2025年5月3日沖縄憲法の日講演の続き――
西田昌司「もう一つ大事なことはですね いわゆる歴史観と言われていることですね。あの戦争は一体何でなったの? あの戦争一体何だったのかということをですね。東京裁判という戦勝国が敗戦国を、この裁くという、これ、国際的には許されないことですよ。あの当時でも許されないことですが、それをやったということですね。
そして東京裁判の中でその戦争犯罪人にというのをですね、認定してそれを絞首刑に処す。そ
れをしなければ占領を解かない。で、占領を止めて欲しかったら、その東京裁判を受け入れて、その刑を執行する。こういう条件ですから、この東京裁判を執行して戦争犯罪人が生まれてるわけですね。
で、そしてそれは正しいということですね。ずっと歴史の中で、教科書の中でもずっと教えてきてるわけ。ですから、日本はあんな戦争は何でしたのかというとアメリカが、じゃなくて、日本が一方的に悪かった。一方的に海外に進出して、一方的にですね、アジアね(フッと笑う)、そこを支配する。でやってきたと。で、そういう形で裁かれてるんですが、しかしどう考えてもそうじゃないわけですよね。
で、段々、教科書でそういうこと教えられていなけども、この頃はですね、インターネットなどを通じてですね、ま、アメリカの公文書なんかも、次々新しい記録が発表されたり、新聞やテレビやラジオでは報じていないけれども、インターネット上この正しい情報が出てくるようになりました。
で、私もそういうのを見ながら勉強ずっとこの何十年してきたわけですけれども、ま、そういう事実があります。で、このように占領中にですね、憲法とそれから教育勅語を廃止させられる。それ、さらには東京裁判という歴史をですね、新たに書き換えられる」――
日本の戦争に正当性を与え、その正当性を裏打ちした歴史認識となっている。靴の底にニセモノの皮を裏打ちして、それを論拠もなくホンモノの皮ですと偽証しているに過ぎないのだが、自身は色々と勉強して到達した正しい結論だと信じ込んでいる。
「インターネット上この正しい情報が出てくるようになりました」と言っているが、自身の歴史認識にマッチした情報を"正しい"としているだけのことで、自己相対化を柔軟にこなすだけの省察能力を欠いているから、独善的な蛸壺にはまり込んで抜けることができず、失言を繰り返すことになる。
「東京裁判という戦勝国が敗戦国を、この裁くという、これ、国際的には許されないことですよ。あの当時でも許されないことですが、それをやったということですね」と主張していることの妥当性を「Wikipedia」等の情報を頼りに探ってみる。
第2次世界大戦末期の1945年2月のヤルタ会談でイギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソビエト連邦の連合国4ヵ国が国際軍事裁判所憲章を取り決め、1945年8月8日に調印。特徴は従来の戦争犯罪概念が拡張され、検討されたことだと記している。
人類史上類を見ないナチスのユダヤ人に対する大規模で残虐な行為を知るに及んで、ドイツ帝国の戦争指導者を厳しく罰する必要性に迫られ、戦争犯罪概念が拡張される至ったのだろう。
当然、法令の効力はその法の施行時以前に遡って適用されないとする法の不遡及の原則に突き当たる。法の不遡及を厳格に適用したなら、ドイツ帝国の戦争指導者たちが命じた残虐な戦争行為を的確に裁くことはできない考えた結果なのだろう、その適用を例外規定とすることになったという。
そしてこの国際軍事裁判所憲章に基づいてドイツ・ナチス軍の戦争犯罪を裁くニュルンベルク裁判が1945年11月20日に開廷、1946年10月1日に結審。日本軍の戦争犯罪を裁く極東国際軍事裁判(東京裁判)が1946年5月3日に開廷、1948年11月12日に結審することになった。
