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もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

魚雷艇ー3

2021年08月09日 | 自衛隊

 海上警備隊発足に伴って、海軍の駆潜特務艇(駆特)を魚雷艇に一時転用して急場を凌ぎ、本格的な魚雷艇としては昭和28・29年度計画でアメリカのパッカード社ガソリンエンジン搭載の魚雷艇8隻を整備した。また、船型研究のためにイギリスからダーク型高速哨戒艇1隻を購入して魚雷艇9号に、昭和35年度には量産型魚雷艇のプロトタイプとして魚雷艇10号を、昭和40年度には滑水性能試験のために高速救難艇(ASH)高速6号を建造したが、いずれも主機関・船型の不調等もあって戦力的には疑問符が付けられるものであった。また、パッカード社の中古エンジン購入と国会で追及されるとともに、ASH6号は火災による爆発事故も起こしている。
 本格的な魚雷艇は、3次防で整備された魚雷艇11号型5隻で、2隻が余市防備隊に、3隻が舞鶴防備隊に配備された。11号型は、全長35m、幅9.2m、アルミ押出型材を多用したディープV船型で、滑水機能に優れていたために、以後の民間水中翼船にも広く採用されているので、軍需が民需を発展させた一例にも思える。
 11号型の推進方式は、海自初のCODAG方式・3軸スクリューで、左右軸はディーゼルエンジン(三菱24WZ-31MC)の直結駆動、中央軸はクラッチ結合のガスタービン(IHI社IM300)で、100㌧の船体に全力10,500馬力、特別全力(1時間)11,000馬力の機関を装備して40ノット以上の高速が発揮できた。主要兵装は72式直進型長魚雷発射管4基、40㍉機関砲1機であった。
 このような経過を辿って、11号型魚雷艇は世界水準を凌駕する性能を誇っていたが、大型艦の射撃能力・精度向上によって肉薄攻撃が非現実的になったことと、艦艇攻撃の主力が対艦ミサイルに移行したこともあって、魚雷艇は先進国の艦種から次第に姿を消していった。現在でも小型艇による艦艇への肉薄攻撃を行うのはイラン革命防衛隊くらいで、使用武器も携帯型ミサイルや爆薬で、いわば戦場から離れた場所でのゲリラ的・不意打ち攻撃の武器・手段となっている。
 海上自衛隊も魚雷艇に代えてミサイル艇を整備しているが、ミサイル艇は魚雷艇のように独自に・近距離で攻撃するのではなく、陸上のサイト、観測機、艦隊からの敵位置情報を得て、島影等のアウトレンジから攻撃することが一般的であるように思える。

 3回に亘って魚雷艇について書いたが、今後とも魚雷艇が建造されることは無いであろうし、ミサイル艇も単なるミサイルの移動発射基地の様相が増していることから、無人観測機と組み合わせた無人艇に移行することは避けられないように思える。

 魚雷艇が花形視された当時、舞鶴の第2魚雷艇隊(2雷隊)で隊歌を作った。歌詞は乗員からのコンペ形式であったが「我が艇からも1編を」との艇長命令で応募させられ、運良く採用された。魚雷艇在任中は何度か使用されたが、自分も魚雷艇から転勤し、その後には魚雷艇・魚雷隊が消滅してしまった現状では既に誰一人覚えていないだろうし、自分が作詞したなど妻子すら知りもしない。
 せめて冥途への土産として電脳世界にひっそりと残せないかと思い、掲載するので御笑覧を。

 第2魚雷艇隊々歌(作曲:舞鶴音楽隊長)
一 丹後の海の 島陰に
  雌伏の時ぞ 今こそは
  強者さらに 技を練り
  瑞穂鎮めの 盾たらん
  気高き花の 2雷隊
二 エンジンの音 たからかに
  舳艫済々 日本海
  坂巻く波に 連綿の
  碧空射抜く 意気を秘む
  純白の航跡 2雷隊
三 天七難を 与えなば
  我 風に乗り 雲を呼び
  必殺弩弓の 一文字
  艨艟波に 撃破せん
  久遠の栄え 2雷隊


