えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

抗酸化陶板浴

2011-08-24 | 日記
実家に抗酸化陶板浴のできるミニハウスを建てて3か月。

抗酸化の保たれている部屋で、体を温めるだけなのだが、父も母もがんを患い死と向き合う毎日のせいか、私たち夫婦の思った以上に利用してくれている。
早朝に1回、夕刻にもう一回。
お互いに声を掛け合って・・・。
それだけ「体にいい」ことを実感しているのだろう。

この間体調を崩して疲弊しきっていた私も、夫から

「陶板浴に入って、風邪を直してから帰っておいで」と言われてしまった。


実際、部屋で横になっているより、抗酸化の部屋にいた方が、頭もすっきりし、体も軽くなる。
だから、一回に、5分、10分の短時間で、入浴を繰り返した。
前の日まで解熱剤でもっていた体を、朝から薬の服用をやめて、抗酸化水を体に補給しながらの入浴で一日を過ごした。
そしたら、
やっと熱が36度台で落ち着いた。
咳はまだ残ったが、のどの痛みは消え、楽になった。
発熱から4日目・・・
回復期に入っていたとも思えるので、すべて、陶板浴の効果と私自身が宣言するわけにはいかないが、少なくとも体が楽になり、もう薬を必要としなくなったことは事実である。

あす、母の退院後最初の外来受診日のため、実家に行く。
ほとんど元気になれた私の姿を見て、両親も安心してくれるだろう。

父も母も、少しでも日常生活が楽にできるように。
体のしんどさが、陶板浴で少しでも軽減されるように、と願っている。

もちろん健康な人は、その健康維持のために、
気分爽快を味わうことで、
脳も体もリフレッシュ
できるので、誰にでもお勧めしたいものだ。


出来るもんなんだな・・・

2011-08-24 | 日記
左腎臓摘出術と大腸(下降結腸)切除術を受けた母が、思いのほか回復が早く20日に退院することができた。

その退院の話が出た18日の夜から、夏風邪にやられた私は38度を超す熱に翻弄されていた。

19日は、私を迎えての新婦人の班会議(前回、やはり母のことで延期していただいていた・・・)が午後から予定されており、夕方は、退院にあたって主治医との面談が入っていた。

薬の効きすぎる私はあまり飲みたくなかったのだが、そういうわけにもいかず解熱剤を飲み、マスクをし、冷汗が体中から噴き出すような状態で何とか一日行動した。
昼は下がっても、夜にまだ上がってくる熱。
喉の痛み、咳も出始め、薬を総合感冒薬に変えたら、今度は34度台まで下がってしまい、悪寒も来てしまった。

20日は、母を迎えに行った。
一番気をつけなければならないのは、母に風邪をうつしてしまうこと。私の移動範囲に感染源をばらまかないこと。
そう思うと、意外としゃきっとなれて、「マスク着用」が普通の病院では、退院指導をしてくれた看護師さんにも異常を気付かれずに病院を出ることができた。

母は、
「自分が具合悪い時に、悪いなぁ」と申し訳なさそうに言ったが、申し訳ないのは私の方で、よりによってどうしてこんな時に、不死身?のはずの私が体調を崩したのか・・・。
自分の方が情けなかった。

夫が遠方に出かける予定が入っていたこともあり、数日間、私は実家に泊まって母の体力の回復を見守るつもりでいたが、なんとも体がきつく、悲鳴を上げたいくらいだった。



それでも・・・

出来るもんなんだなぁ・・・と、あれから5日たって、いま、振り返っている・・・。



母も、
「水戸に帰っていいよ」とは、言ってくれず、

食事が済むたび、

「片付けは後でいいから、横になって、からだ休めな」と言ってくれた。

夫から、「おばあちゃんも不安でいっぱいなんだよ。傍に居てやりな」とエールが届いた。

父と母と二人きりの生活で、母は今回膀胱の機能も落ちてウロバッグを付けての退院となった。
女性として、息子よりも、娘の私がいることの方がよいかと、それまで東京から来てくれていた兄と交代して泊まり込むことを選んだのは私だった。

昨日、お盆の墓参りができなかった母を連れてお墓に行った。
震災で崩れてしまったお墓は、母が入院中のお盆前にきれいに直っていた。
85年の人生で、おそらくお盆にいられず、お墓にもいけなかったのは初めてではなかったろうか。
5月に突然腎臓がんの宣告を受け、術前検査の途中でまた新たにすい臓がん、さらに「すい臓より、腎臓より手術優先度の高い大腸がん」を立て続けにいわれ、受け止めなければならなかった心境を思うと、墓前で手を合わせる姿を見ながら私は胸を熱くしていた。


やっと私も体が楽になってきました。
この数日、私、がんばったな・・・。


普通なんだろうけど…

2011-08-23 | 日記
嬉しいことがあった。

夫が、お仏壇にお茶を入れてくれたのだ!