西田昌司は「東京裁判を執行して戦争犯罪人が生まれてるわけですね」と言っているが、東京裁判が戦争犯罪人を作り出した訳ではない。ナチスの戦争犯罪程には残虐で大規模ではなかったものの、米比軍の捕虜を100キロも徒歩で移動させ、1万人前後の死者を出したバターン死の行進やマレーシアのボルネオ島サンダカンで英豪軍捕虜2千人余に対して約260キロの距離を徒歩で移動させ、その殆どを死亡させたとされるサンダカン死の行進、その他に見る捕虜虐待、現地住民に対する虐待、見せしめのための殺害、邦人住民保護放棄、対住民自決強要、あるいは兵士に向けた「生きて虜囚の辱を受けず」の戦陣訓が民間人にまで刷り込まれて、アメリカ軍に捕虜となることを恥としてサイパン島最北端の岬の崖から1万人に登る兵士や民間人が「天皇陛下万歳」や「大日本帝国万歳」と叫んで身を投げ、自決者が1万人にも登ったというバンザイクリフ事件、その他十分な訓練を施さないままの命を無視した兵士の戦場投入、戦術も成算もないままの死を招くだけの自殺行為でしかない兵士の敵陣突撃の強要、例を挙げたらキリがない戦争犯罪行為を日本軍は戦場で犯していて、そのような犯罪行為を東京裁判法廷が裁き、判決によって戦争犯罪の刑が下されたのだが、西田昌司は戦争犯罪行為の前提もなしに東京裁判が戦争犯罪人を生み出したかのような言説を振り撒いている。
このような言説を可能としている原因は、戦前日本国家の立場から「憲法改正」、「教育勅語廃止」、「東京裁判判決を受けた軍人、政治家、外交官等の戦前要人の排除」等、戦後の国の形に否定的に目を向けた歴史認識を形成しているからで、国民の立場に立った歴史認識が抜けていることから起きているはずである。
だから、「あの戦争一体何だったのかということをですね」と言っていることは東京裁判や日本国憲法、教育勅語等、自分たちが望まずに変えられることになった戦後の国の形から見た戦前の国の形との対比のみで戦争を振り返った物言いとなる。
陸軍参謀本部は1940年冬に陸軍省整備局戦備課に対して1941年春季の対英米開戦を想定した米英対日本の物的国力の判断を仰いだと言う。その回答は次のようになっていたという。
〈「短期戦(2年以内)であって対ソ戦を回避し得れば、対南方武力行使は概ね可能である。但しその後の帝国国力は弾発力を欠き、対米英長期戦遂行に大なる危険を伴うに至るであろう。」と回答し、同年3月25日には「物的国力は開戦後第一年に80-75%に低下し、第二年はそれよりさらに低下(70-65%)する、船舶消耗が造船で補われるとしても、南方の経済処理には多大の不安が残る」と判定。〉(『陸軍秋丸機関による経済研究の結論』(牧野邦昭:摂南大学)
さらに勅命設立の総理大臣直轄総力戦研究所が行った日米戦想定の机上演習報告が近衛文麿首相や陸軍大臣東條英機立ち会いのもと、1941年8月27・28日両日に首相官邸で開催、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」、いわば対米戦争などもってのほかと結論付けられた。
長期戦が無理なら、短期戦でと戦勝の可能性に賭けたのだろう、そして1年後の1941年12月8日に真珠湾奇襲攻撃を以って対米戦争へと突入。翌年の1942年6月5日から6月7日にかけてのミッドウェー海戦の敗北で日本軍は制空・制海権を失い、戦局の主導権がアメリカ側に移行したという。
いわば1941年12月の対米戦争開始から2年以内の短期戦で決着をつけるつもりが、2年を持つどころか、たったの6ヶ月で戦争の主導権はアメリカ側に帰した。
