、気づかないうちに始まっていて、あとで気づくことになったなら、イジメ=命の痛めつけのこれ以上の放置に学校教育者として鈍感ではいられなくなるだろう。あらゆる知恵を絞って、生徒がその生徒なりに持ち、その存在を支えている生徒独自の命を守ることに全力を上げざるを得なくなるだろう。


 (1)旭旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《旭川市教育委員会第三者委員会(旭川市いじめ防止等対策委員会)の「中間報告」》
 
 (3)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「文春オンライン」記事に見る校長の教育者としての姿とイジメの定義変更のススメ》
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(3)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹の役立たずな解説</font></b>

2022-05-31 07:57:31 | 教育
 (1)旭旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《旭川市教育委員会第三者委員会(旭川市いじめ防止等対策委員会)の「中間報告」》
  (2)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「NHKクローズアップ現代+」記事の母親の証言から見る学校の対応と教育評論家尾木直樹の役立たずな解説》
  (3)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「文春オンライン」記事に見る校長の教育者としての姿とイジメの定義変更のススメ》

 上記『クローズアップ現代+』で伝えている教頭の人となりから学校教育者としての姿勢を俎上に載せてみたが、『「イジメはなかった。彼女の中には以前から死にたいって気持ちがあったんだと思います」旭川14歳女子凍死 中学校長を直撃《生徒7人の行為をイジメと認定》』「文春オンライン」特集班/2022/04/16)が校長にインタビューしているから、その発言のいくつかから校長の人となりを当たるも八卦、当たらぬも八卦で覗いてみる。

 この記事公表の前日の2022年4月15日に旭川教育委員会第三者委員会が「中間報告」の記者会見を開いている。この記者会見を受けてのことだろう、記事は「初出2021年4月18日」記事の「再公表」という形を取っている。当該女子生徒が凍死体で発見されたのは2021年3月23日であり、記事は、〈なぜY中学校はイジメの問題に対して、真摯に対応してこなかったのか。4月11日、爽彩さんが在籍していた当時のY中学校の校長を直撃した。〉(『中間報告」は当該女子生徒が在籍していた中学校は「X中学校」としているが、この記事では「Y中学校」となっている)の説明となっているから、インタビューの「2021年4月11日」は遺体発見の2021年3月23日から19日後となる。

 (校長)「(ウッペツ川に飛び込んだ事件について)お母さんの認識はイジメになっていると思いますが、事実は違う。爽彩(さあや)さんは小学校の頃、パニックになることがよくあったと小学校から引継ぎがあり、特別な配慮や指導していこうと話し合っていました。爽彩さんも学級委員になり、がんばろうとしていた。でも川へ落ちる2日前に爽彩さんがお母さんと電話で言い合いになり、怒って携帯を投げて、公園から出て行ってしまったことがありました。

 何かを訴えたくて、飛び出したのは自傷行為ですし、彼女の中には以前から死にたい気持ちっていうのがあったんだと思います。具体的なトラブルは分かりませんが、少なくとも子育てでは苦労してるんだなという認識でした。ただ、生徒たちが爽彩さんに対して、悪い行為をしたのも事実です。その点に関してはしっかり生徒に指導していました。

 我々は、長いスパンでないと彼女の問題は解決しないだろうから、お母さんに精神的なところをケアしなきゃない問題だって理解してもらって、医療機関などと連携しながら爽彩さんの立ち直りに繋げていけたらなと考えていました」

 校長は教頭と同じようにイジメを否定している。入水未遂の2日前に当該女子生徒が母親と電話で言い合いになり、怒って携帯を投げて、公園から出て行ってしまった行動を不安や怒りといった感情を抱えきれずに突発的な衝動となって現れるパニック障害と見ていて、「何かを訴えたくて、飛び出したのは自傷行為です」と言っていることが言い合いしたことを母親に後悔させてやりたい気持ちからの自身をも傷つける一種の復讐行動だとしても、「彼女の中には以前から死にたい気持ちっていうのがあったんだと思います」と結論づけていることの妥当性を考えてみる。

 このことは「我々は、長いスパンでないと彼女の問題は解決しないだろうから、お母さんに精神的なところをケアしなきゃいけない問題だって理解してもらって、医療機関などと連携しながら爽彩さんの立ち直りに繋げていけたらなと考えていました」という言葉が解き明かしてくれる。

 「お母さんに精神的なところをケアしなきゃいけない問題だって理解してもらって」の言葉も、「立ち直りに繋げていけたらなと考えていました」という言葉も、
そのような取り組みを行っていた、あるいは取り組みを行ってきたという意味を取るわけではなく、取り組みを考えていたと言っているに過ぎない。このような発言となったのは当該女子生徒が入水未遂後入院し、退院後転校したものの家に引きこもりがちとなり、医師からPTSDの診断を受け、入院、通院を繰り返していたことからの後出しすることになった物言いでしかないことは以下のことが物語ることになる。

 入水未遂は当該女子生徒が上級生男子生徒に対して性的な画像を送信したことに絡んで起きた騒ぎであり、このことがイジメ事案ではなく、猥褻事案だとするなら、以後の常習化を避けるためにも、さらに2019年4月始めの入学前にだろう、「パニックになることがよくあったと小学校から引継ぎがあった」ことと入水未遂2日前に当該女子生徒が母親と電話で言い合いになり、怒って携帯を投げて、公園から出て行ってしまったことを「彼女の中には以前から死にたい気持ちっていうのがあったんだと思います」と判断したことを踏まえて、以後のことを考えてスクールカウンセラーのカウンセリングを受けさせる措置を考えに入れ、母親に話し、入水未遂後そのまま入院した当該女子生徒に母親から伝えるようにさせたていなら、当該女子生徒の心のケアに何がしかの役に立ったはずだが、何の措置も講じなかった。

 と言うことなら、「彼女の中には以前から死にたい気持ちがあった」も後出しすることになった物言いでしかないことを証明することになる。「パニックになることがよくあった」とする小学校からの引継ぎに対して「特別な配慮や指導していこうと話し合っていた」だけで、話し合いから実行に移した形跡を窺うことができないだけではなく、パニックと「死にたい気持ちがあった」ことを結びつける対策を講じることもなかったのだから、後出しの物言いとしか判断しようがない。ただ、「死にたい気持ちがあった」とした場合、自死はある意味当然の帰結とすることができ、学校の責任から遠ざけることができる。当該女子の自死、自ら命を断ったという深刻な事態を前にして、あるいは生徒誰もが一個一個の命を持って、生きて成長し続ける存在であるという重々しい事実が例え一個でも失われた現実を前にして後出しの物言いができること自体に校長自らの責任回避を見ないわけにいかない。

 ――爽彩さんが亡くなったことは知っていましたか?

「2月にいなくなったことは聞いていて、1カ月も経って遺体で発見されたと、ネットで初めて知りました。学校にいた生徒ですからね、中には入らなかったですけど葬儀場の近くまで行って、外から手を合わせました。なんとかしようというのはあったと思うんですけど、居た堪れない」

――爽彩さんの母親からイジメの相談があったときに調査をしましたか?

「生徒間のトラブルや、些細なトラブルがあれば情報共有することを学校側ではしている。もし、イジメがあれば把握はします。毎年5月にイジメに関するアンケート調査を実施していますけど、(イジメが)あるという結果はあがってないです」

 この「なんとかしようというのはあったと思うんですけど」と推測の対象としている主語は母親を指しているのだろう。だが、当該女子生徒の死を他人事とし、学校を関係外に置いている。例えイジメ事案ではなく、猥褻事案であったとしても、同校の何人かの生徒も関係していて、学校の生徒指導の問題も絡んでいる、その影響が全然ない自死というわけではないのだから、少しは学校の責任を感じている言葉を発していいはずだが、何もない。当然、「居た堪れない」も、体裁を整えるための言葉となる。

 「毎年5月にイジメに関するアンケート調査を実施していますけど、(イジメが)あるという結果はあがってない」

 だから、当該女子生徒と先輩男女との間の出来事はイジメではなかった。この校長はアンケートに現れない形でイジメが起きている事例があることを情報としているのだろうか。要するに先輩男女の「ふざけてした」の証言のみを取り上げて、当該女子生徒の側から見たとき、この証言に納得できるかどうかを想定する努力を怠り、イジメはなかったものとしているから、なかったことの根拠をアンケートに現れない形のイジメの存在を無視し、5月のイジメに関するアンケート調査の結果に置くことになっている。校長の無責任な態度しか窺うことはできない。

 ――それでイジメはなく、爽彩さんが抱えているのは家庭の問題だと判断したと。なぜそのような判断になったのですか?

「(ウッペツ川への飛び込み事件があった)当時、教頭先生からの話では、爽彩さんを川から引き上げた時にお母さんを呼んで引き渡そうとしたが、本人(爽彩さん)が帰りたくないと大騒ぎしたそうです。子供の問題の背景に家庭の問題というのは無視できないですから」

 校長は記者からイジメの問題ではなく、家庭の問題だと判断している理由を尋ねられて、上記の答を口にした。校長は「爽彩(さあや)さんは小学校の頃、パニックになることがよくあったと小学校から引継ぎがあった」事実を明かしている。そしてパニック障害は家庭環境や親の育て方が発症原因となっている場合があるということだが、この発症原因とそのときどきにパニック状態となる発作原因が常に因果関係を取る形で現れるわけではないようである。入水未遂後、母親に引き渡そうとしたときに「本人(爽彩さん)が帰りたくないと大騒ぎした」キッカケは第三者委員会の「中間報告書」によると、Y中学校上級生男子Eに要求された性的な動画の送信後、そのE自身から動画で見せた仕草を公園で真似てからかわれたことであり、怒り出して「死ぬ」と行って川に入った行為自体が既にパニック症状を来していた可能性は決して排除できないのであって、パニック障害が慢性化していたとしても、この時点でのパニック症状は"家庭の問題"と関連していたわけではない。

 要するにパニックを起こしたからと言って、全てを「子供の問題の背景に家庭の問題というのは無視できない」と"家庭の問題"とのみに直結させるのは学校教育者として速断に過ぎるばかりか、妥当性を欠くことになり、上級生男子Eと当該女子生徒の関係性にも焦点を合わせて、その関係性を問い、そのときのパニックの原因を探らなければならなかったはずである。

 当然、そうしたことは一切せずに"家庭の問題"イコールイジメではないの理由付けとするのは当該女子生徒に「死にたい気持ち」があったとすることで自死は本人の責任で、イジメがあったからではないし、学校の責任ではもないとしたことと同じ責任回避の構造を成り立たせていることになる。そもそもからしてパニック障害の発症原因とそのときどきにパニック状態となる発作原因を機械的に因果関係で結びつけること自体が学校教育者として責任ある態度とは言えない。その程度の校長となっている。

 ――自慰行為を強要すること自体が問題だと思いますが。

「子供は失敗する存在です。そうやって成長していくんだし、それをしっかり乗り越えてかなきゃいけない」

――学校の指導によって、加害生徒は反省していましたか?

