えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

8月13日

2011-08-15 | 日記
「何時ごろに行くの?」

北松戸にいる夫から、そう問われ、

「なるべく早く。起きたらすぐ。朝の涼しいうちに終わらせたいし・・・」

「ありがとう。なら、早く寝な。」


利根町のお墓参りに行く話だが、私の夜更かしを知っている夫はくぎを刺す?様にそう言い、私も笑って「そうね」と答えた。


13日、私は朝6時に北関東自動車道水戸南に乗った。
利根町のお墓について、草取りをし、お水、お花、お線香をあげた。
先日、弁護団長の柴田先生がお参りをしてくださった折、夫が掃除してくれていたこともありきれいになっていたので簡単に済んだが、盆入りにすっきりとできてよかったと思った。(後日、私が行く前に、義姉、義妹がお参りしてくれたことを聞いた)


夫の両親が眠る前で合掌しながら思った。
ずいぶん通ったな・・・と。

墓石のないところなので
「できるだけ雑草を生やさないように」というのが、12年前の夫との約束だった。
私の車の中には「お墓掃除グッズ」がいつも積み込んであった。
夏場の雑草の勢いには勝てず、約束を守りきれないことが多かったが、それでも利根町の家に行くたび、私は夫の両親と会話する楽しみをもって(時には、ぐちを聞いてもらいながら?)この場所に足を運んだ。

「裁判が済んだらちゃんとお墓を造るからね」と夫と何度手を合わせるたびに思ったことか・・・。


今年5月が過ぎ、裁判は終わったものの、震災の影響もあって、なかなかお墓を新たに作る話を具体化できずにいたが、やっとここにきて石屋さんと話がついた。
それでも、待ち時間が長く、来年の彼岸までにはということで、夫も少し安心したようだ。
兄姉妹と連絡しあい、「お墓を造ること」を伝えた。


夫の家に寄ったが、もう、私の力では玄関が開かなかった。
本当に、
「裁判が終わるまでもって欲しい。ここは、親父とお袋との思い出が残る家。ここにいると、仏壇などなくてもいつも天井のどこかに親父とお袋が見ていてくれていると思えるんだ」と夫が言っていたように、ぎりぎり「無罪判決確定」までよくもってくれたと思う。
北松戸への引っ越しは已む無い選択だった。そして、そのタイミングも・・・。
私は、自然災害で壊れるようなことのないようにとそれだけを願い続けてきた。
夫の思いを知れば、やはり、自分の意志で「決断」し、取り壊して欲しい・・・と。

そんな時のあの3月11日の大地震。
水戸から利根町の家を確認に行った夫は、「もしかしたら倒壊しているのでは」との覚悟をしていた。
しかし、3月の判決日が延期になったことを、両親も最後の踏ん張りを見せてくれているかのように、そこにはいつもと変わらず「思い出の家」がしっかりと建っていたのだった・・・。

「お盆前に、話だけでもつけておこう」ということで、夫は、この家の解体を知り合いの大工さんにお願いした。

私の手ではもう開かなくなった玄関・・・
帰って夫に言ったら、「俺にも開かなくなったよ」・・・とのこと。


家も、お墓も、夫の意志で決断の時期を迎え、私生活面でも新しい動きが始まっている・・・。

・・・

午前8時半。
私は、夫の両親、親戚のお墓参りを終え、利根町の家を後に水戸へ向かった。

入院中の母のところへ行って、
実家の盆入り、お墓参り、来客を迎える準備のために・・・。

夫が、盆入りの夜は、私の実家に泊まってくれるということで・・・。





母、元気です!

