goo blog サービス終了のお知らせ 

世界標準技術開発フォローアップ市場展開

ガラパゴス化から飛躍:小電力無線IEEE802規格開発会議・・・への寄与活動拡充

リスク,北対岸大陸,18/11SF平和条約署名49カ国->18/11共同宣言9条「歯舞色丹引渡す」

2019-02-21 10:04:49 | 連絡
(イ)サンフランシスコ平和条約に調印しなかった国とその理由、サンフランシスコ平和条約を主催したアメリカとイギリスは、第二次世界大戦で日本に宣戦布告をした49ヶ国に講和会議への招請状を送りました。後にフランスの要求を受け入れ、インドシナ半島の3ヶ国ベトナム、ラオス、カンボジアも加わります。主催者であるアメリカ、イギリス、そして当事国である日本を加えた55ヶ国のうち、招請に応じず、会議に参加しなかったインド、ビルマ、ユーゴスラビアの3ヶ国を除いた52ヶ国で会議がおこなわれました。中国や韓国に関しては会議への招請状すら送られておらず、当然条約への署名もしていません。本来であれば日本と戦った中華民国が招請されるべきところですが、当時の中華民国は中華人民共和国との国共内戦に敗れて本土を失っていました。また中華人民共和国は、朝鮮戦争でアメリカやイギリスが率いる国連軍と交戦状態にあったことも影響し、どちらを中国の正統政府と認めるかで国際社会の意見も二分されていたため、招請が見送られたのです。またこの会議の目的が日本との講和を実現するものであったため、日本と戦争をしていなかった韓国には参加の資格は与えられませんでした。ソ連、ポーランド、チェコスロバキアは、同じ共産主義国家である中国人民共和国の参加が認められなかったことや、引き続き日本国内に米軍が駐留する内容であったことに反発し、会議の無効を主張したうえで署名も拒否しました。最終的に条約に署名したのは49ヶ国。独立後の日本は、会議に招請されなかった国、招請はされたけれど参加しなかった国、参加はしたけれど署名しなかった国などと個別に平和条約を結んでいくことになります。https://honcierge.jp/articles/shelf_story/6495
(注5)1956年10月、モスクワで調印された日本とソ連の戦争終結・国交回復の宣言。日本側代表は鳩山一郎・河野一郎ら、ソ連側はブルガーニン首相・フルシチョフ第一書記が署名した。双方が戦争終結を確認し、国交関係を樹立することをうたったが、平和条約には至らなかった。それは択促・国後・歯舞・色丹の北方領土問題が解決されず残ったからであり、「平和条約締結に関する交渉を継続する」という表現に留まった。しかしソ連は、日ソ宣言の第9条で、平和条約締結後に歯舞・色丹については日本側に「引き渡す」ことを約束している。https://www.y-history.net/appendix/wh1602-095.html
(注6)1993年、ロシアのエリツィン大統領と細川護煕首相が東京で署名した文書。
択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島の帰属に関する問題を「歴史的・法的事実に立脚し、両国で合意の上作成された諸文書および法と正義」に基づき解決、平和条約を締結すると明記した。日本は宣言を踏まえ交渉対象は択捉、国後を含む4島だと主張するが、ロシア側は2島を強調している。http://note.masm.jp/%C5%EC%B5%FE%C0%EB%B8%C0/

