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世界の中心で、愛をさけぶキャシャーンでXserve

2004-05-10 | シネシネアーカイブ
行定勲の「世界の中心で、愛をさけぶ」と紀里谷和明の「CASSHERN(キャシャーン)」を観た。

【世界の中心で、愛をさけぶ ~世界の中心って結局どこなんだろう~】

文字通りの感動巨編。こういうのって、その映画のプロモーションでも「感動しまっせ?」的な説明が必ずつくので、どうしても観る前に身構えちゃうんだけど、いや、ここまでスキが無いとは。もうなんか、感動せざるを得なかった。

なんだけど、でもそういえば一つスキを感じた点があった。主人公がヒロインの名前の漢字を間違えて覚えていたことが明らかなになるシーンがあるんだが、フツー高校生にもなって自分が惚れている、しかもクラスメートの女子(←ああ~イイ響きだ~)の名前の漢字をちゃんと覚えてないなんてことがあり得るのか?(俺なんかジャポニカ学酋長に1日10回は楷書書きしてたヨ?)

しかし、そんなおひおひという点ですら、気づくと必然になっている。おひおひでなくなるサイドストーリーが、頭のなかで勝手に駆け巡りだす。それほど、この映画の世界観は完成している。

世界観といえば、舞台の香川県には小学校から中学校にかけて5年ぱかし住んでいたことがある。その経験から言わしてもらえば、あそこはあんなキレイな空間ではない。田舎特有の強烈な差別意識(、学歴、職業etc...)が、海と山で囲まれた閉鎖的な溜池的平面に抄いようがないくらいに沈殿し底面にこびりついている、非常に生々しい土地柄……そんな空間だ。それを背景として、訛りや方言も結構キツめ。

しかし、このドラマの香川県(の多分丸亀市)はとても幻想的で美しく、しかも主人公たちは訛ってすらいない。

だけど、これがめちゃめちゃ成功しているんだ。考えてみたんだけど、きっと、主人公たちのピュアさを強調させるためのヘタな生々しさって、あえて排除しているんだと思う。監督の好みもあるんだろうが、

「わざわざ映画の中でそんなもん表現しなくても、映画館を一歩でれば、テメーらの世界が十分生々しいんだよ」

といわれているような気がして、ちょっと空寒くなった。

【CASSHERN(キャシャーン) ~新造人間、悪を照らし、世界を拓く~】

これは一言でいうと、反戦芸術だ。ピカソのゲルニカや、ダ・ヴィンチらを生んだルネッサンスの歴史背景などをなんとなく思い出した。要は、オイル怪人ブッシュとバターライオン仮面小泉を、殺す! たたっ殺す! ってことですね。

ビジュアル的にほかの紀里谷作品と比べてみると、宇多田ヒカル「トラベリング」のクリップに一番近いと思った。圧倒的量感・質感のCG、クレイアニメ、セルアニメといろいろな手法を使ってたたみかける映像の紀里谷マジックは、ビデオクリップでも思い知らされた美☆トリップ感覚の延長線上にあった。思わず、カラリオのCMの優香ばりに「どどっどどっどどキ・レ・イ!」と宣(のたま)ってしまったのもいうまでもない。

各所で酷評されているストーリーテリングも、変身ヒーローモノやふしぎ系邦画にちょっとでも免疫があれば、難なく吸収できるレベルだと思うんだけどなぁ。これは、反戦芸術と捉えればなおさら。

ただ、芸術に寄りすぎたことで監督のエゴもいつもより若干塩加減多めで、その結果映画としてのパワーが損なわれているような気はした。

ちなみに、Yahoo!オークションとかやってる人なら、昔なつかしのアニメ版をここで見れます(5月13日まで)。

【これらを同時に観た感想】

両作品にいえるのが、系統はぜんぜん違えど、右傾化と反動化がまったなしに進む最近の日本の情勢についてのアンチテーゼとしての意味合いを強く感じたこと。今後、さらにやばい状況になっていけばいくほど、こういうオモロい映像作品がますます出てくるのは間違いない。嬉しいのと同時に、とても陰々滅々とした気持ちにもなってくる。

そんな、らいおんみどりの日ようび。

・追記
「世界の中心―」を「冬ソナ」製作チームがリメーク
丸亀市じゃなくて、木田郡庵治町ってとこでした地図

・さらに追記
面白かったキャシャーンテキスト。「竹内力が悪役を、哀川翔がキャシャーンを演じた三池崇史バージョン」って、確かに相当観たい。