体調を崩していた私は、1日遅れでそれを知り、じゅわ~っとしてしまった。
やっぱり『夫に生まれた心の余裕』なのだろうか?

両親のお位牌は、長い間、夫の姉妹が守ってくれていて、昨年、やっと利根町の夫の家に、そして今回の再審判決前に水戸に迎えることができた。

私は、お茶をあげながら「私の実家では、いつも父(夫)の役割だったんだけどな…」と、それとなく言ってみた。

「それは無理だわ。俺にそんな習慣無いし、あんたに任せるわ」と、即答され、以来、私がやってきた。時々忘れて、二人で苦笑するときもあったりして。

先日、夜半から熱があって朝も起きられずにいたら、先に起きた夫が、
「お茶、飲む?」と、枕元に持ってきてくれた。
「ありがとう」と答え、私は、寝ながら出かける夫を見送った。

あのときのお茶!
そうだった。
夫は、「起きなくていい」と言って、一人で食事を済ませて出掛けていったのだ…。めったに、自分からお茶など煎れることのない人だったのに、自分ばかりではなく、私にも、ちゃんと両親にも…。
と、言うよりお仏壇にあげるお茶が、優先されたように思えるのは何故だろうか…?

普通の人達には、なかなか解って頂けないかもしれないが、夫は
「言われてやる」のが大嫌い。(『指示』への過剰反応)、「関心がない」、「習慣がない」ことは、即答で拒否。
ところが、納得出来れば、コロッと態度も行動も変わって、
そのたびに私は、、一喜一憂を繰り返してきたのだ。
同じように嬉しく思う夫の変化がもうひとつある。

ベランダの、鉢植えの水遣りをやってくれるようになったことだ。

「少し元気になったろう?暑さで大分マイってたんだ」と、帰宅と同時にジョーロを手にする私に、夫が声をかけてくるのだ。

「家にいて、暑い、暑いって自分が水が欲しいと思ったら、ベランダの植物は大丈夫かな?って、思わない?」

「あー、無理!俺には無理!花はまったくわかんないから」

そんなやり取りがあって諦めていただけに、やっぱり嬉しくてならない。
夫の好物のミニトマトが色付きはしめたせいかも知れないが…。

たたかいだけだった生活が、やっと少しずつ「普通」を積み重ねていく幸せを感じ始めている…。

8月13日

2011-08-15 | 日記
「何時ごろに行くの?」

北松戸にいる夫から、そう問われ、

「なるべく早く。起きたらすぐ。朝の涼しいうちに終わらせたいし・・・」

「ありがとう。なら、早く寝な。」


利根町のお墓参りに行く話だが、私の夜更かしを知っている夫はくぎを刺す?様にそう言い、私も笑って「そうね」と答えた。


13日、私は朝6時に北関東自動車道水戸南に乗った。
利根町のお墓について、草取りをし、お水、お花、お線香をあげた。
先日、弁護団長の柴田先生がお参りをしてくださった折、夫が掃除してくれていたこともありきれいになっていたので簡単に済んだが、盆入りにすっきりとできてよかったと思った。(後日、私が行く前に、義姉、義妹がお参りしてくれたことを聞いた)


夫の両親が眠る前で合掌しながら思った。
ずいぶん通ったな・・・と。

墓石のないところなので
「できるだけ雑草を生やさないように」というのが、12年前の夫との約束だった。
私の車の中には「お墓掃除グッズ」がいつも積み込んであった。
夏場の雑草の勢いには勝てず、約束を守りきれないことが多かったが、それでも利根町の家に行くたび、私は夫の両親と会話する楽しみをもって(時には、ぐちを聞いてもらいながら?)この場所に足を運んだ。