杜撰な物的国力判断に基づいた、それゆえに杜撰とならざるを得ない不完全な対米英戦略を下敷きに勝算の見込みなしと気づかずに戦争に無理矢理に突入、当然、満足に機能するはずもない軍事作戦を展開、しかも戦場で後方に位置し、前線部隊のために兵器・食糧・馬などの供給・補充や後方連絡線の確保などを任務とする兵站との連携を最重要視しないままに供給・補充物資が欠乏していても顧みずに「突撃!」の掛け声だけの精神論で無理矢理に戦わせ、多くの兵士を無駄死にさせた。
結果、日中戦争と太平洋戦争での日本軍戦死兵士約230万人のうち約6割の140万人近くが餓死や栄養失調による病死で占められていた上に約80万人の民間人を巻き添えにした。
要するに2年以内の短期決戦であっても、耐えうる戦争資源の保障がないままに無謀にも戦争に突入し、一般兵士や民間人にそのツケを回した。
『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号)の昭和16年1月9日の日付に次のような記述がある。
〈御予定通り、葉山御用邸の行幸啓(注:天皇と皇后が一緒にお出かけになることを指す言葉)あらせられる。
夕方約2時間、常侍官候所〔じょうじかんこうしょ=侍従詰所〕に出御。種々、米、石油、肥料などの御話あり。結局、日本は支那を見くびりたり。早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき旨、仰せありたり。〉――
昭和天皇は日中戦争を停戦に持ち込み、10年程度、国力の回復と充実に努めるべきではないかと仰った。但し仰った相手が侍従であった。
このような発言を可能とする力関係の裏返しとなる現象がこの記述に続く昭和史研究家の半藤一利氏の解説に現れている。
〈(注:昭和)15年10月12日にも同様の発言があったが、天皇は日中戦争の拡大には終始反対であったとみてよい。たとえば、13年7月4日口述の『西園寺公と政局』にはこんな記載がある。
「昨日陛下が陸軍大臣と参謀総長をお召しになった、『一体この戦争は一時も速くやめなくちゃあならんと思ふが、どうだ』といふ話を遊ばしたところ、大臣も総長も『蒋介石が倒れるまでやります』といふ異口同音の簡単な奉答があったので、陛下は少なからず御軫念(注:深く心を痛めること)になった」〉――
大日本帝国憲法「第1章 天皇」で、「神聖にして侵すべからず」、「天皇は陸海軍を統帥す」、その他で絶対的権力を保障されていながら、陸軍大臣と陸軍参謀総長に日中戦争の早期停戦を諮ったにも関わらず、昭和天皇の意思を検討することも、今後の戦局についてどう見通しているのかの説明もなく、「『蒋介石が倒れるまでやります』といふ異口同音の簡単な奉答があった」と陸軍の意向だけが伝えら、以後の戦略についての説明もなく、昭和天皇は心を痛める。
この陸軍要人に対する天皇の無力は天皇の絶対的権威は憲法上の作為に過ぎず、その権威は国民を統治するためにのみ与えられていることが如実に読み取ることができる。
西田昌司は、「日本が一方的に悪かった。一方的に海外に進出して、一方的にですね、アジアね(フッと笑う)、そこを支配する。でやってきたと。で、そういう形で裁かれてるんですが、しかしどう考えてもそうじゃないわけですよね」と海外進出にしても、アジア支配にしても、"一方的"であることを否定している。
要するに植民地主義は欧米が始めたことではないか、日本が後発参入してどこが悪いと主張していることになるが、理論的には正しくても、現実問題として後進国という限られたパイを奪い合う植民地の軍事的・外交的争奪戦に加わったのである。当然、そこには勝ち負けが付き纏う。
アメリカがスペインからフィリピンの領有権を獲得し、フィリピンを植民地とするに至ったのは1898年の米西戦争で勝利しからだった。
そして日本軍のフィリピン攻略は真珠湾攻撃と同じ日の1941年12月8日に両面作戦を敢行、ルソン島に上陸を開始し、マッカーサー司令官の米比合同軍を破り、1942年6月9日までにほぼ全部隊を降伏させ、全島を占領することになった。
