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安倍晋三「桜を見る会」国会虚偽答弁疑惑に見る秘書との力関係の怪 個人情報答弁回避と国政調査権回避は国民信託への裏切り

2020-11-30 09:31:42 | 政治
 
【謝罪】 2020年11月9日のブログで、「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」を「行政機関の保有に関する情報の公開に関する法律」と誤って表記していて、昨日(2020年11月29)に気づきました。謝罪し、訂正しておきました。

 2020年11月23日夜の12時~1時台の発信で各マスコミが関係者への取材として前首相の安倍晋三の公設第1秘書らが安倍政権下の「桜を見る会」前夜の安倍後援会事務所主催パーティーの会費問題で東京地検特捜部の任意の事情聴取を受けていると報じた。2019年11月から野党から国会で、毎年4月に行われる内閣総理大臣主催の公的行事「桜を見る会」前夜の、2013年から2019年までの安倍晋三後援会パーティの収支が政治資金収支報告書に記載がないこと、ホテルで行う1人5000円の会費では安過ぎる、会費の一部を事務所側が負担していたのではないかといったことで追及を受けていて、安倍晋三は全否定し、国会を乗り切っていた。

 事務所側が会費の一部を負担しながら、その収支を政治資金収支報告書に記載していなければ、政治資金規正法違反の疑いが出てくるだけではなく、会費の負担そのものが寄付行為に当たって、公職選挙法違反となる。安倍晋三は国会を乗り切ったものの、国民の多くは説明責任を果たしたとは見ていなかった。その現れが全国の弁護士たちから政治資金規正法違反などの疑いで告発状が提出され、それが特捜部の捜査対象となったということなのだろう。

 マスコミの取材で分かったことは会場となったホテル側が安倍晋三側がパーティー費用の一部を負担していたことを示す領収書や明細書を作成していたという、安倍晋三の国会答弁とは真逆の事実だった。安倍晋三は国会答弁や記者会見で「ファクトが全てである」かのような発言を繰り返しているが、ファクトが全て実際にあったこと、あるいは実際に起きたこととは限らない。自分の都合で作り出すファクトというものもある。今回の容疑が固まれば、安倍晋三の「桜を見る会」に関わる国会答弁の殆どは実際にあったファクトではなく、自分の都合で作り出したファクトということになる。

 尤もNHK NEWS WEB記事によると、安倍晋三が昨年末に事務所の秘書に対して会費以上の支出がないかを尋ねたところ、担当者が「5千円以上の支出はない」と事実と異なる説明をしたと伝えていることから、事実と異なるその説明に基づいて答弁したことになるから、安倍晋三自身は自分の都合で作り出したファクトを垂れ流したわけではないということになるが、事実と異なる説明をした理由を担当者が「懇親会が始まった平成25年(2013年)に、政治資金収支報告書に会の収支を記載していなかったため、事実と異なる内容を安倍氏に答弁して貰うしかないと判断した」と述べたと伝えている真偽である。

 この担当者が政策第1秘書であったとしても、仮にも安倍晋三は天下の総理大臣である。昨年暮れの時点であっても、日本では珍しい例に入る7年の長きに亘って総理大臣を務めてきた。この両者の力関係から言っても、天下の総理大臣安倍晋三に事実を知らせないままに「事実と異なる内容を答弁させる」、つまり国会でウソをつかせるという非常に恐れ多いことが果たしてできただろうか。権威主義は安倍晋三から担当者側に働いて当然であって、担当者から安倍晋三に働くどのような権威主義も考えることはできない。

 この疑問を解くには安倍晋三の指示を受けてか、あるいは安倍晋三の承諾に基づいて5千円以上の支出を行っていたかのどちらかでないといけないし、このことを承知している上での安倍晋三の国会答と看做さない限り、担当者の説明に現れている両者の力関係をどこかに置き忘れている謎は解けない。

 要するにマスコミも報じているように「秘書がやったこと」と秘書一人に責任をおっかぶせるための方便であって、最終手段に訴える準備に前以って入ったということなのだろう。

 では、安倍晋三が国会で「桜を見る会」前夜の安倍晋三後援会パーティをどのようなファクトに基づいて答弁しているのか、簡単に振り返ってみる。手っ取り早く振り返るには一度ブログで使ったが、2020年2月17日衆議院予算委員会での立憲民主党の辻元清美の追及を見るのが一番だと思う。必要箇所のみを拾ってみる。

 辻元清美は「桜を見る会」前夜の後援会パーティーの領収書と明細書を出して貰いたいと要求した。対して安倍晋三からはいつもどおりの答弁が返ってきた。

 安倍晋三「夕食会の主催者は安倍晋三後援会であり、同夕食会の各段取りについては、私の事務所の職員が会場であるホテル側と相談を行っております。事務所に確認を行った結果、その過程において、ホテル側から見積書等の発行はなかったとのことであります。

 そして、参加者1人当たり5千円という価格については、800人規模を前提にその大多数が当該ホテルの宿泊者であるという事実等を踏まえ、ホテル側が設定した価格であり、価格以上のサービスが提供されたというわけでは決してなく、ホテル側において当該価格設定どおりのサービスが提供されたものと承知をしております。

 なお、ホテル側との合意に基づき、夕食会の入り口において、安倍事務所の職員が一人5千円を集金し、ホテル名義の領収書をその場で手交し、受け付け終了後に、集金した全ての現金をその場でホテル側に渡すという形で参加者からホテル側への支払いがなされたものとしておりまして、安倍事務所には一切収支は発生していないということでございます。

 また、既に御報告をさせていただいておりますが、明細書につきましては、ホテル側が、これは営業秘密にもかかわることであり、お示しをすることはできない、こう述べている、こういうことでございます。

 そして、領収書につきましては、これは一部新聞等にそのときの領収書が写真つきで出されているということを承知をしておりますが、これはまさに、出席者とホテル側との間で現金の支払いとそして領収書の発行がなされたものであり、私の事務所からこれは指図できるものではない、こういうことでございます」

 「参加者1人当たり5千円という価格」はホテル側が決めた。パーテイ会場入り口で安倍事務所職員が1人5千円を集金、ホテル名義の領収書をその場で手交、受け付け終了後に集金全現金をその場でホテル側に渡した。現金の全ては安倍事務所職員を素通りしただけだから、「安倍事務所には一切収支は発生していない」から、政治資金収支報告書への記載の必要性は生じなかったという事実を提示したことになる。

 「明細書につきましては、ホテル側が、これは営業秘密にもかかわることであり、お示しをすることはできない、こう述べている、こういうことでございます」と言っていることは、「ん?」と考えさせる発言だが、安倍後援会事務所に問い合わせたこととして「明細書等の発行は受けてないとのことでした」と答弁しているから、元々明細書の発行は受けていなかったという事実になる。

 一般的にはパーティというサービスを提供する側は提供に先立って各サービスの内容と金額を記した明細書を発行、提供サービスの承諾を得てから、決められた日時での明細書に基づいたサービス提供を開始する。ホテル側の営業秘密に関わることでも何でもない。明細書がないことを証明するためにホテル側の営業秘密を持ち出したこと自体、そこにウソがあるからだろう。

 今回の報道では特捜部への取材からであろう、既に触れたように会場だったホテル側が作成した明細書の存在、その明細書には安倍後援会事務所が費用の一部を補填した内容が示されていることが分かったと伝えている。要するにこの明細書はサービス内容とサービスごとの金額を記して、顧客側にサービスの可否を問う前以って発行する目的の見積書の類いの明細書ではなく、サービス提供後にサービス全体の金額と会費全体の領収金額との収支を合わせるために作成した、ホテル用に残すための明細書なのだろう。

 収支を合わせるためには安倍後援会事務所からの補填を求めなければならなかった。だが、安倍事務所側はサービス開始前にサービス内容とサービスごとの金額を記した見積書の類いの明細書の発行を前以って受けていなければ、全体の会費金額とサービス金額の収支について知ることはできない。いくら補填しなければならないのかも、把握できない。見積もり明細書の類いを受け取らずにホテル側の言いなりに補填することはあり得ない。一般的に言っても、不足金額を補填するについても、明細書の発行は前以って受けていなければならない。

 マスコミは2019年までの5年間にかかったパーティ費用の総額が2000万円を超え、このうち少なくとも800万円以上を安倍後援会事務所側が補填したことを示す領収書や明細書を会場のホテル側が作成していたことが明らかになっていると伝えている。

 辻元清美は安倍晋三のいつもどおりの答弁を聞いて、パーティ会場となった全日空ホテルに対して当該ホテルが3回開いた(他はホテルニューオータニ4回)、安倍晋三の「桜を見る会」前夜の後援会事務所パーティーについて見積書や請求明細書を主催者側に発行しないケースがあったのか等、4点の質問を行い、全日空ホテル側から得た文書での「回答」を示した。4点の回答全てが安倍晋三の国会答弁を否定することになる「ございません」となっている。

 対して安倍晋三は明細書に関してはあくまでも「頂いていない。安倍事務所との間でどうなっていたかということについてお問合せを頂きたい」と答弁している。要するに一般的には明細書は発行するだろうが、安倍後援会事務所との取り決めでは明細書は発行しないことになっているという意味を取ることになる。

 安倍晋三が5千円と前以って決められているパーティ会費の領収書発行に関してはパーティ会場入り口で来場者ごとに手書きで金額と摘要と日付と担当者の名前を書いて、その場で手渡していると国会答弁していることに関連して全日空ホテル側に問い合わせた回答が「そういったことはございません」となっていることをぶっつけると、安倍晋三はやはり「私の事務所で開いたものということでおっしゃっているんでしょうか」と、他の一般のパーテイと安倍後援会事務所が主催するパーティとでは違うという論理で安倍後援会事務所式の領収書の発行を正当化している。

 安倍晋三は質疑の途中で「今、辻元委員から御質問を頂きましたから、全日空側にも我々も確かめさせて頂きたい」と、どちらの言い分に正当性があるか、確認を申し出た。辻元清美は少ししてから、「先程総理は確認してみるとおっしゃいましたね。そうしましたら、午後の委員会までに確認をしていただきたい。そして引き続き、同僚議員にこの点について明確な御答弁をいただきたい」と、時間を区切った確認を要求している。

 午後に質問に立った立憲民主党の小川淳也が確認の中身を問い質している。

 安倍晋三「私の事務所が全日空ホテルに確認したところ、辻元議員にはあくまで一般論でお答えしたものであり、個別の案件については営業の秘密に関わるため、回答には含まれていないとのことであります」

 確かに辻元清美は、〈以下、2013年以降の7年間に貴ホテルで開かれたパーティー・宴席についてお伺いします。〉と尋ねていて、「桜を見る会」前夜の安倍後援会事務所パーティーと名指ししていないから、安倍晋三の論は成り立つ。だからと言って、「桜を見る会」前夜の安倍後援会事務所パーティーが「個別の案件」であって、「営業の秘密に関わる」とするのは安倍後援会事務所と全日空ホテルが何か特別な、表沙汰にはできない何かの取り決めがあったことを暗に認めることになるが、物的証拠があるわけではない。但し今回、マスコミが物的証拠があることを伝え始めた。

 一般的であることから外れた、営業の秘密に関わる理由から発行しない明細書とは何を意味するのだろうか。明細書とはモノやサービスを含めた売り主から顧客に向けて発行する。例えば売り主側が相場とは異なる非常に安い値段で売りつけた。あるいは顧客側が優越的地位を悪用して安く買い叩いた等が考えられる。公明正大な取引だったなら、営業の秘密として抱えることもなく、隠し立てする必要もない、一般的な方法の明細書の発行で済む。

 安倍晋三側と全日空ホテル側の力関係を考えた場合、全日空ホテル側が安倍晋三側に不当な取引を求めたとは考えにくいから、安倍晋三側が自分たちの秘密を隠すために全日空ホテル側に営業の秘密を装わせたとするのが最も考えやすい道理に思える。

 辻元清美と小川淳也の質問が行われた2020年2月17日当日の23時18分発信の「asahi.com」記事が、小川淳也に対する安倍晋三の答弁について朝日新聞が全日空ホテル側に問い合わせたところ、いわば安倍晋三の答弁通りのことを「申し上げた事実はございません」とメールで回答してきたと伝えている。

 安倍晋三は小川淳也に対して「私がここでこのように答弁するということについては、全日空側も当然了解をしていることでございます」との物言いで、全日空ホテルの安倍事務所側への回答の内容について私がウソをつくはずがないではないかと思わせる答弁までしているが、事実そのとおりなら、ことさら思わせる必要は生じない。

 ところが、自民党幹部が2020年2月18日、党関係者と全日空ホテル側が会談したことを明らかにし、その後、ホテル側は首相答弁について報道機関が質問しても説明しなくなったと、2020年2月19日付「毎日新聞」が伝えている。安倍晋三の国会虚偽答弁疑惑が疑惑から一歩出て、事実と断定された場合は安倍晋三自身が指示してのことか、党関係者が忖度してのことか、全日空ホテル側に圧力をかけて言葉を曲げさせたことになり、このことも問題としなければならない。

 安倍晋三は「個別の案件については営業の秘密に関わるため、回答には含まれていないとのことであります」と答弁しているが、営業の秘密という口実もそうだが、政治上の疑惑が持ち上がると、個人の秘密だとか、個人情報だからとかの口実を設けさえすれば、答弁回避が正当化できて、疑惑の追及を免れる手段としていることは果たして国政が国民の信託の上に成り立っているという憲法上の大原則に反しないだろうか。

 日本国憲法前文は次のように謳っている。〈国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。〉

 「信託」とは、「信用して任せること」を言う。選挙に勝ち、政権を担当することになって、国民側がその国政運営を信託することになったとしても、個々の政治や個々の行政に信託とは異なる場面が生じた場合は信託どおりに戻すことを要求する権利が国民にはあるはずである。なぜなら、政権側には政権を担当している間は国民の信託を貫徹する努力義務を有するはずだからだ。国民の信託を貫徹する政権担当能力はございませんでは国民の信託を受けることは適わない。大体が選挙自体が国民の信託を獲得する前提で行っているはずで、政権を獲得しさえすれば、一つ二つぐらいは国民の信託を裏切る行為があってもいいという道理にはならない。

 当然、このような大原則に基づいて、政権側には政権を担当している間は国民の信託を貫徹する努力義務を有し、努力義務に反して国民の信託を裏切った場合は政権側にはその信託を回復する義務が生じる道理となる。

 だが、多くの場合、個々の政治・個々の行政で国民の信託を裏切ったとしても、それを回復する義務を果たさずに時間の経過による風化を願って逃げの姿勢を演じる。逃げて、風化に頼る手段の多くが「個人に関する情報」を持ち出した答弁回避となって現れている。

 例えば「桜を見る会」の一般招待客の選定基準は「各界に於いて功績・功労のあった方々」とされている。事実そのとおりの選定となっているのかと国会で問い質した場合の安倍晋三や内閣府等の役人の答弁は問い質しに正確に答えない紋切り型となっている。2019年11月8日の参議院予算委員会で日本共産党議員田村智子に対する安倍晋三答弁。

 安倍晋三「『桜を見る会』についてはですね、各界に於いて功績・功労のあった方々をですね、各省庁からの意見等を踏まえ、幅広く招待をしております。招待者については内閣官房及び内閣府に於いて最終的に取り纏めをしているものと承知をしております。

 私は主催者としての挨拶や招待者の接遇は行うのでありますが、招待者の取り纏め等には関与していないわけであります。その上で個々の招待者については招待されたかどうかを含めて個人に関する情報であるため、従来から回答を差し控えさせて頂いているものと承知をしております」

 「個人に関する情報」を持ち出して、一般招待客が実際に選定基準に見合う人物かどうかの判断を妨げておきながら、同時に自分たちの選定を正当化する方便としている。例えば安倍晋三主催の「桜を見る会」が地元山口県から自身の後援会員を多数招いていることから、「桜を見る会」の私物化ではないかとの疑惑が持ち上がっていたとしても、「個人に関する情報」を楯にして疑惑解明に踏み込むのを許さず、結果として国民の信託を蔑ろにする事態を招いている。

 疑惑を掛けられた場合、疑惑を掛けられた当の張本人として、あるいは当の政府として疑惑を疑惑として受け止め、積極的に疑惑解明に手を尽くすことが国民の信託を受け止めることになるはずだが、「個人に関する情報」を使って、疑惑解明にストップを掛け、そのことを以って自己正当化を図ることが国民の信託を受け止めていることになるとしていたなら、トンデモナイ心得違いとなる。

 「個人に関する情報」を方便とした「答弁を差し控えさせて頂きます」の答弁回避は「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」が行政文書の開示義務を規定しているが、「個人に関する情報」のうち、「特定の個人を識別することができるもの」、あるいは「個人の権利利益を害するおそれがあるもの」等は不開示義務となっていることを根拠にしているのだろう。さらに「個人情報の保護に関する法律」が「個人の権利利益を保護することを目的とする」ことを根拠にしているのだろうが、こういったことを根拠とした答弁回避が「説明不十分」と大多数が見る世論調査によって国政は国民の厳粛な信託に基づいているとする大原則を損なっていることも事実である。

 日本学術会議会員の6名任命拒否問題でも、「個人に関する情報」を盛んに持ち出して、任命拒否の理由解明を困難にし、なぜ6人なのかをブラックボックスとした。この件に関するマスコミの世論調査でも、政府の説明は不十分が半数以上を占めていることは国民の信託を毀損している何よりの証拠となる。

 政権が何らかの疑惑を引き起こして国民の信託を損なったとしても、最悪、裏切ったとしても、「個人に関する情報」を持ち出しさえすれば、答弁回避が許され、疑惑を曖昧にすることで自分たちの正当性を打ち立てることができるなら、政治は国民の信託を選挙のときだけ期待をかける便宜的な要素ということになる。

 国民の信託に対する毀損が世論調査となって現れれた場合は「個人に関する情報」に基づいた答弁回避はできないとする何らかの規定、あるいは何らかの法律を制定しないことには政治はいつまでも国民の信託を蔑ろにし、日本国憲法の前文の「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」とする大原則を軽視し続けることになる。

 いわば「個人に関する情報」に基づいた答弁回避に価値を置くのか、「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」とする憲法の大原則に価値を置くのかの問題である。

 また、日本国憲法第4章第62条は「両議院は、各々国政に関する調査を行い、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる」と定めている。この国政調査権も国民の信託を確立しておく大事な方法の一つであろう。政治そのものに、あるいは政治家個人の行為に何らかの疑惑が生じたのに国会が何も手をつけなければ、国会をも国民の信託を失うことになる。

 例え検察や警察の取調べを受けることになっていたとしても、その取調べは刑事訴訟法に基づいた扱いであって、国会自身による国民の信託に基づいた扱いとは異なる。捜査中であることを理由に証人喚問や参考人招致に応じないのは検察や警察の捜査よりも国民の信託という憲法の大原則を下に置くことになる。

 あくまでも国会は国会で国民の信託に応えるためにも、検察や警察の取調べとは別に国政調査権を機能させなければならないということを全国会議員の常識としなければならない。

 以上、政権側の「個人に関する情報」に基づいた答弁回避と国政調査権回避は国民信託への裏切りとなるのではないかということを考えてみた。

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北方領土:安倍晋三がウリにしていた愚にもつかない対プーチン信頼関係と決別した領土返還の新しい模索

2020-11-23 10:55:20 | 政治
 実はこの「領土返還の新しい模索」は2015年11月17日に当ブログ、《安倍晋三はプーチンとの信頼関係構築が四島返還の礎と未だ信じているが、リベラルな政権への移行に期待せよ - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で取り上げたが、いくら安倍晋三がプーチンとの信頼関係をウリにしたとしても、領土返還の可能性がほぼゼロとなった昨今の状況を見ると、改めてプーチンへの信頼は断念して、新しい模索の必要性に迫られているように思える。

 尤も安倍晋三がいくらバカでも、プーチンへの信頼の無効性に既に気づいているはずだ。気づいていながら、プーチンへの信頼を言い立てているのは他に打つ手を見い出すことができないからだろう。打つ手がないままにプーチンとの信頼関係に縋りつかざるを得ない状況に追い詰められていた。

 だからこそ、「領土問題を解決して、平和条約を締結する。この戦後70年以上残されてきた課題を、次の世代に先送りすることなく、私とプーチン大統領の手で必ずや終止符を打つという、その強い意思を大統領と完全に共有いたしました」と首脳会談のたびに同じような言葉を口にしなければならなかった。同じ言葉の繰り返しは交渉が進んでいないことの何よりの証明でしかない。

 当のブログではリベラルな政権への移行に期待するしかないのではないかと書いただけだったが、現在の状況に合わせて、内容的に少し詰めてみることにした。先ずは安倍晋三とプーチンとの北方四島返還交渉を少し振り返ってみる。2016年12月15日に山口県長門市で、翌2月16日の東京で2日続けて行われた日ロ首脳会談後の2月16日「日露共同記者会見」(首相官邸)からプーチンの北方4島の帰属の歴史についての発言を見てみる。

 プーチン「確かに日本は1855年に(日露和親条約によって)『南クリル列島』の諸島を受け取り、ロシア政府及び天皇陛下との合意に従い、プチャーチン提督は最終的にこれらの諸島を日本の管轄下に引き渡しました。なぜなら、それまでロシアは、これらの島々は、ロシア人航海者によって開かれたため、ロシアに帰属していると考えていたからです。

 平和条約を締結するために、ロシアはこれら諸島を引き渡しました。ちょうど50年後、日本はこれでは不十分であると考え、1905年の(日露戦争1904年~1905年)戦争ののちに、これらの軍事行動の結果として、更にサハリンのもう半分、サハリンの北部を最終的に取りました。

 ところで、ポーツマス条約のある条で日本は、この領土からロシア国民をも本国に送還する権利を得ました。彼らは残ることもできたが、日本は、この領土から、サハリンからロシア国民を本国に送還する権利を得ました。更に40年後、1945年の戦争ののち、今度はソ連が、サハリンを自国に取り戻しただけではなく、『南クリル列島』の島々をも取り戻しました」

 プーチンは北方4島はロシア人航海者によって開かれたため、ロシアに帰属していると考えていたが、安政元年に締結された日露和親条約によって日本の領土となったものの、太平洋戦争に於ける日本の1945年の敗戦によってサハリンと南クリル列島を「取り戻した」と言っている。

 要するに元々ロシアのものであるものをロシアが取り戻した。言っている意味は、当然、返還する必要も義務もないが真意となる。安倍晋三にしてもこの真意を理解しただろうが、素直に引っ込むわけにはいかないから、理解しなかったフリをしなければならない。

 日本政府は、日露和親条約は北方4島を千島列島(南クリル列島)に入れてはいない、ロシア側は入れていると両主張は対立しているが、ロシア大統領であり、交渉当事者のプーチンがどう解釈し、ロシア国民がその主張を支持しているか否かが歴史的正当性よりもロシア側にとっての重要な要素となるし、日本側もその影響を受けざるを得ない。

 安倍晋三はプーチンの日露和親条約から日本敗戦までの北方4島の帰属の経緯に関する発言を聞いた途端にプーチンが返還する気がないことに改めて気づいたはずだが、バンザイするわけにはいかず、気づかぬフリを続けたはずだ。この2度の首脳会談に先立って安倍晋三は2016年5月6日にロシアのソチを非公式に訪問してプーチンと首脳会談を行い、8項目の経済協力プランを提案している。領土交渉が停滞していることの打開策として提案した8項目であろう。領土交渉が進展していたなら、経済協力は北方4島に対してではなく、ロシア本土そのものに対しての返還後の課題として話し合わなければならない項目に入るはずだからだ。北方4島そのものに対する経済発展は日本の手によって行われる。
 
 もう一つ重要なことはプーチンが返還後の北方4島に対して日米安保条約がどう影響するのかに触れている点である。

 プーチン「例えばウラジオストクに、その少し北部に2つの大きな海軍基地があり、我々の艦船が太平洋に出て行きますが、我々はこの分野で何が起こるかを理解せねばなりません。しかしこの関連では、日本と米国との間の関係の特別な性格及び米国と日本との間の安全保障条約の枠内における条約上の義務が念頭にありますが、この関係がどのように構築されることになるか、我々は知りません」

 要するに返還した場合の北方4島に日米安保条約がどう影響してくるのかの懸念を示している。但し返還するつもりはないのだから、この懸念は返還は困難とするハードルとして設けたに過ぎないはずだ。なぜなら、返還する意図があるなら、日露和親条約から日本の敗戦の1945年までの歴史を紐解く必要もなく、日米安保条約だけを持ち出せば済むことであるし、持ち出すにしても記者会見の場ではなく、首脳会談の場で持ち出すべき要件でなければならない。

 この長門と東京の2度の日ロ首脳会談の約2年後の2018年11月にシンガポールでプーチンと首脳会談を行い、安倍晋三がプーチンに対して1956年の日ソ共同宣言に沿って返還された場合の歯舞・色丹に日米安保条約に基づく米軍基地設置はないと伝えていたとマスコミが報道している。

 米軍基地設置がメインの返還の障害であるなら、この点についての日本側の対応が表に出た以上、返還交渉に多少なりともの進展があっていいはずだが、何の進展もなかっただけではなく、ロシア側は着々と北方4島の軍備増強を進めている現実は返還が絶望的状況を示すサイン以外の何ものでもない。

 安倍晋三は2018年9月12日、ウラジオストク開催のロシア主催「東方経済フォーラム全体会合」に出席し、「スピーチ」を行っている。一部抜粋。

 安倍晋三「8項目の協力プランの実現を通じて、ロシア住民の生活の質の向上が、皆様にも実感できるようになるのではないでしょうか。ロシアと日本は、今、ロシアの人々に向かって、ひいては世界に対して、確かな証拠を示しつつあります。

 ロシアと日本が力を合わせるとき、ロシアの人々は健康になるのだというエビデンスです。ロシアの都市は快適になります。ロシアの中小企業はぐっと効率を良くします。ロシアの地下資源は、日本との協力によってなお一層効率よく世界市場に届きます。ここウラジオストクを始め、極東各地は、日露の協力によって、ヒト、モノ、資金が集まるゲートウェーになります。デジタル・ロシアの夢は、なお一層、早く果実を結ぶという、そんな証拠の数々を、今正に、日本とロシアは生み出しつつあります」

 安倍晋三はロシアを大統領として治めているプーチンを目の前にしてロシア国民の生活もロシアの都市も、ロシアの中小企業も、より良い状態に導き得るのは日本の協力があってこそだと日本の協力の全能性を突きつけた。要するにロシア自身の手によるロシア発展の力を相当に低く見たのである。事実そのとおりであったとしても、ロシアの国民生活の質と規模の向上にしても、都市事業にしても、中小企業の活性化にしても、どこの国のどのような協力を得たとしても、その協力をどう活かして、目的をどう達成するすのかの最終的主導者はプーチンであって、安倍晋三がその主導を差し置いて、日本の協力がロシア国家の運営に直接的に影響するかのように言う態度は余りにも僭越的である。

 大勢の人間がいるところで、「この男が生活していけるのは俺がカネを出してやっているからだ」と言うようなものだろう。言われた側の男は隠しおいてほしい事実を曝け出されたのだから、カネを出して貰っているという恥の上に公表される恥をかかされたという思いを抱いたとしても不思議はない。

 ロシアの地下資源にしても、日本の協力を取り付けて効率よく世界市場に届けるのはロシア自身の役目であり、協力はあくまでも協力の立場に置いてこそ、相手国に対する対等な立場からの敬意の表明となる。ところが、安倍晋三は自らの立場を弁えずに、「ロシアの地下資源は、日本との協力によってなお一層効率よく世界市場に届きます」と日本の協力なしではそうできないかのようにロシアの力を過小評価した。

 悪いことに中国の習近平国家主席も列席していた。その場でロシアの力を低く見られたのだから、プーチンは「何様だ」とカチンときたに違いない。スピーチはプーチン、安倍晋三、習近平の順に行われたあと、司会者の求めに応じてプーチンが再び発言したと言う。

 プーチン(戦後70年以上、日ロ間で北方領土問題が解決できずにいることに触れた上で)「今思いついた。まず平和条約を締結しよう。今すぐにとは言わないが、ことしの年末までに。いかなる前提条件も付けずに。

 (会場から拍手)拍手をお願いしたわけではないが、支持してくれてありがとう。その後、この平和条約をもとに、友人として、すべての係争中の問題について話し合いを続けよう。そうすれば70年間、克服できていない、あらゆる問題の解決がたやすくなるだろう」

 この会話自体も首脳会談の場で提案すべき話題であって、場以外で口にすべきものではないが、そんな偉そうな口を叩くならと、挑戦する気持ちで叩きつけてしまったのだろう。先ずは平和条約を締結してから、締結のもと、日本の協力を確かなものにしてくれと迫った。締結できたなら、領土問題抜きの平和条約締結となって、ロシア側の思惑通りにもなる。

