2023年4月23日、嫁さんと四条烏丸の大丸へ買物に行くついでに、上図の平等寺の特別公開に立ち寄りました。朝食時に嫁さんが、「たぶん研究のほうで知っておられるんでしょうけど、平等寺って分かります?」と訊いてきたのが発端でありました。といた生卵を小エビ入り炊き込み御飯にかけつつ「因幡薬師堂のことやろ・・・」と応えました。
「あ、因幡薬師のことやったんですかー。いなばやくし、って石標が確か、烏丸通松原の東にありますよね」
「それや。平等寺が正式な寺号やけど、地元じゃ因幡薬師って親しまれてるな」
「今度の春の特別公開でですねえ、そこも何かを特別公開するみたいなんですよ・・・」
「ああ、それは本尊の薬師仏像やろうな。いつもは非公開で昔は秘仏やったからな」
「やっぱり御存知なんですね・・・。研究とかで平等寺へ見に行かれたんですか?」
「いや、ずっと昔に京博の特別展で見たのが最初で、その後も何かの特別展とかで二、三回ほど見た記憶がある。寺で見たんは、うーん、そういえば一度も無いなあ・・・」
「こっちはお寺すら全然見たこと無いですよ、それでですねえ、あのう、大丸へ行く前に寄って行きません?」
ということで、早速出かけました。嫁さんが行きたいと希望する場所へはすぐに同道してあげるのが私の大事な務めのひとつです。嬉々として前を歩き、地下鉄に乗り、バスに乗る嫁さんの後についていき、烏丸通からの屈折路から上図の観音堂の南側を回りました。
南門の脇に立てられた特別公開の案内板です。御覧のように特別公開の対象である本尊薬師如来立像の写真がありました。それを嫁さんが見て、「重文ってありますね、国の重要文化財になってるんですか。歴史的に重要な仏像なんですねー」と感心していました。
南門の様子です。門と言うか、横開きのガレージ扉に銅板屋根を付けた仕切り程度の出入口です。昔から周囲を宅地に囲まれた市井の御堂の雰囲気を保っており、門前は車道なので、すぐに入って出られる敷居の低さが、庶民信仰に生きる仏教の御堂の歴史をそのままに伝えています。
ですが、寺そのものは真言宗智山派の拠点寺院として歴史的にも重きをなしています。現在の本堂は幕末動乱の火災で焼失したのを明治十九年(1886)に再建したものですが、旧堂の規模を踏襲して立派な構えをみせています。
「あ、ここはがん封じのお寺なんですねー、ねえ、お参りしましょう」と仏前に進んで手を合わせる嫁さんの隣に立ち、合掌して内陣を細目で伏し拝みました。
それから祈りつつ、かつて「山城名勝志」関連の研究叢書で調べて読んだこの寺の縁起本「因幡堂縁起」の一節を思い出し、そして若い頃に東京国立博物館で見学した「因幡堂縁起絵巻」の鮮やかなやまと絵の織り成す描写を思い出しました。あれから三十年近くが経ったのだなあ、と感じました。
本尊の薬師如来立像は、平安京の仏教美術史に名高い藤原時代の優品として知られ、仏像彫刻史のうえでは重要な基準作例の一つとして常に研究書や論考などで取り上げられるので、藤原期彫刻史が主専攻であった私にとっても大変になじみの深い仏像遺品の一つです。
大学時代の昭和62年春、ゼミ教官だった恩師の井上正先生に「洛中の二如来は出来るだけ早めに見ておきなさい」と勧められて一方の嵯峨清凉寺釈迦如来立像はすぐに拝観に行きましたが、こちら因幡薬師堂平等寺の薬師如来立像のほうは秘仏で、年に一度、8月8日のみなので、その日を待ちました。
しかし当日になって体調を崩して寝込んでしまい、その次の年の8月8日には用事があって行けず、その翌年に京都国立博物館の展示にてやっと拝観した、という思い出がありますので、個人的に忘れられない仏像の一つになっています。