「僕が生徒に指導した時も、命に関わるんだぞ、どれだけ重大な事をやってるのか、わかっているのかと。素直にまずかったっていう子もいたし、最後の最後まで正直に話せなかった子もいる。公園で以前、小学生とすごく卑猥な話をしていて近所から通報があった問題の子もいたけど、指導しても認めない。自分の子供のやった事に向き合えない保護者もいて、学校としても本当に苦労したのは事実です。逃げ回って人のせいにして自分は悪くないとかではなく、心の底から反省したら本人が立ち直るんだし、そこに気づかせて二度とそういう事をしないようにしないといけない」

 校長の「子供は失敗する存在です」云々の言葉には生徒に対する慈しみ、あるいは思いやりの感情がこもっていて、温かく見守る姿勢を感じ取ることができる。校長としては「子供は失敗する存在」を全校生徒に当てはめて口にした言葉でいるつもりだろうし、当然、「失敗する存在」の中に当該女子生徒も加害生徒も平等に入れているように見えるが、当該女子生徒に向けた言葉、「小学校の頃、パニックになることがよくあったと小学校から引継ぎがあった」、あるいは「彼女の中には以前から死にたい気持ちっていうのがあったんだと思います」には「子供は失敗する存在」として受け容れる思いやりも温かく見守る姿勢も嗅ぎ取ることはできない。「失敗する存在」を当該女子生徒にも当てはめていたなら、中学校入学以来、小学校からの引継ぎを教師全員が共有し、注意深く見守っていたはずで、母親からイジメられていないか心配する電話があったとき、その場で打ち消さずに万が一の可能性を恐れて、それ相応の対応を取っていただろう。あるのは当該女子生徒に対する評価を評価のままに固定化させて、そこから一歩も出ない姿勢のみである。

 要するに「子供は失敗する存在」云々の「失敗」は加害生徒のみを頭に置いた、成長の一過程の修正可能な出来事と解釈した理解としかないっていない。と同時に「子供は失敗する存在」とすることによって性的な画像や動画の送信強要やその拡散、配信したことと動画の内容の他者への言い触らしといった当該女子生徒の人格を傷つける攻撃となっている、明白なイジメに対する免罪符の役目をも果たしていることになる。

 校長本人としては当該女子生徒と加害生徒を平等に扱っていると見せかけることによってイジメ事案ではないこととしたことの正当性を意図するつもりだったのだろうが、多くの発言が当該女子生徒への対応の責任回避を作為していることから、平等に扱ったと見せかていても、自ずと両者への差別が顔を覗かせることになっている。この差別は勿論のこと、責任回避意識に立脚させていることになる。

――学校の認識として、イジメはなかったという事ですか?

「そうですね。警察の方から爽彩さんにも聴取して、『イジメはありません』と答えてます。それは病院に警察が聴取に向かって、聞き出したことで、学校が聞き出したことではないです。実際にトラブルがあったのは事実ですけど」

――改めてトラブルがあったのは事実だが、イジメではないということですか?

「何でもかんでも、イジメとは言えない」

――男子生徒が当時12歳の少女に自慰行為を強要して撮影することは犯罪ではないですか?

「当然悪いことではあるので、指導はしていました。今回、爽彩さんが亡くなった事と関連があると言いたいんですか?それはないんじゃないですか」

 「警察の方から爽彩さんにも聴取して、『イジメはありません』と答えてます。それは病院に警察が聴取に向かって、聞き出したことで、学校が聞き出したことではないです。実際にトラブルがあったのは事実ですけど」

 学校は最初からイジメであることを否定し、猥褻事案と見ているから、加害生徒にイジメ事案としての聞き取りを厳格に行っているかどうかは疑わしいが、「旭川女子中学生いじめ凍死事件」(「Wikipedia」)には、〈被害者の中学校は加害生徒に聞き取り調査を行い結果を冊子にまとめている。その開示請求を弁護士法23条2による弁護士照会制度に基づき遺族は三度行っているが拒否をされている。〉と出ている。開示拒否は回答義務があるのに拒否をしても罰則がないシステムとなっているからだと、同じ「Wikipedia」が説明している。

 加害生徒への聞き取りでイジメと解釈しなければならない事実が出てきたが、学校が最初からイジメを否定してきた立場上、開示拒否をせざるを得なくなっているか、猥褻事案を主体とした聞き取りを行い、イジメ事案としての聞き取りは疎かとなっていた不備があるために開示請求に応じることができないでいるかどちらかだと思えるが、どちらであっも学校側に隠しておかなければならない不都合な事実が存在することからの開示拒否と見ないわけにはいかない。人間ウソがあると、正々堂々とした態度を取ることができなくなる。ウソがあっても、正々堂々とした態度を取れるのは安倍晋三以下、そうは多くないはずだ。

 入院した加害生徒を警察が病院で聴取したところ、加害生徒は「イジメはありません」と答えた。イジメを認めたくない、あるいはイジメられる程自分は弱い存在だと見られたくない自尊心がイジメを否定する実態は数多く見られる例となっている。イジメがあった、誰々にイジメられたと教師に伝えたことがイジメ加害者が知ることとなって、イジメがエスカレートすることを恐れる気持ちから否定する事例も多く見られる。当該女子生徒がイジメられるのは自分が悪いからだと受け止めていたとしたら、警察沙汰にすることにまで大袈裟にしたくないという気持ちが働いて、警察の聴取に対して「イジメはありません」と答えた可能性も否定できない。あるいは先輩・後輩の上下関係を完全には壊したくない気持ちが働いた否定ということも考えうる。

 大体が学校社会に於けるトップに立つ人間であり、学校の生徒同士の間で生じたトラブルである以上、2019年5月の連休中に母親が学校に娘はイジメられていないだろうかと電話が入った以後、2019年6月入水未遂・入院、2019年9月退院・転校、PTSD発症等々の経緯を前にして警察の聴取と5月のイジメアンケートだけをイジメ否定の根拠とし、そこに学校自身の聞き取りをイジメ否定の根拠として置かないのは学校長としての教育上の使命放棄に当たるだけではなく、このことに無頓着でいられる神経は教育者の名に、あるいは校長の名に果たして値すると言えるだろうか。イジメがあったかどうかは一応脇に置くとしても、イジメが疑われる事案であったことは校長も否定できないはずで、であるなら、イジメが疑われる事案の再発防止は、それが事実イジメそのものであったとしても同じことが言えるが、徹底的な聞き取り(=検証)を経た真相解明と解明した真相の全生徒を混じえた共有(情報共有)が要件となるはずだ。すべての生徒が真相共有(情報共有)できなければ、何がイジメなのか、何がイジメではないのか、何はしていいのか、何はして悪いのか学習することはできなくなる。

 だが、校長は当該女子生徒に対する警察の聴取と5月のイジメアンケートのみでイジメはなかったとの根拠としているだけではなく、加害生徒に聞き取り調査を行い結果を冊子に纏めていたとしても、それを公表して全生徒の真相共有(情報共有)にまで持っていかなければ、自分たちに不都合な事実が含まれているから、持っていくことができないのだろうが、真相解明とまではいかない状況に放置することになっていて、校長としての職務放棄にまでなっていることにさえ気づかないでいる。

 このような校長、教頭、担任の人間性に日々触れざるを得ない生徒はその人間性に毒される、ある意味被害者の立場に立たされていることになって、それを避けることができないという事実はイジメを受けているのと同じ状況にあると言える。学校教育者と言えない人間が校長ですと名乗り、教頭と言えない人間が教頭ですと名乗り、担任と言えない教師が担任を名乗って、それぞれの立場にいる。日本の学校教育に前途洋々たる未来を感じる。

 「イジメの定義」は2013年度から以下のとおり定められている。

 〈「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。〉

 役人が考えついた定義だからか、小中学生だって分かりやすく、すんなりと頭に入ってくる言葉遣いとなっている。

 〈イジメとはある生徒が他の生徒に対して何らかの力関係を用いて心理的又は物理的な攻撃を加えて、その命を痛めつけることを言い、命の痛めつけが心身の苦痛となって現れる。〉

 このようにイジメの定義を変える。この定義は教師の生徒に対する体罰や親や同居者の幼い子供に対する虐待にも当てはめ可能となる。体罰も虐待も命の痛めつけであると言った方が直感を得やすい。生後何カ月かという子どもが、あるいは1歳2歳の子どもが親や同居者の暴力を受けて死に至らしめられる。それがどれ程の命の痛めつけであり、どれ程に命が悲鳴を上げていたか、我々は想像しなければならない。

 イジメを受けることで命は痛めつけられ、痛めつけられることでその命が悲鳴を上げる。イジメを受けて悲鳴を上げたとしても痛めつけが止まらなかった場合、転校するか、不登校となるか、命の痛めつけから逃れて、悲鳴を上げないで済む方法を選択するが、逃げることができないところにまで追いつめられてしまうと、自死という方法でしか逃れる手が浮かばくなる。

 他の誰でも同じことだが、生徒一人ひとりは体と心を合わせて一個一個の命を成り立たせているのだから、心理的又は物理的な攻撃を加えて心身の苦痛を与えることは生徒の命そのものを痛めつけていることになる。イジメとは命の痛めつけだということを学校・教師自身が認識して、その認識を生徒全員の認識とするよう務めめなければならない。


  (1)旭旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《旭川市教育委員会第三者委員会(旭川市いじめ防止等対策委員会)の「中間報告」》
 
  (2)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 
《「NHKクローズアップ現代+」記事の母親の証言から見る学校の対応と教育評論家尾木直樹の役立たずな解説》
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教師用必読本 イジメの根絶に向けて小1から人間を哲学させる

2021-02-22 05:11:27 | 教育
 《教師用必読本 イジメの根絶に向けて小1から人間を哲学させる》

 目  次

(1)はじめに日に三度の声掛け         
(2)イジメをイジメだと気づかない主な二つの理由 
(3)イジメを「才能」で解く 
(4)一人ひとりが生きて、成長している命であることの教え
(5)誰の命も対等であり、命の営みも対等であることの教え
(6)一人ひとりの命の誕生と成長 
(7)イジメの個々のケースから一人ひとりの命を考える 
   その1 無視(シカト)は許される
   その2 羨みや嫉妬からのイジメ
   その3 ネット上のイジメ
   その4 動作が鈍くて、動きの遅い子へのイジメ
(8)最後に  

 (1)はじめに日に三度の声掛け

 小学校では「命の授業」として動植物に触れ、命への温かな感情を芽生えさせる、動植物の世話を通して、命の素晴らしさを知らしめる等々のことを行っているようだが、この読本ではもっと直接的に命そのものについて哲学させることを目的としている。

 哲学と言っても、大層な解釈を施しているわけではない。個々の命はどうあるべきかを直接的に述べているに過ぎない。

 以下、この教師用必読本に述べている命に関係させた哲学をイジメ根絶に向けた取っ掛かりの一つ一つとする。小学校全学年を対象としたこの教師用必読本を用いたイジメ根絶に向けた授業は教師が一人、二人行っても、効果は出ない。学校として採用の可否を決め、採用したなら、校長を含めた教職員全員による内容の検討と把握を経た上で、学年に応じた言葉の使い方等の最適な授業方法と改善点の検討を話し合ってから行わなければならない。

 この授業は主として道徳の時間等を適宜使って行うことが好ましいが、採用決定後は「朝の会」と午後の最初の授業時間、さらに「帰りの会」にほんの少しの時間を使った次の声掛けを行うこととする。

 この日に3回の声掛けは同じ言葉の繰り返しとなるが、毎日続ける。相手が小1で、理解できないと思っても、それを無視して声掛けを続ける。目的の一つは教師が口にする文言を繰り返しの外部刺激として与えることで、文言そのものを何となくであっても頭に記憶させて、何となく記憶したその文言を次の段階の意味の理解に持っていくためである。

 江戸時代の武士の子は今の小学校1~2年生の頃から、返り点と送り仮名をつけた漢字で書かれた論語とか、孟子等の中国の古典の素読をやらされることを当たり前としていたということを考えてみる。

 先生(師匠)と子どもが一対複数で向かい合い、先生が意味・解釈を加えずにただ単に読み上げる言葉をその言葉通りに子どもが読み上げていくのが素読だが、それを繰り返すうちに自然と意味を解釈していくという。

 現在の子どもには真似はできないだろうが、武士の子であるという役割意識と武士の間では伝統となっている教育制度であることの伝統意識が武士の子供をしてそういった環境への慣れをつくり上げていったとすると、先ずはイジメ根絶に向けて必要とする勉強であり、小学1年生であろうと、通らなければならない関門であるという意識の植え付けが必要となる。そのためでもある日々の声掛けとする。

 先ず「朝の会」での声掛け。

「君たちは一人ひとりの人間である以前に一個一個の命としてこの世界に生まれてきた。誰もが毎日毎日を一個一個の命として生きて、少しずつであっても、成長している。これからも生きて、成長していく。

