◇元東京都江戸川区土木部長・土屋信行さん
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土屋 信行(つちや のぶゆき) 公益財団法人えどがわ環境財団理事長 公益財団法人リバーフロント研究所理事 1975 年東京都入都。様々な要職を歴任し、2003 年より 江戸川区土木部長を務めた。2011 年公益財団法人えどがわ環 境財団理事長に就任。 平成20 年度に、海抜ゼロメートル世界都市サミットを開催。 現在も幅広く災害対策に取り組んでいる。 現在、東日本大震災の復興まちづくりの学識経験者委員とし て、宮城県女川町の復興に取り組んでいる。
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東日本大震災から10年、高い防潮堤が三陸沿岸を覆う中、防潮堤のないまちづくりを進め、にぎわいを取り戻した町がある。
人口の1割近い827人が犠牲となった、宮城県女川(おながわ)町。
なぜ女川は「復興まちづくりの成功例」と呼ばれるのか。
震災直後から町の復興アドバイザー役を務めた元東京都江戸川区土木部長、土屋信行さん(70)は「みんなが少しずつ我慢して、少しずつ幸せになる区画整理のまちづくりが実を結んだ」と語る。
土屋さんに「女川復興物語」を聞いた。
〇海から現れる初日の出
素晴らしいまちができました。
女川町の中心にあるJR石巻線女川駅の最上階にある展望デッキから、まっすぐ海へと向かうレンガみちの商業施設「シーパルピア女川」の向こうに、海から昇る初日の出が見えます。
このプロムナードは、駅舎の背後にある山と、毎年、初日の出が昇る地点を結ぶ方向に設計されています。震災から10年の節目を迎えた2021(令和3)年の正月も、きっと大勢の人が訪れたことでしょう。
女川湾から現れる美しい初日の出を、さえぎるものは何もありません。
女川町はこの10年、「防潮堤のないまちづくり」を進め、完成させたからです。あの震災の前からずっと、海とともに生きてきた人々が、これからも海とともに生きていくための選択でした。
東北地方の太平洋沿岸部を車で走ると、岩手県宮古市の田老地区にある「万里の長城」と呼ばれた防潮堤や、宮城県気仙沼市の高さ14・7メートルの防潮堤など、青森県から千葉県まで全長432キロにわたる巨大な壁が姿を現してきています。沿岸の道路をどこまで走っても、海が見えないのです。
東日本大震災では、津波で被災した場所を今後どうやって守るかが、復興まちづくりの大きな課題でした。
国の方針に基づき各自治体が復興計画を立てたとき、おおむね防潮堤で守ることにしたため、高い堤防で囲まれてしまったのです。
そんな中で女川町は、「防潮堤のない町」という評判をいただきました。
本当はあるのですが…。防潮堤は、かさ上げした盛り土の中に隠してあるのです。おそらく震災の被災地で唯一ではないかと思います。
その秘密は、町独自の復興まちづくりにあります。女川湾に沿う国道の下に高さ4・4メートルの防潮堤を配置し、余裕高1メートルを加えた高さで内陸へ向かって地続きにかさ上げしました。
さらに女川駅へ向かって盛り土をゆるやかに高くしていき、駅舎や商店街を再建しました。住宅地はさらにその上の「絶対安全高台」へ移しました。
リーダーシップを取ったのは、当時の安住宣孝(のぶたか)町長です。
65歳だった安住町長は、「もう二度と命を失わないように、みんなで高台に移ろう」と呼びかけました。震災の半年後、この理念を盛り込んだ復興計画が決まったのは、国の方針により宮城県が防潮堤の建設を求めてくる前のことでした。