拝観がなかなか出来ないでいる時期に、予習の意味で中野玄三先生の論文「因幡堂縁起と因幡薬師」を何度も読み、要点をノートにまとめました。それによって薬師如来立像の制作年代が長保五年(1003)頃であり、これの造立には「因幡堂縁起」にも登場する因幡国司の橘行平(たちばなのゆきひら)が関わっている、といった歴史的背景を理解し、当時の平安京で盛んであった新興の受領階級による寄進造仏の一端を伺うことが出来たのでした。
なので、昭和64年1月に京都国立博物館の展示にてやっと初めて拝観した時には、本尊薬師如来立像に関する諸情報や歴史的背景への理解がほぼ出来上がっていて、薬師如来立像の実物にも真っ直ぐに謙虚に相対出来て、感慨がより深まった記憶があります。
嫁さんに続いて上図の収蔵庫に入って、本尊薬師如来立像に十何年か振りにお会いした時、かつての感慨が胸中に鮮やかなままであるのを覚えて、なぜかホッとしました。一種の法悦に近いような、安らいだ気持になりました。嫁さんもそのことを感じ取ったらしく、「やっぱり、懐かしいですか」と小声でささやいてきました。
正直言って、懐かしい気持ちもあるにはありましたが、それ以上に、私の長い研究課題における重要作品の一例としていまなお厳然として存在する由緒深き霊像、としての存在感への畏怖というか一種の憧れの気持のほうが、いまも脈々として息づいている、というのが一番の実感でした。
平安京に最高最美の仏教美術を具現させるという目標を定めて燦然と登場し、時の権力者にして芸術文化の庇護者であった藤原道長を後援者に仰ぎ、数々の名仏像を造立しては末世の闇にも滅びぬ永遠のみほとけの姿を模索し続け、ついに宇治平等院鳳凰堂の絢爛たる諸芸術融合の姿を実現させて極楽浄土の何たるかを世に問うた定朝(じょうちょう)。
この、日本美術史上に不朽の名声を刻んだ平安期の天才仏師の造仏の変遷とその歴史的意義を問うことが、私の長い研究課題の重要な一つでしたが、その定朝の父にしてこれまた名仏師の誉れ高かった康尚(こうじょう)の活躍期の造仏の歴史を追う事もまた重要な課題でありました。
そしてここ因幡薬師堂平等寺の薬師如来立像は、その康尚の活躍期の基準作例の一つであります。康尚その人の作ではないかとする研究者も何人か居ました。
ですが、恩師井上正先生は「あれは、微妙だねえ」と、私が記憶している限りでは三度、講義や演習や昼食休憩の時などに言いました。私が「それでは真如堂の阿弥陀如来像の方がまだ有力、ということですか」と訊くと、独特の穏やかな視線をさらっと向けてきて、短く「ですな」と応えました。そのときの先生の表情がいまも忘れられません。
しかし、私のほうは、因幡薬師堂平等寺の薬師如来立像においても康尚の関与をみるべきではないか、という観点が魅力的に思えていたのでした。それは現在も変わらず、「康尚と同じ工房で活躍した有力仏師の作で、その制作には康尚も協力した」というのが、私の基本的理解です。それが正解かどうかは判りませんが。
そういった諸々の思い出を、嫁さんに問われるままに簡潔に話しました。「それで、研究の結論は出たのですか」と訊かれましたが、黙って首を横に振りました。
どれだけ調べても諸角度から追究しても、解き明かせぬ謎の部分というものは確かに残るからです。そういった謎を無理してとにかく追い続けるよりは、次代の研究者に任せるべきだ、という思いも同時に抱いているからです。
かくして久しぶりの因幡薬師堂平等寺参拝は、若き日の自分に再会したようなひとときとなりました。本堂前にて再び一礼したあとで南門を出る時、嫁さんが「さっきは本当に楽しそうな顔してましたよー」と言いましたが、その通り、楽しくて楽しくて仕方がなかったのだと思います。 (了)