えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

行き届かない心配り

2011-08-15 | 日記
入院中の母に代って、実家の台所に立つ日々が続いている。

東京から兄が来てくれていることもあって、それほど負担とは感じないが、
若宮の自宅、病院、実家へのコースを回ることにも慣れてきた。

お盆の来客を迎えるにあたって、普段使ってない食器類を必要とし、いつもより食器棚を頻繁に開けて探すこともしばしば。
そして見つけてしまった、ガラスなどの破片の多さ・・・。

「あ~、あの時の片づけ、大変だったろうな・・・。気づいてあげられなくて悪かったな・・・」と改めて思った。

震災時、
「家は大丈夫だったけど、食器棚の中がなァ・・・。でも、大丈夫だよ。大体片付いたから」という母の言葉を思い出した。


あの日・・・
3月12日の早朝。
停電、断水、続く余震の中で、前夜夫と不安な一夜を若宮で過ごした私は、
一番先に連絡の取れなかった「実家に行きたい」と言って、起きるなり夫と実家に向かった。

実家に着いて、父と母の無事を確認し、家屋の損傷も目立って無かったこと、それに
「大体片付いたから・・・」の母の言葉に、

「じゃ、帰るね。水戸も大変な状態なの。利根町にも行って来なくちゃならないから」と言って、
すでに玄関先に破損した食器類が集められていたものを見ながら実家を後にしたのだった。

「朝、早くから片付けたんだ・・・」と、思いながら・・・。
でも、その後、どこまでできていたのか確認もせずにこの5カ月を過ぎてきた。


今のように、腎臓と大腸に癌を患っていて手術が必要だったことも分からない時とはいえ、、体重も減少し、もともと体の小さい母がさらに小さくなっていて、母にとって、あの大きな食器棚一つだって片付けは大変だったろう・・・。
よく見ると、上の方の段はまだ手付かず状態にある。
手が届かないことは容易に推測できた・・・。
農家で、人寄せがあるたびに使う飯椀や汁椀、皿、小丼、コップなどが山ほど入っているのだ。
家族が集まる時には、13人分の食器を必要とした時期もあった。
でも、それも今は多くても6、7人分あれば十分な状況になっている。

母の入院を機会に、父が大分台所を使いやすく整理した。
なるべく「動線」を短くできるように、と。

それでも、「捨てる、捨てない」の決定権は母にあるので退院を待つしかない。
父が私に言った。
「新しい家に、ここにあるもの何でも持って行け。わざわざ買うことないぞ」

「そうね。少しずつ、準備していかなくてはならないんだけどね・・・」

・・・・・・・

母が退院してきたら、母の指示で、もう少し片付けようと思う・・・。
そして、貰えるものは貰おうと思う・・・。


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