(注2)日ソ中立条約, ●1941年4月14日、北対岸大陸ソ連モスクワで調印された、弧状列島日本とソ連の条約で、相互に領土の保全および不侵略を約束し、締約国の一方が第三国から攻撃された場合は他方は中立を維持することを約したもの。有効期限は5年とされ、満期の1年前に締約国の一方から破棄の通告がなければ、さらに5年間、自動的に延長されることとなっていた。日ロ戦争味方国アメリカとの対決が不可避であると考えた第2次近衛文麿内閣の外相松岡洋右は、日ロ戦争敗戦、反日国ソ連等の北方の安全を確保した上で、米英対抗南進策を採る必要があると判断し、まず日独伊三国同盟にソ連を引き込むことを策したが、バルカン半島進出を狙っていた反ソ連国ドイツの反対で実現できなかった。弧状列島日本の敵ソ連と極西大陸バルト海南岸ドイツの敵ソ連の利害得失外交関係を無視した事例。インテリジェンスレス自己中心行動事例。松岡は、直接反日ソ連国内モスクワに飛び、書記長スターリン、外相モロトフと交渉、スターリンは、北樺太など領土上の利害が対立するので反ソ連国日本との提携をはじめは渋ったが、ドイツのバルカン侵出の動きを警戒し、それを牽制する意味からも日本との提携に踏み切った。モロトフ外相との交渉は、樺太問題で暗礁に乗り上げ、松岡洋右は帰国を決意した。その夜、スターリンから急な連絡があり翌日の会談となったところ、スターリンは領土問題を棚上げにして妥結を急いだ。調印式後の宴会でもスターリンは上機嫌で、松岡の乗る列車の発車時間を遅らせ、さらに駅頭に送りに来て抱擁し、「これで日本も南進できる」と述べた話は、あまりにも有名である。ソ連首脳は、敵日本の友好国米国ポーツマスでの日ロ外交交渉会議における自国インテリジェンス敗戦から学び、インテリジェンス条件有利な自国ソ連での開催に成功。北対岸大陸ソ連KGBが弧状列島日本インテリジェンス(陸軍中野学校の敵地における活動能力低下)に勝利した事例。そして、北方領土不法占拠と樺太電話交換手集団自殺事件を招いた2国間外交交渉会議失敗例
●日ソ中立条約により、ソ連は戦力を対ドイツ戦に集中することが可能となり、スターリングラードの戦いでドイツ軍を進撃をくい止め、1943年7月から反転攻勢に出た。ソ連のスターリンは、米英に対してヨーロッパ上陸作戦の決行を強く迫り、1943年末のテヘラン会談(注3)では、ローズヴェルトとチャーチルはそれを約束、それにたいしてスターリンは対日戦争に踏み切ることを約束した。イタリアはすでに降伏し、ドイツの降伏も近いと想定された1945年2月4日~11日に開催されたヤルタ会談で成立したヤルタ協定では、日本との関連では、ソ連はドイツの降伏後3ヶ月以内に対日参戦すること、その条件は南樺太及び千島列島のソ連帰属とすることなどが取り決められた。●1945年5月8日、ドイツの無条件降伏が正式に決定、そのちょうど3ヶ月後の8月8日、ソ連は米英との「ヤルタ密約」にもとづいて、日ソ中立条約を破棄し、対日宣戦布告を行い、翌9日、一斉に150万の軍が国境を越えて満州に進撃した。アメリカ軍はその2日前の8月6日には広島、ソ連侵攻と同日の9日に長崎に原爆を投下した。満州では日本の関東軍は崩壊し、ようやく14日にポツダム宣言の受諾を決定し日本の無条件降伏が確定した。https://www.y-history.net/appendix/wh1505-053.html