 折角この世界に授かった命なのだから、今の命を今日一日、どう生きて、どう成長させていくか、考えて行動してみるのも悪くはないと思う。

 なぜなら、生きて、成長していくということは一日一日の積み重ねだから、一日一日をどう生きて、どう成長させていくかを疎かにしてはならないからだ」

 生徒を一人ひとりの人間としてではなく、常に一個一個の命として扱う。                         

 そして午後の最初の授業時間に全ての教室で教卓の前に立った教師は席に座っている生徒に次のような声掛けをする。
                            
「みんな、先生の顔を見てほしい。今日の午前中の半日、君たちは一個一個の命として、その命をどう生かしたか、半日の行動をちょっと振り返ってほしい。まさかイジメで自分の命を思う存分に生かした生徒なんかいなかっただろうな。イジメられて、自分の命をほんの少しでも思うように生かすことができなかった生徒はいなかっただろうか」

 教師は生徒全員の顔を見渡していき、反発から睨み返す生徒、あるいは不貞腐れたように顔を背ける生徒がいたらな、要注意人物とする危機管理意識を働かせ、弱々しい表情を見せて顔を俯かせるような生徒がいたら、イジメの被害者ではないだろうか等を疑い、注意深く見守っていく対象としなければならない。

 自分の命を半日の間でも十分に生かすことができたかどうかの声掛けはいた場合のイジメる生徒、イジメられる生徒をも含めて、生徒それぞれに自分は半日をどう行動したか、その行動の有意義性、無意義性を省みる自己省察の習慣を持たせるためである。

 この自己省察をイジメ根絶に向けた大きな柱とする。自分で自分を省みさせるために手を挙げさせて答を求める場合と、求めずに数秒程度の省みる時間を与える場合を臨機応変に使い分ける。

 自己省察に持っていくためには色々と考えさせる多方面からの様々な声掛けが必要となる。当然、以下述べる声掛けも自己省察を目的とする。

「この半日、自分の命がどのように生きたか、自分の命をどのように生かしたか、振り返ることができただろうか。授業時間も休み時間も自分の命を楽しく、元気に生かすことができただろうか。

 もし生きることも、生かすこともできたなら、今日半日はそれなりに意味のあった命とすることができたことになる。午後の半日も楽しく、元気に生かして、それなりに意味のある命にしてほしい。

 もしこの半日、自分の命を楽しく、元気に生きることも、生かすこともできなかった生徒がいるとしたら、できなかった原因が自分にある場合もあるだろうし、ほかの生徒にある場合もあるだろうが、原因がほかの生徒にあって、自分一人では解決できないことなら、(担任なら)先生かカウンセラーの先生(いればの話だが)に相談してほしい」

 担任でなかったなら、なかったなりの同様の声掛けをする。

「一日一日を生きていく命なのだから、それなりに意味のある命にしなければならない」

 毎日の帰りの会では、「今日一日、自分の命を自分が思ったとおりに十分に生かすことができただろうか振り返ってみてほしい。生かすことができたなら、一日分を十分に生きて、成長させることができたことになる。それなりに意味のある一日の命にすることができたことになる」・・・・(以下有料)

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日本語朗読劇と英語翻訳朗読劇の活用による小学生のために使える英語とするための英語授業の総合教育化(日本語朗読劇付き)[1]

2020-08-10 11:06:51 | 教育
 2011年度から小学校5、6年生で英語授業が必修化された。5、6年生にさらに3年生、4年生加えた英語必修化が2020年4月から全面実施され、既に2018年度から移行措置が取られていたと言う。

 3、4年生の英語学習は「外国語活動」と名付けれらていて、その目標は、「聞くこと」「話すこと(やり取り)」「話すこと(発表)」の3つだそうだ。
 一方、5、6年生の英語学習は「外国語」の名称となっていて、その目標は、3、4年生で学んだことに加えて、「読むこと」「書くこと」、つまり話言葉の上積みの上に文字での扱いを自在にするということなのだろう。

 小学校高学年からのこの両方を達成して、英語という言語を用いたコミュニケーション活動をそれなりに活発化できれば、英語が国際共通語であることから、極度にグローバル化した今日、日本人の大方が必要に応じて国際社会の一員としての資格を持った諸活動の入り口に立つことが可能となるということなのだろう。

 ひと頃、「郷に入らば郷に従え、日本に来た外国人はここは日本なのだから、自国語を用いずに日本語を話せ」と主張する一部日本人がいたが、だからと言って、国際共通語である英語の地位を無視して済ますことができない現実は如何ともし難く立ちはだかる。

 例えば、私自身もそうだが、日本以外の国の情報を日本語訳に頼っていたなら、特に英語圏の情報の獲得に積極性を欠くことになるし、グローバル化に反して情報領域を自ら狭くすることになる。

 よく聞く話で、街で外国人に出会うと、英語が全然話せないことから、話しかけられたら面倒という思いで近づかないようにするということだが、その距離感を情報活動に於いて常に持ち続けることになりかねない。

 英語教育のもう一つの主な反対意見として「美しい日本語がありながら、その日本語さえも満足に習得できていない段階で、英語を習ってどうする。日本語の習得が先ではないか」というものがある。この反対意見の持ち主の多くは世界の他の言語と比較して日本語を特に優秀な言語と看做す保守派に多く見受けられるようだ。

 いくら日本語が優秀な言語であったとしても、それを用いる日本人が良からぬ言動の持ち主であった場合は、日本語の優秀さは意味をなくす。自分自身にしても偉そうな口が利けはしないが、要するに言語の優秀さよりもその言語を用いる人間個々が言語の優秀さに対応しているか否かを問題としなければならないが、この点は考慮に入れていないようだ。

 学校で英語を学んだとしても、使うことのできる能力にまで持っていくことができない現状は学校以外で英語を使う機会が日常的に少ないことも原因としてあるのかもしれない。使うことができる機会がそれなりにあれば、学んだことが生きてくるし、使う機会を通して、学校で学ばなかった英語も自分から学習していくこともできる。

 だが、学校以外で英語を使う機会が日常的に少ないこの状況は一般的には変化はないものと見るならば、今までと同様に学校の英語教育のみで、「読む」、「書く」、「聞く」、「話す」4技能の底上げを今まで以上に図らなければならないことになる。

 そこで自分自身が英語の「読む」、「書く」、「聞く」、「話す」4技能を全く以て欠いていることを承知の上で、現状の使うことができるところにまで十分に持っていくことができていない学校英語教育を使うことのできる場所にまで持っていく教育内容の変更を身の程知らずにも提案してみることにした。

 その方法とは英語に関わる4技能習得のみに重点を置くのではなく、英語の授業を総合教育化し、総合教育化の中で4技能を習得させることとする。

 総合教育化の方法は日本語朗読劇と英語翻訳朗読劇を活用する。具体的には3年生以上の各クラスの生徒を端数が出ないように5人、ないし6、7人にチーム分けして、各チームにメンバー同士の協力で、先ずテーマを決めさせて、日本語朗読劇を創作させる。

 この創作が総合教育化の手始めとなる。

 教師も時には相談に応じて、メンバーと同数の登場人物を設定して、セリフの多い少ないは少しぐらい偏っても、登場人物全てのセリフを頭に入れることになるから、さほど問題にしないことにして、とにかくメンバーと決められた生徒が主体となって、一編ずつの日本語朗読劇を全てのチームに共同で創作させる。

 創作させたところで、朗読劇だから、教壇に並んで立って、話す順番が来た者から台本を見ながらセリフを読み上げていくことになるが、先ず、どのメンバーも、台本を丸ごと暗記することを前提に始めることにする。

 但しセリフを単に読み上げるだけでは、朗読劇という体裁とはならない。セリフを用いた感情や思い入れの表出を場面、場面に応じて演じて初めて劇の体裁を取ることになる。教師は助言を与えて、台本の単なる読み上げで終わらせずに朗読劇の体裁でセリフを読み上げることができるまでに指導しなければならない。と同時に生徒全員でそれぞれのチームごとの朗読劇と演技の出来栄えを批評させ合うこととする。

 批評は鑑賞眼や判断力を養うことになる。

 台本を暗記したメンバーから台本なしのセリフ劇へと移行させる。全員がセリフ劇に移行できたところで、各チームが創作した日本語朗読劇を各チームごとに英和辞書や和英辞典、あるいはネットの翻訳アプリを使って、メンバーの力だけで英語朗読劇に翻訳させる。但しこの際に英語教師や「外国語指導助手」(ALT)は一切手を出さないことにする。あくまでもチームメンバーの協力のもと、自力で英語に翻訳させる。

 翻訳ができたところで、それが正しい英語となっているかどうか、そのとき初めて教師やALTの指導・助言のもと、各チームの朗読劇ごとに校正していくことにする。それぞれのチームが翻訳した英語が正しい英語への手直しとなることへの興味から、その校正授業に集中できない生徒は少ないはずである。

 この校正の段階で文法的な知識を一通り体系的に学ぶことにする。一通りなのは「話す」、「聞く」に重点を置くためである。

 各チームのすべての英語朗読劇が正しい英語によって校正されたのち、外国語指導助手が最適任だと思うが、チームごとの英語朗読劇の台本を朗読した撮影映像を家のパソコンかテレビで見ることができるようにDVDか、家にパソコンやブルーレイレコーダーがない生徒にはラジカセで聞くことができるようにCDにして、チームごとにそれぞれのメンバー全員に渡す。

 演者はあくまでも朗読劇として台本を読むのは勿論のことであるが、同時に英会話に於ける口の動きと言葉自体がより明確に伝わるように顔中心の撮影とし、演劇風に少々オーバーなアクセントとイントネーションを用いて音読することとする。

 教室に大型ディスプレイか電子黒板があるなら、そこに映して、目で捉えた口の動きと耳で捉えたアクセントやイントネーションの関連を学習して、生徒それぞれが「聞く」、「話す」の英語の2技能習得の参考にする。

 生徒一人ひとりにDVDかCDが渡されているから、自宅でも練習することができる。CDは映像で見ることはできないが、教室で映像を見ているなら、自身が上手に朗読できるようになるために自然と頭を研ぎ澄ますことになって、耳のみで映像までを思い浮かべることになる。

 文部科学省の達成年度2018年~2022年の「教育のICT化に向けた環境整備5か年計画」では、学習者用コンピュータは3クラスに1クラス分程度整備、指導者用コンピュータは授業を担任する教師1人1台、大型提示装置(大型テレビ、プロジェクタ、電子黒板)は100%整備と、それぞれに謳っているから、大型テレビや電子黒板が用意されていない教室でも、暫く待てば、英語朗読の模範を示す映像の閲覧に事欠かなくなることになる。

 次に各チームごとの英語朗読劇となる。正しい英語に手直しされた英語朗読劇台本を使い、日本語朗読劇と同様に全てのチームが自チームの台本を丸ごと暗記することを決まりとして、英語朗読劇を始めることにする。

 英語台本の読みに一定程度慣れて、余裕が出てくれば、既に日本語の台本を暗記しているから、おいおい日本語で意味を取りながら英語の文字を追い、セリフとして読み上げていくことができる。日本語で意味を取ることができるようになれば、英文の暗記を早めることができる。

 勿論、日本語朗読劇と同様に英語朗読劇もその台本を暗記したメンバーから順に台本なしの英語セリフ劇へと移行する。その場に立ったままの朗読劇の姿勢でセリフを口にしたとしても、日本語朗読劇も、英語朗読劇も、声によってだけではなく、ほんの僅かでしかなかったとしても、許される範囲の身振り、手振りで感情や思い入れを表出できるようになれば、一定程度の演劇に近づいていく。

 この状態に到達できるようになれば、「聞く」、「話す」の英語の2技能習得は達成できる。

 文部科学省は自己表現能力やコミュニケーション能力の向上のために学校教育での演劇教育を奨励しているということだが、プロの演劇集団を招いて、その演劇を鑑賞させるといったことに重点を置いているようで、生徒自らが演じる演劇教育はまだ重要視されていないように見える。