「裁判が済んだらちゃんとお墓を造るからね」と夫と何度手を合わせるたびに思ったことか・・・。


今年5月が過ぎ、裁判は終わったものの、震災の影響もあって、なかなかお墓を新たに作る話を具体化できずにいたが、やっとここにきて石屋さんと話がついた。
それでも、待ち時間が長く、来年の彼岸までにはということで、夫も少し安心したようだ。
兄姉妹と連絡しあい、「お墓を造ること」を伝えた。


夫の家に寄ったが、もう、私の力では玄関が開かなかった。
本当に、
「裁判が終わるまでもって欲しい。ここは、親父とお袋との思い出が残る家。ここにいると、仏壇などなくてもいつも天井のどこかに親父とお袋が見ていてくれていると思えるんだ」と夫が言っていたように、ぎりぎり「無罪判決確定」までよくもってくれたと思う。
北松戸への引っ越しは已む無い選択だった。そして、そのタイミングも・・・。
私は、自然災害で壊れるようなことのないようにとそれだけを願い続けてきた。
夫の思いを知れば、やはり、自分の意志で「決断」し、取り壊して欲しい・・・と。

そんな時のあの3月11日の大地震。
水戸から利根町の家を確認に行った夫は、「もしかしたら倒壊しているのでは」との覚悟をしていた。
しかし、3月の判決日が延期になったことを、両親も最後の踏ん張りを見せてくれているかのように、そこにはいつもと変わらず「思い出の家」がしっかりと建っていたのだった・・・。

「お盆前に、話だけでもつけておこう」ということで、夫は、この家の解体を知り合いの大工さんにお願いした。

私の手ではもう開かなくなった玄関・・・
帰って夫に言ったら、「俺にも開かなくなったよ」・・・とのこと。


家も、お墓も、夫の意志で決断の時期を迎え、私生活面でも新しい動きが始まっている・・・。

・・・

午前8時半。
私は、夫の両親、親戚のお墓参りを終え、利根町の家を後に水戸へ向かった。

入院中の母のところへ行って、
実家の盆入り、お墓参り、来客を迎える準備のために・・・。

夫が、盆入りの夜は、私の実家に泊まってくれるということで・・・。





母、元気です!

2011-08-15 | 日記
母は、手術をして3日目。
HCU室から一般病棟に移りました。(母の回復状態より、部屋が空いてなくて少し遅れたようです)

先生やスタッフの皆さんが
「思っていた以上に、元気だからって驚いているみたいだよ」と母が笑いながら言う。

一時、大きな手術に母が耐えられるのかと手術を受けるのを私自身迷ったが、

「自分から手術を受けたいという患者さんは、高齢であっても、大丈夫!必ずその大変さを自分でクリアできるから」と

先輩方に言われたことが、思い返される・・・。

心配な面が残ってはいるが、まずは

「よかった!」・・・・・



母は、面会に行く父や私たちに、
お盆のお客さんは誰が来てくれたか、聞いては手帳にメモし、
お土産(野菜類)を渡すのを忘れないように。(入院前に準備して行った)
スイカはできたか?収穫の時期だが・・・。
白菜の種をまく準備をなどとベッドの上から指示をしてくる。

去年は、16日に蒔いた。種は玄関の戸棚の袋の中。発芽率が良いから1粒づつでいい、などと言われて来たらしい。
父と兄が、玄関で
「あった!これだ!」
「蒔き時、8月中旬からと書いてあるけど、今年は暑いから少し遅らせてからでもいいんじゃないか?
 ばあちゃんが退院してからにしようよ」などと話しているのを聞いて、

あ~ァ、この家は「母」で持ってるのかな・・・なんて思った。

父は公務員が本職だった人。農業は休みの日、傍らにやってきただけ。
退職後、農業に関することはほとんど母の農事日誌のとおりにやってきたようだ。
兄は、高校の農業科を出たものの東京に出てやはり公務員として長く都会暮らしを続けてきた人。
母の長い体験には頭が上がらないようだ・・・。

退院後の母の生活が、元気で一日も長く、と願いたいものだ・・・。


行き届かない心配り

2011-08-15 | 日記
入院中の母に代って、実家の台所に立つ日々が続いている。

東京から兄が来てくれていることもあって、それほど負担とは感じないが、
若宮の自宅、病院、実家へのコースを回ることにも慣れてきた。

お盆の来客を迎えるにあたって、普段使ってない食器類を必要とし、いつもより食器棚を頻繁に開けて探すこともしばしば。
そして見つけてしまった、ガラスなどの破片の多さ・・・。