リスク,北対岸大陸,18/11SF平和条約調印拒否->18/11日ソ共同宣言

2019-02-21 09:51:54 | 連絡
2018/11/29,・1951年ソ連はサンフランシスコ(SF)平和条約調印を拒否し、日ソ平和条約の締結が先送りされた。・1956年、鳩山一郎首相とブルガーニン首相が署名した日ソ共同宣言、・1993年10月来日したロシアのエリツィン大統領が細川護熙首相との東京宣言, =茂木 誠, 駿台予備学校世界史科講師=(2)1951年、吉田茂首相が米国を主体とする連合国と結んだサンフランシスコ平和条約(注4)では、「日本は千島列島を放棄する」と記されたが、この中に択捉・国後・歯舞・色丹の「四島」が含まれるのかは明記されなかった。日ソ間に杭を打ち込んでおこうというダレス米国務長官の深慮遠謀である。ソ連は調印を拒否し、日ソ平和条約の締結が先送りされた。(3)1956年、鳩山一郎首相とブルガーニン首相が署名した日ソ共同宣言(注5)では、国交回復と日本人抑留者の解放に加えて、「平和条約の締結後に歯舞・色丹のみ引き渡す」と明記された。(4) しかしソ連は1960年6月の日米安保条約改定成立を口実に、日本との平和条約交渉を拒否した。オホーツク海はソ連の原子力潜水艦の活動拠点であり、択捉・国後を日本に引き渡して米軍基地が置かれることを警戒したのだ。(5)交渉が進んだのは1991年12月ソ連崩壊後である。1993年10月来日したロシアのエリツィン大統領が細川護熙首相との東京宣言(注6)で択捉・国後・歯舞・色丹の「四島」を交渉のテーブルに乗せた。破綻した財政の再建のため、エリツィンはジャパン・マネーを渇望していたのだ。https://business.nikkei.com/atcl/report/16/102900251/112700003/?P=3
米国歴代大統領:1945/4->ハリー・S・トルーマン、民主党->1953/1、1953/1->ドワイト・デビッド・アイゼンハワー、共和党->1961/1、1993/1->ビル ウィリアム・ジェファーソン・クリントン,民主党->2001/1、
ソ連、ロシア連邦歴代最高指導者: 1922/4->ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン、ソ連共産党書記長->1953/3,1953/9->ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ、ソ連共産党第一書記->1964/10, 1955->ブルガーニン ニコライ・アレクサンドロヴィチ首相->1958、1958->ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ首相->1964,1991年12月26日ソ連崩壊、1991->ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィンロシア連邦初代大統領->1999
日本歴代内閣:1948/10->吉田茂内閣、連合国軍占領下内閣、1952/4:平和条約発効、1952/10:連合国軍占領終了->1952/10、1954/12->鳩山一郎内閣->1956/12、1957/2->岸信介内閣->1960/7、1993/8->細川 護熙内閣->1994/4
(注4) (ア)サンフランシスコ平和条約の具体的な内容は?第2章 領域、戦後の日本の領域を定めるための条項です。日本は朝鮮の独立を承認し、済州島・巨文島および鬱陵島、台湾および澎湖諸島、千島列島並びに樺太の一部およびこれに近接する諸島、国際連盟の委任統治制度に基づき統治していた太平洋諸島、新南群島(現在の南沙諸島)および西沙群島などの領土を放棄することが定められています。この条項が現代の領土問題の原因のひとつとなっています。北方領土問題、竹島問題、尖閣諸島問題とも、この条項の文言を巡って解釈が分かれているのです。
日本が放棄した領土の中に含まれるというロシア・韓国・中国の主張に対し、日本はこれらは含まれないと主張しています。
また、沖縄県、奄美群島、小笠原諸島などはアメリカの信託統治下に置かれることになりました。これらが返還されたのは、奄美群島が1953年、小笠原諸島が1968年、沖縄県は1972年のことです。第3章 安全、この条項で、日本は個別的・集団的自衛権を持ち、集団安全保障条約に参加することが可能とされています。日本国憲法のもと、武装解除をした日本には自衛権を行使できる有効な手段がありませんでした。そのため、日本を守る仮の処置として、日本国内に米軍を駐留させる「日米安全保障条約」が平和条約と同時に締結されました。第5章 請求権及び財産、この条項で、連合国は日本に対する役務を除く賠償の請求権を放棄しました。これは、冷戦が激化するなかで日本が東側陣営につくことを危惧したため、寛大な処置がされたといわれています。しかし実際には多くの領土を放棄したうえに、海外に持っていた財産を没収されました。その額は当時の金額で約1兆1千億円。現在の価値に換算すると35兆円以上になります。https://honcierge.jp/articles/shelf_story/6495