 文部科学省のホームページにある、「劇・ダンスに関する新学習指導要領における記述例(抜粋)」を見ると、小学校第1学年と2学年を対象とした国語の授業で、〈物語の読み聞かせを聞いたり、物語を演じたりすること〉との記述はあるが、第3学年以上にはこの記述は見当たらない。

 ここで思い切って3年生から6年生までの英語教育に日本語朗読劇とそれを英語に翻訳した英語朗読劇を取り入れた場合、子どもたちへの様々な効果が期待できる。

 先ず第一番に5、6人かの小集団となってメンバーがお互いに協力し合い、朗読劇を創作すること自体が創造力の育みだけではなく、人間関係の構築能力、あるいは他者との協調精神を養う力となり、さらに新しいものを作り出すという作業は子どもたちの感性を磨いていくことになる。

 また、それが朗読劇であり、セリフを暗記して台本なしの表現へと発展させたセリフ劇であったとしても、自分自身とは異なる劇中人物を演じること自体が集中力だけではなく、自己表現能力を育むことになり、他の登場人物と演じ合って、息を合わせることは他者を知ることを手がかりとして始まる自己形成やコミュニケーション能力の育みに役立っていく。

 さらに人間の現実や社会の現実の一部でも捉えた朗読劇を創作できたなら、創作できたことと、それを言葉で演じることは虚構でありながら、人間の現実や社会の現実を学んでいくキッカケを与えてくれる。

 このことは演じる者のみならず、観劇する側の生徒に対しても同じように人間の現実や社会の現実を学んでいく機会を与えることができる。

 そしてこのような様々な能力を手に入れることができた場合、それらの能力は社会で生きていくための力となってくれるはずである。

 要するに日本語朗読劇の創作から始まって、その朗読劇と英語翻訳した英語朗読劇のそれぞれの台本を用いた朗読と台本を暗記して、台本から離れたそれぞれのセリフ劇で英語の「読む・聞く・話す」の3技能をマスターしながら、社会で生きていくための様々な能力を学び取ることができるように仕向けるこの教育方法が英語授業の総合教育化ということになる。

 簡単に言い替えると、単に英語を学ぶだけで終わらせない、自己表現能力や自己形成能力、人間関係構築能力等々の様々な能力まで学んでいくことができる総合教育となる。

 英語の技能に関して言うと、残る英語学習は書く技能だけを残すことになる。英語で読むこと、聞くこと、話すことがスラスラとできるようになれば、英単語の綴りの基本はローマ字式だから、書くことはさして難しくはない。

 また、日本語朗読劇創作は国語範疇の教育であり、国語と英語の総合教育ということにもなる。

 参考のために小学校6年生用の日本語朗読劇を創作してみた。出来栄えは保証の限りではないが、方法論として提示しておく。

 朗読劇の上演時間と文章量はほぼ1万字・30分の関係にあるということからすると、この日本語朗読劇は約1時間ものということになって、少々長過ぎる嫌いがあるが、各チームの上演時間をどのくらいにするか、クラスごとに決めて、決めた範囲で創作していけばいい。

 英会話が全然できない者として英語翻訳は一から十まで翻訳アプリの「DeepL翻訳」とネット翻訳の「Google翻訳」、同じくネット翻訳である楽天の「Infoseekマルチ翻訳」と、「Weblio 翻訳」、その他に頼った。

 翻訳した英文の間違い訂正は英文校正ツールであるフリーソフトの「Ginger」に全面的に頼り、同じくフリーソフトのテキスト読み上げツール「Balabolka(バラボルカ)」を使って、英語朗読劇台本を読み上げて貰えば、それをオーディオファイルとして保存、何度でも聞き返して、言葉と意味を聞き取る練習もできる。

 但し英語翻訳した朗読劇台本はここでは割愛することにした。

 日本語朗読劇と英語翻訳朗読劇の活用による小学生のために使える英語とするための英語授業の総合教育化(日本語朗読劇付き)[2]に続く
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日本語朗読劇と英語翻訳朗読劇の活用による小学生のために使える英語とするための英語授業の総合教育化(日本語朗読劇付き)[2] 

2020-08-10 10:52:31 | 教育
 小学6年生用日本語朗読劇台本『5郎んちの父さんと母さんの離婚危機』

     (1)