 2019年1月16日にロシア外相ラブロフが記者会見で「日露関係は国際関係でパートナーと呼ぶには程遠い」とか、前々から言っていたことであるものの、「日本は第2次世界大戦の結果を認めない唯一の国」だと改めて批判したりしたのは6日後の2019年1月22日に安倍晋三とプーチンとのモスクワでの25回目首脳会談を控えていたことと考え合わせると、単なる牽制ではなく、「東方経済フォーラム全体会合」での安倍晋三のスピーチに対する当てつけと考えると、一応の整合性を取ることができる。

 同じ1月16日にロシア大統領府補佐官のウシャコフが国営メディアに対し、「平和条約締結のプロセスで、両国関係を新たなレベルに引き上げ、真の信頼とパートナーシップを形成しなければならない。これらの島々はロシアの領土であり、誰かに譲ることはない」と発言したことも従来からの領土返還抜きの平和条約締結を求めたものであったとしても、やはり首脳会談を控えての発言である以上、一種の最後通告の形を取っていることになって、安倍晋三のスピーチに対する当てつけだと考えることもできる。

 何よりも両者の発言がプーチンの意思に添った情報発信(特にロシアに於いては大統領の意思に沿わない発言をするはずはない)であることを考えると、当てつけであることがより確かな証拠とし得る。

 プーチンは返還する気もないのに信頼関係を打ち出してくる安倍晋三を軽蔑していたはずだ。元ソ連のスパイ組織であるKGB出身のプーチンにとって信頼はプーチンが考える国益という実利から比較した場合、遥かに低く価値づけていたはずだからだ。要するに実利に結びつかない信頼は価値はないと見ているはずだ。

 その軽蔑は安倍晋三がロシア政策の当事者でもないのに日本の協力の全能性を突きつけ、ロシア自身の手によるロシア発展の力を相当に低く見たのだから、その瞬間に決定的な形を取ったことが予想できる。

 そして安倍晋三が長年言い立ててきたプーチンとの信頼関係が何の役にも立たないことがはっきりとした形となって現れた。ロシア憲法の改正である。2020年7月1日投開票で、投票率68%、賛成78%、反対21%。マスコミ報道を見てみると、次のような改正内容となっている。

 先ず第一に大統領の任期である。任期6年2期までは現憲法と同じだが、改正憲法前の任期をリセットできて、ゼロからスタート可能の任期6年2期までとなっているという。もしプーチンが立候補すれば、現憲法下での2期までが御破算となって、2期16年延長も可能となる。プーチンが憲法改正を図って賛成78%も獲得したのだから、ロシア国民のプーチンに対する信任度は現在のところ高いと見なければならない。可能性としてはプーチンは最長で2期12年、2036年まで続投し得ることになる。

 日本にとって誰が見ても問題となるのは改正憲法が「領土割譲の禁止」を明記している点であろう。現憲法通りならプーチンの2024年退任後に領土問題の進展が期待可能となるが、プーチンが立候補しなくても、新憲法によって北方4島返還は領土割譲と看做されて、憲法違反の可能性が出てくる。

 但し「隣国との国境画定」は禁止条項から除外されているそうで、その点、日ロ交渉の余地は残ると見る向きはあるが、ウクライナからクリミアを奪取、ロシアに併合してプーチン自身と多くのロシア国民に対してかつての領土の広大さと強大な国家権力に依拠させたロシア人の優越性を大きな要素とした大ロシア主義を満足させ、当時のプーチンの支持率を89%に押し上げた事実の同一線上に置いた、独立した旧ソ連邦自治共和国内のロシア系の住民が多い自治州のロシア併合の可能性に期待した「隣国との国境画定」の禁止条項からの除外が目的なのは否定できない。要するに東に目を向けたものではなく、西に目を向けた「隣国との国境画定」の容認を意図した条項ということが大いにあり得る。

 尤も北方4島は日本の領土だから、返還しても、新憲法が禁止する領土割譲には当たらないとの日本側の主張も成り立つが、この主張はロシア側の北方4島はロシアの領土だとする主張の前には、少なくともプーチンが大統領でいる間は力を手に入れることは難しい。少なくともプーチンが最大限続投した場合の2036年まで領土交渉は膠着することになり、何らかのアクシデントから2036年以前に退陣したとしても、プーチンの息がかかった後継者であった場合、状況は変わらない。野党は今回の憲法改正はプーチンが終身大統領を意図したものだと批判しているそうだが、事実とすると、北方四島返還に関しては最悪の状況となる。

 プーチンはKGB出身者らしく、自身が絶対的権力を持って、強権的に国家・国民を統合する専制政治志向の政治家である。2013年5月1日のメーデーの日に旧ソ連時代の「社会主義労働の英雄」勲章を「労働の英雄」勲章と名前を変えて復活させ、「ロシアの歴史と伝統、道徳観を高め、国民を纏める」と宣言している。当然のこと、この宣言にある「ロシアの歴史と伝統、道徳観」は旧ソ連が備えていた各価値観であり、同時に他国の「歴史と伝統、道徳観」を凌ぐ優越性をそこに見い出していることになる。

 このような優越性はロシア民族に人種的な偉大性を持たせた大ロシア主義に無関係ではない。そして大ロシア主義を背景にして国家指導者の立場に立つと、大ロシア主義に添うために自分は絶対だとする自己絶対性に陥りやすい。自己絶対性は次の段階として自分は優れていて素晴らしく、特別で偉大な存在だと思い込む自己愛性パーソナリティ障害に進む。

 その現れの一つが2015年に国防省が創設を発表、2016年に発足させた8歳~18歳の少年・少女20万人以上を参加させた青少年軍「ユナルミヤ」であろう。2019年2月時点で31万6000人に膨れ上がったとの報道があるが、思想教育を通してプーチン及び国家に忠誠な愛国青少年を育成することでプーチン自身を絶対的存在に祭り上げる仕掛けなくして、このような組織は思いつかない。絶対的存在に祭り上げられることによってプーチンは自己絶対性を確立でき、自己愛性パーソナリティ障害の極地に到達可能となる。

 マスコミ規制もプーチンの自己絶対化の現れの一つであろう。自己を絶対とする余り、マスコミの自己への批判を許さない心の狭さ・偏狭さが必然的に招くことになる批判潰し・マスコミ規制である。安倍晋三も陰に陽にマスコミを牽制し、報道の自由を脅かしてきた。プーチンが国内メディアに対する規制を強めている事実は特に自己に批判的な反体制指導者は反体制メディアを標的としている。

 国家機密を流出させた等の国家反逆罪の冤罪でしかない容疑をデッチ上げて、起訴し、有罪にして刑務所に送り込んで、批判の声を社会に届かないようにする。刑務所に送り込むよりも醜悪な手段は反体制指導者の存在自体を抹殺して、その批判の口封じを狙うことであろう。

 2020年8月20日には飛行機で移動中のプーチン政権批判の急先鋒であるロシア野党勢力の指導者が体調の異変を訴え、病院に運ばれ、意識不明の重体に陥った。支持者たちがプーチンの手がいつ伸びるか分からない国内治療よりも国外治療を望み、ドイツのメルケル首相が応じて、ドイツに移送されることになった。ドイツの病院では毒物使用の可能性を公表した。

 退院は1カ月後の2020年9月22日。ドイツ政府は独仏に加えスウェーデンで実施した検査で旧ソビエトが開発した神経剤ノビチョクが使われた証拠が得られたと指摘している。

 マスコミ報道から調べてみると、この神経剤ノビチョクは2018年にイギリス南部でロシアの元スパイだったスクリパル氏とその娘が意識不明の状態で見つかり、その後回復した事件でイギリスの警察の公表によって使われていたことが判明している。

この事件と2000年に英国に亡命し、プーチン政権を批判していた元ロシア情報機関員アレクサンドル・リトビネンコ氏が2006年にロンドンのホテルで元ロシア情報機関員と会った際、お茶に放射性物質ポロニウムを盛られ、3週間後に死亡した事件も、反体制指導者の口封じと同種の不都合な秘密が口から漏れるのを防御する手段であったはずだ。英公聴会は2016年1月、「プーチン大統領が恐らく暗殺を承認した」と結論付ける調査報告書を公表している。

 確定はできなかったものの、国家のために動いた元スパイや国家を批判の対象としている反体制指導者、同じく国家を批判の対象としている反体制マスコミ等を毒殺を以ってその口封じを働く主体はそこに国家の影を見ないわけにはいかないだけではなく、以上の存在が全てプーチンの自己絶対性確立の阻害要因そのものであることを考えないわけにはいかない。

 いずれにしても憲法改正によってプーチンは2036年まで大統領の椅子に居座る可能性が出てきたことと、改正憲法が「領土割譲の禁止」を規定している以上、プーチンに領土交渉の進展を期待するのは現実的ではなくなった。では、何を現実的とするか。プーチンを政治の舞台から退場させる力は現在なくても、その意欲を持っているプーチンの強権的専制政治への反体制を掲げる民主派勢力がロシアの政治の舞台に躍り出て来ることに期待をかけ、資金等を提供して、その実現に力を貸した方が北方領土返還はより現実的にならないだろうか。

 反体制派勢力がロシア国内にとどまった状態で活動資金等を提供した場合、国外勢力と通じた等の罪をデッチ上げて、反体制運動を封じ込めないとも限らないから、彼らのあくまでも非暴力主義を掲げた民主的な亡命政府を日本国内に設立するのを許してフル活動させ、国内の民主派と呼応させてプーチンを選挙という手段を使って退陣させ、その勢力を一掃することを狙った方が領土返還の可能性は出てくる。

 プーチンは選挙に不利と見たら、票の操作は平気でするはずだ。それを防ぐためには国際的な選挙監視団を送れるよう、プーチンに圧力をかけなければならない。
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菅義偉の国民をたぶらかすタチの悪い誤魔化しを踏み台にした日本学術会議会員の「任命に当たっての考え方の擦り合せ」

2020-11-16 09:56:39 | 政治
 日本学術会議会員は日本学術会議法第7条2の〈会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。〉となっていて、第17条は、〈日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする。〉と規定している。

 この内閣府令とは「日本学術会議会員候補者の内閣総理大臣への推薦手続を定める内閣府令」のことで、〈日本学術会議会員候補者の内閣総理大臣への推薦は、任命を要する期日の30日前までに、当該候補者の氏名及び当該候補者が補欠の会員候補者である場合にはその任期を記載した書類を提出することにより行うものとする。〉としか規定していない。

 以上のことを前提に菅義偉の今回の日本学術会議会員6名任命拒否に関わる国会答弁に整合性が見い出し得るかどうかを探ってみる。

 2020年11月10日衆議院本会議

 ※予防接種法及び検疫法の一部を改正する法律案に関する趣旨説明と質疑 

 中島克仁「冒頭、菅総理に対する国民からの信頼を致命的に揺るがした日本学術会議問題について何点か菅総理にお聞きを致します。11月5日の参議院予算委員会で推薦名簿を提出する前に一定の調整が働かなかった、こう総理は答弁しておりますが、なぜ事前調整が働かなかったのですか。

 この調整は政府側から働きかけたのに学術会議側に断られたのでしょうか。それとも学術会議からの働きかけを政府が断ったのですか。総理、明確にお答えください。

 そもそも会員の推薦権は日本学術会議法第17条で日本学術会議の専権事項でありますが、この推薦権に内閣府が校正(?)を行うことができる法的根拠をお示しください。示せない場合は事前調整自体、明らかな違法行為ではありませんか。

 また6人拒否の理由は安全保障政策などを巡る政府方針への反対運動を先導する事態を懸念したからだと複数の政府関係者が明らかにしたとの報道がありますが、事実か否かお答えください。

 現在、学術会議は6名欠員の状態です。学術会議に改めて推薦要請する意向はありますか。総理にイエスかノーかで明確にお答えください。

 また政府の任命拒否による補充選挙を行う手続き法は存在しません。今後どうやって6名を補充しようとしているのか、ご説明ください。

 6名拒否について総理に説明し、そのプロセスの当事者である杉田官房副長官を国会で説明させて困る理由があるのなら、総理、お述べください。ないのなら、ないとはっきり仰ってください。立憲民主党は改めて杉田官房副長官の国会出席を求めます」

 菅義偉「日本学術会議の推薦についてお尋ねがありました。ご指摘の参議院予算委員会に於ける答弁はこれまで日本学術会議から推薦を提出される前に様々な意見交換が日本学術会議議長との間で行われ、このような意見交換を通じて任命に当たっての考え方の擦り合せ方について一定の考え方を申し上げ、その上で今回の改選に当たっても、この前と同様に推薦メモを提出される前に意見交換が日本学術会議議長、会長との間で行われたものの、その中で任命の考え方の擦り合せまでに至らなかったことを表明するものです。

 お尋ねの点を含め、その詳細は繰り返し申し上げているとおり、人事に関することであり、お答えを差し控えさせて頂きます。

 会員の経験・検討についてお尋ねがありました。日本学術会議法では会員の候補者の推薦は日本学術会議が行うこととされています。推薦名簿提出前に様々な意見交換が日本学術会議会長との間で行われ、このような意見交換について任命の考え方の擦り合せに至ったとしても、またそのための候補者の推薦の手続きについては日本学術会議に於いて必要に応じて定めるべきものと考えております。

 また杉田官房副長官の国会の出席については今回の任命に当たって私の日本学術会議に対する懸念や任命の考え方は杉田副長官と共有してきており、これまで国会でご質問があったそれぞれの点については私や官房長官から答弁しているとおりです」

 菅義偉は日本学術会議会員の任命について前回の2017年の半数改選の際も、今回の半数改選の際も、「任命に当たっての考え方の擦り合せ」を日本学術会議から推薦(名簿)が提出される前に行ったと言っている。

 このことの法的正当性は別にして、日本学術会議側の推薦に基づかない任命を行う場合は一般的には推薦名簿の提出を受けてから、推薦名簿の中の何人かの会員に対して推薦に否定的な考え方を持って擦り合せに臨み、政府側の任命に当たっての考え方を伝えて、日本学術会議側と任命可否の検討(擦り合せ)を行うのが通常の方法であろう。

 なぜなら、推薦名簿の提出を受けて、可否の判断をつけておき、推薦を受けた会員の全員に対して肯定的なら、擦り合せの必要性は生じなく、時間と手間の節約になるし、推薦を受けた何人かの任命に否定的なら、それに絞った擦り合せが可能となって、同じように時間と手間の節約となる。

 ところが、個々の推薦会員に対する任命の是非ついて擦り合せたのではなく、政府側が望ましいと考える任命の大枠を示す擦り合せだけだったから、日本学術会議から推薦名簿の提出を受ける前に行うことができたという道理となる。

 擦り合せの結果、前回2017年の会員改選時は政府の望み通りの任命に当たっての考え方に添った任命ができたが、今回は政府側が求めた「任命の考え方の擦り合せまでに至らなかった」ために政府の意に反する6名の任命拒否と相成り、この6名任命拒否は同時に日本学術会議の意に反する結果となった。

 この両者の意に反する結果という経緯の構造は政府側が擦り合せを行う際に政府側の任命に当たっての考え方を日本学術会議が受け入れて、その考え方に添うことを望む圧力と受容の関係の内在を示すことになる。簡単に言うと、権力への配慮、忖度を求めた。

 2017年の改選時は圧力と受容の関係が機能して、日本学術会議側が政府に配慮、忖度した結果、「任命の考え方の擦り合せまでに至った」と言うことになる。一方で2016年の補充人事の際は首相官邸側が候補者の任命に選考初期段階で難色を示していて、正式な候補推薦には至らず、欠員が生じたままになっていたことからすると、日本学術会議側が政府に配慮も忖度もせず、圧力と受容の関係が機能しないままに終わったことになる。

 日本学術会議会員は再任不可の6年任期で、3年毎に半数ずつが改選され、会長に関しては再任可能だが、3年任命となっていて、ここ3代、会長が入れ替わっている。2017年に日本学術会議側の推薦通りの任命が行われて、今回、2020年は推薦どおりにいかずに6名が任命拒否されたということは、つまり政府側の任命に当たっての考え方の擦り合せが2017年はうまくいき、今回はうまくいかなかったということになって、会長によってか、その主導次第で圧力と受容の関係が、即ち権力への配慮・忖度が機能する場合と機能しない場合が出てきた可能性が考えられる。

 と言うことは、会員任命が日本学術会議側からの推薦から始まるのではなく、政府側が任命に当たっての考え方を、つまり任命の大枠を擦り合せてから日本学術会議側が推薦に着手するという手順を取ることを意味することになる。

 このことは既に紹介した11月10日衆議院本会議での菅義偉の答弁にも現れている。

 「任命の考え方の擦り合せに至ったとしても、またそのための候補者の推薦の手続きについては日本学術会議に於いて必要に応じて定めるべきものと考えております」

 菅義偉は政府と日本学術会議側との「任命の考え方の擦り合せ」は推薦名簿の提出前に行われると答弁していた。当然、「擦り合せ」に成功しても、成功しなくても、「擦り合せ」後に日本学術会議側は「候補者の推薦の手続き」――推薦名簿の作成に着手することになるというプロセスを踏むことを伝えた発言となる。

 「擦り合せ」後の推薦が政府側の任命の大枠に合致している場合は、その推薦どおりに任命する、合致していない場合は任命拒否という経緯を取るなら、そのような経緯は日本学術会議法の一部を改正する法律が1984年(昭和59年)5月30日に施行されて、会員の任命が選挙制から推薦制に変わることになった当時から取っていたのだろうか。

 この法律案が国会で議論されていた1983年(昭和58年)当時はときの総理大臣中曽根康弘も、政府参考人も、「形式的任命に過ぎない」と答弁していたのだから、その答弁の舌の根が乾かないうちに推薦通りの任命では政府側が望む任命に当たっての考え方とは異なる人物が入っている、政府側の任命に添うよう、擦り合せをしてから、推薦名簿の作成に着手して欲しいとある種の強制をし、その強制に忖度を求めたとは考えにくい。

 だが、2020年10月・11月の政府側の国会答弁を見ると、学術会議法が改正・施行された1984年(昭和59年)5月30日当時から擦り合せが行われてことを窺わせる。

 2020年10月 7日衆議院内閣委員会閉会中審査。

 三ッ林裕巳(内閣府副大臣)「憲法第15条の規定により明らかにされているとおり、公務員の選定・罷免権が国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者たる内閣総理大臣が推薦のとおりに任命しなければならないというわけではなく、日本学術会議会員が任命制になったときから、このような考え方を前提としております」

 大塚幸寛(内閣府大臣官房長)「お答え申し上げます。あの、今回任命につきましては任命権者である内閣総理大臣がこの法律に基づきまして特別職国家公務員として会員としたのでございます。憲法第15条第1項を引用させて頂きますが、これはやはり公務員の選定・罷免軒が国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者である内閣総理大臣が、推薦どおりに任命しなければならないということはないということでございまして、これは会員が任命制になったときかこのような考え方を前提としておりまして、考え方を変えたということはございません」

 2020年10月8日の参議院内閣委員会閉会中審査。

 木村陽一(内閣法制局第一部長)「昭和58年の対象になっております日本学術会議法の一部改正の立案の以前から、政府と致しましてはこれも学問の自由や大学の自治に関係する文部大臣による国立学大学学長等の人事に関してで憲法第15条第1項の規定に明らかにされている公務員の選定・罷免権は国民にあるという国民主権の原理との調整の必要性については累次答弁をしてきております。

 このような国民主権の原理を踏まえますと、内閣が国民及び国会に対して責任を負えない場合にまで申し出のとおりに必ずしも任命しなければならない義務があるわけではないと一貫して考えてきております。

 従いまして昭和58年の日本学術会議法の一部改正に於きましてもこれと同様の考え方に基づいて立案が成されているというふうに考えているところでございます」

2020年10月29日衆院本会議。共産党志位委員長の代表質問に答えて。 

 菅義偉「過去の政府の答弁についてお尋ねがありました。過去の答弁は承知しておりますが、先程申し上げたとおり、憲法第15条第1項との関係で日本学術会議の会員についても必ず推薦どおりに任命しなければならないわけではないという点については内閣府法制局の了解を得た政府としての一貫した考え方であり、日本学術会議法の解釈変更ではないのは国会において内閣法制局からも答弁しております」

 菅義偉が「必ず推薦どおりに任命しなければならないわけではないという点については内閣府法制局の了解を得た政府としての一貫した考え方である」と言い、「日本学術会議法の解釈変更ではない」と断っているのは政府と日本学術会議側との任命に当たっての考え方の擦り合せを前提として、擦り合せに応じるか応じないかで任命の状況が変わる、推薦どおりではないという任命形式でなければ、菅義偉の答弁自体が終始一貫しない矛盾を抱えることになる。

 2020年11月5日の参院予算委員会 

 菅義偉「日本学術会議法の推薦に基づく会員任命については憲法第15条第1項に基づけば、推薦された方々を必ずそのまま任命しなければならないということではないという点については内閣法制局の了解を得た政府の一貫した考え方であります」

 菅義偉が「内閣法制局の了解を得た政府の一貫した考え方であります」と答弁していることは内閣法制局第一部長の木村陽一の答弁に代表させての指摘であろう。

 内閣府副大臣の三ッ林裕巳も、内閣府大臣官房長の大塚幸寛にしても、内閣法制局第一部長の木村陽一にしても、「日本学術会議会員が任命制になったときから」、つまり改正日本学術会議法が1984年(昭和59年)5月30日に施行された当時から、推薦のとおりの任命ではなかったと同一歩調の証言を行っている。

 菅義偉にしても、「必ずそのまま任命しなければならないということではない」としている点で、当然と言えば、当然だが、同一歩調となっている。

 この「推薦のとおりに任命しなければならないというわけではない」としていることは日本学術会議法の第7条2〈会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。〉と、第17条〈日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする。〉の解釈から外れていることから、菅義偉が口にしている、政府側と日本学術会議側の「任命に当たっての考え方の擦り合せ」を経た任命形式を前提としていることになる。

 そしてこのような任命形式は「日本学術会議会員が任命制になったときから、このような考え方を前提としていた」と解釈しなければ、菅義偉の本会議での答弁だけではなく、政府側証人の答弁と真っ向から矛盾することになる。

 要するにこれまで日本学術会議側の推薦どおりになっていたのは裏で擦り合せを行っていたことのあくまでも結果値であって、でなければ、菅義偉の2020年11月10日衆議院本会議で日本学術会議側と「任命に当たっての考え方の擦り合せ」を行ったものの、2017年の前回とは違って、今回は「任命の考え方の擦り合せまでに至らなかった」の発言は出てこないし、三ッ林裕巳や大塚幸寛、木村陽一等の「日本学術会議会員が任命制になったときから、推薦どおりに任命しなければならないという考え方を前提としていた」といった趣旨の答弁はできないし、結果値であるとすることによって衆議院本会議での菅義偉の答弁と、閉会中審査での政府側証人の答弁とが整合性を取ることができる。

 但しこの整合性は次の文章によって崩れ去ることになる。要点のみを摘出する。

 「日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について」(内閣府日本学術会議事務局/2018年11月13日)

 3. 日学法第7条第2項に基づく内閣総理大臣の任命権の在り方について

 内閣総理大臣による会員の任命は、推薦された者についてなされねばならず、推薦されていない者を任命することはできない。その上で、日学法第17条による推薦のとおりに内閣総理大臣が会員を任命すべき義務があるかどうかについて検討する。

 (1) まず、
 ①日本学術会議が内閣総理大臣の所轄の下の国の行政機関であることから、憲法第65条及び第72条の規定の趣旨に照らし、内閣総理大臣は、会員の任命権者として、日本学術会議に人事を通じて一定の監督権を行使することができるものであると考えられること

 ②憲法第15条第1項の規定に明らかにされているところの公務員の終局的任命権が国民にあるという国民主権の原理からすれば、任命権者たる内閣総理大臣が、会員の任命について国民及び国会に対して責任を負えるものでなければならないことからすれば、内閣総理大臣に、日学法第17 条による推薦のとおりに任命すべき義務があるとまでは言えないと考えられる。

 政府参考人たち及び菅義偉の国会答弁、あるいは加藤勝信の記者会見発言はこの取り決めに添って行われていたことになる。

 〈3. 日学法第7条第2項に基づく内閣総理大臣の任命権の在り方について〉で言っていることを考えてみる。

 〈内閣総理大臣による会員の任命は、推薦された者についてなされねばならず、推薦されていない者を任命することはできない。その上で、日学法第17条による推薦のとおりに内閣総理大臣が会員を任命すべき義務があるかどうかについて検討する。〉

 要するに〈内閣総理大臣による会員の任命は、推薦された者についてなされねばならず、推薦されていない者を任命することはできない。〉としている決まり事を決まり事どおりにしなければならない〈義務があるかどうかについて検討する。〉ことになったという文意を取る。

 「検討」開始時期はこの文書を報告書として整えた2018年11月13日以前の近辺である。そして②の、〈内閣総理大臣に、日学法第17 条による推薦のとおりに任命すべき義務があるとまでは言えないと考えられる。〉の結論が纏められたのは2018年11月13日と言うことなら、2017年10月の改選時に於いては〈内閣総理大臣による会員の任命は、推薦された者についてなされねばならず、推薦されていない者を任命することはできない。〉のルールに縛られていたことになる。

 だが、菅義偉は2017年10月の改選についても、日本学術会議側と「任命に当たっての考え方の擦り合せ」を行い、そ擦り合せに至ったのちに推薦名簿を受け取ったとする国会答弁を行っていることは、上記縛りと矛盾する。もし実際に行っていたとしたら、この文書で決めたルールにも反するし、日学法にも違反することになって、国会で追及しなければならない問題点となる。

 もし「任命に当たっての考え方の擦り合せ」を行い得るとしたら、2018年11月13日以降の会員改正時に於いてであって、2020年10月の今回の改選が最初の対象となる。だが、「擦り合せ」を行ったものの、合意に至らずに、6名を人名拒否した。

 菅義偉がこの「擦り合せ」にいくら正当性を言い立てたとしても、内閣府副大臣の三ッ林裕巳や内閣府大臣官房長の大塚幸寛、内閣法制局第一部長の木村陽一が憲法第15条第1項を根拠に「任命権者たる内閣総理大臣が推薦のとおりに任命しなければならないというわけではなく、日本学術会議会員が任命制になったときから、このような考え方を前提としております」といった趣旨で発言していることは2018年11月13内閣府日本学術会議事務局が纏めた文書、「日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について」で決めたルールを頭から無視しているだけではなく、日本学術会議会員が選挙制から任命制に変更することになった1983年年当時の政府参考人や中曽根康弘の国会答弁を自分たちの有利になるよう改竄したタチの悪い悪用
しか窺うことができない。

 タチが悪いと言えば、2018年11月13日作成の内閣府日本学術会議事務局の文書が公表されたのは2020年10月6日の「学術会議任命拒否問題」野党合同ヒアリングの場であって、約2年間内部文書扱いにしていた。世間に公表しないそのような扱いで、〈内閣総理大臣に、日学法第17 条による推薦のとおりに任命すべき義務があるとまでは言えないと考えられる。〉を自分たちのルールにして6名任命拒否に出た。

 これ程の国民をたぶらかすタチの悪い誤魔化しはない。例え菅義偉の主張どおりに「任命に当たっての考え方の擦り合せ」が行われていたとしても、国民をたぶらかすタチの悪い誤魔化しを踏み台にしなければ成し得なかった「擦り合せ」であろう。

 菅義偉が「雪深い秋田の農家の長男に生まれた」の庶民性をウリにしているが、とんだ食わせ者の庶民性である。

 6人任命拒否は「任命に当たっての考え方の擦り合せに至らなかった」ことが原因だとしていることは、6人任命拒否は政府側独自の基準で行ったことになる。菅義偉は官房長官時代から懸念を持っていたこととして、「民間出身者や若手が少なく、出身や大学にも偏りが見られる」ことを挙げ、「旧帝国大学と言われる7つの国立大学に所属する会員が45%を占めています。それ以外の173の国立大学・公立大学を合わせて17%です。また615ある私立大学は24%にとどまっております。また産業界に所属する会員や49歳以下の会員はそれぞれ3%に過ぎません」と会員構成の偏り・多様性の欠如を国会答弁していたが、このことを基準とした任命拒否となっているのかどうか、その整合性を厳格に問いたださなければならない。

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日本学術会議6名任命拒否の説明責任不在は「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」によって正当化され得るのか

2020-11-09 07:10:32 | 政治
 日本学術会議会員は日本学術会議の推薦に基づいて内閣総理大臣が任命すると日本学術会議法に規定されている。要するに推薦どおりに任命される運びとなっていて、それが従来からの慣行になっていた。ところが今回、その慣行が破られ、105人の推薦に対して6名が任命拒否、99人のみが任命ということになった。6名は安倍晋三成立の特定秘密保護法、安全保障関連法、改正組織犯罪処罰法等の国家主義的な強権政策が色濃く突出した政策に反対し、加えて安倍式9条改憲反対を主張している学者たちであったから、菅義偉発動による拒否のそこに何らかの政治的意図を多くの国民が見ることになった。