魚雷艇ー2

2021年08月08日 | 自衛隊

 魚雷艇(PT:torpedo boat)は、当初は水雷艇(蒸気船)と呼ばれ、内燃機関装備の滑走型ボートに変化して以降魚雷艇と呼ばれることになるが、魚雷艇と水雷艇は別の艦種とするのが一般的で、日本海軍では、本土近海を離れた外洋での艦隊決戦に戦術思想が変化したために、水雷艇は次第に大型化して駆逐艦に変貌し、航続距離に難がある魚雷艇が整備されることは無かった。

 水雷艇は、1869(明治2)年に自走魚雷が実用化したために出現し、1878(明治11)年には帝政ロシア海軍の水雷艇がオスマン帝国海軍の砲艦を撃沈している。
 日本海軍でも1880(明治13)年にイギリスに4隻発注したのを皮切りに水雷艇の整備が図られ、日清戦争では1894(明治27)年の黄海海戦で戦意喪失・遁走して山東半島威海衛湾に籠った北洋艦隊に対して、翌1895年2月に水雷艇20隻以上による数次の夜襲を敢行し、「定遠」「来遠」「威遠」を撃沈している。
 1900(明治33)年には水雷艇の多くが駆逐艦に分類され、1904(明治37)年に就役した9隻を最後に水雷艇の建造を終了した。
 日露戦争中の1905(明治38)年5月27日の日本海海戦においては、27日~28日の夜戦で40隻にも及ぶ水雷艇が駆逐艦と共同して、総計54本の魚雷を発射して戦艦「ナヴァリン」撃沈、戦艦「シソイ・ヴェリキー」、装甲巡洋艦「アドミラル・ナヒモフ」、一等巡洋艦「ウラジミール・モノマフ」を大破させたとされている。
 その後1923(大正12)年までに水雷艇は全て除籍、艦種別そのものも廃止され、日本海軍から水雷艇は姿を消し、魚雷艇も整備されることも無かった。

 ジョン・F・ケネディ中尉(後大統領)が指揮するPT109がソロモン諸島近海を航行中、駆逐艦天霧に衝突(乗り切られる)されて、 部下2名を失いながらも生き残った部下たちとソロモン諸島の島に泳ぎ着いて救助されたことは、映画にもなって有名である。アメリカ海軍は、PTが沿岸警備だけでなく外海における艦艇攻撃にも幅広い任務を遂行できると考えて、急遽、魚雷4本を搭載した全長24mの魚雷艇94隻を建造したとされているが、凌波性・居住性・航続距離に劣る魚雷艇を、どのような方法で本国を遠く離れたソロモン諸島にまで配備・展開し得たのかには勉強が及んでいない。
 次回は、海上自衛隊の魚雷艇の予定です。