 日曜日の公営住宅の1郎の部屋に仲間が3人来ている。仲間は5人。
4郎「3郎、テレビゲームしよう」
3郎「また餌食になりたいんだ?」
4郎「バカ言え、今度は勝つ」
3郎「同じセリフをいつまで続ければ、気が済むんだか」
4郎「今日から俺は勝ち続ける」
3郎「ハイ、ハイ。勝ち続けてください」
1郎「そろそろゲームソフトも新しいのを1本ぐらい入れないと」
2郎「大丈夫だよ。同じのだって、結構楽しめる」
3郎「正月のお年玉、みんなで少しづつ出し合って、中古を買おうか」
1郎「未だ4ヶ月も先の話じゃないか」
2郎「4ヶ月なんか、すぐに来る」
1郎「5郎、遅いな。いつも約束の時間には遅れたことがないのに」
4郎「お袋に『日曜日ぐらい勉強しろ、勉強しろ』って、言われて、出て来れないのかも」
2郎「5郎、俺んち中ではトップの成績だからな」
3郎「クラスでは真ん中より下だけど、五郎の母さんだけ、教育ママしている」
1郎「俺んち父さんは、『勉強なんかできなくたって、体さえ丈夫なら、どうにかなる』っていつも言っている。勉強でうるさいことは言わない」
4郎「1郎、いつだったか言ってたな。『宿題やっていたら、宿題なんかしなくたっていい。何も書かずに出せばいい』って」
1郎「あんときは物凄く酔っ払っていた。酔っ払っているときに言ったことは、『俺、そんなこと言ったか?』って、覚えていないことが多くて、当てには 
ならない。『勉強なんかできなくたって、体さえ丈夫なら、どうにかなる』っていうのは酒を飲んでいないときも言っているから、信用できる」
2郎「1郎ちは父さんしかいないから、俺んちみたいに父さんと母さんから、『遊んでばかりいないで、少しぐらい勉強しろ』って言われないからいい」
1郎「洗濯したり、ご飯を作ったり、母さん代わりのことさせられているから、勉強しろとまで言えないのだと思う。だから、『体さえ丈夫なら』って言っているのだと思う」
4郎「俺んちは2郎んちと同じで、父さんと母さんからも、勉強もしろ、運動もしろってうるさい」
3郎「俺んちはテストの採点や通信簿の成績を見たあと、『もう少し勉強しなければなあ』って嘆く」
4郎「そんときだけなら、いいじゃないか」
3郎「嘆いたあと、『お父さんもお母さんも成績はよくなかったけど、少しぐらい上回って欲しい』って付け足す」
1郎「自分ができなかったのに子どもにだけいい成績を求めるよりもいい」
4郎「俺んちは最後には『高校ぐらい、受からないようなら、おしまいだぞ』ってハッパかけてくる」
1郎「5郎、来たかな」
3郎「来たようだ」
5郎「ごめん、遅くなって」
1郎「時間厳守ってわけじゃないけど、何だが元気がないな」
5郎「うん・・・・」
1郎「遊んでばかりいないで、勉強しろって言われたのか」
5郎「そんなこと、言われない」
 首を弱々しく振る。
1郎「じゃあ、何で遅くなったんだ?」
5郎「まあ・・・・」
1郎「俺たちの間では秘密なしって、約束し合っているじゃないか」
3郎「忘れたのか?」
5郎「忘れてはいない」
1郎「じゃあ、遅くなった理由を言えよ」
5郎「出かけようとしたとき、母さんから『あんたは私の子じゃないからね』って、いきなり言われた」
1郎「何だって?鼻の穴が広がっているとこなんか、母さんとそっくりじゃないか。カバの子を豚の子と言うようなもんじゃないか」
5郎「ひどいなあ・・・・」
2郎「そうだよ、カバの子はカバの子。豚の子は豚の子。変えることなんかできるもんか」
3郎「どこからどう見たって、母さんそっくりだ」
4郎「親子そのものじゃないか」
2郎「DNA鑑定して貰えよ」
1郎「いや、鼻鑑定で間に合う」
 5郎を除いて、笑い合う。5郎、付き合い笑い。
1郎「何かあったのか、お前と母さんの間で」
5郎「何もなかった。いきなり言われた」
1郎「いや、何もなければ、そんなことは言わない。どこからか貰われてきたってことか?」
2郎「橋の下から拾ってきた子だっていうのはよくある話だけど」
4郎「俺は小さい頃、何度も言われた。言うことを聞かなければ、橋の下に戻すからって言われた」
1郎「作り話と分かっていれば、戻したければ戻せって話だけど、そんときどうした?」
4郎「助産婦さんが近所の人で、『私が取り上げたんですよ。大きくなったね』って、会うのはときたまだけど、会うたびに言われているから、母さんから橋の下物語を最初言われたときは何のことなんだろうとピンと来なくって、『ああ、そう』と言っただけで聞き流した。三度目か四度目に言われたとき、助産婦さんを連れてきて、確かめて貰うことができたけど、どういうふうに捨てられていたのか、季節はいつか、聞くことにした」
1郎「どう答えた?」
4郎「夏の涼しい日にダンボールに入れられて捨てられていた」
1郎「誕生日はいつだっけ」
4郎「8月3日」
1郎「一番暑い頃だけど、夏の涼しい日っていうのは怪しいな。暑い日にしたら、赤ん坊が汗をかいていたことになって、残酷過ぎると思って涼しい日にしたんじゃないのか?」
4郎「そこまでは考えなかったけど、『何時頃見つけた?』『夕方6時頃』『当時住んでいた家から、その川まで何キロ離れていた?』『2百メートルかそこらで、散歩コースになっていた』
段々睨めつけるような恐い顔になってきて、『橋の名前は』と聞いたら、『いい加減にしなさい』って、怒鳴られてしまった。それ以来、言われなくなった」
1郎「拾ってきた子ではなくて、『あんたは私の子じゃないからね』って、どういうことなんだろう」
5郎「『私の子じゃなくて、お父さんの子だから』って言われた。『私は育てだだけ。いつかはお父さんが育てることになるからね』って」
1郎「いきなりそんなこと言われたって、面食らうよな」
5郎「面食らう」
2郎「面食らう」
3郎「面食らうに決まっている」
4郎「面食らわなかったら、どこまで頭が悪いんだって、疑われる」
5郎「おい」
4郎「ゴメン、ゴメン。つい・・・・」
5郎「つい、何だ?」
4郎「口が滑った」
5郎「本当のこと、言ったってことじゃないか」
1郎「テレビでやってた外国映画で高校生の親父が『頭が悪くたって、出世する奴がいる。俺はなれなかったけど、同じ頭が悪くても、出世するような悪い頭になれ』って言っていた。随分前に見た映画だけど、なぜか覚えている」
3郎「そうだよ。『頭が悪いな』って言われたら、『出世する悪い頭なんだから』って言い返せばいい」
1郎「頭が悪くても、出世する悪い頭だからをおまじないにすればいい」
4郎「5郎一人だけのおまじないにするのは勿体ない。みんなのおまじないにしよう」
2郎「いい、いい、賛成」
3郎「全員賛成」
1郎「5郎、『あんたは私の子じゃないからね』なんて、いきなり言われるなんて、おかしいな」
2郎「おかしい」
3郎「どこをどう考えても、おかしい」
4郎「おかし過ぎて、笑っちゃう」
1郎「どこからどう見たって、5郎はお前んちの母さんの子なのにな」
2郎「テレビでは、『あんたは本当はお父さんの子じゃないんだからね』っていうのはよくある」
3郎「ある、ある」
4郎「あるある大辞典」
1郎「お前んち父さんと母さんの間に何かあったんじゃないか?」
5郎「何かって?」
1郎「何かって、何かさ」
5郎(考える顔)「昨日、夜中に何か声が聞こえると思って、目が覚めた。最初、何の物音か分からなかったけど、隣の部屋で父さんと母さんが何か話しているんだって分かった。普通の声の調子ではなかった」
2郎「前にもあったことか?」
1郎「前にもあったことなら、目が覚めたら、またかあと思う」
2郎「ああ、そうか」
5郎「声を抑えていたけど、何か言い争っているように聞こえた」
1郎「お前んちの父さん、最近、変わったことないか?」
5郎「変わったこと?そう言えば、1ヶ月程前から1週間に1日、帰って来ない日があって、おとついが帰ってこない日だった」
1郎「おとつい?おとつい帰ってこなくて、次の日に帰ってきたときに言い争うのではなく、夜中になってから、言い争うのか?」
4郎「子どもの前では言い争わないようにしているのかもしれない」
1郎「お前んちもそうか」
4郎「まさか・・・・。平気で言い争う」
2郎「俺んちも平気で言い争う」
3郎「子供がいたって、お構いなしだ」
5郎「うちもそう」
1郎「え、何だって?おかしいじゃないか。次の日に帰ってきたときに言い争わずに5郎が寝てから、言い争うなんて」
5郎「帰ってこない次の日は帰りが遅いから」
4郎「遅いって、何時頃?」
5郎「さあ、分からない」
1郎「なぜ?」
5郎「最初に帰ってこなかった日、次の日も、俺が寝るまで帰ってこなかったから、二日続けて帰ってこないんだなと思っていたら、朝になっていたから、遅くに帰ってきたんだなって分かった」
3郎「確か、5郎、テレビを見ていて、9時から10時の間に寝るって言ってたな?」
5郎「うん」
1郎「帰ってこなかった日の次の日はいつも5郎が寝てから帰ってくるのか?」
5郎「うん」
1郎「そうか。浮気だな」
5郎「どういうこと?」
1郎「最初の日は女のところに泊まったとしても、次の日、普通に帰ってきて、同僚と飲み過ぎて、酔っ払ってしまって、同僚のところに泊まってしまったとか、何だかんだと誤魔化すことができる」
4郎「テレビでときどきやってる」
1郎「ところが、浮気がバレてしまった。それで泊まってきた次の日は遅く帰ってくるようになった」
5郎「なぜ?」
1郎「お前んち母さんが隣の部屋で寝ている5郎の目を覚ましてしまう程の大きな声を出すことができないのが分かっているからだ」
5郎「でも、この間は目が覚めてしまった」
1郎「帰ってこない日の次の日の夜は5郎に気づかれないようにいつも声を低くして言い争っていたんだけど、5郎がおとついまで気づかなかっただけなんだ。きっと」
3郎「納得がいったようだな」
1郎「5郎の母さんが『私は育てだだけ。いつかはお父さんが育てることになるからね』って言ったのは別れた場合、5郎は父さんの方に引き取らせることになっているか、引き取らせようとしているか、どっちかじゃないか?」
4郎「『あんたは私の子じゃないからね』っていうのと、どう関係あるんだか」
1郎「父さんの方に引き取らせるのを5郎に納得させるためなのかもしれない。そうだ、テレビでやってた大衆演劇で本当は手放したくない子どもをおっかさんが『あんたは私の子じゃないからね、あんたは私の子じゃないからね』って、子どもに言い聞かせながら追いやるシーンがあった」
3郎「5郎んち母さんがいくら大衆演劇のおっかさんを演じても、顔が似てたんじゃ、5郎の今の年齢では信じさせることはできないと思う」
1郎「そうだな。5郎、信じたのか?」
5郎「びっくりして、頭がこんがらがって、俺は母さんの子じゃないんだって思った」
1郎、2郎、3郎、4郎(同時に)「信じたんだ」
1郎「5郎んち父さんと母さんが別れた場合、5郎を5郎んち父さんの方に引き取らせるつもりで言ったのだとしたら、別れる話がかなり進んでいるかもしれない」
5郎「俺はどう見たって、母さんの子だ」
1郎「別れた場合、5郎はどっちに引き取られたいんだ?」
5郎「父さんと母さんは別れない」
2郎「例えばの話だから」
5郎「どっちか分からない。母さんかも」
3郎「5郎は5郎んち母さんから、『あんたは父さんの子じゃないからね』って言わればよかったんだ」
4郎「どっちも言われたくないよな」
3郎「例えばの話」
5郎「うーん。よかったかもしれない」
1郎「5郎は自分の顔とかあさんの顔が似ていることに気づいていたんだ」
5郎「思ったことはなかったけど、気づいていたのかもしれない」
1郎「順を追って考えてみよう。俺んちは別れようというとこまでいったとき、俺をどっちが面倒を見るとか、どっちが引き取るとかの話になったけど、一度だって、母さんから『あんたは私の子じゃないからね』なんて言われたこともないし、父さんからも『お前は俺の子じゃないからな』なんて言われたことはない」
3郎「1郎が父さんの子じゃなければ、1郎は今、1郎んち父さんと一緒に暮らしていない」
1郎「いや、血の繋がっていない親子が同じ家で暮らす話はときどきテレビでやってる」
4郎「5郎んちはそういう家だったのか」
1郎「5郎と5郎んち母さんは血が繋がっている」
3郎(笑いながら)「繋がっていないなんて言ったら、5郎と5郎んち母さんに悪い」
5郎「バカにしてるな」
3郎「別にバカにしていない」
4郎「だけど、5郎んち母さんは『あんたは私の子じゃないからね』って言った」
2郎「俺んちはもう決めてある。妹は母さんが。俺は父さんが。『わたしたちが別れることになったら、あんたはお父さんに引き取られていくんだからね。今からちゃんと覚悟しておかなければならないのよ』って、ときどき言われる。でも、まだ別れない」
1郎「いつも喧嘩したあとだろ?」
2郎「喧嘩したあとのこともあるけれど、そうでないときもある」
1郎「喧嘩までいかなくても、父さんと母さんの間で何か我慢できないような嫌なことがあったあとなんだ。2郎がいないときに何かあったときは2郎が気づいていないだけってこともある」
2郎「そう言えば、朝起きたときいきなり言われたことがある。言われ慣れしているけど、寝ぼけ眼のとき急に言われたから、びっくりした」
1郎「5郎んちも、別れるとか別れないとかの話にまでいっていたなら、別れた場合、5郎をどっちが引き取るかまで話していると思う」
4郎「5郎んちの父さんの方が引き取るか、母さんの方が引き取るか、どっちかの話だとしたら、5郎に『あんたは私の子じゃないから』ってことまで普通は言う必要がない」
1郎「そうだな。言う必要がないことまで言った。でも、言う必要があったから、言ったはずだ」
3郎「何だか、頭がこんがらがってくる」
1郎「普通は言う必要がないんだけど、5郎んち母さんからしたら、言う必要があったから、言ったんだろう。必要がなければ、言わない」
2郎「その必要が何なのか分からなければ」
1郎「情報が少な過ぎる。『私は育てだだけ。いつかはお父さんが育てることになるからね』って言ったってことは別れるとか別れないとかの話にまで進んでいるのは確かだと思うが・・・・。5郎、情けない顔するなよ。よくある話じゃないか」
3郎「俺んち父さんなんか、一度浮気がバレて、父さんが着ているものは洗濯しなくなって、ご飯は弟を入れて4人分だったのが、父さん抜きで3人分しか作らなくなって、父さんが夜勤で遅くなると、三人が先に風呂に入って、入り終わったあと、お湯を抜いてしまったり、最後に『二度と浮気はしません』と誓約書を書かせて、やっと元に戻った」
4郎「その誓約書は額縁に入れて、壁に吊るしてあるんだろ?」
3郎「4郎んちも、そうなのか?」
4郎「俺んち父さんは母さんから、『もし約束を破ったら、玄関の壁に吊るし変えるからね』って言われてる」
2郎「玄関じゃ、たまらない。すぐ人目について、近所にも浮気が知れてしまう。でも、浮気封じにはいい手かも」
1郎「男のお前が感心してどうする?」
2郎「5郎んちでも使えると思って」
1郎「別れる、別れないまで行ってたら、『浮気はしません』なんていう誓約書は書かない」
2郎「あー、そうか」
4郎「まあ、武雄んちもシングルマザーだし、花子んちもシングルマザーだし」
2郎「シングルマザーは結菜んちもそうだし、さくらんちもそう」
1郎「教頭の福知山桃子先生もシングル・マザーで、男の子を二人、育てたっていう」
4郎「体育の杉浦と付き合っているっていう噂があるピアノが弾ける山中詩穂先生もシングル・マザーらしい」
3郎「悠斗んちはシングルファザーで、大樹んちもシングルファザーだし」
1郎「俺んちもシングルファザー。ほかにも探せば、ほかのクラスにも、先生の中にも、シングル・マザーだ、シングルファザーだっていうのがいるかもしれない。5郎んちも、万が一、別れることになったとしても、そういったうちの一つになるだけじゃないか」
5郎「俺んちは別れない」
1郎「うまくいくように祈るけど、5郎んち父さんは1ヶ月も前から1週間に1日、泊まって帰ってきて、母さんの方が『いつかはお父さんが育てることになるからね』って言った。ある程度覚悟しておいた方がいいかもよ」
5郎「俺んちは別れない。そんな父さんや母さんじゃない」
1郎「こういうことかもしれない。5郎んち母さんは5郎を引き取ってくれるなら、別れてもいいって条件をつけた。5郎んち父さんは別れることになったとしても、5郎を引き取ることはできないと言っている」
5郎「どういうこと?」
1郎「5郎んち母さんは父さんに自分と別れさせないようにするために相手ができないと言っていることを要求しているのかも知れない」
3郎「そうか。どうしても別れたければ、引き取りたくない5郎を引き取らなければならなくなる」
4郎「5郎んち父さんが別れる方を選んで、5郎を引き取ることになったとしたら?」
1郎「5郎んち母さんは別れさせないために5郎を引き取れと言っただけで、本当は望んでいないことだとしたら、それが裏目に出た場合の用心に『あんたは私の子じゃないからね』とか、『私の子じゃなくて、お父さんの子だから』とか、『私は育てだだけ。いつかはお父さんが育てることになるからね』とか、無理に5郎に言い聞かせているのかもしれない」
2郎「1郎はどっちを予想している?5郎んち父さんが別れる方を選んで、5郎を引き取るか、5郎を引き取ることができないからって、別れない方を選ぶか」
1郎「相手の女がどんな女なのか、情報が全然ない。5郎んち母さんよりも若くて、美人なら、勝ち目はないかもしれないし、5郎んち母さんが5郎を引き取ってくれるなら、別れると言っているのかどうかも、はっきりしたことが分からない」
3郎「そういう条件をつけているのは確かさ。鼻を見ただけで親子だって分かるのに、『あんたは私の子じゃないからね』なんてこと言えない」
1郎「別れる条件としている5郎を引き取ることが5郎んち父さんができないと言っているとしたら、相手の女が幼い子持ちで、5郎、12歳だろ?」
5郎「うん、12歳になった」
1郎「12歳にもなった男の子の子育てまでさせるのは悪いと思っているのか、相手の女が子どもがいるいないに関係なく、引き取るのは厭だと言っているのか、どちらかなのかもしれない。とにかく情報が少ない」
2郎「相手の女が厭だと言っているとしたら、5郎んち父さんは別れることができない。喜べ、5郎」
1郎「確かなことは何も分からないんだから、5郎を元気づけるにしても、覚悟を決めさせるにしても、確かな情報がなければ」
4郎「じゃあ、確かな情報を手に入れればいい」
1郎「簡単に言うなよ。相手の女がどこに住んでいるのかさえ、分からないんだから」
3郎「5郎んち父さんを金曜日の仕事帰りに女の家まで後を尾けたら?」
1郎「5郎んち父さん、何で通勤してるんだ?」
5郎「車」
1郎「じゃあ、尾行も車でなければ、できない」
2郎「テレビではタクシーを掴まえて尾行する」
1郎「テレビだから、うまく掴まる。うまく掴まったとしても、小学生の集団が『あの車の後を尾けてください』なんて頼んだら、たちまち怪しまれてしまう」
4郎「スマホで位置が確認できるGPS端末を5郎んち父さんの車に取り付けたらどうかな。小学生がランドセルなんかにぶら下げておくやつ。5センチ角程だし、テレビの刑事ドラマで見かける」
1郎「カネがかかるんだろ?調べてみろよ」
4郎「ちょっとスマホで調べてみる。あった、あった。2年間の利用料金込みでGPS端末価格が1万4000円。で、3年目以降の利用料金が月額440円。GPS端末価格が5280円で、利用料金が月額600円。端末価格が8580円で、月額利用料が748円などがある」
1郎「一度しか使わないのに5千円だ、1万円だと使っていられるか?」
4郎「こんなに高いとは思ってもいなかった」
1郎「誰かに借りればいい。1、2年生の弟がいて、使っているうちはないか?」
全員「・・・・・」
1郎「いないだろうなあ。どこんちも大事に育てて貰っているようには見えないからなあ」
4郎(スマホを見ながら)「浮気調査用GPS発信機5日間レンタル9800円、365日使い放題返却不要3万8280円なんていうのもある。いや、参考までに調べただけだから」
3郎「小さい頃遊んで貰った親戚のおじさんがオートバイ通勤している。オートバイなら、尾行できる」
1郎「おじさんて、いくつなんだ?」
3郎「33歳。弁当屋に務めていて、朝5時から午後2時までだから」
2郎「頼めるのか?」
3郎「タンス動かすとか、棚を取り付けるとか、頼めば、すぐ来てくれる」
1郎「理由を言って、頼んでみろよ。今度の金曜日。5郎、5郎んち父さんの写真、1枚用意しておけよ。それに車のナンバー、メモしたやつ」