 対して菅政権は憲法第15条第1項の規定を持ち出して、日本学術会議の推薦どおりに任命しなければならないというわけではないを任命拒否の正当理論とした。

 2020年10月7日の衆議院内閣委員会閉会中審査での立憲民主党今井雅人への答弁から。

 大塚幸寛(内閣府大臣官房長)「お答え申し上げます。あの、今回任命につきましては任命権者である内閣総理大臣がこの法律(日本学術会議法)に基づきまして特別職国家公務員として会員としたのでございます。憲法第15条第1項を引用させて頂きますが、これはやはり公務員の選定・罷免権が国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者である内閣総理大臣が、推薦どおりに任命しなければならないということはないということでございまして、これは会員が任命制になったときからこのような考え方を前提としておりまして、考え方を変えたということはございません」

 三ッ林裕巳(内閣府副大臣)「今回の任命につきましては任命権者である内閣総理大臣が日本学術会議法に基づいて特別職の国家公務員として会員を任命したということでことであります。憲法第15条第1項に明らかにされているとおり公務員の選定・罷免権は国民固有の権利であるという点からすれば、任命権者である内閣総理大臣が推薦とおりに任命しなければならないわけではありません。

 日本学術会議が任命制になったときからこのような考え方を前提としており、考え方を替えたということではありません」

 2020年10月8日の参議院内閣委員会閉会中審査。

 木村陽一(内閣法制局第一部長)「昭和58年の対象になっております日本学術会議法の一部改正の立案の以前から、政府と致しましてはこれも学問の自由や大学の自治に関係する文部大臣による国立学大学学長等の人事に関してで憲法第15条第1項の規定に明らかにされている公務員の選定・罷免権は国民にあるという国民主権の原理との調整の必要性については累次答弁をしてきております。

 このような国民主権の原理を踏まえますと、内閣が国民及び国会に対して責任を負えない場合にまで申し出のとおりに必ずしも任命しなければならない義務があるわけではないと一貫して考えてきております。

 従いまして昭和58年の日本学術会議法の一部改正に於きましてもこれと同様の考え方に基づいて立案が成されているというふうに考えているところでございます」

 この答弁以降、同様の答弁を菅義偉や官房長官詭弁家の加藤勝信も行っているが、日本学術会員任命拒否が問題になってから憲法第15条第1項の規定を国民主権と関係づけて指摘している内閣法制局第一部長木村陽一のこの答弁を基に言っていることの解釈を試みてみる。

 日本国憲法第3章国民の権利及び義務第15条第1項は「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と規定している。

 つまり憲法第15条第1項が規定しているこの公務員選定・罷免の「国民固有の権利」は国民主権の原理に則っている関係から、「内閣が国民及び国会に対して責任を負えない場合にまで申し出のとおりに必ずしも任命しなければならない義務があるわけではない」と木村陽一は政府側を代表して、任命拒否の正当性を論理づけた。

 と言うことは、日本学術会議会員の任命は任命権者が日本学術会議法で総理大臣と規定されているものの、公務員の選定・罷免は主権者である「国民固有の権利」とされている関係上、国民に代わって内閣総理大臣が会員の選定・罷免の代理行為をするという意味内容を取ることになる。

 代理行為だからこそ、内閣法制局第一部長の木村陽一は内閣総理大臣を国民及び国会に対して任命に関わる責任を負う責任主体だと明示することになった。国民に代わって公務員の選定・罷免を行う代理行為なんだから、内閣総理大臣として国民及び国会に対して責任を負っている以上、責任を負えないような学者まで任命できるわけはないはずだという道理を示した。

 全く以て至極当然な正当性理論となる。

 但し国民及び国会に対して責任を負うことのできる6名任命拒否だとしていることになるから(責任を負えない任命拒否だとすることは決してできない)、事実そのとおりかどうかの説明責任が国民及び国会に対して自動的に発生することになる。
 
 このような解釈から、政府側がこの問題の説明責任を「人事」を理由に答弁を差し控えるのは憲法第15条違反だといったことを日本学術会議の任命拒否を取り上げたこれまでのブログに書いてきた。

 ところが政府側が繰り返す「人事に関することであり、お答えを差し控えます」の答弁を野党側が殆どの場合手を付けずにスルーさせてしまっている追及を見て、「野党は頭の悪い連中ばっかりだな」と思っていたが、2020年11月5日の参院予算委員会で立憲民主の蓮舫に対して官房長官の加藤勝信が人事について非開示を根拠づけている法律を持ち出して、正当性を謀った場面に出食わした。頭の悪いのは野党の連中ではなく、こっちの方だなと気づいた。

 蓮舫も、「人事のところは黒塗りでも結構です。(記録を)出してください」と発言していたから、人事についての答弁差し控えの正当性は野党も認めていて、だから、スルーさせていたのだということになる。

 但しこっちの頭がいくら悪くても、国民主権と憲法第15条第1項の関係から言って、総理大臣による公務員の選定・罷免が国民に代わる代理行為である以上、選定・罷免に関わる説明責任が直接的には国民に対して自動発生しないとするのは憲法第15条第1項そのものを無効にすることになる。何のために公務員の選定・罷免を「国民固有の権利」としているのか。憲法第15条第1項が国民主権に基づいているなら、国民主権そのものをも蔑ろにする。

 加藤勝信が蓮舫との質疑応答の中でどのように非開示を根拠づけているか、その発言を見てみる。蓮舫のムダな質問は削るか、要約した。蓮舫は頭がいい。頭の回転は抜群である。言葉を機関銃のように次々と連射する。一見、鋭く追及しているように見えるが、その機関銃はオモチャで、そこから発射される弾は人を射抜く力はない。服に当たるだけで、痛くも痒くもない程度の効果しかない。

 追及は要所要所取り上げることにする。文飾は当方。

 2020年11月5日の参院予算委員会 立憲民主蓮舫

 蓮舫「菅総理、総理の就任おめでとうございます。冒頭、先ずお伺いしたいのは菅総理は何を成すために総理大臣になられたんですか」

 体裁のいいことをどうとでも答弁できる質問は意味はない。

 菅義偉「私は安倍政権のとき、官房長官をしていました。そして安倍総理が退陣をされる中で先ずはコロナ対策・・・・」

 菅義偉が既に何度でも口にしていることだから、続けて取り上げる価値はなく、端折ることにする。

 蓮舫「やってはいけないことを(総理就任後の)冒頭部分で遣り始めた。それは日本学術会議問題です。『国民のために働く』。国民が最優先でして貰いたいのが学術会議問題ですか」

 最初の質問を学術会議問題を追及する意図で始めたのだから、核心に触れない、ありきたりの答弁で応じることのできる質問は意味はない。事実、そのとおりの答弁となっている。

菅義偉「長年に亘り、私、この問題については懸念を持っていました。そういう中で今回、ちょうど任期の中で、このようなことを発動させて頂いたところでございます」

     ・・・・・・

 蓮舫「国民が求めていますか」

菅義偉「極めて大事なことの一つだと思っています」

 蓮舫「任命問題がこんなに大事(おおごと)になると思っていましたか」

 菅義偉「説明させて頂けると思っていました。分かって頂けると思っていました」

 短い言葉で次々と質問を放つから、一見、有意な追及に見えるが、引き出すことができた答弁は追及自体が本質から外れているから、何の変哲もない内容ばかりとなる。

    ・・・・・・・・

 蓮舫「(日本学術会議による会員の推薦について)優れた研究、または業績がある科学者で会員にふさわしいかどうかの適切な判断は学術会議しか行えないんです。大学に偏りがあるとか、若手とか、その人選要件に総理がなぜ口を出せるんですか」

 菅義偉「日本学術会議法の推薦に基づく会員任命については憲法第15条第1項に基づけば、推薦された方々を必ずそのまま任命しなければならないということではないという点については内閣法制局の了解を得た政府の一貫した考え方であります」

 蓮舫「人選になんで口を出せるんですか」

 菅義偉「10億円の予算を使って活動している政府の機関であり、任命された会員は公務員になりますから、その前提で社会的課題に対して提言などを行うため、専門分野の枠に囚われない広い視野に立ってバランスの取れた活動を確保するために必要ということも言われています。そうしたものについて総理大臣として判断をしたものです」

 同じような質問を繰り返して、殆ど同じような答弁が返ってくる堂々巡りが繰り返されている。

 蓮舫「人選に口を出せる法的根拠を教えて下さい」

 菅義偉「日本学術会議法の会員の任命については日本学術会議からの推薦に基づき内閣総理大臣が任命することとされています。この規定に添って、推薦に基づいて任命権者たる総理大臣として学術会議などに求められる役割などを含めて判断したものです」

 官房長官の加藤が出てきて、早口に原稿を読み上げる。最後のところだけを取り上げる。

 加藤勝信「憲法第15条第1項の規定に掲載されている公務員の終局的な任命権は国民にあるという国民主権の原理から言えば、任命権者である総理大臣が会員の任命について国民及び国会に対して責任を負えるものでなければならないことからすると、内閣総理大臣に日学法第17条による推薦のとおりに任命すべき義務があるとまでは言えないと書いてあるとおりでございます。それに則って対応させて頂いているところでございます」
 
 詭弁家加藤勝信がここで「書いてあるとおりでございます」と言っている文書は2018年11月13日に内閣府日本学術会議事務局が作成した「日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について」を指す。

 2018年11月の時点で政府側が解釈して成り立たせた決まり事だから、内閣府大臣官房長大塚幸寛、その他の政府側参考人が「これは会員が任命制になったときから(日本学術会議法一部改正の1983年〈昭和58年〉を指す)このような考え方を前提としておりまして、考え方を変えたということはございません」と言っていることは全くの誤魔化し、歴史の改竄に当たる。

 このことは2020年10月12日の当「ブログ」に取り上げた。

 国民及び国会に対して責任を負える総理大臣の任命となっているのかどうかの疑義が生じている以上、説明責任を伴わせなければならないのだが、一切の説明責任は拒否している。自らの正当性を述べるのみで、疑義を解消させようとする意思を些かも見せていない。

 蓮舫「9月24日に提案された文書、28日に決裁をした。それまでは99人の名簿は見て、105人の名簿は見ていなかった、でいいですか」

 菅義偉「学術会議から総理大臣宛に105名の名簿が提出されたのは8月31日です。私は当時、まだ官房長官でありまして、その内容、105人の名簿は見ておりません。そして9月16日に総理大臣に就任を致しました。

 で、総理大臣就任後、官房長官、杉田副長官に改めて私の懸念を伝えました。そして9月24日に内閣府が99名を任命する旨の決裁事案、それを受けて、9月28日に私が最終的に決済するわけでありますけども、総理就任後ですから、9月16日以降でありますけども、官房長官杉田副長官に改めて懸念を伝え、杉田副長官から相談があり、99名を任命する旨を私自身が判断をし、それを官房長官を通じて内閣府に伝えました。それが確か9月24日前だと思います」

 総理大臣就任前の8月31日に総理大臣宛に105名の名簿が提出された。名簿を受け取ったのは安倍晋三ということになる。その意思が6名任命拒否に反映された可能性は考えられないわけではない。何しろ任命拒否された6名は安倍晋三の国家主義的な強権政策に反対している。蓮舫は少なくともこのことに一言する頭の回転の早さを見せてもいいはずだが、見せもせず、菅に対して「答弁を変えている、なぜです」と、適当に答えることができる追及を行っただけで、菅に「私は一貫しております」で軽くあしらわれてしまう。

 蓮舫「この総理の説明、官房長官の説明、矛盾だらけ、答えていない。この逃げているということを、この6人を削った経緯を知る方法が一つあります。8月31日に推薦名簿が出て、9月24日に起案されるまでの経過の公文書がありますか」

 8月31日に推薦名簿が提出され、9月24日に99名任命の決裁事案が提出されたという経緯は2020年11月4日の衆院予算委で辻元清美の質問に菅義偉が答弁して明らかになったもの。蓮舫が文書で残しているはずだと気づいたということなのだろう。

 加藤勝信「今回の任命にかかわる経緯について杉田副長官と内閣府との遣り取りを行った記録について担当内閣府に於いて管理しているというふうに承知をしております」

 蓮舫「どういう内容ですか、管理されているのは」

 加藤勝信「今申し上げた杉田副長官と内閣府で遣り取りを行った、それ以外あるかも知れませんが、それはそういった記録と承知をしております」

 蓮舫「提出してください」

 加藤勝信「まさにこれは人事に関する内容の提出は今回の件に限らず、こうした案件については差し控えさせて頂いているところであります」

 蓮舫「それは詭弁です。公文書管理法の目的と原則は何ですか」

 消費者及び食品安全担当相の井上信治が答弁に立って、公文書管理法では公文書管理の適正化が規定されているとか、適正化は現在と将来に亘って国民への説明責任を全うするためであるとか、条文の説明でしかないことを長々と答弁する。その答弁が終えたあとも、蓮舫はなおも井上信治に対して公文書管理法の原則について尋ねる。井上信治ができることは公文書管理法の条文、規定項目の説明のみだから、蓮舫は井上信治の手を煩わせずに自分の方から、公文書管理法のこれこれこういった規定上、杉田副長官と内閣府とで遣り取りした記録を残しているはずだから、提出してくださいで済むはずだが、頭の回転のよさを見せつけているようで、実際はムダな時間ばかり費やしている。

 蓮舫「公文書、文書主義、それを全て残すというのが前提。特に菅官房長官、安倍総理時代に『桜』や森・加計があって、もうとにかく公文書改竄される、不作成直前にシュレッダー、そのことによって安倍内閣のときでも見直しをして、ガイドラインで打ち合わせ、メモ、全部残しましょうということになったんですね。

 その部分で、大臣ね、最新の行政文書の管理に関するガイドライン、これ菅官房長官時代に直していますけども、そこで10ページにあるんですが、文書主義が2点あるんですが、それを説明して貰いますか」

 再び井上信治に長々と説明させるが、蓮舫は最後まで聞いておいて、「全く違うところを読んでいるんですが」と言ってから、説明させたかった公文書管理の規定について自分の口から言い出す。であったなら、自分から公文書管理法ではこうなっているがと持ち出せば、時間の節約ができたはずだが、頭の回転が早いから、肝心なことは置いてけぼりにしてしまったらしい。

 蓮舫「先程加藤官房長官が仰ったように『人事に関する』と言えば、何でも出さないということじゃないんですよ。全部作る。その中で人事に関する記事の部分は出さないんでも結構ですが、会議をした、省議をした、こんな打ち合わせをした、そして要件を狭めていった、こういうふうにした、総理に報告をした、最終権者の総理が決済する時点までを一連のファイルで残さなければいけないんです。

 これ、残していると思います。人事のところは黒塗りでも結構です。出してください」

 加藤勝信が杉田副長官と内閣府との遣り取りの記録の存在を既に認めていて、蓮舫の「提出してください」の要求に「人事に関する内容」だからと言って提出を拒否した。だとしたら、提出拒否の理由に対抗する論理的な追及を構築しなければならないはずだが、対抗どころか、井上信治の役にも立たない答弁まで求める遠回りまで費やすして、「人事のところは黒塗りでも結構です」と相手の提出拒否の理由に同調までしている。

 加藤勝信「先程私が申し上げた説明、まさに具体的な資料、私見ていませんから、正確なことは言えませんが、杉田副長官と内閣府との遣り取り、こういったものについてはルールに則って記録をしているということであります。

 それについて行政機関の保有する情報の公開に関する法律に於いてもですね、『人事管理に係る事務に関し、公正かつ円滑な人事の確保に支障を及ぼすおそれがある場合についてはですね、開示しなくてもいい』。こういうふうにされているところであります。  

 いずれにしても人事に関する記録、その内容については今申し上げた公正かつ円滑な人事の確保に支障を及ぼすおそれがあることから、この提出はこれまでも差し控えさせて頂いているということであります」

 加藤勝信は蓮舫が最初に「提出してください」と求めたときにこれこれの法律によって非開示は許されていると説明すべきを、詭弁家で国民と国会に対する丁寧な説明を心がける精神は持ち合わせていないから、相手に二度手間、三度手間させても何と思わないようだ。

 蓮舫「いや、総理ね、人事に関する機微な情報、個別名詞とか、この人はこういう理由だ。そこはいいんですが、別に。ただこういう経過で狭めていった。省議を重ねたという途中経過をお示しください。

 総理として指示をしますか。何で原稿なんです」

 菅義偉「今、官房長官が申し上げたとおりでです」

 この問題の追及の最後に内閣府作成の文書の提出を委員長に求め、委員長が後刻理事会に諮ると応諾。蓮舫は続けて発言している。

 蓮舫「今の話、こんなに長い時間がかかると思いませんでした」

 長い時間がかかったのは自分の追及の甘さにも原因があると気づかなければ、こういった生ぬるい追及が延々と続くことにある。

 先ず加藤勝信が法的に非開示を認めているとしている、「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」を見てみる。必要な箇所だけを摘出する。

 第1章 総則
 (目的)
 第1条 この法律は、国民主権の理念にのっとり、行政文書の開示を請求する権利につき定めること等により、行政機関の保有する情報の一層の公開を図り、もって政府の有するその諸活動を国民に説明する責務が全うされるようにするとともに、国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とする。

 (行政文書の開示義務)
 第5条 行政機関の長は、開示請求があったときは、開示請求に係る行政文書に次の各号に掲げる情報(以下「不開示情報」という。)のいずれかが記録されている場合を除き、開示請求者に対し、当該行政文書を開示しなければならない。

  6 国の機関、独立行政法人等、地方公共団体又は地方独立行政法人が行う事務又は事業に関する情報であって、公にすることにより、次に掲げるおそれその他当該事務又は事業の性質上、当該事務又は事業の適正な遂行に支障を及ぼすおそれがあるもの

  ニ 人事管理に係る事務に関し、公正かつ円滑な人事の確保に支障を及ぼすおそれ

 (公益上の理由による裁量的開示)
 第7条 行政機関の長は、開示請求に係る行政文書に不開示情報(第5条第1号の二に掲げる情報を除く。)が記録されている場合であっても、公益上特に必要があると認めるときは、開示請求者に対し、当該行政文書を開示することができる。

 ※第5条第1号の二  

 行政機関の保有する個人情報の保護に関する法律(平成十五年法律第五十八号)第二条第九項に規定する行政機関非識別加工情報(同条第十項に規定する行政機関非識別加工情報ファイルを構成するものに限る。以下この号において「行政機関非識別加工情報」という。)若しくは行政機関非識別加工情報の作成に用いた同条第五項に規定する保有個人情報(他の情報と照合することができ、それにより特定の個人を識別することができることとなるもの(他の情報と容易に照合することができ、それにより特定の個人を識別することができることとなるものを除く。を除く。)から削除した同条第二項第一号に規定する記述等若しくは同条第三項に規定する個人識別符号又は独立行政法人等の保有する個人情報の保護に関する法律(平成十五年法律第五十九号)第二条第九項に規定する独立行政法人等非識別加工情報(同条第十項に規定する独立行政法人等非識別加工情報ファイルを構成するものに限る。以下この号において「独立行政法人等非識別加工情報」という。)若しくは独立行政法人等非識別加工情報の作成に用いた同条第五項に規定する保有個人情報(他の情報と照合することができ、それにより特定の個人を識別することができることとなるもの(他の情報と容易に照合することができ、それにより特定の個人を識別することができることとなるものを除く。を除く。)から削除した同条第二項第一号に規定する記述等若しくは同条第三項に規定する個人識別符号(以上)

 【非識別加工情報】「行政機関等が持っている個人情報を、特定の個人を識別できないように、かつ個人情報に復元できないように加工されたデータ(ビッグデータ)」(ネットから)

 日本学術会議会員6名任命拒否で問題となっている疑義は、この法律の第5条6のニに記されている「公正かつ円滑な人事」に基づいて任命が行われたかどうかであって、そのことの疑義が浮上している以上、このような疑義の放置(=非開示のままにしておくこと)は却って「公正かつ円滑な人事の確保」に支障を及ぼすおそれが出てくる。

 開示し、疑義を解消して初めて、つまり人事に関することであっても説明責任は果たして初めて「公正かつ円滑な人事の確保」の何よりの証明となる。

 このようにすることが公益上の何よりの利益となる。当然、6名に関わる「特定の個人を識別する」情報は既に世間に流布しているのだから、公益上の利益追求を優先させて、第7条の「第5条第1号の二に掲げる情報」を無視し、「公益上特に必要があると認めるときは、開示請求者に対し、当該行政文書を開示することができる」を適用させるべきだろう。

 もし第5条6のニの条文通りに「人事管理に係る事務に関し、公正かつ円滑な人事の確保に支障を及ぼすおそれ」がある場合は絶対的に非開示が認めらる、説明責任の差し控えは許されるとしたなら、総理大臣による公務員の選定・罷免は常に正しい、間違えることはないという無誤謬の絶対性善説で祭り上げることになって、公務員の選定・罷免を憲法第15条第1項に国民固有の権利として置く意味を失わせる。失わせれば、国民主権そのものが形だけのもの、有名無実となる。

 主権が国民にあることから公務員の選定・罷免が国民固有の権利とされ、国民のその権利に基づいて総理大臣が公務員の選定・罷免を行う、いわば代理行為である以上、代理行為に伴う説明責任は常に国民に負わなければならない。負うことによって公務員の選定・罷免にかかる国民固有の権利が意味を持ち、国民主権は実体的な意味と価値を持つ。

 菅義偉と加藤勝信が「人事に関わることだから答弁を差し控える」とする態度は人事そのものである公務員の選定・罷免にかかる国民固有の権利と国民主権を嘲笑う姿勢以外の何ものでもない。

 菅義偉と加藤勝信は、さらには安倍晋三までもが?、「人事の問題だから答弁は差し控える」が水戸黄門の葵の印籠と同じ効き目を持っていることに陰でほくそ笑んでいるのではないだろうか。

 そもそもからして菅義偉は日本学術会議会員の任命は「学術会議などに求められる役割などを含めて判断したものです」と答弁している。だが、6名が安倍晋三の国家主義的強権政策に反対したのは学術会議会員として求められた役割からはではなく、自らの意思に応じた個人的な役割からであるずである。個人的立場でしていることを「学術会議などに求められる役割」で縛ること自体が学問の自由、思想・信条の自由の阻害要件となる。

 当然、政府の「総合的・俯瞰的観点からの活動」の要請は学術会議会員としての活動を対象としてのみ可能となる。ところが政府は、菅義偉だけではなく、多分安倍晋三をも含めて、学術会議会員としての活動と学術会議会員から離れた個人としての活動を混同して、後者の活動にまで学術会議会員としての「総合的・俯瞰的観点からの活動」までを求める(多分政治的に中立的な立場を欲求してのことなのだろう)勘違いを犯している。この勘違いが安倍晋三の国家主義的な強権政策に個人的にか、学術会議とは無縁のグループで反対している6名の任命拒否となって現れたと見ると全ての説明がつく。

 もし菅義偉が毎度答弁しているように「民間出身者や若手が極端に少なく、出身や大学にも大きな偏りが見られること」を原因の一つとして6名の任命拒否という結果を出したなら、原因と結果という両者間に整合性の橋渡しが必要となる。納得がいく橋渡しは、ごく当然なことだが、納得のいく説明責任を欠かすことはできない。
人事の問題だから、答弁は差し控えるでは人事問題を国民の手の届かない政治の聖域とすることになって、国民主権に基づいた「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とする憲法第15条第1項を国家権力自らが蔑ろにするだけではなく、恣意的な人事を跋扈させる危険性を根付かせかねず、決して許されない。

 蓮舫は「その中で人事に関する記事の部分は出さないんでも結構です」、「人事のところは黒塗りでも結構です」、「人事に関する機微な情報、個別名詞とか、この人はこういう理由だ。そこはいいんですが」と、安倍政権下で数多くあった不都合な情報は破棄するか、改竄するか、黒塗りで出してきた、最後の事例を公認し、説明責任から除外しているが、6名の任命拒否に対する自身の追及自体を無意味とし、疑義の核心から目を背ける意思表示以外の何ものでもない。

 野党が政府の不正・疑惑を寄ってたかって追及しながら、追及しきれずに逃げられてしまう原因の一つを蓮舫の質問から見ることができる。

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日本学術会議任命拒否:総理大臣の公務員選定・罷免は国民主権の代理行為ゆえ、「人事」を理由に答弁差し控えは憲法違反

2020-11-02 08:56:45 | 政治
 菅義偉は2020年10月26日に首相就任初となる所信表明演説を行い、そこでも、「雪深い秋田の農家に生まれ、地縁、血縁のない横浜で、まさにゼロからのスタート」と自身の政治家像を庶民性で色づけて、ウリとしていたが、日本学術会議会員6名任命拒否が学問の自由侵害問題として大騒ぎになっているにも関わらず、所信表明では一言も触れなかったことがトンデモナイ食わせ者であることを露わにすることになった。

 この所信表明に対する代表質問が2020年10月28日から30日にかけて衆参本会議で行われたが、野党は勿論、任命問題を追及した。周知の事実となっているが、代表質問は総理大臣の所信演説で表明した政府の諸政策や諸問題を与野党代表が追及するものだが、日本学術会議の6人任命拒否問題に関わる追及のうち、日本共産党が最も時間を掛けた追及を行っていたように思えたから、日本共産党志位和夫委員長が10月29日に衆院本会議で行った代表質問と、同じく日本共産党小池晃書記局長が10月30日に参院本会議で行った代表質問をそれぞれに取り上げて、菅義偉が如何にトンデモナイ食わせ者であるかを証明したいと思う。

 代表質問は一括質問とそれに対する一括答弁を形式としているが、分かりやすいように問題ごとに質問と答弁を並べて表記することにした。この表記に先んじて、今まで例のなかった日本学術会議会員6名任命拒否を菅義偉が正当化する方法の一つとして政府側参考人の国会答弁を挙げているが、2020年10月8日の参議院内閣委員会閉会中審査での答弁を指すゆえに前以ってここに載せておくことにする。

 2020年10月8日参議院内閣委員会閉会中審査

 木村陽一(内閣法制局第一部長)「昭和58年の対象になっております日本学術会議法の一部改正の立案の以前から、政府と致しましてはこれも学問の自由や大学の自治に関係する文部大臣による国立学大学学長等の人事に関してで憲法第15条第1項の規定に明らかにされている公務員の選定・罷免権は国民にあるという国民主権の原理との調整の必要性については累次答弁をしてきております。

 このような国民主権の原理を踏まえますと、内閣が国民及び国会に対して責任を負えない場合にまで申し出のとおりに必ずしも任命しなければならない義務があるわけではないと一貫して考えてきております。

 従いまして昭和58年の日本学術会議法の一部改正に於きましてもこれと同様の考え方に基づいて立案が成されているというふうに考えているところでございます」

 要するに憲法第15条第1項「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」は「国民主権の原理」に則っているとの内閣法制局第一部長である木村陽一のご託宣である。

 内閣法制局の業務は「法制局」のサイトに次のように紹介されている。

 内閣法制局の主な業務は、次のとおりです。

 法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣に対し意見を述べるという事務(いわゆる意見事務)
 閣議に付される法律案、政令案及び条約案を審査するという事務(いわゆる審査事務)(以上)

 内閣法制局は憲法、その他の法律解釈を行う。この解釈を参考にして、総理大臣、その他の閣僚は国会答弁等を行うという手順を取ることになる。当然、内閣法制局の法律解釈は一つの権威を持つことになる。

 内閣法制局第一部長の木村陽一が言っていることは公務員の選定・罷免は国民固有の権利であるとする憲法第15条第1項での規定は国民主権に準拠しているのだから、内閣が国民及び国会に対して責任を負うことのできる公務員の選定・罷免でなければならない。責任を負えない選定・罷免の場合は日本学術会議の候補者の選考どおりとはいかないということになる。

 また、国民及び国会に対して責任を負うことができる公務員の選定・罷免であることによって憲法第15条第1項を通して国民主権を尊重していることの証明となる。

 かくまでも公務員の選定・罷免は深く国民主権に関わっている。

 当然、今回の日本学術会議会員の6名任命拒否は国民主権の手前からも、国民及び国会に対して責任を負うことのできる任命であったかどうかが問われることになる。公務員の選定・罷免は人事の問題以外の何ものでもないのだから、内閣が公務員の選定・罷免に手を付けた途端に国民及び国会に対して説明責任が発生することになる。

 説明責任を不履行のまま、「国民主権の原理を踏まえますと、内閣が国民及び国会に対して責任を負えない場合にまで申し出のとおりに必ずしも任命しなければならない義務があるわけではないと一貫して考えてきております」などとは口が裂けても言えない。

 だが、実際は説明責任を果たさないままに記者会見で追及を受けると、菅義偉は具体的な決定経緯については何一つ述べずに「法律に基づいて任命を行っている」と通り一遍の発言のみで済まし、特に詭弁家加藤勝信は「人事の話だから詳細は控える」と言い逃れて、説明責任回避を当たり前としている。

 もう一つ政府側参考人の6名任命拒否の正当理論を参考として挙げておく。

 2020年10月7日衆議院内閣委員会閉会中審査

 三ッ林裕巳(ひろみ・内閣府副大臣)「日本学術会議は我が国の科学者の内外に対する代表機関として科学の向上・発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映・浸透させることを目的として設置された、国の行政機関であり、その会員の任命権者は日本学術会議法に於いて内閣総理大臣とされております。