但し45日間の攻略予定が3倍以上の150日間を必要としたというから、2年以内の短期決戦想定で対米戦争を開始していながら、僅か6ヶ月で主導権が日米逆転したという事実との関係で何か象徴的である。
初っ端から計画立案した戦略の的確性が不完璧であったことを曝すことになるからである。
真珠湾攻撃は米戦艦に打撃を与えて、米海軍や米国民の戦意を挫くことを目的としていたということだが、フィリピン攻略は植民地戦争の本格的な参入と開始を意味していたから、そこでの戦略の不満足な適応性は以後の植民地戦争に影響を与えない保証はないとは言えない。
日本軍のフランス領ベトナム進出はナチスがフランスを占領、ナチス傀儡のヴィシー政権の協力という時の利に恵まれていたからで、インドネシアを植民地としていたオランダはナチスの占領下にあり、本国からの支援が回らないことと防衛に参加したアメリカ軍の態勢が整わないうちの出来事という時の利に恵まれていたからで、英国の植民地であったシンガポールを攻略できたのも本国イギリスがナチスの攻撃を受けて防衛に手一杯という時の利に乗じることができたからだろう。
だが、アメリカ軍の反撃の態勢が整ってからは、アメリカを主力相手として戦うことになって、国力と国力が真正面からぶつかり合うこととなり、それまで手に入れた"時の利"は効力を失い、当時、対米比で20分の1と言われた日本の貧弱な国力の貧弱ゆえの消耗率の高さと杜撰な戦争計画に基づいた杜撰な戦略と相まった無理矢理な戦争ゆえに様々な戦争犯罪を繰り広げ、最終的に植民地戦争から弾き出されて、東京裁判で戦争犯罪の審判を受けることになった
最後の最後には無条件降伏の敗戦という形で終わりを迎えているが、植民地戦争に率先して加わわり、生半可ではない自国兵士や自国民の犠牲のみならず、同じく生半可ではない敵国兵士や敵国民の犠牲を強いている以上、勝敗に応じて正当性の獲得か喪失かで判断すべきで、戦勝国からそれ相応の裁きを受けるのは、例え戦勝国に有利に進められたとしても繰り返されてきた世界の習いであって、当然、西田昌司が言うように日本は一方的に悪くないといった言説は現実世界を厳しく見る目を欠いているからできる手並みに過ぎない。
そういった人間が尤もらしげに歴史認識を振りかざす。当然、その歴史認識たるや、自分に都合がいいだけの粗雑で独りよがりな内容にならざるを得ないのだろうが、信じてやまないから始末に悪い。
それが次の言葉。
教科書では教えていないし、新聞やテレビやラジオも報じていないが、インターネットなどを通じてアメリカの公文書が次々と新しい記録を発表されたり、正しい情報が出てくるようになり、西田昌司自身がそれらの新しい記録や正しい情報を何十年と勉強してきた。
それが具体的に何が"新しい"のか、どう"正しい"のかの詳しい証明も抜きに「発表された」、「出てきた」と言うだけで、「そういう事実があります」と事実証明の代用とし、そのような具体性を欠いた"事実"なるもので、占領中に憲法と教育勅語が廃止され、東京裁判という歴史を新たに書き換えられたと主張、その主張を以って自らの歴史認識の正当性を証明しようと試みている。
所詮、戦前日本国家の立場に立ち、自分が望まない戦後の国家の形を否定するだけで、戦前日本国家の無謀な戦争が内容とした一般兵士、一般国民の過酷な犠牲を頭に置くことのできない歴史認識だから、杜撰にならざるを得ないし、杜撰な感覚を素地としているのは明らかで、この手の杜撰な歴史認識に共鳴するには同じく杜撰な頭に限定されるに違いない。
以上、西田昌司の自らは正しいとしている戦前国家の立場に立った杜撰な歴史認識について触れてみた。以下の講演内容についても、その杜撰さを確かめてみる。