     (2)

 その週の土曜日の朝の学校。
1郎「3郎、オートバイのおじさんから報告あったか?」
3郎「あった。永田町2丁目の永田ハイツ。10部屋あるシャレた2階建てのアパートで、2階に向かう玄関が自動ドア付きの内階段で、建物の真ん中に取り付けてあって、2階の左側から2番目の8号室に住んでるんだって。他の部屋を探す振りをして、5郎んち父さんがその部屋に入っていくところまで後を尾けて、見届けたって言ってた。名字は森。表札に森とだけ書いてあったって」
1郎「5郎、昨日は帰ってこなかったんだな」
5郎「帰ってこなかった。今日はいつものように俺が寝てから、帰ってくると思う」
1郎「4郎、スマホの地図アプリで永田ハイツを探し出せるか」
4郎「ああ。あった。ここから4、5キロ離れている。自転車だと、15分か、20分程度だな」
1郎「見せてみ。住宅街のようだな。見張るにいい場所がなかったら、ハイツを挟んだこの四つ角とこの四つ角近くの、電柱があれば、電柱の陰に二組に別れて立って、一人ずつ、交代でハイツの前を行ったり来たりしよう。近くにスーパーか何か、自転車を止めておくとこないか?」
4郎「100メートル程離れたところに神社がある」
1郎「じゃあ、神社を集合場所にして、月曜日にそこで夕方5時に集まることにしようか?」
2郎「今日、学校終わってから、すぐに行けば、1時頃には着くけど?」
1郎「女の方が土曜日でも仕事ならいいけど、土日休みで、ずうっと部屋にいると、仕事帰りを狙って、どんな女か、確かめることができない」
2郎「そうか」
1郎「月曜日が定休日のとこもあるけど、土日定休よりも少ないだろうから。月曜日がダメなら、火曜日にまた行けばいい」
4郎「でも、5郎、早く知りたいだろう?」
5郎「早く知りたいけど、ちょっと怖い」
4郎「今日行って、ダメなら、月曜日にまた行けばいい」
1郎「そうか。じゃあ、普段の心がけを信じて、今日行くか」
4郎「俺たち、普段の心がけがいいもんな」
2郎(笑いながら)「俺も今日でもいい」
3郎「俺も今日でいい。どうせ、俺たち遊ぶ以外にすることはないんだから」
1郎「じゃあ、今日にしよう。女が5時までの仕事に賭けて、みんな一旦うちに帰って、昼飯食べてから、俺の部屋に集まって、神社に4時に着くように出かけよう」
2郎、3郎、4郎(同時に)「よし、決まった」
1郎「永田ハイツに行ったら、4郎と俺とで誰か住んでいる人間を探している振りをして2階まで上がってみる。『このアパートじゃないな』とか呟いて、一旦敷地の外に出る」
2郎、3郎、4郎、5郎(同時に)「分かった」
1郎「ハイツの前を行ったり来たりするために地図でも持ってった方がいいかな」
3郎「家に本になっている道路地図がある」
1郎「それを広げながら、歩けばいい。もう一組はスケッチブックでも広げながら歩くか。ボールペンを握っていて、何か書く振りをしながら」
5郎「分かった」
1郎「誰かスケッチブック持っていないだろうか」
2郎「山田がいつも持っている。絵を描くのが好きだから」
1郎「借りられるか?」
2郎「と思う」
1郎「じゃあ、借りてきてくれ」