「あ~、あの時の片づけ、大変だったろうな・・・。気づいてあげられなくて悪かったな・・・」と改めて思った。

震災時、
「家は大丈夫だったけど、食器棚の中がなァ・・・。でも、大丈夫だよ。大体片付いたから」という母の言葉を思い出した。


あの日・・・
3月12日の早朝。
停電、断水、続く余震の中で、前夜夫と不安な一夜を若宮で過ごした私は、
一番先に連絡の取れなかった「実家に行きたい」と言って、起きるなり夫と実家に向かった。

実家に着いて、父と母の無事を確認し、家屋の損傷も目立って無かったこと、それに
「大体片付いたから・・・」の母の言葉に、

「じゃ、帰るね。水戸も大変な状態なの。利根町にも行って来なくちゃならないから」と言って、
すでに玄関先に破損した食器類が集められていたものを見ながら実家を後にしたのだった。

「朝、早くから片付けたんだ・・・」と、思いながら・・・。
でも、その後、どこまでできていたのか確認もせずにこの5カ月を過ぎてきた。


今のように、腎臓と大腸に癌を患っていて手術が必要だったことも分からない時とはいえ、、体重も減少し、もともと体の小さい母がさらに小さくなっていて、母にとって、あの大きな食器棚一つだって片付けは大変だったろう・・・。
よく見ると、上の方の段はまだ手付かず状態にある。
手が届かないことは容易に推測できた・・・。
農家で、人寄せがあるたびに使う飯椀や汁椀、皿、小丼、コップなどが山ほど入っているのだ。
家族が集まる時には、13人分の食器を必要とした時期もあった。
でも、それも今は多くても6、7人分あれば十分な状況になっている。

母の入院を機会に、父が大分台所を使いやすく整理した。
なるべく「動線」を短くできるように、と。

それでも、「捨てる、捨てない」の決定権は母にあるので退院を待つしかない。
父が私に言った。
「新しい家に、ここにあるもの何でも持って行け。わざわざ買うことないぞ」

「そうね。少しずつ、準備していかなくてはならないんだけどね・・・」

・・・・・・・

母が退院してきたら、母の指示で、もう少し片付けようと思う・・・。
そして、貰えるものは貰おうと思う・・・。


「俺とおんなじ」?

2011-08-09 | 日記
実家に行くたび、
父と母の二人の生活がどんな状況だったか、ある程度は想像できていたはずだった。

母の話で、時折、愚痴っぽく父のことを言うのを聞いても

「そうなんだぁ・・・」と聞き流してきた。


それは、私が父親っ子で、どちらかというと父のことは「わがまま」も「ひとりよがり」も、『それが父』と思い、趣味?である歴史の話や、文化財、お寺の話など私も好きで、母よりは丁寧に耳を傾けてきたように思う。

母は
「おんなじ話、いつまでも繰り返して・・・」と、父に付き合う私に苦笑しながら言うこともたびたびあった。


「この頃、ふたりとも記憶力がなくなって、おかしなことばかり言ったり、したりして、いやんなっちゃうんだ・・・」・・とも。

そんな中での、自分の入院。
丁寧に、物がどこにあるか、新盆見舞いは何処とどこに行くか、親戚が来たら、こうするように・・・と父に申送って入院した。

父は、
「ばあちゃんが用意して行ってくれたから」と、指示?通り、こなしている。
だけど
父は父なりにふだん母に言っても聞き入れてもらえないことを、私や孫に要求してくる。
それなりに父の気持ちもわかるが、
「おばあちゃんも体がきついんだよ。仕方がないんだよ」と言いながら父に付き合う。

「自分でやればいいじゃない、それくらい!」と、孫に言われ、私に言われることも・・・。

私は言いながら
「おじいちゃんも、体きついんだよね・・・」と胸の中でつぶやく・・・。

二人だけの生活・・・


そんな父と母の生活に、必要に迫られてこの数日私が入って行って思ったこと。

やっぱり、母は偉い!


昨日は、実家から帰宅するなり、私は夫に言ってしまった。

「おばあちゃんの気持ち、よ~く判った!
 おじいちゃん、わがままだし、細かいし!
 それに、おじいちゃん、自分で言ってたこと忘れちゃうんだもん。
 なんだか、よくよく振り回されちゃった!!」

夫の返事が又よかった!

「なんだ、それ? じいちゃん、俺とおんなじジャン!」