西田昌司「もう一つ大事なことはですね いわゆる歴史観と言われていることですね。あの戦争は一体何でなったの? あの戦争一体何だったのかということをですね。東京裁判という戦勝国が敗戦国を、この裁くという、これ、国際的には許されないことですよ。あの当時でも許されないことですが、それをやったということですね。
そして東京裁判の中でその戦争犯罪人にというのをですね、認定してそれを絞首刑に処す。そ
れをしなければ占領を解かない。で、占領を止めて欲しかったら、その東京裁判を受け入れて、その刑を執行する。こういう条件ですから、この東京裁判を執行して戦争犯罪人が生まれてるわけですね。
で、そしてそれは正しいということですね。ずっと歴史の中で、教科書の中でもずっと教えてきてるわけ。ですから、日本はあんな戦争は何でしたのかというとアメリカが、じゃなくて、日本が一方的に悪かった。一方的に海外に進出して、一方的にですね、アジアね(フッと笑う)、そこを支配する。でやってきたと。で、そういう形で裁かれてるんですが、しかしどう考えてもそうじゃないわけですよね。
で、段々、教科書でそういうこと教えられていなけども、この頃はですね、インターネットなどを通じてですね、ま、アメリカの公文書なんかも、次々新しい記録が発表されたり、新聞やテレビやラジオでは報じていないけれども、インターネット上この正しい情報が出てくるようになりました。
で、私もそういうのを見ながら勉強ずっとこの何十年してきたわけですけれども、ま、そういう事実があります。で、このように占領中にですね、憲法とそれから教育勅語を廃止させられる。それ、さらには東京裁判という歴史をですね、新たに書き換えられる」――
日本の戦争に正当性を与え、その正当性を裏打ちした歴史認識となっている。靴の底にニセモノの皮を裏打ちして、それを論拠もなくホンモノの皮ですと偽証しているに過ぎないのだが、自身は色々と勉強して到達した正しい結論だと信じ込んでいる。
「インターネット上この正しい情報が出てくるようになりました」と言っているが、自身の歴史認識にマッチした情報を"正しい"としているだけのことで、自己相対化を柔軟にこなすだけの省察能力を欠いているから、独善的な蛸壺にはまり込んで抜けることができず、失言を繰り返すことになる。
「東京裁判という戦勝国が敗戦国を、この裁くという、これ、国際的には許されないことですよ。あの当時でも許されないことですが、それをやったということですね」と主張していることの妥当性を「Wikipedia」等の情報を頼りに探ってみる。
第2次世界大戦末期の1945年2月のヤルタ会談でイギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソビエト連邦の連合国4ヵ国が国際軍事裁判所憲章を取り決め、1945年8月8日に調印。特徴は従来の戦争犯罪概念が拡張され、検討されたことだと記している。
人類史上類を見ないナチスのユダヤ人に対する大規模で残虐な行為を知るに及んで、ドイツ帝国の戦争指導者を厳しく罰する必要性に迫られ、戦争犯罪概念が拡張される至ったのだろう。
当然、法令の効力はその法の施行時以前に遡って適用されないとする法の不遡及の原則に突き当たる。法の不遡及を厳格に適用したなら、ドイツ帝国の戦争指導者たちが命じた残虐な戦争行為を的確に裁くことはできない考えた結果なのだろう、その適用を例外規定とすることになったという。
そしてこの国際軍事裁判所憲章に基づいてドイツ・ナチス軍の戦争犯罪を裁くニュルンベルク裁判が1945年11月20日に開廷、1946年10月1日に結審。日本軍の戦争犯罪を裁く極東国際軍事裁判(東京裁判)が1946年5月3日に開廷、1948年11月12日に結審することになった。
