2022年4月9日、水戸の友人U氏が京都に遊びに来ました。昨秋に交わした約束の通り、大徳寺の春季特別公開を観に行こうというのでしたが、今回の対象は総見院のみとなりました。それで時間が大いに余ってしまうので、氏のリクエストにあった知恩院を追加し、私からの希望で京都御苑の拾翠亭(しゅうすいてい)を加えました。
9日の朝6時17分、京都駅八条口バスターミナルにて水戸駅発の夜行バスから降りてきたU氏と合流し、そのままバスターミナルの南向かいのなか卯で朝食をとった後、地下鉄烏丸線で丸太町駅まで移動し、上にあがって上図の京都御苑関之町口に着きました。
拾翠亭(しゅうすいてい)は、関之町口を入ってすぐ右手に位置し、かつての九條家邸宅の敷地内に庭園を望んで建てられた別邸の遺構を指します。江戸後期に建てられ、茶室を伴って交流遊興の場として使用され、明治期の九條家の東京移転にともなって本宅をはじめとする殆どの建物が移転または取り壊されたなかで、唯一残された建物です。現存する数少ない貴族の邸宅および茶室の遺構として貴重な存在です。
最近の二年間余りはコロナ流行のために一般参観が停止されていましたが、今年の4月からようやく再開となったため、U氏も「それは是非見ておきたい」と乗り気になって常に先へ進んでいました。もちろん私もこの建物の参観は初めてでしたので、とても楽しみにしていました。
上図の案内文のように、拾翠亭の開館日は毎週の木曜、金曜、土曜となっております。さらに春の葵祭と秋の時代祭の開催日にも開かれますが、大抵はイベント絡みで茶会や歌会の団体が貸切るために一般見学客は入れないケースがあったりします。それで京都観光のコースにはちょっと入れにくいこともあり、普段でもあまり訪れる人は居ないと聞きます。それがU氏は気にいったようで、なかなかの穴場じゃないかね、と何度か言いました。
拾翠亭の表門に進みました。「おお、これが九條家の別邸か、立派なもんだねえ、さすがは五摂家だな」とU氏が声を上げ、私を振り返って、「九條家って上のほうなのかね」と聞きました。
「近衛家と並ぶ五摂家の双璧や、藤原北家九条流の嫡流で、平安期には藤原氏の長者だった家格や」と説明すると、「そうか、九條兼実の流れか」と思い当ったように応じました。
表門から玄関口へと続く飛び石を、U氏は立ち止まってしばらく見下ろし、「なんかこの石ひとつひとつが高級品に思えて、踏むのもはばかられるな」と言いました。「水戸藩28万4千石の威光も、やんごとなき殿上人の風格には及ばぬのかね」と冷やかすと、「そんなことはない・・・」と胸を反らして、何か吹っ切れたように勢いよく石を踏みはじめたU氏でした。
拾翠亭の建物が見えてきました。全盛期の九條家邸宅の建物が3800坪もあったなかの、40坪余りの小建築に過ぎませんが、現代の標準的な和風民家よりはやや大きくて二階建てに造られており、小建築には決して見えませんでした。
右手には庭園がいま九條池とも呼ばれる勾玉池(まがたまのいけ)の周囲にめぐっていて、それを一望出来る位置に建物が位置して二階は展望所の役目も担っていました。
外観を見ると、江戸期までの公家邸宅の建物としては簡易質素の類に属しますが、外装の設えや仕上げなどをよく見ると決して単なる簡易質素ではないことが上図からも分かります。壁土や柱の色が、高級素材独自の風味を帯びた独特のカラーを示しているからです。U氏もそのことを察したようで、「この建物だけで、ものすごい費用をかけてるんと違うか」と小声で囁いてきました。
玄関口に進んですぐ横の放ち戸より外には、庭園の石組と石橋が見えました。大きな石を自在に拝して立派な一枚板で橋を架けてありました。公家邸宅の庭園は、武家邸宅の庭園と違って池の護岸石にも大き目の石を選ぶ傾向があり、全体的に大振りでゆったりとした配置にまとまっています。
玄関口から控えの間を通って広間に進み、その東側の広縁に出ました。というより、玄関口を入った時点で既に見えていた向こうの庭園の景色に吸い寄せられたというのが実感でした。
御覧のように、広縁だけで歌会が楽しめるぐらいの広さがありますが、このあたりは平安朝の貴族邸宅の基本空間構成を踏襲しているかのようで、並べて垂れ下げられる簾にも雅の空間の匂いが感じられました。
この空間がU氏は気に入ったらしく、「官位とかで呼び合いたくなるな」と言い、さっそく私に「のう、右京大夫殿」と呼びかけるのでした。右京大夫は室町期の幕府管領たる細川京兆家の官位ですが、U氏は私が2019年8月に京都市に凱旋移住してから常にこの呼び方をします。なぜなのかはよく分かりません。
対して、私のU氏への呼び名は常に「水戸の」です。20年前に京都造形芸術大学にて共に学んだ頃からの呼び名ですが、その由来ははっきりしています。U氏が水戸の生まれ育ちで典型的な水戸藩サポーターであるからです。
それでこの時も私は「水戸の」と呼びかけました。
「水戸の権中納言殿、これなる勾玉池の庭園の風光明媚さを、如何愛でなさるかの」
「うむ、老中堀田備前の邪な企みの黒さとは対照的よの・・・」
こんな調子で、いつものように時代劇水戸黄門の世界に浸って成りきって楽しんでいたU氏でした。 (続く)