魚雷艇ー1

2021年08月07日 | 自衛隊

 昭和50年代の2年間、魚雷艇に乗組んだ。

 魚雷艇はその名が示すように、高速を以て大型艦搭載砲の射程内にまで肉薄して魚雷攻撃を行う小型艇であるが、目標とする大型艦がレーダ連動の射撃指揮装置や自動砲を装備したことによって射撃精度が飛躍的に向上し、高速の小型艇ではあっても肉薄することが不可能になったことと攻撃武器の主流がミサイルになったことから、海上自衛隊からも姿を消した懐かしい艦種である。
 今回は、魚雷艇に至る助走としての駄文であるが、セクハラとY談要素に満ちていることをお断りしておく。
 欧米に於いて船は女性代名詞で語られるし、日本でも処女航海、母船、母港などの訳語が使用されている。
 なぜ船は「She」「Her」なのかということについての有力な説は
・元来、船を操っていたのは男性であり、そのパートナーとしての船を女性に例えた。
・周囲には複数の男たちがつきまとい、常時大騒ぎをしているから。
・見栄えをよくするために多量の化粧(ペンキ)を必要とし、時には全身をきらびやかな装飾(満艦飾等)で飾りたてるから。
・下半身は水面下に隠しているものの上半身を露わにして、入港する際はブイ(ボーイ)に一直線に駆け寄るから。
・入手費(建造・購入)よりも維持費がかさんで人を破局に導くから。
 等が挙げられているが、自分としては《上空から見た船の形状と中に男が居るから》なるY談風解釈を付け加えたい。
 おそらく男性諸子はニヤリ・ナルホドと納得するであろうが、女性から見れば不愉快極まりないものであろうし、それもあってか現在のビジネス界やメディアでは「It」と無味乾燥な中性代名詞を使うようになっているらしい。
 また船名にしても有名なところではクィーンエリザベス(英空母&客船)、ジャンヌダルク(仏空母)、新大陸発見のコロンブスの船は「サンタ・マリア」、清教徒の移民船は「メイフラワー」であり、故石原裕次郎氏の愛艇は「コンテッサ(伯爵夫人)Ⅰ~Ⅴ」と命名されていたように、女性名を付けることは珍しくない。さらにはTDLのアトラクション「パイレーツオブカリビアン」の船すべてが女性名ともされている。
 船の人称は軍民で区別されないが、航空機では民間機は「She」、軍用機は「He」と呼ばれているらしい。

 海上自衛隊では個人名を艦名とすることは無いが、艦名に個人名を拝借する米軍にも未だ女性名は無いようである。カマラ・デヴィ・ハリス副大統領が昇格して初の女性大統領になる公算が囁かれているが、後継空母にその名が付けられることはあるのだろうか。艦名が以後の運命を左右するという都市伝説は海上生活者の間では根強いために、カマラ・D・ハリスなる空母は運の悪い軍艦になってしまうように思える。
 余談ながら、武勲を挙げた艦名は受け継がれるものの悲運な艦名やあまりにも政治色の強い艦名は継承されない場合が殆どであるので、海自艦艇にも継承されないであろう艦名が複数取り沙汰される。
 次回は、水雷艇・魚雷艇のあれこれの予定です。


キリンとハイネケン

2021年07月30日 | 自衛隊

 キリンビールが、工場見学を有料とする方針であることが報じられた。

 報道によれば工場見学を有料とする他、見学時に提供される試飲等のサービスにも何らかの制限が設けられるらしい。
 昭和45年度の世界一周遠洋航海に参加することができた。世界一周とは言え初任幹部の練習航海が主目的であるために、寄港も10か国で実質は単なる地球一周と呼んだ方が適当であることは云うまでもない。そんな中でオランダのアムステルダム港に寄港して史跡研修と銘打たれたバスツアーでの出来事である。
 漸く下士官(3海曹)になった下っ端であり、ツアーがオランダ海軍の好意であるのか日本大使館の手配(防衛庁負担)によるものかは覚えていないが、運河・風車・チューリップ畑を見学したことは覚えている。そして、最後の見学はハイネケンビールの工場であった。
 当時の日本でハイネケンビールと云えば、ちょっと高級なバーの洋酒棚の一角に並べられている程度で、我々薄給の身には手の出ない物であったと記憶している。
 工場見学を終えて、ゲストホールに集合した際、テーブルには既にハイネケンの小瓶が整然と並べられて我々(総勢200名程度)を待っていた。ツアー指揮官(概ね少壮の尉官)の合図で試飲が始まったが、当然のことながらものの30秒で呑み終えてしまった。あまりのあっけなさにハイネケンの広報担当がにこやかに追加サービスを担当者に命じたのが騒動の発端であった。その後は追加しても追加してもあっという間で、最後には20名ほどの担当者が運搬・開梱・配布する有様となった。試飲がどのようにして終了したのかは覚えていないが、世界一のビール会社との矜持からハイネケンが断るとは思えないので、ツアー指揮官が強権的に終了したものであろうが、時すでに遅く空箱が山のように積み上げられてのお開きであった。
 おそらく1000本以上は呑んだものと思えるが、ビール代をハイネケンが負担したのか、オランダ海軍が補填したのか、日本政府(防衛庁)が弁済したのかは知らないが、翌日のツアーでは追加の試飲は無かったそうである。