西田昌司は「東京裁判を執行して戦争犯罪人が生まれてるわけですね」と言っているが、東京裁判が戦争犯罪人を作り出した訳ではない。ナチスの戦争犯罪程には残虐で大規模ではなかったものの、米比軍の捕虜を100キロも徒歩で移動させ、1万人前後の死者を出したバターン死の行進やマレーシアのボルネオ島サンダカンで英豪軍捕虜2千人余に対して約260キロの距離を徒歩で移動させ、その殆どを死亡させたとされるサンダカン死の行進、その他に見る捕虜虐待、現地住民に対する虐待、見せしめのための殺害、邦人住民保護放棄、対住民自決強要、あるいは兵士に向けた「生きて虜囚の辱を受けず」の戦陣訓が民間人にまで刷り込まれて、アメリカ軍に捕虜となることを恥としてサイパン島最北端の岬の崖から1万人に登る兵士や民間人が「天皇陛下万歳」や「大日本帝国万歳」と叫んで身を投げ、自決者が1万人にも登ったというバンザイクリフ事件、その他十分な訓練を施さないままの命を無視した兵士の戦場投入、戦術も成算もないままの死を招くだけの自殺行為でしかない兵士の敵陣突撃の強要、例を挙げたらキリがない戦争犯罪行為を日本軍は戦場で犯していて、そのような犯罪行為を東京裁判法廷が裁き、判決によって戦争犯罪の刑が下されたのだが、西田昌司は戦争犯罪行為の前提もなしに東京裁判が戦争犯罪人を生み出したかのような言説を振り撒いている。
このような言説を可能としている原因は、戦前日本国家の立場から「憲法改正」、「教育勅語廃止」、「東京裁判判決を受けた軍人、政治家、外交官等の戦前要人の排除」等、戦後の国の形に否定的に目を向けた歴史認識を形成しているからで、国民の立場に立った歴史認識が抜けていることから起きているはずである。
だから、「あの戦争一体何だったのかということをですね」と言っていることは東京裁判や日本国憲法、教育勅語等、自分たちが望まずに変えられることになった戦後の国の形から見た戦前の国の形との対比のみで戦争を振り返った物言いとなる。
陸軍参謀本部は1940年冬に陸軍省整備局戦備課に対して1941年春季の対英米開戦を想定した米英対日本の物的国力の判断を仰いだと言う。その回答は次のようになっていたという。
〈「短期戦(2年以内)であって対ソ戦を回避し得れば、対南方武力行使は概ね可能である。但しその後の帝国国力は弾発力を欠き、対米英長期戦遂行に大なる危険を伴うに至るであろう。」と回答し、同年3月25日には「物的国力は開戦後第一年に80-75%に低下し、第二年はそれよりさらに低下(70-65%)する、船舶消耗が造船で補われるとしても、南方の経済処理には多大の不安が残る」と判定。〉(『陸軍秋丸機関による経済研究の結論』(牧野邦昭:摂南大学)
さらに勅命設立の総理大臣直轄総力戦研究所が行った日米戦想定の机上演習報告が近衛文麿首相や陸軍大臣東條英機立ち会いのもと、1941年8月27・28日両日に首相官邸で開催、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」、いわば対米戦争などもってのほかと結論付けられた。
長期戦が無理なら、短期戦でと戦勝の可能性に賭けたのだろう、そして1年後の1941年12月8日に真珠湾奇襲攻撃を以って対米戦争へと突入。翌年の1942年6月5日から6月7日にかけてのミッドウェー海戦の敗北で日本軍は制空・制海権を失い、戦局の主導権がアメリカ側に移行したという。
いわば1941年12月の対米戦争開始から2年以内の短期戦で決着をつけるつもりが、2年を持つどころか、たったの6ヶ月で戦争の主導権はアメリカ側に帰した。