 憲法第15条の規定により明らかにされているとおり、公務員の選定・罷免権が国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者たる内閣総理大臣が推薦のとおりに任命しなければならないというわけではなく、日本学術会議会員が任命制になったときから、このような考え方を前提としております。

 任命権者たる内閣総理大臣がその責任をしっかりと果たしていくという一貫した考え方に立った上で会員を任命する仕組みは時代に応じて変遷しており、その中で日本学術会議に総合的・俯瞰的観点からの活動を進めて頂くため、任命権者である内閣総理大臣が日本学術会議法に基づいて今回の任命を行ったものであり、法律違反という指摘は当たらないものと考えております。

 また憲法23条に定められた学問の自由は広く全ての国民に保障されたものであり、特に大学に於ける学問・研究、その成果の発表、教授は自由に行われるものであることを保障したものであると認識しております。

 従いまして先程述べた任命の考え方は会員等で個人として有している学問の自由への侵害になるとは考えておりません」

 内閣府副大臣の三ッ林裕巳が答弁していることは憲法第15条第1項「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とされていることから、日本学術会議法に於いて会員の任命権者とされている内閣総理大臣が選定・罷免の「責任をしっかりと果たしていく」ためには「推薦のとおりに任命しなければならないというわけではなく、日本学術会議会員が任命制になったときから、このような考え方を前提としている」という意味を成す。

 断るまでもなく、公務員の選定・罷免に関して「責任をしっかりと果たしていく」責任履行主体は内閣総理大臣であるが、責任履行対象は公務員の選定・罷免を憲法第15条第1項で「国民固有の権利」としている以上、国民に対してである。

 また、ここで「国民固有の権利」と規定していることは2020年10月8日の参議院内閣委員会閉会中審査での政府側参考人内閣法制局第一部長の木村陽一の答弁を待つまでもなく、日本国憲法が国家主権としているのではなく、国民主権としていることからの関連に他ならない。

 つまり内閣総理大臣が任命権者となっている公務員の選定・罷免は主権者である「国民固有の権利」であるものの、日本学術会議会員に関しては日本学術会議法で任命権者を内閣総理大臣としている関係から、その国民に代わって内閣総理大臣が選定・罷免の代理行為をするという意味を取る。

 当然、内閣府副大臣三ッ林裕巳の答弁は任命権者となっているケースに於ける内閣総理大臣の公務員の選定・罷免はその責任を主権者である国民に対してしっかりと果たしていくためには推薦のとおりに任命しない場合もあり得る、あるいは推薦どおりに選定・罷免していたのでは国民に対して責任をしっかりと果たすことができない場合もあり得るとの趣旨だと解釈しなければならない。

 三ッ林裕巳のこの推薦のどおりに任命するかしないかは内閣総理大臣の責任に任されているとする法則の正当性を、いわば内閣府の解釈の正当性を全面的に認めるとしても、国民が主権を有していることから公務員の選定・罷免は国民固有の権利としている憲法上の決まり事から言って、国民に代わる代理行為としてこのこと(公務員の選定・罷免)を内閣総理大臣が行っているという点については何ら変わりはないことを押さえておかなければならない。

 公務員の選定・罷免が内閣総理大臣による国民に代わる代理行為でなければ、憲法第15条第1項の「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」としている言葉自体の意味を失う。

 当然、公務員の選定・罷免に関して内閣総理大臣がその責任をしっかりと果たしているかどうかは選定・罷免に関する説明責任を求められた場合は、選定・罷免の経緯・理由の全てを明らかにしなければならない責任を負うことになる。特に推薦のとおりに任命しない場合は内閣総理大臣の取捨選択の意思が入ることから、その取捨選択の意思が国民の取捨選択の意思と合致しているかどうかが問題となり、その説明責任はより重くなる。

 説明責任を拒否する権利を認めた場合は、憲法第15条第1項「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と規定している意味を同じく失わさせる。

 つまり、「公務員の選定・罷免権が国民固有の権利である」いう考え方からすれば、任命権者たる内閣総理大臣が推薦のとおりに任命しなければならないというわけではない」と説明するだけでは事は済まない。「任命権者たる内閣総理大臣がその責任をしっかりと果たしてい」るかどうかが第一番の問題となり、
「その責任をしっかりと果たしてい」ることの説明責任を履行して初めて「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とする日本国憲法の規定が規定通りに生きてくることになる。

 となると、公務員の選定・罷免という人事の問題は国民主権という憲法に深く関わっていることになり、このことは内閣法制局第一部長の木村陽一も間接的に指摘していることであって、説明責任回避は大きく言うと、憲法違反ということになる。

 では、代表質問に移る。果たして菅義偉は公務員の選定・罷免は国民に代わる代理行為であることを弁えて説明責任を十分に履行し得る答弁に終止したのだろうか。日本共産党氏委員長と小池書記局長の質問はネットから引用し、菅義偉の答弁はNHK中継から文字起こしした。

 「志位委員長の代表質問 10月29日衆院本会議」(志位和夫のホームページ/2020年10月30日・金)
  
 志位委員長「私は、日本共産党を代表して菅総理に質問します。

 日本学術会議が新会員として推薦した科学者のうち、総理が6人の任命を拒否したことは、わが国の法治主義への挑戦であり、学問の自由をはじめとする国民の基本的人権を侵害する、きわめて重大な問題です。

 第一に、任命拒否は、日本学術会議法に真っ向から違反しています。

 日本学術会議法は、学術会議の政府からの独立性を、その条文の全体で、幾重にも保障しています。第3条で、学術会議は、政府から『独立して…職務を行う』とされ、第5条で、政府に対してさまざまな『勧告』を行う権限が与えられています。第7条で、会員は、学術会議の『推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する』とされ、第25条で、病気等で辞職する場合には、「学術会議の同意」が必要とされ、さらに第26条で、『会員として不適当な行為』があった場合ですら、退職させるには『学術会議の申出』が必要とされるなど、実質的な人事権は、全面的に学術会議に与えられています。

 総理に伺います。日本学術会議には、1949年の創設時に、当時の吉田茂首相が明言したように、『高度の自主性が与えられている』ということをお認めになりますか。6人の任命拒否は、学術会議の独立性・自主性への侵害であり、日本学術会議法違反であることは明瞭ではありませんか。答弁を求めます」

 菅義偉「今回の会員の任命と日本学術会議法の関連について質問がありました。ご指摘の吉田元総理の発言は日本学術会議法の創設に発言されたものと承知しておりますが、日本学術会議の運営については日本学術会議法を初め関連する法令に添って行われるべきものと認識しております。

 日本学術会議法との関係のご指摘についてですが、憲法第15条第1項は『公務員の選定は国民固有の権利』としており、日本学術会議の会員についても必ず推薦どおりに任命しなければならないものではないという点については内閣府法制局の了解を得た政府としての一貫した考え方であり、今回の任命も日本学術会議法に添って打ち出したものであります」
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 志位委員長「1983年、会員の公選制を推薦制に変えた法改定のさいに、学術会議の独立性が損なわれないかが大問題になりました。

 そのさい政府は、繰り返し、総理大臣の任命は『全くの形式的任命』、『実質的に総理大臣の任命で会員の任命を左右することはしない』、『推薦していただいた者は拒否しない』と明確に答弁しています。

 総理、6人の任命拒否は、これらの政府答弁のすべてを覆すものではありませんか。法律はそれを制定する国会審議によって解釈が確定するのであって、政府の一存で勝手に解釈を変更するならば、およそ国会審議は意味をなさなくなるではありませんか」

 菅義偉「過去の政府の答弁についてお尋ねがありました。過去の答弁は承知しておりますが、先程申し上げたとおり、憲法第15条第1項との関係で日本学術会議の会員についても必ず推薦どおりに任命しなければならないわけではないという点については内閣府法制局の了解を得た政府としての一貫した考え方であり、日本学術会議法の解釈変更ではないのは国会において内閣法制局からも答弁しております」
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 志位委員長「総理は、憲法15条1項『公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である』を持ち出して、任命しないことはありうると強弁しています。

 しかし、憲法15条1項は、公務員の最終的な選定・罷免権が、主権者である国民にあることを規定したものであって、それをいかに具体化するかは、国民を代表するこの国会で、個別の法律で定められるべきものです。日本学術会議の会員の選定・罷免権は、日本学術会議法で定められており、その法律に反した任命拒否こそ憲法15条違反であり、憲法15条を持ち出してそれを合理化するなど、天につばするものではありませんか。

 憲法15条の解釈について、かつて政府は、『明確に客観的に、もうだれが見てもこれは非常に不適当であるという場合に限って、…任命しないという場合もありうる』(1969年、坂田道太文相〈当時〉答弁)と答弁してきました。総理、あなたが任命拒否した6人は、『明確に客観的に、だれが見ても非常に不適当』だということですか。そうならばどう『不適当』なのか、その理由を明らかにすべきです。理由も明らかにせずに任命を拒否することは、6人に対する重大な名誉毀損(きそん)ではありませんか。答弁を求めます」

 菅義偉「憲法第15条第1項についてお尋ねがありました。憲法第15条第1項は公務員の選定は国民固有の権利としており、この憲法の規定に基づき、日本学術会議法では会員は総理が任命することにしていることから、会員の任命に当たっては必ずしも推薦どおりにしなければならないわけではないという点については内閣府法制局の了解を得た政府としての一貫した考え方であり、今回の任命も日本学術会議法に添って行ったものです。

 憲法第15条第1項に関するご指摘の過去の答弁は承知をしており、また個々人の任命の理由については人事に関することであり、お答えを差し控えますが、今回の任命については先程申し上げたような考え方に基づき、日本学術会議法に添って行ったものであり、名誉毀損に当たるとは考えておりません」
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 志位委員長「総理は、任命拒否の理由を、学術会議の『総合的、俯瞰(ふかん)的活動を確保する観点』からだと繰り返しています。ならば問います。総理は、6人を任命すると学術会議の『総合的、俯瞰的活動』に支障が出るという認識なのですか。端的にお答えいただきたい。

 さらに総理は、26日のNHKインタビューで突然、学術会議の推薦名簿は『一部の大学に偏っている』「民間、若手が極端に少ない」などと非難を始めました。昨日(28日)の答弁では『多様性が大事』とも述べました。しかし、それならばなぜ50代前半の研究者、その大学からただ一人だけという研究者、比重の増加が求められている女性研究者の任命を拒否したのですか。説明いただきたい。

 だいたい、総理が勝手に、『選考・推薦はこうあるべき』という基準をつくって、任命拒否をはじめたら、学術会議にのみ与えられた選考・推薦権は奪われ、学術会議の独立性は根底から破壊されてしまうではありませんか。

 くわえて、学術会議が推薦した名簿を総理は『見ていない』と言う。『見ていない』で、どうして推薦名簿にそのような特徴があることが分かったのでしょうか。語れば語るほど支離滅裂ではありませんか。しかとお答えいただきたい」

 菅義偉「総合的俯瞰的活動に関してお尋ねがありました。私が日本学術会議について申し上げてきたのは先ず年間10億円の予算を使って活動している政府の機関であり、任命された会員は国家公務員となるので、国民に理解される存在であるべきだということです。

 個々人の任命の理由については人事に関することであり、お答えを差し控えますが、任命を行う際には総合的俯瞰的活動、すなわち専門分野の枠に囚われない広い視野に立ったバランスの取れた活動を行い、国の予算を投ずる機関として国民に理解される存在であるべきであるということ。さらに言えば、例えば民間出身者や若手が極端に少なく、出身や大学にも大きな偏りが見られることも踏まえ、多様性が大事だというこということを念頭に私が任命権者として判断したものであります。

 この総合的俯瞰的活動が求められること、産業人、若手研究者、地方在住者など、多様な会員を選出すべきだ。このことについては総合科学技術(・イノベーション)会議から日本学術会議の組織や会員の選出方法について意見具申があったものです。

 なお今回の任命について私が最終的な決裁行うまでの間に推薦の状況については説明を受け、私の考え方については担当の内閣府とも共有をしており、それに基づいて私が最終的な任命の判断をしたものであります」
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 志位委員長「第二に、任命拒否は、憲法23条が保障した学問の自由を侵害するものです。

 総理は、任命拒否は、『学問の自由とは全く関係がない』と言い放ちました。

 ならば聞きます。あなたは、憲法が定めた学問の自由の保障をどう理解しているのか。学問の自由は、個々の科学者に対してだけでなく、大学、学会など、科学者の自律的集団に対しても保障される必要があります。科学者集団の独立性・自主性の保障なくして、個々の科学者の自由な研究もありえないからです。総理の見解を伺います。

 理由を明らかにしないままの任命拒否が、個々の科学者に萎縮をもたらし、自由な研究の阻害となることは明瞭ではありませんか。それはさらに、わが国の科学者を代表する日本学術会議の独立性を保障する要となる会員の選考・推薦権という人事権の侵害であり、日本の学問の自由への乱暴な侵犯というほかないではありませんか。総理の任命拒否は、学問の自由を二重に侵害するものではありませんか。答弁を求めます」
 
菅義偉「日本学術会議と学問の自由についてお尋ねがありました。憲法第23条に定められた学問の自由は広く全ての国民に保護されたものであり、特に大学に於ける学問・研究及びその成果の発表、教授が自由に行われれることを保障されたものであると認識しております。また日本学術会議については日本学術会議法上、科学に関する重要事項の審議などの職務を独立して行うことが規定されております。

 今回の日本学術会議の会員の任命は憲法第15条第1項の規定の趣旨を踏まえ、任命権者である内閣総理大臣がその責任をしっかり果たすため、日本学術会議法により推薦に基づいて国の行政機関として職務を行う会議の一員として公務員に任命したものであります。こうした考え方に基づく任命の行使が会員等が個人として有している学問の自由に影響を与え、これを侵害することや会議の職務の独立性を侵害するとは考えておりません」
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 志位委員長そもそも総理は、日本国憲法が、思想・良心の自由や表現の自由とは別に、学問の自由の保障を独立した条項として明記した理由が、どこにあると認識しているのですか。

 1930年代、滝川事件、天皇機関説事件など、政権の意に沿わない学問への弾圧が行われました。それは全ての国民の言論・表現の自由の圧殺へとつながっていきました。毒ガスや生物兵器の開発、人体実験、原爆の研究、国民総武装兵器の開発研究など、科学者は戦争に総動員されました。そして、侵略戦争の破滅へと国を導いたのであります。総理、あなたには、憲法に明記された学問の自由の保障が、こうした歴史の反省のうえに刻まれたものだという認識がありますか。答弁いただきたい。

 この問題は日本学術会議だけの問題ではありません。全国民にとっての大問題です。強権をもって異論を排斥する政治に決して未来はありません。日本共産党は、違憲・違法の任命拒否の撤回を強く求めるものです。総理の答弁を求めます」

 菅義偉「現行憲法に於ける学問の自由についてお尋ねがありました。現行憲法では旧憲法下に於いて国家権力により国民の自由が圧迫されたことなどを踏まえ、特に明文で学問の自由を保障したものと認識しております。

 日本学術会議の任命の取り扱いについてお求めがありました。これまで申し上げたように今回の任命は憲法第15条第1項の規定に基づき任命権者である内閣総理大臣がその責任をしっかりと果たすために日本学術会議法に基づいて会員を任命したものであり、今回の任命について変更するということは考えておりません」(以上)

 菅義偉の答弁は内閣法制局第一部長木村陽一による憲法第15条第1項の解釈を楯に推薦どおりに任命しなくてもよいのは「内閣府法制局の了解を得た政府としての一貫した考え方である」の一点張りで、憲法第15条第1項が国民主権に準拠している関係から内閣総理大臣の公務員の選定・罷免は国民に代わる代理行為であって、その責任は第一番に国民に負うとする認識にまで至っていない。

 公務員の選定・罷免は国民固有の権利であって、その行為を内閣総理大臣が行う以上、国民に代わる代理行為に他ならない。

 主権者たる国民に代わる代理行為であるという認識が一カケラでもあれば、「責任をしっかりと果たす」一番の対象は国民に対してであって、当然、責任を果たし得たのか得なかったのかの国民に対する説明責任が自動的に発生することになり、「個々人の任命の理由については人事に関することであり、お答えを差し控えます」は憲法上、通用しない、既に触れたように憲法違反そのものとなる。

 また「民間出身者や若手が極端に少なく、出身や大学にも大きな偏り」があることを以って多様性の欠如を言い立てているが、多様性のモノサシを社会的地位・立場に限っているとしたら、その貧困な認識に感心しなければならないが、6名任命拒否によってどのような点で「国民に理解される存在」に近づいたのか、あるいは6名任命拒否が多様性の確保にどう繋がったのか、何ら説明がないままでは菅義偉や役人が言っているところの「多様性」の性格や程度にしても、何を以って「国民に理解される存在」としているのかの点についても、理解不能となる。 

 「小池書記局長の代表質問 10月30日参院本会議」(しんぶん赤旗/2020年10月31日)

 小池書記局長「日本共産党の小池晃です。会派を代表して質問します。

 日本学術会議が推薦した会員候補6人の任命拒否は、民主主義と法治国家のあり方に対する総理の基本姿勢を根本から問うものとなっています。

 中曽根元首相をはじめとして、これまで政府は、総理大臣による任命は『形式的任命にすぎない』と答弁してきました。実際、委員が任命制になって以来37年間、学術会議が推薦した委員が任命されなかったことは一度もありませんでした。それが総理に拒否されたのですから、学術会議の事務局長も『驚がくした』と答弁したのであります。理由の説明を学術会議側が求めるのは当然ではありませんか。

 任命拒否された6人の方も説明を求めており、『個別の人事』をたてに拒否する理由はなりたちません。総理には、任命拒否の理由を誠実に説明する責任があります。逃げずにお答えください」

 菅義偉「日本学術会議の任命の理由についてお尋ねがありました。過去の答弁は承知しておりますが、憲法第15条第1項は公務員の選定は国民固有の権利として規定しており、この憲法の規定に基づき、日本学術会議法では会員は総理が任命することとされていることから、この任命に当たっては必ず推薦どおりに任命しなければならないわけではないという点については内閣府法制局の了解を得た政府としての一貫した考え方であり、今回の任命も日本学術会議法に添って行ったものであります。
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 小池書記局長「総理は、『必ず推薦の通りに任命しなければならないわけではないという点について、内閣法制局の了解を得た』と言いますが、そのことは当時の学術会議会長にも、意思決定機関である幹事会にも伝えられていませんでした。これでどうして首相の新たな権限行使が正当化できるのか。そもそも、国会でくりかえし答弁されてきたこととは異なる首相の任命の法的意義について、国会にはからず政府が勝手に判断できるというなら、国会審議の意味などないではありませんか。納得のいく答弁を求めます」

 菅義偉「日本学術会議の会長、及び幹事会との関係についてお尋ねがありました。日本学術会議法に於いて会長は会議を総理(全体を統一して管理すること)し、会議を代表することとされ、また幹事会は会議の運営に関する事項を審議することとされています。一方で会員の任命権は内閣総理大臣であり、日本学術会議の精神に基づく会員の任命に当たっては必ず推薦のとおりに任命しなければならないわけではないという点については内閣府法制局の了解を得た政府としての一貫した考え方であり、今回の任命も日本学術会議法に添って行ったものです」
     ・・・・・・・・・・
 ここで菅義偉は小池書記局長が既に尋ねている政府側の過去の答弁について答えているが、読み落としに気づいて付け加えたのだろうが、順番通りに答弁を並べておく。

 菅義偉「過去の答弁についてお尋ねがありました。過去の答弁は承知しておりますが、先程申し上げたとおり憲法第15条第1項との関係で日本学術会議の会員については必ず推薦のとおりに任命しなければならないわけではないという点については内閣府法制局の了解を得た政府としての一貫した考え方であり、日本学術会議法の解釈変更でないのは国会に於いて内閣府法制局からも答弁しているとおりです。

 今回の任命については国会の場などに於いて質問に応じて説明できることはきちんと説明します」
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 小池書記局長「総理は任命拒否の新たな理由として、『民間出身者や若手が少ない、出身や大学にも偏りがみられる』としましたが、それぞれ具体的な根拠をお示しください。

 この間の学術会議の改革努力によって、男女比も、会員の地域分布も、特定大学への集中も是正されてきています。総理の発言は虚偽ではありませんか。

 しかも、拒否された6人の研究者の中には、50代前半の方も、女性も、その大学からただ一人だけという方も含まれています。『多様性を大事にした』という総理の説明と矛盾していませんか」

 菅義偉「会員の出身や大学についてお尋ねがありました。個々人の任命については人事に関することであり、お答を差し控えますが、任命を行う際には総合的俯瞰的活動、即ち専門分野の枠に囚われない、広い視野に立ってバランスの取れた活動を踏まえ、国の予算を投じる機関として国民に理解される存在であるべきだということ、さらに言えば、例えば民間出身者や若手が少なく、出身や大学にも偏りが見られることも踏まえ、多様性が大事だということを念頭に私が任命権者として判断を行ったものであります。

 個別の会員任命との関係はお答を差し控えますが、現在の会員は例えば所属別で見ますと、いわゆる旧帝国大学と言われる7つの国立大学に所属する会員が45%占めています。それ以外の173の国立大学・公立大学合わせて17%です。また615ある私立大学は24%にとどまっております。また産業界に所属する会員や49歳以下の会員はそれぞれ3%に過ぎません。

 なお特定の分野の研究者であることを以って任命を判断したことはありません」
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小池書記局長「だいたい、『総合的、俯瞰(ふかん)的な観点で判断した』と言いながら、人文科学系の研究者だけを任命拒否したのは、『総合的、俯瞰的な観点』に反するのではありませんか。

 総理は、『学術会議のあり方を見直す』といいますが、安倍政権下の有識者会議が15年3月に、『現在の制度は…期待される機能に照らしてふさわしい』と報告したのに、今になって『見直し』を言いだすのは、支離滅裂ではありませんか。この5年間に有識者会議の結論をくつがえすような事実があったのですか。具体的に示していただきたい」

 菅義偉「有識者会議の報告についてお尋ねがありました。平成27年3月の有識者会議の報告書では日本学術会議の国の機関、公益上の独立性、政府に対する勧告・提言、という現在の制度について会議に記載される機能に照らして、ふさわしいとされたと承知しております。

 他方で民間出身者は少なく、出身や大学にも偏りが見られることや会員の人選は最終的に選考委員会が(行う)仕組みがあるものの、先ずは現在の会員が後任を推薦することも可能な仕組みになっていることについてはかねてから同様の問題があったものと思われます」
     ・・・・・・・・・・
小池書記局長「学問と科学は、政治権力に従属するものであってはなりません。学問が弾圧され、戦争に突き進んだ過去の教訓から、憲法23条は『学問の自由』を保障したのです。

 学問も科学も国民のためのものです。この問題は、任命を拒否された6人だけの問題でも、学者・研究者だけの問題でもありません。すべての国民にとっての重大問題です。

 日本学術会議法に反し、憲法で保障された『学問の自由』を脅かす任命拒否は、撤回すべきです。以上、総理の答弁を求めます」

 菅義偉「学問の自由についてのお尋ねについては憲法23条に定められている学問の自由は広く全ての国民に保障されたものであり、特に大学に於ける学問・研究の自由、その成果の発表の自由、教授の自由を保障したものであると認識をしております。今回の日本学術会議の会員の任命は憲法第15条第1項の規定の趣旨を踏まえ、任命権者である内閣総理大臣がその責任をしっかりと果たすために日本学術会議法による推薦に基づいて国の行政機関として職務を行う会議の一員として公務員に任命したものであり、変更することは考えておりません。

 こうした考え方に基づく任命権の行使が会員などが個人として有している学問の自由に影響を与え、これを侵害することになるとは考えておりません」
(以上)

 菅義偉は「必ず推薦のとおりに任命しなければならないわけではないという点については内閣府法制局の了解を得た政府としての一貫した考え方である」を志位委員長に対して3回、小池書記局長に対しても3回繰り返している。但し「内閣府法制局の了解を得た」任命事項であったとしても、憲法第15条第1項が「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とする規定は人事の問題そのものであり、国民主権に基づく国民固有の人事権を総理大臣が代理行為として行う以上、その責任は果たし得たのか、果たし得なかったのかの国民に対する説明責任はついて回ることになるが、「個々人の任命については人事に関することであり、お答を差し控えます」を金科玉条にして説明責任を回避して当たり前としている。

 ウリにしている庶民性を自ら裏切るトンデモナイ食わせ者である。

 要するに内閣総理大臣による公務員の選定・罷免が国民主権の原理に基づいて憲法第15条第1項に則って行う以上、国民に代わる代理行為であるとするところにまで憲法第15条第1項に関わる内閣法制局の解釈が行き届いていないことになる。

 もしかしたら、完璧な解釈を行ったなら、菅義偉側に不都合な状況が生じることが目に見えていることから、国民に代わる代理行為だとする一歩手前で解釈を止めている可能性無きにしもあらずである。

 任命拒否問題を取り上げる野党側は1949年の創設当時の吉田茂の発言がどうっだったとか、1983年(昭和58年)11月の日本学術会議法改正時の政府側証人の国会答弁がどうだったかに拘らずに、日本学術会議会員の選定・罷免は国民主権の原理に基づいた憲法第15条第1項に規定された人事の問題である以上、人事の問題だからと言って、説明責任は回避できないということ、6名任命拒否によってどのような点で「国民に理解される存在」に近づいたのか、あるいは6名任命拒否が多様性の確保にどう繋がったのかなどに絞って追及すべきだろう。

 その際、公務員の選定・罷免に関わる説明責任回避は憲法違反に相当するということを政府側にぶっつけるべきだろう。

 菅義偉は会員構成の多様性の欠如として、「民間出身者や若手が少なく、出身や大学にも偏りが見られる」ことを挙げ、「旧帝国大学と言われる7つの国立大学に所属する会員が45%を占めています。それ以外の173の国立大学・公立大学を合わせて17%です。また615ある私立大学は24%にとどまっております。また産業界に所属する会員や49歳以下の会員はそれぞれ3%に過ぎません」と断じているが、「Wikipedia」が紹介している、(各日本人ノーベル賞受賞者が一つ以上の学位(学士号・修士号・博士号)を取得した大学(2019年10月時点))との断りが入っている「ノーベル賞受賞者の学位取得大学(人数別)」は次のとおりとなっている。旧帝国大学を前身としている東京大学と京都大学が多くを占め、同じく旧帝国大学を前身とする名古屋大学と大阪大学が続いているが、この占有率を以って多様性の欠如と言い得るだろうか。 

 東京大学 11(物理学賞5、化学賞1、生理学・医学賞2、文学賞2、平和賞1)
 京都大学 8(物理学賞3、化学賞3、生理学・医学賞2)
 名古屋大学 5(物理学賞4、化学賞1)
 大阪大学 2(物理学賞1、化学賞1)
 東京理科大学 1(生理学・医学賞1)
 神戸大学 1(生理学・医学賞1)
 大阪市立大学 1(生理学・医学賞1)
 山梨大学 1(生理学・医学賞1)
 徳島大学 1(物理学賞1)
 埼玉大学 1(物理学賞1)
 東京工業大学 1(化学賞1)
 東北大学 1(化学賞1)
 北海道大学 1(化学賞1)
 長崎大学 1(化学賞1)
 カリフォルニア大学サンディエゴ校 1(生理学・医学賞1)
 ロチェスター大学 1(物理学賞1)
 ペンシルベニア大学 1(化学賞1)
 ケント大学 1(文学賞1)
 イースト・アングリア大学 1(文学賞1)

 要するに問われるべきは仕事上の成果であって、出身組織とか所属組織が問題ではない。年齢も問題ではない。誰が見ても仕事上の成果があると見ているのに、小さな組織に所属しているか、年齢が若いという理由で日本学術会議会員から除外されているなら、そういったことのみを問題にすべきだが、菅義偉の「民間出身者や若手が少なく、出身や大学にも偏りが見られる」は仕事上の成果外のことだから、6名任命拒否を偽装する誤魔化しに過ぎない。

 任命拒否を受けた6名に最も色濃く共通する点は安倍晋三の国家主義的な強権政策に対する顕著な拒絶姿勢であって、政治上の立場に応じて毀誉褒貶はあるだろうが、6名はそれを一つの仕事上の成果としている。所属大学だとか、出身大学は一切関係していない。当然、安倍晋三の国家主義的な強権政策に対する顕著な拒絶姿勢を標的とした6名の任命拒否と見なければ、仕事上の成果という点から整合性が取れない。

 政府の政策に反対する学者は会員として任命できないということなら、政治の私物化以外の何ものでもない。もし6名任命拒否が安倍晋三や菅義偉が仕掛けた政治の私物化であるなら、6名の仕事上の成果に対する憲法が保障する思想・信条の自由、あるいは学問の自由の抑圧に相当することにはなる。

 安倍晋三は首相在任中、森・加計問題、桜を見る会、黒川検事長定年延長問題等で政治の私物化を最も得意としていた。その流れを汲む6名任命拒否の政治の私物化の可能性は否定できない。

 それに菅義偉が片棒を担いでいる。「雪深い秋田の農家に生まれた」とはトンデモナイ食わせ者ではないか。

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安倍晋三靖国参拝:尊崇の念表明対象の「ご英霊」は戦前日本国家をコアなポジションで支えた要職者たちで、下級兵士は除外