 今にして思えば、浅ましい国辱行為であるが、バスツアー中の運河では水を掛けられたり風車では老婦人から罵声を浴びせられたりと、参加者には些かのフラストレーションが溜まった状態であったことは知って頂きたい。昭和28年の明仁皇太子殿下、昭和40年の常陸宮殿下御訪問によって幾分改善されたとはいえ、当時もオランダの反日感情は強かったが、団体行動には感情的に反応するものの、少人数で行動する上陸員が直接に危害を受けることは無かった。
 それにしても、あの時に飲んだハイネケンビールが大変に美味かったことは今でも覚えている。


上陸・外出について

2021年07月26日 | 自衛隊

 自衛官にとって最大の娯楽、楽しみは、世間と同じく外出である。

 艦艇では外出ではなく上陸と呼ぶが、いろいろな決まり・制約があり、上陸の種類と概要を思いつくままに略記すると。
 ・普通上陸:当直シフト以外で階級別に一定割合で許可される通常の上陸。
 ・半舷上陸:乗員の半数を上陸させるもので、上陸の機会が2日である場合や、緊急出港が予想されたり警戒を要する外国港湾で付与
 ・特別上陸:主として当直中に家族保護等のための緊急な場合に付与。各職域の送別会等に時間を区切って付与する場合もある。
 ・入湯上陸:真水保有量が少なかった時代や真水保有量の少ない小型艇で、入浴のために時間を区切って半舷上陸の形で付与。自分の経験では3回あるだけ。
 ・賞与上陸:円滑な艦内生活のために定められた普通役員と呼ばれる食卓係・衛生(厠)係等に従事した場合1カ月に1日の割合で当直日に与えられる上陸
 ・捕虫・捕鼠(そ)上陸:相当量のアブラムシや鼠1匹を捕まえた場合に1回、当直日に与えられる上陸。ただし、衛生状態の整った現在では無い、若しくは空文化
 ・区域外上陸:通常の交通手段で片道2時間以上4時間未満の時間を要する地域に行動する場合に申請・許可。
 と事細かく定められている。
 普通上陸は、艦艇の大小や乗員の多少によって差異はあるが、現役中は海士3日に2日(2/3上陸という。以下同じ)、2・3曹は3/4、1曹は4/5、CPO(先任海曹)・幹部は5/6日が標準的であったが、おそらく現在でも同じであると思う。自分の若年時代は平日1/4・土・日2/3上陸で、平日は概ね週1回の上陸であるが運悪く上陸日が航海日に当たって上陸できないこともしばしばであった。
 上陸が如何に貴重であるかは、1か月間食器洗いや便所掃除に頑張って1回の上陸を賞与(ボーナス)として与えられることに端的に表されていると思う。
 懲戒処分には至らない程度の悪さには、CPO権限による「上陸止め」という刑罰がある。上陸止めは、通常は期間で示されるが意地の悪いCPOは上陸可能回数で示すので、航海などで上陸出来ない日はカウントされないために思った以上に日数がかかることがある。また、上陸止めは、懲戒処分待ちの状態でも発動され、いわば未決拘留であるが被告人は「少々処分は重くてもいいから早く処分申し渡しを受けて上陸止めが解除される」ことを願うのが普通(実体験)である。

 上陸が乗員最大の楽しみであることは洋の東西を問わないようで、アメリカ海軍では上陸をliberty partyと呼び、将に”自由だ”の叫び声が聞こえてきそうな字面である。さらに上陸止め刑罰もあるらしく、他の乗員がliberty partyに出艦する際に、仲間から冷やかされながらペンキ塗りをしている兵隊をよく見かけるし、佐世保のニミッツパークでは兵隊がひたすらに穴を掘っては埋め戻すことを繰り返している光景もおなじみである。