 神社。  
1郎「4郎のスマホの地図で見たとき、吉田ハイツの敷地よりもずっと狭かったけど、教室よりも狭い敷地だな」
4郎「自転車を停めておける」
2郎「この町に来るのは初めてだ」
4郎「俺も初めて」
3郎「俺も」
5郎「俺も」
1郎「お賽銭を投げて、うまくいくように祈ろう」
4郎「俺、今日の小遣い、ジュース飲んで、使っちまった」
2郎「俺もジュースに使ってしまった」
3郎「俺も」
5郎「俺は今日は小遣いなし」
1郎「大丈夫、ジュースのカネ以外に5円、用意してきた」
4郎「食事の買い物に使うカネを小遣いに使ったら、父さんに怒られるんだろ?」
1郎「大丈夫。怒られたって、殴られたりしない」
3郎「スーパーに行くたびに家計簿のノートにレシートを貼っておいて、月末に財布の残金と合っているかどうかチェックされるって言ってたな」
1郎「差し引き合計したときの1円単位のおカネは面倒臭いらしく、チェックしない。5円玉、10円玉、100円玉の1枚や2枚、なくしやすいから、足りないのがときたまなら、『なくしてしまったのか』程度で済む。500円玉となると、1枚足りなくても、『お前、自分の小遣いにしたな』と怒られる。今回は5円だから、問題はない」
4郎「じゃあ、1郎にお賽銭、投げてもらうか」
1郎「代表して、5郎に投げて貰おう。5郎にいい結果が出なければ、何にもならないから」
4郎「じゃあ、5郎、投げろよ」
5郎「俺がお賽銭投げて、うまくいくかどうか」
1郎「自信を持て」
5郎「じゃあ、俺にやらせて貰う。何てお願いしたらいいのかだろう」
1郎「願い事は口にしない方がいいって言うけど、構わない。俺が最初に願い事を言うから、自分に願い事がなければ、俺に続けてもいい」
4郎「じゃあ、みんなそうしよう」
 一斉に柏手を3回ずつ打つ。
1郎「5郎んち父さんの女が5郎んち母さんよりも美人でなくて、歳も取っていますように」
2郎, 3郎、4郎、5郎(同時に)「5郎ち父さんの女が5郎んち母さんよりも美人でなくて、歳も取っていますように」
 全員して再び柏手を3度打つ。
1郎「自転車をこのまま置いて、永田ハイツまで行って、怪しまれないように張り込もう」
2郎「張り込みなんて、初めてだ。緊張する」
3郎「俺も初めてだ」
4郎「俺も初めてだ」
1郎「5郎も初めてだろ?」
5郎「うん」
1郎「緊張しているな。5郎んち父さんが取られる心配はない女に見えるか、取られてしまいそうな女に見えるかで、腹の決めどころが違ってくるからな」
3郎「5郎んち父さん、そんなに女にモテるふうには見えない」
4郎「俺は5郎んち母さんしか知らないけど、5郎は父さんの子でもあるんだろ?」
5郎「だと思う」
4郎「5郎は父さんの子でもあるんだ。5郎の父さんはたいしてモテやしない。安心しろ」
5郎「たいしてモテないと思う」
1郎「あの、長い生け垣があるところだな」
4郎(スマホを見ながら)「そのようだ」
1郎「建物の横に吉田ハイツと書いてある。ここだ」
2郎「なかなか立派なアパートだ。こんなアパートに住んだことはない」
3郎「俺もだ」
1郎「ちょっと待て。ウインカーを出している車が後ろから来た。道の反対側に移動して、3郎、地図を広げろ。広げた地図をみんなで覗き込んで、俺が覗き込んでいる振りをしながら、様子を窺ってみる」
4郎(3郎が広げた地図を横から覗きながら)「確かこのアパートのはずだな?」
3郎「もう一つ先の通りかもしれない」 
2郎「そうだな。もう一つ先の通りかも」
1郎「赤の軽ノッポ。運転手はよく見えない。性別不明。色から言ったら、女の可能性大。スピードを緩めた。若い女だ。中に入っていった。顔を上げるな。バックミラーで見られているかもしれない」
3郎「いい調子だ、実況中継」
1郎「助手席に女の子が乗っている。幼稚園か保育園の制服を着ている」
2郎「顔を上げてよかったら、合図して欲しい」
1郎「運転席をこっちに向けて車をバックさせ、駐車させている。結構美人だ。4郎、目指す女かどうか分からないけど、車から降りるところをいつものように腰のところから動画撮影できるだろ?」
4郎「任せてくれ」
1郎「ドアを開けながら、こっちを見た。車から降りた。真正面からのショットをうまく撮ってくれよ。車の前を回って、助手席から降りた女の子と手を繋いで、向こう向きに歩き出した。今のうちなら、顔を上げても大丈夫だ」
4郎「後ろ姿を見ただけでも、5郎んち母さんよりもずっと若く見える。スタイルも全然いい。5郎んち母さんからはぴっちりした白のジーンズは想像できない」
2郎「若いときは穿けたかもしれないが、うちの母さんと一緒で、太ももの途中で引っかかってしまうはずだ」
3郎「後ろ姿だけで美人に見える」
1郎「相手の女だとまだ決まったわけではない。2階に向かう玄関の方に歩いていく」
4郎「自動ドアだ。3郎のおじさんが言っていたとおりだ」
2郎「2階に住んでいるんだ」
1郎「2階の廊下は建物の向こう側だ。どの部屋に入っていくか見えない」
3郎「建物の向こう側に回ってみよう」
1郎「いや、2階の左側から2番目の部屋のベランダに洗濯物が干してある。部屋の女なら、すぐに取り込む」
4郎「1郎んちは洗濯をするのも、干すのも、取り込むのも1郎がやるんだったな」
1郎「ああ・・・。カーテンが開いた」
2郎「女の影が映った」
1郎「地図に目を落とせ。俺が様子を窺う。4郎、動画を撮れ」
4郎 (スマホのディスプレイを見ながら)「同じ女だ」
1郎「ああ、同じ女だ。あの若い女が5郎んち父さんの女だ。決まりだな。引き上げよう。分かれば、もう用はない」
4郎「決まりだな」
3郎「5郎んち父さんとあの女の組合せがピンとこない。5郎、どう思う?」
5郎「何が何だか、訳が分からない」
1郎「5郎は何も知りたくないかもしれない。俺も父さんと母さんが別れるときはずっと目を閉じていたい気持ちだった。受け入れることができることだけ、受け入れていった」
4郎「5郎、元気を出せ」
5郎「うん」
3郎「俺たちがついている」
2郎「俺もついている」
1郎(4郎にだけ聞こえるように声を小さくして)「さっき撮った動画、うまく撮れているか」
4郎「うん、このとおり撮れている」
1郎「5郎んち母さんはこんなシャレた格好をするときがあるのか?」
4郎「ないと思うよ。若いときはあったかもしれないけど」
1郎「昔の話か」
4郎「1郎が神社で『5郎んち父さんの女が5郎んち母さんよりも美人でなくて、歳も取っていますように』って折角祈ったのに、効き目がなかったな。賽銭の5円が少な過ぎたのかな」
1郎「賽銭の額は関係ないと思うよ。千円、弾んだとしても、結果は同じだから」
4郎「今の時間だと、4時半に仕事を終えて、幼稚園か保育園に子どもを迎えに行って、帰ってきたといったところだな」
5郎「俺んち父さんの子かな?」
1郎「おお、びっくりした。急に声をかけてきたから。最近だろ、帰ってこなくなったの?」
5郎「1ヶ月程前から」
1郎「5郎んち父さんの子じゃないと思うよ。顔も似ていないし」
5郎「俺んち父さんの子じゃない」
2郎「よかったな。知らぬ間に妹ができていなくて」
5郎「うん、よかった」
3郎「テレビドラマでは知らない兄さんがいた、弟がいた、姉さんや妹がいたって話はよくある」
1郎「保健の田口先生ぐらいの年齢に見えたから、まだ30前じゃないのか」
4郎「同じくらいかもしれない」
3郎「同じくらいだ」
2郎「田口先生もオシャレだ」
1郎「5郎んち母さんはいくつなんだ」
5郎「確か38歳とか言っていたのを聞いたことがある」
1郎「年齢では明らかに勝ち目はないな」
4郎「勝ち目はない」
5郎「30過ぎてから産んだ子かもしれない」
1郎「ない、ない。30前に見えるんだから23、4の頃の子じゃないか。片や5郎んち母さんの方は中年太りが大分進んでいる」
5郎「2郎んち母さんも、3郎んち母さんも、4郎んち母さんも、中年太りが進んでいるじゃないか」
4郎「俺んち母さんはそんなに進んでいない」
1郎「誰かと勝負しなければならないわけではないから、立場が違う」
4郎「俺んち母さんもたいして中年太りしていないけど、若い誰かと勝負しなければならなくなったら、慌てるかも」
5郎「母さん、少しは痩せればいいのに」
1郎「残酷なことを言うようだが、勝負の真っ最中だとすると、年齢だけではなく、スタイルもオシャレなところも、顔の点でも勝ち目はないな」
3郎「5郎んち父さんは5郎んち母さんとどうしても別れたければ、5郎を引き取らなければならない」
1郎「5郎を引き取ったら、8号室の女は子ども2人の世話をしなければならないから、女の方が5郎を引き取るのは厭だと言っていて、5郎んち父さんは女の言うとおりに5郎は引き取ることができないと言っているのかもしれない」
5郎「どこかへ行ってしまいたい」
4郎「どこか行く当てがあるのか?」
5郎(弱々しく首を振って)「いや」
1郎「5郎んち母さんは『相手はどんな女のよ』って最初に聞いたのかもしれない。それで幼い女の子が一人いると分かって、二人は面倒見れやしないだろうと考えて、5郎を引き取ってくれるなら、別れてもいいと言い出したのかもしれない」
4郎「じゃあ、5郎んち母さんが5郎に『あんたは私の子じゃないからね』って言ったのは?」
1郎「そりゃあ、やっぱり・・・・、(少し考えてから)もしもだよ、8号室の女が5郎んち父さんとどうしても一緒になりたくて、一緒になるには5郎を引き取って、面倒をみるしかないと覚悟したとしたら?」
3郎「5郎んち父さんは5郎んち母さんと別れることができる」
1郎「5郎んち母さんが自分と5郎んち父さんを別れさせないために言い出したことで、それが失敗した場合は?」
4郎「5郎を手放すことになる」
1郎「5郎を手放すのがもし本心でないとしたら?」
2郎「5郎んち母さんは別れたくなかった5郎んち父さんと別れる上に5郎まで手放すことになる」
1郎「5郎んち母さんはあとになって、『やっぱり5郎は私が引き取る』とは意地でも言えないから、計画が失敗して、5郎まで手放すことになった場合に備えて、『5郎は私の子じゃない』って自分に言い聞かせていたのかもしれない」
4郎「自分にだけ言い聞かせればいいことで、5郎に『あんたは私の子じゃない』なんて言う必要はないと思う」
1郎「5郎にも覚悟させなければならないと思ったんじゃないのか」
2郎「悪いのは5郎んち父さんとあの女だっていうのに」
4郎「少しぐらいスタイルがいいのと年が若いのと顔がきれいなのを鼻にかけて、5郎んち父さんを騙したんだ。5郎んち父さんは何も悪くない。悪いのはあの女だけだ」
1郎「トバッチリが5郎のところまで来てるんだから、あの女だけの問題にすることはできない」
4郎「そうか。そうだな。5郎んち父さんも悪い」
1郎「あの女に引き取られることになっても、どこをどう見ても、5郎は5郎んち母さんの子だから」
3郎「そうだよ。5郎んち母さんの子であることに変わりはない」
5郎「うん」
1郎「最初は慣れるのが大変だろけど、あの女が5郎んち母さんの代わりをするだけなんだ」
2郎「隣のクラスの野田、知ってるだろ?」
5郎「知ってる」
2郎「野田んち父さんは最初の野田んち母さんと別れて、新しい母さんと一緒になった。最初は嫌がっていたけど、今では『お母さん、お母さん』と呼んで、一緒に遊びに行ったりしている」
1郎「前の母さんもときどき野田に会いに来て、車でどこかに遊びに連れてって貰ってるって言ってたな」
2郎「言ってた、言ってた」
1郎「二人も母んがいて、二人の母さんに遊んで貰えるなんて、贅沢だな」
3郎「俺んち父さんも母さんと別れても、誰かと再婚してくれると、母さんが二人できて、別々のところへと遊びに連れてって貰えるかもしれない」
4郎「3郎、そんなこと父さんや母さんの前で言うなよ。『二人を別れさせるつもりか』って、殴られてしまうかもしれない」
1郎「3郎んち父さんも、5郎んち父さんみたいにほかに女がいたら、『喜んで別れてやる』なんて言い出すかもしれない。やっぱり言わない方がいいな」
3郎「俺んち父さんはそんな父さんじゃない。一日も帰ってこない日なんてない」
1郎「5郎、心配するな。例え引き取られても、新しい母さんにそのうち慣れて、新しい母さんと一緒に遊びに行ったり、前の母さんとも、どこか遊びに連れて行って貰ったりするようになるかもしれない」
5郎「うん・・・・・」
1郎「元気を出せ。自分が元気を出さなければ、誰が元気を出すんだ?」
2郎「俺が代わって元気を出してやる」
3郎「代わって、どうする」
 (ほかの4人は遠慮なく笑うが、5郎は元気なく笑う。)
4郎「5年生になって、スマホを持ち始めた頃、撮りためていた写真を間違えて消してしまって、物凄く落ち込んだ」
3郎「無料の復元アプリがあることを教えて貰って、全部復元できたときはたちまち元気を回復することができたって話だろ?何度も聞いている」
4郎「この話、5郎には初めてだよな」
5郎「もう何度も聞いている」
4郎(大袈裟にびっくりする。)「え、え、え、えー・・・・」
1郎「5郎を笑わせようとしたな」
4郎「いや。初めてする話だと思った」
1郎(笑いながら)「ウソつけ」
 (1郎、2郎、3郎、4郎、笑う。5郎は先程よりも元気を出して笑う。)
1郎「5郎は母さんの方に引き取られたいんだろ?」
5郎「うん」
1郎「5郎んち母さんの方に勝ち目がなくて、5郎んち母さんと5郎んち父さんが別れて、どちらの子になったとしても、それで5郎の人生が終わるわけじゃないんだから」
5郎「うん。分かってる」
1郎「まだまだ続くんだ。中学、高校へ行くなら、中学、高校へと続く」
4郎「大学へ行くんだろ?」
5郎「分からない。考えたこともない」
1郎「大学へ行けば、大学と続くんだ。行かなくても、いつかは社会に出て、5郎の人生は続いていく。ここで元気をなくしていてどうする?元気を出していこう」
 (1郎、拳を握った腕を突き上げる。)
2郎、3郎、4郎(同時に腕を突き上げて)「元気を出していこう」
5郎「うん、元気を出していく」

     (3)