2020-10-26 09:34:39 | 政治
 首相辞任という手で首相としての自身の立ち位置をコロナの影響外に一時避難させることでアベノミクス等の政治評価下落回避を狙った安倍晋三が首相退任後の2020年9月19日に続いて1ヶ月後の2020年10月19日朝、東京・九段の靖国神社を参拝したという。10月19日の参拝後に記者に問われて、次のように答えたとマスコミは伝えている。

 安倍晋三「ご英霊に尊崇の念を表するために参拝いたしました」

 靖国神社とは幕末および明治維新以後の国事に殉じた人々を英霊として祀っている。「英霊」とは「死者、特に、戦死者の霊を敬っていう語」だとgoo国語辞書が紹介している。つまり戦死者という存在に特別な意義を持たせている。「国家のために殉じた」という意味づけからであろう。

 日本の場合、この思想自体が個人よりも国家を優先させる国家主義を纏っていることになる。その国家たるや天皇独裁国家だったからである。個人の自由を全面的に認めた民主国家のために殉じたわけではない。

 日中戦争と太平洋戦争での軍人軍属の戦死者数は230万人とされている。対して靖国神社は英霊を祭神として246万6千余柱を祀ってる。「Wikipedia」によると、日中戦争での戦死者19万1250柱、太平洋戦争での戦死者213万3915柱、合計232万5165柱となる。つまり靖国神社祭神は戦前の日本の戦争の戦死者が大方を占めている。

 と言うことは、安倍晋三や他の靖国を参拝する政治家の「ご英霊」は日中・太平洋戦争の戦死者を主に対象としていることになる。
 
 靖国神社に代わる国立戦没者追悼施設建設の建設が取り沙汰されると、「戦友と別れる際、『靖国で会おう』と誓い合い、日本人の心の拠り所となってきた」、あるいは、「無宗教の追悼施設の御霊に参拝して追悼といえるのか。『靖国で会おう』と散っていった戦友たちは、どこに行けばいいのか」といった声が上がることからも、「ご英霊」は日中・太平洋戦争の戦死者が殆ど対象となっていることが分かる。

 但し安倍晋三は日中・太平洋戦争の戦死者全てを「ご英霊」の対象としているのだろうか。

 例えば2006年8月7日放送、2007年8月5日再放送のNHKスペシャル《「硫黄島玉砕戦」・~生還者61年目の証言~》では、陸海軍合わせて2万人もの兵士が送り込まれたものの、その多くは急遽召集された3、40代の年配者や16、7歳の少年兵で、中には銃の持ち方を知らない者もいたと伝えている。

 硫黄島の戦いは1945年(昭和20年)2月19日開戦、1945年3月26日組織的戦闘終結となっているが、要するに大本営は日本軍の精鋭部隊を硫黄島に送り込んだのではなく、戦い方を満足に心得ていない雑多集団を送り込んだ。この事実は当時の日本軍が置かれた戦力に関わるお粗末な実情を物語っているようにも見えるが、開戦2月19日に8日遡る2月6日策定の『陸海軍中央協定研究・案』で、「硫黄島を敵手に委ねるの止むなき」と決めていたと番組が解説していたから、大本営はどうせ捨て石にするなら、精鋭部隊を送り込むのは勿体ない、頭数さえ揃えれば十分だと、常套手段としている人命軽視を発揮、雑多集団を送り込んだ疑いは拭えない。

 そうである以上、急遽召集された3、40代の年配者や16、7歳の少年兵は戦前国家の犠牲者、戦争の犠牲者に位置づけることができる。勿論、戦前国家の犠牲、戦争の犠牲となった兵士は、硫黄島の兵士に限らない。さらに言うと、民間人の中にも戦前国家の犠牲者、戦争の犠牲者は数多く存在する。

 「Wikipedia」は硫黄島の戦いでは守備兵力20933名のうち96%の20129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となったと書いているから、この中に銃の持ち方も知らない者を加えた3、40代の年配者や16、7歳の少年兵も混じっていたはずで、靖国神社に「ご英霊」として祀られていることになる。

 安倍晋三はこのような「ご英霊」に対しても靖国神社参拝の際には「尊崇の念」を表したのだろうか。

 安倍晋三は国家主義者である。国家主義者とは常に国家の立場から物事を捉えて、個人よりも国家に絶対的価値・優位を置く思想の持ち主を言う。安倍晋三が国家主義者であることは自身の著書で書き出している次の一節が証明してくれる。

 『美しい国へ』(安倍晋三著・2006年7月20日発刊)

(p24~p27)
 
 大学にはいっても、革新=善玉、保守=悪玉という世の中の雰囲気は、それほど変わらなかった。あいかわらず、マスコミも、学会も論壇も、進歩的文化人に占められていた。

 ただこの頃には、保守系の雑誌も出はじめ、新聞には福田恆存氏、江藤淳氏ら保守系言論人が執筆するコーナーができたりして、少しは変化してきたのかな、と感じさせるようになっていた。

 かれらの主張には、当時のメインストリームだった考え方や歴史観とは別の見方が提示されていて、私には刺激的であり、新鮮だった。とりわけ現代史においてそれがいえた。

 歴史を単純に善悪の二元論で片付けることができるのか。当時のわたしにとって、それは素朴な疑問だった。

例えば世論と指導者との関係について先の大戦を例に考えてみると、あれは軍部の独走であったとの一言で片付けられることが多い。しかし、果たしてそうだろうか。

確かに軍部の独走は事実であり、最も大きな責任は時の指導者にある。だが、昭和十七、八年の新聞には「断固戦うべし」という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化する中、マスコミを含め、民意の多くは軍部を支持していたのではないか。

 百年前の日露戦争のときも同じことが言える。窮乏生活に耐えて戦争に勝ったとき、国民は、ロシアから多額の賠償金の支払いと領土の割譲があるものと信じていたが、ポーツマスの講和会議では一銭の賠償金も取れなかった。このときの日本は、もう破綻寸前で、戦争を継続するのはもはや不可能だった。いや実際のところ、賠償金を取るまでねばり強く交渉する気力さえなかったのだ。

だが、不満を募らせた国民は、交渉に当たった外務大臣・小林寿太郎の「弱腰」がそうさせたのだと思い込んで、各地で「講和反対」を叫んで暴徒化した。小林も暴徒たちの襲撃にあった。

こうした国民の反応を、いかに愚かだと切って捨てていいものだろうか。民衆の側からすれば、当時国の実態を知らされていなかったのだから、憤慨して当然であった。他方、国としても、そうした世論を利用したという側面がなかったとはいえない。民衆の強硬な意見を背景にして有利の交渉をすすめようとするのは外交ではよくつかわれる手法だからだ。歴史というのは、善悪で割り切れるような、そう単純なものではないからだ。

この国に生まれ育ったのだから、私は、この国に自信をもって生きていきたい。そのためには、先輩たちが真剣に生きてきた時代に思いを馳せる必要があるのではないか。その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる。それが自然であり、もっと大切なことではないか。学生時代、徐々にそう考え始めていた。

だからといってわたしは、ことさら大声で「保守主義」を叫ぶつもりはない。わたしにとって保守というのは、イデオロギーではなく、日本及び日本人について考える姿勢のことだと思うからだ。

現在と未来にたいしてはもちろん、過去に生きた人たちにたいしても責任を持つ。いいかえれば、百年、千年という、日本の長い歴史のなかで育まれ、紡がれてきた伝統がなぜ守られてきたかについて、プルーデント(慎重)な認識をつねにもち続けること、それこそが保守の精神なのではないか、と思っている。

 安倍晋三は歴史認識は〈その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直すこと〉で成り立たせるべきだと主張、〈それが自然であり、もっと大切なことではないか。〉と言い切っている。

 安倍晋三のこの論理を当てはめると、軍部の独走は事実(ファクト)として認めるものの、〈その時代に生きた国民の視点〉は〈マスコミを含め、民意の多くは軍部を支持していた〉ことを以って歴史認識とすべきだと言うことになる。

 この歴史認識は戦前国家擁護をガッシリとした骨格としている。戦前国家擁護の歴史認識であることは2013年4月23日の参議院予算委員会国会答弁からも十分に窺うことができる。

 安倍晋三「特に侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけでございますし、それは国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違うわけでございます」

 この答弁は戦前の日本国家の戦争は侵略戦争ではないを真意としていて、その真意は戦前国家擁護論そのものとなる。歴史認識は〈その時代に生きた国民の視点〉から発すべきだとしている戦前国家擁護と同じ骨格となるのは整合性の点から当然の成り行きでなければならない。

 安倍晋三のこの戦前国家擁護はA級戦犯に関わる歴史認識にも現れている。

 2006年(平成18年)10月6日衆議院予算委員会

 岡田克也「A級戦犯の話について確認をしておきたいと思います。この議論は総理とも2月に予算委員会でやらせていただきました。

 まず、小泉総理は、私はA級戦犯というのはさきの戦争において重大な責任を負うべき人ではないかというふうに聞いたところ、総理はさらにそれを飛び越えて、A級戦犯は戦争犯罪人であると断言されたんですね。そのことについて、当時官房長官だった安倍さんに同じ質問をしたところ、安倍さんは、日本において犯罪人ではないと答弁されました。その御認識は今も変わりませんか。

 安倍晋三(首相)「日本において、国内法的にいわゆる戦争犯罪人ではないということでございます。遺族援護法等の給付の対象になっているわけでありますし、いわゆるA級戦犯と言われた重光葵氏はその後勲一等を授与されているわけでありまして、犯罪人であればそうしたことは起こり得ない、こういうことではないかと思います」

 安倍晋三の「重光葵」云々は詭弁そのものである。「Wikipedia」によると、重光葵はA級戦犯として有罪・禁固7年の判決を受け、4年7ヵ月の服役の後、巣鴨拘置所を仮出所、1952年の講和条約の発効後、規定に基づいて恩赦により刑の執行終了を経ている。日本では政府や軍の要職にあって戦争遂行に関わった誰をもその罪を問わなかったゆえに戦後の活躍となったのである。しかも巣鴨拘置所にA級戦犯として拘置されたまま勲一等を授与されたわけではない。

 安倍晋三は重光葵の例を以って、「日本において、国内法的にいわゆる戦争犯罪人ではない」と東条英機にまで免罪符を与えていることになる。戦前国家擁護の歴史認識でなくて、何であろう。

 戦前国家擁護は安倍晋三が常に国家の立場から物事を捉えて、個人よりも国家に絶対的価値・優位を置く国家主義者でなければ成し得ない事柄そのものである。

 もし個人よりも国家に絶対的価値・優位を置く国家主義とは正反対の、個人の意義と価値を重視し、その権利と自由を尊重する個人主義に立っていたなら、個人の自由、思想・言論の自由に著しい制限を加えていた軍部が天皇に代わってその独裁体制の実質的な運用主体であった天皇独裁体制の戦前日本国家を擁護することはあり得ない。例え国家のために尊い命を殉じた「ご英霊に尊崇の念を表する」行為を装っていても、その行為自体が戦前国家擁護そのもとなる以上、安倍晋三は決して個人主義の立場に立っているわけではなく、国家主義と一心同体であることの証明としかならない。

 いわば戦前国家擁護と国家主義は同義語の関係にある。国家主義を自らの思想としていなければ、戦前国家を擁護できないし、戦前国家を擁護できるのは国家主義を体現しているからこそである。

 当然、安倍晋三が戦前国家を擁護する国家主義者である点を考慮すると、安倍晋三が靖国神社参拝で「ご英霊」として「尊崇の念を表する」対象者は主として軍部が代行していた天皇独裁の大日本帝国国家をコアなポジションで支えて戦前の戦争遂行に大きな役割を果たした政治家、外交官、軍人等のうちの処刑されたり、戦死したりして靖国神社に祀られることになった要職者と言うことになって、硫黄島の戦いの例で言うなら、急遽召集された3、40代の年配者や16、7歳の少年兵を含む下級兵士は対象者から排除していなければならない。

 もし下級兵士までをも「ご英霊」として「尊崇の念を表する」対象者に入れていたなら、国家の立場から物事を捉えて、個人よりも国家に絶対的価値・優位を置く国家主義の原理から外れることになる。国家主義者はあくまでも個人に対してよりも国家に価値を置き、その優位性を体現し続けなければならないからである。

 大体が急遽召集された3、40代の年配者や16、7歳の少年兵等々をほんの一例として加えた、人命軽視からの数知れない多くの戦前国家の犠牲者、戦争の犠牲者を「ご英霊」として「尊崇の念を表する」こと自体、悪趣味そのもので、「尊崇の念を表する」「ご英霊」の対象に入るはずはなく、特に国家主義の立場からすると、対象者として論外な扱いとするはずである。

 犠牲者の側からすると、人命軽視を受けていながら、“尊崇の念を表される” 対象となる皮肉な結果を突きつけられることになって、許しがたいふざけた行為に映るはずである。

 要するに天皇独裁・軍部代行の戦前日本国家の国家主義が戦争遂行に当たって下級兵士をいとも簡単に人命軽視の犬死の犠牲に付すことができ、一般国民までをもその犠牲に巻き込むことができたのはあくまでも国家主義から発しているお国のための国家優先だったからであり、そのような戦前日本国家を安倍晋三自身も国家主義者として擁護しているからこそ、心置きなく「ご英霊に尊崇の念を表する」参拝を可能としているのであって、参拝の対象となっている「ご英霊」
はやはり安倍晋三自らの国家主義との関係上、大日本帝国国家を政治や外交や軍の分野などなどをコアなポジションで支えて戦前の戦争遂行に大きな役割を果たした要職者たちであり、下級兵士たちは除かれていなければ国家主義の座りを悪くすることになるはずである。

 簡単に言い直すと、安倍晋三は国家主義者である以上、靖国参拝によって「ご英霊」として「尊崇の念を表する」対象には下級兵士は決して入っていないということである。同じ軍人でも、国家主義によって将校と下級兵士では命の価値そのものが大きく違っていたこと、その国家主義を安倍晋三は受け継いでいることが最大の理由となる。

 安倍晋三は自著『美しい国へ』で、「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる」ことを歴史認識とすべきであると述べているが、A級戦犯を「日本において、国内法的にいわゆる戦争犯罪人ではない」と答弁した、先に挙げた2006年10月6日の衆議院予算委員会では歴史認識について次のように答弁している。

 安倍晋三「あの大戦についての評価、誰がどれぐらい責任があるのかどうかということについては、それはまさに歴史家の仕事ではないか、政府がそれを判断する立場にはないと私は思います」

 一方では「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる」ことを以って歴史認識とすべきだと言い、もう一方では後世の歴史家が決める歴史認識だとしている。ご都合主義者らしい安倍晋三の言い分となっている。

 参考までに。

 《「硫黄島玉砕戦」から読み解く原爆投下 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》(2007年8月12日)

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日本学術会議会員6名任命拒否は国民主権が関わっている人事である以上、加藤勝信の「人事の話だから詳細は控える」は説明責任回避の詭弁

2020-10-19 09:49:05 | 政治
  ご存知のように日本学術会議会員は1983年(昭和58年)11月の政府側証人の国会答弁によって会議側の推薦に基づいて総理大臣が推薦どおりに任命するのが慣例となっていたが、今回、初めて推薦どおりではなく、6人の任命拒否者が出た。但し任命拒否に関わる人事について政府は具体的な説明責任を果たしていない。公正・公平に行われた人事なのか、反政府姿勢に対する不明朗極まりない拒絶意識からの恣意的人事なのかが問われることになった。
 
 2020年10月7日の衆議院内閣委員会閉会中審査と翌日の2020年10月8日の参議院内閣委員会閉会中審査で政府側証人内閣府副大臣の三ッ林裕巳(ひろみ
)と内閣府大臣官房長の大塚幸寛が憲法第15条第1項を持ち出して、任命拒否の正当性論理を展開した。

 三ッ林裕巳「憲法第15条の規定により明らかにされているとおり、公務員の選定・罷免権が国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者たる内閣総理大臣が推薦のとおりに任命しなければならないというわけではなく、日本学術会議会員が任命制になったときから、このような考え方を前提としております」

 大塚幸寛「憲法第15条第1項を引用させて頂きますが、これはやはり公務員の選定・罷免権が国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者である内閣総理大臣が、推薦どおりに任命しなければならないということはないということでございまして、これは会員が任命制になったときからこのような考え方を前提としておりまして、考え方を変えたということはございません」

 日本国憲法「第3章国民の権利及び義務第15条」の第1項と第2項を見てみる。
 
 1 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
 2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

 日本学術会議法の第7条2項に〈会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。〉と規定されている。第17条は日本学術会議が会員の候補者を選考し、内閣総理大臣に推薦すると定めている。

 つまり憲法第15条が規定している公務員を選定し、及びこれを罷免することが国民固有の権利であることに基づいて日本学術会議の会員任命に関しては任命権者となっている内閣総理大臣が国民に代わって行うという組み立てとなる。そうである以上、それが正しい任命か、正しくない任命か、常に国民に対して説明責任を負うことになる。

 逆説するなら、説明責任を負わずに任命を行っていいという道理には決してならない。

 常に国民に対して説明責任を負うことは先に上げた2020年10月8日の参議院内閣委員会閉会中審査で政府参考人の答弁も間接的に指摘している。

 内閣法制局第一部長の木村陽一が憲法第15条第1項の「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とする規定は国民主権の原理に基づくとの趣旨の発言を行った上で次のように答弁している。

 木村陽一「このような国民主権の原理を踏まえますと、内閣が国民及び国会に対して責任を負えない場合にまで申し出のとおりに必ずしも任命しなければならない義務があるわけではないと一貫して考えてきております」

 「申し出のとおりに」とは「日本学術会議法の候補者の選考どおりに」との意味を取ることは断るまでもない。

 このことを言い換えると、国民及び国会に対して責任を負うことはできないと考える任命を拒否することは国民主権に対しても、当然憲法に対しても、日学法に対しても何ら法律に違反することではないとの主張となり、6名任命拒否は国民及び国会に対して責任を負うことのできる措置であったということになる。

 国民及び国会に対して責任を負うことができることによって憲法第15条第1項を通して国民主権を尊重していることの証明となる。

 当然、6名任命拒否が実際に国民及び国会に対して責任を負うことのできる措置となっているのかどうかの説明責任が任命当事者たる内閣総理大臣からなければ、責任云々に関して国民及び国会は何ら判断できないことになる。次も当然ということになるが、記者会見や国会で追及を受ける前に内閣総理大臣も官房長官も説明責任を果たさなければならないのだが、任命拒否に至った詳しい経緯を求める質問に入ると、菅義偉は具体的な決定経緯については何一つ述べずに「法律に基づいて任命を行っている」と通り一遍の説明責任のみで済まし、特に詭弁家加藤勝信は「人事の話だから詳細は控える」と言い逃れて、一向に説明責任を果たそうとしない。

 6名拒否が明らかになってからの2020年10月9日、首相の菅義偉はマスコミ各社によるグループインタビューで「会員任命を最終的に決裁したのは9月28日で、会員候補リストを拝見したのはその直前だったと記憶している。その時点では最終的に会員となった方(99人)がそのままリストになっていた」と発言したと報道されている。

 つまり学術会議が選考した会員候補者105名の名簿は見ていなかったということは6名任命拒否に関与していなかったことを意味する。既に6名は排除されていて、残り99人のリストとなっていた。菅義偉は単に機械的に任命を決裁したことになる。では、日本学術会議会員の任命権者は内閣総理大臣となっているにも関わらず、誰がどのような根拠に基づいて6名を排除したのか。ますます説明責任が求められることになった。

 任命拒否された6名の人物像を「時事ドットコム」記事が「任命拒否が判明した推薦候補」と題して記事に乗せていた、ブログに一度使った画像から見てみる。

 6名には一定の共通した政治姿勢を窺うことができる。安倍晋三の国家主義的な強権政策に対する顕著な拒絶姿勢である。もしこのような特定の政治的傾向を持つ人物を狙い撃ち的に排除したなら、憲法が保障する思想・信条の自由の侵害そのものに当たる。

 当然、疎かにできない重大な問題であり、国民主権のみならず、思想・信条の自由に関係する任命に関わる「人事の話」である以上、説明責任は最必須の義務行為となる。益々菅義偉のような「法律に基づいて任命を行っている」といった通り一遍の説明責任では片付けることはできない。加藤勝信の「人事の話だから詳細は控える」は説明責任からの卑劣極まりない逃げ口上となる。

 この菅義偉の10月9日のグループインタビューを受けて、各マスコミ記者は誰がどのよう根拠に基づいて6名を排除したのか、官房長官の加藤勝信に対して記者会見で追及することになった。詭弁家官房長官加藤勝信の2020年10月12日午前記者会見と翌2020年10月13日午前記者会見を取り上げて、どのような経緯を踏んで日本学術会議105名の候補者が結果的に6名拒否、99名会員任命となったのか、どのようように説明されているのかを見てみる。そして最後に両日の記者会見中の任命問題に関係する箇所の全文を載せておく。

 先ず2020年10月12日午前の記者会見から。加藤勝信の発言から分かったことは99名の任命は内閣府が起案したということ。決裁文書には推薦名簿が参考資料として添付されていたが、参考資料までは詳しく見ていられなかったということで菅義偉は推薦名簿は見ていないと発言することになったということ。内閣府の起案から決済までの間には総理には今回の任命の考え方の説明が行われていたということ。そして最終的な決済が菅義偉によって為されたという手続きを踏んでいたことになる。

 では、加藤勝信が言う「任命の考え方」とは何を意味するのか。10月13日の午前記者会見になって、その最初の方で説明している。

 加藤勝信「(任命の)考え方というのはこれまで説明させて頂いているところであります。まさに推薦に則って総理が任命するという学術会議法の規定があり、他方で憲法の15条を含めてですね、国としてこれまでの総合学術会議等の提言でも、総合的・俯瞰的的扱いをされている等の指摘があり、そうしたことを踏まえて、まさにそうした任命についての考え方が説明されですね、共有されたということであります」

 これは日本学術会議会員の任命に関わる手続きの説明であって、周囲が説明責任として要求している、どのような理由・根拠で6名を任命拒否したのかの「考え方」を説明したものではない。つまり加藤勝信のこの物言いは任命に関してどういった手続きを取るのかの「考え方」の説明だけで、6名の任命拒否を決めたという矛盾を曝すことになる。

 「総合的・俯瞰的的扱い」を以ってさも任命拒否したかのように取り繕っているが、具体的説明がないと、理由・根拠にまで至らない。
 いずれにしても10月12日午前の記者会見の内閣府の起案から菅義偉の最終決裁までの手続きに関わる加藤勝信の説明によると、6名任命拒否は内閣府が決めて、内閣府から任命の考え方(=任命の手続きに関した考え方)の説明が一応行われ、菅義偉はその任命の考え方そのものを受け入れて、内閣府が決めたとおりに機械的に決裁文書に判を押したことになる。機械的な決裁だから、菅義偉は推薦者名簿を見る必要がなかったということで納得できることになる。

  この経緯は次の記者と加藤勝信の遣り取りが証明する。

 記者「決済までについては総理には考え方が示されているということを今お話されましたけども、今回6人除外というのは最終的に総理の判断で除外されたという理解でよろしいでしょうか」

 この記者の質問は加藤勝信の説明からいくと、間違っていることになる。内閣府から説明を受けた任命の考え方は任命の手続きに関した考え方に過ぎない上に105人の推薦名簿は参考文書として添付されてはいたものの、菅義偉は目を通していなくて、99名の決裁文書しか見ていないのである。菅義偉は決裁はしても、判断していないことになる。

 加藤勝信「6人除外ではなくて、99人を任命されたということでございます。それについては最終的には勿論、総理が最終決裁であります」

 決裁文書が既に99人の名前のみとなっていた。それに判を押した(決裁した)のだから、「6人除外ではなくて、99人を任命された」という経緯を取ることになる。菅義偉は6人任命拒否にノータッチだった。但し「それについては最終的には勿論、総理が最終決裁であります」と言っているが、管義偉自身が105名の中から9名を排除して99人任命の決裁をしたとは言っていなくて、既に99名となっていた決裁文書を承認しただけのことだから、厳密な意味で憲法第15条第1項に基づいた任命でもなければ、内閣法制局第一部長の木村陽一が言っているように国民主権の原理に基づいて内閣が国民及び国会に対して責任を負うことのできる任命であったかどうかは極めて怪しくなる。

 この怪しさを晴らさないことには説明責任を果たしたことにはならない。
 記者がさらに追及すると、加藤勝信は「詳細について人事の話ですので、詳細は控えさせて頂きますけれども、そういったプロセスがあったということでございます」と詳しいことは説明責任を拒否している。

 総理大臣たるものが憲法第15条第1項に則って「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とされている国民主権の原理に忠実であったかどうかが問われている「人事の話」であるにも関わらず、国民主権の原理から切り離して、単なる「人事の話」だとして説明責任を回避する。

 説明責任を回避できない「人事の話」を説明責任の回避に付すことは意図的な秘密仕立てを意味することになる。秘密仕立ては隠蔽が必要だから、秘密仕立てとする。つまり加藤勝信が国民主権が絡んでいる日本学術会員会員任命問題を「人事の話」だとして説明責任を回避するのは詭弁家らしく、詭弁で以って事実を隠蔽する振る舞いに過ぎない。

 誰がどの段階で、どのような根拠で6名任命拒否を決めたのかという追及になると加藤勝信は「決裁までの間には今回の任命の考え方について総理には説明があった」ことと「詳細について人事の話ですので、詳細は控えさせて頂きます」を決り文句にして自らの説明責任の代わりとしている。

 加藤勝信の次の発言などは詭弁中の詭弁である。

 加藤勝信「日学法の中に於いて、推薦を基にですね、質問からちょっと外れますが、推薦を基にその中から選ぶということであります。従って中から選ばれた者について総理は決裁をされたということでありますから、適法に行われているものと承知をしております」

 誰がどのような理由・根拠で推薦会員の中から選んだのかの説明責任を省いておいて、「推薦を基にその中から選ぶということであります。従って中から選ばれた者について総理は決裁をされたということでありますから、適法に行われているものと承知をしております」云々と理由・根拠を省いて、単に表面的な手続きで説明して済ましている。詭弁家の面目躍如と言ったところだろう。

 加藤勝信のこの日の午前中の記者会見の最後の発言は「最後の決裁の段階では99名にする、まさに任命行為です。99名を任命するという決裁文書は起案をされ、そのまま最終決済されたということであります。

 そこに至るプロセスについては先程申し上げたように総理に対して説明をされたということでありますから、当然、説明に当たってはそうした法律を踏まえた説明を成されていると思います」となっている。

 「最後の決裁の段階では99名にする、まさに任命行為です」と菅義偉が主体的に99名を選んだような発言をしているが、真っ赤なウソである。菅義偉のグループインタビューでの自身の発言と加藤勝信のこれまでの説明から、菅は105名の名簿には目を通していなくて、6名を抜いた99人の決裁文書しか見ていない。99人の決裁に基づいて文書に単に判を押したに過ぎない。

 最初から最後まで誰がどの段階でどのような理由・根拠で6名を除外したのかの説明責任を抜きに「最後の決裁の段階では99名にする、まさに任命行為です」と、表面的な手続きだけの説明責任で、さも正しい任命が行われたかのように取り繕う。薄汚い限りである。

 続いて「99名を任命するという決裁文書は起案をされ、そのまま最終決済されたということであります」と言っていることも、最初に言ったことの繰り返しに過ぎない。同じく誰がどの段階でどのような理由・根拠で6名を除外したのかの説明責任を抜いたまま表面的な手続きだけの説明で終えているからだ。
 
 次に2020年10月13日午前の記者会見から任命と任命拒否について、いわば菅義偉の関わりについて加藤勝信がどのようように説明しているのかを見てみる。

 記者「事務の官房副長官(杉田和博内閣官房副長官のこと)がですね、内閣府の提案に基づき任命できない人が複数いると決裁前に総理へ報告。口頭で報告したということですが、日本学術会議法には会員は総理が任命するとございます。今回の任命について総理が総理以外の方が判断された可能性について、また改めて任命に総理がどのように関与していたのか、ご説明をお願いします」

 加藤勝信「まさに任命については最終的には総理が決裁をされて、決定されたということであります。で、そのプロセスに於いてはこれまで申し上げましたように任命の考え方について説明があり、共有されたということは間違いありません。個々の遣り取りについては人事に関することでありますから、誰が何をということは今までも説明を差し控えさせて頂いております。

 その上で内閣官房副長官のお話が出ましたけども、一般論として申し上げれば、内閣官房副長官は官邸に於ける総合調整の役割を果たして頂いております」

 国民主権の原理に耐えられる任命なのか、国民及び国会に対して責任を負うことのできる任命なのかの説明責任は一切排除・無視して、ここでも表面的な手続きのみを以って任命は正しく行われたと強弁し、任命拒否の理由・根拠には何一つ触れていない。