2011-08-15 | 日記
母は、手術をして3日目。
HCU室から一般病棟に移りました。(母の回復状態より、部屋が空いてなくて少し遅れたようです)

先生やスタッフの皆さんが
「思っていた以上に、元気だからって驚いているみたいだよ」と母が笑いながら言う。

一時、大きな手術に母が耐えられるのかと手術を受けるのを私自身迷ったが、

「自分から手術を受けたいという患者さんは、高齢であっても、大丈夫!必ずその大変さを自分でクリアできるから」と

先輩方に言われたことが、思い返される・・・。

心配な面が残ってはいるが、まずは

「よかった!」・・・・・



母は、面会に行く父や私たちに、
お盆のお客さんは誰が来てくれたか、聞いては手帳にメモし、
お土産(野菜類)を渡すのを忘れないように。(入院前に準備して行った)
スイカはできたか?収穫の時期だが・・・。
白菜の種をまく準備をなどとベッドの上から指示をしてくる。

去年は、16日に蒔いた。種は玄関の戸棚の袋の中。発芽率が良いから1粒づつでいい、などと言われて来たらしい。
父と兄が、玄関で
「あった!これだ!」
「蒔き時、8月中旬からと書いてあるけど、今年は暑いから少し遅らせてからでもいいんじゃないか?
 ばあちゃんが退院してからにしようよ」などと話しているのを聞いて、

あ~ァ、この家は「母」で持ってるのかな・・・なんて思った。

父は公務員が本職だった人。農業は休みの日、傍らにやってきただけ。
退職後、農業に関することはほとんど母の農事日誌のとおりにやってきたようだ。
兄は、高校の農業科を出たものの東京に出てやはり公務員として長く都会暮らしを続けてきた人。
母の長い体験には頭が上がらないようだ・・・。

退院後の母の生活が、元気で一日も長く、と願いたいものだ・・・。


行き届かない心配り

2011-08-15 | 日記
入院中の母に代って、実家の台所に立つ日々が続いている。

東京から兄が来てくれていることもあって、それほど負担とは感じないが、
若宮の自宅、病院、実家へのコースを回ることにも慣れてきた。

お盆の来客を迎えるにあたって、普段使ってない食器類を必要とし、いつもより食器棚を頻繁に開けて探すこともしばしば。
そして見つけてしまった、ガラスなどの破片の多さ・・・。

「あ~、あの時の片づけ、大変だったろうな・・・。気づいてあげられなくて悪かったな・・・」と改めて思った。

震災時、
「家は大丈夫だったけど、食器棚の中がなァ・・・。でも、大丈夫だよ。大体片付いたから」という母の言葉を思い出した。


あの日・・・
3月12日の早朝。
停電、断水、続く余震の中で、前夜夫と不安な一夜を若宮で過ごした私は、
一番先に連絡の取れなかった「実家に行きたい」と言って、起きるなり夫と実家に向かった。

実家に着いて、父と母の無事を確認し、家屋の損傷も目立って無かったこと、それに
「大体片付いたから・・・」の母の言葉に、

「じゃ、帰るね。水戸も大変な状態なの。利根町にも行って来なくちゃならないから」と言って、
すでに玄関先に破損した食器類が集められていたものを見ながら実家を後にしたのだった。

「朝、早くから片付けたんだ・・・」と、思いながら・・・。
でも、その後、どこまでできていたのか確認もせずにこの5カ月を過ぎてきた。


今のように、腎臓と大腸に癌を患っていて手術が必要だったことも分からない時とはいえ、、体重も減少し、もともと体の小さい母がさらに小さくなっていて、母にとって、あの大きな食器棚一つだって片付けは大変だったろう・・・。
よく見ると、上の方の段はまだ手付かず状態にある。
手が届かないことは容易に推測できた・・・。
農家で、人寄せがあるたびに使う飯椀や汁椀、皿、小丼、コップなどが山ほど入っているのだ。
家族が集まる時には、13人分の食器を必要とした時期もあった。
でも、それも今は多くても6、7人分あれば十分な状況になっている。

母の入院を機会に、父が大分台所を使いやすく整理した。
なるべく「動線」を短くできるように、と。

それでも、「捨てる、捨てない」の決定権は母にあるので退院を待つしかない。
父が私に言った。
「新しい家に、ここにあるもの何でも持って行け。わざわざ買うことないぞ」

「そうね。少しずつ、準備していかなくてはならないんだけどね・・・」

・・・・・・・

母が退院してきたら、母の指示で、もう少し片付けようと思う・・・。
そして、貰えるものは貰おうと思う・・・。