(注3)第二次世界大戦の進行する中、連合国の戦後処理構想協議のの一環として、カイロ会談に続いて、1943年11月28日~12月1日にイランの首都テヘランで開催された英米ソ三国の首脳会談。アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、ソ連首相スターリンの三首脳による最初の会談であった。米英ソ三首脳の合意点 三国の大戦遂行の決意、イランの独立と領土保全などどともに、いわゆる第2戦線問題とポーランド問題が討議された。●第2戦問題ではほぼ合意ができ、連合軍の西ヨーロッパでの反撃開始が約束され、それに応じてスターリンも対日参戦を約束した。ポーランド問題ではチャーチルは積極的な打開を図ったが、ポーランド亡命政府の反対を受けて問題を持ち越した。また国際的平和機関の樹立については、10月のモスクワ宣言を受け、ローズヴェルトが米英ソ中の4大国による紛争解決のための強制機関をつくるという「四人の警察官」構想が提案し了承された。http://www.y-history.net/appendix/wh1505-094.html
1940/7->近衛文麿内閣、挙国一致内閣->1941/10、1941/10->東条英機内閣、挙国一致内閣、大政翼賛会->1944/7、1944/7->小磯国昭内閣、挙国一致内閣、大政翼賛会->1945/4,1945/4->鈴木貫太郎内閣、大政翼賛会->1945/8、1945/8->東久邇宮 稔彦王内閣、挙国一致内閣、連合国占領下内閣-1945/10,
●日ソ中立条約により、ソ連は戦力を対ドイツ戦に集中することが可能となり、スターリングラードの戦いでドイツ軍を進撃をくい止め、1943年7月から反転攻勢に出た。ソ連のスターリンは、米英に対してヨーロッパ上陸作戦の決行を強く迫り、1943年末のテヘラン会談(注3)では、ローズヴェルトとチャーチルはそれを約束、それにたいしてスターリンは対日戦争に踏み切ることを約束した。イタリアはすでに降伏し、ドイツの降伏も近いと想定された1945年2月4日~11日に開催されたヤルタ会談で成立したヤルタ協定では、日本との関連では、ソ連はドイツの降伏後3ヶ月以内に対日参戦すること、その条件は南樺太及び千島列島のソ連帰属とすることなどが取り決められた。●1945年5月8日、ドイツの無条件降伏が正式に決定、そのちょうど3ヶ月後の8月8日、ソ連は米英との「ヤルタ密約」にもとづいて、日ソ中立条約を破棄し、対日宣戦布告を行い、翌9日、一斉に150万の軍が国境を越えて満州に進撃した。アメリカ軍はその2日前の8月6日には広島、ソ連侵攻と同日の9日に長崎に原爆を投下した。満州では日本の関東軍は崩壊し、ようやく14日にポツダム宣言の受諾を決定し日本の無条件降伏が確定した。https://www.y-history.net/appendix/wh1505-053.html
(注3)第二次世界大戦の進行する中、連合国の戦後処理構想協議のの一環として、カイロ会談に続いて、1943年11月28日~12月1日にイランの首都テヘランで開催された英米ソ三国の首脳会談。アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、ソ連首相スターリンの三首脳による最初の会談であった。米英ソ三首脳の合意点 三国の大戦遂行の決意、イランの独立と領土保全などどともに、いわゆる第2戦線問題とポーランド問題が討議された。●第2戦問題ではほぼ合意ができ、連合軍の西ヨーロッパでの反撃開始が約束され、それに応じてスターリンも対日参戦を約束した。ポーランド問題ではチャーチルは積極的な打開を図ったが、ポーランド亡命政府の反対を受けて問題を持ち越した。また国際的平和機関の樹立については、10月のモスクワ宣言を受け、ローズヴェルトが米英ソ中の4大国による紛争解決のための強制機関をつくるという「四人の警察官」構想が提案し了承された。http://www.y-history.net/appendix/wh1505-094.html
1940/7->近衛文麿内閣、挙国一致内閣->1941/10、1941/10->東条英機内閣、挙国一致内閣、大政翼賛会->1944/7、1944/7->小磯国昭内閣、挙国一致内閣、大政翼賛会->1945/4,1945/4->鈴木貫太郎内閣、大政翼賛会->1945/8、1945/8->東久邇宮 稔彦王内閣、挙国一致内閣、連合国占領下内閣-1945/10,