 ここで問題なのは「任命の考え方について説明があり、共有されたということは間違いありません」と言っている点である。2020年10月12日午前の記者会見では内閣府から菅義偉に対して「任命の考え方については説明があった」とのみ述べていて、「共有」という言葉は一度も使っていない。「共有」という表現がない場合は99名任命の決裁文書を見せられ、任命に関わる手続きの「考え方について説明」があり、その「考え方」を受け入れて菅義偉が機械的に決裁したと受け取れるが、「共有」という言葉を入れると、内閣府からの「考え方について説明」に菅義偉が理解・同意して、いわば「共有」して決裁文書にサインしたという手順を取ることになり、菅義偉が任命に主体的とまでいかなくても、自身の意思をかなり加えた6人任命拒否・99人任命の決裁と言うことにすることができる。つまり日学法が規定している任命権者としての内閣総理大臣の役割を一応は保つことができる。

 では、なぜ2020年10月12日午前の記者会見では「共有」という言葉を使わなかったのだろうか。2020年10月12日22時04分発信の「時事ドットコム」が6人任命拒否の判断に内閣官房副長官(兼内閣人事局長)の杉田和博が関与していたことが関係者の10月12日の話によって明らかになったと伝えている。

 記事は書いている。〈関係者によると、政府の事務方トップである杉田副長官が首相の決裁前に推薦リストから外す6人を選別。報告を受けた首相も名前を確認した。首相は105人の一覧表そのものは見ていないものの、排除に対する「首相の考えは固かった」という。〉

 「共有」という意思関与がなく、単に「任命の考え方について説明があり」決裁しただけでは機械的な意思関与となるだけとなって、国民主権との兼ね合い、国民及び国会に対して責任を負うこととの兼ね合いから不都合が生じるゆえに主体的な意思関与があった如くに見せる必要からの、「共有」という言葉を後付けで付け加えた可能性は高い。

 この「共有」という言葉を入れれば、内閣官房副長官杉田和博が決めた6人任命拒否であっても、総理大臣の菅義偉が機械的な意思関与から決裁したのではなく、多少なりとも主体的な意思関与を示すことになって、国民主権との兼ね合いと国民及び国会に対して責任を負うこととの兼ね合いに対して少しは座りを良くすることができる。

 だが、2020年10月13日付時事ドットコム記事、「杉田副長官、審議会人事に介入 前川元文科次官が証言」の記事を読むと、国民主権との兼ね合いも、国民及び国会に対して責任を負うこととの兼ね合いも大分怪しくなる。
 
 前川喜平元文部科学事務次官が2020年10月13日に立憲民主党などの野党合同ヒアリングに出席して、2016年の文化功労者選考分科会委員の選任の際、杉田和博官房副長官に人事案の差し替えを指示されたことを明らかにしたという。

 2016年8月頃に委員のリストを杉田副長官に提出したところ、1週間ほど後に呼び出され、2人の差し替えを命じられた

 前川喜平氏「杉田氏から『こういう政権を批判するような人物を入れては困る』とお叱りを受けた」

 「こういう政権を批判するような人物」は今回、任命拒否された6人と重なる。この6人の任命拒否は杉田和博自身の拒絶反応から出たことなのか、安倍晋三が自身は表に立つことができないゆえに杉田和博を使い、裏から手を回す形で自身の6人に対する拒絶反応を菅義偉に伝えることになったことから出たことなのかである。2016年は安倍政権下であったことと安倍晋三自身が思想・信条の自由に拒絶意思を持っていることを考えると、大いにあり得る話となる。

 調べてみると、2020年10月12日午後の記者会見からであるが、加藤勝信は内閣府からの「任命の考え方の説明」のプロセスに加えて、菅義偉によるその考え方の「共有」というプロセスを付け加えて、法律に則った任命だと説明するようになった。

 だが、「共有」というプロセスを付け加えただけで、誰がどのような理由・根拠で任命拒否に至ったのかの説明は一切なく、2020年10月12日午前の記者会見同様、13日午前の記者会見も表面的な手続きだけの説明で任命を正当化する詭弁は些かも衰えない。次の発言が典型的な例となる。

 加藤勝信「ちょっと背景がありますけども、基本的には一つの考え方があり、全体としてですね、作業を変えていくわけです。一つ一つ、例えば今お話があったように一人ひとり総理が任命を一つ一つチェックしてわけではなくて、一つの考え方を共有し、それは事務方にそうしたものは、いわば任せて処理をしていく。

 別に本件に関わらずそうしたまさに通常の遣り方に則って作業を進める、作業が進められたということです」

 ここで言っている「基本的には一つの考え方があり」という言葉と「一つの考え方を共有し」という言葉は恰も6人命拒否の考え方のように聞こえるが、先に挙げた「まさに推薦に則って総理が任命するという学術会議法の規定があり、他方で憲法の15条を含めてですね、国としてこれまでの総合学術会議等の提言でも、総合的・俯瞰的的扱いをされている等の指摘があり」云々と説明している手続きの「考え方」とは矛盾することになる。

 だが、実際は共通する政治姿勢を持った6人の任命拒否なのだから、「一つの考え方」は任命拒否の理由・根拠に関係した「考え方」でなければ、前後の整合性が取れない。加藤勝信は詭弁家らしく手続きの「考え方」で誤魔化そうとしたが、不注意にも任命拒否の理由・根拠に関係した「考え方」として顔を覗かせてしまったのかもしれない。

 大体からして6人が任命拒否という結果を受けたことを見れば、6人の共通する政治姿勢から判断しさえすれば、菅義偉が内閣府から説明を受けたとしている「任命の考え方」、あるいは上に挙げた加藤勝信の発言を参考にすると、「一つの考え方」とは安倍晋三の国家主義的な強権的政策に拒絶姿勢を示す人物を、あるいは内閣官房副長官杉田和博の言葉を借りるなら、「政権を批判するような人物」を任命拒否に持っていくための「考え方」、あるいは「一つの考え方」でなければならない。こうすることによって任命拒否に関する一連の騒動の整合性が取れる。

 結果から見て、それ以外の「考え方」は存在しない。そして菅義偉たちはそのような「考え方」を「共有」し合った。

 となると、既に触れたように特定の政治的傾向を持つ人物を狙い撃ち的に排除したことになって、憲法が保障する思想・信条の自由の侵害そのものに当たるばかりか、憲法第15条第1項と第2項の悪用、日本学術会議法の第7条の悪用、国民主権の悪用に相当する。

 内閣総理大臣菅義偉のこのような悪用とその悪用に「人事の話だから詳細は控える」と秘密仕立ての隠蔽を策して説明責任を回避する官房長官加藤勝信のさらなる悪用は内閣総理大臣としての、あるいは内閣官房長官としてのそれぞれの資格に値しないことになる。即刻辞任すべきであろう。

 特に菅義偉は「雪深い秋田の農家の長男に生まれた」と庶民性をウリにしているが、とんだ食わせ者である。

 加藤勝信2020年10月12日午前記者会見

 記者「日本学術会議で憲法23条の学問の自由に関連してお伺いします。菅首相は5日のインタビューで、『学問の自由は全く関係ない。どう考えてもそうじゃないですか』とご説明されていました。この『どう考えても』というの、何をどう考えるべきか、学問の自由と全く関係がないとうことをもう少し政府の考えをお伺いできますでしょうか」

 加藤勝信「そのときの遣り取りではでね、記者の方々から独立の機関であって、研究者の中には学問の自由の侵害ではないかという指摘があることに対する答が今言われた『学問の自由とは全く関係ない』ということでありますから、これに対してその前に総理がこの学術会議についてですね、国の行政機関である等の話を、またこの場に於いても特別職の国家公務員ということ。当然、これによって日本国憲法第15条との絡み、縷々説明させて頂きました。まさにそういうことを踏まえた発言だということであります」

 記者「続けてお伺い致します。いま15条の話もありました。学術会議の任命拒否の問題についてですね、憲法上の条文との関係について、以前の関係で15条でしたりとか、その他65条、72条、併せて23条のことも仰っていたと思います。菅総理の説明云々にこの学術会議の任命拒否、そのことについては政府の見解としては23条というのは全く関係がなく、23条の観点から検討することはないというご認識でしょうか」

 加藤勝信「ですから、(5日の記者会見の)ご質問の趣旨が独立の機関であるから、学問自由との関係を仰ったもんで、それはそうではないということで言われたということでありまして、これは独立の機関ではなくて、国家行政機であるし、それから先程申し上げた特別職の国家公務員である。そうした事情の中で当然、憲法15条が指定される。

 そうした中で云々しているということ踏まえて、学問の自由とは関係ない。だから、あくまでも言葉の(聞き取れない)。だからあくまでも学問自由だけを取って言ったのではなくて、『独立の機関だから、学問の自由を侵害されているんではないか』っていうご質問に対してそういう答をされたということですから、質問と答の結構を考えて頂ければ、ご理解頂けると思います」

 記者「日本学術会議についてお伺いします。菅総理が9日のグループインタビューで任命をされなかった6人を含めて105人の会員の推薦者リストを見ていないと説明をされました。先月28日の決済直前に任命する99人のリストを見たとの説明でしたが、総理はその105名の学術会議側のリストをご覧になっていないのであれば、どのタイミングでどの方が6名を任命されないというのを決められたのでしょうか」

 加藤勝信「先ずは99名任命することについては内閣府に於ける起案から総理大臣による最終的な決済まで、過程、これは一貫していたということであります。

 総理が推薦者の名簿について見ていないと答えられたのは決裁文書には推薦名簿、参考資料として添付されてますけども、参考資料までは詳しく見ていられなかったということを指されているんだろうと思います。決済までの間には総理には今回の任命の考え方の説明は行われているところであります」

 記者「決済までについては総理には考え方が示されているということを今お話されましたけども、今回6人除外というのは最終的に総理の判断で除外されたという理解でよろしいでしょうか」

 加藤勝信「6人除外ではなくて、99人を任命されたということでございます。それについては最終的には勿論、総理が最終決裁であります」

 記者「確認ですが、決裁文書による確認後にはリストに載っていたということで、そこは十分ご覧になったのかどうか分からないということでございますが、105人の候補者が99人に絞られたという認識は総理はお持ちだったということですね」

 加藤勝信「決裁文書そのものは任命どおりですから、99名のリストを見てですね、(ハンコを打つジェスチャー)これを決済すると、これが基本です、ということになるわけですね。

 先程申し上げた決裁までの間にには今回の任命の考え方について総理には説明があったということで、詳細について人事の話ですので、詳細は控えさせて頂きますけれども、そういったプロセスがあったということでございます」

 記者「詳細について総理に考えを示されたということでございますが、総理の先日のインタビューを受けて、日学法に基づいていないのではないかという専門家からの指摘もあります。

 つまり105人の推薦を十分に見ることなく任命決裁をしたことは違法行為という指摘ですけど、政府としてはこうした指摘は当たらないという認識ですか」

 加藤勝信「日学法の中に於いて、推薦を基にですね、質問からちょっと外れますが、推薦を基にその中から選ぶということであります。従って中から選ばれた者について総理は決裁をされたということでありますから、適法に行われているものと承知をしております」

 記者「今回の任命の考え方について総理にご説明があったというお話でした。逆に菅総理の側からこういった方針で任命する対象者を選んでほしいとかですね、そういった方針が起案する事務局に当たる部分なのか、起案者に何らかの指示があったのでしょうか、その辺をお聞かせください』

 加藤勝信「人事上の判断にかかりますので、そこら辺の細かい遣り取り等は控えたいと思いますが、先程申し上げたように決裁までの間に総理に対して今回の任命の考え方が説明の機会があったということです」

 記者「会員の総理の任命権というものは非常に重いものがあると思います。任命をし、推薦をされた方がですね、見送られるということに関してはより慎重な任命の行使というものがひつようかと思うのですけども、105人はですね、段階で見ていないと、99人のリストしか見ていないということはですね、首相が任命権を行使されたということに関しては適切であったとお考えでしょうか」

 加藤勝信「ですから、先程申し上げたように任命の考え方については説明する機会があった。それを踏まえて最終的に判断でですね、それを決裁、99名の任命をして頂いたということでございます。

 全く法律上ですね、出てきた推薦の案そのものを全然無視してやっているのではなくて、その中に日本学術会議から頂戴した推薦リスト、これに基づいて任命を行ったというわけであります」

 記者「今までの説明で全く法律上の推薦の案を無視してやっているわけではないというご説明がありました。例えば日学法17条を見ますと、日本学術会議は会員の候補者を選考し、内閣総理大臣に推薦するものというふうにされています。そうしますと、この105人のリストを参考資料として検討したとしても、推薦者として示されていたのが99人であれば、これは直接99人の推薦を総理に見せるという行為とこの17条の整合性はどういうふうにご説明されるのでしょうか」

 加藤勝信「ですから、最後の決裁の段階の話させていただいて、最後の決裁の段階では99名にする、まさに任命行為です。99名を任命するという決裁文書は起案をされ、そのまま最終決済されたということであります。

 そこに至るプロセスについては先程申し上げたように総理に対して説明をされたということでありますから、当然、説明に当たってはそうした法律を踏まえた説明を為されていると思います」

 

 加藤勝信2020年10月13日午前記者会見

 記者「事務の官房副長官がですね、内閣府の提案に基づき任命できない人が複数いると決裁前に総理へ報告。口頭で報告したということですが、日本学術会議法には会員は総理が任命するとございます。今回の任命について総理が総理以外の方が判断された可能性について、また改めて任命に総理がどのように関与していたのか、ご説明をお願いします」

 加藤勝信「まさに任命については最終的には総理が決裁をされて、決定されたということであります。で、そのプロセスに於いてはこれまで申し上げましたように任命の考え方について説明があり、共有されたということは間違いありません。個々の遣り取りについては人事に関することでありますから、誰が何をということは今までも説明を差し控えさせて頂いております。

 その上で内閣官房副長官のお話が出ましたけども、一般論として申し上げれば、内閣官房副長官は官邸に於ける総合調整の役割を果たして頂いております」

 記者「日本学術会議の任命についてお伺いします。内閣府は99人を任命する決裁文書を起案したのは9月24日ですが、昨日の説明ではそれまでの間に首相に対して考え方が説明され、共有化され、それに基づいて具体的な作業がされたというご説明を頂きました。

 この考え方、共有とはどのような内容なのか、改めてお伺いします」

 加藤勝信「考え方というのはこれまで説明させて頂いているところであります。まさに推薦に則って総理が任命するという学術会議法の規定があり、他方で憲法の15条を含めてですね、国としてこれまでの総合学術会議等の提言でも、総合的・俯瞰的的扱いをされている等の指摘があり、そうしたことを踏まえて、まさにそうした任命についての考え方が説明されですね、共有されたということであります」

 記者「考え方の説明をされました。共有化後を確認させていただきたいのですが。昨日の会見でもですね、共有化というのは総理から指示があったのか。それとも事務方で判断したのか、そこら辺を昨日の会見でもはっきりしたことは私の方も至らなかったこともあるのですけども、共有化の遣り取りってどういう遣り取りがあったのでしょうか」

 加藤勝信「これも先程申し上げましたように人事に関してですから、誰がどこで何を言ったかと言うことについてはこれは差し控えさせて、これまでも控えさせて頂いているのですが、いずれにしてもそういう説明についてお互い共有したということです」

 記者「確認ですが、9月24日の99人推薦の起案までに首相が基本的な考え方の説明を受けて、共有化されたものの、この105人の名簿見ていないということでよろしいでしょうか」

 加藤勝信「ちょっと背景がありますけども、基本的には一つの考え方があり、全体としてですね、作業を変えていくわけです。一つ一つ、例えば今お話があったように一人ひとり総理が任命を一つ一つチェックしてわけではなくて、一つの考え方を共有し、それは事務方にそうしたものは、いわば任せて処理をしていく。

 別に本件に関わらずそうしたまさに通常の遣り方に則って作業を進める、作業が進められたということです」

 記者「総理は先週のインタビューでですね、会員は後任を事実上指名することもできる仕組みだと述べられています。内閣府の事務局や学術会議からはそうした使命は不可能との指摘が出ているんですが、総理の発言の趣旨をお聞かせください」

 加藤勝信「まずは総理から会員の人選は推薦委員会などの仕組みがあるものの、現状では事実上、現在の会員が自分の後任を示すことも可能な仕組みになっているということを言われたわけです。学術会議の選考に当たってはまさに現在の会員・連携会員から候補者の推薦を受けて、選考の上に、候補者が発生されている。そして選考委員会の選考を経て、候補者名簿を作成するので、推薦をされた者(シャ)が必ずしも候補者となるとは限らないというのが、そのとおりでありますが、総理の発言はまさに現在の会員が候補者を推薦できてる。

 そして結果として現在の会員に推薦された者(シャ)が候補者名簿に載り、総理から現在の会員が後任を推薦こともあり得るということを述べられたということであります」

 記者「総理の発言の趣旨を長官が度々説明されたり、先日も菅総理の名簿を見ていないという発言、真意を巡って昨日も長官、度々説明されました。
やはり改めて菅総理が国民に向かって説明するということ必要だと思うんですけども、記者会見を開く対応などについて官房長官の考えがあれば、お願いします」

 加藤勝信「まさに総理の発言に対して皆さんから質問があるので、私は勉強しているわけでありまして、私が積極的に何か解説をしているわけではありません。従って、こうした場に於いて、まさにこの記者会見は政府の考え方を説明する場所でありますから、基本的に総理の考え方を説明する場所と言ってもいいんだろうと思います。まさにそういった場でその役割を果たさせて頂いているというふうに思っております」

 記者「先程の基本的な考え方が共有化されたということについてなんですけども、結果的に除外された6人の個人名やどういった業績があるかということを首相が事務方から説明を受けたっていうことはそれはいつなんでしょうか。

 この24日までの間にこの99人とは別に6人の個人名を総理は把握されていたという理解でよろしいでしょうか」

 加藤勝信「それは先程申し上げておりますように個々の人事の関係がありますから、個々の遣り取りについては申し上げておりませんが、まさに今申し上げた任命するに当たっての考え方について説明があり、そのことが共有化され、それに則って作業が為された。そしてそれに基づき起案が為され、最終的に総理が決裁をされた。まさにそういうプロセスであります」

 記者「24日までに説明があり、遣り取りがあったというのは全て口頭の遣り取りがあったということでしょうか」

 加藤勝信「すみません、個々の詳しい遣り取りは私は承知をしておりません」

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菅内閣の日本学術会員6名任命拒否は憲法第15条と全体の奉仕者であることを忘却したとんだ食わせ者の無責任の蔓延

2020-10-12 09:38:42 | 政治
 日本学術会議の会員任命は1938年当時の国会答弁では「学会の方から推薦をしていただいた者は拒否しない、形だけの推薦制である」としていた政府側の日本学術会議法解釈が今回菅義偉によって6名が任命拒否されたことに政府側が “任命をそのまま受け入れなくてもよい”とする法解釈を掲げたことは明らかに日本学術会議法の法解釈変更であって、この法解釈変更は前以って国会及び国民に説明する責任を負うと前のブログで書いた。

 だが、政府側は解釈変更ではないとする新たな根拠を掲げた。2020年10月7日の衆議院内閣委員会閉会中審査と翌日の2020年10月8日の参議院内閣委員会閉会中審査で政府側証人が答弁で披露した。もちろん、その根拠の正当性如何が問われることになる。

 政府側が掲げた根拠に正当性があるのかどうか、衆議院内閣委員会閉会中審査からは自民党の薗浦健太郎と立憲民主党の今井雅人、参議院内閣委員会閉会中審査からは立憲民主党の元TBS記者杉尾秀哉の関係する質疑応答を取り上げ、窺ってみる。

 薗浦健太郎は東京大学法学部卒、48歳、元読売新聞社記者、麻生太郎衆議院議員政策担当秘書、千葉5区当選4回、靖国神社への内閣総理大臣やその他の国務大臣の参拝は問題ない、選択的夫婦別姓制度の導入に反対、伝統と創造の会幹事長等の顔を持っている。

 薗浦健太郎「今話題になっている学術会議についていくつか質問します。学術会議の会員は特別職の国家公務員です。国民の税金で運営されています
。今は大変な時期で枠を超えた科学的知識の結集というのが求められている。

 学術会議は政府機関ですが、どういう役割が期待される組織なのか、また任命権の話が出ていますけども、今回の措置が日学法違反ではない、学問の自由を侵害したものではないということを国民に分かるように明確にご説明して頂きたいと思います」

 自民党議員らしく政府の任命拒否を全て肯定する立場から質問をしている。

 三ッ林裕巳(ひろみ・内閣府副大臣)「日本学術会議は我が国の科学者の内外に対する代表機関として科学の向上・発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映・浸透させることを目的として設置された国の行政機関であり、その会員の任命権者は日本学術会議法に於いて内閣総理大臣とされております。

 憲法第15条の規定により明らかにされているとおり、公務員の選定・罷免権が国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者たる内閣総理大臣が推薦のとおりに任命しなければならないというわけではなく、日本学術会議会員が任命制になったときから、このような考え方を前提としております。

 任命権者たる内閣総理大臣がその責任をしっかりと果たしていくという一貫した考え方に立った上で会員を任命する仕組みは時代に応じて変遷しており、その中で日本学術会議に総合的・俯瞰的観点からの活動を進めて頂くため、任命権者である内閣総理大臣が日本学術会議法に基づいて今回の任命を行ったものであり、法律違反という指摘は当たらないものと考えております。

 また憲法23条に定められた学問の自由は広く全ての国民に保障されたものであり、特に大学に於ける学問・研究、その成果の発表、教授は自由に行われるものであることを保障したものであると認識しております。

 従いまして先程述べた任命の考え方は会員等で個人として有している学問の自由への侵害になるとは考えておりません」

 薗浦健太郎「(1983年(昭和58年)11月の参議院文教委員会の)政府側答弁から解釈変更があったのかどうか」

 三ッ林裕巳「昭和58年の日本学術会議法改正の際に形式的な発令行為という趣旨の政府答弁があったということは承知しております。日本学術会議の会員は特別職の国家公務員であり、憲法第15条第1項の規定に明らかにされているとおり、公務員の選定・罷免権は国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者である内閣総理大臣が推薦どおりに任命しなければならないというわけではない。

 昭和58年の法改正により、日本学術会議会員が任命制になったときから、このような考え方を前提にしており、解釈変更を行ったものではありません」

 6人の任命拒否は法解釈変更ではないとする新たな“法解釈”が国会で示されたことになる。実はこの新手の法解釈が示されている文書をこの衆議院の閉会中審査が開催された2020年10月7日の前日、2020年10月6日に内閣府と野党とのヒアリングで内閣府が野党に対して公表したと各マスコミが伝えている。その中で2020年10月8日付の『東京新聞」がその文書にハイパーリンクをつけて紹介している。『日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について』(内閣府日本学術会議事務局/2018年11月13日)

 広く知るべし・広く知って貰いたいという意味でハイパーリンク付きで紹介したのだと思う。記事は「内部文書」扱いしている。2年間も公表せずに身内だけの了解事項としていたのだから、内部文書なのは当然で、それ以上にハンコを打ってなくても、マル秘文書扱いしていたと批判されたとしても、文句は言えまい。

 この文書の核心部分は首相が学術会議の推薦通りに任命する義務はないとしている点だとマスコミが伝えている以上、野党側は2020年10月7日と10月8日の国会での学術会議6名任命拒否の追及に当たって、この文書の総理大臣の日本学術会議会員任命規定は法解釈変更に当たるか、あるいは正当性に何らかの欠陥があるとする理論武装を打ち立て、追及に臨まなければならなかった。

 この手の理論武装が何一つできなかったなら、法解釈変更だとする反旗を早々に降ろして、政府の言い分を全て認めるべきだろう。なぜなら、野党の法解釈変更の追及に対して政府側は「日本学術会議の会員は特別職の国家公務員であり、憲法第15条第1項の規定に明らかにされているとおり、公務員の選定・罷免権は国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者である内閣総理大臣が推薦どおりに任命しなければならないというわけではない」ことと、「昭和58年の法改正により、日本学術会議会員が任命制になったときから、このような考え方を前提にしており、解釈変更を行ったものではない」を今後とも法解釈変更否定の正当性論理として用い続けるのは火を見るよりも明らだからだ。実際にも10月7日だけではなく、10月8日も使い続けて、法解釈変更否定の論拠としている。

 10月7日の今井雅人にしても、10月8日の杉尾秀哉にしても、両者共に『日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について』の文書に触れているから、理論武装して論戦に臨まなければならなかったが、果たして臨んでいたのだろうか。先ずは今井雅人の追及から。

 今井雅人「この問題について色々と言われているのはこの問題の本質はただ一点だけだと思っている。それは人事の公正性です。安保法制のときに集団的自衛権に慎重だった内閣府法制局長官が更迭されました。中立であるべきNHKのトップにお友達人事というのがあった。

 最近記憶の新しいところでは黒川検事長。これは検事総長にしたいからと言われているけれども、それまでの解釈を捻じ曲げて定年延長するということも行われてきた。そして今回学問の世界にまで恣意的人事が行われているんではないだろうか。そういう疑義が出てきている。ですから、今日の私の質疑は果たしてそうしたことは行われたんだろうかということについて質疑をさせて頂きたいと思っています。

 少し私の方が整理させていただきますと、日本学術会議は昭和24年に設立されましたが、昭和58年に法律の改正が行われております。このときに推薦する会員を選挙制から推薦制に替えたのは皆さんご存知です。このときの議事録を今日読ませて頂きますが、2つあります。一つは『実質的に総理大臣の任命で会員の任命を左右するものではない』

 二番目はこちらの方が大事ですね。明確に書いてありますけども、210名の会員が会員・連携会員から推薦されておりまして、ここから入りますから、『そのとおり』、そのとおり、『内閣総理大臣が形式的な発令を行うというように私どもは解釈してございます』という答弁をされています。

 このとおりですね、憲法15条、65条、72条を根拠とした上で、こういう解釈をしている。そういうことなんですね。そして平成16年、今度ね、協力研究学術団体を基礎とした推薦制から日本学術会議が会員候補を推薦する方向に変更するという案に改正されました。このときの議事録を全部読ませて頂きましたが、この形式的な任命ということを変更するということに関しては何も議論されておりません。

 ですから、58年の見解をそのまま踏襲しているというふうに考えられます。問題はそのあとなんです。次のページに添付しておりますが、平成30年の11月13日、『日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について』というペーパーがここにございますけども、これが出てきてるんですけども、問題となっているのは2ページ目ですね。上のところです。3行目です。『内閣総理大臣に日学法第17条による推薦のとおりに任命すべき義務があるとまでは言えないと考えられる』。そういう整理がされているんです。

 そこで質問させて頂きます。昭和58年の答弁はですね、『推薦されたものをそのとおり内閣総理大臣が形式的に発令するというふうに私共は解釈しています』

 このように答弁しております。しかし平成30年は『必ずしもそれは義務ではない』ということですね。これは両方とも憲法15条を照らした上でこういうふうになっていて、これは小学生が読んでも表現は違いますね。片方は『形式的に任命してくださいねというふうに私共は解釈しています』

 もう一つは『それは義務ではない』ということです。明らかに違うことを言っていることになる。この違いは私は解釈変更だと思うんですが、当時はこれは解釈変更だと思われませんか。憲法がどうのこうのってやめてくださいね。両方とも、憲法第15条に基づいた上でこういう答弁が、別々の表現があるので、その整合性はどうなのかということを聞いている」

 大塚幸寛(内閣府大臣官房長)「お答え申し上げます。あの、今回任命につきましては任命権者である内閣総理大臣がこの法律に基づきまして特別職国家公務員として会員としたのでございます。憲法第15条第1項を引用させて頂きますが、これはやはり公務員の選定・罷免軒が国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者である内閣総理大臣が、推薦どおりに任命しなければならないということはないということでございまして、これは会員が任命制になったときからこのような考え方を前提としておりまして、考え方を変えたということはございません」

 今井雅人「じゃあ、お伺いしますけども、58年のときの答弁、間違っているということですか、これ。だって、推薦された者をそのとおりに内閣総理大臣が形式的に発令を行うという解釈をしておりますよ。明確に答えられておりますが、そのときからそうじゃなかったという答弁をされておりますけども、そのことはその答弁は間違っていたということでございますか」

 大塚幸寛「58年の答弁は承知してございますが、今回の任命につきましては先程申し上げましたようにあくまでも任命権者である内閣総理大臣が推薦どおりに任命しなければならないわけではなく、これにつきましては任命制になったときからこのような考え方は一貫しており、その考え方のもとで採用したということでございます」

 ここで一言入れる。「任命権者である内閣総理大臣が推薦どおりに任命しなければならないわけではない」規定となっていて、「任命制になったときからこのような考え方は一貫している」なら、なぜ昭和58年のような全員任命の答弁になったのかという質問も成り立つが、「それは当時の答弁者に聞いてみなければ真意は分かりません」と巧妙狡猾な言い抜けで逃げるのは目に見えているが、巧妙狡猾な言い抜けであることを知らしめるために質問する価値はあると思う。

