現代を知ること、社会を知ること、自然界を知ること、つまり「知」こそが
我々が生きていく糧と言っても過言ではない。
「知」がなければ言語という記号もない。ならば、伝達という人間ITリテラシー
もない。世界的不況下でモノもサービスも最小限しか売れない。購買心理をもって
してでも、頑固なマネー便秘。
不況下の新購買心理工程を見出すのも「知」であろう。
現代人の心を読み解く方法は日々変化している。
第5回「国家の氾濫③」 2003.04.05放送
近代の果てに行き着いた場所は一民族を殲滅(せんめつ)しようとするホロコースト、
一撃の爆弾で数十万人を殺戮する核兵器という厄災の地であった。
そしてそれが人為によって回避しるものならば人は近代という時代
の終焉を見なければならない。
しかし、資本の自立運動とナショナリズムの排他性は近代の双子の子供であり
枠組に止まり続ける限り決して私たちは「近代」から逃げることはできないのである。
悲しむべきはこのような状況の中で「可能性」という模索の道がテクノロジーの武力に
屈せず、ナショナリズムの圧制に屈することなく、この近代の宿命を逃れ得るか細き
予兆としてしか存在しないことである。
「戦後」ですら、それは国際的政治という覇権の鬩ぎ合いあり、開放された植民地を
資本という発展の夢に引きずり込む悪夢を意味する。今もなお、人は資本によって
律せられ、この場所にない可能性を夢見ることは封殺されている。この圧制の中で、
人間は果たしてこの悲劇の連鎖である歴史を超えて、自ら可能性を夢見ることができる
のであろうか。
「国家」が氾濫しているときの時代において、人間は新たな地平を開くことができる
のであろうか。そして、すでにそれは哲学の問題である。