 (次の週の月曜日の朝の教室)
5郎「日曜日にあの女が訪ねてきた」
1郎「何だって?いよいよ正体を現したか?宣戦布告か?」
5郎「宣戦布告というわけではないけど」
1郎「仲直りに来たわけじゃないだろ?」
5郎「『このとおり新しい子が生まれるから、5郎君を引き取ることはできません。幼稚園に通ってる子も抱えているんです』って言った」
1郎「新しい子だって?」
5郎「大きくなっているお腹を両手で重そうに抱えていた。重過ぎて、息が切れるようだった」
1郎「おとついの土曜日に見たときはお腹は大きくなかったじゃないか」
5郎「えっ?えー?。そうだったけか」
1郎「4郎、動画見せてやれ」
4郎「ほら、見てみろ。どこをどう見たって、お腹なんか大きくない」
5郎「ホントだ」
4郎「白い、細いズボンを穿いていて、スラーっとしている」
1郎「5郎を引き取りたくないから、急いでお腹の中に子どもがいることにしたんだ」 
3郎「いつだったか、テレビのお笑い番組でやってた。男に騙された女が服の下にぬいぐるみを入れて、お腹を大きくして、その男が新しく掴まえた女と一緒にいるところに行って、『お腹の子はこの男の子よ。もうすぐ産まれるんだから、堕ろすことはできない。この男の形見に産んで育てる』」
2郎「見た見た。騙した男が新しく掴まえた女は社長令嬢で、その女は男に『結婚前に女の一人や二人作ったってどうでもいいことだけど、よその女が産んだ子どもは財産争いの元になるから、どうにかして』と言い、男は台所から包丁を持ってきて、『お腹の子だけ消すわけにはいかないから、お前も一緒に消えて貰うことにする』」
4郎「社長令嬢は両手を広げて、逃げる女の行く手を遮ろうとするが、女は殺されたらたまらないって、ソファの上だろうと、テーブルの上だろうとヒョイヒョイと飛び乗って、ところ構わずに逃げ回った」
3郎「男が『お腹にもうすぐ産まれる子がいるのに身軽に動き回り過ぎないか?』」
2郎「『私が身軽なのはお腹の子がぬいぐるみだからなんだけど、あんたが身軽に私から逃げていくことができたのは真心が風船より軽かったからよ』」
4郎「『うるせえ。風船より軽かったから、カネのある方向へと風に流されていくことができたんだ。子どもがぬいぐるみなら、お前まで消えて貰う理由がなくなった。帰れ、帰れ』」
2郎「『あんたに私を消す理由がなくても、タダで引き下がるわけにはいかないのよ』」
3郎「服の下から大きなタヌキのぬいぐるみを取り出して、『タヌキめっ』って投げつけた」
4郎「ぬいぐるみが男に当たると、破けて、中に入っていたたくさんの1万円札が舞い散った。男と社長令嬢はびっくりして、二人共、四つん這いになって床に散った1万円札を掻き集めにかかった」
2郎「女は『おもちゃの1万円札だからね』って言って、部屋を出ていった。男も社長令嬢も掻き集めるの忙しくて、女が言ったことが耳に入らず、狂ったように1万円札を掻き集め続けた。ゼ・エンド」
1郎「5郎は見なかったのか?」
5郎「見た」
1郎「だったら、話に入れよ」
5郎「ごめん。あんまりみんながテンポよく繋いでいったから、入りそこねた。1郎は見なかったの?」
1郎「見たけど、5郎がいつ話に潜り込むか気になって、そっちの方に気を取らていた」
 (1郎、2郎、3郎、4郎、笑う。5郎、照れ笑いする。)
1郎「ぬいぐるみを入れていたのか何を入れていたのか分からないけど、お腹を大きくした女は何を言いに来たんだ?」
5郎「『このとおり敏夫さんの・・・』、俺んち父さんの名前なんだ。『子どももできるし、前の夫との間にできた3歳の保育園児も抱えていて、5郎君を引き取って世話ができる程、手が回りませんから」
1郎「つまり女は5郎を引き取らないまま、離婚を承諾してくださいって言いに来たんだ」
4郎「宣戦布告じゃないか」
5郎「俺を引き取らずに俺んち父さんと一緒になるからっていうことは言わなかった」
4郎「言わなくたって、言ったのと同じなんだ」
1郎「5郎を引き取ることができないから、敏夫さんと一緒になるのは諦めますなんて言ったのか?」
5郎「言わなかった」
1郎「そんなことを言ったら、5郎んち父さんの子どもに見せかけて、腹を大きくした意味がなくなってしまう」
3郎(女の声色で)「『敏夫さんの子どもまでできたんだから、敏夫さんと一緒になるしかありません』(自分の声に戻って)っていうことなんだな」
1郎「5郎んち母さんはどう反応したんだ」
5郎「父さんに『あんたって人は。女に子どもまでつくって。勝手に作る方が悪いんだからね、私と別れるなら、やっぱり5郎は引き取って貰う。5郎は私の子じゃない、あんたの子だからね』」
4郎「父さんの返事は?」
5郎「『バカ言え、どこをどう見たってお前の子じゃないか。俺の子じゃないって言えるけど、お前の子ではないとは神様、仏様でも言えやしない』」
1郎「まあ、どう公平に見ても、5郎んち父さんの方が正しいことを言っているふうに見える。5郎はどう思う?」
5郎「父さんの方が正しいことを言っているふうには見えるけど」
1郎「お腹の子どもについては何も言わなかったのか?」
5郎「『できてしまったものはしょうがないじゃないか。できた以上、産んで、育てるには手がかかるんだ。5郎まで面倒は見れない。引き取ることなんか、できるはずはない』」
1郎「やっぱり5郎を引き取らずに女と一緒になるつもりでいる」
4郎「宣戦布告どころか、すでに戦争は勃発している」
1郎「で、5郎んち母さんは?」
5郎「『私も新しい男を見つけて、やり直すことにしたんだから、5郎の面倒は見れない。誰かさんみたいに女房、子どもがいながら、軽い気持ちで若い女を見つけて、子どもまで作ったように私も身軽になってほかの男の子どもが欲しくなったのよ』」
3郎「何だか無理して言っているように聞こえる」
1郎「5郎んち母さんが女と5郎んち父さんを一緒にさせないために5郎を引き取らせようといくら頑張っても、何だか勝ち目がないように見える」
5郎「なぜ?」
1郎「子どもができたんだからって、ウソまでついて、5郎を引き取らせようとするのを諦めさせようとしているんだから」
4郎「5郎がどっちに引き取られようと、5郎んち母さんと5郎んち父さんは別れることになるってわけだな」
5郎「4郎、スマホ貸してくれ。母さんに見せる。子どもができたなんて、すぐウソだって分かる」
1郎「ウソだと分かるだけのことで、引き取れ、引き取らないの話は続く」
2郎「5郎の運命や如何に」
1郎「大人が決めることで、5郎は答を出すことはできない」
4郎「1郎は経験しているからなあ」
3郎「経験者の言葉は重い」
1郎「5郎の気が済むんだったら、4郎のスマホを借りて、5郎んち母さんに見せればいい」
5郎「いや、やめておく」
4郎「元気を出せよ、5郎」
5郎「うん・・・・」
3郎「あんまり変わらないな」
1郎「5郎は待つしかない」
5郎「うん、そうする」
1郎「5郎、いいおまじない教えてやる。神社でした、『5郎んち父さんの女が5郎んち母さんよりも美人でなくて、歳も取っていますように』の願い事は全然通じなかったけど――」
4郎「お賽銭が5円だったことが悪かったわけじゃない」
1郎「さっき、俺、『5郎がどっちに引き取られても、5郎の人生が終わるわけじゃない』って言ったけど、5郎は自分では答を出すことはできないんだから、『母さんと父さんが別れて、俺の人生が変わることになったとしても、それで俺の人生が終わるわけじゃない』をおまじないにして、何か不安になったとき、自分に言い聞かせれば、何か効き目があるかもしれない」
5郎「ありがとう、そうする」
4郎「1郎はそんなおまじないをしてたのか?」
1郎「人から教えられたわけじゃないけど、いつ頃からか、父さんと母さんの仲が悪いことを忘れるためにおまじないにしていた」
2郎「忘れることができた?」
1郎「いや、忘れることはできなかったけど、何か自分に言い聞かせることがあると、少しは自分の支えになってくれる」
4郎「5郎、試しに一度おまじないしてみ」
5郎「ここではいい。ちゃんとおまじないにするから」
3郎「一度ここでやっておけば、二度目からは抵抗なくできるかもしれない」
5郎「母さんと父さんが別れて、俺の人生が変わることになったとしても、それで俺の人生が終わるわけじゃない」
4郎「よしよし。それでいい。俺も俺んち父さんと母さんが別れるような話になったら、自分のおまじないにしよう」
3郎「俺も俺んち父さんと母さんが別れるようなことを言い出したら、自分のおまじないにする」
2郎「俺は今この瞬間から、自分のおまじないにする。いつ父さんと母さんが別れるとか、別れないとかの話になってもいいように」
4郎「手回しがいいな」
2郎「喧嘩することが多いから、用心するに越したことはない」
1郎「別れる、別れないは全部大人が決めることで、俺たちは答を出すことはできない」

 1週間経過。
1郎「無理に聞くのは控えていたけど、1週間経つのに5郎、母さんのことも、父さんのことも、あの女のことも、何も話さなくなったな」
4郎「1郎の忠告どおりに例のおまじないを唱えて、どうなるか様子を見ているのかもしれない」
1郎「5郎と5郎んち母さんからしたら、5郎んち父さんが女と別れてくれるのが一番いいんだろうけど、そんなふうになるようには思えない。5郎は一つの試練を背負うことになって、それを乗り越えていかなければならない」
4郎「みんなで支えてやれば、乗り越えていける。な、3郎」
3郎「乗り越えていける。な、2郎」
2郎「大丈夫。みんなで支えよう」
4郎「5郎が来た。最近、いつもは始業時間ギリギリだけど、今日は少し早いな」
1郎「どうした、5郎。目を吊り上げて。」
5郎「に、に、に・・・・・」
1郎、2郎、3郎、4郎(同時に)「落ち着け」 
5郎「に、逃げた」
1郎「誰が?」
4郎「ニワトリでも逃げたのか」
3郎「ニワトリなんか飼っていないはずだ」
5郎「父さんが逃げた」
1郎「父さんが?逃げた?どういうことだ」
5郎「母さんが言ってた。『逃げた』って」
1郎「落ち着いて話してみろ」
5郎「何が起こるのか、怖くなって、みんなには黙っていたんだけど、いつものように金曜日に帰って来ないのではなく、火曜日から帰ってこなくなった。夜遅くに帰ってきて、次の日の朝、いるってこともなかった」
1郎「そんなこと、初めてのことか?」
5郎「母さん、初めてだって言ってた」
1郎「そのまま放っておいたのか?」
5郎「『どうせ帰ってくる。放っておけばいい』って怒ってた。『5郎には悪いけど、5郎を引き取れないんだったら、別れてやらないんだから』って」
4郎「それで、そのままにしておいたんだ?」
5郎「日曜日の昼ちょっと過ぎに父さんの会社の上司からうちに電話があった。母さんは、『ちょっと外出しています』と言ってから、『少し気分が良くなったから、リハビリを兼ねて散歩に出かけたところです』とか、『スマホを置き忘れてしまったもんですから』とか言っていた」
3郎「会社は日曜日は休みじゃないのか」
5郎「休みだけど、俺んち母さんにどんな電話だったか聞いてみた。体の調子が悪いから、二三日休ませて貰うからって火曜日の朝、会社に連絡が入ってからずうっと休んでいるけど、今週の水曜日の商談を月曜日に繰り上げてくれないかってお客さんの方から急に電話が入ったから、いいですよって答えておいたけど、月曜日には出てこれそうか、帰ってきたら聞いて、私のところに電話を入れて欲しいって頼まれたんだって」
1郎「5郎、一気に喋ったな。お家の一大事感がモロに伝わってくる」
5郎「いや、いや、いや・・・」
1郎「まあ、落ち着けよ。それで5郎んち母さんが『逃げた』って言ったのは、そのまま家に帰ってこないのを予感したからだろうか?」
4郎「どういうことなんだ?」
1郎「5郎んち母さんびっくりしたろ?家に帰ってこないだけではなく、会社も休んでいたんだから。そのことを会社の上司に話したのか?」
5郎「話さなかった。『家に戻り次第、電話するように言っておきます』と言って、電話を切った」
1郎「相手が5郎んち父さんの会社の上司だから、どうにか落ち着いていれたけど、5郎に当たり散らさなかったか?」
5郎「当たり散らすことはなかったけど、ピリピリしていて、怖かった。『会社を休んで、どこへ行ってるのよ。あの女のところに決まってる』」
1郎「5郎はあの女が住んでいるハイツを言ってしまったんだ?」
5郎「母さんの顔から目を逸らすことができなかった」
1郎「住んでいるところを知っているから、普通に母さんの顔を見ることができなかった」
5郎「『あんた、知ってるの?あの女の住んでるところ。知ってるんだね』って。知らないって言いたかったけど、言えなかった」
4郎「それで教えた」
5郎「タクシー呼んで、母さんと一緒にあの女が住んでいるハイツに行った」
1郎「もぬけの殻だったんだ」
5郎「8号室のベランダ側の窓に『空室』と書いた大きな紙が貼ってあった」
1郎「大家を探し出して、どこへ引っ越したのか聞いたのか」
5郎「聞かなかった。『ああ、やっぱり逃げたんだ』って言って、タクシーで帰ってきた。タクシーに乗っている間、何も口を利かなかった」
1郎「5郎がシングルマザーの子の仲間入りする瞬間なんだ。覚えておいた方がいい。5郎一人だけがシングルマザーの子というわけではない」
4郎「武雄んちもシングルマザーだし、花子んちもシングルマザーだし」
2郎「結菜んちもシングルマザーだし、さくらんちもシングルマザーだ」
1郎「教頭の福知山桃子先生もシングル・マザーで、男の子二人、育てたっていう」
4郎「体育の杉浦と付き合っているっていうピアノが弾ける山中詩穂先生もシングル・マザーらしい」
3郎「悠斗んちはシングルファザーで、大樹んちもシングルファザーだし」
1郎「俺んちもシングルファザーだ。ほかにも探せば、シングルマザーだって、シングルファザーだってたくさんいるはずだ。一人親は5郎一人というわけじゃない。シングル・マザーの子になったとしても、5郎の人生が終わるわけじゃない。元気を出せ」
5郎「うん」
4郎「昨日はよく眠れなかったろ?」
5郎「眠れなかった。母さん、すっかり気が抜けたみたいになってしまって、夕ご飯の支度に取り掛かったのが夜10時を過ぎた頃で、食べ始めたのが11時近くだった。朝になって、今日は仕事する元気が出ないって言って、パート先に電話して、休んだ」
3郎「よく休むのか」
5郎「今まで全然休んだことはなかったと思う。今まで全然休まなかった」
2郎「5郎んち母さん、どこから見ても元気そうだったからな」
1郎「大丈夫だよ。5郎んち母さんもそのうち元気が出てきて、ほかに父さんになる男を見つけて、その男の子どもを生むなんてこともあるかもしれない」
4郎「そしたら、5郎、父さんが二人もできる。羨ましいな」
3郎「前の父さんとも仲直りして、遊びに連れて行って貰うところが2倍に増えるかもしれない」
2郎「お小遣いも一人よりも二人の方が多く貰える。いいな」
1郎「もし新しく子供ができたとしても、新しい弟か妹をちゃんと迎えてやれよ」
5郎「うん、そうする」
1郎「俺んち父さんも新しい母さんを見つけて、弟か妹をつくってくれればいいんだけどな。そしたら、酒の量が少しは減るかもしれないのに」(終)
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