-異時代・異文化背景常識-
時と場所の相違から文は読めなくなる。
話が通じなくなる。
デカルト的懐疑論 第1章
① 「デカルト的懐疑」、それはキリストの教えから
逸脱した「一切を疑う」という姿勢であった。
「一切を疑う」ならばこの世界も幻ではないか、
「一切を疑う」ならばこの私も幻ではないか、
そこにあるのは私が滅却する暗黒への収束である。
だからこそ、デカルトは、「一切を疑い」ながらも拠点を必要とした。
そしてそれこそが、「一切を疑うことはできるが、
この疑っている我を疑うことはできない。」という境地である。
「我思う、故に我あり」。「コギト・エルゴ・スム」。
これはもちろん「一切を疑うが故に、
その疑う我という存在が確かに実在する」という意味である。
ここから近代哲学は始まった。
つまり神に対しての重要な拠点、「我」の確立である。
もちろんデカルトですら「時代」を超えることができない以上、
キリスト教自体を疑った訳ではない。
例えば、デカルトは解析幾何学の祖でもあるが、
同時にこの世界が幾何学という美によって構成されていることを
証明することは、そのまま、その美の世界のデザイナーたる
神の存在証明を目指してのことだったのである。
しかしデカルトは「我」という境地を見い出した。
そしてそこにはルネッサンスという新しい時代の胎動があった。
デカルト的懐疑が動き始めた17世紀とは、
まさに近代という時代に深く足を踏み入れていた時なのである。
2003.01.18放送
GES進学予備校
www.gesnet.co.jp
時と場所の相違から文は読めなくなる。
話が通じなくなる。
デカルト的懐疑論 第1章
① 「デカルト的懐疑」、それはキリストの教えから
逸脱した「一切を疑う」という姿勢であった。
「一切を疑う」ならばこの世界も幻ではないか、
「一切を疑う」ならばこの私も幻ではないか、
そこにあるのは私が滅却する暗黒への収束である。
だからこそ、デカルトは、「一切を疑い」ながらも拠点を必要とした。
そしてそれこそが、「一切を疑うことはできるが、
この疑っている我を疑うことはできない。」という境地である。
「我思う、故に我あり」。「コギト・エルゴ・スム」。
これはもちろん「一切を疑うが故に、
その疑う我という存在が確かに実在する」という意味である。
ここから近代哲学は始まった。
つまり神に対しての重要な拠点、「我」の確立である。
もちろんデカルトですら「時代」を超えることができない以上、
キリスト教自体を疑った訳ではない。
例えば、デカルトは解析幾何学の祖でもあるが、
同時にこの世界が幾何学という美によって構成されていることを
証明することは、そのまま、その美の世界のデザイナーたる
神の存在証明を目指してのことだったのである。
しかしデカルトは「我」という境地を見い出した。
そしてそこにはルネッサンスという新しい時代の胎動があった。
デカルト的懐疑が動き始めた17世紀とは、
まさに近代という時代に深く足を踏み入れていた時なのである。
2003.01.18放送
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