 今井雅人「時間がないので、何も答えていないですよ。何も答えていないですよ。だって、明確に言ってるじゃないですか。『そのとおり内閣総理大臣が形式的発令行う』って言ってるんですよ。先程参考人は違うことを仰ったんですよ。そういう答弁をしているから、副大臣、どうですか。今伺って、おかしいと思いませんか?おかしいと思いません?どうですか」

 三ッ林裕巳(内閣府副大臣)「昭和58年の国会答弁、私も承知はしております。決して今回の任命につきましては任命権者である内閣総理大臣が日本学術会議法に基づいて特別職の国家公務員として会員を任命したということでことであります。憲法第15条第1項に明らかにされているとおり公務員の選定・罷免軒は国民固有の権利であるという点からすれば、任命権者である内閣総理大臣が推薦とおりに任命しなければならないわけではありません。

 日本学術会議が任命制になったときからこのような考え方を前提としており、考え方を替えたということではありません」

 今井雅人「私の日本語の能力が足らないんでしょうか。このとおり形式的な発令を行うということは必ずしも義務ではないことと一緒なのか。とても理解できないですよ。ちょっともう一回整理して、きちっと整理してください。言っていることがメチャメチャですよ。いいです、(答弁を)求めておりません。

 その上でですね、突然、平成30年の11月13日にこういう(手に持ったペーパーのこと――『日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について』のこと)論点整理みたいなことが行われているんですね。こういうことが行われるということは必ず端緒があるはずですよ。きっかけ。

 なぜこのときにこういう議論をしなけれがいけなかったのか。それを説明してください」

 福井仁保(内閣府日本学術会議事務局長)「私の方から説明させて頂きます。平成29年に今の期前の第24期の半数改選がございます。このあと1年程経って、今回の25期の半数改選に於きまして、非任命者よりも多い候補者を推薦すること、これについて推薦と任命の関係の法的整理を行ったものと承知をしております」

 今井雅人「事実関係だけちょっと申し上げますね。決めつけるわけではありませんが、平成30年の11月13日、この直近5年間で色んな重要な法案が可決されています。平成25年特定秘密保護法、平成27年安保法、平成29年(「テロ等準備罪」を構成要件とした)共謀罪法(正確に聞き取れなかった)。このとき多くの学者が反対しました。この翌年にこのペーパー。時系列で行くと、そういうところなんですよね。

 だから、みなさんが、これ関係あるんじゃないのっていうふうに思ってしまっている。事実は分かりません。しかし時系列から行くと、そういうことになるんです。で、お伺いしたいのですが、この検討は官邸の方から検討して頂きたいと、こういう指示がありましたか」

 福井仁保(内閣府日本学術会議事務局長)「官邸の指示に基づいて始めたものではないというふうに承知をしております」

 今井雅人「官邸関係から一切指示はなかったですか」

 福井仁保「そのように承知をしております」

 今井雅人「分かりました。私は先程申し上げたとおり、この文章をどう読んでも解釈の変更としか読めません。であれば、やはりこれは変更したときに国会なりに報告をすべきだと。つまりこの答弁、58年の答弁と違う整理をしてるんですね。それは解釈変更だと言われても仕方ありません。それをなぜ公表しなかったか教えて下さい。公表と根拠です」

 福井仁保「当時事務局としても当たるべき当面の(?)現状ということで始めさせて頂いたので、特に公表するようなものとして理解しておりませんでした」

 今井雅人「先程の私の議論を聞いて頂いたと思いますが、58年のときはそのまま推薦者を形式的に任命するというふうに解釈をしています。しかし今回の整理は必ずしも全てを推薦する義務はないというふうにですね、明らかに違うことを言っているんですね。58年のときは『解釈』という言葉まで使っています。そういう解釈をしています。で、ご丁寧にその後ですね、『内閣法制局に於きまして法律案の審査のときに於きまして十分にこの点を詰めたところでございます』

 ご丁寧に『内閣法制局で見解まで詰めました』ていう、ここまで言ってるんですよ。ここまで言っておいて、これと違う内容を言ったのに解釈の変更じゃないと、報告の義務はないと。おかしいと思いませんか」

 大塚幸寛(内閣府大臣官房長)「解釈の変更ということに関しましては改めてお答え申し上げますが、58年の答弁についても形式的な発令行為と発言されている。これは事実でございます。

 ただ、必ず推薦のとおりに任命しなければならないという言葉では言及されておりません。その前提と致しまして憲法第15条第1項の公務員の選定・罷免軒は国民固有の権利であるという考え方が当時からございまして、任命権者である内閣総理大臣が推薦とおりに任命しなければならないわけではない。その解釈は一貫しているものでございます」

今井雅人「話になりません」

 以下、今井雅人の追及は続くが、堂々巡りの罠にはまってしまって、そのことに気づかずに堂々巡りを続けているから、この辺で切り上げることにする。

 次は立憲民主党杉尾秀哉。

 杉尾秀哉(政府側作成の「答弁問答」のペーパーを手に持ち)「1983年5月2日(検索してみたが、出てこない)参議院文教委員会、そして1983年5月12日の同じく参議院の委員会。中曽根総理、丹羽大臣、政府側証人、繰り返し繰り返しですね、『学術会議は政府の指揮監督を受けない』、『総理の任命で会員の任命は左右されない』

 中曽根総理に至っては『政府が行うのは形式的任命に過ぎない』。この答弁問答どおりに答弁されている。11月には丹羽大臣が『学会の方から推薦を頂く者は否定しない』とはっきりと仰ってます。これがなぜ、資料(閣府日本学術会議事務局作成文書のこと)、お配りしましたけども、資料3でございます。それがなぜ2018年、『推薦どおりに推薦する義務はない』。こういう文書になったんです」

 大塚幸寛(内閣府大臣官房長)「お答え申し上げます。1983年、昭和58年の日本学術会議法改正の際に先程私も読み上げました形式的発令であるという趣旨の政府答弁であることは承知をしております。一方で憲法第15条第1項の規定に明らかにされているとおり、公務員の選定・罷免権は国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者たる内閣総理大臣が推薦どおりに任命しなければならないというわけではない。

 これは1983年、昭和58年の法改正によりこの学術会議が任命制になったときからこのような考え方を前提でしているものでございます」

 杉尾秀哉「今答弁したように憲法15条、67条、72条、こういう議論というのは1983年当時にやった記録というのはあるんですか」

 木村陽一(内閣法制局第一部長)「この58年の法改正のときに法制局として何か、例えば答弁しているという記録は恐らくないと思います。ご指摘の答弁問答ですございますけども、当時総理府が撮影したものでありまして、その記載がなされるに当たりましてどのような議論がなされたのかにつきまして詳らかではございません。

 昭和58年の対象になっております日本学術会議法の一部改正の立案の以前から、政府と致しましてはこれも学問の自由や大学の自治に関係する文部大臣による国立学大学学長等の人事に関してで憲法第15条第1項の規定に明らかにされている公務員の選定・罷免権は国民にあるという国民主権の原理との調整の必要性については累次答弁をしてきております。

 このような国民主権の原理を踏まえますと、内閣が国民及び国会に対して責任を負えない場合にまで申し出のとおりに必ずしも任命しなければならない義務があるわけではないと一貫して考えてきております。

 従いまして昭和58年の日本学術会議法の一部改正に於きましてもこれと同様の考え方に基づいて立案が成されているというふうに考えているところでございます」

 杉尾秀哉「1983年当時、そういう議論をしたことを示す文書はまったくない。学者の間でも今のような説明は明らかに詭弁だと。2016年、2017年に事実上解任して、このあと義務はないと言う文書を創ってるんですよ。後付の理屈以外に考えられない」

 杉尾秀哉も堂々巡りの罠にはまり込んでいる。これ以上質疑を文字起こししても意味はないから、切り上げることにした。

 今井雅人も杉尾秀哉も1983年(昭和58年)11月当時の参議院文教委員会での日本学術会議会員任命に関する政府側答弁と今回の6人任命拒否の実態乖離に拘り過ぎて、つまり解釈変更ではないか、解釈変更ではないかの一点張りで、政府側が任命拒否の正当性論拠としている、あるいは法解釈変更否定の論拠としている2018年11月13日付の内閣府日本学術会議事務局作成文書(『日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について』)内容の正当性に注意を向けていない。

 注意を向けない結果、実際に質疑応答を見てきたとおりにこの文書を論拠とした政府側の任命拒否の正当性、あるいは法解釈変更否定正当性は延々と繰り返されて、追及は野党側が望む答えを何一つ見い出すことができない堂々巡りに陥ることになる。

 今井雅人は「平成30年の11月13日、『日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について』というペーパーがここにございます」と言い、杉尾秀哉は「このあと義務はないと言う文書を創ってるんですよ。後付の理屈以外に考えられない」云々の表現で内閣府日本学術会議事務局作成の文書に触れているから、目を通していないはずはない。目を通していなければ、質問もできない。だが、この文書が結論の一つとしている「内閣総理大臣に、日学法第17条による推薦のとおりに任命すべき義務があるとまでは言えないと考えられる」と1983年(昭和58年)11月当時の政府側答弁の違いに拘ることになった。
 
 先ず2018年11月13日内閣府日本学術会議事務局作成の「日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について」は法解釈変更そのものの文書となっている。

 この文書の4ページに次のような記載がある。

 〈3 日学法第7条第2項に基づく内閣総理大臣の任命権の在り方について

 内閣総理大臣による会員の任命は、 推薦された者についてなされねばならず、推薦されていない者を任命することはできない。その上で、 日学法第17条による推薦のとおりに内閣総理大臣が会員を任命すべき義務があるかどうかについて検討する。〉との文言で検討開始を伝えている。

 総理大臣が学術会議の推薦通りに任命する義務はないとする法解釈について内閣府副大臣の三ッ林裕巳は「昭和58年の法改正により、日本学術会議会員が任命制になったときから、このような考え方を前提にしており、解釈変更を行ったものではありません」と言い、内閣府大臣官房長の大塚幸寛も「これは会員が任命制になったときからこのような考え方を前提としておりまして、考え方を変えたということはございません」と両者共に法解釈変更を否定して、学術会議の推薦通りに任命する義務はないとする規定は、いわば1983年当時からの終始一貫したものであることを正当性論拠としているが、総理大臣が学術会議の推薦通りに任命する義務はないとする法解釈が1983年当時からの終始一貫したものあるなら、〈日学法第17条による推薦のとおりに内閣総理大臣が会員を任命すべき義務があるかどうかについて検討する。〉(内閣府日本学術会議事務局文書)必要性は生じない。

 もし別の結論を得る検討なら、検討内容は〈日学法第17条による推薦のとおりに内閣総理大臣が会員を任命すべき義務があるかどうか〉でなく、総意的な可能性として望んでいる別の検討内容が記されていなければならない。あくまでも〈推薦のとおりに内閣総理大臣が会員を任命すべき義務があるかどうか〉を総意的な可能性として望んだ検討である。

 そして検討の結果、望んだ通りの結論が同じ4ページに次の通り記載されている。決して前々からある結論ではない。前々からある結論を踏襲しているなら、そうであることを伝える文言が記されなければならない。

 〈(1)まず、
 ①日本学術会議が内閣総理大臣の所轄の下の国の行政機関であることから、憲法第65条及び第72条の規定の趣旨に照らし、内閣総理大臣は、会員の任命権者として、日本学術会議に人事を通じて一定の監督権を行使することができるものであると考えられること

 ②憲法第15条第1項の規定に明らかにされているところの公務員の終局的任命権が国民にあるという国民主権の原理からすれば、任命権者たる内閣総理大臣が、会員の任命について国民及び国会に対して責任を負えるものでなければならないことからすれば、 内閣総理大臣に、日学法第17条による推薦のとおりに任命すべき義務があるとまでは言えないと考えられる。〉・・・・・・

 まさに法解釈変更を行った瞬間である。三ッ林裕巳と大塚幸寛が内閣総理大臣のこのような任命規定を前提として1983年の日学法改正が行われたとする答弁は真っ赤なウソそのものとなる。

 問題は法解釈変更ということだけではない。法解釈変更の主たる論拠を憲法第15条第1項の規定に置いているが、第1項の規定に基づいて任命拒否を可能とするにはそれ相応の責任が生じる点について触れていない点が問題となる。先ず憲法第15条そのものを見てみる。

 日本国憲法「第3章国民の権利及び義務第15条」
 
 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
 2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
 3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

 国民主権の原理から言って、国民にあるとする公務員の終局的任命権は総理大臣の学術会議会員の任命権よりも優先することになる。いわばあくまでも国民固有の権利に基づいて総理大臣が国民の任命権を代行することになる。代行である以上、誰に対してどのような任命権を発令したのかの説明責任を国民に対して自動的に負うことになる。日本学術会員の任命権は直接的には総理大臣が握っているからと言って、好き勝手に、あるいは自らの思想信条の好みで選定・罷免していいわけではない。

 公務員の選定・罷免に関して内閣総理大臣が国民に説明責任を負うことは上に挙げた内閣府文書にも、〈任命権者たる内閣総理大臣が、会員の任命について国民及び国会に対して責任を負えるものでなければならないことからすれば、〉と明確に触れている当然の役割であろう。説明責任がなければ、〈会員の任命について国民及び国会に対して責任を負えるもの〉かどうかは国会も国民も判断不可能となる。

 公務員の選定・罷免が総理大臣個人の恣意性に流されるといった障害を避けるためにも、公務員の選定・罷免を固有の権利としている国民に対して直接的任命権者である内閣総理大臣による選定・罷免の説明責任は必須の条件となる。選定・罷免の説明責任を疎かにして国民固有の権利に基づいて公務員の選定・罷免を行いましたではその選定・罷免が正しく行われたのかどうかは国民は知り得ない立場に置かれることになり、憲法第15条第1項の規定を総理大臣自らが蔑ろにすることになる。

 憲法第15条第1項の蔑ろ・軽視は憲法第15条第2項の規定、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」の「すべての公務員」の中に総理大臣も入るのだから、「全体」の中から国民を抜いた「一部の奉仕者」に成り下がる。

 だが、6名任命拒否を首相の菅義偉は「法に基づいて適切に対応した結果だ」とし、官房長官の詭弁家加藤勝信も「任命権者である総理大臣が法律に基づいて任命を行った」と述べるのみで、6人をどのような理由で任命から外したのか、一切の説明責任は果たしていないし、果たそうとする姿勢すら見せていない。まさに「全体の奉仕者である」ことを忘れている。
 菅義偉と加藤勝信のこのような態度は菅内閣全体で憲法第15条違反を侵していることになる。

 菅義偉はこのような日本国憲法違反だけではなく、日本学術会議法違反も侵していることが分かった。「菅首相、推薦リスト「見てない」 会員任命で信条考慮せず―学術会議会長と面会も」(時事ドットコム/2020年10月09日19時49分)

 ここで別「時事ドットコム」記事の「任命拒否が判明した推薦候補」の画像を参考のために引用しておく。
 記事は2020年10月9日の午後4時半頃から30分程度行われた内閣記者会加盟報道各社のグループインタビューでの菅義偉の発言を伝えている。

 菅義偉(日本学術会議側が作成した105人の推薦リストは)「見ていない。広い視野に立ってバランスの取れた行動を行い、国の予算を投じる機関として国民に理解される存在であるべきことを念頭に判断した。

 (会員任命を最終的に決裁したのは9月28日で)会員候補リストを拝見したのはその直前だったと記憶している。その時点では最終的に会員となった方(99人)がそのままリストになっていた」
 憲法第15条第1項の規定「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」を根拠に日本学術会議会員の任命権者である内閣総理大臣が「国民固有の権利」を代行して会員任命を行う規定に基づいて、〈会員の任命について国民及び国会に対して責任を負えるものでなければならないことから〉、会員の選別も止むを得ないと内閣府文書で法解釈変更を行っていながら、憲法第15条第1項の規定と内閣府文書の法解釈変更をも反故にして、6人の任命拒否は私が行ったのではないとしている。

 しかも、説明責任をないままにして「広い視野に立ってバランスの取れた行動を行い、国の予算を投じる機関として国民に理解される存在であるべきことを念頭に判断した」と平気で言える無責任はとんだ食わせ者である。説明責任があって初めて総理大臣の任命が「広い視野に立ってバランスの取れた行動を行い、国の予算を投じる機関として国民に理解される存在である」かどうか、個々の会員についても、団体そのものについても、判断可能となる。

 記事は、任命拒否は〈学者個人の思想・信条が影響したかについても「ありません」と否定した。〉と伝えているが、任命拒否理由の具体的な説明責任がないままである以上、否定どおりに受け取りなさいとすることはできない。

 菅内閣な日本学術会員6名任命拒否を巡ってかくまでも無責任を曝した。菅義偉は「雪深い秋田の農家の長男に生まれた」との庶民性をウリにしているが、とんだ食わせ者である。

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菅義偉の「雪深い秋田の農家の長男に生まれた」がウリの庶民性はとんだ食わせ者の日本学術会議推薦会員候補6人任命拒否の思想統制

2020-10-05 06:27:02 | 政治
 菅義偉の日本学術会議候補委員6人任命拒否の直近の騒動に関わるこのブログ記事はマスコミ報道をほぼ纏めたもので、ほんの少したいして役にも立たない自分の考えを述べている。

 先ず2020年10月1日午後、各マスコミは10月1日から任期開始の日本学術会議新会員の6名を菅義偉が任命拒否したと伝えた。初めて知ったことがだ、「日本学術会議法」というのがあって、新会員は日本学術会議が推薦、その推薦どおりに首相が任命する仕組みになっているという。その6人というのは特定秘密保護法批判、安全保障関連法反対、安倍式9条改憲反対、改正組織犯罪処罰法案批判の態度を示してきた学者たちだという。

 2020年10月1日付「東京新聞」が拒否の経緯を画像に纏めているから、参考引用しておくことにする。

 要するに任命拒否された学者は安倍晋三の復古主義的国家主義思想に反対の面々ということになり、後継の菅義偉が任命拒否したということは安倍政治のみならず、安倍晋三の復古主義的国家主義思想をも引き継いで、任命拒否に法的正当性の有無に関わらず自分たちの政治思想に反する学者を排除し、一種の思想統制を謀ったことになる。

 簡単に言うと、思想面で気に入らない者は遠ざけ、気にいる者のみを近づける。このようなことは法律に縛られている人事については到底、許されない。法律に縛られない人事、例えば国家主義者団体日本会議は法律に縛られているわけではないから、特定の思想に基づいて誰を会員にするか、誰を役員にしないかは自由である。日本会議の国会議員懇談会が安倍晋三と麻生太郎を特別顧問にしようがしまいがお好きにどうぞである。

 先ず「日本学術会議法」の主な規定を拾ってみる。文飾は当方。

 「第2章 職務及び権限」

 第3条 日本学術会議は、 独立して左の職務を行う。
一 科学に関する重要事項を審議し、 その実現を図ること。
二 科学に関する研究の連絡を図り、 その能率を向上させること。

 日本学術会議は独立機関だと謳っている。独立機関である以上、「職務及び権限」が第三者の介入を受けて許した場合、第三者のヒモ付きとなって、独立機関足り得ないことになる。当然、会員任命の人事に関しても第三者の介入を受けて許した場合、独立機関としての意味を成さないことになる。

 「第3章 組織」

2 会員は、 第17条の規定による推薦に基づいて、 内閣総理大臣が任命する。

 「第17条」とは、〈日本学術会議は、 規則で定めるところにより、 優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする。〉とあって、人事に関しても独立機関としての意味を成すためには日本学術会議の推薦に基づいて政府は内閣総理大臣任命という格付けを与えるに過ぎないことになる。いわば内閣総理大臣任命は取捨選択はできない法律の建付けとなっている。

 こういったことが「日本学術会議法」に対する一般的な法解釈であろう。ところが菅義偉も、官房長官の詭弁家加藤勝信も、任命拒否を「法律に基づいた人事だ」と言っている。

 京都弁護士会所属弁護士渡辺輝人氏が、「菅総理による日本学術会議の委員の任命拒絶は違法の可能性」(Yahoo!ニュース/2020年10月1日)と題した記事の中で2020年10月1日午前の官房長官加藤勝信の記者会見発言を紹介しているから、参考引用させて貰う。

 朝日新聞キクチ記者「重ねてお伺いします。今回任命に至らなかった理由として、今、明確な理由はないように私は受け取りましたけど、首相の政治判断で任命しなかったと理解してもいいんでしょうか。またあの、もしそうであれば、憲法が保障する学問の自由の侵害に当たると思うんですけれども、官房長官のご認識を」

 加藤勝信「まず一つは、個々の候補者の選考過程、理由について、これは人事に関することですから、これはコメントは差し控えるということはこれまでの対応であります。それから、先ほど申し上げたように、日本学術会議の目的等々を踏まえて、当然、任命権者であるですね政府側が責任を持って行っていくってことは、これは当然のことなんではないかという風に思います。で、その上で、学問の自由ということでありますけれども、もともとこの法律上、内閣総理大臣の所轄であり、会員の人事等を通じて一定の監督権を行使するっていうことは法律上可能となっておりますから、まあ、それの範囲の中で行われているということでありますから、まあ、これが直ちに学問の自由の侵害ということにはつながらないという風に考えています」

 要するに安倍晋三・菅義偉・加藤勝信等一派は「日本学術会議法」について「会員の人事等を通じて一定の監督権を行使するっていうことは法律上可能となっている」と法解釈していることになる。

 「法律上可能」と法解釈するためには可能と解釈し得る文言の所在を指摘しなければならない。「ここにこれこれこういうことが書いてある。依って一定の監督権を行使することに何の差し障りもない」と説明し、その説明の正当性を周囲に納得させ得て初めて、任命拒否は妥当性を持つ。ところがそういった説明は一切なしで「法律上可能」を一方的に言い立てている。

 国家の上層に位置する政治集団によるこのような説明を尽くさない一方的な言い立ては民主主義を蔑ろにする独裁・専横の意思を僅かなりとも潜ませていないと成り立たせ得ない。

 「日本学術会議法」には政府による会員の人事等を通じた一定の監督権行使を可能と解釈し得る文言はどこにもない。単に「法律上可能」を一方的に主張しているに過ぎない。一方的に主張すれば、主張していることの正当性・妥当性を獲ち得るとする態度は国民に対して丁寧な説明をするという謙虚さを欠き、政府を何でもかんでも正当づけるための強弁を働いているに過ぎないことになる。要するに国民をバカにしている。安倍晋三や菅義偉、加藤勝信等にはふさわしい態度であろう。

 渡辺輝人氏の記事が加藤勝信の発言と1983年(昭和58年)11月24日の参議院文教委員会での国会答弁との矛盾を指摘していることに案内されて、質疑を国会会議録検索システムから参照、関係箇所を列記することにしたが、渡辺輝人氏とは列記箇所が異なるところもあるから、異なりについては渡辺輝人氏の記事を参照して貰いたい。

 1983年11月24日の参議院文教委員会

 吉川春子(共産党参議院議員 2007年7月引退)「日本学術会議の発会式、昭和24年の1月のことでございますが、その中で総理大臣(吉田茂)の祝辞として次のように述べられているわけです。

 まず、『新しい日本を建設することを決意した私どもは、単に自国の平和と自国民の幸福をはかるのみならず、文化の発達、なかんずく科学の振興を通じて、世界の平和と人類社会の福祉に貢献しようとする大きな理想を持たなければなりません。まことに科学の振興こそ新日本再建の基礎であると共にその目標であると思うのであります』と述べまして、そしてその『日本学術会議は勿論国の機関ではありますが、その使命達成のためには、時々の政治的便宜のための制肘(わきから干渉して人の自由な行動を妨げること。goo国語辞書)を受けることのないよう、高度の自主性が与えられておるのであります』と、こういうふうにこのときの総理大臣自身が述べているわけですが、そういうことも踏みにじって今度の法改正を急ぐ。

 これは、政府の意のままに動く学術会議にしようとする、悪く言えば御用機関化しようとする何物でもないというふうに思うわけです。そういう意味では学術会議の自主性尊重、自主改革尊重と言ってきたのはウソだったのじゃないかと、そういうことがこういう経過で明らかになっているんじゃないかというふうに思うんですが、今度の法の改正の中で、政令事項についても、政令事項に大分任されているわけですけれども、学術会議と相談しながら進めると言っておりますけれども、いままでのこういう経過を見てくると、もう学術会議の意思を踏みにじって政令も何か決められちゃいそうな懸念があるんですけれども、その点長官、いかがですか」

 丹羽兵助(総理府総務長官)「ただいま、これが設立された当時の総理が、そのお祝いの席で述べられた挨拶でございますか、それはその気持ちと、そして学術会議がこういう性格のものであるというようなはっきりしたことを言っておられますが、そのことについてはいまも私は少しも変わった考えは持っておりません。あくまでこれは国の代表的な機関であると、学術会議こそ大切なものだという考え方、政府がこれに干渉したり中傷したり運営等に口を入れるなどという考えは、少しも、ただいま申し上げましたように、総理がその当時言われたことと変わってはおりませんし、変えるべきではないと思っております。

 ただ、今度の改正は、そういう大事な学術会議でございますから、学術会議がりっぱに機能あるいは使命を果たしていただくために選出方法を、近ごろいろいろと選出方法について意見も出ておりまするし、また学者離れだ云々というような嫌なことも耳にしておりまするので、今度はいわゆる推薦制にしていこうということでございまして、その推薦制もちゃんと歯どめをつけて、ただ形だけの推薦制であって、学会の方から推薦をしていただいた者は拒否はしない、そのとおりの形だけの任命をしていく、こういうことでございますから、決して決して総理の言われた方針が変わったり、政府が干渉したり中傷したり、そういうものではない」

 「日本学術会議法」はこの参議院文教委員会が開催された1983年(昭和58年)11月24日4日後の11月28日に何度目かの改正となっている。この改正に「日本学術会議」は昭和58年5月19日の「第89回総会」で反対意思を示している。

 従来の会員公選制を廃止して、全面推薦制の採用となっていること、会議の独立性の制度的保障となっている公選制が全く否定されていること、公選制廃止によって「日本学術会議」の会員外の選挙権を有する23万の学者の意思が活用されないこと等を挙げている。野党も同調することになって、吉川春子議員も改正に対する危惧の念を示すことになったのだろう。

 吉川春子議員は「日本学術会議法」改正は政府による組織の「御用機関化」ではないのか、「学術会議」の意思を踏みにじっているのではないのかと追及。対して、丹羽兵助は吉田茂が昭和24年1月の「日本学術会議」発会式で「時々の政治的便宜のための制肘を受けることのないよう、高度の自主性が与えられておるのであります」と、吉田「総理がその当時言われたことと変わってはおりませんし、変えるべきではないと思っております」と確約、いわば「政府がこれに干渉したり中傷したり運営等に口を入れるなどという考えは」は毛頭ない、高度の自主性尊重に何らの変化はないといった趣旨で政府側の法解釈を示している。

 さらに会員の選定は公選制から推薦制に変わるが、「形だけの推薦制であって、学会の方から推薦をしていただいた者は拒否はしない、そのとおりの形だけの任命をしていく」歯どめを設けているから、つまり任命を拒否するといった政府側の意思を示すことはないのだから、「決して決して(吉田)総理の言われた方針が変わったり、政府が干渉したり中傷したり、そういうものではない」と、ここでは学会の推薦と任命に関わる法解釈を明確に示している。

 事実、「日本学術会議法」の「第3章 組織」2が〈会員は、 第17条の規定による推薦に基づいて、 内閣総理大臣が任命する。〉となっているのだから、丹羽兵助の答弁は当然の法解釈を示しているのだが、菅義偉も、官房長官の詭弁家加藤勝信も、1983年当時の政府の「形だけの任命をしていく」、いわば “任命をそのまま受け入れる”とする法解釈を違えて、法律上可能となっている一定の監督権行使可能に基づいた任命拒否、いわば“任命どおりとはしない”とする法解釈を示していることになる。

 同じ法律でありながら、こうも正反対の法律解釈を可能とし得る根拠を政府という立場上、当然、国民に対して説明責任を負うことになる。だが、加藤勝信は詭弁家らしく、懇切丁寧な具体的説明はしないままに「会員の人事等を通じて一定の監督権を行使するっていうことは法律上可能となっておりますから」と一方的に言い立て、「人事に関することですから、これはコメントは差し控えるということはこれまでの対応であります」と、法律解釈でありながら、説明責任放棄を貫き通して正々堂々・平然としていられる。

  加藤勝信が一定の監督権行使可能の主張を何に依拠させているのか、教えている記事がある。参考のために全文引用することにした。

 〈18年にも任命拒否検討 内閣府、法制局に法解釈照会「拒否できるでいいか」〉(毎日新聞2020年10月3日 20時40分)

 菅義偉首相が科学者の代表機関「日本学術会議」から推薦された新会員候補6人を任命しなかった問題に関し、内閣府は2018年と今年9月の2回にわたり、任命権を巡る日本学術会議法の解釈を内閣法制局に照会していた。このうち、18年は「任命は拒否できるということでいいか」と尋ねており、この際も任命拒否を検討していたことになる。政府関係者が3日、明らかにした。菅政権と第2次安倍政権より前は学術会議の推薦通りに任命されているため、法解釈や運用が変更された可能性がある。

