. 中居正広氏の事案では、社員が食事会の設定に関与したと誤報されたことによって、フジテレビ社のコンプライアンスに疑義ありと経営陣の引責辞任にまで発展した。
コンプライアンスは法令遵守と和訳されているので、フジテレビの場合では例え社員による食事会設定が事実であったとしても、会社のコンプライアンスを問うのは如何なものかと思い、コンプライアンスを勉強した。
ネットで観て自分なりにシックリ感じるのは、《ラテン語のcomplere(空所を満たして一杯にする)が英語のcomplete(完成)に繋がり、complianceはcomply(何かに従うこと)という動詞の名詞形である。complianceは、単に何かに従うことを指しており、その「何か」は特定されていないが、和訳の際に、我々が従う「何か」は法令に違いない」と誤訳され誤解が広まった》という主張である。
日本では、当初は和訳の通り狭義の「法令遵守」であったが、現在では解釈が広がって、法令遵守はもとより、個人・企業の倫理感及び社会規範の遵守にまで及ぶ概念とされている。
成る程!!と思う反面で些かに奇異に感じるのは、何故に法令ができた、法令を作る必要があったのかと考えれば、長い年月で人口が増え、貧富の差が生じ、宗教が現れ、権力が生じて、それまでの小さな共同体では機能していた社会規範が機能しなくなったことを補完するためでは無かったであろうか。
近代的法律が無く、社会通念が大勢を決した時代には多種・多様な価値観から、首狩りが生まれ、カースト制が生まれ、選民思想・民族蔑視が生まれ、日本でも穢多・非人差別、村八分の風習、等が思い出される。
これらの社会規範・通念を悪弊として禁止したのが法令であると考えれば、現在のようにコンプライアンスに各人で振れ幅の大きい社会規範の遵守まで入れ込むのは如何なものであろうか。キリスト・イスラム教国では、法令の他に聖書・コーランという文字規範があるために各個人の振れ幅も小さく・違反事案の制裁共有も容易であるが、それとても「神の御心解釈」次第によっては悪行を正当化さえできるように思う。ましてや、成文規範の無い日本で社会通念・規範を過度に重視するのは、大きい声がコンプライアンス自体のゴールを動かしかねない。現に、フジテレビの記者会見でも、長広舌に自論のコンプライアンス概念賛同を強制する善意を気取った記者が多かったとされる。
現在、少数派の活躍の場を増やして社会の活性を図るというDEIが、逆差別を生む・競争原理を否定することで社会の活性化を阻害するとして、欧米では廃止・縮小の方向に向かっている。
それと同様に、各個人の尺度が異なるコンプライアンス・ハラスメントが大手を振る社会は、人類が追い求めてきた社会とは異なるように思える。自国の社会通念と規範を世界に敷衍・普及しようとする、プーチン氏や習近平氏を観ると、その危険性が容易に理解できるように思う。
そのうち日本にも、独特の規範を正とする小プーチン、小近平が現れるかもしれない。