杜撰な物的国力判断に基づいた、それゆえに杜撰とならざるを得ない不完全な対米英戦略を下敷きに勝算の見込みなしと気づかずに戦争に無理矢理に突入、当然、満足に機能するはずもない軍事作戦を展開、しかも戦場で後方に位置し、前線部隊のために兵器・食糧・馬などの供給・補充や後方連絡線の確保などを任務とする兵站との連携を最重要視しないままに供給・補充物資が欠乏していても顧みずに「突撃!」の掛け声だけの精神論で無理矢理に戦わせ、多くの兵士を無駄死にさせた。
結果、日中戦争と太平洋戦争での日本軍戦死兵士約230万人のうち約6割の140万人近くが餓死や栄養失調による病死で占められていた上に約80万人の民間人を巻き添えにした。
要するに2年以内の短期決戦であっても、耐えうる戦争資源の保障がないままに無謀にも戦争に突入し、一般兵士や民間人にそのツケを回した。
『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号)の昭和16年1月9日の日付に次のような記述がある。
〈御予定通り、葉山御用邸の行幸啓(注:天皇と皇后が一緒にお出かけになることを指す言葉)あらせられる。
夕方約2時間、常侍官候所〔じょうじかんこうしょ=侍従詰所〕に出御。種々、米、石油、肥料などの御話あり。結局、日本は支那を見くびりたり。早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき旨、仰せありたり。〉――
昭和天皇は日中戦争を停戦に持ち込み、10年程度、国力の回復と充実に努めるべきではないかと仰った。但し仰った相手が侍従であった。
このような発言を可能とする力関係の裏返しとなる現象がこの記述に続く昭和史研究家の半藤一利氏の解説に現れている。
〈(注:昭和)15年10月12日にも同様の発言があったが、天皇は日中戦争の拡大には終始反対であったとみてよい。たとえば、13年7月4日口述の『西園寺公と政局』にはこんな記載がある。
「昨日陛下が陸軍大臣と参謀総長をお召しになった、『一体この戦争は一時も速くやめなくちゃあならんと思ふが、どうだ』といふ話を遊ばしたところ、大臣も総長も『蒋介石が倒れるまでやります』といふ異口同音の簡単な奉答があったので、陛下は少なからず御軫念(注:深く心を痛めること)になった」〉――
大日本帝国憲法「第1章 天皇」で、「神聖にして侵すべからず」、「天皇は陸海軍を統帥す」、その他で絶対的権力を保障されていながら、陸軍大臣と陸軍参謀総長に日中戦争の早期停戦を諮ったにも関わらず、昭和天皇の意思を検討することも、今後の戦局についてどう見通しているのかの説明もなく、「『蒋介石が倒れるまでやります』といふ異口同音の簡単な奉答があった」と陸軍の意向だけが伝えら、以後の戦略についての説明もなく、昭和天皇は心を痛める。
この陸軍要人に対する天皇の無力は天皇の絶対的権威は憲法上の作為に過ぎず、その権威は国民を統治するためにのみ与えられていることが如実に読み取ることができる。
西田昌司は、「日本が一方的に悪かった。一方的に海外に進出して、一方的にですね、アジアね(フッと笑う)、そこを支配する。でやってきたと。で、そういう形で裁かれてるんですが、しかしどう考えてもそうじゃないわけですよね」と海外進出にしても、アジア支配にしても、"一方的"であることを否定している。
要するに植民地主義は欧米が始めたことではないか、日本が後発参入してどこが悪いと主張していることになるが、理論的には正しくても、現実問題として後進国という限られたパイを奪い合う植民地の軍事的・外交的争奪戦に加わったのである。当然、そこには勝ち負けが付き纏う。
アメリカがスペインからフィリピンの領有権を獲得し、フィリピンを植民地とするに至ったのは1898年の米西戦争で勝利しからだった。
そして日本軍のフィリピン攻略は真珠湾攻撃と同じ日の1941年12月8日に両面作戦を敢行、ルソン島に上陸を開始し、マッカーサー司令官の米比合同軍を破り、1942年6月9日までにほぼ全部隊を降伏させ、全島を占領することになった。