 日本学術会議法は17条で「優れた研究・業績がある科学者のうちから会員候補者を選考し、首相に推薦する」と定め、7条で「推薦に基づき首相が任命する」としている。中曽根康弘首相(当時)は1983年の参院文教委員会で「実態は各学会が推薦権を握っている。政府の行為は形式的行為」などと答弁。このため、学会側が実質的な任命権を持つとの法解釈が成り立つという指摘がある。

 内閣法制局は2日、立憲民主党など野党が国会内で開いた合同ヒアリングで、18年に内閣府から照会があったと認め、「法令の一般的な解釈ということで内閣府から問い合わせが来て、解釈を明確化させた」と説明した。今年9月2日にも内閣府から口頭で照会があり、「18年の時の資料を踏まえ変更はない」と回答したという。

 ただし、18年の照会で「明確化させた」という法解釈について、政府は詳細な説明を避けている。加藤勝信官房長官は今月2日の記者会見で、照会の中身について「推薦と任命に関する法制局の考え方が整理されていると承知している」と述べるにとどめた。

 政府関係者によると、18年の照会は会員の補充人事の際のもので、「学術会議から推薦された候補を全員任命しなければならないわけでなく、拒否もできるということでいいか」という趣旨だったという。16年の補充人事の際にも政府が複数の候補者を差し替えるよう求めたが、学術会議が応じず、一部が欠員のままになった経緯がある。

 野党合同ヒアリングでの内閣府の説明によると、今回の新会員人事は内閣府が9月24日に推薦候補者リストを起案し、28日に首相官邸が決裁した。内閣府は6人の名前が削除された時期や理由は明らかにしなかった。【佐藤慶、宮原健太】

 要するに内閣府は、安倍晋三の指示と、菅義偉の指示も受けてのことなのだろう、内閣のトップの指示なくして内閣府が動くわけはない、2018年と今年2020年の9月の2回に亘って内閣法制局に対して任命権を巡る日本学術会議法の解釈を照会したと政府関係者が10月3日に明らかにした。

 〈2018年の照会は会員の補充人事の際のもので、「学術会議から推薦された候補を全員任命しなければならないわけでなく、拒否もできるということでいいか」という趣旨だった〉。2020年の9月の紹介内容は6人の任命拒否の結果を見れば、2018年の紹介内容と同じということになる。

 要するに「日本学術会議法 第3章 組織 2」の、〈会員は、 第17条の規定による推薦に基づいて、 内閣総理大臣が任命する。〉の条文に対して1983年(昭和58年)11月24日の総理府総務長官丹羽兵助の「形だけの推薦制であって、学会の方から推薦をしていただいた者は拒否はしない、そのとおりの形だけの任命をしていく」、いわば “任命をそのまま受け入れる”とした法律解釈を内閣法制局は “任命をそのまま受け入れなくてもよい”とする法解釈に変え、任命拒否可能のお墨付きを菅内閣に与えたことになる。

 当然、このような法解釈の変更による任命拒否可能のお墨付きに正当性があるか否かの問題が生じる。記事が、〈内閣法制局は2日、立憲民主党など野党が国会内で開いた合同ヒアリングで、18年に内閣府から照会があったと認め、「法令の一般的な解釈ということで内閣府から問い合わせが来て、解釈を明確化させた」と説明した。〉と伝えていることからして、内閣法制局は法制局としての立場から「日本学術会議法」の推薦に対する総理大臣の任命に関して「法令の一般的な解釈」、いわば一般的な法解釈を示したということになる。

 但し「一般的」という言葉の意味は「特殊な事物・場合についてでなく、広く認められ行き渡っているさま」(goo国語辞書)を言う。法律は内閣や内閣府、内閣法制局のためにあるのではなく、国民のためにあるという点からしても、内閣府にしても、任命拒否可能を広く認められる法解釈とし得るかどうかの観点から内閣法制局に照会しなければならないし、内閣法制局にしても、任命拒否可能を広く認められる法解釈とし得るかどうかの観点から照会に応じなければならないことになる。

 だが、報道を見る限り、菅内閣にのみ認められる法解釈の変更としか見えない。菅内閣の利益を最優先事項とする結果、菅内閣は内閣法制局の法解釈の変更を国民に広く知らさないままに内閣法制局の法解釈の変更一つで任命拒否に出ることになった。しかもこのように国民に広く知らさないという不誠実この上ない保身的な経緯を取りながら、菅義偉も、官房長官の詭弁家加藤勝信も、「法律に基づいた人事だ」と自己正当化を謀り、加藤勝信に至っては任命拒否は「人事に関することですから、これはコメントは差し控えるということはこれまでの対応であります」と、国民に広く知らせることに注力を注がずに、さも慣例となっているかのような薄汚い誤魔化しを言う。

 菅義偉は「雪深い秋田の農家の長男に生まれた」との庶民性をウリにしている。だが、その庶民性に反して内閣法制局の法解釈の変更を国民に広く知らさないままに変更した法解釈で安倍晋三や自身に都合のいい人事を行った。

 しかも任命拒否のその人事たるや安倍晋三の国家主義的強権的政策に反対した学者ばかりである。任命拒否という形で安倍晋三の政治思想を拒絶する学者を排除したのだから、一種の思想統制に当たらないはずはない。ある組織に対する思想統制は共産党元参議院議員吉川春子が同じ言葉を使っているが、その組織に対する御用機関化の意思なくして成り立たない。

 御用機関化の意思を潜ませた思想統制の片棒を菅義偉は担いだ。「雪深い秋田の農家の長男に生まれた」だと。とんだ食わせ者としか言いようがない。

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菅義偉の「縦割りの打破」は本質的な起因に気づかなければ、安倍晋三の「縦割り打破」と同じくお題目で終わる

2020-09-28 08:26:01 | 政治
 文飾は当方。
 
 菅義偉は総裁選に立候補するに当たって、あるいは当選してからも、メイン中のメインの政策として「自助、共助、公助」を国の基本政策に掲げると同時に「縦割りの打破」を勇ましくも掲げた。ご立派。

 先ず2020年9月2日の「総裁選出馬会見」から「縦割りの打破」についての発言を見てみる。

 冒頭発言。

 菅義偉「世の中には、数多くの当たり前でないことが残っております。それを見逃さず、国民生活を豊かにし、この国がさらに力強く成長するために、いかなる改革が必要なのか求められているのか。そのことを常に考えてまいりました。

 その一つの例が、洪水対策のためのダムの水量調整でした。長年、洪水対策には、国土交通省の管理する多目的ダムだけが活用され、同じダムでありながら、経済産業省が管理する電力ダムや農林水産省の管理する農業用のダムは、台風が来ても、事前放流ができませんでした。このような行政の縦割りの弊害をうちやぶり、台風シーズンのダム管理を国交省に一元した結果、今年からダム全体の洪水対策に使える水量が倍増しています。河川の氾濫防止に大きく役立つものと思います」

 質疑

 記者「菅義偉首相として目指す政治は、安倍晋三政権の政治の単なる延長なのか。違うのであれば、何がどう違うのか」

 菅義偉「今私に求められているのは、新型コロナウイルス対策を最優先でしっかりやってほしい。それが私は最優先だと思っております。それと同時に、私自身が内閣官房長官として、官房長官は、役所の縦割りをぶち壊すことができる、ある意味でただ1人の大臣だと思っていますので。そうした中で私が取り組んできた、そうした縦割りの弊害、そうしたことをぶち破って新しいものを作っていく。そこが私自身はこれから多くの弊害があると思っていますので、やり遂げていきたい、こういうふうに思ってます」――

 「日本記者クラブ自民党総裁選立候補者討論会」(産経ニュース/ 2020年09月12日)
 
 菅義偉「最初のこの危機(コロナ禍)を乗り越えて、デジタル化やあるいは少子高齢化対策、こうした直面する課題の解決に取り組んでいきたい。このように思ってます。私が目指す社会像というのは『自助・共助・公助、そして絆』であります。まず自分でやってみる。そして地域や家族がお互いに助け合う。その上で、政府がセーフティーネットでお守りをします。さらに縦割り行政、そして前例主義、さらには既得権益、こうしたものを打破して規制改革を進め、国民の皆さんの信頼される社会を作っていきます」

 「本日、自由民主党総裁に就任いたしました」で始まっている、菅義偉オフィシャルサイト(意志あれば、道あり/2020-09-14)
  
 菅義偉「私自身横浜の市会議員を2期8年経験しています。常に現場に耳を傾けながら、国民にとっての当たり前とは何か、ひとつひとつ見極めて仕事を積み重ねてきました。自由民主党総裁に就任した今、そうした当たり前でない部分があれば徹底的に見直し、この日本の国を前に進めていきます。

 特に、役所の縦割り、既得権益、そして悪しき前例主義を打破し、規制改革をしっかり進めていきます。

 そして国民のために働く内閣というものをつくっていきたい、その思いで自由民主党総裁として取り組んでまいります」

 「首相就任記者会見」(首相官邸/2020年9月16日)でも、同じことを言っている。

 菅義偉「私が目指す社会像、それは、自助・共助・公助、そして絆であります。まずは自分でやってみる。そして家族、地域でお互いに助け合う。その上で政府がセーフティーネットでお守りをする。こうした国民から信頼される政府を目指していきたいと思います。そのためには行政の縦割り、既得権益、そして悪しき前例主義、こうしたものを打ち破って、規制改革を全力で進めます。国民のためになる、ために働く内閣をつくります。国民のために働く内閣、そのことによって、国民の皆さんの御期待にお応えをしていきたい。どうぞ皆様の御協力もお願い申し上げたいと思います」

 要するに「役所の縦割り、既得権益、そして悪しき前例主義を打破」することが「国民のために働く内閣」に繋がっていくと請け合っている。
 
 結構毛だらけ猫灰だらけである。菅義偉は機会あるごとに「縦割りの打破」を叫んでいるが、安倍晋三も「縦割りの打破」を言ってきた。数々言っているけれども、お題目で終わっている事例としていくつかを拾い上げてみる。

 2013年1月4日「安倍晋三年頭記者会見」(首相官邸)
 
 安倍晋三「昨年、就任最初の訪問地として迷わずに福島県を選びました。先般の視察では、事故原発の現状といまだに不自由な暮らしを余儀なくされている被災者の皆様の声に触れました。復興を加速しなければならないとの思いを強くいたしました。これまで縦割り行政の弊害があり、現場感覚が不足をしていました。根本大臣の下で除染や生活再建などの課題に一連的に対応し、スピーディに決定、実行できる体制を整えました。経済対策においても、復旧・復興に思い切って予算を投じ、福島再生、被災地の復興を加速させていきます」

 「縦割り行政の弊害」が被災地復興のスピードアップの阻害要因として横たわっていることを認識している。当然、あらゆる知恵を動員して、行政組織に向けたその打破に心砕き、実効ある措置を講じる姿勢を見せたことを意味する。

 当然、その成果如何は何らかの形を取らなければならない。 

 「安倍晋三東日本大震災二周年記者会見」(首相官邸/2013年3月11日)
  
 安倍晋三「現場では、手続が障害となっています。農地の買取りなど、手続の一つ一つが高台移転の遅れにつながっています。復興は時間勝負です。平時では当然の手続であっても、現場の状況に即して復興第一で見直しを行います。既に農地の買取りについては簡素化を実現しました。今後、高台移転を加速できるよう、手続を大胆に簡素化していきます。これからも課題が明らかになるたびに、行政の縦割りを排して一つ一つきめ細かく手続の見直しを進めてまいります」

 改めての「縦割りの打破」の宣言ということになる。「縦割り」が如何に根深く巣食っているか証明するものの、その根深さに対抗する意志を同時に露わにしているのだから、それなりの「縦割りの打破」の成果を上げなければならない。

 「第3次安倍改造内閣発足記者会見」(首相官邸/(2015年10月7日) 

 第2次安倍内閣発足から3年近く経過している。 
 
 安倍晋三「本日、内閣を改造いたしました。この内閣は、『未来へ挑戦する内閣』であります。

    ・・・・・・・・・・

 誰もが結婚や出産の希望がかなえられる社会をつくり、現在1.4程度に低迷している出生率を1.8にまで引き上げる。さらには、超高齢化が進む中で、団塊ジュニアを始め、働き盛りの世代が一人も介護を理由に仕事を辞めることのない社会をつくる。

 この大きな課題にチャレンジする。そのためには霞が関の縦割りを廃し
、内閣一丸となった取組が不可欠です。大胆な政策を発想する発想力と、それらを確実に実行していく強い突破力が必要です。司令塔となる新設の一億総活躍担当大臣には、これまで官房副長官として官邸主導の政権運営を支えてきた加藤大臣にお願いいたしました。女性活躍や社会保障改革において、霞が関の関係省庁を束ね、強いリーダーシップを発揮してきた方であります」

 「縦割りの弊害」が生じているのは被災地と連絡を持つ行政だけではなく 
全ての官公庁に横たわる、つまり霞が関全体に亘る問題だと、病根の根深さを仰っている。

 当然、腰を据えて「縦割りの打破」に取り組んできたことになる。

 8日後の2015年10月15日、安倍晋三は一億総活躍推進室を発足させ、看板掛けと職員への訓示を行っている。参考までに画像を載せておく。

 安倍晋三「今日から、この『一億総活躍推進室』がスタートしたわけでございます。皆様方には、その一員としての未来を創っていくとの自覚を持って、省庁の縦割りを排し、加藤大臣の下に一丸となって、正に未来に向けてのチームジャパンとして頑張っていただきたいと思います。

 名目GDP600兆円も、希望出生率1.8の実現も、そしてまた、介護離職ゼロも、そう簡単な目標ではありません。しかし、今目標を掲げなければならないわけでありますし、目標を掲げていくことによって、新たなアイデアも出てくるわけでありますし、新たな対策も生まれてくるわけであります。どうか皆様方には、知恵と汗を絞っていただきたいと思います」

 如何なる政策の遂行も、その実効性、その成果にしても、全ては「縦割りの打破」にかかっていることを示唆している。

 第2次安倍政権の7年8ヶ月の間、安倍晋三はかくまでも「行政の縦割りの打破」に執心し、安倍内閣の全面継承を掲げた菅義偉は痩せ馬の先っ走りよろしく、首相就任前から早々に「行政の縦割りの打破」を言い立てた。

 では安倍晋三は任期7年8ヶ月の間にどれ程の成果を「縦割りの打破」に関して収めたのだろうか。

 先ず既に触れているように菅義偉は「総裁選出馬会見」質疑の対記者答弁で、「官房長官は、役所の縦割りをぶち壊すことができる、ある意味でただ1人の大臣だと思っています」と大胸を張っている。あるいは鼻を高くしている。

 菅義偉は第2次安倍内閣2012年12月26日発足と同時に内閣官房長官に就任、菅内閣2020年9月16日発足前に官房長官を辞任、安倍晋三の首相就任期間と同じく7年8ヶ月を官房長官として務め上げた。7年8ヶ月もの間、「役所の縦割りをぶち壊すことができる、ある意味でただ1人の大臣」として務めてきた上に自民党総裁選立候補の段階から、「縦割りの打破」を言い立ててきた。

 この言い立てが何を証明しているかと言うと、安倍晋三が第2次安倍政権の7年8ヶ月の間に掲げてきた「縦割りの打破」が「役所の縦割りをぶち壊すことができる、ある意味でただ1人の大臣」として課せられていた菅義偉の力量及ばず、お題目で終わってしまったということであろう。

 安倍晋三にしても、「縦割りの打破」に役立てる程には菅義偉を使いこなす力量がなかったことになる。

 お題目で終わっていたから、菅義偉は再度、「縦割りの打破」を掲げなければならなかった。だとしても、7年8ヶ月もの間役立たなかった力量が新規蒔き直しで役立つ保証をどこに求めることができるのだろうか。

 菅義偉は2020年9月25日に首相官邸で「復興推進会議」を開催している。(首相官邸/)
  
 菅義偉「来年3月で、東日本大震災の発災から10年の節目を迎えます。これまでの取組により、復興は着実に進展している、その一方で、被災者の心のケアなどの問題も残されております。そして福島は、本格的な復興・再生が始まったところであります」

 安倍晋三も東日本大震災の被災に触れる際には2015年3月頃から、「健康・生活支援、心のケアも含め、被災された方々に寄り添いながら、さらに復興を加速してまいります」などと、「心のケア」について何度も言及してきている。だが、2020年9月25日の時点で2011年3月11日の発災から9年半も経過していながら、まだ、「被災者の心のケアなどの問題」が残されている。それがどのような心のケアに関わる問題点として横たわっているのか、復興政策そのものに問題があるのか、国と自治体、あるいは国と被災者の間に存在する何らかの利害が心のケア解消の阻害要因となっているのか、国民の前に明らかにすべきだろう。明らかにせず、安倍政権が「心のケアの解消」を言い、安倍政権継承の菅内閣が「心のケアの解消」までをも継承したかのように同じことを言う。どこかがおかしい。

 「心のケアの解消」の明確な進展が見えないばかりか、堂々巡りの感さえする。

 上記2020年9月25日の復興推進会議を受けて、新しく官房長官に就任した詭弁家加藤勝信が同じ9月25日に「記者会見」を開き、復興推進会議、その他について説明している。ここでは復興推進会議についてのみを取り上げる。

 加藤勝信「本日閣議後、組閣後初となる復興推進会議を開催いたしました。会議では、平沢復興大臣から復興の状況についての説明があり、総理から、『東北の復興なくして、日本の再生なし』との方針を継承し、引き続き『現場主義』に徹して、復興を更に前に進める。『閣僚全員が復興大臣である』との認識の下、行政の縦割りを排し、前例にとらわれず、被災地再生に全力を尽くすとの指示がありました」

 加藤勝信は菅義偉の「指示」として「行政の縦割り排除」に言及した。これも結構毛だらけ、猫灰だらけだが、加藤勝信は2015年10月15日の一億総活躍推進室発足に合わせた安倍晋三の職員への訓示の際、「省庁の縦割りを排し、加藤大臣の下に一丸となって」云々を直接耳にしていたばかりか、第1回一億総活躍国民会議の際、議長安倍晋三のもと一億総活躍担当大臣として議長代理を務めていて、次のような遣り取りをしているのである。

 高橋進日本総合研究所理事長「お役所から出てくる施策はどうしても縦割りになりがちです。また、せっかく政策を打ち出しても、他の施策や制度がネックになって効果が上がらないといったことがしばしばあります。これを防ぐためには政策体系全体を俯瞰しながら、政策をパッケージ化していく必要があると思います。次回以降、必要に応じてテーマごとに民間委員から連名で提案をさせていただくというようなことをさせていただければと思います。以上でございます」

 加藤勝信「ありがとうございます」(議事要旨)(首相官邸・2015年10月29日)
 
 要するに加藤勝信は一億総活躍担当大臣として務めた2017年8月3日 から2018年10月2日の1年2ヶ月間、安倍晋三の指示のもと、「縦割りの打破」に関わっていたはずであるし、厚労相だった2019年9月11日から 2020年9月16日の約1年間、「縦割りの弊害」
霞が関全体に亘る問題だとしている以上、同じく厚労省内の「縦割りの打破」に関わっていたはずである。

 だが、2020年9月25日の復興推進会議での菅義偉の指示である、「縦割りの打破」をそのまま右から左に流しているのは、自身が一億総活躍担当大臣としても、厚労相としても、「縦割りの打破」に何ら功を奏していなからこその惰性行為であろう。

 もし「縦割りの打破」に役立つ何らかの方策で一億総活躍に関わる内閣府内の職員をコントロールできていたなら、あるいは厚労省内をコントロールできていたなら、「私はこのような方策を「縦割りの打破」に役立てています」と菅義偉に進言しているだろうし、進言する前に役立つ方法として各省庁の「縦割りの打破」の参考に供する方策とすることができていて、菅義偉が自内閣のメイン政策として「縦割りの打破」を掲げる必要も生じないはずである。

 加藤勝信も、「縦割りの打破」を担いながら、お題目としていたということである。さすが東大の経済学部を出ている秀才だけあって、お題目としていながら、平然と「縦割りの打破」を口にすることができる。

 NHK NEWS WEB記事が伝えている加藤勝信の2020年9月20日NHK「日曜討論」の発言。

 加藤勝信「国民のために働く、仕事をする内閣を目指して、まず第一は、新型コロナウイルス感染症対策と、社会経済活動の両立を図っていく。行政サービスの受け手である国民の視点に立って改革を進め、前例の踏襲や役所の縦割りを打破して、デジタル化の推進をはじめ、一つ一つ課題に答えを出していきたい」

 自身がお題目で終わらせていることにお構いなしに重要な政策ですとばかりに真面目臭った顔で「縦割りの打破」を繰り返す。詭弁家ならではの発言であろう。
 
 菅義偉が「役所の縦割り、既得権益、そして悪しき前例主義を打破」することが「国民のために働く内閣」に繋がっていくとの論理に立ちながら、自身が「役所の縦割りをぶち壊すことができる、ある意味でただ1人の大臣」として7年8ヶ月もそのぶち壊しに関わってきたにも関わらず、今以ってお題目で終わらせていることからすると、「国民のために働く内閣」もお題目で終わる可能性が高い。

 「縦割り」とは、「組織に於ける意思疎通が上から下への関係で運営されていて、上下の双方向性を持たないばかりか、それゆえに他組織との間でも左右水平の双方向性の意思疎通を持たないこと」をいう。このような上から下への関係は上が自らの権威によって下を無条件に従わせ、下が上の権威に対して無条件に従う権威主義性が深く関わり、成り立っている。

 下が上の権威を恐れずに自由に意見を言い、上が下の意見に自らの権威によって抑え込まずに耳を傾けて、その有効性に応じて採用する度量を持ち合わせる、上から下への関係とは無縁の対等な意思疎通の関係にあったなら、「縦割り」は生じない。

 なぜなら、一つの組織で上下の意思疎通が力関係を問題とせずに対等に築く上下双方向性を持たせることができていたなら、他組織、他省庁との間の意思疎通にしても、双方向性を持たせることができるからである。
 
 上下・自他の双方向性の意思疎通の関係を持たないことによって、「縦割り」が生じて、それぞれの組織やメンツを守るために縄張りという形を取ることになる。結果、「縦割り」と縄張りは同義語の関係を取る。

 当然、上下の双方向性も、左右水平の双方向性も持たない権威主義性が深く関わった「縦割り」は下の上に対する批判、あるいは左右水平からの批判に対して不寛容な態度を取ることになる。それゆえの「縦割り」である。

 ときには下からの如何なる批判も受けつけない強固な権威主義性で固めた「縦割り」組織も存在する。
 
 行政組織を始め、日本の色々な組織が「縦割り」を存在様式としているのは大方の日本人が戦前の色濃さは薄めたものの、今以って権威主義性を行動様式として残しているからであろう。

 例を挙げてみる。中央省庁を上の権威として地方官庁を下の権威として扱う、現在も色濃く残っている上下の中央集権制は上下の権威関係で捉える権威主義性を骨組みとして成り立っている。当然、中央側は地方側に対して「縦割り」を以って臨みがちとなる。

 現在も残っているキャリア官僚とノンキャリア官僚の権威主義性からの上下価値関係も、「縦割り」の形成に深く関わっている。ノンキャリア官僚の意見も批判も受け付けない、殿様然と構えているキャリア官僚もいると聞く。

 東大出身者が東大卒を贔屓にして東大閥で固めるのも1つの「縦割り」である。東大卒を最大の権威として、他大卒を下の権威に置いて、上下の価値観で人物・仕事を計る。

 就職シーズンになると、男女の就活生が一斉に黒のリクルートスーツを纏うことになるのは企業を上の権威とし、就活生自身を下の権威と看做して、上の権威に無条件に従う権威主義性が醸し出すことになる風物詩であろう。

 ネットで調べた情報によりと、アメリカの就活生は一定程度の常識に従うが、その範囲内で自己を主張する服装を纏うとある。決して日本みたいに一色にはならないということである。アメリカの就活生は「自分を持っている」ことになり、世の風潮に一様に従う日本の就活生は「自分を持っていない」ことになる。

 もしそこに抵抗感すら感じずに「自分を持っていない」ことに疑問も何も持たなかったとしたら、最悪である。

 地位が上の人間も、下の人間も、地位に応じてそれぞれに自分を持っていたなら、上下の権威主義性を物ともせずに主張すべきは主張するようになり、上下・自他の垣根を超えた双方向性の意思疎通の関係を持つに至って、「縦割り」は生じない。

 だが、逆の状況にあるから、「縦割りの打破」はお題目で推移することになる。

 2009年11月30日の「ブログ」に書いたことだが、『総合学習』が学校教育に導入される前に文部省(当時)が発表した段階で授業が学校の自由裁量に任されるのは画期的なことだと持て囃されたものの、自由裁量に反して「何を教えていいのか、示して欲しい」と校長会などから文部省に要望が相次いだため、文部省が「体力増進」、「地域の自然や文化に親しむ」等を例示すると、各学校の実践が殆んどこの枠内に収まる右へ倣えの画一化が全国的に起こったという。

 この状況は学校・教師自体が第三者に頼らずに何を教えたらいいのか、『総合学習』のテーマである「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する」自己決定性の能力を持ちあわていなかった、考える力がなかったことの証明にしかならない。

 この現象も文科省を上の権威とし、学校や教師を下の権威として、上の権威に無条件に従う権威主義性がつくり出している。学校としての権威・教師としての権威をそれぞれに持していたなら、、いわば自分を持っていたなら、『総合学習』をどうのように授業するのか、自己決定性に従った才覚を働かせていたはずである。

 日本の暗記教育自体が日本人の思考様式・行動様式となっている上が下を従わせ、下が上に従う権威主義性を成り立ちとしている。上に位置する教師の教える知識・情報を下に位置する生徒が上から教えられるままに機械的になぞり、教えられたとおりに頭に暗記する知識・情報の授受は権威主義性の構造そのものである。

 この構造は生徒が自ら考える思考プロセスを介在させない。逆に生徒が自ら考える思考作用は暗記教育の阻害要因となる。そしてこのような思考作用に慣らされることによって、批判精神が育ちにくくなる。不毛な批判精神は付和雷同の精神に結びついていく。

 日本の教育が今以って暗記教育で成り立っているというと、そんなことはないと批判されるが、暗記教育となっていることの資料がある。

 「我が国の教員の現状と課題–OECD TALIS 2018結果より」

 2018年の調査である。

 教師が批判的に考える必要がある課題を与える  
  小学校11.6%
  中学校12.6%
  参加48か国平均 61.0%

 教師が児童生徒の批判的思考を促す
  小学校 22.8%
  中学校 24.5%
  参加48か国平均 82.2%

 これはあくまでも教師の教育態度を現している統計ではあるが、この教育態度自体が日本人がどうしょうもなく行動様式としている権威主義性の反映としてある暗記教育であろう。

 勿論、受け手の児童・生徒が統計どおりに教育されるとは限らない。また、教師が批判的思考=自分から考える力を養う教育を施さなくても、両親から、あるいは両親のいずれかからか批判的思考=自分から考える力を受け継いで行く場合もあるし、読書や友達関係から学ぶ場合もある。

 だが、おしなべて日本の教育が権威主義性に基づいた暗記教育で成り立っているのは事実そのもので、否定し難い。保育園・幼稚園の時代から、小中高大学と学校教師を上の権威とし、児童・生徒を下の権威に置く権威主義性は社会に出て、いずれの組織に属しても、同質の権威主義性を備えているゆえに、日本の多くの組織に蔓延している「縦割り」に組み込まれていくことになる。

 要するに保育園・幼稚園、小中高大学の時代から、各自それぞれが知識と情報収集の自己決定性に基づかない、上に従うだけの権威主義性の虜となって、「縦割り」の予備軍に育てられているということであろう。

 要約すると、「縦割り」は上が下を従わせ、下が上に従うよう慣習づけられた日本人の権威主義性に従った人間関係に起因している。

 このことに気づかなければ、「縦割りの打破」はお題目で終わる宿命を当初から抱えることになる。そもそもの学校教育から変えなければ、「縦割りの打破」は覚束ない。

 「行政の縦割り打破」が危うければ、既得権益の打破も、悪しき前例主義の打破も難しくなって、いくら規制改革をぶち上げても、たいした結果は望み難くなる。

 河野太郎のように自身のウェブサイトに実態に合わない規制や「縦割り行政」の弊害に関する情報を集める仕組みの「縦割り110番」という名称を併設した「行政改革目安箱」を設けて、「投稿が4000件を超えた」とさもたしたことをしているような態度を見せているが、根本原因に気づかない、表面をいじくっているだけの作業に過ぎない。この仕組を内閣府に移したとしても、いずれは元の木阿弥に戻るだろう。

 大体が河野太郎は2015年10月7日から2016年8月3日までの9ヶ月間、規制改革担当の内閣府特命担当大臣を務めている。例え短い間だったとしても、のちに生きてくる規制改革に関わる何か有意義な足跡を残したのだろうか。残していたなら、河野太郎がいなくなっても、職員が跡を継いで、規制改革に務めるはずだが、「行政改革目安箱」と仰々しく打って出ること自体が、足跡を何も残さなかった証明でしかない。
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