但し45日間の攻略予定が3倍以上の150日間を必要としたというから、2年以内の短期決戦想定で対米戦争を開始していながら、僅か6ヶ月で主導権が日米逆転したという事実との関係で何か象徴的である。
初っ端から計画立案した戦略の的確性が不完璧であったことを曝すことになるからである。
真珠湾攻撃は米戦艦に打撃を与えて、米海軍や米国民の戦意を挫くことを目的としていたということだが、フィリピン攻略は植民地戦争の本格的な参入と開始を意味していたから、そこでの戦略の不満足な適応性は以後の植民地戦争に影響を与えない保証はないとは言えない。
日本軍のフランス領ベトナム進出はナチスがフランスを占領、ナチス傀儡のヴィシー政権の協力という時の利に恵まれていたからで、インドネシアを植民地としていたオランダはナチスの占領下にあり、本国からの支援が回らないことと防衛に参加したアメリカ軍の態勢が整わないうちの出来事という時の利に恵まれていたからで、英国の植民地であったシンガポールを攻略できたのも本国イギリスがナチスの攻撃を受けて防衛に手一杯という時の利に乗じることができたからだろう。
だが、アメリカ軍の反撃の態勢が整ってからは、アメリカを主力相手として戦うことになって、国力と国力が真正面からぶつかり合うこととなり、それまで手に入れた"時の利"は効力を失い、当時、対米比で20分の1と言われた日本の貧弱な国力の貧弱ゆえの消耗率の高さと杜撰な戦争計画に基づいた杜撰な戦略と相まった無理矢理な戦争ゆえに様々な戦争犯罪を繰り広げ、最終的に植民地戦争から弾き出されて、東京裁判で戦争犯罪の審判を受けることになった
最後の最後には無条件降伏の敗戦という形で終わりを迎えているが、植民地戦争に率先して加わわり、生半可ではない自国兵士や自国民の犠牲のみならず、同じく生半可ではない敵国兵士や敵国民の犠牲を強いている以上、勝敗に応じて正当性の獲得か喪失かで判断すべきで、戦勝国からそれ相応の裁きを受けるのは、例え戦勝国に有利に進められたとしても繰り返されてきた世界の習いであって、当然、西田昌司が言うように日本は一方的に悪くないといった言説は現実世界を厳しく見る目を欠いているからできる手並みに過ぎない。
そういった人間が尤もらしげに歴史認識を振りかざす。当然、その歴史認識たるや、自分に都合がいいだけの粗雑で独りよがりな内容にならざるを得ないのだろうが、信じてやまないから始末に悪い。
それが次の言葉。
教科書では教えていないし、新聞やテレビやラジオも報じていないが、インターネットなどを通じてアメリカの公文書が次々と新しい記録を発表されたり、正しい情報が出てくるようになり、西田昌司自身がそれらの新しい記録や正しい情報を何十年と勉強してきた。
それが具体的に何が"新しい"のか、どう"正しい"のかの詳しい証明も抜きに「発表された」、「出てきた」と言うだけで、「そういう事実があります」と事実証明の代用とし、そのような具体性を欠いた"事実"なるもので、占領中に憲法と教育勅語が廃止され、東京裁判という歴史を新たに書き換えられたと主張、その主張を以って自らの歴史認識の正当性を証明しようと試みている。
所詮、戦前日本国家の立場に立ち、自分が望まない戦後の国家の形を否定するだけで、戦前日本国家の無謀な戦争が内容とした一般兵士、一般国民の過酷な犠牲を頭に置くことのできない歴史認識だから、杜撰にならざるを得ないし、杜撰な感覚を素地としているのは明らかで、この手の杜撰な歴史認識に共鳴するには同じく杜撰な頭に限定されるに違いない。
以上、西田昌司の自らは正しいとしている戦前国家の立場に立った杜撰な歴史認識について触れてみた。以下の講演内容についても、その杜撰さを確かめてみる。